第8章 恋人バッチェンと仲間たち

バッチェンとの出会い

サイレント映画《素晴らしいフランチェスカ》主演女優を演じたバッチェン

バッチェンとグールドが初めて出会ったのは、トロント王立音楽院の玄関ホールでグールドが17歳、バッチェンは24歳だった。彼女は、才気溢れる瞳が印象的で、黒に近い茶髪のブルネットを長く広がるように伸ばした小柄な美人だ。

二人が出会う3年前から、声変わりすらしていないグールドは、毎年行われるカナダのキワニス音楽祭のコンクールへ出場したあらゆる部門で、年長者たちを押さえ優勝をさらっていた。また、カナダ最高のトロント交響楽団とベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を協演し、ピアノソナタ《テンペスト》でプロになった学内のひときわ有名人だったから、バッチェンは彼をよく知っていた。

グールドの両親は、コンクールへ出ることで息子を消耗させることはしまいと決めていたのだが、キワニス音楽祭は本格的な音楽家への登竜門というより国を挙げた音楽の祭典という性格があり、グールド一家は収入もあり父バートはキワニス音楽祭の役員を務めていたので、グールドの出場はプロを目指すための登竜門としての音楽コンクールとは違い、当然の成り行きだった。

後に「諸悪の根源は、一般にお金でなくて競争にある[1]」「演奏は競技ではない。恋愛である。[2]」とグールドはいうのだが、まだティーンエージャーの初期だった彼は、そうした意識はまだなかった。そのために、音楽祭での優勝は、自分が偉くなったように感じて気楽に満足していた。

グールドはこの17歳のころになると、子供の域を脱し青年へとなりつつあったが、態度は自信にあふれ、威張るわけではないものの、傲慢さにはますます磨きがかかっていた。

バッチェンは、グールドとの出会いを、ほぼ一目ぼれだったと後に回想している。

「女性が男性に惹かれる理由はなんでしょうか?彼はハンサムで知的で、セクシーで、自分をコントロールできる大きな才能がありました。単純に彼は、とても興味をそそりました[3]

周囲の友人たちは、彼が孤独で世界一の音楽家を目指すとんでもない夢想家だ、彼にかかわるのは身の破滅になるとバッチェンに警告した。しかし、グールドと同様にバッハや現代曲で2つ以上の多声が同時に聞こえる対位法的な音楽が大好きで、前向きな性格の彼女は恐れることがなかった。

バッチェンは、1925年、サスカチュワン州のルーローという町で生まれた。この町は、約1400キロ離れた中部のウィニペグと西部のカルガリーの中間にあるわずか人口1,000人ほどの小さな町でもともと貧しい町であり、農作物も満足に収穫できない土地だったが、バッチェンは「建物の氷柱を拾ってなめて」遊び、楽しい時代だったと振り返っている。

彼女の両親は6歳のときまでに亡くなり、2人の兄とバッチェンが残された。3人は、父の故郷の英国、スコットランドで別々の叔母たちに育てられることになった。

二人の兄はともに英国空軍に入隊したのだが、不幸にも相次いで訓練中の事故で亡くなりバッチェンは天涯孤独の身となる。

バッチェンは、15歳のときにベッドでタバコを吸うようになる。最初は、ハバナのタバコを吸いかなり強かった。のちにバッチェンはラッキーストライクを生涯吸い続けた。

ラッキーストライク

バッチェンがピアノと出会ったのは、13歳の頃で、近所の人がシューマンか何かの曲を叔母の家にあったアップライトピアノで弾き、それに衝撃を受けたのがきっかけだった。不安感と余裕のない気持ちをいつも抱いていたバッチェンが、音楽が気持ちを和らげてくれると気づき、音楽が彼女の目標になった。

彼女は、1940年代の遅くにカナダ、モントリオールへ戻った。そこで1年間働いたあとトロントへ移り、奨学金を得て、王立音楽院でベーラ・ボシェメニ・ナギー[4]とグールドの師でもあるアルベルト・ゲレーロからピアノを学ぶようになり、プロのピアニストを目指していた。

この時17歳のグールドのピアノの演奏技術は、すでにカナダで人気を集めはじめ賞賛されるようになっていた。しかし、グールドの友人たちがガールフレンドを誘ってパーティーへ行き始めても、彼はあいかわらず童貞のままだと思われていた。彼はガールフレンドどころか、ステーキ1枚も焼けず、パーティーは開けず、夜に女性を連れ出す姿は想像すらできなかった。実際、パーティーへ行くのにいつまでたっても自宅から母親に車で送ってもらい、友人から笑われていた 。[5]

「いかにモーツァルトはダメな作曲家になったか」

グールドの性はナイーブなままだったが、トロント王立音楽院では、いつも注目をあび、カフェテリアでも有名人だった。背も十分に成長していない子供のグールドが、絶賛こそすれ誰も否定しない大作曲家、モーツァルトを徹底的にこき下ろすのだが、彼の主張は音楽を学ぶ学生たちの関心を大いに引いた。

カフェテリアで、グールドは年上の大多数のモーツァルト信者に向かって興奮しながらまくし立てていた。

「モーツァルトは、死ぬのが早すぎたんじゃなくて、遅すぎたんだよ。彼は、おんなじパターンを繰り返してひょいひょいと作曲していただけだよ。次はこうだと簡単に予想できるね。作曲家としてはダメだった。演奏者としては素晴らしかったけどね。」

グールドは、コンサートを引退した後の1968年、36歳の時に、「いかにモーツァルトはダメな作曲家になったか[6]」という全米向けのテレビ番組を作っている。35歳で早逝したモーツアルトを、「死ぬのが遅すぎた」と言い、《クリシェ》というフランス語のキーワードを使ってモーツァルトを徹底的に断罪するのだった。

《クリシェ》というのは紋切り型とか、乱用の結果目新しさが失われた、常套句、決まり文句などという意味のフランス語である。モーツアルトが生んだこの世のものとは思えない美しい旋律の移ろいを《クリシェ》だと断定し、さらにモーツァルトの書いた展開部[7]については、「モーツアルトが展開部について学んだことは決してなかった。だって、当たり前だけど、展開するものがなければ、展開部を書かないで済むからね。[8]」というのだった。

ところがその番組の最後で、ピアノソナタ第13番K333を全曲をとおして弾くのだが、どの楽章にもメリハリと小さなサビがあり、最後に大きなクライマックスがある感動的な演奏を聴かせる。彼は、実のところ、楽譜に新たな音符を加え、内声部[9]を創作し「曲が良くなったかは別として、ビタミン剤を注入した。1と言い、他の演奏家が弾く当たり前のモーツァルトとはまったくかけ離れた、溌溂とした見事な演奏を披露した。

ニックネーム

グールドは子供時代、無邪気に、セキセイインコにモーツァルト、金魚にショパン、ハイドン、バッハ、ベートーヴェンなどと作曲家の名前をつけていた。また、シムコー湖にある2艘のモーターボートには、現代曲の作曲家、アーノルド・シェーンベルクにちなんだ《アーノルドS号》、アルバン・ベルグにちなんだ《アルバンB号》と呼んでいた。

グールドとバッチェンは、二人が知り合ったこの頃も子供時代と同じように、バッチェンを《ファウン[10]》、グールドを《スパニエル》とニックネームで呼びあっていた。《ファウン》とは、ローマ神話に出てくる上半身が人間、下半身が山羊の姿をした森の神である。《スパニエル》は犬の種類で、今では家庭犬だが、鳥の猟に使われた利口で運動量の多い中小型犬だ。

一方、父は、すぐに死んだふりをして臆病者という意味のフクロネズミの《ポッサム》、母は平凡にネズミの《マウス》だった。

こうしてあだ名を並べてみると、バッチェンは崇拝の対象である女神なのに、両親はぱっとしない臆病な小動物である。グールドの《スパニエル》は、彼の頭をバッチェンの膝の上に乗せ犬のように撫でていたからだった。

二人が親密になるにつれ、グールドはバッチェンを崇めるようになり、両親への敬慕の念は薄れはじめていく。

年上の従姉ジェシー・グレイグ

一人っ子である13歳のグールドところに、18歳の従姉ジェシー・グレイグが下宿をしにやってきた。両親は、彼女をグールドの姉代わりにしようと案じたからだ。思春期を迎えたかなり孤独な息子に姉をもたせるのは、名案に違いないと考えたからである。ジェシーはトロントの北東約70キロにあるアクスブリッジに住み、トロント教育大学で教師を目指していた。最終的に、ジェシーは、グールド一家と同じ州のオンタリオ州のオシャワ[11]で小学校の教師になる。

ジェシーは言う[12]。「わたしたちは本当に親しかったのですが、親しくなれたのも、わたしがあの家に下宿したおかげなのです。」「グレンは、ちょっと気まぐれでしたが、とても社交的な子でした。社交的というのは、どんな会話にも加わることができたという意味で、そして実際会話に入ってきました。彼は何にでも興味をもっていました。それに何事にも自信満々でした。知識欲の旺盛さと言ったらもう、まったく尽きることがありませんでした。」

実際、グールドの両親の狙いどおり、ジェシーはグレンに物事を教え、面倒を見てくれた。そして彼と言い争いもしたし、彼に愛情を注ぎもしたのである。

「ある晩のことですが」とジェシーはエピソードを一つ語った。

「台所の床を磨き、ワックスをかけ、野菜を煮始めました。おじとおばは夕食後に外出するつもりでしたので、わたしは言いました。『お皿はわたしが洗うわ。』と。すると、『グレンが手伝ってくれるよ。』と言うおじたちの返事。二人が出かけたあと、グレンは水を出して、ワックスを塗ったばかりの床に水をはねかけた。わたしを怒らせるためにです。それでわたしは彼を追いかけました。流しの下のワックスのついたボロ布をつかんだわたしは、グレンを階段でつかまえ、顔にワックスを塗ってやりました。よく子供どうしがやるように。彼は大騒ぎでした。黴菌(ばいきん)にやられて死んじゃうよ、って言うのです。」
「絞め殺してやる、と言われました。グレンの好きな決まり文句でした。 ― わたしは二階へ駆け上がり、バスルームに逃げ込むと、ドアに鍵をかけました。彼はわたしの部屋へ入り、学校のノートを手に入れるとページを1枚ずつ引き裂いては1時間毎にバスルームの下から差し入れるのです。わたしは言い続けました。『グレン、わたし落第しちゃうわ。』『かもうもんか。ジェシーくらい勉強したら、ぼくなんか今頃はもう大学を卒業しちゃってるよ。』そしてさらにページを1枚引き裂き、ドアの下から入れました。するとそのとき、自動車の戻ってきた音が聞こえました。わたしたちは二人ともそれぞれの部屋に駆け込んだのですが、彼はそのまま服も着がえずに眠ってしまいました。翌朝、母親が尋ねました、『夕べはどうだった?』と。グレンは答えました、『べつに、いつものとおりさ』」

夏目漱石の「草枕」を読んで感動したグールドが、2晩に分けて電話口でまるまる本を1冊読んだのも、このジェシー・グレイグだった。

グールドは晩年には、よくオシャワにジェシーを訪ねた。この従姉の回想によれば、グールドは、「靴を脱いで長椅子の上で丸くなり、ポット何杯ものお茶を飲みながら、いくつもの逸話を教えてくれ、当てっこ遊びをし、家族の近況を話し合った。また生きいきとした描写で、わたしの理解をはるかに超えるような精神世界へと引き入れてくれた。そういうときのグレンはわたしを自分とまったく同等に扱い、こちらの気分を傷つけたり、偉そうにすることは決してなかった。」[13]という。

グールドと母のフローラの関係について、グールドは、大人になってからは表向きフローラを冗談でからかい否定するようになるが、その実、彼の内なる自己の共有を許していたとジェシーはいう。楽しい夢や悪夢、成功や失敗、演奏会とその批評、自分が立案したラジオ、テレビ番組、出版したあらゆる野心と挫折、― 1975年に死別するまでグレンはそうした事柄についてフローラに話していた。[14]

ジェシー・グレイグは、グールドを描いた短編映画集の「グレン・グールドをめぐる32章」に出演している。32章というのは、もちろんバッハの《ゴルトベルク変奏曲》の30の変奏曲と2曲のアリアを加えた数からきている。彼女は、グールドをこう語っている。

映画「グレン・グールドをめぐる32章」から

ジェシー・グレイグ『従姉』(Jessie Greig Cousin)

「死ぬ1週間前のことでよく覚えています。こんなによく覚えているのは妙ですね。いつも私たちは軽口をたたき合って冗談ばかり言っていましたから。でもその週に限ってすべてが深刻でした。誕生日が来るのは止められないし、どんどん力が抜けていくと言いました。『人がお葬式に来てくれるか』なんてことばかり気にしていました。そんな話をするのは初めてでした。こんなことも言いました。『ハックルベリー・フィン[15]のように自分の葬式に出たい』『誰も来てくれないだろうから』って。人に好かれてるとは思っていなかったんです。レコードの売れ行きや、特に日本でよく売れたのは知っていました。ヨーロッパや東洋では好調でしたが、自分をそんなに重要人物とは思っていませんでした。自分の名声を自覚しているようには見えませんでした。少なくとも私には実に謙虚な人でした。教会に押し寄せた人を見て、私は思わずにいられませんでした。『グレン あなたは初めて間違えたわね』彼は常に自分が正しいと思っていましたから。」

グールドの死後、ジェシーはまた1992年の秋にCBC(カナダ公共放送)で、『グレン・グールド:ラジオの祭典』(Glenn Gould: A Radio Celebration)というテレビ番組に出演していた。グールドが生きた時代は、ラジオの全盛期を経ていた。

この番組では、グールドの13歳と50歳の誕生日について、ジェシーは「すべての家族が誕生日を祝うような方法で祝ったが、その時でさえ、グレンは参加したくなかった。彼は恥ずかしがっていて、確かに誕生日という単純なことに対する騒ぎが好きではなかった」と述べている。

ジェシーのコメントを聞いたバッハ研究家・ピアニストのペニー・ジョンソンのグールドへの思い

ペニー・ジョンソン

このジェシー・グレイグの発言を引用するかたちで、カナダ人の女性ピアニストのペニー・ジョンソンが、グールドについて感じていることをブログに書いている[16]。ジョンソンは、ドイツで開催された第8回バッハ・ピアノ・コンクールの準決勝進出者であり、ソリストとして活動している。また、バッハの音楽に特化したYOUTUBEチャンネルを運営し、グレン・グールド財団の寄稿者でもあった人だ。

ジェシー・グレイグは、その番組の中でグールドが50歳の誕生日についての思い出として、カナダの画家、デイヴィッド・ミルン[17]の絵に非常に惹かれていたとも語っている。

「ミルンは1940年代初頭に(グールドの父バートが生まれた地であり、ジェシーが住んでいた)アクスブリッジに住んでいましたが、グレンはその絵のいくつかを手に入れたがっていました。1982年の秋に、カナダ政府はミルンの絵をモチーフにした切手を発行し、(ジェシーの)姉のベティ・マディルが10枚の切手を購入し、これがグレンの誕生日にあげられるすべてだと断ったうえで、本物の絵ではないけれど、代わりのこれで我慢してと、誕生日カードを添えて送りました。それでグレンはそれについて笑いながら、彼女に電話をかけると言っていたのですが、私は、彼がそうできるほど長く生きられなかったと思います。」と語っていた。

ジェシーが電話をかけられなかったと言ったのは、グールドが同年10月4日脳卒中で突然、亡くなったからである。

このデイヴィッド・ミルンの『赤いレンガの家、1931』は、1982年6月30日にカナダ建国記念日のためにカナダ政府が発行した切手だった。

ピアニストのペニー・ジョンソンは、グールドの誕生日に対する嫌悪が、彼の全体的な性格、つまりライブパフォーマンスの放棄、限られた人だけに接触を望む性格や、そして《ソロー風》の孤独と自然への愛と同じものに由来すると考えている。

この《ソロー風》のというは、グールドのお気に入りの1冊であるヘンリー・デイヴィッド・ソローが書いた「ウォールデン、または森の生活」[18]に、この核心があると言う。ソローは、19世紀にアメリカ、マサチューセッツ州コンコード郊外のウォールデンという沼のほとりに掘建て小屋を作り、自給自足的な独り暮らしをし、実験的自然生活をした人物だ。

画家のデイヴィッド・ミルンも、著作家のソロ―同様、生涯を通じてシンプルで簡素な生活を求め、「何もかもが必要最小限を超えると我慢がならなかった」と述べている。また、「彼は所有物を避け、自然に近い生活をした」ともある。彼は当然のように『ウォールデン』に影響を受け、「このカナダのソロー」は「論理的で、知的で、客観的な」アプローチを追求した。

その特徴は「スタイルの経済性」である。つまり、すべてを必要最小限へとシンプルなまでに圧縮し、それを燃やすのではなく爆発させることである。

ミルンとグールドは年齢が50歳も離れていたが、前者が後者よりも、言い換えれば頑健であった(端的にいうと、グレンは屋外での過酷な生活には向いていなかった)、これらの2人の深く霊的なアーティスト ― 1人は画家で、もう1人は音楽家 ― は共に孤独の中で成功した。デイヴィッド・ミルンは「自己発見の手段」として孤独を利用し、グレン・グールドは「恍惚な体験の前提条件」として孤独を利用したと言う。

