『アイスランドのグレン・グールド』 ヴィキングル・オラフソン「ゴルトベルク変奏曲」リサイタル

(2023/12/6 一部修正しました。)

2023年12月3日、サントリーホールでヴィキングル・オラフソンのゴルトベルク変奏曲のリサイタルへ行ってきました。ネットで調べると、オラフソンは、1984年アイスランド生まれで、2008年にジュリアード音楽院を卒業しているそうです。

なかなか良いリサイタルでしたが、親爺は、グールドおたく、グールド推しなので、グールドファンでない人には申し訳ない内容になるとおもいます。天才と比べてどうするんだ、という批判はあるでしょうが感じたことを忖度なしに書いてみたいと思います。

やはり一番は、何と言っても演奏時間がとても長い、長すぎる点です。グールドはゴルトベルグ変奏曲をデビュー時と、亡くなる直前の2回録音をしています。ビートを効かし、みずみずしい演奏をした1回目が38分で、観念的で沈思するように弾いた2回目が51分でした。これに対して、オラフソンは(CDによると)反復を楽譜どおりにして74分かかって弾いていました。1 演奏会場のロビーには、「演奏時間約80分。途中休憩なし。」と掲示されていました。これだけ差があるのは、グールドは、1回目の録音では全曲で反復をしていませんし、2回目の録音では30曲ある変奏曲中の13曲の前半だけを反復しているにすぎないからです。このため、グールドの演奏を聴き慣れた耳には、「何度もリピートしないで!次へ行って。」と思います。

このオラフソンは、29変奏と30変奏『クオドリベット2』のところで盛大なクライマックスを持ってきて、フォルテッシモでガンガン弾き、32番めの(最後の)アリアをソフトペダルで音量をぐっと抑え、静謐で穏やかな印象でこの曲を閉じました。このために、観客に極めて大きな感動を与えることに成功したと思います。

親爺が思うに、このゴルトベルク変奏曲は、終曲のアリアの一つ前の『クオドリベット』が、それまでの格式ばった印象を解き放ち、俗謡「キャベツとかぶ」のメロディーによって気安く楽しい雰囲気へと一気に変わります。そして、最後のアリアで再び、天国のような美しい歌声で終わりました。オルフソン、なかなか良かったです。「終わりよければ全てよし」と満員の観客から感動の大喝采を浴びていました。

ここで、他の演奏家の演奏時間もざっと調べてみましょう。ファジル・サイは79分、ラン・ランは90分、バレンボイムも90分、アンジェラ・ヒューイットの1999年録音は、79分、2015年の録音は82分、親爺が好きなシュ・シャオ-メイは85分、辰巳美納子(チェンバロ)は80分、グスタフ・レオンハルト(チェンバロ)は、79分、カール・リヒター(チェンバロ)は、79分です。親爺が知るなかで唯一、高橋悠治(1938年 -)は、1976年に37分で演奏しています。つまり、高橋悠治を除くピアニストは、楽譜どおりにせっせと反復をしていると思います。高橋悠治の演奏もいいですね。

こうしてみると、グールドはあらゆる演奏において、パイオニアであり、かつ変人だったのは間違いがないとして、繰り返しをしていないピアニスト(兼作曲家)に高橋悠治がいるわけですが、この人はグールドと6歳違いのほぼ同世代で、小澤征爾、武満徹、トロント交響楽団と一緒に活動していた時期があり、おそらく、グールドとも会っていただろうと思います。

グールドは、「コンサートは死んだ」といい、演奏会の価値を否定しましたが、実際に会場で聴く生の音の心地よさを、自宅で再現することはなかなかできないと思います。アコースティックな電気をとおさない響きは、何にも代えがたいと思います。

コンサートの開場の前の、群衆としての観客の多さを見て、グランドピアノというのは、1台でこの2000人以上の観客に音を届けられるんだと感心するだけでなく、ピアニストが、この人たち全員に音が届くように弾くのは、ある種、目の前で弾くのとは違った技術を要求されるだろうと感じました。

開場を待つ観客が集まったところ。こんなにたくさんの人にピアノの音が届くんですね。

オラフソンは、すべてを暗譜で弾いていました。そのため変奏の切れ目で、一音をずっーと伸ばしたまま響かせ、次の変奏へ自然にうつる工夫をしていました。おかげで、楽譜のページをくるインターバルの違和感がなくなったと思います。

どのピアニストもグールドのように弾けないんだなと思うのは、グールドは、どれだけ弱く小さい旋律を弾いていても、一つ一つの音が、はっきり主張しています。早く弾いてもそうです。一音一音が粒のように分離しています。ところが、他のピアニストはスケール(音階)などを速く弾くと、ダラダラっと塊になってしまって、聞き分けられません。

グールドは、デタシェ、ノンレガート、スタッカートとレガートを弾き分けます。デタシェは、ノンレガートと同じで、音を切ることをいいます。スタッカートはもっと速く切ります。

グールドの演奏の基本はノンレガートにあります。ノンレガートには、緊張を和らげる効果やユーモラスな効果があります。レガートは美しく感動を呼びますが、それだけでは、どうしても平板になりがちですし、聞き手の緊張はいつまでも続かないので飽きてきます。グールドは、このノンレガートとレガートをバランスよく弾け分けます。しかも、ソプラノ、アルト、バリトン、バスの声部をレガートとノンレガートを交代させながら弾きます。 しかし、ノンレガートを使って、ずっと弾けるピアニストは、音の粒を揃えるのが難しいために、なかなかいないようです。

