デフレの30年間に「萎縮」した日本人 その1

2019年10月号 POLITICS [特別寄稿]
by 中野剛志氏(評論家)から

上のグラフは、1985年のプラザ合意を契機にする、バブルの発生と崩壊、円高不況による30年間の日本の低成長を示すものだ。

このプラザ合意によって、日本の為替は240円ほどから120円ほどへと倍に円高になった。上の表で、1985年と1995年では倍くらいにGDPがなっているが、これはドル建てで表記されているからだ。単位を「円」で考えるとやはり水平に近い。おまけに2010年からなんと!下降している。

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親爺は、新型コロナが始まった3年前、西浦教授が何も対策を取らないと、42万人が死ぬと言い、尾身会長が、コロナ専門病院が診療にあたり、保健所が中心になって患者を隔離するというコロナ対策を発表した時、世論は完全に反対!を叫ぶだろうと思っていた。

というのは、42万人が死ぬという根拠[1]が不足していたし、尾身会長が言う保健所が中心になって患者を入院させる体制というのは、データを囲い込むように感染症研究所へと中央集権的に集め、ワクチンや治療薬の開発を主導し、加えて、これまで陽の当たらない存在だった保健所の価値を上げたいからだろうと思った。こうした思惑は、政府にとっても、日本製の薬の開発が成功すれば国民の大きな支持を集められ、同じ動機があるはずだ。誰が見たってこう考えると思っていた。

しかし現実のコロナは、尾身会長らが予想したSARSやMARSのような規模は小さいが強毒性の病気ではなかった。 同時にアメリカなどはワクチン開発で先行しており、病原体を薄めて患者に注射する従来型のタイプのワクチンでなく、ファイザー社などが遺伝子を直接操作するmRNAという新発明のワクチンを登場させ、世界各国はこれを競って購入した。

このコロナに対するワクチン接種とマスク着用の奨励を柱にする対策は、被害が大きかった欧米をはじめとして世界中で解除されているのだが、被害がはるかに少ない日本ではなぜか今も続いている。

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このコロナに対する3年間の日本人の反応が、日本人の「委縮」ぶりを明確に表した。「意気地なし」、「何も言えない」情けなさなのである。

たとえばテレビのコロナのニュースが流す、町ゆく通行人のインタビューは、マスクをした人が写され、異口同音に「自分がコロナにかかって、老人たちに迷惑をかけてはいけないから、しっかりと自粛します。」みたいな優等生っぽい発言ばかりが放送される。「コロナがあろうとなかろうと、体力の衰えた老人は、昔から風邪が原因で亡くなっていた。コロナなんかただの風邪だ。ワクチンなんか打ちませんよ。」という声も他方であるのだが、こうしたトーンのインタビューは決して報道されない。

もちろん、こうしたことを言う知識人もいるのだが、地上波のテレビに出てくることはない。YOUTUBEですら、WHOの方針に反するということで、コロナを批判するとアカウントが停止されるので、ニコニコ動画などで発信したりしているが、そのような事情を知っている国民は少ないだろう。

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テニスのウィンブルドン選手でも、サッカーのワールドカップでも、観客はもうマスクなどしていない。例外は、中国だけだったが、大規模なデモが起こり中国政府は政策をウィズコロナに大転換した。残るは、日本だけである。

親爺は、このコロナで日本のヤンキーたちはどこへ行ったのか?と思うことがある。

《2022年4月のテレビドラマMG5》筋金入りのヤンキー家族の次男坊・難破剛は高校入学を機に、家族には内緒で普通の高校に通い、脱ヤンキーをめざすが……!? 激バカヤンキードリームコメディー!! ヤンキーがマスクするの?(親爺)

ヤンキーたちは、社会に背を向けてオートバイで、マフラーの爆音を鳴らしながら群れを成し、あるいは一人で夜の街を爆走していた。そうした社会に敵意を示す若者が、一定の割合でいるはずなのだが、そうしたヤンキーたちも、今回ばかりはマスクをしているようだ。ほぼほば、マスクをしていない若者たちを見たことがない。どうやら、ヤンキーたちすら、コロナで、自分を表現する居場所を失い駆逐されてしまったように思える。

小中学校の下校時、どんな子供達でもマスクをしている。やんちゃであろうが、ジャイアンであろうが同じく、マスクをしていない子供を見たことがない。

恐るべし、コロナが恐いという報道の浸透と世間の同調圧力!!