ペニー・ジョンソンは、オンタリオ美術館が作成したミルンの短編ビデオを見て、グールドの信念と類似していると感じた発言を抜き出している。

  • 「私は、多くの人を死にいたらしめる孤独や無視で成長する」
  • 「私は独りであり、これは芸術上の問題に取り組むのに最適な荒野だ」
  • 「私の仲間、いくつかのシマリスや鳥やフクロウやヤマアラシがいなくて寂しい…」
  • 「暗い夜に荒涼とした場所で、強風の中で独りぼっちでいる感じはまだ残っている。寂しいと感じるわけではない、それに興奮して満足している」
  • 「荒野で一人で暮らすと、慎重になる必要がある。それは必須だ」
  • 「私はまた、僅かでシンプルなものに対する嗜好により、必要最小限を超える所有物に対するほとんど異常な嫌悪感や、我慢できないという感じにまで広がっている。私は、自分のアートにおけるシンプルさの傾向が、遺伝的な質素さ、またはけちんぼさを、より魅力的な媒体へと変換したものだと考えるのが好きだ」
  • 「絵を作るものは、ダイナマイトを作るものと同じで、それは圧縮だ。それは草の中の火ではなく、爆発だ」

彼女は、言う。

この最後の引用は特に深く考察されており、それはグレンの作品にも同様に適用できると思います。つまり、圧縮は効率性を示唆し、スペースを作ること、特定の構造を締め付けるかコンパクトにすることです。ミルンの作品が「スタイルの経済性」でこれを展示する一方で、その「制限されたパレット」と「線と形に焦点を当てる」(再びマーシャル・ウェブから引用[19]して)特性は、グレンの作品においても、彼のピアノ演奏におけるバッハや他の作曲家の対位法作品に対する明瞭な発音とペダルの乾燥感に関連する線と形に同様の焦点を当てると言えるかもしれません。さらに、圧縮はグレンが晩年において遅くて計画的なテンポを好んだこと(例えば、J.S.バッハのゴルトベルク変奏曲の1981年と1955年の録音)を説明するのにも使えるかもしれません。
ミルンの「制限されたパレット」の用法はまた、グレンが灰色を愛することを思い起こさせます。1980年に撮影された映画「グレン・グールド、J.S.バッハのフーガの技巧」で、グレンは「これらの楽曲には無限の灰色の緊張が含まれている。それは賞賛の意味で言っている、なぜなら私は灰色が大好きだからだ。アルベルト・シュヴァイツァーも実際、素晴らしいことを言っていた。彼はそれが『静かで真剣な世界で、人気(ひとけ)がなくて厳格で、色も光も動きもない』と言っていた…それは私が言わなければならない最後の一つについて感じていることをかなりよく要約している。」
さて、グレンが最も手に入れたかったデイヴィッド・ミルンの絵画はどれだったのかという問題が残ります。彼が好むような色を提供するものはいくつかあります。アルバムのカバーに1つ使いたかったのかもしれません。そう考えると、グレンがアルバムのカバーを決定する際にどのような役割(もしあれば)を果たしたのか疑問です。というわけで、彼の1981年の「ゴルトベルク変奏曲」のカバーが「優しい降雪(Gentle Snowfall)」というような絵画によって取って代わられていた可能性も考えられるという思いで締めくくりたいと思います。ええ、それはわたしが好きなものです。
David Milne’s Gentle Snowfall
(National Gallery of Canada)

その他のデイヴィッド・ミルンの作品(Wikipediaから)

唯一の友人ロバート・フルフォードとグールド一家

普通学級にはほぼ友人のいないグールドだったが、ウィリアムソン・ロード小学校に通う9歳の時に、唯一の友人といっても良いロバート・フルフォード[20]が隣戸に引っ越してきた。フルフォードも、非凡な才能に恵まれた子供で、文学的で知的な関心がつよく、音楽通でもありグールドとよく波長が合った。フルフォードは、成人してからグローブ・アンド・メイル新聞社をへて、やがて人気のジャーナリストとなり、雑誌サタデー・ナイトの編集者となった。グローブ・アンド・メイル新聞はカナダ最大の日刊紙であり、雑誌サタデー・ナイトは、カナダのもっとも古い一般誌である。

フルフォードは、グールドとの出会いを自身の著作、「一家の特等席 – 幸運な男の回想」で次のように書いている。

ある日、ウィリアムソン・ロード・パブリックスクールのクラスで、私の前列の小さな男の子が振り向き、僕はグレン・グールドって言うんだ、と名乗った。お互いもうすぐ近所同士になることを知った。私の一家はサウスウッド・ドライブ34番地を借りたばかりで、そこは彼の家の隣だったのだ。ほどなく私たちは互いに訪ね合うようになる。そしてグレンがただの9歳の少年でないことはすぐにわかった。

グールドとフルフォードとの付き合いは10年間で終わる。関係が断絶した原因はわからない。グールドは、友人づきあいをしていても、ある日突然にそれを断ち切ってしまったからである。つまり、何か嫌なことや我慢できないようなことがあったり、女性関係を詮索されたりすると、すぐさま関係を断った。友人の側からすると、グールドとの関係が切れてしまうのに、心当たりがないのだった。

グールドが、突然友人との人間関係を断ち切ってしまうことを、フルフォードは、同じ著作で次のように語っている。彼自身も、その心当たりのないまま関係を切られた犠牲者の一人だった。

グレンは、自分が孤高の存在であり、人間的な交流や親密さは一切不要だったというイメージ作りに励み続けたが、現実には触れ合いを渇望していた。もちろんそれは常に彼なりのやり方ではあったが、しばしば他人を自分の圏内に引き込むことに成功したのである(のちに私を引き込んだように)。グレンはたいへん魅力的で、おもしろく、知的だったために、人々は惹かれた。自分が主導権を握り続け、すべてが自分の思いのままになる限りにおいて、人々が寄せる関心を享受したのである。そうした調子で、彼は友人に無理な要求もした。そして、これは避けられないことだったが、グレンが耐えられないような批判や見方が示されたとき、彼はすぐにその関係を断ったのである。[21]

フルフォードは、グールドと少年時代からのつきあいで、家へもしょっちゅう遊びに行っていたので、一家の様子をよく観察していた。「グレン・グールド伝」を書いたオストウォルドが1994年のインタビューで聞いている。

「わたしは、グレンが好きでした。絶対にしてはいけないのは、彼を『いくじなし』とののしることでした。子供はそうしたきつい言葉を使いますが、そういう言葉を浴びせられるほどたくさんの子供と親密になったことが彼にあったかどうか、私は知りません。近しい友だちはあまり多くはなく、わたしは少年時代の彼のいちばんの親友でした。放課後、ほかの子どもたちとたむろして冗談を言い合ったり、それこそ他人の悪口を言ったりするようなことはグレンには1度もありませんでした。本当にそういう経験がなかったのです。グレンが街角などで同じ年頃の子供たち3人や5人に混じって突っ立っているところを見た記憶はありません。わたしにとってはそういう交わりこそ子供の頃いちばん楽しかった思い出ですけれどもね。」

グールドは終生、精神的な不安を抱えていた。

「ヒポコンデリーが人から引き継がれるものだとすれば、誰が元凶かは明らかです。母親がいつも彼の顔色を気にしていたのです。グレンは顔が白すぎた。母親はそのことを心配していました。そしてこう言ったのです。『食べなさい、これこれをもっと食べなさい、これをやりなさい、あれをやりなさい、外へ出て日に当たりなさい、どうしてフルフォードと外で遊ばないの?』と。」

グールドの他の友人2は同じ1994年のインタビューでこう言っている。

「子供ころから彼は病原体を恐れていました。誰かが少しでも具合が悪くなれば、そばに寄せつけませんでした。病気にかかることをひどく恐れていたのです。母親も彼を人混みに近づかせませんでした。カナダ全国博覧会など、人が大勢集まる場所に行かないように言い聞かせたのです。」

フルフォードは、一家3人の関係をやはり「一家の特等席 – 幸運な男の回想」で次のように書いている。

「数日一緒に過ごしているうちに、この家族の絆がいかに強いかがわかり始めた。わたしの家族の場合、愛情やその反対の感情は7人のあいだで拡散してしまうが、グールド家は3人しかおらず、愛情や緊張の線はぴんと張りつめている。グレンは昔ながらの一人っ子で、徹底的に監視されていると同時に過保護で甘やかされていた。彼がわたしに説明してくれたところによれば、シムコー湖畔の別荘では、彼が一晩母親と眠ると、次の晩は父親が母親と眠ることになっていたそうで、この取り決めは数年前から続いているという。
一家は、キリスト教の家庭で、どんなののしり言葉も恥ずべきものとして強く戒められた。… 同世代の男性の仲間の中で、彼だけが決して猥褻な冗談を言わなかったし、女の子の性について話すことも、『ファック』という言葉を口にすることもなかった。」

オストウォルドは、フルフォードに1994年のインタビューでグールドの父母について聞いていた。

「母親があらゆるエロティックなものに嫌悪を示したことに起因します。彼女はおそろしく魅力のない女性でした。やせこけていて - 顔はキュービズムの絵のようで、きつく、斧みたいでした。エロティックなものと隣り合うようなものからはすべて距離をおかなくてはならなかったのです。ときどき兄とわたしが卑猥な言葉を使うと、グレンはひどく腹をたて、わたしたちに説教をし、やめるように言いました。脅すことだってありました。 - 従わないと、『もう家に来ないでね』と言われたのです。母親の真似です。彼の母親はいつも言っていました。『そんな言葉を使ってはいけません』と。彼はそれを受け入れ、どうも信じて疑わなかったらしいのです。地球上の10代の少年では考えられないことですが、グレンは女の子の肉体に関心を示す言葉を一切口にしませんでした。」
「グレンはいつも母親に強い親近感を抱いていました。母子の関係と圧倒的な母性が完全に支配していことを意味します。バートは、望んでいたほどに息子とは親密になれなかったと思います。バートがグレンの親密さを思いどおりに味わえたことは1度もなかったはずです。この父親が息子に注いだ愛情は本当の意味で報われることはありませんでした。」
「父親は、ぶっきらぼうで、話しべたで、淡々とした人でした。かれはそのぶっきらぼうさに似合う小さな口髭を生やしていました。怒ることもありましたよ。『それはだめ』とか『そんなことをしてはいけない』と - きかんぼうの子を扱う父親のやり方です。でも男らしい肉感的な魅力は何も覚えていません。同居する強烈な人物2名に圧倒され気味だった、という印象を誰もが受けました。彼はグレンが殺すことを嫌悪していたからという理由で釣りをやめなくてはなりませんでしたよね。思い出すたびに悲しい気持ちになりますが、彼はそうやってグレンに命令されることに甘んじていたのです。同時に彼は息子がたいへんな自慢で、その教育のためなら何でもしました。」

フルフォードは、子供時代と青年期の二つの時期を過ごした数少ない友人であり、グールドが国際的なピアニストになる直前、トロントでコンサートを企画しチケットを販売し、グールドがピアノを演奏するという事業を一緒にはじめた。

1952年の春、二人が19歳のときに会社「ニュー・ミュージック・アソシエーツ」を設立し、音楽院のコンサートホールを使って合計3度のコンサートを開いた。フルフォードが、ホールの借用、切符の販売、宣伝、会場の案内係のリクルートと会計係を担当し、グールドが音楽全般を担当した。

その時すでに高校を中退していたフルフォードは、その時すでに、グローブ・アンド・メイル新聞のスポーツ記者になっていた。グールドも高校を体育の必修単位を満たさず卒業しなかったが、親友フルフォードの影響を受けていたことはじゅうぶんに考えられる。

コンサートの目的は、20世紀音楽の企画であり、初回はアルノルト・シェーンベルクの追悼、2回目はさらに野心的で新ウィーン学派全体を演奏した。この2回目の曲目はほとんどがカナダでは初演だった。シェーンベルクでは、歌曲や弦楽四重奏曲、《ナポレオンへの頌歌3》の語り手までもが登壇した。

どちらのコンサートでも、空席が目立った。グールドが選んだ曲目は、地元の聴衆にはむずかしすぎた。地元の新聞テレグラムは見出しに「赤ちゃんのリズムの練習の方がこれよりまともに聞こえる。」と酷評した。

プログラムのリーフレットに、グールドは1回目には、シェーンベルクの音楽の展開ついてのエッセイを書き、2回目には「アントン・ウェーベルンの真価」と題した難解で冗長なエッセイを書いた。演目の解説を普段自分で壇上からするグールドだったが、1回目のときには、CBCのアナウンサーのフランク・ハーバートが代読し、観客は何を言っているのか分からなかっただけでなく、話者も理解していないことも観客に伝わった。実際、ハーバートは、代読した原稿はほとんど一語も分からなかったと認めた。[22]

3回目は現代曲から一転して、バッハ・オールプログラムを組んだ。この日、ハリケーン・ヘイゼルが来襲し、観客はわずか15人しかいなかった。しかし、このときグールドは、バッハの〈ゴルトベルク変奏曲〉に熱心に取り組んでおり、この曲を披露した。この不運な演奏会には、カナダの才能のある若手コントラルト4、モーリーン・フォレスターも出演した。彼女のトロントのデビューだった。フルフォードは、「わたしがエージェントに払った出演料は、当社としては最高額だったと思う。50ドル(2023年現在価値PER Capita GDP換算で1,709ドル≒24万円である。」と回想録に書いている。ほとんどがらがらの空きの建物に拍手が響いた。拍手をしたひとりは、トロント王立音楽院の院長であり、《ラルゴ卿》の異名をもつトロント交響楽団の指揮者サー・アーネスト・マクミランだった。

このバッハの演奏会で財政的に大きな痛手を被ったわけではまったくなかったものの、とにかくニュー・ミュージック・アソシエイツはこれで終わった。

フルフォードは、グールドと出会った1940年代の一家の経済状況をやはりオストウォルドへのインタビューで次のように語っている。

「グールド一家は、両親とも音楽を愛好し、キリスト教への篤い信仰を持っていた。父バートは堅実な経営で毛皮商を営み、おかげで十分な経済的成功をおさめていたが、価値観は旧弊に囚われたままだった。母フローラは、礼節を重んじ衝突と常軌を逸したものすべて嫌悪していた。一方、フルフォード一家は、父親が新聞記者で酒好き、各地を転々としニューヨークで暮らしたこともある。母親はオタワの書籍業者の娘だった。グールド一家は地元密着型であり、フルフォード一家は、当時としてはどちらかというとまだ珍しいコスモポリタン的で進歩的といってよかった。」

ただしグールド一家の経済力とは格段の差があった。グールド家は裕福だった。

「グールド家は私たちの住む街の水準からすると、非常に裕福だったと言えます。当時、グールド氏が私の父に、うちでは息子の音楽教育に年間3,000ドル[24](2023年と1945年対比PER Capita GDP換算で147,313ドル≒2,623万円)使っている、と話しました。何とそれは父の年収と同額でした。つまり、住宅費、食費、衣料費のほかに教育に3,000ドル使えた。グールド家に比べたら我が家は実に貧乏だったわけです」

グールド以前にグールドだったマルコム・トゥループ

他にもグールドの思考に大きな影響を与えたと思える人物にマルコム・トゥループがいる。

13歳の秋からグールドは、午前中、マルヴァーン高校[25]に通うようになるのだが、グールドは、トロント王立音楽院にも在籍し、午後にはゲレーロの指導を受けていた。

グールドと同じようにゲレーロの生徒でもあり、この二つの教育機関に通う2歳半年長のマルコム・トゥループ[26]がいた。マルコム・トゥループもプロのピアニストになるのだが、その風貌や振舞が過激で変わっていた。彼はトロントの英国人の両親のもとに生まれ、9歳で作曲を始めた。17歳のときに、CBCトロントオーケストラとルービンシュタイン協奏曲第4番ニ短調でコンサートデビューし、華麗で大げさなふるまいをして才能もあった。

このトゥループは、よく穴の開いた靴下やかなり汚い服を着て学校にやって来た。みんなに服装で注目してもらいたがった。また、彼はかなりの変人で、何事につけ過激だった。論争好きで、難解なテーマについて熱のこもった長い文章を書き、クラス全員に向けて読んでいた。グールドは、じっと聞いているだけだったが、彼にショックを受け尊敬もするようになった。

トゥループは、ときには思い切り派手な服装でピアノを芝居がかって弾いていたが、常に自分独自のスタイルを守って演奏した。フランツ・リストの曲を鍵盤に身を乗り出すような姿勢で、愛撫するように弾いていた。

周りの人たちにショックを与え、驚かせるのが好きだったトゥループは、1950年代にCBCテレビの生放送の番組で発言の機会を得た。このとき彼は自分の意見を説明するために、大胆にも「マスターベーション」という言葉を使った。
それは、「世間は本物のかわりに、《マスターベーション用》のオモチャに関心を持ちすぎだ。」というような内容だったが、生放送でこれを聞いたまわりの人たちはさすがにギョッとなった。

一時は、グールドとトゥループは親しくなり、二人でシムコー湖の別荘でピアノを一緒に弾いていた。トゥループに対するグールドの称賛は長く続き、グールドがすでに成功していた1973年に、トゥループをマニトバ大学の音楽部長に推薦する手紙を書いている。

