あまりにバカバカしく絶望しかない日本 その1 《国債に対する誤解》

親爺は、最近あまりにバカバカしくって、ブログを書く気が失せている。あまりに周囲の人たちと、意見や温度差が違いすぎ、虚しい。絶望している。バカバカしいと思うものは、たくさんある。

財務省を追及する数少ない税理士・参議院議員の西田昌司氏

① 国債に対する誤解

国債発行に対する国のスタンスを書いた法律に財政法、財務省設置法がある。日本政府は、経済運営にあたって、原則として財政の健全性すなわち、税収の範囲内で歳出をすると書かれている。つまり国債は発行しないことがベストだと言っている。だが、こんなことを露骨に書いている外国はない。この縛りは、日本が敗戦をしたときに、太平洋戦争の戦費調達のため赤字国債を大量発行したことに対し、二度と戦争をさせないためにGHQが入れさせたと言われる。

国債発行のスタンスは、通貨が金との交換(金兌換という)を保証していたことと関係がある。第二次世界大戦後も、世界は発行する通貨と金の交換を保証していた。ところが、アメリカがベトナム戦争を続けるのに戦費が不足し、金の交換を保証しなくなった。これをニクソンショックといい、世界は管理通貨制度へ移行した。これを境に各国政府は、自由な裁量で発行額を決めれるようになった。

注意しなければならないのは、国の実力(生産力)以上に通貨を発行すれば当然インフレになる。為替が、貿易の需給、金利や実力(ファンダメンタルズ)で決まる変動相場制をとっていれば、為替安になる。外国製品の輸入が困難になる。過去に固定相場制度を取っていたイギリスが、ジョージ・ソロスに国債を売り浴びせられ、国債価格が暴落、イギリス政府は大損したうえ、固定相場を放棄し変動相場制へ移行せざるを得なくなった。当時のイギリスが、EU加盟にも関わらずポンドを使っていたのはこのためだ。結果的に、ユーロを使わずかえって良かったともいわれる。

管理通貨制度と変動相場制をとることで、政府は国債の発行額を自分で決めれるようになった。ここで、過度な発行は為替、国債価格の低下(通貨安)を引き起こし、インフレを生じさせる。逆も真である。

日本にもっとも大事なのは、政府は日本の生産力に見合った通貨発行量を供給できていないことだ。今の日本は、企業が内部留保(黒字)をため込み、銀行から借金をする設備投資をしなくなっている。つまり、通貨の流通量が足りていない。もう一人のプレイヤーである政府がその不足額を供給しなければならない。財政支出を増やさなければならない。

ところが冒頭に書いたように、GHQの方針通り、また、法律の後ろ盾がある財務省は、今の国債を発行は一時的であり、究極的にゼロを目指している。敗戦直後からバブル崩壊まで続いた高度成長期は幸運に恵まれ、国債を発行せずとも、民間企業が積極的に設備投資のために借金をつづけたから、通貨流通量が豊富で、国民の財布にも行き渡って成長ができた。

財務省は相変わらず国債の発行を嫌がるだけでなく、将来の災害にそなえて歳出余力を蓄えるために増税するという真逆のことを言い出している。経済の専門紙を自認する日本経済新聞は、その主張をもっともらしい顔で拡散し続けている。

①はおしまい つづく

ナイーブな日本人 思想もへったくれも何もない!!

日本人は、ナイーブという言葉の意味を肯定的なプラスの意味で受け取っていることが多いが、これは外国人の言うことを真にうけ、騙されやすい日本人の悪癖かもしれない。

ボディーソープ・ナイーブ(クラシエ)

例えば、ナイーブという言葉をプラスの意味で受け取っているので、繊細な肌の人向けにナイーブという名のボディソープが売られている。デリケートな肌、赤ちゃんぽい無防備な肌向けの人用の商品ということを示したネーミングなのだろう。

このナイーブという言葉の語源を調べてみると、どうやら、フランス語のnaïveが語源であり、英語では、naivと表記するらしい。WIKIPEDIAには、「童心的」「うぶ」「世間知らず」「お人よし」「無警戒」「ばか正直」を意味すると書かれている。

例えば、性的にナイーブと言えば、「童貞」「処女」を指すのだが、誉め言葉ではなく、幼稚、子供っぽいという意味が含まれる。

ナイーブと聞くと、純真とか繊細で感受性が強いなどと、イメージしてしまう日本人が多いと思うのだが、実際外国人が考えているのは、「世間知らず」「お人よし」「無警戒」「ばか正直」といったマイナスの意味だろう。

