「身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論」鈴木涼美 

「おじさんメモリアル」(鈴木涼美)が結構面白かったので、続いて、幻冬舎文庫「身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論」を読んでみた。下に予告編のリンクを貼ったが、こちらは、2017年7月に映画化もされている。主は、ずいぶん、宣伝に貢献しているなと思う・・・(*注:正直に告白すると、この本は途中で嫌になったので半分程度しか読んでいない。しっかり読むと意味が違ってくるかもしれません!)

こちら、本の方

例によってアマゾンの要約を紹介しよう。

【内容紹介】
もしもかつて自分が体を売っていたことが彼氏にばれたら、そのとき彼氏はどうなる? 「お乳は生きるための筋肉」と語る夜のおねえさんの超恋愛論
Fカップ。両親とも大学教員、実家は鎌倉、絵に描いたようなお嬢様。慶応SFCから東京大学大学院を卒業後、日本を代表する新聞社で働いてもみた。その他もろもろの経験も豊富すぎるほど豊富、収入もまあまあある。でもでもでも、全然幸せじゃない! なぜ? 恋で得たものと、恋で失ったものをひとつずつあげていけば、確実に後者が前者を凌駕する。まわりの夜のおねえさん方(水商売をやる女性)や昼のおねえさん方(OLとか)を見渡せば、不思議とそんな方々ばかり。みんな恋愛でほんとうに幸せになれるのか。本当の幸せって何? オカネで買えない幸せなんかあるのか? 気鋭の社会学者が、考えつくありとあらゆることをやりまくって、女の幸せを考えた尽くした超恋愛論! !

【内容(「BOOK」データベースより)】
おカネで買えない愛はほしい。でもそんな退屈なものだけじゃ、満たされない。話題の書『「AV女優」の社会学』著者が赤裸々かつ健気に語る、ワタシたちの幸せの話。

【ここから主のコメント】

 アマゾンのコピーを読んでいると、社会学者の元AV嬢が超恋愛論を語っているように書かれているが、主の受け取り方は違った。

 「おじさんメモリアル」は、お金を出して女の娘を買う男の悲哀、おかしさが読んでいて面白かったのだが、学歴(一般常識や世間知)とAV(セックス、ホスト、性的刺激)の対立軸で考えた時に、AVの方が強く、彼女はそちらにからめとられただけではないかと感じる。

 たしかに、女性が普通に生きて一人の男と生活を共にして、つつがなく人生を終わることに、物足りなさがあることはわかる。15歳の高校生の時に、刺激的なブルセラ売りで、パンツを見知らぬ男に何度も売ったことを手始めに、キャバ嬢、AV嬢、風俗嬢として高収入を稼ぎながら、ホスト通いの生活にハマっていく。一方で、日経新聞の記者をやり、社会学者を名乗り、やがて2014年10月「週刊文春」に日本経済新聞記者の鈴木涼美(当時30才)が芸名・佐藤るりのAV嬢だとすっぱ抜かれる。彼女は、世間の厳しい目にさらされ、「十分に罰を受けた」と感じながら、年齢的なものもあるのだろう、文筆業へと転換し成功する。

 だが、主が感じるのは、人間は弱い存在であり、頭(理性)を保ちながら、AV嬢になったり、ホスト狂いしたりはできないということだ。特に20歳未満ではそうではないか。セックスの手練手管がうまいのは、AV男優、ホスト、ヤクザが浮かぶ。AV出演に支払われる対価は、基本的に、魂を男優に奪われたふりをすることか、実際に奪われた姿を撮影されるところにある。キャバ嬢・風俗嬢として男たちから得た収入や、多額のAV出演料は、よくある話のように、ブランド品の購入と、シャンパンタワーの泡となってホストに貢いで消える。ホストは、「夜の世界」に生きる嬢にとって不特定多数の男に体を開いた空虚感や屈辱を、はたまた、お金で埋めてくれる存在ではないのか。無目的に贅沢な生活をしていると言えばずいぶん聞こえがいいが、実際はヤクザに性的にからめとられたのと同様に、AVビデオへに何度も出演するように都合よくマインドコントロールされたオンナに過ぎないのではないか。