「ピアノの巨匠としてのトゥループはまた、グールドがグールに似る以前のグールドにそっくりだった。」5

恋人は映画《素晴らしいバッチェン》の主演女優

ピアノの演奏ではグールドが先行していたが、バッチェンは美人で明るく、魅力に溢れ、若い芸術家グループのなかで、気配りができ思いやりあふれるまるで女神のような存在だった。

彼女は、ダウンタウンの北側のアスキス46番地にある質素なレンガ造りのアパート[27]に住んでいた。そこには貧しいが、将来有望な芸術家の卵たちが住むたまり場で、彼らは色とりどりの服装や奇抜な服装をして時代の先端を行き、ボヘミアンのようにルールに縛られない自由なライフスタイルで暮らしていた。

スチュアート・ハミルトン

バッチェンは、そのアパートでスチュアート・ハミルトンという、男の友人と部屋をシェアしていた。スチュアート・ハミルトンは、最終的にオペラ歌手の歌唱指導やピアノ伴奏者になるのだが、当時はグールドと同じように、彼もゲレーロにピアノを教わっていた。他にも、芸術家を目指している2人の若者が住んでいて、彼らは音楽家と映像作家やアニメ作家として、アーティストとミュージシャンを目指し実験的な試みに取り組んでいた。やがて彼らは、新しい時代の芸術家としてカナダを背負っていく。

https://www.ludwig-van.com/toronto/2017/01/01/in-memoriam-stuart-hamilton/ から(スチュアート・ハミルトンのHP)

彼らは毎週金曜日の夜に集まり、フラニー・バッチェンに敬意を表し、その集まりを「フランチェスカ(バッチェン)・サロン」と呼んでいた。そこでピアノを弾き、音楽を聴き、かなり重い文学作品を読んだりしていた。バッチェンは、そこで皆の雰囲気に心を配りながら、ホステス役をしていた。

また、バッチェンを主役にした16mmのパントマイムのサイレント映画が作られた。題名は、《素晴らしいフランチェスカ(バッチェン)》[28]だった。この映画は、曖昧な筋の物語と大げさな出来事の連続で構成されたマルセル・マルソー[29]を真似したパントマイム映画だ。

<素晴らしいフランチェスカ>のバッチェン

映画《愛と孤独》でインタビューを受けるバッチェン

彼女は生涯喫煙していた。写真は、ウォーレン・コリンズ6がサイレント映画《素晴らしいフランチェスカ》(The Fabulous Francesca)を撮ったときにバッチェンが上流階級の女性を演じたものだ。

このインタビュー7の時、1925年生まれの彼女は、84歳だった

――――――――――――

グールドは、まったく性的なことを口にせず、女性に関心がない様に振舞っていたから、誰もがゲイとか、男女の区別がない中性だと思っていた。

一方、ハミルトンはゲイだった。皆の噂どおりグールドをゲイだと思っていたハミルトンが、グールドの実家のソファでバッハを聴いているとき、彼に腕を回したことがあった。

「ぼくが腕を彼に回したら、彼は驚きで飛び上がるかと思った。『何してるんだ?どいてくれ!』と彼は言った。彼はひどくショックを受け、その瞬間、グレン・グールドはゲイではないとがわかったんだ。彼はゲイとはまったく縁遠い人物だと分かった。彼はとても口が堅いが、彼は非常にはっきりとした異性愛者だった。」

――――――――――――

ある日、グールドが、友人でヴァイオリニストのモリー・カーナマン[30]とCBCテレビ放送局でリハーサルをしているとき、カーナマンのシャツの背中に血がついているのに気づいた。グールドは、叫び声を上げて演奏を中断した。

カーナマンはすべてをストレートに説明した。

「この血かい。この血は昨日の晩、女の子とヤッタときのものだよ。彼女が凄くてね、爪をぼくの背に思いっきり立てるものだから、痛くて大変だったよ。あんなに感じる子はいないよ。[31]

グールドは驚きと好奇心で、別世界の人間を見るような目で見ていた。グールドは性について口に出すことは決してなかったので、カーナマンは、彼が性的には未経験だろうと思っていた。

しかし一方で、このころから彼には可愛いガールフレンドがいて、見せびらかしたがっていると気が付くようになっていた。

――――――――――――

1952年、お洒落な服装のスチュアート・ハミルトンが、バッチェンとシェアしていたアパートへ戻ってきた。そこは、ふたりの共同のスタジオ、洗面所、キッチンとプライベートな部屋に分かれていた。

ハミルトンが、ぶらぶらとスタジオをとおり抜け鍵のかかっていないドアからバッチェンの区画へ足を踏み入れると、スーツ姿のグールドと彼の下にひざまずくバッチェンがいた。なんと、彼女は彼にフェラチオをしていた。

「なんてこった!二人とも他人に触られるのが恐ろしい。」とか言っていたんじゃなかったかと、ハミルトンは動揺した。

彼は、オペラの生徒でもあるバッチェンの誇りを保てるように、コホンと小さな咳ばらいをして、手近な洗面所に飛び込むべきだったかもしれなかった。しかし実際は「ごめん」とだけ言って、その場を離れることしかできなかった。ハミルトンは彼女が部屋の鍵をかけるべきだった、こっちの方が恥ずかしいじゃないかと思っていた。

グールドはおどおどと部屋を出て来て、ハミルトンにスタジオで話をしたいと言った。どちらも先ほどの行為のことは口に出さず、グールドは、長ったらしく難解な音楽談義を始めるのだった。

ハミルトンは感想を述べている。

「彼は、この件について厳格な長老派8的なものを少し感じていたようだ。私は彼を批判しなかった。その前から私は、彼とバッチェンが男女関係にあることは知っていた。彼女はそのことを話さなかったが、それは完全に明らかだった。[32]

事件後もバッチェンとグールドは、あいかわらず秘密主義を貫き、人前ではカップルらしく振舞わなかった。

「グールドは本当に慎重で秘密主義でした。それで誰もがゲイと思ったんです。」とバッチェンは言った。

グールドは、音楽だけではなく、有名な世界の文学や哲学も広く読んでいた。その嗜好はバッチェンと完全に一致していたから、二人はすぐに親密になった。二人ともニーチェが好きで、ニーチェの言葉を暗唱し、「私の真実がある、さあ、あなたの真実を教えてくれ」「高く登ろうと思うなら、自分の脚を使うことだ。高い所へは、他人によって運ばれてはならない。人の背中や頭に乗ってはならない。」と言い合ったりしていた。とくにグールドはニーチェに強い影響を受け、ニーチェを読むとドイツ語訛りが抜けなくなるほどなった

バッチェンはグールドの7歳年上だったが、彼の周囲には年上の女性が多かったので、むしろ年上の女性の方が打ち解けられた。また、彼女は彼のエゴを刺激しないよう気を付けていた。周りに誰もいないときは、彼をなだめ、膝の上で彼の厚みのある髪をなでやるのだった。

つぎへ

[1] 「グレングールド著作集Ⅰ」モーツァルトとその周辺 モンサンジョンと語るP69。この発言は、他の機会にも多く語っている。

[2] 「グレングールド発言集」バーナード・アズベルによるインタビューP198

[3] The secret life of Glenn Gould, Michael Clarkson, Chapter2, page11

[4] Béla Böszörmenyi-Nagy 1912-1990 アメリカ、マサチューセッツ州ボストン生まれ。1945年から5年間、王立王立音楽院で教えた。後期ベートーヴェンとリストの専門家と言われる。実際のレパートリーは広かったようで、YOUTUBEで演奏を聴ける

[5] グールドと一緒にゲレーロにピアノを教わっていたレイ・ダッドリーの言葉。(神秘の探訪 バザーナ 第2章 142頁)

[6] Glenn Gould – “How Mozart Became a Bad Composer” (下のURLでYOUTUBEで見られる。2022.6.16現在)

また、グールドは、ピアノソナタ第13番K333をコロンビアの正規版として、第1楽章を65年8月、第2楽章を66年5月、第3楽章を70年1月と8月に録音し、1972年に発売している。

[7] 展開部とは、楽曲において提示された主題や素材をさまざまに発展させる部分を言い、ソナタ形式で顕著である。

[8] 「グレングールドの生涯 オットーフリードリック 宮澤淳一訳」 第7章古典派のレコードP243

[9] 内声部:一般に和声法では、高音部の主旋律と低音の伴奏で成り立ち、この高音と低音を外声と言う。これに対し、外声の間の声部を内声と言う。

[10] Faun(英語)Faunus(ラテン語)半人・半山羊の林野牧畜の神。ファウナ(Fauna)が女性形。

[11] オシャワ トロントの西方60キロにあり、オンタリオ湖に面している。人口16万人。都市圏人口は約38万人。(2016年)

[12] 「グレン・グールドの生涯 オッットー・フリードリック 宮澤淳一訳 青土社」P50

[13] 「グレン・グールド 神秘の探訪 ケヴィン・バザーナ サダコ・グエン訳 白水社」

[14] 「グレン・グールド伝 ピーター・オストウォルド 宮澤淳一訳 筑摩書房」P149

[15] ハックルベリー・フィン 「ハックルベリー・フィンの冒険」は、マーク・トウェインの南北戦争以前のアメリカを舞台にした小説で、人種差別を痛烈に批判している。主人公のハックは、自らの死を偽装して逃亡する場面が出てくる。

[16] https://furthernorth.blog/2020/08/18/what-glenn-wanted/

[17] デイヴィッド・ミルン David Miline(1882-1953)カナダの画家、版画家。1930年代の終わり頃、二番目の女性とオンタリオ州アックスブリッジ(Uxbridge)で暮らし始め1941年に息子が生まれた。1938年にトロントを拠点とする画商が、ミルンの作品の販売を仲介するようになり、評価が高くなり、画家として成功した。(Wikipedia)

[18] デイヴィッド・ソロー アメリカの小説家、詩人、哲学者、自然学者。1817マサチューセッツ州コンコードで生まれ。ハーバード大学卒業後、コンコードの公立学校で教師を務めるが教育制度に失望し、2週間で辞職。1845年に最も有名な作品『ウォルデン、または、森林での生活』を出版した。これはウォルデン湖畔に自分で築いた小屋に暮らした経験を記録したものである。反奴隷制運動に関与し、不正な法律に抗議するための手段として市民不服従を強く主張した。

[19] 再びマーシャル・ウェブから引用 1982年3月22日版のマクリーンズ誌にマーシャル・ウェブによる「One hundred years of solitude」というタイトルの記事が掲載され、ソロ―の『ウォルデン、または、森林での生活』とシンプルさを求めるミルンの共通性を書いていた。

[20] ロバート・フルフォード Robert Fulford 1932年2月オタワ生まれ。グローブ・アンド・メイル紙で1953年までレポーター。マクリーンズ誌を経て、1958年に入社したトロント・スター紙で影響力のある批評家の地位を得て、1968年から87年まで雑誌サタデーナイトで編集者となり、エッセイスト、批評家として活躍した。

[21] ロバート・フルフォードの発言 「グレン・グールド伝」(ピーター・F・オストウォルド 宮澤淳一訳 筑摩書房)P56

[22] 「グレングールド神秘の探訪」(ケヴィン・バザーナ)P124

[24] https://www.measuringworth.com/dollarvaluetoday/relativevalue.php?year_source=1954&amount=500&year_result=2020

PER Capita GDPを使用している。

[25] マルヴァーン・カレッジ・インスティチュート。公立の中高一貫校

[26] Malcolm Troup (1930-2021) ピアニスト。トロント生まれ。のちギーゼキングに師事。第1回ショパンコンクールで審査員を務めた。

[27] アスキス通46番地のアパートにはバッチェン、歌唱指導、ピアノ伴奏者のスチュアート・ハミルトン、CBCセットデザイナーのスタン・セレン、CBCの女優、歌手のドナ・ミラーの4人が住んでいた。

[28] 伝説のフランチェスカ(The Fabulous Francesca)

[29] マルセル・マルソー(Marcel Marceau)1923 – 2007 フランスのパントマイム・アーティスト。この芸術形式における第一人者で「パントマイムの神様」と呼ばれる。

[30] モリー・カーナマン  グールドの友人であり、ヴァイオリン伴奏者。理由がわからないが、グールドとの交友はある日断たれた。写真は、CDの販売サイトから。

[31] The secret life of Glenn Gould, Michael Clarkson, Chapter2, page17

[32] The secret life of Glenn Gould, Michael Clarkson, Chapter3, page33

  1. 英国のクラシック音楽テレビの司会者であるハンフリー・バートンとの対談で、グールドは、「モーツァルトのピアノソナタの内声部に、曲が良くなるかどうかは別にして、対位旋律をポリフォニックに加え、《ビタミン剤を注入》することをためらわない。」という意味のことを語っている。 ↩︎
  2. 友人 ジョン・P・L・ロバーツ 「グレン・グールド伝」(ピーター・F・オストウォルド 宮澤淳一訳 筑摩書房)P58 ↩︎
  3. ナポレオンへの頌歌 ユダヤ人のシェーンベルクの「ナポレオンへの頌歌」op.41は、1944年初演。ナチスから逃れてアメリカへ渡った時の作品。バイロンの詩「ナポレオンへの頌歌」に室内楽伴奏をつけ、ナポレオンを讃えるものではなくヒトラーを重ね合わせたものと言われる。頌歌は、歌と語りの中間に位置する歌唱技法である。 ↩︎
  4. コントラルト アルトは、女声の声域(声種)のひとつで、コントラルト(contralto)とも言う。 テノールよりも高い音域を指す。 現在では女性の低い声を言い、また合唱における女性の低い声部を指す。 ↩︎
  5. “The Secret Life of GLENN GOULD A GENIUS IN LOVE” Michael Clarkson, Chapter One Flora, page 8 ↩︎
  6. ウォーレン・コリンズ Warren Collins トロント生まれの映画監督。実験的な映像なども紹介した。 ↩︎
  7. インタビュー “The Secret Life of GLENN GOULD A GENIUS IN LOVE” を書いたマイケル・クラークソンである。Michael Clarkson, ↩︎
  8. 長老派 《Presbyterians》キリスト教プロテスタントの一派。カルバンの系統をひき、信仰告白を重視すること、民主的な長老制度をとることが特徴。オランダ・スコットランド・米国で有力。長老派教会 ↩︎

手が小さいからピアノが上手に弾けないって、本当? 《5歳の天才ピアニスト》、《ムカデが100本の足を動かす》と《30分でピアノを教える》

親爺のブログを見てくださった方が、ロシアの5歳の天才少年ピアニスト、エリゼイ・ミシン(Elisey Mysin)を教えてくださった。現在は、12歳になっているようなのだが、この子が、本当に5歳でこんな素晴らしい演奏をするのかと驚いたのだが、一つ疑問に思ったことがある。

というのは、ピアノの鍵盤を弾くときに、手が小さくて鍵盤の遠く(オクターブ)を押さえられないと、小さい手の女性は不利だという意味のことをよく聞く。指を開けるためにマッサージや手を柔らかくするトレーニングとかさまざまなことを、嘘か真か親爺には判断がつかないことをするらしい。

ところが、この少年の手は上の写真のとおりで、司会者の手の大きさと比べると5歳の少年らしく相当小さい。

だがこの少年は大人顔負けの演奏をする。むしろ、この子ほどのレベルで演奏できるピアニストは大人でも少ないのではないかと思えるほどだ。そうすると、この少年はどのように弾いているのだろうかのだろうか。

そこで、グールド推しの親爺としては、グールドはピアノを弾くということをどのように考えていたのかを見てみたい。

グールドは、ピアノ演奏の技術的困難さに直面するときの対処方法として、この困難さに正面から立ち向かってはならないという意味の答えを《足を動かせなくなるムカデ》の比喩で何度も発言している。

また、グールド自身、自分は弾けるのだが、なぜ弾けるのかは説明できない、だから、誰かに教えることができないということがよく言われる。 では、具体的なグールドの発言を見ていきたい。

1.1968年:CDコンサートドロップアウト ー ジョン・マックルーアとの対話から

このCDは、1968年にリスト編曲のベートーヴェン交響曲第5番のピアノ用編曲が発売された際に、インタビューがボーナス・トラックとして同梱されていた。なお、ジョン・マックルーアは、アメリカ人でコロンビア・レコードの有名な音楽プロデューサーである。

宮澤淳一さんが、この翻訳を2022年末に発売された『バッハ全集(SACDハイブリッド)』の冊子で翻訳されている。

ジョン・マックルーア:「・・・演奏中の歌声はいったいどんな機能があるのですか?説明してくれませんか。」

グレン・グールド:「難問です。これはムカデ問題ですよ。あるときシェーンベルクがこう言いました。私はなぜこれこれの手順をとるのかと作曲専攻の学生に尋ねられるのが苦手だ。100本の足をどいう順番で動かすのかと尋ねられたために、足を1本も動かせなくなってしまったムカデの気持ちになるからだ、と。この問いには人の能力を奪うところがあります。ちょっと怖いですね。

