22歳のグールドはアメリカでのデビュー演奏を、1955年1月2日、ワシントン、フィリップス・ギャラリーと1月11日、ニューヨーク、タウン・ホールで行った。
初日のワシントンのリサイタルを聴いた《ワシントン・ポスト》紙の批評家、ポール・ヒュームは絶賛した。
「1月2日の段階でいうのは早すぎるかも知れないが、ことし昨日の午後フィリップス・ギャラリーでのピアノ・リサイタル以上に素晴らしいリサイタルが催される可能性は少ない。これと同じくらい美しく、かつ示唆に富んだリサイタルがあるとすれば、わたしたちは幸運である。・・・グレン・グールドは類まれな才能をもったピアニストである。すぐにでもその演奏を聞き、しかるべき敬意と歓迎の意をしめさなくてはならない。どの世代を見てもグールドに匹敵するピアニストは皆無である」
アメリカで二度目の公演であるニューヨークのリサイタルの観客は、せいぜい200人と少なかったが、ヒュームの記事のおかげで、有名ピアニスト、ニューヨーク在住の評論家やカナダからきた記者や評論家が集まっていた。
観客席には、両親とマネージャーが座っていた。
マネージャーのホンバーガーは、グールドは必ず成功すると確信していた。ホンバーガーは、グールドが演奏する曲の選曲のことや、舞台の上でも舞台を降りた後でも、彼の振舞などには一切口を出さず意見も言わなかったが、グールドが成功することは初めて見たときからずっと確信していた。ホンバーガーは、音楽のことはもちろん好きだが詳しくはないと思っていたし、やれ姿勢が悪い、みょうな声を出しながら演奏すると批判されるグールドの演奏スタイルを悪く言われると、「音楽だけを聴けばいいでしょう。」とグールドの弁護を続けてきた。
両親は、カナダですでに大成功した息子がいよいよ世界デビューすることが誇らしく、間違いなく成功するだろうと思っていた。しかし同時に、もし息子が成功して自分たちの手の届かないところへ行ってしまったらどうしようという不安も抱いていた。
グールドは、一番自分をアピールできると考え、ワシントンとニューヨークの両日とも同じもっとも自信のあるプログラムを演奏した。その選曲は、これからピアニストとしてデビューしようとする演奏家の選曲とははっきりとかけ離れて挑戦的だった。
彼のプログラムは、中世の古楽を2曲、バッハのシンフォニア5曲とパルティータ第5番の2種類で始まり、休憩をはさんだ後に、無調の12音音楽、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第30番、最後に再び現代音楽というものだった。
バッハのシンフォニアは、ピアノ習ううえでの教則的な練習曲と考えられていたし、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第30番はベートーヴェンが失明した後の観念的、抽象的な曲の1曲であり、デビューして何年も経った熟練したピアニストが好んで弾く曲だ。
この彼の選曲は、古楽を演奏できると同時に現代音楽にも通じている、バッハとベートーヴェンを弾くが、メジャーなロマン派の作曲家の曲は弾かないと宣言したのも同然で、かなり大胆なものだった。
ふつうデビュー・リサイタルをおこなう新人ピアニストは、ロマン派のショパンやリストの曲をかならず弾く。これらを避けることは、今後にむけて変わった嗜好をもっていることをしめす意図と同時に、ロマン派の曲が今後の演奏曲の中心にならないと宣言するものだ。
こうして、きわめて風変わりなラインナップをグールドは選択した。
具体的な曲目は、前半が、[1]オーランド・ギボンズの《ソールズベリー卿の[5]パヴァーヌとガイヤルド》、[2]スウェーリンクの幻想曲ニ短調、バッハの《インヴェンションとシンフォニア》の3声のシンフォニアから5曲とパルティータ第5番ト長調、後半が、[3]ヴェーベルンの変奏曲作品27、ベートーヴェンのソナタ第30番ホ長調作品109のソナタ、そして最後に[4]ベルクのソナタ作品1だった。