親爺は、戦後の《民主主義教育》を受けて育ってきた。つまり、太平洋戦争で敗戦しGHQが作った憲法を押し付けられたとしても、太平洋戦争は侵略戦争であり否定されるべきものだったことに加え、GHQが押し付けた《自由・平等》《民主主義》と言った価値観は普遍的に正しいので、《戦争放棄》を謳う憲法や戦後の新しい体制を維持するのが正しいと言うような教育を受けてきた。

ナイーブな親爺は、この教育をずっと真にうけてきたのだが、いろいろ本を読んでみると、どうもこれは怪しいなと思うようになってきた。とくに、新型をコロナが始まったこの3年を経て、日本人は、馬鹿だナイーブだと思うようになってきた。

具体的に戦後の教育のどこに疑問を感じたのかといえば、《自由・平等》の自由と平等は同時に達成し得ない。あらゆる人が自由に振舞っては、平等は達成できないので、矛盾する。また、欧米中心に発達してきた資本主義や経済ルール(会計基準、決済基準、銀行制度など)の歴史は浅く、人類にとって普遍的とまでは言えない。欧米の中で発達してきたシステムは、特定の団体の利益を実現するための手段であり、必ずしも正しくないと思うようになってきた。

親爺は、そこへ《クライテリオン》という藤井聡京都大学教授が主宰する2023年1月の雑誌に掲載されているある記事を読んで、完全に日本人観が変わってしまった。

その記事は、小幡敏(おばたはや)の「危機の時代を前に」というものだ。小幡敏さんは、東京大学文学部思想文化学科倫理学専修課程卒業後、自衛官を経て、著述業へと進んだ方のようだ。旧のペンネームが磯邉精僊というらしい。

この小論で、現在のロシアのウクライナ侵攻について、次のように話を始める。

「平和主義も専守防衛も、そんなものは敵さん次第でどうにでも蹂躙され得ることが証明された。真に実効的な安全保障の実力を求めず、未だに核の傘などを前提としている日本(先日聞いた話では、外務省内で核の傘の実効性に関する議論はタブーだそうだ)において来る日に周辺国から攻撃を受ける事があってっも、そんなものは悲劇ですらない。無防備のままでいた自分が悪いのである。網棚に鞄を置いて眠りこけていた酔客が置き引きにあったといって、誰が同情してくれるものか。我々は、今現在、77年に渡る怠惰を清算される立場にあるのである。」

さきの大東亜戦争に関しては、「・・・すなわち、日本人は、何の為に戦うのかをあまり問題にしてこなかったきらいがある。戦いというのは自明に与えられるものであり、そこに放り込まれた以上やるしかないものでしかなかった。あの戦争に確固たる目的などなかったし、戦争遂行の責任者すら居なかった。戦争前夜、誰もが『もはや戦争は不可避である』と考えたけれども、その判断を決定していたのは事実ではなく空気だった。」という。

そして、「戦争をするには民族の信念が必要だが、そうした信念が日本人にあったのかという疑問である。」と、こう続く

今度は、《日本人に足りないものは何か》というタイトルで、何にもない、あらゆるものがないという意味の、敗戦直後のエピソードを紹介しているのだが、これがきわめて強烈である。

「多くの日本人がほとんど一夜のうちに、あたふたとアメリカ人を礼賛するようになり、「平和」と「民主主義」の使徒となったかのような有様をみると、そこには笑うべきことが山のようにあった。皮肉屋は、この「改宗ゲーム」に参加して、政治看板の書き換えや政治上の主義・主張の大転向を、恰好の風刺の的にした。さらに厄介だったのは、日本人の占領軍への対応の仕方が例をみないほど無邪気で、親切で、浅薄だったことである。たとえば原爆が投下された長崎においてさえ、住民は最初に到着したアメリカ人たちに贈り物を準備し、彼らを歓迎したのである(贈り物はガラス・ケース入りの人形で、放射能の影響を調査しに来たアメリカの科学チームの責任者に贈呈された)。またそのすぐ後にも住民たちは、駐留するアメリカ占領軍とともに「ミス原爆美人コンテスト」を開催したのである。(ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』)」

「ありふれた話だった。鮮やかな”転向”を遂げたのは軍部に”虐げれられていた”庶民だけではなかった。戦後、GHQ主導で十数万人に及ぶ公職追放が行われるが、権力者たちもまた、敗戦に我を失ったのである。」

「『みんな自分だけは解除してくれと頼みに来る。見るも無残だな。いかにも戦争に協力しとらんようにいってくる。なんと情けない野郎だなと』ー後藤田正治回顧録」

そして小幡敏さんの結論はこう結ばれる!!