ジョン・マックルーア:「それなら避けていただいた方がよいでしょう。そんな危険にさらしたくありません。」

グレン・グールド:「いや、1パラグラフ以内で答えますよ。歌わないと弾けないのです。やめられるものならそうしています。・・・・・」

2.「ムカデの気持ち」「グレン・グールド伝 天才の悲劇とエクスタシー (ピーター・オストウォルド 宮澤淳一訳 筑摩書房)」から 355ページ

以下、著者オストウォルドの記述の引用である。

「グレンはこの『ピアノ・クォータリー1』誌が気に入り、いくつかの号に、特に、後に知り合ったが、ある女性のピアノ教師の日記を掲載した号に関心を示した。この教師にグレンが注目したのは、自分の母親もピアノ教師だったからかもしれない。教えることに関して、グレンには二つの想いがあった。自分がピアノを決して教えられないのは、どう演奏するのかと生徒に尋ねられると、どの順番に足を動かすのか説明を求められた『むかで』の気持ちになってしまうからで、足をまったく動かせなくなったこの哀れな生物を襲ったのと同様に即時に体が麻痺してしまうのだ。彼は繰り返しそう主張していた。ジョン・ロバーツ2によれば、ああした奇蹟のような結果をピアノからどうやって生み出せるのか『グレンは本当に知らなかった』という事実自体が『本人にとって脅威だった』という。『彼はピアノ演奏について分析的に考えたくなかったのです。・・・・・・ピアノ談義を嫌悪していました。つまり、指や手をどう動かすか、といった話題のことです。自分にはそうできる、ということしか知らなかったのです』」

「かたやグレンには教えることにうぬぼれがあった。教育者たちの集団に向けて、彼は次のような怪しからぬ発言をしている。『時間と心と静かな部屋を30分貸してもらえれば、誰にでもピアノの弾き方を教えてさしあげます。ピアノ演奏について知るべきことはすべて30分で伝授可能なのです。自信がありますよ。』私の知る限り、この挑戦に応じた生徒は一人もいない。」

3.「ピアノは30分で教えられる」「グレン・グールドは語る ジョナサン・コット 宮澤淳一訳 筑摩書房」

以下、著者ジョナサン・コット3が書いたものを引用する。

「最近、教育者の集まりで話をする機会があり、施設化された技能的な「工場(ファクトリー)」でピアニストを教えるときの諸問題を取り上げました。音楽教師という職業は、ある誤信を生み出したと思います。すなわち、それを知るためには一連のものごとをこなさなくてはならない、というものです。だから私は言いました ー 時間を30分、それから皆さんの熱意と静かな部屋さえ提供していただければ、誰にでもピアノの弾き方を教えてさしあげます。ピアノ演奏について知るべき内容のすべては30分で伝達可能なのです。自信があります。ただし、実行したためしもなければ、実行しようと思ったためしもないのです。なぜならこれはシェーンベルクの言ったムカデの話だからです。ムカデの気持ちになるから、と言って、シェーンベルクは音列の使い方を質問されるのを恐れていた。ムカデは100本の足の動かし方を考えるのが嫌いです。能力を損なわれるからです。動かし方を考えるとまったく歩けなくなるのです。私はこう続けました ー ですから、私は30分のレッスンをするつもりはありませんが、もしすると決めたなら、身体的な側面はごく最小限にとどめますので、集中して私の説明に静かに耳を傾けてくだされば、伝授可能です。カセット・テープに録ってもかまいません。あとで聴きなおせば、授業を受けなおす必要がなくなりますからね。皆さんは、あとで、一連の訓練を実行しなくてはならなくなるでしょう。それによって、私のお伝えしたわずかな情報と、その他の身体的な動きとの相互関係を確かめられます。すると今の自分には何ができなくて、どこに座れないか、また、どんな自動車には乗れないかに気づくはずです。」

「これを話し終えないうちに、先生方は大笑いを始めました。練習を反復作業だと思い込んでいたからです。しかしそれはまったく違う。私が真剣に訴えたかったことはこういうことです。つまり、これさえきちんとできれば、触感的・運動的な問題から自由になれるのだ、と。いや、訂正します。自由にはなれないし、そうした問題は永久についてまわります。ただ、問題が身近であればこそ、かえって三次的な関心事として片づけられるのです。攪乱要因が折り重ならない限り、『混乱した』(disarrenged)状態は起こりません。」

  1. 「ピアノ・クォータリー」誌 作曲家、ピアニストのロバート・シルヴァーマンが発行人兼編集長の季刊のピアノ誌。グールドが、「ハイ・フィデリティ」誌ともめているときにグールドは寄稿していた。グールドは14本の原稿を寄稿していた。 ↩︎
  2. ジョン・ロバーツ ジョン・P・L・ロバーツは、1930年シドニー生まれ。1955年にカナダへ渡り、CBC(カナダ公共放送局)ウィニペグの音楽プロデューサーになる。グールドと親交が深かった。「グレングールド発言集」、「グレングールド書簡」を発行した。 ↩︎
  3. ジョナサン・コット 1942年ニューヨーク生まれのノンフィクション作家・詩人。『ローリング・ストーン』誌創刊以来の中心的な書き手で、ジョン・レノン、ボブ・ディランなどのロングインタビューを行う。 ↩︎

親爺の結論

きっとピアノを上手に弾けるという才能と、ピアノを上手に教えるという才能は違う。しかし、ピアノを弾く際に、テクニックに気を取られてしまうと、その瞬間に演奏が難しくなる。演奏が全体として支離滅裂になりがちなのは、誰もが経験することだろう。

グールドは、ピアノを弾きながらなぜ鼻歌が止められないのかと聞かれたときに、「僕にとって鼻歌を止めるのは自殺行為だ。」と答え、自分が出来ているピアノの演奏をどうのようにしているかと質問されると、「これに答えようとするのは、能力を削ぐ行為であり、自殺行為だ。」と答えていた。

ところがその一方で、グールドがピアノを教えられるという自惚れは捨てきれず、30分あればピアノの演奏を教えられると大袈裟なことを言っている。しかしその具体的な中身は言わない。「繰り返し練習することなく、触感的・運動的な問題から自由になれる。」と一旦言うものの、すぐに前言を翻し、「いや、そうした問題は永久について回るが、かなりの程度問題は解決されるはずだ。」という。ここは、分かったような分からないような発言だと親爺は思う。

やはりこの《ムカデ論争》と《30分でピアノを教えられる》という議論は、天才はなぜ天才かという側面があり、天才の技術をいくら分析しても、凡人は天才になれない。また、凡人が少なくとも、いくら練習を反復する方法をとっても天才にならない、というのは明らかだろう。指使いが可能な範囲で演奏しているようでは、平凡な演奏にしかならないだろう。技術の制約が原因でブレーキをかけるのではなく、頭の中で描く理想像へとジャンプしないとダメだろう。

グールドの言っていることは、確かにどこか変でおかしいし説得力もないかもしれない。しかし、彼は天才的で自分の世界を解釈し表現することができた。その演奏のプロセスを人様にうまく説明できなかったとしても、それがなんだ。彼は学者ではない。彼は良い演奏を残した演奏家だ。

しかし、彼の発言に説得力がないのに、妙なプライドがあり強弁をするのは、それも天才だからだろう。もちろん、グールドの発言全てを肯定することも可能だし、否定することも可能だ。ただ、そうしたグールドの態度や性格が、天才を生み出したのは間違いない。

おしまい

われわれは、もっと豊かに暮らせるはずだ!! 通貨発行は普通の商取引だ。国債は返済する必要がない。

はじめに

「無から有を生み出す」というような形容をすることのある通貨発行(信用創造)ですが、おそらく多くの人に理解されていないと思います。というのは、日銀(または政府)がお金を発行(印刷)しても問題ないと言うと、「そんな夢みたいなことがあるわけない!わたしは信用しない。」「トンデモない!ウソを言うな!」と返されるのがオチだからです。

日本銀行(ダイヤモンド・オンラインから)

では、世間の誤解がどのようなものかを説明するために、まず、《通貨》(お金)がどのような仕組みで発行されているか、生み出されているかについて説明することからはじめます。

1.2種類の通貨発行(信用創造)

通貨発行には2種類あります。上の図のように日銀が銀行(日銀に口座をもつ市中の銀行などの金融機関をいいます。)に行うもの(黄色い円の部分です。)と、下の図にある銀行が家計や企業に行うものの2種類があります。最初が、日銀が三菱UFJ銀行に行うもので、次が、貴方が三菱UFJ銀行から住宅ローンを借りるのをイメージしてもらうと分かりやすいと思います。なお、『市中』という言葉がよく出てきますが、『世間』とか『世の中』、『マーケット』くらいの意味で使っています。

ちょっと難しい言葉になりますが、この2種類を《マネタリーベース》と《マネーストック》というのですが、マネタリーベースは日本銀行の中で行われるものなので、我々国民は関与できません。

(1)日銀の通貨発行

まず、『日銀が市中の銀行に対する信用創造』(以下、通貨発行といいます。)するプロセスを説明します。

この通貨発行は、日銀による日銀の行内に口座を持つ銀行との取引です。日銀と三菱UFJ銀行とかです。もちろん、これは何の義務もなくタダで、銀行が通貨を手にするものではありません。日銀と銀行の間の賃貸借なので、見たことはないですが、最初に賃貸借の約定(契約書)を交わしているはずです。

簿記を知らない人でも理解できると思いますが、その契約書に基づき、日銀は相手の銀行との取引に、「貸付金」という資産と「日銀当座預金」という負債を入力します。相手の銀行側は「日銀当座預金」という資産と「借入金」という負債を入力し、お互いのコンピュータ上の残高を変更します。 これをもう少し詳しく説明します。まず、一般の方には馴染みのない「日銀当座預金」を説明します。商売をしていたり会計を担当している人なら「当座預金」は、よくご存じでしょう。事業用の決済のための口座で、手形や小切手の決済に使われ、金利がつかず、預金保護制度で全額が保護されています。この「日銀当座預金」は、日銀の行内に口座を持つ金融機関が、日銀や他の金融機関との間の決済に使う口座です。その性質は日銀の外(市中)で使われる「当座預金」と似た性格だと考えてよいと思います。

またこれも補足になりますが、銀行にとっての顧客に対するお金は、顧客の場合と立場が逆になります。つまり、家計や企業などと違って、日本銀行にとって「日銀当座預金」は、お金を貸し付けるのが日銀本来の業務であり、それは日銀が貸し出したお金は将来回収されなくてはならないので「負債」になります。つまり、日銀は銀行へ貸したお金をちゃんと返してもらわないとならない責任を社会に対して背負ったと、宣言したのと同義です。

借りる側の銀行にとっては、「日銀当座預金」は日銀が発行した負債であり、他人から受け取ったお金なので「資産」になります。しかし、そのお金は貰ったものでなく、借りたものですので、同時に「借入金」という負債にもなります。つまり、銀行のほうも返済義務を負ったわけです。

これら両方のセットが日銀の行内で行われる通貨発行です。繰り返しになりますが、この取引の意味は、日銀は銀行に「日銀当座預金」を貸し付けることで、権利を意味する「貸付金」という資産を得ます。銀行は「日銀当座預金」を借り、「日銀当座預金」を自由に使う権利と、「借入金」という負債の返済責任を負ったわけです。

ここで注意すべき点があります。まだこの段階では、企業、家計へお金が渡っていません。お金が生まれただけです。お金が国民に行き渡るためにはどうしなければならないかということは後ほど説明します。

(2)銀行の通貨発行

次に、『銀行が家計や企業に対する信用創造』をするプロセスを説明します。

通貨発行は、日銀の外すなわち市中でも起こり、むしろ、国民の生活により直結する性質のものです。銀行も、家計や企業に対し日銀と同じように通貨発行することが出来ます。三菱UFJ銀行から住宅ローンを借りると考えてもらえばいいです。この場合も、日銀と銀行の場合と同様、借用証書などの書面による契約が先です。コンピューターへの記帳は、先ほどの日銀の場合と同様で、銀行は「貸付金」という資産と「(普通)預金」という負債を入力します。銀行のお金を貸し出すという行為は、もし焦げ付いた場合に社会に対し経済的責任を取らないとならないので、「(普通)預金」の貸出しは負債になります。資金を借りた側は「(普通)預金」という資産を手にすると同時に自由に使う権利を手にし、「借入金」という借金返済の義務である負債を負います。

つまり、通貨発行というものの、日銀の場合も銀行の場合も、借り手との合意に基づきお金の貸し借りが行われ、貸した側は、利息を取りながら(日銀当座預金は利息が原則付きませんが・)、定められた期限で返済してもらう権利を有し(日銀当座預金はおそらく期限がないと思われますが・)、借りた側は、借りたお金を自由に使える代わりに、約定どおりに金利を払いながら返済する義務を負っています。 

「日銀と銀行」、「銀行と企業または家計」のどちらの通貨発行も、結局のところ、契約に基づく通常の商取引と同じです。債権債務が同時に発生し、リスクもありますが、家計や企業が手元にあるお金より大きなお金を動かすことで、金額に見合う大きな成功も得られます。(失敗することもあります。)そうした活動が社会を活性化します。ある意味、資本主義の仕組みともいえるでしょう。

2.日本が貧しくなった理由

次に、今日の日本がなぜ成長できていないかを考えます。成長できない理由は、答えを言えば《需要不足》が起こっているからです。上で説明した通貨発行をしたとはいうものの、国民の懐(ふところ)に届いている絶対額が足りていないのです。

ここで、「需要」を少し説明します。「需要」とは「有効需要」のことで、お金を持っている人が買いたいと思うことです。お金を持っていない人が買いたいと思うのは「需要」に入らず、「潜在需要」です。国民が、十分にお金を持っていないから満足にモノを買えない、生産者が作っても満足な値段で売れないということが起こっているのです。これが「需要」不足です。

日本は高度成長期を経てバブルが崩壊するまで、ざっくり言えば経済はうまく行っていました。ところが、政府はこの30年間経済政策を誤ってきたので、経済は低迷しました。どこで間違えたのかなるべく簡潔に書きたいと思います。

3.「国債は《借金》であり返さないとならない」というのは間違いである

(1)高度成長期は過ぎバブルは弾けた。では、誰が経済をけん引しないとならないのか。

戦後の高度成長期には、企業が莫大な借金をして投資をしました。すなわち、銀行が莫大な通貨発行(信用創造)した結果、家計にもそのおすそ分けが十分に行っていました。企業の設備投資のための銀行からの借り入れが巨額で経済成長できたので、家計にも潤沢にお金が回っていました。このために、政府は懐(ふところ)からお金を出す必要がなく、国債もほとんど発行する必要がありませんでした。

ところが、バブル崩壊とともに歯車が逆回転し、企業はお金を使わなくなりました。企業がお金を使わない、加えて政府もお金を使わないという状況になると、家計へいよいよお金が行かなくなったというのが現状です。企業が借金をしてバカバカ投資をする時代が終わった以上、企業が昔果たしていた役目を再び果たすときまで、政府が代わりを務めなければならないのです。

(2)日銀の狙いは外れた。このあとどうすればよいのか。

最初の説明のとおり、日銀が銀行と賃貸借契約を結び通貨発行することで、日銀当座預金を銀行に渡しました。ところが、銀行の日銀当座預金の口座の残高が増えたとはいえ、国民の口座は増えていなません。お金が行き渡るとは、企業や国民一人一人の口座が増えたり減ったりしないとなりません。

日銀は当初、次のように狙っていました。日銀当座預金を増やし、銀行が貸し出しを増やしやすい環境を作るとともに、金利を低い水準に誘導することで、民間企業がお金を借りやすい環境になることを期待していました。しかし、思惑に反して企業が一向に銀行から借金をして投資をしなくなったので、景気が良くならなかったのです。(同時に、家計へお金が行きませんでした。)

どうしたら国民に行き渡るかという点を次に説明したいと思います。結論をいいますと、政府が国債を発行して、国民にお金を使うしかありません。このプロセスをなるべく簡潔に説明します。

(3)税収は、景気の調整弁だ。国債は返済する必要がない。ただし、発行額には限度がある。

経済を考えるとき、政府、企業、家計、海外の4つに収支に分割して考えることが一般的です。日本の場合、海外は原油価格の高騰などで貿易収支が悪化しているというものの、過去の投資の配当・利子などによる所得収支がプラスなので、全体の経常収支は今のところ、プラスであり問題がありません。そのため、政府、企業、家計の3つで考えます。

家計の収入と支出は、政府と企業のお金の使いっぷりに影響されます。この両方から家計へと流れる(あるいは、政府に吸い上げられた残りの)お金が個人の収入となるからです。企業は、自己資金か、銀行から借金して投資や事業を行い、利益を大きくすることで家計(従業員)の給与も増やします。

政府は、お金(予算)を使うことで必要な事業(政策)を行い、企業と家計から税金を取ることで、市中(世間)に流れているお金を回収します。こうして、税収を増やせば景気を冷やし、税収を減らせば景気を後押しします。税で景気を調整するのです。

こう書くと、きっと、ここは多くの方の反論があるところだと思います。ですが、説明を続けさせてください。世間では、政府が税金を集めて、それを財源にして予算執行しており、すでに国債残高が大きくなったために日本は積極財政が出来ないと言われますが、これは間違っています。

というのは、今世間全体を覆っているこの考えの背後には、政府が発行する国債も、企業が発行する社債と同様に、どこかで儲けを出すなりして、負債は借金であり、返さないとならないという考えが隠れています。

しかし、政府は、企業や家計とは違います。政府は、この二つと違い、現在の変動相場制1と管理通貨制度2の下では、スーパーマンやジョーカーというべき特別な存在で、前述したように通貨を生み出せます。すなわち、税収は予算を使う際の制約条件ではなく、景気の調整弁であり、国民の間の格差是正の手段なのです。