グールドが使ったタウン・ホールは、比較的な小さなホールだが、リヒャルト・シュトラウスとアイザック・スターンが初公演し、ジャズのディジー・ガレスピーとチャーリー・パーカーがデビューした歴史のあるホールで、約1500人を収容できた。
グールドは、習慣的な燕尾服に白いネクタイではなく、暗めのダーク・スーツで現れた。少し照れたような表情をうかべ、はにかみながら舞台に登場した。まだ幼さが残るその青年が舞台に現れた姿は、どこか心もとなく頼りなさそうに見えた。
だが、グールドが鍵盤に向かうとためらうような雰囲気はすっと消え、すばらしい集中力がとって代わった。
グールドは、ギボンズとスウェーリンクの2曲ではじめた。わざと、ピアノの大屋根を短い方の支え棒で持ち上げた状態ではじめた。大きな響きは、この2曲にふさわしくないと判断したのだった。
この2曲は、バッハよりさらに1世紀古く、古楽と呼ばれるルネサンス期の音楽家たちのオルガン曲であり、普通は、リサイタルのプログラムに入れない。
最初のギボンズの《ソールズベリー爵のパヴァーヌとガイヤルド》は、そうとうゆっくりとしずかな対位法でグールドははじめたが、ゆっくり弾くほど技量がはっきり出るのでこのように弾くには勇気がいる。声部の違いをはっきりさせたうえで余韻を残しながらロマンチックに弾きはじめるのだが、細部まで緻密に考え抜かれた計算と技術がなければできない。静かで落ち着いてロマンチックでありながら、後半は一転してドラマチックな烈しさに変わる、胸が締め付けられて拍動を感じる、そんな演奏だった。
2曲目のスウェーリンクの[6]幻想曲ニ短調はもとはといえばオルガン曲だ。この曲を、ピアノの明瞭で、強弱と音色の変化のある演奏をした。
はかないくらいの頼りのない、せつない20音からなる音列で曲がはじまり、やがて他声部が加わり、速度と音量を上げ、徐々に宗教的な大合唱のように変化していく。グールドは、高い声部よりむしろ低音部や内声部をつよく弾く。聴衆は、不思議な感覚に囚われ、「こんな風な曲を聴いた経験はない。宗教曲なのか。もっと不思議で違う世界が見える。」と思わずにはいられない。やがて曲は展開し、同じリズムをたもちながら下声は短い音符の連続へ曲想を変わったあと、フォルテで快速で、烈しい性格へと変わる。また再び最初の曲想に一瞬もどるのだが、最後は激しくドラマチックでカッコいいフィナーレで終わる。リズムは[7]イン・テンポで揺れず、ピアニストの正確な技量に圧倒される。つねに平等に扱われる多声のメロディーの交錯が、500年前の不思議な和音の響きの世界へ聴衆をつれて行く。
3曲目にいよいよ、J.S.バッハにとりかかる。まずは、《インヴェンションとシンフォニア》から3声のシンフォニア5曲を、グールドは、かれの特徴でもある[8]ノンレガートを主体にした、生命力あふれる見事な聴きごたえのある演奏をしてみせた。《インヴェンションとシンフォニア》は、教育用の作品とずっと考えられてきた。グールドの演奏で、《インヴェンションとシンフォニア》は、バイエルやハノン[9]から芸術作品になった。彼は、高音部の主旋律と低音部の伴奏の外声部だけでなく、内声部を十分に明らかにしながらゆったり響かせ、3声の存在を対等に表現し、レガートで弾く旋律とスタッカート気味に弾くノンレガートの旋律を交代させ、主役を交代させることで変化の違いを聴衆に楽しませた。このシンフォニアは短い曲だが、グールドは関係調になるように5曲を並べ違和感をなくした。
