救いがたい日本 日本人に生まれて情けない その3「情報公開法」で骨抜きの法の趣旨と官僚のネーミング

日本のマスコミは、昔力を発揮していたが、今ではすっかり力量を失ったと思っている。この理由は、「情報公開法」と「個人情報保護法」のせいが大きいと思っている。

次の写真は、テレビ朝日が、森友事件で大阪航空局へ情報公開請求した結果、出された黒塗りの文書である。みなさん、こういう風に、真っ黒になった文書見られたことがあるでしょう。こんなに黒塗りの文書を出すことが許されること自体、おかしいと思う人は多いはずだ。

これに限らず、森友事件で自殺された赤木さんの奥さんへも財務省は、黒塗りだらけだったし、スリランカ人女性が入管で死亡した書類の公開を求めたときも、やはり真っ黒に塗りつぶされた文書ばかりが出てきて、誰もの不信感はますます募ったはずだ。

森友事件の公開文書
こちらスリランカ人ウィシュマさんの公開文書

そこで、「情報公開法」と「個人情報保護法」とは、一体何なのか、主の独断と偏見が大いに交じるが、思うところを書いてみたい。

まず、今回は「情報公開法」である。

正式名称は、「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」で、2001年(平成13年)4月1日に施行され、特殊法人が独立行政法人になったときや、関係法令の改正などに伴って、何度か改正されている。

実際の条文を見てみようと思われる方は、次のリンクをクリックしてください。

情報公開法のリン

この法律を見ると、(目的)第1条には、「行政機関の保有する情報の一層の公開を図り、もって政府の有するその諸活動を国民に説明する責務が全うされるようにするとともに、国民の的確な理解と批判の下にある公正で民主的な行政の推進に資することを目的とする。」と一見美しいことが書かれている。 ただし、ここでは、国民への説明責任を果たすだけでなく、行政の推進に資するとも書かれており、無条件で説明責任を果たすものではないとも読める。

「行政機関」(=省庁などに加え諮問機関や審議会などが入る)の定義を書いた第1条の次には、(行政文書の開示義務)第5条が置かれて、何を開示して、何を開示しないか規定されている。これが、26条しかない、この短い法律の肝である。

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具体的に開示しない 第5条「不開示情報」 を列挙していく。

  • 1.行政機関の情報について
  • イ.法律、慣行で公になっている、または公になる予定以外の個人に関する情報不開示
  • ロ.生命、健康、生活や財産を保護するために、公にすること必要と認められる以外の情報は不開示
  • ハ.情報のうち、当該公務員の職と職務遂行の内容にかかる部分以外不開示
  • 「非識別加工情報」*であっても、他の情報と照合することができ、それにより特定の個人を識別することができることとなるものは不開示 

*注:非識別加工情報とは、行政機関等が保有する個人情報について、特定の個人を識別することができな いように個人情報を加工し、当該個人情報を復元できないようにした情報をいう。ここでは、情報を分解して個人を特定できないものであっても、他の情報と照らし合わせることで、個人を特定できるものは、公開不可だと言っている。

  • 2.法人(=民間など)その他の団体の情報について
  • イ.法人、個人の権利など正当な利益を害する恐れがあるものは、健康、生活又は財産を保護するため、公にすることが必要であると認められる情報を除き不開示
  • ロ.行政機関の要請を受けて任意に提供されたもの、通例公にしないもの、合理的と認められるものは、健康、生活又は財産を保護するため、公にすること必要であると認められる情報を除き不開示
  • .外国、国際機関との信頼関係が害されるおそれ、交渉上不利益があると行政機関の長が認めることにつき相当の理由があるときは、不開示
  • 4.犯罪、捜査その他公共の安全と秩序の維持に行政機関の長が認めることにつき相当の理由があるときは、不開示
  • 5.国、独立行政法人、地方公共団体等の情報で、公にすると、国民の間に混乱を生じさせる、不当に利益を与え若しくは不利益を及ぼすおそれがあるものは、不開示
  • ・6.国、独立行政法人、地方公共団体等の情報で、公にすることにより、事業の遂行に支障を及ぼすおそれがあるもので、次に掲げるもの不開示
  • ・イ.監督、検査、取締り、試験、租税賦課、徴収に係る事務の遂行に支障があるおそれ
  • ・ロ.契約、交渉、訴訟の事務に関し、行政機関の財産上の利益、地位を害するおそれ
  • ・ハ.調査研究の事務の遂行を害するおそれ
  • ・ニ.人事管理の事務の遂行を害するおそれ
  • ・ホ.行政機関の事業に関し、利益を害するおそれ

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なんだこれは!! なにも開示しないのと同じだ!!