話が変わるが、地元の国立大学に合格した最近の受験生は、1~2月の合格通知に浮かれることなくすぐに入学に備えて勉強を始めると、塾を経営する知人が言っていた。

親爺の周囲の若者たちも至って品行方正だ。結婚した若者は、配偶者と家事を分担し、極めて道徳的に生きている。そして、テレビと同じように常識的なことを言い、奇をてらうような変わったことを言わない。

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このように日本人を羊のように大人しくしてしまった原因は、30年にわたる不景気にあり、この不景気が、つまるところ国民を「委縮」させてしまったようにしか親爺には思えない。

1945年の日本の敗戦の後、アメリカに占領され、朝鮮戦争を契機に日本は高度成長を果たすのだが、そのプロセスには、バラ色の成長の陰に、様々な労働運動や学生運動があり、烈しい主張の対立だけでなく、逮捕者や死者が山のように出た。

ところが、高度成長が進むにつれ、労働運動に参加することはダサいという風潮が広がり、学生運動が終焉するにつれ、政治を語るのはダサい、政治を語るめんどうな人物は、KYな(空気を読めない)人物と思われる風潮が広がった。

そうして、高度成長が終わり、バブルが起こりバブルがはじけ、デフレ不況だけが残った時、おそろしいことが起こった。

つまり、他人任せにしていても自分のパイの大きさが大きくなる時代は終わり、片一方で、国民の意識が変わり、政治や思想を語ることは、KYな人物のやること、大人はそんなことをしないという風潮が出来ていた。

おかげで、国民の大半の庶民は、自分より上の立場にあるものに忖度し、逆らわなくなった。「逆らっても何の得もない。」という、そのような意識が出来てしまった。職場でも、近所の付き合いでも、政治的なこと、建設的な意見を言うことは、損になることはあっても得になることはない。そうした感覚が蔓延している。

今の日本で、忖度なしに言いたいことを言っているのは、政治家や経営者など、相対的に強い立場にある者と、生活を失う不安がない気楽な金持ちたちだけだ。(わずかだが、自分の信念を賭けて発言する尊敬すべき人物がいる。)

● 政治家は、軽蔑しながら官僚たちを顎で使い、マスコミの記者たちへ、場面場面で恩を売ったり、媚びへつらったりして態度を使い分ける。

● キャリア官僚は、政治家に媚びへつらいながら、人事権を握っているノンキャリ官僚を軽蔑を露わにこき使う。ノンキャリ官僚は、キャリア官僚の顔色をうかがいながら、政策にもし疑問を持っていても、上が決めたことと諦め、自分の意思を曲げて、監督する立場の省庁や企業などの団体に指導名目で専横を振るう。

● 企業の採用担当者は、会社の経営者や上司に、まったく逆らえないのを自覚しながら、就職希望者の弱みに付け込み、性的関係を要求するものが現れるほど、専横ぶりを発揮することがある。

https://news.yahoo.co.jp/byline/ishiwatarireiji/20210603-00241219 ←近鉄採用担当者が就活セクハラ(YAHOO NEWSから)

● 最近表沙汰になった自衛隊のセクハラ事件では、若い女性隊員が、部隊の上司や同僚から、日常的にキスや胸を触られたりしていたことが明るみに出た。この事件では、5人が懲戒免職、4人が停職になっている。

● あちこちの交番の中で、夜勤で一緒になった男女の警官がセックスするという事件も報道され、すごいなあと思うが、もし同意がなければこれまた恐ろしい事である。

https://www.asahi.com/articles/ASQ792CXLQ78PTLC02H.html ← 朝日新聞の交番の記事

つまり、強い立場の者が弱い立場のものを蹂躙し、反面で、上司や強いものには意見すら言わないという風潮の社会になっている。

意見を言って波風を立てても、何の得にならないとすれば、誰も意見を言わないだろう。それが賢い選択だからだ。しかし、こうした循環が、日本の成長を阻害しているのは間違いない。

その1 おしまい

[1] 「新型コロナで42万人死ぬ」という西浦モデルは本当か 架空シミュレーションで国民を脅す「青年将校」(JBPRESS 2020.4.17(金)池田 信夫からコピー)《4月15日にクラスター対策班のツイッターで出た図》

エブリバディ・ノウズ【日本病】その6 いうのもばかばかしいので最後にします

主は、日本は病気だと思っている。ちょっと前に書いていたのだが、これをシリーズの最後にしようと思う。

一時、KYという言葉が流行った。周囲の「空気を読めない人物」という意味なのだが、思っていることをストレートに口に出すことは、「大人げない」「気配りができない」奴と社会では評価されない。逆に上司を「忖度」することが出世に不可欠な要素である。

主もサラリーマンだったので、その辺はよく理解できるが、今の日本は行き過ぎではないか。誰も上司に意見を言わなくなった。逆に不祥事が起こるたびに委縮し、コンプライアンスが厳しくなる方向に向かい、前に(生産性をあげる方向に)進んでいかない。