次に弾いた、バッハのパルティータ第5番ト長調は、従来のバッハ観を変える圧倒的に新しいものだった。バッハは、前から高い評価をされていたが、それは宗教と結びつき、難しく取りつきにくい埃をかぶった18世紀の遺物に分類されるような種類の音楽と考えられていた。当時、本当のバッハの良さは、まだ墓の中にはいったままだった。
グールドは、その200年を飛び越え、ときにスウィングし、ビート感あふれる楽しく疾走する現代のポップ音楽として蘇らせた。バッハの時代にはピアノはなく、チェンバロしかなかった。チェンバロは驚くほど美しい音色をだせる楽器だが、構造的に音量の調節が出来ず、表現力は限られていた。グールドは、表現力豊かな現代のピアノで弾くことで新しい世界を見せた。生き生きとして楽しく、小曲の組み合わせで全体が構成された最後に大きなフィナーレがある新しいバッハだった。
グールドは、2種類のバッハの後に休憩に入り、後半の開始に現代曲のヴェーベルンをもってきた。作品番号をもった唯一の独奏ピアノの変奏曲作品27である。グールドらしい作品に感応した不思議で何かを触発するような、なによりカッコいい12音技法による現代曲が聴かせる。リズム感の優れたグールドにかかると左手の低音部が印象的で聴かせる。グールドは、この曲の演奏でも大きな声(鼻歌、ハミングあるいは呻き声にも聞こえる。)を出しながら演奏している。しかも、グールドはこの曲をベートーヴェンのソナタと同じ構造をもっているからと舞台で説明し、聴衆の理解をたすけるために[10]2度繰り返して弾いた。
次のベートーヴェン晩年のピアノ・ソナタ第30番は、安定して美しいというより、従来の伝統からはみ出した烈しい、緊張感の強い演奏をした。まず、他の曲でもそうだが、低音部を強調して弾いた。一般的な演奏では、右手の高音部の主旋律が浮き上がるように弾き、左手の低音部は一段音量をおさえて、目立たせたいときにだけ音量を上げるのが普通で、このときにも高音部のメロディーが存在感を失うことはない。しかし、グールドは、常に左手の低音部をずっと、右手の高音部と同じか、強いくらいに演奏した。そのため、一般の奏法では、音符の重なる曲の激しい部分であっても、目立つ音符は高音部だけなのですっきりしている。しかし、グールドの演奏は、高音だけでなく低音の伴奏部と内声部の全てが主張し、[11]サーカスの綱渡りのようなハラハラさせるような部分やあまりに烈しい部分があり、これまでにない捉え方をした演奏だった。
この第3楽章は、穏やかでゆっくりとしたアンダンテで始まり、変奏をへるたびに速く激しくなっていくのだが、第4変奏では「主題よりやや遅めに」と指示があり、激しさが小休止するはずのところを、倍の速度で弾きとおした。こうしたリズムの変化だけではなく、強弱のつけ方もしばしば[12]スコアに反していた。
そして、最後に現代曲であるベルクのソナタ作品1を演奏した。この曲は、ヴェーベルン同様、作品番号をつけた唯一の独奏ピアノ曲であるが、ロ短調を主調とした12音技法で作られており、調性が安定しないことが混沌、矛盾や不安感をかきたてる。しかし、主調をもっていることで美しさや安定感があり、ヴェーベルンの変奏曲作品27よりずっと聴きやすい。
グールドはのちに、「あのリサイタルは、本当に演奏を楽しむことのできた稀な機会だった。」、「ニューヨークのタウン・ホールのデビューほどリラックスしたことはなかった。」[13]とのちに振り返っている。
リサイタルは大成功だった。休憩時間には人々は拍手を止めずアンコールを求めたし、演奏終了後のアンコールも熱烈だった。楽屋に100人以上の聴衆が新しいスターにお祝いの言葉をかけようと押し寄せた。
トロントの新聞《トロント・スター》、《トロント・テレグラム》は大々的に熱気をもってアメリカ・デビューの成功を伝えた。
ニューヨークの新聞《タイムズ》の批評家は、「わたしの聴いたなかでもっとも幸先の良いデビューのひとつ」と言い、《ヘラルド・トリビューン》紙も「この若いピアニストがひたむきで繊細な鍵盤の詩人であることは明らかである」と好意的な記事を掲載した。