開示するも、しないも決めるのは、お役人だ。よくこんなのを法律にしたものだ! どこが 情報公開法」 だ!!! これじゃ黒塗りの文書しか出てこないはずだ!

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(結論)

マスコミは、この法律の制定の当初、結構情報公開請求をしていたが、成果が上がらないので最近ではあまりしていないように思える。やっても、埒が明かないからだ。

結局のところ、情報公開法により、行政機関、独立行政法人等、地方公共団体は、その長が、自分の裁量で公開する範囲を決められる、という根拠を持った。

そのため、マスコミはポチと蔑まれながらも、手もみしながらご官公署のご役人のご機嫌をうかがい、床に落ちている情報を拾うしかなくなった。

もちろん被害者は、マスコミだけではない。国民が被害者だ。森友事件で自殺した赤木さんの奥さんが典型だ。被告の国は認諾という手法を使い、民事裁判で、賠償請求額の1億円全額を認めて、裁判を終わらせた。情報公開に応じないということ、認諾で真実を明かさない姿勢、どちらも一体誰を庇っているんだ?

あと、おわかりだと思うが、「情報公開法」というネーミングが絶妙で、国民は情報公開するんだとと気楽に思っているが、実際のところは、説明したとおり、情報公開しない条件が羅列された法律であり、情報公開とは真逆の代物だ。

次回は、「個人情報保護法」を取り上げようと思う。

おしまい

 

 

 

 

 

映画「クレッシェンド 音楽の架け橋」見てきた。内容は凡庸、音楽は最高!

音楽映画は、映画館で見ると音響が良いし、音楽のハイライト集のように一番いいところばかりを流してくれる。これで、筋や物語が面白ければ言うことがない。

そんなで、〈クレッシェンド 音楽の架け橋〉という映画を見てきた。結構政治的な映画で、パレスチナとイスラエルの若者が一つのオーケストラを作り演奏するという映画である。しかも、このオーケストラの指揮をするおっちゃんスポルクはドイツ人で、両親がユダヤ人虐殺のホロコーストの片棒を担いだという設定である。

この映画は、ユダヤ人の大指揮者、ピアニストのダニエル・バレンボイムが、こうした民族融合の試みをしており、それがもとになっているということだ。

「音楽は世界をつなぐ」とか「音楽には国境がない」というような綺麗ごとが言われることがある。

しかし、音楽が共感や感動を引き起こすにしても、父や母、兄弟や姉妹が殺された、アラーの神を信じている、ユダヤ教を信じているという背景の違いや憎しみがあれば、音楽の演奏をつうじて、心をひとつにするのは難しいだろう。

以下は、公式サイトのコピペである。

世界的指揮者のスポルクは、紛争中のパレスチナとイスラエルから若者たちを集めてオーケストラを編成し、平和を祈ってコンサートを開くという企画を引き受ける。オーディションを勝ち抜き、家族の反対や軍の検問を乗り越え、音楽家になるチャンスを掴んだ20余人の若者たち。しかし、戦車やテロの攻撃にさらされ憎み合う両陣営は激しくぶつかり合ってしまう。そこでスポルクは彼らを南チロルでの21日間の合宿に連れ出す。寝食を共にし、互いの音に耳を傾け、経験を語り合い…少しずつ心の壁を溶かしていく若者たち。だがコンサートの前日、ようやく心が一つになった彼らに、想像もしなかった事件が起きる――

https://movies.shochiku.co.jp/crescendo/ ← 上のYOUTUBEと同じものです。

<ネタバレの感想>

ネタバレになってしまうが、このパレスチナ人とユダヤ人のオーケストラの合奏は、みんなの努力の甲斐あって、かなりいいところまで行く。

しかし、パレスチナ人の男のクラリネット奏者とユダヤ人の娘が、恋に落ちてしまい、悲劇が起こって男は死んでしまって、2つの民族の合奏の発表はできなくなる。 

失意の中、ユダヤ人、パレスチナ人の両者が練習先のスイスから帰国する空港の待合ターミナルで、ガラスの壁を挟んで、飛行機を待っている。彼らのひとりが何を言うでもなく、バイオリンの弓のお尻で、ラベルのボレロの特徴のあるリズムを叩き始める。コツ、コツ、コツ。何の曲かすぐに察する団員たち。

