トーマス・マン「魔の山」その2 ネタバレのあらすじ

ネタバレのあらすじ

舞台は、世界中から結核患者が集まるスイスのダボスの高地の《ベルクホーフ》という名のサナトリウムである。

標高1500メートルのダボスには、何十件もサナトリウムがあったらしい

第1次世界大戦の7年前である1907年、24歳のドイツ・ハンブルグ生まれのハンスが、従弟のヨアヒムを3週間の予定で見舞いに訪ねる。ハンスは、造船工学を学んだエンジニアで、造船所で見習いとしての就職が決まっており、気軽な立場で、任地へ赴任する前に見舞いに立ち寄ろうとしていた。ハンスは、この就職前の試験勉強のために、たいへんな勉強をして疲れ果ててしまい、医者からアルプスでの転地療養を勧められ、ヨアヒムを訪ねるところだった。

一方、従弟のヨアヒムは、ハンスより背も高く、肩幅も広い立派な体格をしていた。しかし、実のところ風邪をひきやすく、すぐに熱を出し、ある日とうとう血痰を吐いた。ハンスは、家族の希望通り法律を勉強していたが、やむなく進路を変えて、プロシア軍の士官候補生として採用されていた。ところが、結核の治療のため入院していた。

ハンスは、人生をこれから始めようとする青年であり、ヨアヒムは、一刻も早く病気を治して、軍人としてデビューをしたいと考えていた。

ハンスは、ヨアヒムに教わりながら、《ベルクホーフ》で様々な国の様々な人たちに囲まれて、サナトリウムの生活を始める。サナトリウムの生活水準は、医師や看護師の他に、料理人、給仕たちや門番などが揃って高く、患者の食事は、栄養があり豪華で、日に5度もあり、厳しいが美しいアルプスの高地を散歩をしたり、バルコニーで体を延ばして労わる安静療養の時間など規則正しい生活を送るようになっている。

しかし、バルコニーは隣の部屋とつながっており、患者同士の不倫や情事が密かにおこるなどもあり、根底にある倫理観や道徳観は、1900年ころの当時と、今も変わらない。

そのサナトリウムには、古くからの患者に、30代のイタリア人でフリーメーソンのセテムブリーニがいた。人文主義者を自称し、代々続く文学者の家系にあるセテムブリーニは、いつも同じ着古した一張羅を着こなす紳士だが、若い二人を見込んで、ヒューマニズム、啓蒙思想、自由、博愛など様々な思想について皮肉交じりにウンチクを語り、ある種、矯正的な感化及ぼそうと語ってくる。

フリーメーソン:16世紀ころに成立した秘密結社。「自由」「平等」「友愛」「寛容」「人道」を理念とする。

サナトリウムでは、補佐役の医師が、患者相手に病患形成力としての」というテーマで連続講義する時間を設けていた。世界中から集まった老いも若きも、男も女も、既婚者も未婚者も、様々な患者たちが揃っているサナトリウムだが、「愛」については、誰もが興味深々で、精神的な愛と肉欲的な愛がごちゃ混ぜになった話に、婦人たちは頬を紅潮させ、男たちは耳を揺すぶらせて聞き入っていた。その医師の結論は、「病気は、愛の表現である。」というものだった。

療養者にロシア人の若く美しいクラウディア夫人もいた。ハンスは、一目見たとたんに、彼女に恋心を抱く。クラウディア夫人は、夫と別居し、結婚指輪を嵌めず、処々方々の療養地を渡り歩き、ハンスの目には、無作法でだらしのないところがある夫人なのだが、ハンスは自身の自負心と照らし合わせ、クラウディア夫人に対し優越感を覚え、クラウディア夫人の手の平にキスをする夢を見て、甘美な感情に満たされる。ハンスは最初のうちは、クラウディア夫人との関係を休暇中の一ロマンス、遊びぐらいにしか考えていなかったが、それが微妙な関係から生まれてくる興奮、緊張、満足、失望などを感じることで、これが夏の旅行の真の目的へと変わっていく。

ハンスのクラウディア夫人に対する恋心は、ヒッペという男子の同級生に対する好意に類似していた。ハンスは12,13歳のころ、飛び級をしている模範生のヒッペに好意を寄せていた。その感情は、直接にヒッペに分かるように告白するというようなものではない淡いものだった。ハンスは、クラウディア夫人を一目見たときに、ヒッペに再開したような感覚になる。そして、ハンスは、クラウディア夫人に恋心のサインを送りはじめる。そのサインは周囲の人たちに簡単にバレていたが、ハンスの行為は、回りくどいものだったので、クラウディア夫人は知らぬ顔で無視を続ける。

従弟を見舞いに行ったはずの気楽な立場のハンスだったが、彼にも発熱症状があることがわかった。見舞いの立場から、患者としての療養生活が始まる。ハンスは、療養生活がすぐにでも治るものと考えていたが、最終的に第1次世界大戦がはじまるまでの7年間に及ぶことになる。

やっとのことで、二人きりで話ができる瞬間が訪れ、ハンスはクラウディア夫人に跪いて愛を告白する。しかし、クラウディア夫人は「坊ちゃんが、何を言うの。」と取り合わない。この時、ドイツ語やフランス語では男女の間で親しくなってからでないと使わない「君」という表現をハンスはクラウディア夫人に使い、「なんて図々しい人なの!」と呆れられる。 しかも、彼女はこのサナトリウムを明日去るという。翌日になって、ハンスは、呆然となってクラウディア夫人を建物の陰から見送ることしかできない。

映画「魔の山」

文学士、啓蒙家で、貧乏なセテムブリーニはやがて、サナトリウムを出て、村人の家の屋根裏部屋でほとんど調度のない暮らし始める。その家の階下には、贅沢な調度品に囲まれて暮らすナフタがいた。ナフタは、オーストリア生まれのユダヤ人だったが、イエズス会のカトリック教徒に改宗し、出世街道を進んでいたのだが、病気の発病により出世の道が閉ざされていた。 このセテムブリーニとナフタは全く正反対の意見を持っており、セテムブリーニから「人生の厄介息子」と評されるハンスとヨアヒムの前で、いつも議論を戦わせている。この二人の話が非常に熱を帯びていて、長いのだが、説得力はない。しかし、「魔の山」の特色を形作っているのは、間違いない。

イエズス会 資金面で豊かなだが、「イエズス会員」を表す言葉(たとえば英語のJesuit)が、しばしば「陰謀好きな人、ずる賢い人」という意味でも用いられ、近代において、プロテスタント側のみならずカトリック側の人間からも、さまざまな陰謀の首謀者と目されることが多い

セテムブリーニは、ナフタのいないところで、ナフタがいまだにイエズス会に養われている身であることをばらし、悪魔的だと非難する。ナフタは、同じようにセテムブリーニのいないところで、セテムブリーニを、フリーメーソンだとばらし、彼の思想は時代遅れも甚だしいブルジョワ的啓蒙精神と自由思想的無神論であるにも拘わらず、滑稽な自己欺瞞に酔っていると非難する。

二人の議論の一例をあげると、こういう具合である。こうした議論が、延々と果てしなく続く。

「・・・・セテムブリーニはびくともしなかった。ナフタ氏は、と彼は言った。問題は墨で字を書くことではなくて、人類の本源的要求である文学、文学的精神にほかならぬことを百も承知の上でこういうことを言われるのであるが、何とも憐れむべき嘲弄家ではないか!文学的精神とは精神そのものであり、分析と形式の結合という奇蹟であるこの精神こそあらゆる人間的なものに対する理解を覚醒せしめ、愚昧なる価値判断や信念などの力を弱めて解体させ、人類の教化、醇化、向上をもたらすのである。・・・・・

ああ、しかし相手のナフタも黙ってはいなかった。彼はセテムブリーニ氏の天使的頌歌(ハレルヤ)を意地悪い、目覚ましい反論をもって撹乱し、あの熾天使のごとく高尚なる偽善の背後に潜むのは破壊の精神であると断じ、それに対してみずからは保守と生命の味方にたつといった。セテムブリーニ氏が声をふるわせて独唱された奇蹟の結合なるものは、要するにいんちきな手品にほかならない。なぜなら、文学の精神は・・・・

それをハンスは、こう思っていた。

「・・・ところでハンスは自分の哀れな魂こそ彼らの弁証法的争論の主要な対象だと考えたがっていた。・・・」

軍での出世が約束され、軍に貢献したいと願うヨアヒムだが、いつまでたっても病気が回復しない。とうとうしびれを切らした彼は、回復しない状態で、軍に入隊すると強く決心し、サナトリウムを降り、出発する。 しばらくは、昇進し少尉になったとか、軍隊で元気にやっているといた内容のヨアヒムから手紙がハンスに届くのだが、徐々に軍隊生活が病気によりうまく勤められない様子が伝わってくる。

ハンスは、スキーを初めて履いて一人で冬の山中を彷徨う。最初天候は良かったのだが、突然吹雪き、方向が全く分からなくなる。疲労困憊し、ちょっとした小休止の時に葡萄酒を口にして眠ってしまい、海辺で母と娘や、乙女たちが舞う美しいが性的な夢を見る。やがて夢は、醜い老女が半裸で、幼児を引き裂き、肉片をむさぼり食う場面でハンスは、夢から覚める。彼のスキー行軍は、いつの間にか元の場所に戻るという非常な困難を伴うのだが、ハンスは桎梏からどうにか身をほどき、なんとか奮起して下山する。