オラフソンは、ダンパーペダルを使いまくっています。最初から最後まで、あらゆる場面で細かく、激しくこのペダルを使っています。ピアノ(弱音)の小さい音を表現したい時には、ソフトペダルもずっと踏んでいました。ダンパーペダルを押し下げると、鍵盤から指をはなしても音を伸ばすことが出来ます。

グールドの演奏の特徴は、ペダルをほとんど使わないところにあります。つまり、音を延ばしたいときには指を持ちかえながら、鍵盤を押さえつづけるというピアノ演奏の基本にあります。そうすることで、音が濁らず明晰に聴こえる効果があると思います。

オラフソンは、超速でパッセージを弾くことができ、見事にリズムを保っていました。ただ、前に書きましたが、音がつながって聴こえ明晰ではありません。メロディーも高音ばかりが目立って、ときどき低音や内声のメロディーも聴こえますが、ポリフォニーという感じがせず、声部が交代している感じがしません。グールドは、いつでもつねに声部の対比を楽しませてくれます。

終演後、観客が熱狂的に拍手と歓声を送りました。ですが、オラフソンはアンコールの演奏をしませんでした。何度かステージにでてきた最後に、「日本へきてこのように盛大な拍手をもらえるのはうれしいですが、このような素晴らしい曲を弾いた後に、他の曲を弾くのはできません。」といった意味を言っていました。会場もすぐに明るくなり、観客は帰り支度をしなければなリませんでしたが、アンコール曲の演奏を聴きたかったという人は多いと思います。

サイトから、第1番の変奏だけを聴くことが出来ます。

おまけ

実は、翌日(12月3日)に葛飾シンフォニーホールの公演では、オラフソンのゴルトベルク変奏曲だけでなく、清水靖晃とサキソフォネッツ(5サキソフォンと4コントラバス)によるこの曲の演奏会があったのです。これを親爺は、チケットを買う際にうっかり間違えてしまったのです。もったいないことをしました。(涙、涙)

おまけ2

ファジル・サイのゴルトベルク変奏曲のリサイタルへ行ったときの記事です

おまけ3

辰巳美納子のゴルトベルク変奏曲のリサイタルへ行ったときの記事です

おしまい

  1. グールドは、「1955年には、32曲全曲反復なしのA-B-(なお、1959年のライブ演奏の録音では、A-B-が30曲、AAB-が2曲でした。)でしたが、AAB-は1981年には13曲となり、その分だけでも全体の演奏時間は長くなっています。ちなみに、どちらのグールドの演奏にも、後半の反復をするA-BBあるいはAABBの形式は採用されていません。」(http://wisteriafield.jp/goldberg/#part13ch1325 から引用させてもらいました。) ↩︎
  2. クオドリベット(Quod libet) ラテン語で「好きなものをなんでも」という意味で、大勢で短いメロディの歌を思いつきで歌い合うことです。 ↩︎

グールドの演奏は、他のピアニストとどう違うのか / クラシックTV「ピアニスト グレン・グールドの世界」から

— 2023/8/11 一部修正しました。—

NHK放送にピアニストの清塚信也さんと歌手でモデルの鈴木愛理さんがMCをつとめる《クラシックTV》という毎週放送の楽しい音楽番組がある。この番組で「ピアニスト グレン・グールドの世界」が放送された。最初は、2022年だったようだが、親爺が見たのは、2023年5月にあった再々放送だった。

NHK・クラシックTVのHPから

https://www.nhk.or.jp/music/classictv/482351.html ☜ こちらが、そのNHKの番組のリンクである。

この番組の呼び物は何といっても、清塚信也さんが実際にピアノを弾きながら、その日の取り上げた音楽を楽しく解説してくれるところにある。ご存じのとおり清塚信也さんは、超売れっ子のピアニストであるだけでなくトークが楽しい、バラエティー番組にも引っ張りだこの方である。

プロのピアニストがピアニストを正面から批評することはなかなかしないものだ。そうすれば、自分の力量と対象のピアニストの力量の差を意識したり、往々にして、嫉妬心などがおこり、はっきり物を言わないのが普通だ。しかし、グールドは没後40年を超えるピアニストでもあるが、清塚さんは極めて率直で公平、説得力のある説明をされており、そこにこの番組の楽しさの秘密があるのだろうと思う。

ところで、クラシック音楽の世界も弱肉強食の世界だなと、しみじみ親爺は思う。というのは、この番組MCの清塚信也さんとクライバーン・コンクールで優勝した盲目のピアニスト辻井伸行さんのお二人は、ほぼほぼコンサートのチケットの宣伝を目にしたことがない。つまり、それは宣伝をしなくてもチケットが売れてしまうのだと思う。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

親爺はこの番組をNHKプラスで録画した。そうであれば、YOUTUBEにアップしてこのブログに張り付ければ、その内容を、一番正確に分かりやすく皆さんに共有できるのだが、それは著作権の問題が生じる。 ついては、申し訳ないですが、このブログに文章にして書きますので、それを読んで判断してください。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

では、ここからその番組の内容を説明する。次の写真は、司会の清塚さんと、ゲストでタレントのハリー杉山さんである。ハリー杉山さんは、お父さんがイギリス人、お母さんが日本人で、子供の頃にチェロをやっていたそうだ。彼が言うには、「オカンがグールドが大好きだった!」ということで、非常に的確なコメントをされる。