この時に、見落としてはならない非常に重要な注意点があります。それは、日本の国力である国内の生産力に見合った範囲で供給すべきであり、多くても少なくてもダメです。30年来の不況は、政府が国民に対し使う絶対額が足りていなかったからです。

  1. 変動相場制とは、現在のように為替レートがマーケットの需給(買い手と売り手のバランス)で決まり、1ドル140円、明日は145円というように日々変動する制度をいいます。これに対し、戦後しばらくは1ドル360円で固定されていました。これを固定相場といいます。 ↩︎
  2. 管理通貨制度とは、通貨当局が通貨発行量を決めれる制度をいいます。過去は、通貨は「金」と交換を保証する金本位制度でしたが、金兌換(交換)をやめ、管理通貨制度に移行しました。 ↩︎

(4)国債という負債の返済を永久に先延ばしにする。どこの国もやっているし弊害もない。

すなわち、国民にお金を行き渡らせるためには、政府か企業のどちらか、あるいは両方が、しっかりお金を使うことです。しかし、企業がお金を使わないときには、政府が日本国内でお金を使って事業や政策を実行して、企業と家計に払うしかありません。政府が、企業と家計の口座にお金を振り込むことです。減税も同じです。政府には、お金が必要ですが、それは国債を発行することで手に入れることが出来ます。

企業や家計がお金を手にするルートは、銀行から借金をして商売をして儲けたり、給料をもらったりする以外に、政府から給付されるお金を貰うというルートもあります。これには、10万円の給付金をもらうというようなものや、消費税減税、所得減税、コロナの補助金を貰うということなども該当します。日本の不況は30年間続ているといわれます。これは企業の投資が減り、従業員に支払う賃金が増えず、十分にお金が家計に渡っていないことを意味し、その不足分を政府が支出するべきなのに、これをしていないが故の不況です。

「政府の借金は、家計と企業の借金で、子孫がツケを払わなければならない。」ということをテレビやマスコミがよく言いますが、これは間違っています。日本の国力、すなわち供給力の範囲でお金を出しても問題ない。むしろ出して経済をけん引しないとデフレになります。実際にデフレが何年も続きました。

この「政府の国債は借金であり、国民の借金であり、子孫にツケを押し付けている。」という言い方は、最初の通貨発行のプロセスをよく考えると間違いだということが分かります。つまり、通貨発行権を持つ日銀と国債を発行する政府を一体だと考えると、国債を発行して返済時期が来て、買った人にお金を返してくれと言われたら、新たな国債を発行して負債を返せば良いのです。つまり、国債の借り換えをすれば良いのです。

この借り換えは、どこの国もやっていますし、日本もやっています。また、これは現実に民間の取引でも普通に行われていることです。民間の会社でも会社の借金である社債の返還時期が来たら、新たな借金をして返済を繰り延べる(先延ばしにする)ことが行われており、これを《ジャンプ》と言います。

闇金が顧客を生殺しにする方法として、利息だけ受け取り元金を返させない《ジャンプ》のあくどい手法もあるようですが、これとは違います。

こちらは正常な取引で、民間企業が一般にやっている取引とまったく同じです。違う点は、通貨発行権のある日銀をバックにした政府の場合は、民間と違って倒産をする心配がない、絶対の信用力があるということです。

財務省が好きな二宮尊徳(テンミニッツTVから)

先に書いたように、一応、今も政府は、国債を発行して支出に充てています。しかし、絶対額が足りないのです。額が増えない理由は、財務省が、税収と支出の額を一致させる《入るを量りて出を制する》という二宮尊徳!?流の考えを後生大事に持ち、国債を発行することを思いっきり嫌がっているからです。時代錯誤だと言っていいと思います。

政府が国債を発行して、日銀が直接買うことは法律で禁止されています。しかし、これは現実には骨抜きになっています。政府が国債を発行し、銀行が日銀当座預金を使って国債を買っているのですが、その国債を日銀が買っているので、直接ではないだけで同じことなのです。

日銀の購入額は、発行額の半分といわれます。また、金利を下げるためも日銀は市中から無制限に国債を買っています。日銀が国債の買い手になっているのとなんら変わらないのです。しかし、低金利ではもうからないので金融関係者とこれに便乗するマスコミは「正常化しろ。」とうるさくいいます。もちろん、金融関係者が儲けを出しにくいというのは事実ですが、何の弊害もありません。

4.結論

したがって、政府は国債を財源にして、今やっている方式を拡大し、子育て、防衛、教育、科学技術、防災対策、インフラ整備、農牧業・漁業支援、消費税減税、社会保険料低減、年金増額、奨学金返済免除などあらゆることをやれるのです。

ただし、日本の国力である日本の生産力(供給力)の範囲までです。それ以上にやると(アメリカやヨーロッパのように)インフレになります。日本は、景気が回復している、今期は前期と比べて6%成長したと言われますが、これは曲がりなりにもコロナで結構、国債を使ってお金をバラまいたからです。しかし、企業をカバーする日本の政府の支出は、30年間不足していました。コロナでお金を多い目に国民に振舞ったのはわずか2年間ほどの間だけです。残り28年間の不足分が、今なお足りていないのです。

ちょっと難しいですが、《需給ギャップ》という指標があります。大雑把に言うと、生産できる能力と国民全員が手にした所得の差です。コロナで結構いい線の財政支出をしたので幾分戻したというものの、もし普通に、外国のような成長の経過を辿っていれば、日本は2倍額成長していたはずだと言われています。つまり、政府が正しい経済政策を取っていれば、いまごろ、われわれの所得は倍だったはずです。そして、世界中から「日本の物価は異常なほど安い。」などど思われることはなかったのです。

もう一度言います。政府は供給力を増やしながら、国民の所得を増やさないとならない。つまり、企業が元気を取り戻すまでの間、積極財政をして、政府の支出を増やして国民の生活を支える他ないのです。

おしまい

もうギャンブルしたくないシニア向け 米国債券について

—– 2023.8.15 Rewrite —–

その後、いろいろYOUTUBEを見ているのですが、アメリカの状況は非常に悪いようです。日本ではあいかわらず、こういう種類の報道はまったくありませんが、例えば、950ドル(13万円)までの万引きは捕まらないとか法律が制定され、ウォルマートのような巨大な小売店が撤退し始めたりしているそうです。他にも信じられないほど悪い状況もたくさんあるようです。アメリカは既に危ういです。 米国債券を購入しようともしお考えであれば、再検討してください。親爺は、お勧めしません、

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日本の金利が低く、有利なところで運用したいと思うが、株や投資信託を買って「今更大損をこきたくない!」というシニアは結構いるのではないかと思う。

ここで断っておくが、親爺は証券会社で勤務した経験があったり、ファイナンシャルプランナーの資格を持っているわけでもない。何より、外国債券には為替リスクがある。円安で買って、円高になると、その分損をする。米ドル換算で儲かっても、日本円に換金したら損をしたということは十分考えられる。米ドルも基軸通貨の地位を、いつ元に奪われるかも知れない。大きな民間会社ももちろん安泰ではない。

そういうさまざまな要素もあり、実際に投資先に債権を選ぶという時には、どうぞご自身でご判断ください。

では前提条件をご理解いただいたうえで、「今更大損をこくのはなるべく避けたい」と思うご仁向きに、米国債券を紹介しようと思う。ところが、この米国債券を扱っている会社は非常に少ない。その理由は、外国債権を売っても、債券の性質上なかなか売買されず保有期間中に手数料がかからないために、儲けが出にくいと考えられているそうだ。下がそれを解説した動画である。

【636】ほうっておいても安心!毎年利息収入!債券(米国債・ドル建て社債)が販売されない理由とは!! 能登清文【お金の学校】のとチャン

何故今が買い時なのかという理由は、ご承知の方も多いと思うが、米国金利はかなりの年数ぶりの高水準にある。金利が高いということは、債券の場合は、(既発債の)債券価格が低下しているということを意味し、買う側にとって有利な状況で、既に低金利の時期に買われた債券であれば、額面の金利が変わらないままに時価評価額が下がっていることを意味する。

今年の春に、シリコンバレー銀行などが破綻した。これは、FRBが金利を何度も上げ、そのたびに銀行が保有する債券価格が下落し、そのまま満期まで保有するわけにいかず、安い価格で売らざるを得なくなり最終的に破綻した。そのニュースを覚えておられる方も多いと思う。 

同じようなことを日本の地銀でやっているところがあるらしい。つまり、日本国内では低金利であることに加え、貸出先もなかなか見つからない。そういう銀行は、米ドルの短期資金を借り入れ、長期の米国債を購入して利益(利息)をとるという運用している。ところが、今は不景気の前触れで《逆イールド》というのだが、長期金利より短期金利の方が利率が高い。すなわち、この日本の地銀は、調達金利が上がっただけでなく、昔仕入れた債券の価格は下落しているはずで、非常に苦しいと思う。

そのFRBの利上げだが、今年の春にはほぼ終了し、年末辺りから利下げが始まるだろうと言われていた。ところが、マーケットの指標が相変わらず改善しないということだろうが、つい最近0.25%の利上げがあり、さらにもう1回利上げがあるかもしれないと言われている。債券購入の時期は、(米国債を)最も高い金利のときにその後の金利低下を見こして買えば、値上がりが期待できるのでチャンスが続いているわけだ。利息だけでなく、キャピタルゲインも期待できるということだ。

そもそも債券は、購入時に利率が確定しており、満期まで持てば必ず額面で償還される。期中の債券価格は変動するものの、金利が高いときに買った債券は、下がった時に発行された債券より人気があるので、業績などが同じであれば、債券価格も不利にはならないだろう。

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下が、2023年8月13日現在のSBI証券で売られている既発債の一部をコピペしたものだ。

債券についての詳しい知識を持っておられる方は、おそらく少ないと思うので少し補足したい。

まず、利率。 これは最初の欄に書かれたとおりで、上の三井住友は年5.766%で確定である。税引き前と書かれているのは、日本で利息を受け取ると約20%の税金がかかるが、この利息支払い前の利率を示している。

単価は104.81%とある。これは100ドルの額面を買うのに104.81ドルかかるという意味だ。つまり、利率は5.766%なのに100ドルのものを104.81ドルで買っているので、利回りは3番目に書かれている5.114%になる。 この「単価」と書かれている部分が毎日変動する。しかし、満期日には100ドルになって戻ってくる。

3番目の米ドル債には、「ゼロクーポン」と書かれている。これは、債券をもっている間、利払いが行われないことを意味する。しかし、その分当初の購入額が、この例では81.58%と安く、現在の単価81.58%で償還まで5.3年あれば、利回りは3.917%になるという意味だ。この「ゼロクーポン」債は、期中の利子が払われないので、複利で元本が増えるイメージらしい。

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なお、今月、フィッチという格付け会社が米国債をAAAから、AA+へ格付けを下げた。そのため国債の価格も下がったのだが、親爺が思うに、この格付けはちゃんちゃら可笑しい。日本もそうだが、アメリカも為替レートの変動を気にしなければ、自国通貨を必要に応じて発行できる。つまり、デフォルトは起こらない。

それに、親爺が今回書いたように、米国債は大勢の世界中の市民に買われているが、発行額に比べてその割合は非常に少なく、そのうちの多くは、金融機関が利息の付かない当座預金を持っているより国債で持っている方が有利だからもっている、というのが実情だと思う。

話が脱線するが、このことは日本のような低金利の国では考えられないことだ。日本は不況なので、低金利を続ける(YCC[1]を止めない)選択肢しかないのだが、米国のような金利を上げた国であれば、市民も金融機関も、もし不急の資金で国債を保有しているのであれば、それだけで利息分を確実に手にすることが出来る。それを日本の金融機関は10年以上ずっと(ねた)んでいて、「利下げを止めて、金融政策を正常に戻せ!」と大合唱をしているわけだ。もちろん、この不景気の状況で利上げをすることは、投資意欲を減退させ住宅ローン金利も上がり、自殺行為である。景気さえ回復すれば問題ないのだが、一向に回復しないので日銀総裁は板ばさみに陥り、世間のバッシングにさらされ続けてきた。この非難は、本来政府が受けるべきものだ。

話を戻す。つまり、変動相場制で管理通貨制度のもとで自国通貨建ての国債発行をするのであれば、金融当局がデフォルトを起こすリスクはない。しかし、国債発行が通常の経済行為の範疇で行われているかのようなフリをしているのは、世間に対し、(米国が)放漫運営をしていないという印象を与える必要があることに加え、他の諸外国もあまりに過度な金融の膨張をさせると世界全体の通貨供給量が増えすぎ、経済が不安定になるという事態を引き起こさないためのポーズだと思う。

おしまい

[1] YCC:YCC(イールド・カーブ・コントロール)とは、日銀の長短金利の操作を言う。つまり、短期金利は日銀当座預金の一定の残高に対し、マイナス金利を定めている。長期金利は、10年国債を無制限に買い入れることによって金利水準が0%になるように誘導してきたが、植田総裁になってから日銀は、この上限を0.5%に引き上げた後、7月28日に1%の範囲で柔軟に運用すると表明した。

『ブラックアウト』(キャンディス・オーウェンズ)から《ポリコレ》と《構造主義》を考える

親爺が「今の世の中、何か変だな。」と思うようになって、しばらく経つ。ヨーロッパでは、アフリカの旧植民地だった国から貧しいイスラム系の移民が押し寄せ、受け入れた国で少女をレイプしたり、その国の文化に溶け込むことなく移民同士が住む地域を作り治安が悪化し、元々の住民は歓迎していないのに、政府やマスコミは、差別主義者と呼ばれることを恐れ、多様性やヒューマニズムの看板をいつまでも下ろすことなく、移民対策に本腰を入れようとしない。そのせいで、移民受け入れに反対する右派が勢力を拡大し、国家が分裂しそうな様相を呈している。そのとこについては、前に「西洋の自死」という本を読みブログに書いた。以下をクリックすると出てきます。

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どうやら、これはアメリカでも同様で、元祖はアメリカなのかもしれないと親爺は思うようになった。

例えば、アメリカ各地の大学などにある建国の英雄たちの像が引き倒されり、真偽のほどを詳しく知らないが、白人が衆人環境の下で、「白人で悪うございました。」と自己批判を迫られたりすることがあるという。実際問題として、国連代表や広報官は黒人だし、政府の広報官もそうだ。勿論人種を理由にした差別は許されないというのは正しいが、「ポリコレ」[1]とも言えそうだ。

人種によって《下駄を履かせて》入試の合格点などを変える制度を『アファーマティブ・アクション』(affirmative action=積極的差別是正措置)というのだが、先日、アメリカの連邦最高裁で、これが憲法違反だという判決が下りた。バイデン大統領は、直ちに反対を表明した。つまり、「逆差別」政策が公然とこれまで取られてきたわけだが、こうした「逆差別」は、正しいのかどうか。公平性をゆがめたり、当事者の能力向上に逆効果だったり、社会の合理性を欠くのではないかという疑問が当然ある。

他方で、LGBTQがアメリカではブームになっているという。アメリカの小学生の子どもたちの多くが、「ぼく(わたし)は、本当に男(女)なんだろうか?」と疑問を持ちながら暮らしているという。

ワシントンに住む国際政治アナリストの伊藤貫さんという方がYOUTUBEで言われているが、第二次大戦前には、LG(レズビアンとゲイ)の比率は1.7%、1945年から1965年のベビーブーマー世代の時期は、2.7%だった。ところが、その比率は8~9%になり、ここ5,6年で2倍になったという。特にひどいのが、UCLA法学部の調査で40%に達すると言われ、CDC(アメリカ疾病予防センター)の調査では、高校生の24%(男約10%、女40%)がLGBTQの問題を抱えていると言われるようになっている。 ここまで《性自認》に対する疑問が高率になると、何かのバイアス(世間の宣伝操作とか)が働いた流行が広がっているとしか思えない。

方やで、学校教育も腐敗しており、アメリカの公立学校では、差別を助長するとして、学生たちの成績をつける試験をしなくなっていると伊藤貫さんは言う。

[1] 「ポリコレ」というのは、”Political Correctness”から来たもので、直訳すると「政治的正しさ」という意味だが、これが行き過ぎている。つまり、アメリカでは「Black(黒人)」と表現していたものを差別感があるので、「African American(アフリカ出身のアメリカ人)」に変えたが、アフリカから来た人たちばかりではないという問題が残っている。他の例として、女性を表す冠詞「Mrs.」と「Miss」が統一され「Ms.」になったり、「看護婦」が「看護士」、「スチュワーデス」が「キャビンアテンダント」になったり、「痴呆症」から「認知症」への用語変更などもそうである。問題は、この「ポリコレ」が行き過ぎ、些細なことや本質と関係ないところを批判され、炎上させる手段として使われることだ。

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さて、ここからはこの『ブラックアウト』(キャンディス・オーウェンズ)の内容を見ながら、考えたい。東京女子大学学長の森本あんりさんの記事がこの本の内容をうまく要約されている。

https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/review/20220620-OYT8T50059/ ☜ 読売新聞(森本あんり(神学者・東京女子大学長))の記事から