ハンスは、スポンサーであるティーナッペル叔父の訪問を受ける。叔父は、ハンスがいつまでこの高地にいるつもりか詰問しにやってきたのだった。しかし、サナトリウムの多くの病人たちや感染状況などを知るにつれ納得するようになり、また、自分が狭量だと思われたくもなかった。ティーナッペルは、サナトリウムで下界ではできないような様々な体験をして、療養中のある夫人の豊満な乳房に魅了されたたり、むしろ下界の生活を送ることが当分の間、完全に間違った不自然な不法なものに感じられるという予感を抱いて恐ろしくなり、ハンスに別れを告げることなく、朝一番の列車で逃げるように帰ってしまう。 これで、下界にはハンスの療養生活を否定する者はいなくなる。

さらに時間がたち、ヨアヒムは、再び病気がひどくなり、母親に伴われてサナトリウムに戻ってくる。ハンスはもちろん、サナトリウムでヨアヒムを知る者たちは、ヨアヒムの帰還を知ってを喜ぶ。

ヨアヒムと彼の母親は、アルプス旅行中の汽車の中で、クラウディア夫人に会い、近く彼女がサナトリウムに戻ってくるということを聞かされていた。母親が、ハンスにそのことを伝え、「とても奇麗な人でした。どこか開けっ放しで投げやりなところがあったけど・・・」と言うのに対して、ハンスは、「あの人には人文的風俗習慣の尺度をもって近づいてはいけない。・・・」と急に饒舌になり、ネガティブな言葉ばかりを言い、母親を驚かせる。

ヨアヒムは、再入院の当初、軍隊生活で男らしさを増したように感じられ、ハンスをはじめとするサナトリウムの面々は喜ぶ。しかし、ヨアヒムの病状は、目に見えて悪化し、やがて食事さえも困難になり、ヨアヒムはまもなく死亡する。呆然とするハンス。ここで物語は、第二部へと進む。

そこへハンスが恋心を抱いているクラウディア夫人がベルクホーフに戻ってくる。ハンスは、軍隊に行っていたヨアヒムから、クラウディア夫人が戻ってくると前もって聞かされていた。しかし、クラウディア夫人は、オランダ人のコーヒー王、ペーペルコルンという老年の男性と一緒に戻ってきた。衝撃を受けるハンス。 しかも、ペーペルコルンは大きな存在感、人間性があり、議論好きなセテムブリーニやナフタをはっきり凌駕する。

もともと慇懃すぎる性格のハンスは、クラウディア夫人をペーペルコルンと争うようなことは全くせず、どんな場面でも王者で、支配者であるペーペルコルンを「人物だ!」と尊敬する。冷淡だったが、どこか肩透かしをされるクラウディア夫人。

ハンスとセテムブリーニ、ナフタ、クラウディア夫人、ペーペルコルンとあと二人、ヴェーザル(ピアノで結婚行進曲を弾くマンハイム生まれの商人・青年)とフェルゲ(ペテルスブルグ出身。高尚な話に向かないと自称する善良な忍従者)の6人は、行動を共にすることが多かった。ヴェーザルは、ハンス同様、クラウディア夫人を自分のものにしたいと思っており、同類と感じてハンスのコートを持ったり、ハンスに対しへりくだった態度をとる。

金持ちのペーペルコルンが費用のすべてを負担して、彼らは、盛大にカード遊びや酒盛りを連夜、遅くまでする。

セテムブリーニとナフタは相変わらず、熱心に哲学的な神学論争を烈しく続けるのだが、ペーペルコルンのいるところでは、いつも彼の存在感の方が上回り、「彼の影響力のために、論争はその決定的に重要だという印象をぼかされてしまい ー こう言っては大変気の毒だが ー 結局こういう議論はどうだっていいのだという印象をみなに与えてしまった。」

遊びなど、共通体験を深めることで、ペーペルコルンに信頼を寄せるハンスをペーペルコルンも評価する。その長い盛大な酒盛りの深夜、別れ際に、酔っぱらったペーペルコルンは、ハンスがクラウディア夫人に接吻するように求める。「お別れにこの美しい女(ひと)の額に接吻したまえ、お若いお方。」と言い、ハンスは「いけません、閣下」「あなたの旅のお連れに接吻するなどということは、私にはできないからです。」と拒む。

ある晩、ハンスは、クラウディア夫人がパトロンであるペーペルコルンが寝ている時間を見計らい二人だけで話をするチャンスを得る。相変わらずハンスはクラウディア夫人を、「君」と呼び、クラウディア夫人は「そういういい方は、問題にしないことにするわ」と応じる。ハンスは、相変わらず、理屈っぽく遠回りにクラウディア夫人に言い寄る。最後に、クラウディア夫人は「あたしはあんたが冷静なのに腹をたてていたのよ。」「あんたがあの人を尊敬しているのを見て、うれしかったわ。いいわ、二人で同盟を結びましょう。」といい、ハンスの手を取り、ロシア風のキスをする。

ハンスは、ペーペルコルンとさらに仲良くなり、いろいろ教わる間柄になる。ある日、病気の老人であるペーペルコルンはハンスに問いかける。ここが、この小説のハイライト。

あなたは、一度もマダム(クラウディア夫人)を『あなた』と呼んだことがない。・・・あなたは、盛り上がった宴の最後に私がマダムに接吻するように求めたとき、馬鹿げているという理由で承知されなかった。そう言う釈明では、もう一つ別の釈明が入用だとあなたも異存がないはずです。その義務を果たしていただくわけにはいきませんか。あなたはクラウディアが前にここに居たときの愛人だった?」

「あなたには嘘をいいたくないです。ぼくはクラウディアを ー 御免なさい ー 旅のお連れを世間的な意味合いでは交際は全くありませんでした。しかし、ぼくは心の中でクラウディアを親しみを込めて『君』と呼んでいました。ただ、クラウディアがサナトリウムを出ていく前の晩、はじめて親しく話をしたのです。」

「あなたは今でもあの人を愛しておいでなのですね。」

「ぼくはあなたを非常に尊敬し讃嘆しておりますから、ぼくのあなたの旅のお連れに対する気持ちを、ぼくのあなたへの気持ちから言ってどうもおもしろくないのですが。」

「あの人(クラウディア夫人)も同じ気持ちを持っているのでしょうか?」

「ぼくはあの人が今までにそういう気持ちを持ったことがあるとは申しません。ぼくにはむろん女性に愛されるようなところはあまりありません。ぼくにはどんな人間的な大きさがあるでしょう。・・・ぼくがこんなことをお話したのは・・・過去のいきさつのせいで、ぼくに好意をお寄せくださるのをおやめにならないようにお願いしたかったからです。それだけが気がかりなのです。」

「それにしても、私があなたに自分では知らずに与えた苦しみは、たいへんなものたったに違いない。」

ハンスとペーペルコルンの熱のこもった会話は続く。

ハンスは、病気により長くサナトリウムに留まり世間と縁が切れてしまい、死んだも同然で、クラウディアへの理性を失った愛情表現も病気に屈服したからだというような意味のことを述べる。これに対し、ペーペルコルンは、もし自分が悪性の熱に参っていなければ、男対男ととして武器を手にして、あなたの名誉回復の要求にこたえただろう、また、自分が知らずにハンスに与えた苦痛に対して、また、自分の旅の連れがあなたに与えた苦痛に対して、あなたの満足のいくように取り計らっただろうと言う。さらに、ペーペルコルンはハンスに、お互い『君』と呼び合う兄弟になろうと申し出る。 ふたりは、グラスを交わして兄弟と認め合う。

仲の良い6人は、2頭の馬車を仕立てて森と峡谷の中にある滝へピクニックに出かける。

その途中、同じ馬車に二人で乗るヴェーザルはハンスに言う。「あなたは今では、ペーペルコルンが出てきて、おかしなことになっているが、一度はうまい巡り会わせで楽園に遊んでクラウディア夫人の腕を頸に巻き付けられたことがあるから、わたしに対して上から目線なんです。」「私は、クラウディア夫人に、もう、ぞっこんです。私がどんなに彼女に焦がれ飢えているか、しかもその思いが遂げられずに我慢していなければならないか、その苦しみはとても言葉ではいいあらわせません。・・・。」とハンスにこぼす。

滝では、ペーペルコルンがワインを何杯も飲みながら、立ち上がって口を動かすのだが、何を言っているのか誰にも理解できないものの、全員がその存在感に圧倒され、頷きながら頭を縦に振って納得していた。やがて、ペーペルコルンは出発を命じた。

そのピクニックの晩、ペーペルコルンは、象牙を使いコブラの歯を模し、毒を入れた注射器で自殺する。その夜、よく眠れなかったハンスは、深夜2時、クラウディアに呼び出されペーペルコルンが自殺した部屋で二人で話をする。

「この人は私たちのことを知っていたのかしら。」とクラウディアが言う。「この人は、ぼくが君にキスをしなかった時に、万事察してしまったのです。いま、この人が言ったとおりにするのを許していただけないでしょうか。」とハンス。クラウディア夫人は目を閉じて、彼の方へ顔を差し出した。ハンスはその額に唇をつけた。そのあと、クラウディア夫人はベルクホーフを去る。

ハンスは、ペーペルコルンとクラウディア夫人を失い、完全に行き詰まっていた。ハンスの顔は、ヨアヒムが自暴自棄な反抗を固めはじめたころに見せた顔つきを、はっきりと思い出させた。 ハンスは、自分の周囲を見渡した。周囲のものは、時間のない生活、心配も希望もない生活、停滞していながらうわべだけは活発に見える放蕩な生活、死んだ生活だった。

ベルクホーフでは、あらゆる慰みごとが流行っていた。写真の現像、切手の蒐集、チョコレートをむさぼり食う、目をつぶってブタの絵を描く、数学、トランプなど、ハンスもこられに夢中になる。 ハンス自身、自分の身に巣くう「恐ろしい鈍感」に慄然とする