1.ノンレガート奏法は、べつに簡単じゃない

この番組の冒頭は、清塚さんがグールドの演奏を真似るようにバッハの平均律クラヴィア曲集第1巻第1曲の有名なプレリュード(前奏曲)を、一音一音、音を区切りながらノンレガート(スタッカート)で弾くシーンから始まった。グールドは、この有名な曲をノンレガートで弾いたのだが、この曲をノンレガートで弾いたプロのピアニストは、他にいないだろう。このノンレガートの演奏方法だけでなく、真夏でもオーバーコートを手放さず厚着をしているとか、食事に関心がなかったとかグールドを特徴づける《エキセントリック》(奇妙、風変わり)というキーワードが、この後、ずっと使われていた。

そもそも、グノーはこのバッハのこの曲を伴奏に用い、有名な歌曲「アヴェ・マリア」を作っているほどで、普通は思いっきりなだらかで滑らかに演奏して、ノンレガートでは演奏しない曲である。

【noboru 1947-3から】バッハの作曲、グノーのアレンジの「アヴェ・マリア」
ヨーヨー・マがチェロを弾いている。とても良いです!(背景で使われているのがバッハの曲である。)

グールドは、この曲をノンレガートでコミカルにさらっと弾き、リスナーを驚かした。しかし、この曲がもつ美しさや穏やかさはまったく失われておらず、非常に新鮮に聴ける。

清塚さんが弾いたノンレガートのこの曲は、ピアニストが普段このような弾き方をすることがないことを窺わせる。つまり、ちょっと批判めいて言いにくいが、音の粒が不揃いで、たどたどしく苦しいものがある。変な表現だが、グールドの弾くノンレガートのこの曲は、ノンレガートなのに滑らかでレガートでもあるように聴こえる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ところで、グールドは、世間によく知られた有名な曲ほど、《エキセントリック》に弾いて、音楽好きを挑発したい、あっと言わせたいという傾向があると思う。すぐに思い浮かぶのは、このバッハのこの最初のプレリュードの他に、ベートーヴェンのピアノソナタ第14番「月光」の第1楽章は感傷をまったく抜き、それでも辛さや潔癖さを敢然と感じさせる演奏だ。モーツァルトのトルコ行進曲が含まれるピアノソナタ第11番K331は、隣に住む幼稚園児が弾いているような感じでスタートし、変奏が進むにつれてテンポアップし、最後には、アンダンテの指示がある変奏をアレグレットで弾く。最後のトルコ行進曲も、他のピアニストが決してやらない、なんとも言えない印象的な演奏が聴ける。

もっともモーツァルトのピアノソナタの場合は、どの曲も一般的な演奏から外れた挑発的なものだ。とはいうものの、グールドが《ビタミン剤を注入した演奏》[1]はとても説得力があり、違和感がない。むしろ、オーソドックスな演奏は平板に思えてくるほどだ。


[1] 英国のクラシック音楽テレビの司会者であるハンフリー・バートンとの対談で、グールドは、「モーツァルトのピアノソナタの内声部に、曲が良くなるかどうかは別にして、対位旋律をポリフォニックに加え、《ビタミン剤を注入》することをためらわない。」という意味のことを語っている。

2.清塚さん「腕の力じゃなく体重を乗せて弾くことで、ふくよかできれいなフォルテが出せる。ピアノの基本中の基本です。」

ピアニストがフォルテを弾くときの基本は、「手だけで鍵盤を叩くのではなくて、腕全体に体重を乗せて鍵盤を弾くことで、ふくよかで綺麗なフォルテが出せる。これがピアノを弾くときの基本中の基本です。」と清塚さんは言う。ところがグールドは、この基本中の基本を嫌がり、ピアニストから完全に逸脱している。

彼は、椅子の脚を短く切ったこのピアノ椅子を生涯使い続け、どこへ出かけるにも《愛犬》のようにこの椅子を持ち運んだ言う。このような低い椅子に座り、おまけに椅子をこれ以上に低くすると脚を自由に動かせないので、さらにピアノを数センチ持ち上げて演奏した。この結果、手首が肘より上に来て、ピアノの鍵盤に体重をかけて弾く、普通のピアニストとはまったく違う弾き方(とても褒められない姿勢)になっているという。グールド自身も、この座り方のために本当のフォルテッシモを出せない欠点があると認めている。[2]

清塚さんは、バッハのパルティータ第2番の冒頭のシンフォニアを、思いっきり猫背で顔と鍵盤を近づけ、唸り声も出しながら、グールドを真似つつ弾く。スタジオは、《苦笑》という感じの笑いに包まれる。

清塚さん「(グールドは)強く弾く、大きく弾くという、フォルテというものにあまり興味がなかったのかもしれない。」

ハリー杉山さん「ということは、フォルテというものに彼なりの美しさを感じられなかったということでしょうか。」

清塚さん「そうね、もしくはフォルテと言っても・・・」と言いながら、同じ和音をはるかに小さい音でピアノを鳴らしながら言う。

清塚さん「もっと繊細な音をさらに弱く弾くとか」と言いながら、普通のピアニストより小さい音のフォルテを最大の音の基準にして、「ピアノ、ピアニッシモをもっと小さい音量で表現したのではないか。」と言う。

さらに清塚さん「(グールドの)特徴としては、このような弾き方をすることで、一つ一つの音をはっきり弾き、指でものすごく、この音ソなら、ボリュームの5で弾き、ラの音はボリュームの6で弾く、というように一個づつの音すべてをコントロールしようとしたのではないでしょうか。だから、大雑把にガーっと行く演奏ではなくて、一個づつの音を全部コントロールして、自分のところで支配していたいっていう現れなんじゃないか。」