  1. 「ブラックアウト」の題名は、普通なら「停電」という意味だが、本書では黒人にリベラルメディアという偽りの灯からの脱出を呼びかける言葉になっている。
  2.  著者によると、アメリカの黒人が直面している問題は、人種差別ではなく家庭の父親不在であり、それを奨励する大きな政府であり、自立と勤勉さを阻害する福祉制度である。
  3.  2016年にトランプが勝利すると、リベラルは投票に行かなかった黒人たちをなじった。ジョンソン政権以来、黒人を便利な無言の票田としか見ていなかったからである。リベラルが黒人を自律的な能力主体とみなさなかったため、格差は増大し、失敗を社会や差別のせいにする安易な被害者意識だけが積み上がった。
  4.  著者は昨今のBLM運動にも手厳しい。黒人が警察官に殺されるより、警察官が黒人に射殺される方がよほど多く、シカゴでは殺人事件の7割が黒人同士によるものという。#MeToo運動も、男らしさや夫への依存を 蔑さげす むリベラルな白人女性のもので、家族と信仰と教会を大切にする黒人の友にはならない。
  5.  今日、父親不在で育つ黒人は75%に上るが、この数字は家族がバラバラに売られた奴隷制時代よりも悪い。政府も、父親のいない家庭だけに貧困給付金を配る。かくて国家予算最大項目の福祉は、父親の役割を期待されない無責任男性を生産し続ける。これが黒人「再奴隷化」の仕組みである、と著者は解説する。
  6.  こんな主張をするのは目立ちたがり屋の例外だ、と言うのは容易である。だが、現在の比率で黒人票が共和党に流れ続ければ、今秋の中間選挙だけでなく、次の大統領選挙も民主党に勝ち目はない。その帰結を、全世界の人々が 否応いやおう なく受け取ることになるのである。我那覇真子訳。

上の文章で、「リベラル」と書かれているのは、民主党あるいは民主党支持者と読んで差し支えない。つまり、民主党の福祉政策によって、長年、黒人が民主党へ投票するシステムが出来上がっているが、これが黒人の置かれている問題の大前提としてある。

その上で、キャンディス・オーウェンズが支持するトランプ前大統領が演台で、過去60年以上にわたる大きな問題の黒人社会における貧困、教育の欠如、家庭崩壊について、次のように語っているという。

「アメリカの黒人が直面している最悪の問題は、白人至上主義ではなく、《堕落してしまった学校制度》であり、警察による人種差別ではなく、《家庭での父親不在》であり、人種差別的な雇用市場ではなく、《勤勉さと自立への道を阻害する福祉制度》である。」

彼女が言うには、黒人は本来、「黒人はお行儀のいい、悪いなんてことに反応しないのです。私たち黒人は、アメリカでも最も《ポリコレ》の真逆をいく集団です。ヒップホップを生み出し、アメリカ文化を堅苦しいものから遠ざけた集団なのです。」

ところが、長年の民主党の政策によって、黒人はずっと被害者の立場に置かれて来たし、黒人は甘んじてきた。おかげで、「黒人社会は、《ポリコレ》によってゆっくりと死を迎えようとしていました。長い間、私たちはオープンで正直な対話よりも、事なかれと見かけを気にした対話をしてきました。私たちは、真実を見つめることによって勝者になることを学ぶよりも、都合のいい噓や被害者であり続けることを受け入れることのほうを学んだのです。・・」

だから、この本の結論は、「黒人は民主党が作った奴隷農場から抜け出さないとならない(ブラックアウト)。」となる。

親爺の結論

この《ポリコレ》の正体を考えるには、現代の思想である哲学の発展があるのではないかと親爺は思っている。つまり、現代哲学をテコにして導き出された《ポリコレ》を使い、発言者を徹底的に批判して社会的生命を奪うことで、対立する勢力を打倒しようする別の勢力があり、彼らは現在主流の哲学を上手に利用しているのではないかと感じている。

この哲学の流れのことは、ごく最近親爺が知ったことで、YOUTUBEはかなり見たが、実際の本を読んだのはごくわずかで、ほぼほぼ親爺の感想というか、想像の域を出ない。あらかじめ断っておきます。

近代へ至る世界史を考えると、西洋人は自分たちだけが世界の中心にいることが許される人種で、黒人や黄色人種は人間ですらないと考えてきた。だから、先住民を皆殺しにして、世界中を植民地にして、アフリカの黒人奴隷を人間のカテゴリーに入れずに西洋諸国は発展したが、反省せずに済ましてきた。 この思想の背景には、西洋思想が他の思想よりも優れ、西洋思想がもたらした科学技術の進歩が、世界の発展をもたらし、西洋人が頂点に立つ資格があるという様なものだ。この考えは、キリスト教(カトリックとプロテスタント)の考えと非常に密接だった。

西洋人は資本主義を作り、フランス革命では、自由、平等と博愛をスローガンに掲げると同時に、ユダヤ人を虐待しながら発展してきた。果たして、自由、平等を謳う民主主義は普遍的価値なのか。資本主義の歴史も長くない。資本主義で商取引をするためにはグローバリズムが必要で、世界が同じ金融のルールに従わなければならない。グローバリズムは格差を生むだけでなく、環境を破壊し、競争が心の平和を失わせるエンジンである。

ところが、こうした西洋を中心とした進歩主義の考えはひっくり返る。否定し「止揚」(=矛盾する諸要素を、対立と闘争の過程を通じて発展的に統一)することで高次の段階へ進むという弁証法を唱えたヘーゲル(1770-1831)。キリスト教を否定し、「神はいない。自分に従って生きよ。」と言ったニーチェ(1844-1900)。「実存は本質に先立つ。」、「社会へ積極的に参加し、自由を自ら拘束していくことが、自由を最も生かす方法だ」という実存主義を唱えた共産主義者のサルトル(1905-1980)がいた。サルトルはベトナム戦争でも反戦を訴え、世界中で非常に大きな影響力があった。ところが、彼の主張は否定された。

レヴィ・ストロースは、「近親相姦のタブー」について、ブラジルの先住民族のフィールド調査を行い、このタブーが人類共通のものであり、それが「弱い遺伝子を持った子供が生まれるから」という従来の説を覆し、人類は、生来、いろんな部族と交流することで知識を獲得する性質を持っており、その具体的な方法として、《娘》の嫁入りにはどの種族にもタブーがあり、この《娘》の嫁入りは、極めて高いレベルの知識を使って行われていることを明らかにした。

構造主義と言われるレヴィ・ストロースらは、これまでのサルトルたちの《主体》を中心にする哲学に対し反駁し論争になる。しかし、サルトルは有効な反論が出来なかった。 文化人類学者で哲学者であるレヴィ・ストロースが、「近親相姦のタブー」[2]を研究し、この新たな発見によって主張したのは、世界を席巻している西洋の進歩主義は、正解ではないということだ。西洋文明も、世界中にある少数民族の文化と同一のレベルに過ぎない。人類の知恵のレベルは、《いわゆる未開》の民族も西洋人のレベルと同じで、彼らはサステナブルで発展可能な世界をつくる知恵を持っていると明らかにした。

その後構造主義は、ポスト構造主義といわれる主張へと変わっていくのだが、根底には、西洋思想が正解ではないといだけにとどまらず。絶対的な正解はないとか、言語や社会構造が、人間の思考そのものや、その人間の責任に帰すことが出来ないさまざまな制約条件になっているといい、既存の価値観をひっくり返した。

西洋が手に入れた『ダーウィンの進化論』を含む科学技術に対する信仰は、西洋を唯一無二の優れた文明だと考える思想から、西洋と他の少数民族の文明の間に優劣はないという構造主義にたどり着いた。それがキリスト教を否定し、先住民虐殺、植民地支配や黒人奴隷への西洋諸国の原罪意識を遅ればせながら生み出した。 そして同じく西洋中心の進歩主義の過ちに気づいた《ポリコレ》は、これを利用した。

テニスフリークの親爺は大坂なおみを批判する気は全くない。

しかし、現状で、実際に起こっていることは、『行き過ぎ』である。この本で言うように、アメリカで起こる殺人事件の7割は、黒人同士の間で起こり、白人警官が黒人に射殺される方が圧倒的に多いにもかかわらず、黒人が白人警官に殺されたという極めて少ない事件がクローズアップされ、過剰に報道される。それがBLM(ブラック・ライブス・マター)の報道であり、LGBTQの報道である。

また、アメリカで強く主張されるのが、《批判的人種理論[3]》(Critical Race Theory)というものである。これは、社会の仕組みが悪いから、黒人が貧困で社会的地位が低いままだというような単純化された理論である。この理論をもとに、小学校で偏向教育が行われ、南部の白人の多い州では「まるで白人が悪者になったような」教育が行われていたりする。こうした批判的人種理論に則った政策は、民主党が推進し、共和党が反対するという構図になっているが、親爺も行き過ぎだろうと思う。

そして、最初に戻って考えると、同じエルサレムで生まれ、同じ神を崇めるユダヤ教もイスラム教も変わらない(ように見える)が、さんざん他民族に暴虐を働いたキリスト教(カトリック、プロテスタント)は大いに変質した。

親爺は思う。《ポリコレ》派は、人間が言語と社会構造から逃れられないという構造主義の思想を使って、差別に苦しむごく少数者の苦しみを大きく取り上げて騒ぐことで、無関係の大多数を巻き込み、社会を分断・対立させ、あげくに多くの人(とくに一般の庶民であるキリスト教徒)を黙らせようとしていると思えてきた。

長くなってすいません。😨

おしまい

[2] 「近親相姦のタブー」 レヴィ=ストロースは、20歳を過ぎほどなく、ブラジルの新設サンパウロ大学で教授となる。休暇を利用して、カデュヴェオ族、ボロロ族の地に足を踏み入れるようになり、その後、ブラジルのナンビクワラ族やトゥピ諸族の現地調査を行うようになった。近親の女性と性交渉(結婚)の禁止は、女性の他集団への移動を促進する。

男性から見て、母方交叉イトコという結婚規則が存在する場合、女性は、A→B→Cという順に、循環的に交換される。(説明省略)

こうした縁組ルールは、女性を他集団へ送りだし、自集団に他集団の女性を迎え入れるという交換である。自集団だけで性交渉(結婚)していたのでは、やがて、集団は閉じてしまう(社会環境は成立しなくなる)。別の集団の間で性交渉(結婚)を行うことは、人類にとって、最も重要な次世代を生み出す女性の確保と交換を行う社会環境を成立させる。「結婚は女性の交換である」。インセスト・タブーは、社会を閉じて消滅させる不利な行為を禁止し、社会環境を人類社会にまで発展させることを可能にした。いいかえれば、インセスト・タブーの原理こそが、人類社会を成立させたのである。家族とは;はじめから交換する主体として家族があるのではない。禁止することによって、交換する主体としての家族がつくり出される。婚姻規則によって組織化されたその出自集団は、近隣の家族・親族集団と友好な関係を結んで、経済的資源の獲得をめぐって起きる争いを未然に回避し、平和的な秩序を維持しようと努める。(立教大学の【第8回】レヴィ=ストロースの縁組理論から)

[3] 批判的人種理論 人種差別は差別的な考え方を持つ個人の「心の問題」以上に、「社会そのものにある」と考え、長年の公民権運動やその後の諸改革にもかかわらず、人種的な差別や格差が根強く残っているのは、制度や構造が生み出しているという見方である。ところが、この理論が授業に持ち込まれ、白人が数的に圧倒的に多い南部や中西部の多くの州の人々は「自分たちがいつの間にか悪者になっている」「白人差別だ」と感じる。保守派のフロリダ州のデサンティス知事の言葉を借りれば「国家公認の白人に対する人種差別」「子供たちに読み方を教えるよりも、お互いを憎むことを教えたがっている」ということになる。(Yahooの上智大教授、前嶋和弘さんの記事から抜粋)

ジュリアード弦楽四重奏団と《亀裂》 「みんな何も言葉を交わしませんでした。実に幼稚でした」

前回「グールドとジュリアード弦楽四重奏団は、なぜ《亀裂》を生じたのか?」を書いた。一部間違ったことを書いてしまった。また、新たに分かったこともあるので、書いてみようと思う。下がその記事である。

グレン・グールドが、ジュリアード弦楽四重奏団とシューマンのピアノ四重奏曲で共演した際に亀裂が入った経緯について、ピーター・F・オストウォルド(1928-1996)が、「グレン・グールド伝 天才の悲劇とエクスタシー」で詳しく書いていた。このピーター・F・オストウォルドは、プロ並みの腕前を持つヴァイオリニストで、精神科医である。知り合った当初、コンサート終了後などに、個人的にセッションを楽しんでいた。

親爺は、グールドがジュリアードと録音した後、仲違いして、その後バーンスタインと共演したと書いた。しかし正しくは、この曲は、ジュリアードが3つあるシューマンの弦楽四重奏曲を録音した後、バーンスタインとの5重奏曲を録音し、コロンビア・レコード(CBS☜間違い)が残る4重奏曲を他のピアニストとの共演で録ろうとし、グールドが選ばれ、ジュリアード側が「彼がやりたいのだったら、やっても良いですよと答えた。」という経緯だと書かれている。

実際に、「リハーサルはもめた。このピアノ四重奏曲は「交響曲的」(シンフォニック)な様式で演奏するべきだという見解をグレンが譲らなかったからである。」とある。

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具体的にその部分の記述を抜き出す。マン(Robert Mann 1920-2007)と言うのは、ジュリアード弦楽四重奏団創立時の第一ヴァイオリニストである。

ロバート・マン HP月刊音楽祭から

オストウォルド 「シューマンやロマン派にかなり懐疑的であったにもかかわらず、グールドがピアノ四重奏曲の録音に同意したのはなぜだと思われますか。」

マン 「音楽を捉えるときの、彼独特の倒錯した自己中心的な考え方にのっとって、どんな演奏が可能なのか、実際に試みてみる甲斐があると考えたのです。

さらに、マンは答えている。「奇妙なクリスマスカンタータのような《フーガを書いてごらんなさい》と自作の弦楽四重奏曲もわれわれに録ってもらいたがって、うるさかったですよ。」ともいう。

この演奏は、1969年11月に発売されたのだが、その前の8月10日にCBC(カナダの公共放送)のラジオ放送「グレン・グールドの芸術」でこの曲を流した後、グールドはこう説いた。

 「古典派時代の弦楽四重奏曲と交響曲の違いは ー いや、ロマン派時代でもそうでしょう ー 純粋にテクスチュア[1]の問題であって、決して形式的な問題ではありません。ですから室内楽を礼賛し、そこにこまごまと神秘的解釈をする立場はとりません。独り善がりの献身的な演奏も、名人芸を披露したいという野心を斥けた無私無欲の自制的な演奏も、室内楽をうまく演奏するには通用しないと思います。・・・」

 「私自身の演奏は、交響楽的になり過ぎたし、情け容赦なくアップテンポで進んでいくものだったと述べなくてはならないようです。・・・」

 「セッションが終わるまで、みんな何も言葉を交わしませんでした。実に幼稚でした。でもそんな形だったのです。」

[1]テクスチュア 楽曲の全体的な響き、質感、感触

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このグールドとジュリアードのやり取りを見ていると、一向にグールドが上という感じはなく、ジュリアードが上から目線で話をしている。とくに『音楽を捉えるときの、彼独特の倒錯した自己中心的な考え方にのっとって、どんな演奏が可能なのか、実際に試みてみる甲斐があると考えた』という発言は、なかなか強烈である。

そこで、クラシック音楽の世界のことに詳しくないない親爺は、ここで交響曲と室内楽の違いについて調べてみた。

http://uramachblog.sblo.jp/article/46884842.html ☜ 「うらマッハのブログ」さんを引用させてもらいました。

これを読んで交響曲(管弦楽)と室内楽では随分違うんだなと初めて親爺は知った。まず第一は、弦楽器が楽譜を共有するかという点。つまり、管弦楽では複数の奏者が「第1ヴァイオリン群」の楽譜を共有するが、室内楽では1人ずつパート譜がある。管弦楽では大勢で合奏、室内楽では一人一人が親方ですね。また、二つはジャンルがそもそも違うと書かれている。交響曲(管弦楽)は大衆性が強く、人を感動させるのに向いた音楽、一方、室内楽は技巧の追及に向いたジャンルで、趣味的というかオタク的?と書かれている。非常にわかりやすく書かれています。

グールドは、イギリスのクラシック・テレビ番組制作者で、プロデューサーのハンフリー・バートン相手に1966年に「協奏曲は主役が目立てばよいというものではありません。」「われわれは二元論的な考え方を過大に弄んでしまう。オーケストラとソロイスト、個人と大衆、男らしい行動と女らしい行動・・・。これは大変な誤りですよ。」と語っている。このシューマンの曲も同じ考えだったんでしょうね。

おしまい

グールドの演奏は、他のピアニストとどう違うのか / クラシックTV「ピアニスト グレン・グールドの世界」から

— 2023/8/11 一部修正しました。—

NHK放送にピアニストの清塚信也さんと歌手でモデルの鈴木愛理さんがMCをつとめる《クラシックTV》という毎週放送の楽しい音楽番組がある。この番組で「ピアニスト グレン・グールドの世界」が放送された。最初は、2022年だったようだが、親爺が見たのは、2023年5月にあった再々放送だった。

NHK・クラシックTVのHPから

https://www.nhk.or.jp/music/classictv/482351.html ☜ こちらが、そのNHKの番組のリンクである。

この番組の呼び物は何といっても、清塚信也さんが実際にピアノを弾きながら、その日の取り上げた音楽を楽しく解説してくれるところにある。ご存じのとおり清塚信也さんは、超売れっ子のピアニストであるだけでなくトークが楽しい、バラエティー番組にも引っ張りだこの方である。