ラベルのボレロは、一定のリズムが続く中、小さな音で始まり、少しづつ「クレッシェンド」する曲だ。やがて、フォルテッシモになる終曲で、突然崩壊する。そんな曲だ。

他にも、バッハのヴァイオリン・パルティータ、ヴィヴァルディの四季の冬、パッヘルベルのカノン、ドボルザークの新世界など有名な曲がながれ、とても楽しめる。ヴィヴァルディの四季の冬は、バロック音楽とは思えない変わった解釈で、とても刺激的だった。

やっぱり、映画館の音響は素晴らしい。まるで生の音みたいだ。

おしまい

救いがたい日本 日本人に生まれて情けない その2 マスコミの事件報道

その2 マスコミの事件報道

警察が誰かを逮捕したときに、マスコミはすぐさまどういう容疑で誰が逮捕されたか、認否はどうか、動機はなにかについて、すぐさま報道する。あまりに当たり前に報道されるので、日本人は「どこの国でも、こんなもんだ。」と思っているが、実はこれは異常なことである。

次はサンプルとして事件をコピペしてみたものだ。事件は毎日報道されているので、あくまでサンプルである。この事件は、子供を殺害した母親の事件のようだが、「捜査関係者」が報道機関に漏らしているのが分かる。事件内容を詳しく漏らしているようだが、そもそも漏らすことも報道することも両方が人権無視でありえない行為だ。

例えば、本日のニュース いつもこんな感じである。冤罪やったらどないしますねん!?

つまり、逮捕されただけでは、有罪かどうかはわからないし、「推定無罪」の原則があるので、シロクロは、裁判の結果が出るまでわからない。気安く容疑者が犯罪をしたという前提で報道するのは、「推定有罪」に立っていると言えるくらいの明らかな「人権侵害」である。

しかし、この人権侵害は毎日起こる事件報道で必ず行われている。

マスコミは事件があって、逮捕されたとなると、警察や検察のところへ出向き、上に書いたような情報を担当官からもらって来るのが仕事で、同業他社を出し抜ければ、特ダネとなる。このため、マスコミの警察、検察担当者は走り回っている。マスコミのうち、大手マスコミは、記者クラブという部屋を公的組織の中にあてがわれ、朝からクラブに詰めることが許され、記者会見に優先的に参加でき、事細かな記事をもらう特権がある一方で、公的機関の担当官と個人的にも親しく良好な関係を築こうとする。 わかりやすい例が、東京高検の黒川検事長で、朝日新聞と産経新聞の記者と記者の自宅で、仲良く麻雀をして、連帯意識を醸成していた。

こうしたマスコミが、捜査機関の漏らす情報の意図に沿わない記事を書こうものなら、この情報ソースの担当官は、次回からエサを与えてくれなくなる。このために、忠犬ポチよろしく、公権力の出す情報をそのまま無批判に疑問を挟むことなく、国民に流している。これが、日々の事件のニュースである。

しかし、この警察と検察の捜査情報は、業務上の最高の機密であり、これを漏らすのは国家公務員法100条第1項の「守秘義務違反」であり、109条第12号で「一年以下の懲役又は五十万円以下の罰金」である。

逆に、刑事訴訟法では、公判前整理手続きで、証拠を被告と弁護士に見せなくてはならないとされているものの不十分で、全てを開示しないということらしい。ところが、公判で取り上げる予定の被疑事実をマスコミが報じていたりするという。 もうこうなると、弁護士が知らない情報を、検察側がマスコミへリークしているということだ。

ネットで見ていると、このリークに対して、例えば、政治家の鈴木宗男が抗議していたり、国会で人権侵害だと抗議声明を出していたりするのだが、マスコミ側は情報ソース(リーク元)をあくまで秘匿するので、マスコミと検察側は、「持ちつ持たれつ」の関係である。

次は、元特捜部にいた弁護士の前田恒彦さんが、捜査当局がそうしたリークをする理由をヤフーニュースに述べたものだ。

この記事の中で、『記者も現場の捜査官にはストレートに聞かず、「遅くまでお疲れ様です。今日は激励のごあいさつに参りました。○○の件、いよいよ××を事情聴取するようですね。大変でしょうが、がんばってください。応援しています」といった言い方をする。』と書かれているのだが、記者と検察のポジションが良く出ている。