 サナトリウムに突然最新鋭の蓄音機が設置させる。その蓄音機は最高級品であり、素晴らしい音を出した。また、200枚以上のレコードがあり、最高峰の楽団が演奏していた。療養者全員が夢中になるのだが、ハンスはその蓄音機の操作者になることを買ってでる。そして、一人でもその音楽を楽しむ。ハンスが好きだった曲は、オペラ、「アイーダ」。これを味わった後にドビュッシーの「牧神の午後」を聴いて息抜き。その次が、オペラ、「カルメン」。グノーのオペラ、「ファウスト」の中の「祈り」の歌。最後にシューベルトの「菩提樹」の「泉のほとりに」。 ハンスは、この「菩提樹」の中に希望を見出す。

ベルクホーフでは補佐役の医師が研究結果を講演で発表していたが、やがて神秘的な世界へと入り込んでいく。若い生娘を霊媒にしてこっくりさんに熱中する。生娘には霊が取りつき、死者を呼べる。ハンスは、ヨアヒムを呼び出すよう依頼する。不思議な現象が様々に起こる。

ベルクホーフは、毒々しい口論、憤怒の爆発、名状しがたい苛立ちに支配されるようになる。 最近入所した反ユダヤ主義者は、ユダヤ人の入所者と悪童のような取っ組み合いから、誰も見たことがないような死に物狂いの喧嘩をする。

また、ポーランド人の間で、名誉棄損事件が起こり、お互いが非難する文書を入所者にばら撒いていた。これを受け取ったセテムブリーニとナフタの二人は、決定的な口論に発展し、ナフタはついにセテムブリーニに決闘を申し込む。これを受けるセテムブリーニ。何とか翻意させようとするハンス。

しかし、二人は翻意せず、ピストルを至近距離から撃ちあう決闘を行う。フェルゲとヴェーザルが介添え人となり、ハンスは立会人となる。15歩離れたところで、お互いが向き合い、3歩ずつ前進し、ピストルを互いの胸に向けあう。その時、セテムブリーニは空に向けて何発かは発射する。「あなたは空へ向けて発射された。」怒るナフタ。「どこへ撃とうと私の自由です。」「もう一度うちたまえ。」「そのつもりはない。さあ、あなたの番だ。」 ナフタは「卑怯者!」と絶叫し、自分の頭に弾丸を打ち込んだ。

ハンスは、サナトリウムでは人畜無害な人物であり、放置されるようになっていた。自由と呼んでよいのか放恣(気儘で節度がない)なのか。

 しかし、このとき轟然と世界がどよめき、青天の霹靂がとどろいた。オーストリア・ハンガリー皇太子銃撃事件を契機にする第1次世界大戦の勃発である。セテムブリーニは、決闘事件以来、呆然自失となり無気力だったが、破局へ向かうヨーロッパの運命とともに複雑な心境だった。

ベルクホーフは、母国へ降りていこうとする人たちで混乱していた。ハンスもそうだ。セテムブリーニは、ハンスを駅まで見送り、「あなた」と呼びかけるのを止め、「ジョヴァンニ」(Giovanni)と「君」と何度も呼びかける。「私は君がもっと違った形での出発をするところを見たかった。でも、いいでしょう。・・・勇敢にお戦いなさい。さようなら。」 

ジョヴァンニというのは、モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」からきている呼びかけで、「色男!」的な親近感を表す呼びかけだろうと、主は思う。

ハンスは、3千人の増援部隊の一員として、戦場にいた。彼らはすでに甚大な被害を被っていたが、目的地まで戦わなければならない。弾丸が当たり、額を、心臓を、腹部を撃たれ、腕を伸ばしながら倒れる、顔を泥の中に伏せて横たわる戦友の間を、よろめきながら突進していく。生存を期待できない悲惨な戦争である。

一番最後の部分を写し取ると、・・

「君は『鬼ごっこ』によって、死と肉体の放縦との中から、予感に充ちて愛の夢が生まれてくる瞬間を経験した。この世界を覆う死の饗宴の中から、雨の夜空を焦がしているあの恐ろしい熱病のような業火の中から、そういうものの中からも、いつかは愛が生まれてくるであろうか?」

(あらすじ終わり)

上巻は、物語がゆっくり、どこか牧歌的に展開し、下巻ではピッチを上げて、異常事態が短いインターバルで頻発する。最後には、第一次世界大戦が起こり、ハンスが病気をおっぽりだして、ドイツ軍の作戦に加わる。他の患者たちも、出身国の兵士となるべくサナトリウムを我先にと飛び出し帰国する。物語は、ハンスの生死も不明な状態で終わる。戦争は、これまでの病死や喧嘩、自殺などとはるかにスケールが違う。

翻訳が、率直に言うと、読みにくい。一般に意味が通じない日本語表現が、かなり出てくる。例えば、「あなた」と「君」という表現の違いは、ドイツ語やフランス語の二人称が親近度や長幼で変化するのだが、読者向けに補足説明があったら親切だろう。

おしまい

グールドがいちばん愛読したトーマス・マン「魔の山」その1

兎に角長い。
上下二巻で各巻が、
800ページほどある。

1932年生まれのグレン・グールドが、ニューヨークデビューしたのは、1955年なので、第二次世界大戦も終わり、社会は平和と繁栄を謳歌し始めた幸福な時期である。その戦争の影響が非常に少なかったカナダ、トロントで育ったWASP(ワスプ=ホワイト・アングロ-サクソン・プロテスタント《≒新大陸に渡った、白人支配層の保守派を一般に意味する》)の彼は、それまでの西洋文化のバックグラウンドと戦後の自由や民主主義、社会の旧弊への反抗などを胸に抱えて青年期を過ごしたはずだ。

そうしたグールドは、トーマス・マンを筆頭に、トルストイ、ドストエフスキー、ヘッセ、カミュなどの世界的な名著をひろく読んでいた。日本の作家では、安倍公房、三島由紀夫や夏目漱石を読んでいて、とくに夏目漱石の「草枕」を絶賛しており、「草枕」の朗読番組を作ったこともある。亡くなる直前に彼は、「草枕」の番組を作ろうとしており、枕元には日本語版と何種類ものびっしり書き込まれた英語版「草枕」が残されていた。自分を芸術家と定義するグールドは、とくに漱石の芸術観につよく共鳴し、芸術が人を長閑(のどか)にし安らぎを与えるというところに、漱石と自分の共通項を見ていたように思う。

そんなことで、グールドはどんな思いで、マンの「魔の山」を読んでいたのかと思いを巡らせながらこの本を読んでみた。

この「魔の山」だが、兎に角長い! 文庫本で上下2冊あるのだが、それぞれの巻が800ページほどある。

そのなかで、登場人物に年長のイタリア人の自称、人文主義者と、カトリックに改宗した虚無主義のユダヤ人修道士が人生の先輩として説教しに出てくる。主人公を交えて、ああだこうだと議論するのだが、これが延々と長い!!どうでもいいとしか思えない、結論が見えないような熱のこもった議論が、延々と続く。その挙句の果てのオチに、もう一人の堂々とした多くを語らないオランダ人のコーヒー王(主人公が恋心を抱くヒロインの情夫である老人)が出てくるのだが、その人間的な魅力の前に、二人の屁理屈王たちの存在が霞んでしまう。

こういう未熟な主人公が、成長するにつれて人格を形成していく小説を、「教養小説」というそうだ。夏目漱石の「三四郎」などもそうらしい。そういう意味では、様々な読み方があるはずだが、決して権威を肯定するような小説ではない。

ただし、市民社会と言いながら、社会階級からくる差別意識は色濃い。夏目漱石の小説もそうだが、このマンの小説にも、下層階級のだらしなさを非難する描写がふんだんに出てくる。こうした下層階級の人たちを二人の作家が否定しているわけでは全くないが、ある種のエリート意識があるのは否めない。 むしろ、グールドの場合、彼は自分を芸術家と考えており、それは普通の人たちとは違うことを意味しており、その分芸術で、視聴者に責任を負っていると考えていたのは明らかだ。むしろ、人類みな平等というスローガンより、芸術家としての義務感が感じられてよろしい。グールドの思いが出ているところを例示すると、次のようになる。

● 「本質的には、芸術の目的は、癒しなおすことです。音楽は心を安らかにする経験なのだと思いたいのです。」(「グレングールドは語る」)

● 「聞くものにこの世のことを忘れさせてくれない音楽は、それができる音楽より本質的に劣っていると私は思う。」(「グレン・グールド 著作集2」)

● グールドではないが、カラヤン大先生の発言は分かり易い。『演奏者だけが盛り上がって聴衆は冷めているのは三流、 聴衆も同じく興奮して二流、 演奏者は冷静で聴衆が興奮して一流。』ヘ ルベルト・フォン・カラヤン

小説の登場人物それぞれに、やむをえない事情があり、それぞれが正しい人生や模範となる人生を歩もうとしながらも、簡単にそうはならない矛盾がとうぜんある。とりわけ、最後に出てくる「霹靂」の第1次世界大戦は、世界中から患者が集まるサナトリウムを一瞬で一変させ、患者たちがわれ先にと出身国に帰り、戦争に参加しようとするという結末は、それまでのサナトリウム内の騒動である喧嘩や、情事、人文主義者とニヒリストの議論、日常的に起こる個人の死などすべてのひとの営みを軽々と吹き飛ばすものだ。

もう一つのテーマと思えるヒロインとの淡い恋物語も、単純でキレイな話ではなく、主人公ハンスのプライドや世間体と、淫蕩な欲望が絡んだせめぎあいから出発している。主人公の態度は現代ではじれったいし、時代がかっているだろう。しかし、主人公のまどろっこしい態度とヒロインのある種の冷ややかな態度は、万国共通で時代を超えて普遍的であり、とても納得ができるものだ。