 書いている内容が、ストレートで刺激的だが、社会学的なところはほとんどない。これは売らんかなのエッセーであり、論文は違うのかもしれないが・・。この本の帯に書いてあるのだが、言っていることを要すれば、ブランド品で身を包みたい、退屈はイヤ、「お金をもらって愛され、お金を払って愛する夜の世界へ出ていかずにいられない」、AV出演が親バレ、会社バレ、学校バレして、身が引き裂かれてしまったというところでしかないのではないか。

 AV出演がバッシングされるのは、昨今の不倫騒動と同じ根っこだろう。不倫はそこら中に存在するが、公認すると社会のレーゾンデートルが崩れる。もし、AV出演がすべての女性に推奨される事態となれば、社会規範は転覆し、やはりこれを許すわけにはいかないだろう。どちらの背景にも「快楽」が横たわっており、外野席の人たちの妬み、嫉み、嫉妬は異常に大きい。バッシングが、激しくなるのは当然だろう。

 要は、東大院卒とか日経新聞記者だった過去はあるものの、AV男優、ホストの性的な魅力に屈し、その快楽が平凡な日常より楽しいという話の域を出ていない。たまたま、高学歴だったのでその話が売れただけではないか。当然と言われそうだが、日常生活と性的な快楽を比べた善悪の問題ではなさそうだ。(どんな華々しい恋愛でスタートしても、確かに平凡な日常生活が3年すれば色褪せる宿命は不可避だが・・)鈴木涼美は、才色兼備で金銭的に恵まれている。しかし現実は、彼女のように恵まれないで夜の世界に生きる嬢たちの方が多いし、こちらの方が問題なのではないかと思う。

おしまい

 

東大大学院卒AV嬢 鈴木涼美「おじさんメモリアル」 

日経新聞に鈴木涼美と高橋源一郎氏との対談記事がネットに出ており、面白そうだと思い、鈴木涼美の「おじさんメモリアル」という本を読んでみた。

アマゾンから

例によってアマゾンの要約を紹介しよう。

【著者が出会った哀しき男たちの欲望とニッポンの20年】
元AV女優にして、慶應大学卒業後、東京大学修士課程で社会学を専攻し、その後日経新聞の記者として5年半勤めたという異色の経歴を持つ文筆家・鈴木涼美。
時にはパンツを売る女子高生とそれを買う客として、時には恋人同士として、時には社内不倫の相手として、時には高級愛人クラブの客として……作者がこの20年の間にさまざまなかたちで出会ったおじさんとの思い出を通して「おカネを払うことでしか女を抱けないおじさん」の哀しみを浮き彫りにし、さらには性と消費という視点からこの20年の日本を振り返る。冷徹な批評眼が冴えわたる刺激的エッセイ! 

【アマゾンの読者の書評の一部から】
・・・・会社でいくらデカイ顔をしていても、博士号取得しようが、肩書きが増えようが年収が増えようが、パンツ一枚下ろしたら、男は女にとって、やっかいな赤ちゃんでしかない。本当に面白い。

アマゾンの書評の「パンツ一枚下ろしたら、男は女にとって、やっかいな赤ちゃんでしかない」という表現がストンと落ち、これが購入の一番の動機なのだが、このような表現はこの本には出てこなかった(と思う)。

それはともかく、主のような年配者が今更感心してもどうなるものではないと思うのだが、女性の論理はこうなのかと初めて知ることが、盛りだくさんに書かれており、なかなか面白かった。

AV嬢 佐藤るり

あれこれ言うより、実際の面白かった部分を引用しよう。

「オジサマ方に言いたいのは、水商売や風俗の世界で、客とつきあったり結婚する子がいないわけではないが、それは『そういうときもある』という類のものではなく、『そういうことがある子』と『客は客としてしか見られない子』の二種類がいるのであって、後者にいくら貢ごうが、イケメン客が迫ろうがそのオカネは泡となって消える。ちなみにホスト通いする娘は後者が多いので比喩的な意味ではなく具体的な意味でシャンパンの泡となっている可能性も大いにある。普段は客を客としてしか見られないような娘がごくごく稀に客と友人や恋人になる場合があるとしても、その相手の客というのは同業かヤカラ系の客のどちらかなので、フツウのおじさんにはチャンスは皆無である。」