プロのピアニストがピアニストを正面から批評することはなかなかしないものだ。そうすれば、自分の力量と対象のピアニストの力量の差を意識したり、往々にして、嫉妬心などがおこり、はっきり物を言わないのが普通だ。しかし、グールドは没後40年を超えるピアニストでもあるが、清塚さんは極めて率直で公平、説得力のある説明をされており、そこにこの番組の楽しさの秘密があるのだろうと思う。

ところで、クラシック音楽の世界も弱肉強食の世界だなと、しみじみ親爺は思う。というのは、この番組MCの清塚信也さんとクライバーン・コンクールで優勝した盲目のピアニスト辻井伸行さんのお二人は、ほぼほぼコンサートのチケットの宣伝を目にしたことがない。つまり、それは宣伝をしなくてもチケットが売れてしまうのだと思う。

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親爺はこの番組をNHKプラスで録画した。そうであれば、YOUTUBEにアップしてこのブログに張り付ければ、その内容を、一番正確に分かりやすく皆さんに共有できるのだが、それは著作権の問題が生じる。 ついては、申し訳ないですが、このブログに文章にして書きますので、それを読んで判断してください。

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では、ここからその番組の内容を説明する。次の写真は、司会の清塚さんと、ゲストでタレントのハリー杉山さんである。ハリー杉山さんは、お父さんがイギリス人、お母さんが日本人で、子供の頃にチェロをやっていたそうだ。彼が言うには、「オカンがグールドが大好きだった!」ということで、非常に的確なコメントをされる。

1.ノンレガート奏法は、べつに簡単じゃない

この番組の冒頭は、清塚さんがグールドの演奏を真似るようにバッハの平均律クラヴィア曲集第1巻第1曲の有名なプレリュード(前奏曲)を、一音一音、音を区切りながらノンレガート(スタッカート)で弾くシーンから始まった。グールドは、この有名な曲をノンレガートで弾いたのだが、この曲をノンレガートで弾いたプロのピアニストは、他にいないだろう。このノンレガートの演奏方法だけでなく、真夏でもオーバーコートを手放さず厚着をしているとか、食事に関心がなかったとかグールドを特徴づける《エキセントリック》(奇妙、風変わり)というキーワードが、この後、ずっと使われていた。

そもそも、グノーはこのバッハのこの曲を伴奏に用い、有名な歌曲「アヴェ・マリア」を作っているほどで、普通は思いっきりなだらかで滑らかに演奏して、ノンレガートでは演奏しない曲である。

【noboru 1947-3から】バッハの作曲、グノーのアレンジの「アヴェ・マリア」
ヨーヨー・マがチェロを弾いている。とても良いです!(背景で使われているのがバッハの曲である。)

グールドは、この曲をノンレガートでコミカルにさらっと弾き、リスナーを驚かした。しかし、この曲がもつ美しさや穏やかさはまったく失われておらず、非常に新鮮に聴ける。

清塚さんが弾いたノンレガートのこの曲は、ピアニストが普段このような弾き方をすることがないことを窺わせる。つまり、ちょっと批判めいて言いにくいが、音の粒が不揃いで、たどたどしく苦しいものがある。変な表現だが、グールドの弾くノンレガートのこの曲は、ノンレガートなのに滑らかでレガートでもあるように聴こえる。

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ところで、グールドは、世間によく知られた有名な曲ほど、《エキセントリック》に弾いて、音楽好きを挑発したい、あっと言わせたいという傾向があると思う。すぐに思い浮かぶのは、このバッハのこの最初のプレリュードの他に、ベートーヴェンのピアノソナタ第14番「月光」の第1楽章は感傷をまったく抜き、それでも辛さや潔癖さを敢然と感じさせる演奏だ。モーツァルトのトルコ行進曲が含まれるピアノソナタ第11番K331は、隣に住む幼稚園児が弾いているような感じでスタートし、変奏が進むにつれてテンポアップし、最後には、アンダンテの指示がある変奏をアレグレットで弾く。最後のトルコ行進曲も、他のピアニストが決してやらない、なんとも言えない印象的な演奏が聴ける。

もっともモーツァルトのピアノソナタの場合は、どの曲も一般的な演奏から外れた挑発的なものだ。とはいうものの、グールドが《ビタミン剤を注入した演奏》[1]はとても説得力があり、違和感がない。むしろ、オーソドックスな演奏は平板に思えてくるほどだ。


[1] 英国のクラシック音楽テレビの司会者であるハンフリー・バートンとの対談で、グールドは、「モーツァルトのピアノソナタの内声部に、曲が良くなるかどうかは別にして、対位旋律をポリフォニックに加え、《ビタミン剤を注入》することをためらわない。」という意味のことを語っている。

2.清塚さん「腕の力じゃなく体重を乗せて弾くことで、ふくよかできれいなフォルテが出せる。ピアノの基本中の基本です。」

ピアニストがフォルテを弾くときの基本は、「手だけで鍵盤を叩くのではなくて、腕全体に体重を乗せて鍵盤を弾くことで、ふくよかで綺麗なフォルテが出せる。これがピアノを弾くときの基本中の基本です。」と清塚さんは言う。ところがグールドは、この基本中の基本を嫌がり、ピアニストから完全に逸脱している。

彼は、椅子の脚を短く切ったこのピアノ椅子を生涯使い続け、どこへ出かけるにも《愛犬》のようにこの椅子を持ち運んだ言う。このような低い椅子に座り、おまけに椅子をこれ以上に低くすると脚を自由に動かせないので、さらにピアノを数センチ持ち上げて演奏した。この結果、手首が肘より上に来て、ピアノの鍵盤に体重をかけて弾く、普通のピアニストとはまったく違う弾き方(とても褒められない姿勢)になっているという。グールド自身も、この座り方のために本当のフォルテッシモを出せない欠点があると認めている。[2]

清塚さんは、バッハのパルティータ第2番の冒頭のシンフォニアを、思いっきり猫背で顔と鍵盤を近づけ、唸り声も出しながら、グールドを真似つつ弾く。スタジオは、《苦笑》という感じの笑いに包まれる。

清塚さん「(グールドは)強く弾く、大きく弾くという、フォルテというものにあまり興味がなかったのかもしれない。」

ハリー杉山さん「ということは、フォルテというものに彼なりの美しさを感じられなかったということでしょうか。」

清塚さん「そうね、もしくはフォルテと言っても・・・」と言いながら、同じ和音をはるかに小さい音でピアノを鳴らしながら言う。

清塚さん「もっと繊細な音をさらに弱く弾くとか」と言いながら、普通のピアニストより小さい音のフォルテを最大の音の基準にして、「ピアノ、ピアニッシモをもっと小さい音量で表現したのではないか。」と言う。

さらに清塚さん「(グールドの)特徴としては、このような弾き方をすることで、一つ一つの音をはっきり弾き、指でものすごく、この音ソなら、ボリュームの5で弾き、ラの音はボリュームの6で弾く、というように一個づつの音すべてをコントロールしようとしたのではないでしょうか。だから、大雑把にガーっと行く演奏ではなくて、一個づつの音を全部コントロールして、自分のところで支配していたいっていう現れなんじゃないか。」

ハリー杉山さん「まるで譜面以外に、ボリュームの譜面みたいなものが、違う次元で見えているかのように聴こえてきますね。」

[2] 「グレン・グールド発言集」(PL.ロバーツ編・宮澤淳一訳 みすず書房)の1959年「私は自然児です」の対談のなかで、トロントのジャーナリスト、デニス・ブレイスウェイトに語っている。

3. 革命的な演奏スタイル《ポリフォニー》を弾く難しさ

清塚さんは、ポリフォニーについて説明する。

清塚さん「ポリフォニーっていうのは、メロディーに対して伴奏ではなくて、メロディーに対してメロディーがくる。右手がメロディーをやってれば左手もメロディーをやっているという状態のことで、非常に演奏するのが難しい。」

バッハのパルティータ第2番の終曲の第6曲カプリッチョの冒頭部分を弾く。右手の旋律に続いて、左手の旋律が遅れて入ってくる。

清塚さんは、この曲を右手の下降する旋律が始まった後、左手の旋律が上昇しながら入ってくるところを弾き、「これだけ、右手だけ弾いていても凄く難しい。ここで、左手が入ってくる。(左手が)追いかけてくるんですね。左手のクレッシェンドに、右手が一緒に乗っかっていくと、二人で弾いているように聞こえない」

清塚さん「ここを明確に弾くのはすごく難しいんです。右手は下降しながらデクレッシェンドしていき、同時に弾かなければならない左手は上昇していき、クレッシェンドしないといけない。(右手が)一緒にクレッシェンドしちゃうとつられている感じになる。これをバッハだけじゃなくてあらゆる曲にほどこした。」

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ここで親爺は思う。この清塚さんのパルティータを使った説明の例は2声なのだが、グールドが最も好きだったフーガは4声とか、多いものでは5声で書かれた曲が普通である。こうした多声の曲を10本の指しかない一人で、声部を分けながら弾くのは非常に大変である。

グールドは、フーガを弾くときに弦楽四重奏者(第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ビオラ、チェロ)が頭の中で演奏しているようにピアノを弾いていると言っている。しかし現実問題として、フーガであっても4声以上の声部が同時に鳴っているのは少なく、4声の曲でも一つの声部は休止して、実際に同時に鳴っているのは3声ということが多いだろう。逆に、聴く方としても、あまりに多声が同時に鳴るより、声部にメリハリをつけて交代しながら、3声ほどが鳴っている場面の方が聴きやすいということもあるだろう。

ところが、実際の弦楽四重奏団の団員4名がフーガを演奏する場合、どの奏者も自分の義務を十分以上に果たそうとしてずっと音量を下げずに弾き、聴いている方は「暑苦しいなあ」、「ごちゃごちゃしているなあ」と感じがちである。そういう意味では。グールドが自分の解釈で各声部の主役を交代させながら、曲想にも声部にも、メリハリをつけて弾くというのが、非常に聴きやすい。

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ここでグールドが、モーツアルトのピアノソナタの楽譜を書き換えたという話題へと展開していく。グールドが弾く、モーツァルトのピアノソナタ第13番第3楽章が映し出される。ところで、グールドは、『モーツァルトはいかにダメな作曲家になったか』というTV番組をツアー引退後の1968年に作り、それはそれは過激で強烈にモーツァルトをこき下ろしている。その番組は、グールドのこの曲の全曲演奏で締めくくられるのだが、それがまた活力があり楽しく本当に素晴らしい。おそらくグールド自身もうまく弾けたと思っていたんだと思います。

ハリー杉山さん「(普通の演奏と比べて)踊っているというか、ユーフォリア(多幸感:euphoria)の幸福感が増し増しになったような気が・・・・」

清塚さん「だから伴奏じゃなくて、すべてが意味のあるメロディーなんだと、全員が主役のセリフを言っているみたいな雰囲気にモーツァルトをしたかったのかなあという感じもあります。」

4.4人のピアニストのグールド観

(1)ランラン(中国出身の有名なピアニスト・1982年生まれ41歳)

「10歳のとき、グールドが弾くゴルトベルク変奏曲のアリアの映像を見たことを今も覚えています。その美しいサウンドを聴いて、怖がらずに自信を持って自分のイメージを膨らませて演奏すれば良いと教わった気がします。数年前、私なりのゴルトベルクのレコーディングが出来たのも偉大なグレン・グールドのおかげです。最も偉大なグレン・グールド!!(”Greatest Glenn Gould !!”)」

(2)小山実稚恵(1959年生まれ・1982年チャイコフスキー・コンクール3位1985年ショパン・コンクール第4位)

「一番のグールドの音楽の魅力はそこに喜びがあることだと感じています。グールドの体は、グールドが動かしているのかなっていうような、ものに憑かれたような悦楽を感じて演奏している姿がそこにあって、やっぱり、学習と芸術の違いっていうのは、そこに真の喜びがあるかないかという、そこにかかっているのかなと感じています。」

(3)青柳いずみこ(1950年生まれ・東京芸大卒・ピアニスト・エッセイスト・2011年『未来のピアニスト グレン・グールド』発刊)

「とことんゆっくり弾いてみたり、とことん早く弾いてみたり実験をしているんですけれども、どんなにデフォルメしても音楽本来の形が変わらない。崩さないって言うか。普通の才能がそういうことをすると音楽自体ががたがたになってしまうと思うんですけど、正統的な音楽性を持っていてその上でのデフォルメだったということが、素晴らしい指揮者とか演奏家たちには、そのことが分かったんじゃないかなと思います。」

(4)清塚信也(1982年生まれ・桐朋学園大卒・ピアニストだけでなく作曲家、編曲家、俳優でもある。)

同じくMCを務める鈴木愛理さんが、清塚さんにグールドのコメントを求める。

「皆さんおっしゃるには、オーソドックスから離れているという言い方は出来ない。そこで悦楽があると小山実稚恵さんがおっしゃってたけど、そこに喜びがあるからそのまま人に出すっていう怖さを乗り越えた人だと思うんだよね。」

結論 by 親爺 

今のピアニストにとって、ピアノはレガートに弾けば弾くほど良い、3階席の観客までピアニッシモの音も届けるのがピアニストだと考えている間は、グールドのようにポリフォニーを自在に明確に弾き分け、スタッカートとレガートを同居させ、声部ごとに弾き分けるのは、非常に困難だと思う。

グールドを《同業者》と表現し、「練習を1日休むと自分で分かる。2日休むと批評家に分かる。3日休んだら観客に分かる。」と言ったポーランドの有名なピアニスト、パデレフスキの言葉を引用しながら説明をする青柳いずみこさんが告白するように、彼女の指は自在に動かない。それは他のピアニストも大なり小なり同じだ。高い椅子に座って腕を上方から振り降ろし、爆発するようなフォルテで大音響を出し、コンサートホールの観客を圧倒しようと考えるピアニストが、多声の曲の各声部を対等に歌わせる対位法的演奏をすることと、このような爆発的なフォルテを弾くことを両立するのはどうも無理だと思える。

また、グールドは、『ピアノは30分で教えられる』というトピックのインタビューで、「ムカデ[3]は、百本の足の動かし方を考えるのが嫌いです。能力を損なわれるからです。動かし方を考えるとまったく動けなくなるからです。」と言っている。ピアノの練習でも指使いに考えを持っていってはダメだというのだろう。「動作は、円滑かつ自動的に機能しなければならないが、それらに注意をしてはならない。」

また、こうも言っている。「ピアノに向かうよりもたっぷり前から曲目を知り、そして(あるいは)触感を超えた体験をする。そうすればピアノによるあらゆる干渉を抑えられるのです。・・・・完全性は、ピアノから離れてさえいれば理論的には獲得可能です。ピアノに向かった瞬間、触感上の妥協を強いられ、完全性の程度は下がります。そして妥協点を見つけることになりますが、理想を追求した分だけ妥協をしないで済むのです。」 決して、巷間よく言われるように《一生懸命繰り返し練習して、指使いを体に覚えこませる》というような方法で曲を弾こうとしないことだ。

グールドは、あらゆる曲を暗譜で弾いた。抽象的で、暗譜が難しいと言われるシェーンベルクなどの現代曲でも暗譜で弾いた。おまけに一緒に演奏する他の楽器の楽譜も暗譜していた。楽譜にまったく運死(指使い)を書かない。楽譜を見た瞬間に指使いが決まったという。グールド研究者が、楽譜に数字が書かれているのを見つけたら、それは知人の電話番号だったという。ペダルをほとんど踏まないので、ひんぱんに指を持ち替えながら弾く。これらのことは、多くのピアニストがしないことだと親爺は思う。

「グレン・グールド著作集」などの書籍を何冊も出した音楽評論家・編集者であるティム・ペイジは、次のように言っている。 「これまで10本の指を持つ者で、10本の指がそれほどまで見事に独立した生命を持つ者が、誰か今までにいただろうか?」”Has anybody ever possessed ten fingers with ten such marvellously independent lives?”, Tim Page

グールド研究の第1人者である宮澤淳一さんは、グールドは《クラシックの音楽家》ではないと言う。何故なら、王様は作曲家であり、演奏者は家来だと考える音楽界にあって、グールドは自分が王様だと考えているからだという。まったくそのとおりだと思う。

親爺は思う。クラシックの音楽家であろうとなかろうと、リスナーは、演奏される曲が持つ最大の魅力を伝えてくれる最良の演奏を聴いて、感動に浸りたいと思うだけである。

おしまい

[3] ムカデの話:「グレン・グールドは語る」(ジョナサン・コット 宮沢淳一訳 ちくま学芸文庫)の「ピアノは30分で教えられる」でシェーンベルクの言葉として、グールドが語っている。

グールドとジュリアード弦楽四重奏団は、なぜ《亀裂》を生じたのか?