読みながら主は、自身のプライドや自尊心を守りながら、女性に対し欲望や欲情を満たそうとしても、簡単に見破られ、とても成就しないものだと感じる

グールドは、両親が極端にまじめなプロテスタントの家庭で育ち、性的な話や下ネタ系の下品な話は全くタブーだった。このため、友達が「ファック!」とかガールフレンドとの性的な話などと言おうものなら、そんな言い方は止めてと懇願したらしい。そんな抑圧を抱えたグールドは、自分の女性関係を徹底的に隠し、女性関係は今もってベールに奥深く包まれている。

しかし、プロデューサーのアンドルー・カズディンは、グールドが精力的に仕事をしていた後半の15年ほどの期間、一緒に仕事をしていたのだが、グールドの女性への態度を次のように語っている。

グールドには、正常な発達がどこかで阻害されたのではあるまいかと思われることろが幾つかあった。それは・・・世間一般の常識からすると、確かにグールドの女性に対する態度は変わっていた。それは私にもはっきり感じられた。彼は女性を、あたかも思春期前の少年のような純真な眼差しで見ていたのである。彼が抱く想像の世界では、十代の若者にありがちな未熟な要素と、年輪を重ねた者でなければ決して持ち得ない、創造性に飛んだ高度の知的要素といったものが分かち難く同居していた。そして、その二つが同時に顔をのぞかせることが多かった。」

「創造の内幕 グレン・グールド・アット・ワーク」

この小説の主人公のヒロインに対する恋心は、相手を貶めながらも、自分のものにしたいという矛盾したところがあり、グールドにも似たような部分があるかもしれない。

この長い小説を読むのには、骨が折れた。特に前半は、展開がゆっくりして忍耐を要した。しかし、話の展開が進むにつつれて、意外な事件が次々おこり、読みやすくなった。 

この本を読んでいると、西洋の歴史の厚みというか、圧政で押さえつけられてきた民衆がやっとのことで王政を打ち壊し、自由や平等、啓蒙思想の市民社会を作り上げた分厚くて困難な歴史が背景にあることを実感する。そのプロセスには、様々な哲学論争や、政治思想、また、カトリックだけでなくプロテスタントによる宗教革命など激しい争いがあったのだろう。そうした歴史を経て生まれた市民社会だが、それは依然として完成形ではなく、戦争によって簡単に壊されてしまう、そんな風にも読めた。

またこの小説は、様々な二項対立を描いている。我々の世界観の中に含まれる両極端な考えを、わかりやすく対比して示しているのは間違いない。それがグールドの価値観、我々の価値観の形成につながっているに違いない。

なお、次回アップしようと思うのだが、「魔の山」のあらすじをできるだけわかりやすく面白く書きたい。

おしまい

バッハの例外 ー イタリア協奏曲

ヨハン・セバスチャン・バッハにイタリア協奏曲という曲がある。協奏曲という名前がついているが、アンサンブルではなく、鍵盤楽器の独奏曲である。ネットで調べたところ、何やらバロック時代の協奏曲に、主題が何度も出てくるリトルネロ形式というものがあり、この形式をとっているために、このような名前になっているとのことだった。

正確にはバッハの時代にはピアノがなかったので、チェンバロ曲ということになる。そのため、バッハを弾くとき、どの楽器を使うかが議論となり、ピアノを使うと邪道と言われることもあるのだが、この曲だけは、単純に天真爛漫な曲なので、こぞって子供たちを含めて大勢が表現力豊かにピアノで弾いている。

下がグールドがピアノで弾くYOUTUBEである。

バッハの書く曲は、「誇張や過度の技法」「自然に反し、くどくどしく理解し難い」と批判されることもある。このためグールドは、バッハを時代に背を向けた偏屈者と評し、存命中に人気があった曲は少なく、このイタリア協奏曲のような作風を維持すれば人気作曲家でいられただろうと言っている。つまり、この曲はバッハには珍しく、軽快で爽やか、愛らしく聴いていてシンプルに非常に楽しい。 バッハは、バロック時代の最後の人物なのだが、こういう曲をロココ調というのかも知れない。

繰り返しになるが、バッハは「誇張や過度の技法」「自然に反し、くどくどしく理解し難い」ところが魅力であり、理性的、知的、数学的なところが時代を超えて愛される理由であり、それが、ジャズやポップスでも取り上げられる所以だろう。ブランデンブルグ協奏曲も同じ路線で、この曲もどこを聞いてもシンプルで非常に美しい。こうした曲は、バッハでは珍しい。

だが、これを聴いていると非常にグールドらしい。第2楽章アンダンテの低音部をスタッカートで、正確に同じリズムでずっと弾き続けるところなど、妙な感動がある。グールドが、この曲を弾いているのは1959年だが、この曲をこのように弾いたのはグールドが最初で、それまではもっと違っていたはずだ。ところが、現代の表現は、グールドが初めて弾いた表現方法と同じだ。

下は、「忘れられていた楽器、チェンバロを20世紀に復活させた」と言われるワンダ・ランドフスカ(1879~1959。ポーランド生まれ、後にアメリカ亡命。)の演奏。これを聴くと大袈裟で、もっさりしているのが良く分かる。グールドが、バッハの表現を一新させたのは間違いない。

ワンダ・ランドフスカ WIKIPEDIAから

おまけ

主が数年前、YOUTUBEで発見したティファニー・プーン。香港だかの中華系なのだが、カナダへ留学していた。とっても、上手! 残念だが、なかなか芽が出ないようで、音楽の世界の競争は厳しいようだ。イタリア協奏曲の第1楽章が聴ける。

おしまい

指揮カラヤン vs バーンスタイン グレン・グールド「ベートーヴェン・ピアノ協奏曲第3番」聴き比べ

グレン・グールドは、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番をバーンスタイン指揮、コロンビア交響楽団による正規録音(1959年5月、ニューヨークコロンビア30丁目スタジオ)の他に、カラヤンとベルリンフィル交響楽団とで1957年5月にライブ録音を残している。

その他にも、1955年の彼のデビュー作「バッハ・ゴルトベルグ変奏曲」の録音直前に、カナダのテレビ局CBCで放送されたハインツ・ウンガー指揮で行ったものもあるようだが、残念ながらこちらは聴いたことがない。

この3つを並べてみると、グールドの出世譚がよくわかる。すでにカナダ国内で人気があったものの、その人気は国内に限られていた彼は、1955年のゴルトベルグ変奏曲の録音が一躍ブレイク、ベストセラーとなり、一夜にして世界一流ピアニストの仲間入りを果たした。

世界中で、ハンサムな人気ピアニストとして、VOGE(ヴォーグ)などの女性誌でも人気沸騰、あっという間にスケジュールが奪い合いになり、1957年に最初のヨーロッパ演奏旅行に出る。この時、東西対立を続けていたソ連各地で演奏を行い、戦後ソ連で初めて公演を行った西側のピアニストとして、また、東西陣営の「雪解け」を象徴するものとして、大成功を収める。

ソ連の聴衆は、グールドの弾くポリフォニー(複数の旋律が独立した多声音楽)が明晰で、自然で理知的な解釈のバッハ、シェーンベルク、ウェーベルンなど初めて触れる西側の現代音楽を聴き、おおいにたまげる。

レニングラードで行われたコンサートでは収容人員の2倍の客が、通路にまで溢れ、バッハとベートーヴェンのピアノ協奏曲2曲の演奏後の休憩時間に、アンコールの拍手が鳴りやまず、とうとう指揮者スローヴァックは、その後に演奏を予定していた《リストの交響詩》の演奏を取りやめ「私は家に帰った方がよさそうだ。演奏会はグールドが終わりにしてくれるから。みんな最後の管弦楽曲など聴く気がないらしい。」と言い、舞台に再びピアノを運び込ませ、予定のなかったグールドは、帰り支度のコート姿のまま、ピアノ独奏の《アンコール・マラソン》で応えた。

そのソ連公演に引き続き、ドイツへ移動したグールドは、ベルリンで3晩連続で、この年49歳のカラヤンとこの曲を共演する。グールドわずか25歳、飛ぶ鳥落とす大御所のカラヤンとの共演である。

このカラヤンとの演奏、コロンビアの正規録音であるバーンスタインとの演奏の双方が、YUTUBEにあるのでうしろに貼り付けた。実際に聴いてもらえると嬉しい。

この2曲を聴き比べると、カラヤンとバーンスタイン(とグールド)の両者の考え方の違いがよくわかる。カラヤンは、この曲を、いかにも大曲、大袈裟、力強く豪勢に演奏するつもりだ。また彼は、グールドの意向を尊重するつもりは全然なく、「さあ、やってごらん!」という感じで、自分の主張を貫きとおしている。ただ、惜しいのは、この1957年のカラヤン版の録音は、ライブ録音であり、客の咳払いも入っているし、モノラル録音で状態があまり良くない。

この曲は、3楽章あり、勇壮で激しい第1楽章アレグロ・コンブリオ(陽気に速く)、ゆったりと美しい第2楽章ラルゴ、ゆったりとはじまりフィナーレで再び勇壮に盛り上がる第3楽章モルトアレグロ(非常に速く)。そのいずれでも、グールドはオーケストラの存在感に負けることなく、出すぎることもなく、美しいピアノの存在感をずっと保っている。

第1楽章はオーケストラの全奏(トッティ)が極めて男性的に演奏された後、グールドが入っていくのだが、グールドも最大限このオーケストラの演奏に合わせている。

グールドのピアノの弾き方は、普通、手首を指先より下において指の独立だけで弾くフィンガータッピングという弾き方をして、手全体を鍵盤に振り下ろす弾き方をしない。このため、フォルテッシモを出せないという批判があり、それがロマン派のチャイコフスキーやメンデルスゾーンを弾けないのだと言われることがある。(何千人も入る大ホールで演奏すると、どうしても爆発的な大音量を出し、有無を言わせず観客を黙らせたくなる心情は、良く分かる。)しかし、なかなかどうして、ベルリンフィルに負けず劣らず爆発するような音で弾いている。 こうして聴いてみると、グールドは爆発するようなデカい音を必要とする、ロマン派の協奏曲も恐ろしい表現力で弾けただろうと思えるし、楽しませてくれただろうと思うと非常に残念だ。