ふーん。水商売や風俗の世界の女性に対しても多くのフツウの男は、「うまく振舞えば女性の気を惹けるのではないか」と錯覚をしており、それはまったくの無駄ということだ。逆に、客を客としか見られないような娘の方が、ホスト通いでオカネをシャンパンの泡にしているとも読める。鈴木涼美はホスト通いもしており、客から巻き上げたオカネをホストにつぎ込むのはもっともだと考えているように思えて面白い。

次は、キャバ嬢時代の恋人・光ちゃんのことをいろいろ書いている下り。付き合いが長くなってきた光ちゃんが、「俺は俺のことをちゃんと好きになるオンナと付き合いたいわけ。カネを持った途端に寄ってきたオンナとか糞だと思ってるから。お前はそうじゃないと思っていたけど、結局あいつらと同じなのかな」と言い始める。

これに対して鈴木涼美はこう書いている。「正直、けっこう私はカチンカチンときていた。まず、そういった邪心一切なしのオンナと付き合いたいのであればキャバクラを狩場とするなと言いたい。さらに言えば、人間というのはポイント制なのであって、財力、美しさ、学力、性格、筋力、コミュ力など、どれかのポイントが上がればモテ度が上昇するのも、気に留める女が増えるのも当然である。財力は運動神経もコミュ力もない不細工が後から急上昇させやすいポイントであるのだが、私の中では別に、運動神経や顔面偏差値と同等なものであってそれだけを取り出してああだこうだ言う光ちゃんはひたすらうざかった。」

キャバクラで知り合って付き合い始めた光ちゃんが、人間そのものを見てくれみたいなこと言い始める。それに対して、それならキャバクラではないところで彼女を見つけろという。これはおそらく、財力を目当てに近寄ってきたオンナには財力がなくなると見限られるという恐怖が、男にあるのだろう。オンナは男をポイント制で評価しているが、男は、バカなので好きか嫌いかの二元論になってしまうのではないか。

加えてこう書いている。「結局、小学生・中学生をきちんと段階を踏んでモテておく、というのは大切なのであるそんなにイケメンでも運動神経抜群でもなかった光ちゃんは、要するにモテること慣れていなかった。モテることに慣れていないままにオカネを持って急にチヤホヤされだし、それで彼女なんてできても、オカネがなかったころの自分だったら見向きもしなかったクセに・・・という思考回路から抜け出せない。」

同じ含意なのだが、風俗通いする男は、不遇な子供の時の仕返しを風俗嬢(奥さん?)にしているという趣旨のことを読んだことがある。

次は、交際クラブなどに所属する女性(嬢)の話。引用していると長くなるので適当に要約すると、おじさんとつきあう際のお小遣い額がオショックス(2時間の食事デートと2時間のホテル)で6万円なのだが、なかにはちゃちゃっとセックスして1時間で別れる効率的なおじさんがいて、その場合は5万でも可だ。ところが、多くのおじさんが誤解する。セックスなしのデートに何時間も拘束し、おじさんは恋人気分になって、1万円で済まそうとする。セックスせずとも、4時間拘束したら6万円払えというのだ。「だって彼女にとってはおじさんとのデートはおじさんとのセックスと同じくらい不快だから。べつにアレがアソコに入ろうと入るまいと、恋人気分の代償はしっかり払って欲しいのだ。だって彼女にとっておじさんは、友達でも恋人でもなくお客さんであるのだ。」誤解する恋人気分のおじさんの気持ちはわかる。