ハリー杉山さん「まるで譜面以外に、ボリュームの譜面みたいなものが、違う次元で見えているかのように聴こえてきますね。」

[2] 「グレン・グールド発言集」(PL.ロバーツ編・宮澤淳一訳 みすず書房)の1959年「私は自然児です」の対談のなかで、トロントのジャーナリスト、デニス・ブレイスウェイトに語っている。

3. 革命的な演奏スタイル《ポリフォニー》を弾く難しさ

清塚さんは、ポリフォニーについて説明する。

清塚さん「ポリフォニーっていうのは、メロディーに対して伴奏ではなくて、メロディーに対してメロディーがくる。右手がメロディーをやってれば左手もメロディーをやっているという状態のことで、非常に演奏するのが難しい。」

バッハのパルティータ第2番の終曲の第6曲カプリッチョの冒頭部分を弾く。右手の旋律に続いて、左手の旋律が遅れて入ってくる。

清塚さんは、この曲を右手の下降する旋律が始まった後、左手の旋律が上昇しながら入ってくるところを弾き、「これだけ、右手だけ弾いていても凄く難しい。ここで、左手が入ってくる。(左手が)追いかけてくるんですね。左手のクレッシェンドに、右手が一緒に乗っかっていくと、二人で弾いているように聞こえない」

清塚さん「ここを明確に弾くのはすごく難しいんです。右手は下降しながらデクレッシェンドしていき、同時に弾かなければならない左手は上昇していき、クレッシェンドしないといけない。(右手が)一緒にクレッシェンドしちゃうとつられている感じになる。これをバッハだけじゃなくてあらゆる曲にほどこした。」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここで親爺は思う。この清塚さんのパルティータを使った説明の例は2声なのだが、グールドが最も好きだったフーガは4声とか、多いものでは5声で書かれた曲が普通である。こうした多声の曲を10本の指しかない一人で、声部を分けながら弾くのは非常に大変である。

グールドは、フーガを弾くときに弦楽四重奏者(第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ビオラ、チェロ)が頭の中で演奏しているようにピアノを弾いていると言っている。しかし現実問題として、フーガであっても4声以上の声部が同時に鳴っているのは少なく、4声の曲でも一つの声部は休止して、実際に同時に鳴っているのは3声ということが多いだろう。逆に、聴く方としても、あまりに多声が同時に鳴るより、声部にメリハリをつけて交代しながら、3声ほどが鳴っている場面の方が聴きやすいということもあるだろう。

ところが、実際の弦楽四重奏団の団員4名がフーガを演奏する場合、どの奏者も自分の義務を十分以上に果たそうとしてずっと音量を下げずに弾き、聴いている方は「暑苦しいなあ」、「ごちゃごちゃしているなあ」と感じがちである。そういう意味では。グールドが自分の解釈で各声部の主役を交代させながら、曲想にも声部にも、メリハリをつけて弾くというのが、非常に聴きやすい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここでグールドが、モーツアルトのピアノソナタの楽譜を書き換えたという話題へと展開していく。グールドが弾く、モーツァルトのピアノソナタ第13番第3楽章が映し出される。ところで、グールドは、『モーツァルトはいかにダメな作曲家になったか』というTV番組をツアー引退後の1968年に作り、それはそれは過激で強烈にモーツァルトをこき下ろしている。その番組は、グールドのこの曲の全曲演奏で締めくくられるのだが、それがまた活力があり楽しく本当に素晴らしい。おそらくグールド自身もうまく弾けたと思っていたんだと思います。

ハリー杉山さん「(普通の演奏と比べて)踊っているというか、ユーフォリア(多幸感:euphoria)の幸福感が増し増しになったような気が・・・・」

清塚さん「だから伴奏じゃなくて、すべてが意味のあるメロディーなんだと、全員が主役のセリフを言っているみたいな雰囲気にモーツァルトをしたかったのかなあという感じもあります。」

4.4人のピアニストのグールド観

(1)ランラン(中国出身の有名なピアニスト・1982年生まれ41歳)

「10歳のとき、グールドが弾くゴルトベルク変奏曲のアリアの映像を見たことを今も覚えています。その美しいサウンドを聴いて、怖がらずに自信を持って自分のイメージを膨らませて演奏すれば良いと教わった気がします。数年前、私なりのゴルトベルクのレコーディングが出来たのも偉大なグレン・グールドのおかげです。最も偉大なグレン・グールド!!(”Greatest Glenn Gould !!”)」

(2)小山実稚恵(1959年生まれ・1982年チャイコフスキー・コンクール3位1985年ショパン・コンクール第4位)

「一番のグールドの音楽の魅力はそこに喜びがあることだと感じています。グールドの体は、グールドが動かしているのかなっていうような、ものに憑かれたような悦楽を感じて演奏している姿がそこにあって、やっぱり、学習と芸術の違いっていうのは、そこに真の喜びがあるかないかという、そこにかかっているのかなと感じています。」

(3)青柳いずみこ(1950年生まれ・東京芸大卒・ピアニスト・エッセイスト・2011年『未来のピアニスト グレン・グールド』発刊)