1980年以前は、世界中が学生運動と労働運動で騒然としていたが、権力者はこれらの二つの運動を弱体化し抑えただけでなく、こうした運動に参加する価値を無力化する雰囲気づくりに成功した。権力に刃向かうことが、スマートでないという雰囲気が、社会にできた。学生運動は完全に消滅したし、労働運動はカッコよくない、ダサいと見なされるようになった。労働組合の弱体化と労働分配率の低下に相関関係があるという経済学者もいる。むかし、ウーマンリブという言葉があったが、もちろん今では死語となり、女性は意見を言わず可愛らしくあることに高い評価が与えられる。男もそうだ。あれこれ、理屈を言うと嫌われる。日本で「大人になる」とは、意見を表明せず、我慢できるということだ。

こうした風潮は、既存の日本社会に広く蔓延した。マスコミの一部は、存在意義を放棄して政権の犬になっていることを隠さないし、公務員も国民の方を向いていないところを大っぴらに見せる。大手企業の不祥事は後を絶たず、経営者には生産現場が見えていない。見えていても、見えないふりをして自分だけは退職金をもらって逃げ切ろうとする。いたるところで、老害が蔓延している。「出る釘は打たれる」と忖度して、全国民がものごとをうやむやにしてきた結果、日本は世界から取り残されるところまできた。

こうした傾向をテレビの番組から二つ紹介したい。

一つ目。池上彰がトランプ、プーチン、習近平を解説した番組(下のリンク)に、アメリカ、中国、ロシア、日本の高校生が出ていて、日本人の劣化がよく見て取れた。日本以外の高校生たちは、流ちょうな日本語で自分の意見をはっきり主張するのだが、日本の高校生は控えめで穏健な玉虫色の発言で、発言してもしなくても値打ちが変らないことしか言えない。

今の日本のスポーツ選手たちは、マイクを向けられたときに上手に答えられるように子供の時から練習するでの、そつのない受け答えができる。スポーツの世界ならそれでいい。政治や経済を語るときは、全く違わないとおかしい。

NTV:池上彰・加藤綾子が世界を動かす3人のリーダーを解説!

二つ目。この夏(8/15)、NHKスペシャルで「ノモンハン事件 責任なき戦争」が放送された。何が責任がないんだろうと主は疑問に感じたのだが、戦争を遂行した上層部に責任がないということだった。ノモンハン事件を簡単に要約すると、太平洋戦争の前、1939年に満州国を防衛していた関東軍が国境のモンゴルとソ連を越境攻撃した結果、双方が戦争状態になり、日本側は死者2万人を出した。この経緯が番組で紹介されていたのだが、二つに要約できる。① 国際情勢を読み違え、敵の戦力の分析が十分でなく過小評価 ② 軍首脳の中での責任体制が敗戦まで不明(形式的な責任体制はあるものの、作戦失敗の責任は常に現地に負わせていた。冷静な総括ができない)

79年前、モンゴル東部の大草原で、日ソ両軍が激戦を繰り広げたノモンハン事件。ソ連軍が大量投入した近代兵器を前に、日本は2万人に及ぶ死傷者を出した。作家・司馬遼太郎が「日本人であることが嫌になった」と作品化を断念した、この戦争。情報を軽視した楽観的な見通しや、物量より優先される精神主義など、太平洋戦争でも繰り返される“失敗の本質”が凝縮されていた。しかし軍は、現場の将校には自決を強要した一方で、作戦を主導した関東軍のエリート参謀たちをその後復帰させ、同じ失敗を重ね続けた。

NHKスペシャル「ノモンハン 責任なき戦い」

日本でもLINE、ZOZOタウン、メルカリのような新興企業が成功していないわけではないが、既存の企業や社会は、相変わらずガラパゴス化し閉塞している。スタートアップと言われる新興企業自体がアメリカや中国よりはるかに少ない。こんな状況の中で、東京地検特捜部がカルロス・ゴーンを逮捕した。すでに20日近く拘置所に拘留されており、先進国から日本の拘留期間は長すぎる(人質司法)、取り調べに弁護士が同席しないのは後進国、まるで中世のようだと驚かれている。日本の刑事事件の有罪率は99.9%と言われる。有罪に出来る案件しか起訴しているという背景があるようだが、逆に言うとかなり悪質で限りなくクロの事件でも立件しないことが多い、えん罪がかなりの率で含まれていると言われる。例が違うが、電車で痴漢と言われて駅務室へ行き、警察に引き渡されると、裁判で否認しても99.9%有罪にされるし、取り調べ段階で否認すればずっと留置され、罪を認めて和解を勧められるという。こんな司法はあり得ない。 主は見ものだと思っており、先進国から集中砲火をあびて司法制度が変われば良いと思っている。

おしまい