また、「非・夜のオネエサン」な女子たちの考え方についても面白い。男性誌の企画で「いくらもらったら好きじゃない人とセックスしますか?」と街頭アンケート結果がそうだ。街頭インタビューをしたおミズ系ライターのオネエサンは次のように言う。「びっくりするよ。売春系の経験がない女子たちの自らの値段設定は。一番多いのが100万円。グラビアモデルがバック5万円でデリヘルで働く時代に。もっさい子でも1憶って言ってくる子もいるからね。大手デリヘルに勤めたら、せいぜい2万円クラスの子でも、平気でそういうこと言う。かわいい子で5万とか3万とか答えるのは、明らかに風俗嬢ね」ところが、こうした素人系女子はこういうことも言う。「でもね、じゃあ知らないおじさんとお寿司食べに行くのに抵抗がありますかって聞くと、高いお寿司なら奢って欲しい~とか言ってくるわけ」 要するに、「素人系女子は自らのセックスの値段には自信過剰だが、恋人気分のデートの価格に無頓着である」「玄人嬢は、自らのセックスの値段には現実的だが、恋人気分のデートの価格にシビアである。おじさんたちは、この2つの考え方を都合よく混同し、玄人嬢をデートに誘っては嫌われ、素人女性を5万くらいで抱けると思ってやはり嫌われる

次は、東大デビュー男の話。これは東大卒にも何種類かのルートがあり、麻布や筑駒卒の男に比べ、東大卒男の一類型だが、高校時代にかなり抑圧された環境にあった男の、東大卒が弊害になった忌むべき存在となるというものだ。すなわち、暗黒の高校生時代を過ごした後、めでたく東大に合格し、彼の生活は一転薔薇色に代わるのだが、「東大デビューして無敵になった彼のコンプレックスは、当然、ダサさの中心で愛を叫んでいた高校時代である。その失われた青春時代をどう取り戻すか。」この結果、女性に対して歪んだ性向を示すことになる。この失敗と挫折を知らない、自分の思いどおりに人生を生きてきた東大卒の恋人は、嫌気をさした鈴木涼美から別れ話を切り出され、翻意されない復讐に、鈴木涼美が佐藤るりの名前で出ていたアダルト動画を両親に送り付ける。

最後に男の勘違いを同じだがもう一つ。「なんか男って、他人がホステスにいいように利用されていると『お前なんか金としてしか見られてないぜバカが』とか『お前が相手にされるわけがないだろがバカが』とかとっても冷静な批評を加えられるのに、こと自分が『会いたい』とか言われると何故か店以外の場所でオカネも払わずに会おうという常軌を逸した翻訳をするのでほんとにドン引きである。『おいしいものを食べさせる』ことが会ってくれたお礼になるという素敵な勘違いをしている人もいまだにそのへんに転がっているが、『いい女とご飯を食べる』向こうの快楽と「無料でご飯を食べる』こちらの快楽では、向こうの方が当然大分上回っているので、やはり差額はきっちり払っていただきたいところである」

「おわりに」では、「オカネのために、あるいは生活の安定のため、あるいはプレゼントをもらうため、あるいは妻という座に座るために、抱かれるということがないおじさんにとっては、」ー「必要のないところで股を開き、何に使うか分からない大金を稼ぎ、見知らぬ男に裸を見せる」ー「そうした行為は耐え難く苦しそうに見えるのだろうと思う。彼らはその姿を見てあらゆる想像力を駆使してストーリーを見出し、それを消費してきた」と分析する。

逆に女性の側から見た「おカネをもらってするセックス」で、「おカネを放出し、精子まで放出していくおじさんの姿に浮き上がる文字は、可笑しさとせつなさ以外に何であろうか。彼らがお金を払って手にしているつかの間の自由と幸福は、お金を払わずして手に入ることは絶対にない。100円玉で買えるぬくもりは100円ないと買えない」と結んでいる。

全体に振り返ってみると、女性の方が男性より明らかに現実主義者だ。著者の鈴木涼美は、「人間はポイント制だ」と言い切り、自分はポイント上位にある女性という意識が強いのだろう。家庭環境もとても恵まれている。そうしたことから彼女の場合は、貨幣に換算して、1時間5万もらって当然という思考なんだと思う。一方、男はバカで、少しも実現していない潜在価値まで足し算している夢想家のように思う。

おしまい