なぜ捜査当局は極秘の捜査情報をマスコミにリークするのか

https://news.yahoo.co.jp/byline/maedatsunehiko/20131116-00029664 →その1

https://news.yahoo.co.jp/byline/maedatsunehiko/20131203-00030300 →その2

https://news.yahoo.co.jp/byline/maedatsunehiko/20131231-00031031 →その3

〈結論〉

結論は、マスコミは自分の足と目を使って、正しい記事を書いていない。公権力を持つ捜査機関が出す情報を右から左へ出しているだけだ。

警察と検察は、そうしたマスコミを利用して、世間の空気を誘導する。最終的に、裁判官がそうした世論の空気を読んで、ありがたいご宣託をえらそうな口調で下す。

マスコミは、捜査機関の言うなりの記事を書いていると言ったが、捜査機関に限らない。政府、総理大臣だったり、官房長官、財務省だったり、厚生労働省だったり、地方公共団体もそうだろう。マスコミの記事は、為政者の発言を代弁しているだけだ。

為政者だけではない。強者だ。決して、弱者を代弁していない。無知な大衆が、違和感なく読みたいもの、聞きたいものだけを流し、実際の世間で起こっている貧者の窮状を訴えたりしない。

真実を見極めるという姿勢がまったくない。あるのは、忖度、忖度、忖度ばかりである。

次回は、マスコミが骨抜きになった「情報公開法」「個人情報保護法」と、官僚のつけるネーミングの上手さについて書きたい。

おしまい

救いがたい日本 日本人に生まれて情けない その1 警察と検察の話

その1 警察と検察の話。

和田秀樹という精神科の医師が「外国は、裁判をやって犯罪の白黒をつけているが、日本の検察は、有罪にできる3割の事件だけを起訴して、99%の確率で有罪にしている。」とYOUTUBEで言っていた。(真ん中あたりででてきます。)

おまけに、日本の検察(と警察)は、満足に捜査をしないで、自白偏重している。つまり、自白すれば、保釈も認められるし、刑を軽くすると言って実際に軽くする。

推定無罪の原則というのが建前の司法の世界で、日本にはこれがなく、捕まったら推定有罪で捜査される。

2018年暮れ、カルロス・ゴーンは、東京地検特捜部による衝撃的な逮捕からまる1年のち、プライベートジェット機で映画のようにレバノンへ逃亡した。

このとき、当時の森法務大臣が「逃亡するのではなく、法廷で無罪を証明してほしかった。」と言った。有罪を立証するのは検察の役目で、ゴーンには自分で無罪を立証する必要などない。この法務大臣は、弁護士の資格があるのにトンデモ発言を言ってしまう。このニュースは、半日程度世界中に流れ、その後大臣は訂正の記者会見を行ったが、うっかり本音が出たとしか思えない。

森法務大臣(当時)

自白偏重の日本では、刑務所や警察で弁護士もいない状況で、厳しい取り締まりを行うために、しっかりしていないと、取調官の甘い言葉に騙されて、事実と違う自白をしてしうことがある。これが冤罪が発生する原因なのだが、取り調べで冷静を保つのは難しいだろう。素っ裸で衣服を着替えさせられ、精神的に圧迫を加えられ、ずっと拘束される、そりゃあ、嘘でも言って楽になりたいと思うだろう。 日本の取り調べは、江戸時代のままだ。

20歳前後の若者の刑事事件で有罪が確定している事件には、自白を共用されて、冤罪と疑われるような事件がたびたびおこる。

そんなで、外人は、日本の検察は、犯罪事実を立証することなく裁判で自白のみで有罪にしていると言う。こうした制度のしたでは、民主主義ではないと言っている。

「世界で勝てない日本企業 カルロス・ゴーン フィリップエリス」(幻冬舎)のなかに、ゴーンを弁護していた高野弁護士の次のような発言がある。 

「被告人が無罪であっても、おそらく、まずは有罪とみなされます。また、黙秘権を放棄するのと引き替えでなければ保釈されないでしょう。」「被疑者が取り調べ調書にサインすることを拒否すれば、証拠を隠滅しようとしているとみなされます。」「自供を拒否する被疑者の保釈率は、30年前から低下し続け、1984年から2014年までの間に、20% から7%に大きく低下しています。」「自供を強いるのは、検察官および裁判官の仕事を楽にするためなのです。」「自供が得られれば、被疑事実を列挙したり証人尋問をしたりしなくてすみますから。時間を節約できます。」「検察官は自分たちの主張を証明する義務が免除されているのです。」要するに、日本の司法制度は、基本的人権の原則と正反対の原則に基づいているという。