「こうした転向が皮相上滑りであったかを証明するエピソードは無尽蔵にある・・・中略・・・日本人は確固不動、堅忍不抜の思想なり生き方なりを欠いているのである。

おしまい

あるユダヤ人の懺悔「日本人に謝りたい」  その2

今回は、この本に書かれている帯と、この本を読もうと思った契機を紹介したい。

まず、この本の帯に書かれている推薦文の1人目、馬渕睦夫氏の引用。馬渕氏は元ウクライナ大使である。

「本書が東西冷戦最中の1979年に刊行されたのは、奇跡と言えます。当時ソ連を信奉してやまない日本の左翼とは、ユダヤ思想のエピゴーネン(承継者)であることがばれてしまったからです。本書を読めば、わが国の国体の神髄「君民一体」こそ、最先端の民主主義体制であることに誇りを持てるはずです。」

も一人は、東北大学の田中英道教授である。田中教授は、西洋美術史を研究する歴史学者である。

「戦後、日本を占領したアメリカといいGHQといい、その中核はユダヤ人であることを如実に示した好著である。40年前、この本が出た時、買い求めたが、これを左翼の論壇が抹殺してきた。こうしたユダヤ人の懺悔を聞きたくなかったのだろう。なぜなら、日本の論壇こそ、左翼ユダヤ人たちが支配してきたからだ。」

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次のYOUTUBEは、この本を紹介した西田昌司自民党参議院議員である。この西田議員は、財政再建を唱える議員の多い自民党の中で、財政支出拡大、プライマリーバランス廃止を訴えるリーダーの一人で、財政政策検討本部本部長をされている。

西田議員が主張するのは次のようなことだ。 日本がこの30年間経済成長が出来なかったのは、財政法第4条に赤字国債を発行して通常予算の不足を埋めてはならないと書かれている。それが、憲法9条の武力放棄と合わせ、再び日本に戦争を起こさせないようにしたGHQの策略だと言う。

ここで日本に再び戦争させない、平和国家にすると言えば、非常に聞こえが良いが、内実は、武力を持つような経済力を日本に二度と持たせないという意図が背後にある。

「しかし、日本は敗戦後、朝鮮戦争を契機に高度成長を果たしたではないか?!」という指摘が出るだろう。

これには、アメリカの政策転換があった。当時アメリカは、ドッジラインなど緊縮財政を日本に進め弱体化させようとしていたが、東西冷戦でアメリカが不利になり始めたことにより、アメリカの政策がレッド・パージ(赤狩)へと180度政策転換される。同時に、朝鮮戦争の勃発により日本の景気は回復し始める。この景気回復は、日本の高度成長期へと続いていくのだが、この時の成長は、民間企業が銀行から多額の借金をして大きな設備投資をした。つまり、日本政府は、国債発行を原資に財政支出をする必要がなかった。それでも政府は税収を増やし、経済成長も達成することが出来た。このため、財政法第4条は問題とならなかった。

ところが、バブル崩壊後、日本はデフレに入り政府の財政支出が必要にもかかわらず、赤字国債を発行してはならないというGHQが作った財政法第4条の規定に苦しめられているというのが、この西田議員の主張である。

おしまい その2

救いがたい日本 こんな日本に生まれて情けない その5 財務省に勝てるわけがない財政拡大派 財務省のアリバイの財政法と財務省設置法

財務省が緊縮財政をつづけるのには、法律の裏付けがあるからだ。つまり、財務省設置法には、「健全な財政の確保を図る」と書かれているし、財政法には、「公共事業を国債で賄う建設国債は良いが、一般財源を補填する赤字国債はダメだ。」「国債は日銀が引き受けてはならない。」と書かれている。

バブルがはじけた1990年代以降、日本は30年にわたって不況がつづき、いよいよ崖っぷちまで来た。

この原因には、プラザ合意による円高で輸出競争力を失ったこと、その後のデフレで企業が投資をせずにGDPが成長しなくなった。この30年間で、GDPが成長していない国は日本だけなのだが、その原因は何より、政府が財政再建を優先させ、「国民の借金は一人当たり1000万円になった。」と不安をあおり続け、あらゆる予算を削り(増やさないことを)続けたことにある。

そのせいで、企業や自治体は、正社員を減らして、コストの安い非正規職員に置きかえ、科学技術に予算をつけないので、技術革新をすることができず、大学院を出た研究者が生活できない。道路の白線は消えたままだし、公立学校の校舎は、建設以来何十年も経ってボロボロである。親からの仕送りの少ない地方から上京する女子大生は、風俗やパパ活せざるを得ない。男子学生は犯罪に走る。結婚した主婦も風俗で夫との家計を支え、未婚女性も風俗で生計を立てる。風俗で稼げない、犯罪もできない男が、結婚できずホームレスになっていると言われる。