もちろん、グールドの良さは、そのような強烈なオーケストラに負けない大音量だけではなく、むしろ、ゆったりしたフレーズで気持ちのよりリズムを刻みながら、多声をはっきり区別しながら見事に歌うところにある。しかし、この曲の演奏では、最後の部分、オーケストラと一体となった見事なめちゃ盛り上がったフィナーレを聴かせる。カラヤンも十分に満足しただろう。(カラヤンもなかなか色っぽいですね。)

一方、バーンスタイン版。こちらはカラヤンのような強引な圧迫感がない。第1楽章はカラヤンよりゆっくり、抑え目で始まる。このように穏やかに初めの数小節が始まると、のちのちの展開も決めてしまい、冒頭で曲全体の印象が決まるのかもしれない。バーンスタイン版の方は、強引さがない。ある意味民主的。しかし、理知的で説得力があり美しい。何とも言えない切ない美しさがある。

このバーンスタインとグールドは、ブラームスのピアノ協奏曲第1番の演奏をめぐって、表現が適当だかわからないが、「衝突」したことがある。ブラームスのピアノ協奏曲第1番は、流麗で豪華絢爛な曲として演奏されるのが一般的なのだが、グールドは第1楽章を極端にゆっくり演奏するとこで、交響曲全体が統一されたリズムで結ばれ、より一体感が生まれると主張した。そのような演奏は、田舎くさく牧歌的で、前代未聞であり、バーンスタインは承服できない。バーンスタインは、グールドの主張どおりの演奏をすることにしたのだが、観客を前にして、演奏前の舞台から一席ぶったのである。「指揮者とピアニスト、どちらがボスか?」「ぼくは、承服できないが、才能のあるグールドの言うことだからそれを信じて、そのように演奏します。みんなびっくりしないでね。・・・」まあ、そんな感じ。 この演奏は、音楽批評家たちからもさんざんに言われ、後にグールドがコンサートを開かなくなる要因の一つになったと言われている。

ただ、グールドの協奏曲の演奏全般を聴いていると、ヴィルトーゾたるピアニストが、オーケストラを向こうに彼らをねじ伏せる的な演奏を良しとしていなくて、ピアノ協奏曲をなるべく、ピアノ伴奏付きの交響曲のように弾きたい意思を持っているのは明らかだ。彼は、協奏曲に限らず、どんな曲でも、全体としてベストなものを聴かせたいと常に考えていた。 伝統的なピアノの名人芸はそのようなものでなく、男性と女性、正と邪、静と動、陰と陽などの二項対立を原動力にして、曲の推進力にする者が多いが、グールドはそうではなった。

恐るべきなのは、彼はベストな演奏をするために、作曲家が書いたスコアさえもベストでないと判断すると、修正して演奏したことである。よく、彼は「再作曲家」と言われるのだが、これが理由だ。普通、音楽家はスコアを読み込んで、スコアに忠実に絶対と考えた上で、楽器の特性はもちろん、時代背景なども調べて、作曲された時代を忠実に考えることが普通である。作曲家が書いた曲に不足があると考え、楽譜を改ざんするというのは、グールド以外もやっているのだろうか? 非難されこそすれ、手を加えているというのは聞いたことがない。

グールド研究者であるケヴィン・バザーナの「グレン・グールド演奏術」に、この曲の1楽章にあるベートーヴェンが書いたカデンツァ(協奏曲のなかで、ピアノが独奏する部分)にグールドは手を加えていると書かれている。

ケヴィン・バザーナ「グレン・グールド演奏術」から

上が、その本に出てくるグールドの弾いたカデンツァの一部分である。グールドは、原典になかった低音部のメロディを書き足して弾いているということだ。

ただし、カデンツァは作曲者が書いている場合もあるが、ピアニストが作曲する場合も多く、協奏曲の場合には、カデンツァは演奏者の技量だけでなく、音楽性も伺えるハイライト、お楽しみというべき部分で、部分的に改良してもさほど違和感はない。

しかし、ここにはグールドの感性が良く表れており、グールドは右手の旋律だけを重視するショパン弾きなどを「右手の天才」とか言ってバカにしており、右手だけで美しく弾く演奏は嫌いであり、他の旋律が隠れているとか、どの旋律も対等に扱われ、攻守が変わるような曲が好きだったのは間違いがない。

おしまい

ソニー ウォークマン NW-ZX507 でハイレゾを聴く

ずっと良い音で音楽を聴きたいと格闘してきた。スピーカーを初め、オーディオにお金をかけてきた。しかし、最後まで満足できなかったのが、クラシックのオーケストラである。アンサンブル(合奏曲)であっても、大人しい曲は、比較的スピーカーなどでもOKなのだが、例えばマーラー、オーケストラのスケールが行くところまで大きくなったと言われるマーラーは、微かな弱音で何をやっているのか分からず、フォルテッシモの強奏では、何の楽器が鳴っているのか区別がつかない。オーケストラの団員の多くが、聴力をやられるというのも分かる。ホールで半分寝ながら聞いていると、突然の轟音で眠りを破られる、あれである。

だが、主は、コンサートホールに近い音場を実現する方法をとうとう見つけた!結論をいうと、オーケストラ曲のハイレゾを手に入れ、デジタル・オ―ディオ・プレイヤー(DAP)とカナル型イヤホンを使って再生することだ。このカナル型イヤホンもバランス型でなければならない。そこまで投資すれば、まるでコンサートホールで座って聴いているのと同じように聴こえる。

具体的に聴き比べをしたのは、マーラーの交響曲第1番「巨人」で、バーンスタイン指揮(1987年)のCDと、上岡敏之指揮/新日本フィル(2016年)のDSDである。これをソニーのカナル型イヤホン  IER-M7を使い、バランス接続とアンバランス接続で聴き比べた。

結論だけを書くが、CDよりもハイレゾDSDが音が良く、イヤホンはアンバランス接続よりもバランス接続の方が音が良い。スピーカーで再生するのに比べると、CDの場合であっても、イヤホンで聴くほうが遥かに明晰で、再生装置を選べばこれほど再現性があるのかと驚く。しかし、DSDになると、ファイルを再生しているのを忘れ、奥行きや立体感もありホールで聴いていると思うほどリアルである。ただし、ティンパニ、シンバル、弦楽器も管楽器も全奏(トッティ)で強奏するとき、「」がない場合がないわけではない。しかし、ホールで実際に聴いているわけでないのだから、許容範囲である。

ただ、今回マーラーを聴いて、表のメロディーの裏で、諧謔的で、狂気的な裏のメロディー、崩れるような不調和なリズムの魅力を堪能した。マーラーの不思議な魅力はきっとここにあるのだろう。予定調和で狂気のないクラシックは、クラシックではないと思っている。

ソニー NW-ZX507
IER-M7

こちら、カナル型イヤホンIER-M7である。この製品は、バランス接続用とアンバランス接続用のケーブルが同梱されている。従来のアンバランス接続のイヤホンは1本の線を共用し、3本で構成される。ところが、バランス接続では高音化をはかるために、左右それぞれ独立させ、4本使っている。

ちょっと辛口批評になるが、このソニー NW-ZX507だが、なかなか良い音がするものの、基本、OSがAndroidなので、Androidスマホから、電話と写真機能を除いた使い勝手である。加わった機能は、高音質音楽再生ということになる。つまり、音質を問題にしなければ、スマホで十分であり、DAPは、常にスマホを上回る音質が求められる宿命にある。

主は500枚程度のCDと、音楽映画DVDなどが音楽リスニングの主要コンテンツである。CDは、パソコンなどで聞けるように、FLACという劣化のない形式のファイルにし、音楽DVDもコピーソフトを使ってコピーができるので、そうしている。

ただし、CDより音質が良いSACDという規格で録音されたものが市販されており、ピアニストのグレン・グールドを中心に10数枚持っているのだが、SACDはプロテクトがかかっておりCDのようにファイルとしてコピーできない。つまり、SACDが再生できるプレイヤーで聴くしかなく、NW-ZX507で再生できない。

一方、インターネット経由でハイレゾといわれるコンテンツが販売されており、これらも若干所有している。こちらは、SDXCというカードに入れて、聞ける。

ただ、ソニーがカセットテープが入ったウォークマンで一世風靡したころと違い、すべてがデジタルに変わり、OSはAndroid、ファイル形式も様々な形式があり、カーオーディオにも接続できる。その接続方式も、USB、Bluetoothなどがあり、様々な機能を安価に提供できなければ、中国製や韓国製に簡単に負ける。実際、スマホではAndroid10がリリースされているが、NW-ZX507のバージョンは9であり、何時対応するのかさえ、発表がされていない。カーナビに接続する場合は、USBでは接続できず、Bluetoothになるが、音質は劣る。DAC機能がある中国製では、USB接続ができるはずだ。テザリングの機能を使えば、近くにスマホがあれば、カーナビを使って、Youtubeなどをストリーミング再生できるはずだ。

しかし、日本製の製品はハードばかりに目が向き、アプリの開発が下手というしかない。ソニーのアプリ(Music Center For PC)も知らぬ間に再起動を繰り返すし、日本語の説明文も分かりにくいことがある。ソニーにはmoraという音楽配信サイトがあるのだが、ここも何時まで経っても、ポップスやクラシックやごちゃ混ぜに表示され、せめてログインしたら、過去の履歴から好みの曲を勧めてほしい。海外発の企業なら簡単にやっていることが、日本企業は、全然昔から改善しようとしていない。