レセプションが開かれたが、グールドは人が多すぎて居心地がよくなかった。結局、仮病を使って30分いただけで会場を後にしたため、レセプションを準備した人たちの顰蹙をかった。
このリサイタルに要した費用は、地元の興行会社への宣伝費として約1000ドル(2023年現在価値で31,076ドル≒435万円)、ホール使用料450ドル(同13,984ドル≒196万円)で、それに加えて、ニューヨークまでの旅費や宿泊費も必要だった。一方、収入は、一番高い席の料金が2ドル88セント(同89.5ドル≒1万2千円)だった。デビュー・リサイタルが、一般にそうであるように、このリサイタルも赤字だった。
新聞各紙は好評価を与えたが、その影響力は、毎日の紙面で活字になる寸評に過ぎず、グールドの生活を変える力はなかった。その晩も、他の場所で行われたコンサートにもっと大きな注目がはらわれていた。というのは、ニューヨークでは連日有名な音楽家のコンサートが各地で開かれていて、じっさいに、タウン・ホールのデビュー当日には、他の有名なヴァイオリニストのコンサートが違うホールで行われていた。
しかし、このリサイタルで、グールドのかけがえのない才能に気づいた人物がいた。それはレコード販売の音楽業界で《超》がつく大物だった。
演奏会は、一般の観客は少なく空席だらけだったが、音楽業界関係者、ピアニスト、他の楽器奏者、批評家などが大勢つめかけていた。というのは、プロの音楽家の世界は、一般に思われているよりも意外と狭いからだ。カナダでグールドをよく知る音楽関係者が、アメリカ公演を聴くように勧め、それを聞いた別の友人がパーティーを開いて宣伝するというふうに、狭い音楽界でニュースは広まっていたからだ。
この音楽関係者のなかに、[14]デイヴィッド・オッペンハイムが二回目のニューヨーク・タウン・ホールでのリサイタルを聴いていた。オッペンハイムは、33歳という若さながら、巨大音楽レーベル、コロンビア・レコードのクラシック中枢部門であるマスター・ワークス部の責任者であり、プロとして活躍するクラリネット奏者だった。妻は有名な女優のジュディ・ホリデイである。この会社のポピュラー音楽部門は、フランク・シナトラ、ベニー・グッドマンやビリー・ホリデイをはじめとする、ほとんどすべてのアメリカ人ビッグ・アーティストを擁していた。クラシック部門に大きな儲けは期待できなかった。しかし、クラシック音楽の裾野を広げ、熱心なファンになってもらい、彼らを取り込むことにより、ブランドイメージをあげることができ会社全体で見ると十分な貢献を果たしていた。
オッペンハイムは、グールドのデビュー演奏の最初の数小節を聴いただけでその価値を悟った。
オッペンハイムは、ライターたちへのインタビューにこの日の演奏を次のように答えている。
「リサイタルは、非常にゆっくりとした音楽で始まりました。確か、[15]スウェーリンクだったと思います。いや、十七世紀のスウェーリンクと同時代の誰か別の作曲家だったかも知れません。・・もとはと言えばオルガン曲で、ほかのピアニストが弾いたらどうしようもなく退屈になってしまう曲しょう。かれはこれを演奏するにあたって、そう、宗教的な雰囲気を醸し出して、ひたすら聴く者を催眠術にかけるよう魅了したのです。それもその雰囲気を作り上げるのに音を五つか六つ鳴らせば十分でした。それは的確なリズムと[16]内声部のコントロールという魔術のおかげだったのです。・・・私は、・・ぞくぞくしましたね。それからほかのレコード会社の連中が来ていないかどうかを確かめると、・・ええ、見当たりませんでした。翌日出来るだけ早く彼のマネージャーに連絡をつけ、わたしは専属契約を申し出たのです。」