日本のマスコミは、警察や検察のリークした情報を流しているだけなので、日本人は一般に、このゴーン事件を、「ゴーンは私腹を肥やした悪いやつ」と思っているが、世界から日本企業で経営者になろうという優秀な外人は、この事件を契機にずっと減るだろう。いや、世界中のビジネスマンなら誰しも同じだろう。

検察の、こうした有罪に持ち込める3割の事件だけを起訴しているという態度は、逆にいえば、疑わしい7割の事件を事件化していないということだ。

その7割の事件の中には、政治家が犯す重大な嫌疑や事件もあるだろう。そうしたものがスルーされているということだ。要は、警察、検察に捜査能力が足りていないのだろう。

このような取り調べの段階で弁護士が同席しないとか、自白偏重の日本の司法を「人質司法」というのだが、民主国家と言えないし、後進国である。

結論として、日本の裁判所は、上から目線で犯人に説教を垂れる場所だ。反省していないなら罪が重くなり、反省していれば軽くなる。裁判官は法の番人ではなく、教会の聖職者みたいなものだ。

みなさん、警察等に捕まらないようにしましょう。人生が終わってしまいます。

次回は、警察や検察の情報を垂れ流しているマスコミについてです。

おしまい

グールドのプロコフィエフ「戦争ソナタ」を聴いて書き加えました。《読響 小林愛実さん ショパンピアノ協奏曲1番を聴いてきた》

読響のHPから

第613回定期演奏会 2021 12.14〈火〉 19:00  サントリーホール

12月14日、2021年のショパンコンクールで4位入賞された小林愛実さんのコンサートへ行ってきた。これがとても良かった。

このコンサートは、サントリーホールで行われた読売交響楽団の定期演奏会で、指揮者が2回、ピアノ独奏者が1回、コロナの影響で外人から日本人へと変わった。写真は、指揮者の高関健と、小林愛実さんである。

小林愛実さんは、ショパンのピアノ協奏曲第1番を演奏したのだが、見事なリズム感、説得力のあるアーティキュレーションとその強弱、オーケストラのトッティの中での超絶的なスケールの上行と下降のみごとさなど、どれをとっても完璧な演奏だった。

涙腺の弱くなってきた主は、長いオーケストラの前奏のあとに入ってくるピアノに、思わず涙が出てきて困った。第3楽章の本当の最後のフィナーレの部分のピアノにも泣きそうになってしまった。年齢のせいで、涙腺が緩み、しょっちゅう涙を流しているとはいうものの、コンサートホールで、こうした経験はさすがに初めてだった。

ショパンのこの曲は、スラブの民族音楽の雰囲気が色濃くあり、それが心情的に訴えてくるのかも知れない。理知的なバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンといったドイツ主流派と、そこが違うところだろう。

彼女は、前半のプログラムの2曲目、休憩の前に登場した。彼女の演奏が終わった後、観客の拍手がいつまでも鳴り止まずに、アンコールで小品を1曲(ショパン前奏曲 Op.28 第17番変イ長調)を弾いてくれた。最近のコンサートでは、アンコール演奏がないことが多いように感じていたので、これも珍しい。

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余談だが、主は、NHKが1985年に放送したショパンコンクールでブーニンが優勝した時の番組を見たのがきっかけで、クラシック音楽を聴き始めた。ちょうど、レコードがら、CDへ切り替わる時期だった。

主がハマっているグレン・グールドは、「やがてコンサートはなくなるだろう」と言った。彼は、コンサートホールの聴衆を、闘牛を見に来た観客に例え、演奏者が失敗するのを期待していると考えていた。同時に、完璧主義者のグールドは、見事な演奏に聴衆から熱狂的な拍手喝采を受けている際に、「今の演奏には、マズいところがあった。もう1度やり直したい。」と思っていたらしい。

あがり症と完璧主義者的性格によって、彼はコンサートから32歳の時にドロップアウトし、スタジオに籠ってレコード制作をするようになる。そこでは、何度でも気に入るまでテイクを取り直せる。