「とことんゆっくり弾いてみたり、とことん早く弾いてみたり実験をしているんですけれども、どんなにデフォルメしても音楽本来の形が変わらない。崩さないって言うか。普通の才能がそういうことをすると音楽自体ががたがたになってしまうと思うんですけど、正統的な音楽性を持っていてその上でのデフォルメだったということが、素晴らしい指揮者とか演奏家たちには、そのことが分かったんじゃないかなと思います。」

(4)清塚信也(1982年生まれ・桐朋学園大卒・ピアニストだけでなく作曲家、編曲家、俳優でもある。)

同じくMCを務める鈴木愛理さんが、清塚さんにグールドのコメントを求める。

「皆さんおっしゃるには、オーソドックスから離れているという言い方は出来ない。そこで悦楽があると小山実稚恵さんがおっしゃってたけど、そこに喜びがあるからそのまま人に出すっていう怖さを乗り越えた人だと思うんだよね。」

結論 by 親爺 

今のピアニストにとって、ピアノはレガートに弾けば弾くほど良い、3階席の観客までピアニッシモの音も届けるのがピアニストだと考えている間は、グールドのようにポリフォニーを自在に明確に弾き分け、スタッカートとレガートを同居させ、声部ごとに弾き分けるのは、非常に困難だと思う。

グールドを《同業者》と表現し、「練習を1日休むと自分で分かる。2日休むと批評家に分かる。3日休んだら観客に分かる。」と言ったポーランドの有名なピアニスト、パデレフスキの言葉を引用しながら説明をする青柳いずみこさんが告白するように、彼女の指は自在に動かない。それは他のピアニストも大なり小なり同じだ。高い椅子に座って腕を上方から振り降ろし、爆発するようなフォルテで大音響を出し、コンサートホールの観客を圧倒しようと考えるピアニストが、多声の曲の各声部を対等に歌わせる対位法的演奏をすることと、このような爆発的なフォルテを弾くことを両立するのはどうも無理だと思える。

また、グールドは、『ピアノは30分で教えられる』というトピックのインタビューで、「ムカデ[3]は、百本の足の動かし方を考えるのが嫌いです。能力を損なわれるからです。動かし方を考えるとまったく動けなくなるからです。」と言っている。ピアノの練習でも指使いに考えを持っていってはダメだというのだろう。「動作は、円滑かつ自動的に機能しなければならないが、それらに注意をしてはならない。」

また、こうも言っている。「ピアノに向かうよりもたっぷり前から曲目を知り、そして(あるいは)触感を超えた体験をする。そうすればピアノによるあらゆる干渉を抑えられるのです。・・・・完全性は、ピアノから離れてさえいれば理論的には獲得可能です。ピアノに向かった瞬間、触感上の妥協を強いられ、完全性の程度は下がります。そして妥協点を見つけることになりますが、理想を追求した分だけ妥協をしないで済むのです。」 決して、巷間よく言われるように《一生懸命繰り返し練習して、指使いを体に覚えこませる》というような方法で曲を弾こうとしないことだ。

グールドは、あらゆる曲を暗譜で弾いた。抽象的で、暗譜が難しいと言われるシェーンベルクなどの現代曲でも暗譜で弾いた。おまけに一緒に演奏する他の楽器の楽譜も暗譜していた。楽譜にまったく運死(指使い)を書かない。楽譜を見た瞬間に指使いが決まったという。グールド研究者が、楽譜に数字が書かれているのを見つけたら、それは知人の電話番号だったという。ペダルをほとんど踏まないので、ひんぱんに指を持ち替えながら弾く。これらのことは、多くのピアニストがしないことだと親爺は思う。

「グレン・グールド著作集」などの書籍を何冊も出した音楽評論家・編集者であるティム・ペイジは、次のように言っている。 「これまで10本の指を持つ者で、10本の指がそれほどまで見事に独立した生命を持つ者が、誰か今までにいただろうか?」”Has anybody ever possessed ten fingers with ten such marvellously independent lives?”, Tim Page

グールド研究の第1人者である宮澤淳一さんは、グールドは《クラシックの音楽家》ではないと言う。何故なら、王様は作曲家であり、演奏者は家来だと考える音楽界にあって、グールドは自分が王様だと考えているからだという。まったくそのとおりだと思う。

親爺は思う。クラシックの音楽家であろうとなかろうと、リスナーは、演奏される曲が持つ最大の魅力を伝えてくれる最良の演奏を聴いて、感動に浸りたいと思うだけである。

おしまい

[3] ムカデの話:「グレン・グールドは語る」(ジョナサン・コット 宮沢淳一訳 ちくま学芸文庫)の「ピアノは30分で教えられる」でシェーンベルクの言葉として、グールドが語っている。

グールドとジュリアード弦楽四重奏団は、なぜ《亀裂》を生じたのか?

グレン・グールドは、前期ロマン派の曲をたいがい嫌っていた。しかし、1968年にロベルト・シューマン (1810-1856)のピアノ四重奏曲変ホ長調作品47をコロンビアレコードから正規録音でジュリアード弦楽合奏団と残している。シューマン唯一の曲の録音である。これがなかなかいい曲である。

コロンビアレコードの当初の計画では、このピアノ四重奏曲を録音した後に、同じくシューマンのピアノ五重奏曲も録音する予定だった。しかし、ジュリアードと意見が合わず、五重奏曲の方は、バーンスタインがグールドに変わって起用されて、この2曲を入れたレコードが発売された。確執が起こったという発売されたの四重奏曲の演奏は、とても素晴らしくて、とても「亀裂」が入ったとは思えない出来栄えである。