当時、オッペンハイムは、若い有望な看板ピアニストを探していた。ルーマニア生まれのディヌ・リパッティという天才ピアニストがいたのだが、5年前に33歳という若さで早逝していた。リパッティは、澄んだ音色でピアノを最大限に歌わせ、ほとんどペダルを踏まずに演奏した。ピアノは、ハンマーが弦を叩いた瞬間の音が徐々に減衰しながら、鍵盤を押さえているかぎり響きつづける楽器であり、「ペダルを踏まずにピアノを弾く」というのは、音を伸ばすところはしっかり伸ばし、切るところはしっかり切るピアノの基本技術がダイレクトに出でることを意味する。もし長生きしたら今世紀最大のピアニストの一人であっただろうと言われた逸材だった。
オッペンハイムは、年長の友人である、ヴァイオリン奏者のアレクサンダー・シュナイダーの家へ行き、リパッティのレコードをふたりで聴いていた。シュナイダーは、47歳だった。オッペンハイムは、音楽家として先輩のシュナイダーに言った。
「このリパッティのような、素晴らしいピアニストはいないですかね?リパッティに代わる才能のあるピアニストを、これからの時代に、うちの会社の柱になる人物を見つけたいんです。」
「それなら一人いるよ。カナダの変人だが、きみがリパッティを好きなら、きっと気に入るよ。専属契約を結べばいい。」
「ぼくは今年の夏、カナダのストラトフォード音楽祭で、その変人と共演したよ。とにかくすごいんだ、彼は。ベートーヴェンのピアノ三重奏曲「幽霊」なんかを演奏したんだが、私とチェリストの[17]ザラ・ネルソヴァは譜面台に楽譜をおいて演奏したのに、彼はピアノを暗譜で弾いてね。彼には、譜面を持って舞台へ来いと言ったんだが、譜面をお尻に敷いて演奏をはじめる始末だ。おまけに、彼はピアノだけでなく、ヴァイオリンとチェロのパート譜も覚えていて、ああだこうだと言い出す始末さ。だけど、演奏はすごいよ。彼が背面に回るときも、音を抑えているくせにとても存在感があって、ぼくたち弦楽奏者が崩して弾くのを許さないんだ。観客は、熱狂したね。あの変人は、まちがいなく大物になるよ。」
実際に、オッペンハイムは翌日、グールド、マネージャーのホンバーガーと専属契約の交渉に入り、契約を締結した。それは、3年契約だが、[18]2年間に3枚のレコードを録音する他には、曲目や時期などを演奏者に白紙委任する恵まれたものだった。グールドは、生涯にわたる27年間、コロンビアとの契約を続けた。
新人デビューをした音楽家が、巨大レーベルと好きな時期に好きなレコードを出せる契約を結ぶことは、これまでにない夢物語と言ってもよい異例のことだった。
つぎへ(まだ飛びません)
[1] ギボンズ ギボンズ(1583-1625)は、J.S.バッハに100年先立つ英国の作曲家、オルガニスト。大量の鍵盤楽器作品、ヴィオールのための幻想曲、マドリガル、ヴァース・アンセム(独唱や楽器の伴奏がつく宗教合唱曲)を作った。コラールは、すぐれた対位法が特徴。
[2] スウェーリンク 脚注8と同じ
[3] ヴェーベルン(1883-1945)は、オーストリアの作曲家、指揮者、音楽学者。シェーンベルクやベルクと並び、新ウィーン楽派の中核メンバー。20世紀前半の作曲家として最も前衛的な作風を展開したが、生前は顧みられる機会がほとんどなかった。戦後の前衛音楽勃興の中で再評価された。
[4] ベルク アルバン・ベルク(1885-1935)はアルノルト・シェーンベルクに師事し、ヴェーベルンと共に、無調音楽を経て十二音技法による作品を残したオーストリアの作曲家。十二音技法の中に調性を織り込んだ作風で知られる。
[5] パヴァーヌとがガイヤルド ルネサンス時代の宮廷の2拍子系の緩やかなパヴァーヌと3拍子系の軽快なガイヤルドで、ともに舞曲。