コロナの前は、インバウントという名で、外国人が日本へ何千万人も押し寄せてきたが、彼らのうちの何割かは、日本女性を買いに来ていた。日本の高度成長期に、日本男性がタイや韓国で女性を買っていた逆の現象が今、日本で起こっている。ビックマック指数というのがあるのだが、ドル換算したビックマックが世界中の先進国の中で一番日本が安い。途上国を入れても、日本はかなり下の方だ。

一方で、日本の医療費や介護保険など高齢者に対する必要経費は増え続けるので、若者や働き盛りの人たちへの予算はまったく増えることがない。

なぜ、こうした政策を財務省は続けるのかというのは、最初に書いたとおりだ。彼らは、忠実に法律を守ろうとしている。

最初の二つの法律があるかぎり、財務省は緊縮財政を変えない。長引く不況の原因が、政府の緊縮財政にあると主張する財政拡大派が、いくら財政拡大を叫んでも、財務省にとっては、「蛙の面に小便!」である。いくら非難されても、法律を守っていましたと云えば済むからだ。

では、この二つの法律がどうして出来たのか。

これは、日本が太平洋戦争に敗戦した時にやってきたGHQが、日本が太平洋戦争の時に戦時公債を大量に発行して戦費調達したことが再度起こらないか懸念し、再び戦争をしないように足枷をはめたと一般的にいわれる。これは、憲法も同様である。

「戦争しないように足枷を嵌めた」と聞いて、「そりゃあいい!」と思った人は、お目出たい。経済に足枷を嵌めると、平時でも経済は委縮する。それが30年間の日本で起こったことである。

つまり、どこの国でも緊急時には、国債を大量に発行している。収支均衡など考えないということだ。(これを賢く実践したと言われるのが、中国である。中国は政府がじゃぶじゃぶ資金を供給し、毎年二桁の経済成長してきた。)

日本は主権国家なのだから、法律を改正すれば良いのだが、アメリは民主主義を持ってきたありがたい存在だと主張する自民党の守旧派、リベラルと言われれながら昔の考えを脱却出来ない左派勢力(立憲民主がよい例だ)、マスコミ、経済界の陣営も、国債発行は借金で悪だと考えている勢力がも強く、いつまでも改正しようとしない。

念のために、誤解のない様に書くと、国債発行は国民の借金ではない。国の「負債」であることは間違いないが、「資本金」のような性質のものであり、政府が支出することで、国民の側に「資産」を増やす。国債の償還は、今までも借換債を発行してきたし、これからもそうするだけだ。どこの国でもやっている。

このGHQの制定した法律は、時限爆弾だという人もいる。日本が経済復興し、アメリカ経済を脅かしたとしても、ある時、この法律の縛りが発動し、日本経済を徐々にシュリンクさせ、そのとおりになったという。

20世紀、世界は大きな飛躍を遂げたのだが、その契機は戦争だった。第1次世界大戦、第2次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争など、どの戦争でも、戦費調達のために、均衡財政の看板の看板を下ろし、金本位制を止め、国債を刷りまくって戦費を調達した。これは、景気拡大の良い処方箋だった。

結論としては、今はコロナという戦争だった。早急に、二つの法律を書き換えることだ。

以下は、実際ある、財政法と財務省設置法の条文である。

財政法 第四条 国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない。但し、公共事業費、出資金及び貸付金の財源については、国会の議決を経た金額の範囲内で、公債を発行又は借入金をなすことができる 前項但書の規定により公債を発行し又は借入金をなす場合においては、その償還の計画を国会に提出しなければならない。 第一項に規定する公共事業費の範囲については、毎会計年度、国会の議決を経なければならない。

第五条 すべて、公債の発行については、日本銀行にこれを引き受けさせ、又、借入金の借入については、日本銀行からこれを借り入れてはならない。但し、特別の事由がある場合において、国会の議決を経た金額の範囲内では、この限りでない。

財務省設置法(任務)

第三条 財務省は、健全な財政の確保、適正かつ公平な課税の実現、税関業務の適正な運営、国庫の適正な管理、通貨に対する信頼の維持及び外国為替の安定の確保を図ることを任務とする。 前項に定めるもののほか、財務省は、同項の任務に関連する特定の内閣の重要政策に関する内閣の事務を助けることを任務とする。  財務省は、前項の任務を遂行するに当たり、内閣官房を助けるものとする。

おしまい