グールド推しである親爺は、カップリングで入っているバーンスタインがピアノを弾いた五重奏曲とともに、他の現代の感情をこめた演奏より、曲の構成に気を配ばり統一感を重視した演奏のこちらの方が好みである。

こちらがそのジャケット

ついては、グールドとジュリアードの間で、何が合わなかったのか、それを考えてみようと思う。それを考えるにあたって、《おしまい》のうしろに二つのユーチューブを張り付けた。最初の方であるレコード盤が写っている方が、上に写真を貼り付けたジャケットに入っているグールドとジュリアードの演奏と同一である。

その後ろのYOUTUBEが、樫本大進さん(ヴァイオリン)が入った合奏団である。樫本大進さんは、最高峰と言われるベルリンフィルハーモニーの主席コンサートマスターである世界的ヴァイオリニストだ。

ここから、グールドとジュリアードの演奏と、現代の豪華メンバーの演奏を比べてみたい。なお、親爺は別に音楽の専門家ではないので、間違っているところもあると思う。その辺をお含み下さい。

また、音楽の曲は何といっても、いくら強弁しても、最後は好き嫌いです。好きだったらそれでよろしい、というのが大前提だと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

グールドとジュリアードの演奏の方は、ピアノに圧倒的な存在感がつねにある。グールドは、全曲を通じて、(存在を消して)控えに専念するということがない。存在感がありながらも、他の楽器を喰ってしまうということもない。曲全体を眺めると、自然でとても楽しい演奏になっている。

グールドは、弦楽器(バイオリン、ビオラ、チェロ)が主旋律を鳴らしているときでも、その背景で、あまりにも正確なタイミングでピアノをポロンとさまざまな音色と音量で鳴らすので、曲のリズムと強弱ががピアノの演奏に制限される。弦楽器奏者に、勝手なリズムと表現を許さない。 

その理由は、楽器の特性が影響していると思える。ピアノは、鍵盤を叩いた瞬間に出る音が最も強く、弦楽器群は、弓をこすりながら音を出すので、音量のピークを自在に変えられる。ピアノは、弦楽器よりリズムに関して、《切れ》がはるかに良い。リズムが明確である。そのため、弦楽器も強音を頭にもってくるのであればそうした弾き方を意識的にする必要がある。 ピアノが弦楽器側に、ピアノと同じように、正確なリズムで演奏するように強要している。

しかも、グールドの弾き方は、コンピューターのようにリズムを崩さないで一音一音を弾ける。速く弾いたときに、《パルス》や《ビート》、《ドライブ感》という表現で言われるグールドの演奏の心地よさを生んでいる。グールドの弾く旋律は、32分音符、64分音符などの音符でも正確に、一音一音刻むことが出来る。アーティキュレーション(旋律のひとかたまり)を弾くときに、字余りだったり、帳尻合わせに、スピードを変えて調整するということがなく気持ちよい。逆に言うなら、他のピアニストは、グールドのように旋律を一音一音はっきり区切りながら弾かずに、ダラダラっとアーティキュレーションの中で一まとめにして弾くのが普通である。

このように、ピアノが一音一音明確に鳴るので、弦楽器もそのような演奏をせざるを得ない。結局、ピアノが全体の曲想を支配しているのだが、ピアノだけが主役という感じはまったくしない。主役のメロディーを鳴らしているのは誰?という感じが往々にする。主役のメロディーが鳴っているときに、その主役が、弦からピアノへ、ピアノから弦へと入れ替わるのはとても快い。

また、グールドの奏法はノンレガートが基本である。ノンレガートは、素人のようにポツポツ弾いただけではだめで、正確なタイミングで弾かなければ逆効果である。ところが、普通のピアニストはレガートが基本である。こちらは、リズムが少々脱線してもアーティキュレーションの中で調整できるので誤魔化しがきく。とうぜん、その分曲想が曖昧になる。

ちょっと話がそれるが、バッハの有名な「イタリア協奏曲*」の第2楽章アンダンテで、バスが同じ音で一定のリズムで出てくるのだが、グールドはノンレガート(スタッカート)奏法でこのバス音を印象的に弾いている。あまりに正確なタイミングで鳴るので、とても説得力があり、コミカルな印象を与えているのだが、これと同じ芸当をする他のピアニストを親爺は知らない。ノンレガートで弾くのも、レガートで弾きなれているピアニストには結構難しい感じがする。

(注)*イタリア協奏曲は、協奏曲と言いながらピアノソロの曲です。なにやら、リトルネロ形式というバロック時代の書風で書かれているので、協奏曲というのだそうです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

一方、ベルリンフィルのコンマスである樫本大進組は、画面を見ると全員が楽譜を前に演奏している。

ここでまたまた脱線するが!!、グールドは、ザルツブルグ音楽祭でチェリストの大先輩のシュナイダーと共演した際、「オマエ、楽譜をピアノの前に置いて演奏しろ。いいな。」と釘を刺されるのだが、舞台に現れたグールドは、楽譜をお尻に弾いて演奏をはじめたというエピソードを思い起こした。このグールドは、自分のパートを暗譜しているだけでなく、他の楽器のパートも暗譜していて、そうした記憶力は共演者から嫌がられたらしい。