そうしたグールドは、技術の進歩により、リスナーが音楽の一部分、例えば、だれだれの演奏(キット)と、だれだれの演奏(キット)をつないで、自分だけの好みの演奏を作って楽しむだろうといったことも言っていた。こうした実験的な試みは、パソコンを使ってデスクトップミュージックという分野で、確かにそうしたことができる時代になったが、一般のリスナーはそこまではしないし、コンサートはなくならなかった。

生演奏の、生の楽器の素晴らしい音は、自宅で簡単には再現できない。コロナ禍で、マスコミはテレワークと同様、オンラインで音楽を楽しめるとしきりに流していたが、自宅のスピーカーでコンサートホールの音が再現できるなど、ちゃんちゃらおかしい。 まして、遠隔で、合奏(アンサンブル)できるみたいなことも言っていたが、それをコンサートホールと同様の音質でわれわれが聴けるとはとうてい思えない。

完成度の高さでは、録音物の方が高いのは間違いないだろうが、やはり、生の音は良い。弦楽器が実際に音を出す前には、一瞬前に弦と弓がこすれるかすかな音がするし、クラシック音楽で使われるどの楽器でも、アコースティックな響きは非常に心地よく、録音物では表現できない良さがある。 そのため、コンサートの意義はなくなっていないのではないか。

サントリーホール

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プログラムの後半には、高関健指揮で、プロコフィエフ(1891-1953)の交響曲第5番が演奏された。主は、このプロコフィエフという作曲家の交響曲を初めて聴いた。パンフレットの解説によると、革命を嫌気して西側へのがれたプロコフィエフだが、結局、革命後のソ連に戻ってくる。このソ連時代に書かれた曲で、旋律がニュース映画に出てきそうで、いかにもソ連的だ。

ソ連の国旗のデザイン

演奏するオーケストラの団員数は、ショパンの協奏曲と比べるとずいぶん多い。特に、後列の打楽器奏者は、5人ほどいたはずだ。彼らが銅鑼やらシンバル、大太鼓などを鳴らすので、フォルテッシモでは、超絶、大迫力である。

こうした曲をCDやストリーミングで自宅で聴くのは、大掛かりな再生装置が必要になるので、難しい気がする。こうした大曲は、生でコンサートホールで聴くに限る、そんな気がする。大音量で、こうした交響曲をホールで聴くのは、ストレス発散にいいかも知れない。

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そう思ったところで、確かグールドはプロコフィエフを弾いていたはずだと思い調べてみたら、コロンビア(現在ソニー)の正規録音で、ピアノソナタ第7番「戦争ソナタ」を1968年にニューヨークのスタジオで残していた。

レコードのジャケット

このピアノソナタは、6,7,8番をひっくるめ、第二次大戦中に作曲されたために「戦争ソナタ」と西側陣営がつけたらしい。だが、ソ連ではたんに「3部作」と呼ばれていたようだ。交響曲第5番も、同時期に作曲されていて、雰囲気が似ている。

このグールドの演奏だが、「おお、交響曲第5番も、こんな感じやったぞ!」と思った。グールドの演奏はピアノソナタなので、ピアノ1台なのだが、そもそも、オーケストラの交響曲の雰囲気を出すのがうまい。とにかく彼の演奏は切れが良い。音量を変えながら、気持ちの良いリズムを刻んでいく。また、和音の響きが、古典派などの予定調和な響きとは全く違って、現代的で、これはこれで、なんとも気持ちよい。彼は手を変え品を変え、曲の魅力をリスナーに見せる。

多くのピアニストは、右手の高音部と左手の低音部だけしか聞こえてこないのだが、グールドは内声部も強調する。そのように弾くには、楽譜の音を単に鳴らせばよいというものではなくなり、別のメロディとして弾く必要があるので、彼はしばしば指を持ち替える。(=最初に鳴らした音を鳴らし続けるために、別の指で押さえ続ける。)

3声や4声を弾き分けることで、複数の声部があらわれて鳴っているので、聴いていると発見がある。現代曲にあるような気難しさより、多彩なきらめきが勝っている。

また、彼は和音を同時に打鍵することがほとんどない。もちろん、同時に鳴らした方が良いときは同時に打鍵するが、和音は、複数の旋律の音が合わさっている場合が多いので、バラしながら打鍵することがほとんどだ。はやいアルペジオ風で、目立たせたい音を最初にもってくる。