[6] スウェーリンク(Jan Sweelinck 1562-1621)の幻想曲ニ短調 : CBCテレビ(カナダ放送協会Canadian Broadcasting Corporation)で、このデビュー・リサイタルから9年後の1964年にこの曲を次のように解説している。「かつて誰かが初めて音楽らしきものを作りました。触発された別の人がすぐに自らの音楽を作ったはずです。両曲の共通点はきっと多く、2曲目は1曲目と深く関わります。模倣と拡張がおそらくそこにあるでしょう。だが、作品にはそれぞれの作り手の自我もにじむのです。それが音楽の歴史であって、ある曲が成り立つのは他の曲がすでに存在するからです。つまり、どんな音楽も別の音楽の変奏です。今や現代人にとっては過去の音楽全体が変奏の連続に見えます。・・・・16世紀オランダのスウェーリンクの作品を弾きます。彼のオルガンのための幻想曲は1個の長い動機に基づきます。動機は20以上の音から成ります。・・・・7~8分続く音楽の中でこの動機が部分的に現れ反復されて全体の進行を支えており、分割された楽想の連続は結果的に変奏になっています。固有の題名を持たないが、変奏曲になっているのがこの作品です」
[7] イン・テンポ:テンポが変化することなく一定の速度で演奏すること
[8] ノンレガート ピアノは普通、レガートに音符の音価一杯に弾くのが良いとされているが、グールドは、レガートは「緊張」であり、「緊張の緩和」としてノンレガートを奏法の基本に考えていた。フランス語では「デタシェ」とも言い、英語では「デタッチメント”Detachment”」であり、「切り離す」ことを意味する。後年、グールドは夏目漱石に傾倒するが、「草枕」のキーワード《非人情》を訳者は、”Detachment”と訳した。
[9] バイエルとハノン バイエルは初心者向け、ハノンは中級者向けのピアノ教材
[10] 2度弾いた 神秘の探訪160頁
[11] サーカスの綱渡り・・・ :1950年代当時は、録音技術の黎明期であり、モノラル録音で、クリアではなかった。このため、もし演奏会場で聴く音とレコードの録音を聴く音の場合とでは、印象が違っていたかもしれないが、一般的なベートーヴェンの落ちついて思索的な印象はない。(筆者)
[12] スコアに反した グールド演奏術 267頁
[13] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナ 第3章P162
[14] オッペンハイム:David Oppenheim、1922 – 2007。クラリネット奏者。コロンビア、マスター・ワークス部門の責任者。3度結婚し、最初に結婚したジュディ・ホリデイは、アカデミー主演女優賞を受賞。
[15] スウェーリンク:(1562-1621)J.S.バッハに100年先立つオランダの作曲家・オルガニスト。ルネサンス音楽の末期からバロック音楽の最初期において、北ドイツ・オルガン楽派の育成に寄与した。イタリアのフレスコバルディに匹敵する存在である。(Wikipedia)
[16] 「内声部」 複数の声部が同時に演奏するとき、最も高い音を担当する声部と、最も低い音を担当する声部とを合わせて外声(がいせい)といい、外声以外の声部を内声(ないせい)という。たとえば混声四部合唱では、ソプラノとバスが外声で、アルトとテノールが内声に当たる
[17] ザラ・ネルソヴァ:Zara Nelsova, 1918年- 2002年、カナダ、ウィニペグ生まれ。チェリスト。フルート奏者だった父の影響でチェロを習い始めた。彼女が生まれた1918年は、歌手を別にすると、女性が演奏する楽器は、ピアノやオルガンなどの鍵盤楽器、ハープやリュートなどに限定され、チェロを女性が演奏するのはまだ珍しい時代だった。
[18] 2年間に3枚:「グレングールドの生涯」(オットー・フリードリック)P119