再び、樫本大進組の演奏に話を戻す。 こちらの演奏では、アーティキュレーションの中で、ピアノも小さく速度を変え、抑揚も変えている。それは、弦楽器もおなじである。ピアノは弦楽器が主体的な場面では、音量を控え、リズムも崩し気味である。ピアノの存在がないかのような場面もある。逆に、弦楽器が控えめで、ピアノが主体的な場面では、ピアノが名人芸を披露するのを弦楽器が伴奏にまわってサポートする。個性を尊重するのを良しとしているのか、別個の主張をして、あえて3台の弦楽器が揃わない場面もある。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ピアノがそれぞれ主役をとる場面があり、すべての楽器の音が鳴りながらも、主役が交代していく。その時に、主役の楽器は、かなり感情を込めて個性を出すように演奏し、他の楽器はサポート役に回っている。そして、どの楽器も感情を籠めて自分の役割を最大限に発揮しようとする。それがずっとである。クライマックスを、思いを込めた《緊張感》で表現しているように思える。

(ロマン派の音楽を演奏する際に)一音一音明確に区切るより、ロマンチックに崩すことで、感情たっぷりに歌いたい気持ちがどの演奏家たちの根本にもあるように感じる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

グールドは、弦楽器の背景に回っても正確なリズムを刻んでいるのが聞こえる。しかも、その背景のピアノの音が、控えめに優しく弾けば、弦楽器は激しく大きな音で弾くわけにはいかない。逆にクレッシェンドしながら、弾けば、弦楽器もそのように弾かざるを得ない。ピアノという楽器は、弾きようだとは思うが、非常に目立つ音を出す楽器だ。グールドは、曲の全体の構成と楽章の構成を考え、どのように演奏するともっとも効果的かを考えているように思える。

そのために、インテンポ(正確なテンポ)を重視し、各自が自由に速度を変えるルバートを排除しようとしているようにみえる。統一感を大事にするからだろう。ルバートすることで、感情の抑揚を表現するのことは、ときとして、頑張りすぎが感動の押し売りになる。名人芸を示したいのかもしれないが、長くこれをやられると、聴く方は疲れる。

おかげで、グールドとジュリアードの演奏は、大きな音で演奏する場合にも、強い主張や《驚き》があっても、《緊張感》はない。

逆に、こうした演奏を強いられるジュリアードの面々は、この不自由さが嫌だったんではないでしょうか。どうですかね?

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

親爺は思うのですが、グールドは、ロマン派の音楽を弾くときに感情を排し、バッハなどの古典曲を弾くときにはロマンチックに弾くのがグールドなのかもしれません。そうなら、なかなかの天邪鬼ですね。

おしまい

【以下、YOUTUBEのキャプションから】11,244 回視聴 2021/07/30
グールドが録音したすべての室内楽作品の中で、1968年5月9日と10日にニューヨークで録音されたピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのためのシューマン四重奏曲変ホ長調作品47ほど物議を醸す作品はない。
グールド自身も、この録音の過程で、彼とジュリアード四重奏団の3人のメンバーの間に、ますます深まり、最終的には取り返しのつかない「亀裂」が生じたと認めた。
この歴史的な摩擦にもかかわらず、グールドとジュリアード四重奏団は共に素晴らしい音楽を作りました。
彼らのシューマン四重奏曲はドラマチックで騒がしく、それでいて所々抒情的でもあり、弦楽器とピアノの優しい音色が響きます。
この音楽の中にはかなり速く演奏されるものもあり、グールドの正確なピアニスト能力がこの作品に素晴らしい華やかさと興奮を与えています。
グールドが演奏した唯一のシューマン作品です。
コロンビアは五重奏曲作品 34 も演奏することを計画し、望んでいた。
しかし、それは実現しませんでした。
バーンスタインはレコードの裏側のピアニストでした。
I. ソステヌート・アッサイ – アレグロ・マ・ノン・トロッポ 8’57”
II. スケルツォ・モルト・ヴィヴァーチェ・トリオ I – トリオ II 3’37”
III.Andante cantabile 7’57”
IV. Finale. Vivace 6’59”
ジュリアード弦楽四重奏団のメンバー
ロバート・マン、ヴァイオリン ラファエル・ヒリヤー、ヴィオラ クラウス・アダム、チェロ
【以下、YOUTUBEのキャプションから】417,574 回視聴 2019/02/11
ロベルト・シューマン (1810-1856): ピアノ四重奏曲第 1 番 変ホ長調 op.47 (1786)
樫本大進、ヴァイオリン / ギラッド・カルニ、ヴィオラ / G ガベッタ、チェロ / ネルソン・ゲルナー、
ピアノ ソステヌート・アッサイ – アレグロだがやりすぎない ( 00:12 )
スケルツォ: 元気いっぱいのモルト – トリオ I – トリオ II ( 08:51 )
アンダンテ・カンタービレ ( 12:23 )
フィナーレ: ヴィヴァーチェ ( 19:19 ) )
ソルスベルク音楽祭 201 8 で録音 © HMF Productions フィルム: ヨハネス・バッハマン 音響: ジョエル・コーミエ タグ: ロベルト・シューマン、ピアノ四重奏曲、クラヴィーア四重奏曲、第 1 番、第 1 番、第 1 番、変ホ長調、エス-デュル、作品147、作品47、
樫本大進、ヴァイオリン、ギラッド・カルニ、ヴィオラ、ソル・ガベッタ、チェロ、ネルソン・ゲルナー、ピアノ

ゴルトベルク変奏曲 終わりよければすべて良し ファジル・サイ リサイタル

2022年1月29日、ファジル・サイの J.Sバッハ、ゴルトベルク変奏曲のリサイタルに墨田トリフォニーホールへ行ってきた。

ファジル・サイは、トルコ、アンカラで1974年生まれなので、49歳ということになる。トルコ人と言うことで、ドイツ正統派とみなされないハンディキャップがおそらくあると思うのだが、彼の演奏は明晰で明るく、構成が明確で非常に好ましい。