彼は、ピアノを弾くときに、弦楽四重奏の奏者のように、ソプラノ、アルト、テノール、バスの4人の奏者がいるようなイメージをしているという。ピアノを習うときには、楽譜の同じ拍のところにある音符は同時に鳴らしなさいと習うはずなので、拍を崩さずに和音をばらして弾き、なおかつ、自然に聴こえるように弾くのは、難しい。

最終楽章である第3楽章は、早い烈しいリズムで、ジャズ風に聴くとことができる。狂気を感じることもできる。 ここには、ソ連的という地域に根差した音楽ではなく、もっと普遍的な音楽の楽しさがある。ちょうど、第3楽章のYOUTUBEがあったので、聴いてください。

激しくアップテンポで連続する和音の中に、二つの高音の違ったリズムのメロディが出入りしていて、「こりゃあ、超絶技巧だな。」と思わせる。やがて、もりあがった最終盤にちょっと速度を緩めることで、「もう終わりよ。」と示して、突然終止する。

ジャズか現代音楽か、どちら属するのかよく知らないが、スティーヴ・ライヒという人がいて、「ディファレント・トレインズ」という曲があるのだが、ちょっと似ている。

なお、少し上等のイヤホンを使って、近年リマスターされた正規版のCDを聴くと、グールドの唸り声と生涯使い続けた椅子がきしむ音が聞こえてきます。

おしまい

読響 小林愛実さん ショパンピアノ協奏曲1番を聴いてきた

読響のHPから

第613回定期演奏会 2021 12.14〈火〉 19:00  サントリーホール

12月14日、2021年のショパンコンクールで4位入賞された小林愛実さんのコンサートへ行ってきた。これがとても良かった。

このコンサートは、サントリーホールで行われた読売交響楽団の定期演奏会で、指揮者が2回、ピアノ独奏者が1回、コロナの影響で外人から日本人へと変わった。写真は、指揮者の高関健と、小林愛実さんである。

小林愛実さんは、ショパンのピアノ協奏曲第1番を演奏したのだが、見事なリズム感、説得力のあるアーティキュレーションとその強弱、オーケストラのトッティの中での超絶的なスケールの上行と下降のみごとさなど、どれをとっても完璧な演奏だった。

涙腺の弱くなってきた主は、長いオーケストラの前奏のあとに入ってくるピアノに、思わず涙が出てきて困った。第3楽章の本当の最後のフィナーレの部分のピアノにも泣きそうになってしまった。年齢のせいで、涙腺が緩み、しょっちゅう涙を流しているとはいうものの、コンサートホールで、こうした経験はさすがに初めてだった。

ショパンのこの曲は、スラブの民族音楽の雰囲気が色濃くあり、それが心情的に訴えてくるのかも知れない。理知的なバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンといったドイツ主流派と、そこが違うところだろう。

彼女は、前半のプログラムの2曲目、休憩の前に登場した。彼女の演奏が終わった後、観客の拍手がいつまでも鳴り止まずに、アンコールで小品を1曲(ショパン前奏曲 Op.28 第17番変イ長調)を弾いてくれた。最近のコンサートでは、アンコール演奏がないことが多いように感じていたので、これも珍しい。

余談だが、主は、NHKが1985年に放送したショパンコンクールでブーニンが優勝した時の番組を見たのがきっかけで、クラシック音楽を聴き始めた。ちょうど、レコードがら、CDへ切り替わる時期だった。

主がハマっているグレン・グールドは、「やがてコンサートはなくなるだろう」と言った。彼は、コンサートホールの聴衆を、闘牛を見に来た観客に例え、演奏者が失敗するのを期待していると考えていた。同時に、完璧主義者のグールドは、見事な演奏に聴衆から熱狂的な拍手喝采を受けている際に、「今の演奏には、マズいところがあった。もう1度やり直したい。」と思っていたらしい。

あがり症と完璧主義者的性格によって、彼はコンサートから32歳の時にドロップアウトし、スタジオに籠ってレコード制作をするようになる。そこでは、何度でも気に入るまでテイクを取り直せる。

そうしたグールドは、技術の進歩により、リスナーが音楽の一部分、例えば、だれだれの演奏(キット)と、だれだれの演奏(キット)をつないで、自分だけの好みの演奏を作って楽しむだろうといったことも言っていた。こうした実験的な試みは、パソコンを使ってデスクトップミュージックという分野で、確かにそうしたことができる時代になったが、一般のリスナーはそこまではしないし、コンサートはなくならなかった。