グレン・グールドは、前期ロマン派の曲をたいがい嫌っていた。しかし、1968年にロベルト・シューマン (1810-1856)のピアノ四重奏曲変ホ長調作品47をコロンビアレコードから正規録音でジュリアード弦楽合奏団と残している。シューマン唯一の曲の録音である。これがなかなかいい曲である。

コロンビアレコードの当初の計画では、このピアノ四重奏曲を録音した後に、同じくシューマンのピアノ五重奏曲も録音する予定だった。しかし、ジュリアードと意見が合わず、五重奏曲の方は、バーンスタインがグールドに変わって起用されて、この2曲を入れたレコードが発売された。確執が起こったという発売されたの四重奏曲の演奏は、とても素晴らしくて、とても「亀裂」が入ったとは思えない出来栄えである。

グールド推しである親爺は、カップリングで入っているバーンスタインがピアノを弾いた五重奏曲とともに、他の現代の感情をこめた演奏より、曲の構成に気を配ばり統一感を重視した演奏のこちらの方が好みである。

こちらがそのジャケット

ついては、グールドとジュリアードの間で、何が合わなかったのか、それを考えてみようと思う。それを考えるにあたって、《おしまい》のうしろに二つのユーチューブを張り付けた。最初の方であるレコード盤が写っている方が、上に写真を貼り付けたジャケットに入っているグールドとジュリアードの演奏と同一である。

その後ろのYOUTUBEが、樫本大進さん(ヴァイオリン)が入った合奏団である。樫本大進さんは、最高峰と言われるベルリンフィルハーモニーの主席コンサートマスターである世界的ヴァイオリニストだ。

ここから、グールドとジュリアードの演奏と、現代の豪華メンバーの演奏を比べてみたい。なお、親爺は別に音楽の専門家ではないので、間違っているところもあると思う。その辺をお含み下さい。

また、音楽の曲は何といっても、いくら強弁しても、最後は好き嫌いです。好きだったらそれでよろしい、というのが大前提だと思います。

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グールドとジュリアードの演奏の方は、ピアノに圧倒的な存在感がつねにある。グールドは、全曲を通じて、(存在を消して)控えに専念するということがない。存在感がありながらも、他の楽器を喰ってしまうということもない。曲全体を眺めると、自然でとても楽しい演奏になっている。

グールドは、弦楽器(バイオリン、ビオラ、チェロ)が主旋律を鳴らしているときでも、その背景で、あまりにも正確なタイミングでピアノをポロンとさまざまな音色と音量で鳴らすので、曲のリズムと強弱ががピアノの演奏に制限される。弦楽器奏者に、勝手なリズムと表現を許さない。 

その理由は、楽器の特性が影響していると思える。ピアノは、鍵盤を叩いた瞬間に出る音が最も強く、弦楽器群は、弓をこすりながら音を出すので、音量のピークを自在に変えられる。ピアノは、弦楽器よりリズムに関して、《切れ》がはるかに良い。リズムが明確である。そのため、弦楽器も強音を頭にもってくるのであればそうした弾き方を意識的にする必要がある。 ピアノが弦楽器側に、ピアノと同じように、正確なリズムで演奏するように強要している。

しかも、グールドの弾き方は、コンピューターのようにリズムを崩さないで一音一音を弾ける。速く弾いたときに、《パルス》や《ビート》、《ドライブ感》という表現で言われるグールドの演奏の心地よさを生んでいる。グールドの弾く旋律は、32分音符、64分音符などの音符でも正確に、一音一音刻むことが出来る。アーティキュレーション(旋律のひとかたまり)を弾くときに、字余りだったり、帳尻合わせに、スピードを変えて調整するということがなく気持ちよい。逆に言うなら、他のピアニストは、グールドのように旋律を一音一音はっきり区切りながら弾かずに、ダラダラっとアーティキュレーションの中で一まとめにして弾くのが普通である。

このように、ピアノが一音一音明確に鳴るので、弦楽器もそのような演奏をせざるを得ない。結局、ピアノが全体の曲想を支配しているのだが、ピアノだけが主役という感じはまったくしない。主役のメロディーを鳴らしているのは誰?という感じが往々にする。主役のメロディーが鳴っているときに、その主役が、弦からピアノへ、ピアノから弦へと入れ替わるのはとても快い。

また、グールドの奏法はノンレガートが基本である。ノンレガートは、素人のようにポツポツ弾いただけではだめで、正確なタイミングで弾かなければ逆効果である。ところが、普通のピアニストはレガートが基本である。こちらは、リズムが少々脱線してもアーティキュレーションの中で調整できるので誤魔化しがきく。とうぜん、その分曲想が曖昧になる。

ちょっと話がそれるが、バッハの有名な「イタリア協奏曲*」の第2楽章アンダンテで、バスが同じ音で一定のリズムで出てくるのだが、グールドはノンレガート(スタッカート)奏法でこのバス音を印象的に弾いている。あまりに正確なタイミングで鳴るので、とても説得力があり、コミカルな印象を与えているのだが、これと同じ芸当をする他のピアニストを親爺は知らない。ノンレガートで弾くのも、レガートで弾きなれているピアニストには結構難しい感じがする。

(注)*イタリア協奏曲は、協奏曲と言いながらピアノソロの曲です。なにやら、リトルネロ形式というバロック時代の書風で書かれているので、協奏曲というのだそうです。

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一方、ベルリンフィルのコンマスである樫本大進組は、画面を見ると全員が楽譜を前に演奏している。

ここでまたまた脱線するが!!、グールドは、ザルツブルグ音楽祭でチェリストの大先輩のシュナイダーと共演した際、「オマエ、楽譜をピアノの前に置いて演奏しろ。いいな。」と釘を刺されるのだが、舞台に現れたグールドは、楽譜をお尻に弾いて演奏をはじめたというエピソードを思い起こした。このグールドは、自分のパートを暗譜しているだけでなく、他の楽器のパートも暗譜していて、そうした記憶力は共演者から嫌がられたらしい。

再び、樫本大進組の演奏に話を戻す。 こちらの演奏では、アーティキュレーションの中で、ピアノも小さく速度を変え、抑揚も変えている。それは、弦楽器もおなじである。ピアノは弦楽器が主体的な場面では、音量を控え、リズムも崩し気味である。ピアノの存在がないかのような場面もある。逆に、弦楽器が控えめで、ピアノが主体的な場面では、ピアノが名人芸を披露するのを弦楽器が伴奏にまわってサポートする。個性を尊重するのを良しとしているのか、別個の主張をして、あえて3台の弦楽器が揃わない場面もある。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ピアノがそれぞれ主役をとる場面があり、すべての楽器の音が鳴りながらも、主役が交代していく。その時に、主役の楽器は、かなり感情を込めて個性を出すように演奏し、他の楽器はサポート役に回っている。そして、どの楽器も感情を籠めて自分の役割を最大限に発揮しようとする。それがずっとである。クライマックスを、思いを込めた《緊張感》で表現しているように思える。

(ロマン派の音楽を演奏する際に)一音一音明確に区切るより、ロマンチックに崩すことで、感情たっぷりに歌いたい気持ちがどの演奏家たちの根本にもあるように感じる。

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グールドは、弦楽器の背景に回っても正確なリズムを刻んでいるのが聞こえる。しかも、その背景のピアノの音が、控えめに優しく弾けば、弦楽器は激しく大きな音で弾くわけにはいかない。逆にクレッシェンドしながら、弾けば、弦楽器もそのように弾かざるを得ない。ピアノという楽器は、弾きようだとは思うが、非常に目立つ音を出す楽器だ。グールドは、曲の全体の構成と楽章の構成を考え、どのように演奏するともっとも効果的かを考えているように思える。

そのために、インテンポ(正確なテンポ)を重視し、各自が自由に速度を変えるルバートを排除しようとしているようにみえる。統一感を大事にするからだろう。ルバートすることで、感情の抑揚を表現するのことは、ときとして、頑張りすぎが感動の押し売りになる。名人芸を示したいのかもしれないが、長くこれをやられると、聴く方は疲れる。

おかげで、グールドとジュリアードの演奏は、大きな音で演奏する場合にも、強い主張や《驚き》があっても、《緊張感》はない。

逆に、こうした演奏を強いられるジュリアードの面々は、この不自由さが嫌だったんではないでしょうか。どうですかね?

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親爺は思うのですが、グールドは、ロマン派の音楽を弾くときに感情を排し、バッハなどの古典曲を弾くときにはロマンチックに弾くのがグールドなのかもしれません。そうなら、なかなかの天邪鬼ですね。

おしまい

【以下、YOUTUBEのキャプションから】11,244 回視聴 2021/07/30
グールドが録音したすべての室内楽作品の中で、1968年5月9日と10日にニューヨークで録音されたピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのためのシューマン四重奏曲変ホ長調作品47ほど物議を醸す作品はない。
グールド自身も、この録音の過程で、彼とジュリアード四重奏団の3人のメンバーの間に、ますます深まり、最終的には取り返しのつかない「亀裂」が生じたと認めた。
この歴史的な摩擦にもかかわらず、グールドとジュリアード四重奏団は共に素晴らしい音楽を作りました。
彼らのシューマン四重奏曲はドラマチックで騒がしく、それでいて所々抒情的でもあり、弦楽器とピアノの優しい音色が響きます。
この音楽の中にはかなり速く演奏されるものもあり、グールドの正確なピアニスト能力がこの作品に素晴らしい華やかさと興奮を与えています。
グールドが演奏した唯一のシューマン作品です。
コロンビアは五重奏曲作品 34 も演奏することを計画し、望んでいた。
しかし、それは実現しませんでした。
バーンスタインはレコードの裏側のピアニストでした。
I. ソステヌート・アッサイ – アレグロ・マ・ノン・トロッポ 8’57”
II. スケルツォ・モルト・ヴィヴァーチェ・トリオ I – トリオ II 3’37”
III.Andante cantabile 7’57”
IV. Finale. Vivace 6’59”
ジュリアード弦楽四重奏団のメンバー
ロバート・マン、ヴァイオリン ラファエル・ヒリヤー、ヴィオラ クラウス・アダム、チェロ
【以下、YOUTUBEのキャプションから】417,574 回視聴 2019/02/11
ロベルト・シューマン (1810-1856): ピアノ四重奏曲第 1 番 変ホ長調 op.47 (1786)
樫本大進、ヴァイオリン / ギラッド・カルニ、ヴィオラ / G ガベッタ、チェロ / ネルソン・ゲルナー、
ピアノ ソステヌート・アッサイ – アレグロだがやりすぎない ( 00:12 )
スケルツォ: 元気いっぱいのモルト – トリオ I – トリオ II ( 08:51 )
アンダンテ・カンタービレ ( 12:23 )
フィナーレ: ヴィヴァーチェ ( 19:19 ) )
ソルスベルク音楽祭 201 8 で録音 © HMF Productions フィルム: ヨハネス・バッハマン 音響: ジョエル・コーミエ タグ: ロベルト・シューマン、ピアノ四重奏曲、クラヴィーア四重奏曲、第 1 番、第 1 番、第 1 番、変ホ長調、エス-デュル、作品147、作品47、
樫本大進、ヴァイオリン、ギラッド・カルニ、ヴィオラ、ソル・ガベッタ、チェロ、ネルソン・ゲルナー、ピアノ

檜原村にある天光寺へ 『お百度参り』と『滝行』をやってきた!

親爺は、コロナのマスクを外しても良いという4月に、成田山新勝寺で初心者向けの座禅体験に出かけ、こうした宗教的な儀式にもいいものがあるなあと感じた。

それで7月4日、もう滝に打たれてもさほど寒くないだろうと思い、東京都西多摩郡にある天光寺というところで、『お百度参り』と『滝行』の半日体験に参加してきた。

下の写真が天光寺の建物である。道路に面した鉄筋3階建ての建物で、見えているのは3階部分にあたる。建物の中には、宗教施設の部屋が大小あり、真言宗の開祖である弘法大師(空海)のご本尊や祭壇がある。そこで僧侶から半日体験の説明を受けて、『お百度参り』と『滝行』へと出発する。

『お百度参り』と『滝行』のどちらも、初心者向けで時間や繰り返す回数などが、本来の修行と比べるとはるかに短縮されているのだが、それでも本格的だった。親爺は、冬が終わった暑い時期に滝の水を被れば気持ちよいだろうという軽い気持ちで参加したのだった。

下の写真が『お百度参り』へ向かう様子である。この日の参加者は、女性が1人、男性が5人で、親爺以外は、全員20~30代の若者と高校生だった。3人がユーチューバーの若者の友達同士で、1人は、この後にアメリカへ留学するという高校生だった。

下が、『滝行』の様子である。『滝行』は、大変な苦行だった。滝つぼに入ると、息もろくにできず溺れるかと思った。動画を見てもらえれば分かると思うが、水量が非常に多かった。梅雨の時期なので、連日降雨があったからだ。

この場所に着くのも一苦労である。マイクロバスに乗って山道を登り、通行止めの柵があるところで、バスを降りる。柵を解除して、さらに山道を登っていく。足場の悪い滑りそうな沢沿いの山道であり、そこはふもとより気温も低い。

今回の水量が少ないときは、もう少し長い時間『滝行』をするようだが、今回は2分半で行われた。

親爺が『滝行』をやっている様子をアップしたかったのだが、動画がうまく取れておらず、許可をこころよく出してくれた3人組のユーチューバー、《ジョパンニ》の面々の様子をアップさせてもらった。

こちらが滝行の様子である。写っているのは、ユーチューバーの《ジョパンニ》の若者たちである。

親爺は、自分のふがいなさに打ちのめされた。というのは、この『滝行』では、『滝行』を一人ずつやり、残るメンバーは応援することになっている。3番目に『滝行』をした親爺は、疲弊したのと、ずぶぬれになったので、残るメンバーの応援をするよりまず着替えをしていた。

動画や写真を撮るために三脚とカメラを持って行ったのだが、そうすると余計なものを運ばないといけないし、操作もしなければならない。そんな余裕などないのである。

また、一とおり終わり、お堂にもどり全員が揃ったところで、僧侶が感想を一人一人に聞いた。その場面で、親爺は「溺れるかと思いました。」と答えたあと、何か質問しようとしたら、僧侶に「聞かれた感想以外を言ってはいけない。話題を変えると、聞いている人が戸惑うでしょう。」とピシャリと遮られた。

一とおり感想を聞き終わったあとで、僧侶は親爺の質問に答える時間を作ってくれたのだが、どうもマナーが悪かったと痛感し、かえって悩みは深まったものだ。

親爺はダメだ。悩みはつきない!

おしまい

また、BBCが日本を舞台にした『痴漢動画の闇サイトを暴く 売られる性暴力』を配信。 警察は動け、NHKはBBCを見習え!!

親爺は、文化放送のラジオ番組『おはよう寺ちゃん』という番組が好きでよく聞いている。6月12日に流されたこの番組で、イギリス在住の著述家めいろま(谷本真由美)さんが、BBCが『日本の痴漢動画販売の闇を暴く』というドキュメンタリー番組を放送したという話題が、東京とロンドンをつないで取り上げられた。

めいろまさんは、『世界のニュースを日本人は何も知らない』というシリーズがワニブックス新書で大ヒットして、あっという間に、シリーズ4冊目が売られている人気作家である。

そんなで、早速、そのBBCのドキュメンタリー番組を見てみた。

YOUTUBEからのスクリーンショット このバンドが痴漢動画のサイトに深く関わっている

これがあまりにすごい内容だ。ざっくりと内容を書けば、日本に住む中国人の仲間たちが、東アジアの各国(シンガポール、中国、韓国、台湾、日本)から痴漢など性犯罪のビデオを集めたサイトを目ざとく3つ作り、月に何万ドルもの金儲けをしている。それらの動画は《やらせ》ではなく、実際に行われた性犯罪行為の実写である。

この番組は非常によく出来ていて、日本の鉄道警察隊の刑事たちががラッシュアワーの地下鉄の駅でチームを組みながら張り込み、痴漢と思しき犯人に目星をつけ、怪しい動きをする男を確保して事情聴取する様子が実写で出てくる。他にも、列車で痴漢が捕まる場面も流される。ナレーションとともに「毎年、数千人の痴漢が逮捕され、多くは少額の罰金が科される。」との字幕が流れる。

おなじく、番組では日本人と中国人の女性が、それぞれ通学時に毎日痴漢被害に遭遇し、尊厳や自己肯定感を無くしてしまう経験が、悲痛に語られる。日本人女性は泣き寝入りをするのだが、中国人女性は自分で犯人を押さえて警察へ連れて行く。

若い時分に痴漢にあった女性たちが、電車での痴漢を無くす運動をしている様子も、番組は平行しながら取り上げる。

この番組を作ったBBCのメインの記者は、中国広州出身の女性記者である。彼女は、被害にあう女性を取材したり、日本の風俗「痴漢電車」へ取材に行き、その経営者と従業員である風俗嬢たちを取材する。この風俗店では痴漢がアミューズメントとして体験できる、と紹介されている。

やがて、番組はこれらの動画がどこで作られ、どこで流して、誰が儲けているのか追及を始める。このプロセスが、ドラマ並みの迫力で、記者だけでなく、音楽バンドの大物スカウトに扮したBBCの覆面記者が、中国人バンドに接触し、サイトの元締めである主犯人物にアプローチする。

最終的には、この女性記者と覆面記者たちは、主犯人物のマンションを突き止め、突撃し、罪を認めさせようとするのだが、主犯の中国人は逆ギレして、記者たちに暴力を振るう。主犯は、成田空港から出国したということも報道される。

このなかで、BBCは「公共の場で女性が性的に暴行されるのは、世界各地に起きている現象です。けれども日本では社会全体にはびこる問題です。との字幕が流れるのだが、この言説に親爺は共感する。

おっしゃるとおりです。日本はいろんなことが歪んでいるのです。 

おしまい