おしまい

 

ベートーヴェンピアノ協奏曲第4番 聴き比べ リシエツキ vs グールド

たまたま、YOUTUBEで見つけたヤン・リシエツキなのだが、結構よくて印象に残った。ベートーヴェン・ピアノ協奏曲全集が出ていたので、アカデミー室内管弦楽団との協演、2018年、ベルリンでのライブレコーディングのDVDを購入した。アカデミー室内管弦楽団は、指揮者がいない(コンサートマスターである第1バイオリン奏者が兼ねる)楽団であり、WIKIPEDIAによると、映画「アマデウス」、「タイタニック」、ポピュラー音楽ではナイトウィッシュ「ワンス」などをヒットさせており、重厚さや伝統より、爽やかさや軽快さを売りにする楽団だといってよいだろう。

そこで共演していているリシエツキだが、早いパッセージなど正確なリズムで圧倒的に弾き切り、聴いていて非常に気持ちが良い。如何にも現代的なベートーヴェンである。

ベートヴェンのピアノ協奏曲は、豪華絢爛でスケールの大きな第5番「皇帝」がもっとも有名だろう。だが、人気の方は第4番が高いかも知れない。第4番は瞑想的、哲学的な雰囲気もあり、ちょっと変わったところがある。それで聴き比べにあたって、第4番を選択した。

ヤン・リシエツキ

一応、YOUTUBEを貼り付けることができたので、実際に聴き比べられると良いのだが・・・。

一方、主が偏愛するグレン・グールド。二人がどのように違うのか、その点にフォーカスをあてて書いてみたい。グールドの演奏は、1961年バーンスタイン指揮のニューヨークフィルとの協演である。

まず、出だしである。このピアノ協奏曲第4番は、第1楽章が、次の楽譜のとおり珍しくピアノの独奏5小節で始まる。ピアノ協奏曲で、出だしがピアノの独奏というのは、非常に珍しい。ほとんどの場合は、オーケストラのトッティ(全奏)がひと段落したことろで、ピアノが名人芸をひけらしながら入る曲が多い。

この冒頭からのピアノ独奏は、「運命の動機」と言われる和音の4連打が3回出てくる。もちろん、交響曲「運命」の強迫観念のような激しさはないのだが、ピアニストは和音の4連打を意識して弾くように教師から教わる。 そのような背景があるので、リシエツキは、普通のピアニスト同様、冒頭のメロディーを和音としてピアノを鳴らしている。

一方、グールド。彼は、10代をつうじて、チリ出身のピアノ教師、アルベルト・ゲレーロにピアノを習っていた。ゲレーロは、演奏技術だけでなく、音楽に取り組む姿勢や人間形成などにむしろ重点をおいて指導し、ゲレーロとグールドはいつも音楽の議論をするのだった。グールドは普通に弾き方を教えられると怒ったので、ゲレーロはグールドに自分で気づくように仕向けながら教えた。その結果、グールドは「僕のピアノは独学です。」と生涯言い続けた。

グールドは、13歳の時にトロント音楽院のリサイタルで、ゲレーロのピアノ伴奏でこの4番のコンチェルト第1楽章を合奏している。ほぼ、公式デビューの最初といって良い。その練習の時に、この曲の冒頭の伝統的な弾き方である和音の4連打のことを教わっても、グールドはこの教えをにっこり微笑みながら無視し、和音の4連打で和音を強調せず、和音を微妙に崩し、一つの旋律として弾いた。

また、この楽章は Allegro moderato(ほどよく快速に)と速度が指定されている。だが、グールドは moderato といっても良い、遅めの速度で弾き始める。そのため、グールドの演奏は、軽快で楽しいという印象より、優しく表情豊かだ。

第2楽章は、アンダンテ(歩くくらいの早さ)で、弦楽器だけの低音のユニゾンの旋律とそれに応答するピアノの対比が、ちょっとした哲学的、瞑想的な対話で聴くものを惹きつける。このときのグールドが、素晴らしい。弦にあっさり答えるのではなく、音量を小さく落として弾き、ベートヴェンの現代にも十分つうじる魅力的な旋律に聴く者が耳をそばだてるようさせる。

この部分を聴いていると、リシエツキは完全にオーケストラと一体になった演奏をしている。ところが、グールドの演奏では、オーケストラはオーケストラであるのに対し、グールドはあくまで別の主体を演じており、二人の思想家の対話を聞くような演奏である。

やはり、グレン・グールドの演奏は、他のピアニストとは本質的なところで何かが違う。リシエツキの場合、極端な言い方をすれば、5曲のピアノ協奏曲すべてが、勢いがあって、爽やかな演奏で、分かりやすくいってしまえば、金太郎飴。

だが、グールドは、1曲ごとに曲の印象が違っている。5番「皇帝」は豪華絢爛、威風堂々とした交響曲のように弾いているが、4番は、思索的、瞑想的だ。また、曲の弾き方がつねに一本調子ではなく、いつも変化に富んでいる。彼が常に奏法の中心におくデタシェ(スタッカート)奏法は、緊張を緩める効果がある。また、外声(いちばん上と下の声部)だけでなく、内声にも光を当て、旋律の主役を交代させ、聴くものを飽きさせない。

ほとんどのピアニストは、右手で旋律を弾き、左手は低音部を単なる伴奏として弾き、右手を強調するものの、左手は存在感が薄い。グールドは、低音部を、高音部同様に強調するし、グールドだけが、3声以上の旋律を同時に打鍵することはめったになく、違った旋律として弾き分けている。

また、グールドの演奏は、超越しながら恍惚としているのだが、しっかりと計算されており、楽章ごとに盛り上がる部分(サビ)が明確で、そこへ向かって行く。また、最終楽章には曲全体のクライマックスがある。

もちろん、リシエツキの演奏は気持ちよい。何より、録音状態がグールドより50年は新しい。実際にこの演奏をコンサートで聴ければ、幸運としか言いようがない。主は日本でリシエツキのコンサートがあれば、是非行きたい。

おしまい

グールド トランスクリプション《ベートーヴェン交響曲7番第2楽章アレグレット》

CDでは発売されていないグールドのベートーヴェンの交響曲の編曲をYOUTUBEで見つけた。ご存知の方には申し訳ないが、主はとてもグールドの考えが良く分かり、革新的な曲だと感じた。主は思わず「アヴァンギャルド!」と驚き、感動してしまった。「アヴァンギャルド」という言葉は、死語かな?最近、聞かないね。

グールドは、ベートーヴェン交響曲のリストによる編曲を、第5番「運命」、第6番「田園」と録音している。第6番「田園」は、第1楽章のみをコロンビアから正規発売していたが、のちにソニーから全曲が発売されたと思う。主は、どちらも大好きで、オーケストラの演奏よりもピアノ編曲の方が好きなくらいだ。主には、オーケストラは格調が高いのだろうが、メリハリが感じられず、どうも退屈だ。グールドは、細部にアップダウンをつけ、演奏の意図が感じられ、適当なインターバルで弾き方を変えながら飽きさせず、しかも全体をうまく構成するのが長けている。

ごたくはこれくらいにするが、こちらが7番の第2楽章である。下のリンクは、二つとも同じものである。

https://www.youtube.com/watch?v=AnS1i9bVGHU

 

下が、カラヤンがベルリンフィルと録音した同じ楽章である。二つを聴き比べると、グールドにはオーケストラの演奏を模倣しようとする意図がまったくないことが良く分かる。完全に違った曲になって良い、あるいは交響曲とは違う魅力を引き出してみようというスタンスである。オーケストラの方は、この楽章が一つの曲で、一つの性格と考え、それを劇的に上手に出そうとしている一方、グールドは、この楽章をいくつかに分解し、新しい解釈を施し再構成している。主は、雰囲気がまったく違う小澤征爾の演奏も聴いてみたが、スタンスはカラヤンとも同じだ。グールドは、全く違う曲を聴かせてくれる。

下は、カラヤンのリンク。(二つとも同じである)

https://www.youtube.com/watch?v=2B9zf_rRN_4

 

おしまい

 

 

 

 

Sonyノイズ・キャンセリング・イヤホン or AKG K812 で聴く マリンバ奏者 加藤訓子 J.S.バッハ

主はすっかり《グレン・グールド親父》であるが、通勤の途上でソニーのスマホXperia Z3というちょっと古い機種を使い、2015年に購入したSONY ノイズキャンセリング搭載カナル型イヤホン(下の写真・4000円ほどだった)を使ってグールドを聴いていたのだが、なかなかいけると思っていた。これを使ってジュリアード弦楽四重奏団によるシューマンのピアノ五重奏(バーンスタイン)、ピアノ4重奏曲(グールド)を通勤途上で、聴き比べし結構感動した。電車のなかとか、歩きながらになるのだが、自宅のように気持ちよくなって寝てしまうことがない。

自宅では、Luxman L-550AXというアンプに、B&W 805D3というスピーカーというまあまあの値段の製品を使っているのだが、明らかにヘッドホンのAKG K812で聴く方が良い音がする。

これまで主は、どうもヘッドホンは、頭に圧迫感を感じるためあまり使っていなかったのだが、ヘッドホンの方がスピーカーより確実に良い音がすると思うようになってきた。このヘッドホンは、オープンエア型というタイプだ。ソニーのカナル型イヤホンは耳の穴に突っこむタイプであり、音源がその分が鼓膜に近い。距離が近い分、少ないパワーで駆動でき、その分安くても性能が良いのだろう。