親爺は、バッハのオリジナルがヴァイオリン独奏で演奏される《シャコンヌ》という有名な曲をピアノ用に編曲したCDを聴き、なかなか良いと思っていた。

また、彼は作曲もやり、ブルーノート東京でジャズもするようだ。

スタンウェイ。休憩時は調律していました。

コンサートの印象なのだが、ゴルトベルク変奏曲は、「やはりグールドの演奏はうまいなあ」というのが基本にある。以下は、音楽家でもない親爺の気づいた感想なので、間違いもあるかもしれない。

ファジル・サイは、この曲を1時間かけて演奏したのだが、グールドは40分~50分くらいで演奏する。グールドは反復記号をかなり無視している。楽譜通りに反復すると、くどいなあと感じることもある。グールドは、遅い曲はより遅く、速い曲はより早く弾く。

ファジル・サイは、グールド以上に、バッハをバッハらしく、理知的で数学的に弾くのではなく、まるでロマン派の曲のように感情をこめて弾くのだが、そこは共通するなあと思った。

開演前の様子。1800席は満席でした。

一番違うのは、他のピアニストもそうなのだが、内声がグールドほど明確に聞こえないことだ。つまり、一番高い旋律と低音の伴奏だけになり、内声は低音部と一緒になっているように聴こえる。グールドは、ソプラノ、アルト、テノール、バスがそれぞれ別個に主張する。(よくわからないが、グールドは声部が違う場合、優先順位をつけ同時に打鍵していないのだろうと思う。)

また、多くの場合、グールドのようにデタシェ(スタッカート)とレガートを使い分けない。グールドは、デタシェが基本で、これは《弛緩》であり、レガートは《緊張》だと考えているので、レガートはここぞというところに使うために取っておく。しかも、そのデタシェとレガートを異なる声部で同時に使い分けながら弾くことが出来る。普通のピアニストは、基本レガート一本なので、曲想を変えるのは音量と速度の変化だけなので、飽きてくる。

ペダルの使い方も大分違うのではないか。グールドは、ペダルをあまり使わないのだが、普通のピアニストは曲が盛り上がってくると、ダンパーペダルをじゃんじゃん踏み音を延ばす。当然音は濁ってくるのだが、簡単に迫力を出せる。 グールドは逆に、密やかさを出すために、逆に3本の弦が2本しか鳴らないようにするソフトペダルを多用する。

グールドは装飾音符を装飾音符と感じさせずに弾いていることが多い様に思う。第1曲のアリアからして、グールドは楽譜通りのメロディーに弾いていないのだが、こちらの方が非常に自然な解釈だ。ファジル・サイは、基本、楽譜通りに弾き、トリルなどはトリルらしく、華やかに見事に演奏するのだが、グールドはトリルでも装飾音符と感じさせずに自然に弾くことが多いと思う。

曲全体の解釈も大分違っている。最後の数曲はもうすぐ終わりという感じで、変化球が投げられ、徐々に盛り上がっていく。ファジル・サイは、最後の1曲前であるクオドリベットで最高潮に達するのだが、最後のアリアもその最高潮を維持する。グールドの場合は、この《ゴルトベルク変奏曲》は、《円環の曲》というだけあって、最初のアリアに戻るように弾くので、密やかに静かに閉じるのだが、ファジル・サイは、最後のアリアをクライマックスのように弾く。

このクオドリベットは、ドイツの俗謡が2曲入っていて、この曲だけがこれまでのような格調の高い雰囲気から砕けた気安さに満ち、曲想が違う。ある意味、この曲でゴルトベルク変奏曲は、一気に弛緩し、最後のアリアで最初の地点に戻るのだが、これをグールドは、平穏で、静謐なアリアへ戻ろうとし、ファジル・サイは、最初とは違うクライマックスを持って来たわけだ。

ファジル・サイは、ずっと楽譜を見ながら弾いていた。このため、変奏の変わり目に楽譜をめくることがあるのだが、CDで聴くときのようにインターバルが揃わず、わずかに興が削がれる時がある。もちろん、生の演奏がCDの録音のように完成度が高くならないのは、当然なのだが、すべてが暗譜であれば、インターバルもより演奏者の意図したものになり違うかもしれない。

この日、このホールは1800席あるのだが、いくらコンサート・グランドと言われるピアノがデカい音を出せるとしても、300人くらいの小ホールがふさわしい気がしなくもない。

この日の観客の反応はとてもよく、近くに座っていた女性が「まるで教会で聴いているようで、目をつむりながら感動していた。」という声が聞こえて来て、そのとおりだなと思った。

第2部では、シューベルトのピアノソナタが演奏された。全体として、とても良いコンサートで、観客は演奏が終了した後も盛大な拍手がなり続け、スタンディングオベーションする外人や日本人も多かった。

錦糸町のイルミネーション

そのアンコールを期待していた親爺なのだが、ドビュッシーの月の光とショパンのノクターン遺作の2曲を演奏してくれた。これまでの曲とガラッと雰囲気が変わり、どちらも凄く素敵で、こうした感じが生のコンサートの良さなんだと実感する。

2曲終わったところで、早く帰れと催促するように、ホールの照明が明るくなってしまった。もっと聴きたかったのに。

おしまい