主は、基本的にバッハは大好きなので、グールド以外の演奏もよく聴く。この加藤訓子はマリンバ奏者なのだが、このアルバムは、ビックリの芸術性の高さ!完成度の高さ!で、あの有名な平均律第1巻第1曲のプレリュード、無伴奏チェロ組曲第1,3,5番、リュートのための前奏曲、無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1,2,3番が入っている。(ちなみにこのハイブリッドSACD・CDは、ホームページに「2017年リリースの「B A C H」は、リンレコーズの年間ベストアルバムに輝き、第10回CDショップ大賞2018クラシック部門を受賞する等、世界的にも大きな話題を呼んだ」と書かれている)

この演奏、おそらく叩き方を変えているのだろう。音色を変えたり強弱、アクセントを変えることでニュアンスをだし、飽きさせず、音楽性が高くてとてもいい。添付のライナーノーツには「エストニア、タルトゥ、ヤンニ教会にいる。相変わらずしつこい私は納得のいくまでレコーディングができることを幸せに思う。勿論苦しいのだが・・・」とあり、録音日を見ると、2015.9.1-11と2016.3.14-24とかなり長い日数をかけて録音しているのが分かり、「ああ、このひとはグールドと同じタイプなのかもしれない」と思ってしまった。というのも、グールドは、気が済むまでテイクをとり、つなぎ合わせて作品を完成させていたからだ。

この演奏だが、最初スピーカーで漫然と聞いたとき、実は、それほど良いとは思っていなかった。だが、ヘッドホンで聴いてみて、その良さを再発見した。恐縮なたとえで申し訳ないが、「生の演奏で聴けない演奏はない。下手でも生なら聴ける」と主は思っている。生の演奏には、スピーカーにない、楽器自体がだす音色の魅力が確実にあると思っている。

グールドは、「コンサートは死んだ」と言ったのだが、実際にはクラシック・コンサートは無くなっていない。クラシック音楽はあまり流行らなくありつつあるが、原因は他のところにあり、クラシック・コンサートは相変わらず盛況だ。とくに小中学生、アマチュア、市民楽団など草の根のコンサートは続くだろうし、根っこには、生の楽器のだす音色の魅力があると思う。

ところで、この加藤訓子の演奏、やはり音色の魅力が半分を占めており、イヤホンでもヘッドホンでもスピーカーでもよいが、ある程度のレベルの再生装置でないとその魅力を実感できないだろうと思う。安っぽい再生装置では、この良さはなかなか実感できないだろう。これは、他の演奏者にも言えることだ。商業化されている演奏の場合、良い音で再生して聴くと、その良さに感動する。だが、安物の再生装置ではなかなかそうはいかないと思う。

ホメているのか、けなしているのか?!ありきたりの結論になってしまったような・・・

おしまい

夏目漱石「草枕」に傾倒したグールドの芸術観 その2

主の手元にグールドが愛好した、漱石の「草枕」のアラン・ターニーの英訳本があり、そのイントロダクションの部分にグールドが「草枕」を手にした経緯が書かれていた。かなり長いのだが、概ねこんなもんだろうという翻訳をした。

「草枕」By 夏目漱石 アラン・ターニー訳 イントロダクション(天才から天才へ)から
十分に皮肉なことに、「草枕」が、全員が同じ水準になるという近代の原動力を大いに哄笑しており、落日の列車に乗っていると考えられるが、その列車には、漱石の折衷的な大作に精通したいと願う、たぶんその小説をもっとも賞賛する西洋の熱烈なファンが乗っていた。さらには、この熱烈なファンは、芸術の形式と音楽の第一人者であり、その小説のナレーターは、- おそらくは、すべての人の上に位置する、この芸術という形態だけが、我々に穏やかで超越した状態を達成できるとためらいなくなく認める一方で -「草枕」についてからきし何も知らないことを認めている。
 1967年、その世界的に有名なピアニスト、グレングールド(1932-1982)は、ノヴァ・スコシア州のアンチゴアニッシュでの休暇から戻る列車旅行をしていた。グールドは22歳で彼の革命的なバッハのゴールドベルグ変奏曲の解釈で名声を獲得し、9年間の間、世界のコンサートホールをピアノ演奏の異端的なスタイルでまぶしく幻惑してきた。レーナード・バーンスタインのようなクラシック音楽界の巨人たちは、ちゅうちょなく彼を天才と認めた。
 グールドは、行動においてだけではなく、思想においても完全に独創的だった。彼は、ショパンとモーツアルトの多くの作品をあざ笑い、モーツアルトが、そのオーストリア人が手早い称賛のために本質をいつも犠牲にする単に派手で「ぼくを見て」的な子供でありながら、批評家からそのような尊敬を集めたことに驚かされると主張する。グールドは、その支配者層を無視し、彼自身の道を追求することが完全に心地よかった。彼は、彼自身を音楽家だけではなく一人のオールラウンドな創造的な芸術家と見なして、音楽の演奏同様、著述と記述された言葉を演じることに興味を抱いていた。尊大さとクラシック音楽の世界のうぬぼれを揶揄するために、彼は想像上の性格の過度さを創作し、彼は興味を持っているテーマのラジオ放送に注意を向けた。
 1967年に、グールドは列車のラウンジに一人座っている時に、聖フランシス・シャビア大学の化学の教授であるウィリアム・フォレイに見つかる。彼はグールドの音楽の録音物への彼の称賛を表明する勇気を奮い起こし、会話に引き込んだ。二人の男は、意気投合した話をし、その会話の間に、フォレイは最近読んだ「草枕(三角の世界)」と呼ばれる魅力的な本に言及した。二人の男たちが別れる時、グールドは自身のベートーヴェンのピアノ協奏曲「皇帝」の演奏のレコードをフォレイにプレゼントし、そして、後にフォレイは、ピーター・オーウェン版の「草枕」の版をグールドに送ることで好意に報いた。
 行き当たりばったり出会った本がそれほどのインパクトを読者に与えるのはまれなことだ。「草枕」は、たんにグールドの好きな本になったというだけではなく、彼の人生の残りの15年間で彼が夢中になりとり憑かれたものの一つになった。日本に特別な興味を持っているわけでもなく、その国を訪れたわけでもないのに、最後にはその本の版を4冊所有し、2冊が英語版で、驚くことには2冊はオリジナルの日本語版だった。彼は、他の小説家の手によるものよりも多く彼の書棚に並んでいる、漱石の売られている小説の全ての翻訳を購入したと思われる。彼の従妹のジェシー・グレイグ、彼の人生を通じて彼にもっとも近かった人物へ、彼は、「草枕」への愛を、電話口でその全部を二晩かけて読むことで表明した。
 彼がフォレイから受け取った版に激しく注釈を書き込んだだけではなく(残念なことに、これとその他の素材は1988年に行われたパリでのグールドの展覧会での運送で失われた)、グールドは実際に37ページの別のノートを小説として生み出した。彼は第1章を凝縮し、それを1981年11月にCBCラジオ「ブックタイム」で、15分のラジオ放送番組として朗読した。(同じ月に、彼は、26年の歳月を経て、ゴールドベルグ変奏曲を改めて解釈し直し再録音した)また、彼は、翌年の死の間際まで、「草枕」に基づくラジオ劇を書き、公演する準備をしていた。彼が亡くなった時に、たった2冊の本しか枕元になかった。1冊は聖書で、もう1冊は「草枕(三角の世界)」だった。
 その「草枕(三角の世界)」が1965年に刊行されたとき、その若い翻訳者もその刊行者も、その文学史上の重要性の観点からなんの真の理解をしていなかった。当時のスタイルに適合させるために、その本のカバーは日本に言及されることはなく、上品で最小限主義の黒地に中心を外れた小さな円の絵があった。それは、ピンクパンサーかゴールドフィンガーの一連のタイトルと同種なものに見え、その小説は東洋的な作品の一つとして印をつけられ、その著者は世界中の主要な、あるいは主要でない才能の大勢のひとりとして、ひとくくりにされていた。
 グールドにとって、それは本当に単純に20世紀のもっとも偉大な大作の一つだった。以前には、グールドのお気に入りの本はトーマス・マンの「魔の山」だったが、今や彼が愛情を注ぐもののなかで、これ「草枕(三角の世界)」が完全にとって代わっていた。実に、グールド自身が指摘したように、多くの親和性が二つの小説の中にあった。マンの小説もせかせか立ち回る資本主義の世界から、穏やかなアルプスの風景への後退を描いているが、漱石の小説のなかの大量殺戮の引力同様、ここの若いヒーローのハンス・カストープが世界大戦を逃れられない。
 何がグールドの興味をそれほど漱石の小説が呼び起こしたのか。それは、彼にとってほとんど彼のために書かれた一つの小説がここにあったと見えることに違いない、あるいは、彼によってでさえ、それほど完全に彼の芸術的な信念を例証していた。グールドは、音楽と芸術が非常に感情主義になっていることに飽き飽きし、悪態をつき、それから自由になることを求めていた。すなわち、彼の願いは個人へ向かい、超越することと静穏さだった。さらに、グールド自身の(従来の観念から)切り離したクラシック音楽の再解釈よりも、漱石の芸術の区分以上に、主題物と単なる雰囲気を定義するものはなかった。漱石はいかにすべてものが解釈され、ふたたび違う解釈をされるか、聴かれ再び違うように聴かれるか、書かれ再び違うように書かれるかを示し、創造性と芸術は文化的なパースペクティヴと精神的な状態から生まれるだけではなく、たえず、再発明と再解釈されるものだと示した。
 実のところ、グールドは、「草枕(三角の世界)」を自分のラジオ劇に書きなおしたいという彼自身のアイデアがあった。もし、ターニーが「草枕(Pillow of Grass)」を「三角の世界(Three-Cornered World)」へ変えることを決めたのであれば、グールドは他のタイトルを使うことを計画していた。彼が持つその本の表紙と彼が書いた37ページのノートの両方に、グールドは傑出している志保田の娘を描いた。誰もが無慈悲な早すぎる心臓発作が、芸術の天才たちの間のこのもっとも魅力的な衝突の世界を奪ったことを残念に思うだけだ。もし、グールドがさらに生きたとしたら、「三角の世界」が、カルトなクラシックと高い評価を受けている英語圏の世界の名声の状態を、打ち壊してしまっただろうと信じるに足るかなりの理由はある。END

このように、グールドがこの本に愛情を注いだことについて、3つの理由を考えてみた。

① 漱石は、非人情を重んじた芸術観を持っていた。現世は煩わしいことで満ちているが、これらから距離を置き、突き放した(=「非人情」)ところに芸術があり、芸術の尊さは、「人の世を長閑にし、人の心を豊かにする」「・・・して見ると、四角な世界から常識と名のつく、一角を摩滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう」というと考えていた。「則天去私」(小さな私にとらわれず、身を天地自然にゆだねて生きて行くこと。「則天」は天地自然の法則や普遍的な妥当性に従うこと。「去私」は私心を捨て去ること)との漱石晩年の思想は、グールドの芸術観に一致していた。

ところで、「非人情」を翻訳者のアラン・ターニーは”detachment”と訳しており、グールドも”detach”(切り離す、距離をおく)ということを重要視しており、奏法はデタシェ(フランス語の”detache”)で、ノンレガート、セミスタッカートな奏法を基本にしていた。グールドは、デタシェを用いることで、レガートが生み出す緊張を緩和させると考えていた。レガート奏法は、はクラシックの世界の感情重視の奏法であるが、これを嫌い、理性的な演奏をおこなった。もちろん、理性的とはいえ、むしろエクスタシーが溢れるロマンチックな演奏だったが、感情的ではなかった。

② この小説は、主人公である30歳ほどの画書きの目から見た、自然や西洋の詩、日本、中国の詩歌、彼の芸術観と、出戻りのヒロイン那美と取り巻きのストーリーが交互に語られるという構成になっている。漱石の知識の深さと見識に圧倒されるが、よく読んでみるととても奥深い。

主人公の画描きは、俳句や漢詩を作るばかりで、なかなかヒロインの絵を描くことができない。ヒロインは那美という魅力的な出戻りの女性で、画描きが書いた俳句を添削するほどの知性もあり、突如風呂に入って来て裸体をしめし、完璧な美貌を感じさせ、当時の女性らしからぬ強靭なところもあるのだが、「御那美さんの表情のうちには、この憐れの念が少しも現れておらぬ。そこが物足らぬ」といい、憐れを「憐れは神の知らぬ情で、しかも神に尤も近き人間の情である」という。そのまま話は、最終盤へと進み、御那美さんが、満州の戦場へ志願兵として出兵する従弟の久一をステーションに送り、蒸気機関車が出発する時、三等列車に乗った離縁された前夫が窓から顔を出し、二人が顔を合わせる。御那美さんの顔に、憐れがそこで初めて浮かぶ。それを見て、絵描きの主人公が「それだ!それだ!それが出れば画になりますよ」と那美さんの肩を叩きながら小声で言い、「余が胸中の画面はこの咄嗟の際に成就したのである」と結ぶ。ここに至って、漱石が、非人情だけを重視したのではなく、同情や憐みの大事さも、最重視していたことが読みとれる。

③ 西洋中心ではない価値観が読み取れる。西洋の詩などが中国の漢詩などと対比されながら語られるが、東洋の詩歌には、西洋の価値観を解脱、超越したものがあると読み取れる。西洋文化は「滑った転んだ」ことばかりを問題にするが、東洋の文化は、そうしたことを超越している場合が描かれているのではないかと読める。いつも世界の中心にいると考える西洋人(さらには今の日本人にも)には、これは目新しく感じられるだろう。

最後に、この小説に出てくる「不人情」「非人情」と、「憐れ」という言葉を、アラン・ターニー版、キンドルのメリディス・マッキンニー版の二つで、どのような英単語を使っているのか調べてみよう。

アラン・ターニーは、不人情を “inhuman” との単語を使い、非人情は、”non-human” 、”detachment”、さらには “objective way” 、 “detached manner”と使い分けながら訳している。次のような具合である。「もし世界に非人情な読み方があるとすれば正にこれである。聴く女も固より非人情で聴いている」→ “If there is such a thing as an objective way of reading, then mine was certainly it.The woman too seemed to be listening in a completely detached manner. “ 何通りもの言い方をしているために、英語になっても理解しやすいのではないか。 また、「憐れ」は “compassion”(同情、哀れみ)と訳している。

他方、メリディス・マッキンニー版は、不人情を “un-emotional”、非人情を “non-emotional” で通している。「もし世界に非人情な読み方があるとすれば正にこれである。聴く女も固より非人情で聴いている」は、”If there were ever a “nonemotional” way of reading, this is it, and she too, of course, will be hearing it with a “nonemotional” ear.” と訳している。 なお、「憐れ」は “pitying love”(同情する恋心?)と訳している。

もちろんだが、他の文章をとってもいずれも翻訳者でかなり違っている。

おしまい

グレン・グールド 楽譜の理解の仕方 & ベートーヴェンを弾く前

グールドに関する本を読めば読むほど、グールドって変わった音楽家だったんだと思う。グールドとグールド以外と言っていいくらいに、グールドは違っている。

彼は「再作曲家」と言われることがあるのだが、音高とリズムだけはおおむね守ったものの、それ以外は楽譜を重視しなかったようだ。「グレン・グールド演奏術」(ケヴィン・バザーナ著、サダコ・グエン訳、白水社)に書かれているのは、グールドが「印刷された楽譜のページに記載されたすべてのもの、つまり音符とそれを補足するための音楽用語や記号など、演奏するさい、作品の輪郭をはっきりさせるものすべて」をどのように演奏するかについて、演奏者の自由裁量に委ねられるべきと考えていた。主は、グールドが批判的に考えていたモーツアルトに限ったことだと思っていたが、バッハでも他の作曲家でもそうらしい。グールドは曲(楽譜)を絶対視せず、曲に改善の余地があると考えると積極的に手を加えていた。

そうした彼のエピソードを二つ紹介したい。
一つは音楽を学ぶ学生に向けて語ったもので、もう一つはまだコンサートを開いていた時分、ベートーヴェンのピアノコンチェルトを弾くにあたっての、彼の態度である。

ひとつめ。先に引用した「グレン・グールド演奏術」に、1964年トロントのロイヤル音楽院の卒業生のための講演や、1980年のインタビューで、「お互いの意見や演奏をききあうのは止めなさい」「自分でよく理解し、それなりの見解を持つ前に、あるいは自分の見解をもたずに、同輩の意見や演奏をきくことは、ピアノ演奏の伝統において継続してきた事柄を無反省に受け入れることになってしまうと思う。そして個人としての価値を強く主張するのが困難になるのは確かである」というグールドの発言を紹介している。

おなじく同書で、グールドは「心の耳」(the innner ear of the imagination)ということを言い、「これの『創造のための着想すべて』を生み出す『背景となる、計り知れないほど大きな可能性』の重要さを強調し、演奏者は、知識その他学習によって獲得したものに抑制されぬよう、そして新しい可能性を発見するために、常に現存しないもの、および潜在するものを意識しつづけなければならないと考えていた」と書いている。

バザーナは別のところでこうも言っている。「グールドは、演奏者はスコアに書かれたことに忠実でなければならぬという前提をいとも簡単に拒否したが、それは過去二世紀にわたるクラシック音楽の習慣を支配した価値を拒否したことになるのである」

ふたつめ。「グレン・グールド変奏曲」(ジョン・マクリーヴィ編・木村博江訳、東京創元社)は、グールドの死後間もない1983年に友人たちがグールドの記事を寄せたものだ。このなかに、ニューヨーカー誌のライターであるジョセフ・ロディが、グールドがまだコンサート公演を行っていた1950年代、カーネギーホールで行われたバーンスタインの指揮によるニューヨークフィルとのベートーヴェン・ピアノ協奏曲2番のコンサートの様子を書いている。

ジョセフ・ロディが、午前中のリハーサル後にグールドがホテルへ戻る様子を描いている。「今晩はホールへは9時半近くまで入らないつもりだという。これは演奏予定時刻の数分前であり、コンサートの前半を聴きたくないというのだ。ベートーヴェンのピアノ協奏曲を弾く時には、その前にオーケストラで別の曲は絶対に聴きたくないというのがその理由だった。」「バッハを弾く場合は、その前にシュトラウスでも、フランク、シベリウス、ジュークボックス ― 何でも聴けるんですけどね。でも、ベートーヴェンの前には何もだめです。弾く前に自分を繭(まゆ)みたいなものの中に閉じ込めないと。目隠しをした馬のような感じで出て行くんです。午後は、ベッドで過ごしますよ。風邪をひきそうなんでね」

そして、7時30分、「グールドはベッドから起き上がると、それまで着けていた二組のミトンをはずし、協奏曲の二度目の演奏にとりかかった。部屋にはピアノがあったが、触ろうとはしなかった。その代り、歩き回りながらソロのパートを指で弾き、オーケストラのパートをあごで指揮し、その両方を声高く歌った。これより騒がしくない、手を(お湯に)浸す儀式が8時半頃に始まり、およそ1時間続いた。グールドの出番の1、2分前に、彼はカーネギーホールに着いた。そのいでたちは、まるで北極の氷原を抜けて長期旅行に出かけるようだった。三重、四重のえり巻やコート、毛皮製品の下から現れた彼は、いつものだぶだぶの礼服姿だった。白いチョッキの下に、グールドは分厚い縄編みのセーターを着ていた」

音楽への献身の徹底ぶりは、あまりにも凄いですよね。

おしまい