生演奏の、生の楽器の素晴らしい音は、自宅で簡単には再現できない。コロナ禍で、マスコミはテレワークと同様、オンラインで音楽を楽しめるとしきりに流していたが、自宅のスピーカーでコンサートホールの音が再現できるなど、ちゃんちゃらおかしい。 まして、遠隔で、合奏(アンサンブル)できるみたいなことも言っていたが、それをコンサートホールと同様の音質でわれわれが聴けるとはとうてい思えない。

完成度の高さでは、録音物の方が高いのは間違いないだろうが、やはり、生の音は良い。弦楽器が実際に音を出す前には、一瞬前に弦と弓がこすれるかすかな音がするし、クラシック音楽で使われるどの楽器でも、アコースティックな響きは非常に心地よく、録音物では表現できない良さがある。 そのため、コンサートの意義はなくなっていないのではないか。

サントリーホール

プログラムの後半には、高関健指揮で、プロコフィエフ(1891-1953)の交響曲第5番が演奏された。主は、このプロコフィエフという作曲家の交響曲を初めて聴いた。パンフレットの解説によると、革命を嫌気して西側へのがれたプロコフィエフだが、結局、革命後のソ連に戻ってくる。このソ連時代に書かれた曲で、旋律がニュース映画に出てきそうで、いかにもソ連的だ。

ソ連の国旗のデザイン

演奏するオーケストラの団員数は、ショパンの協奏曲と比べるとずいぶん多い。特に、後列の打楽器奏者は、5人ほどいたはずだ。彼らが銅鑼やらシンバル、大太鼓などを鳴らすので、フォルテッシモでは、超絶、大迫力である。

こうした曲をCDやストリーミングで自宅で聴くのは、大掛かりな再生装置が必要になるので、難しい気がする。こうした大曲は、生でコンサートホールで聴くに限る、そんな気がする。大音量で、こうした交響曲をホールで聴くのは、ストレス発散にいいかも知れない。

おしまい

N響ソロイスツによる 本邦初演、編曲のマーラー10番を聴いてきた

マーラー(1860-1911)は、後期ロマン派、しかもその最後の音楽家に当たり、オーケストラの編成を極限まで巨大化したことで知られる。

マーラーの交響曲を演奏する際の演奏者の数は、モーツァルトやベートーヴェンの時代よりはるかに多い。

マーラーの交響曲第8番は、「千人の交響曲」と言う別称があり、壇上に150人を超えるオーケストラ、後ろの合唱団、バルコニーの少年合唱団が800人いる。楽器編成も凄くて、ハープが2台、マンドリン、ピアノなどが複数舞台にのっているし、パイプオルガンも登場する。打楽器は何種類もあり、大太鼓やシンバル、タムタム(銅鑼みたいなもの)もある。管楽器なども、大きな音量をだすということだけでなく、息継ぎをわからないようにするという理由で、一つのパートを大勢で分担したりする。

そのマーラーの音楽は、次の世代が、シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルン、ヒンデミットなどの現代音楽へと連なる。このため、マーラーの音楽もけっこう形容しがたい音楽だと主は思っている。はっきり言うと、「ようわからん」のだが、不思議な魅力があり、気になり、心のどこかに引っかかっており、時間がたつとマーラーが聴きたくなる、そんな音楽である。

マーラー Wikipediaから

そんな風に感じているマーラーなのだが、この大規模な曲を編曲して、小編成でやってみるという催しを見つけて行ってきた。下が、そのチラシである。

本邦初演!室内楽のマーラー

主は、違った角度からスポットライトを当てることで、分かりやすくなる、編曲のもののクラシックが結構好きだ。主のひいきのグレン・グールドは、ベートーヴェンの交響曲やワーグナーの前奏曲を、ピアノ編曲で弾いており、原曲とは違った魅力がたっぷりとある。

開演前の白寿ホール 満席になった

演奏があった白寿ホール(代々木・300席)は上の写真のようなところで、音響が素晴らしかった。開場直後にとった写真なので、観客がまばらにしか写っていないが、実際は満席になった。この時間には、打楽器奏者が、ティンパニのチューニングに時間をかけていた。

さて、感じたことなのだが、どの楽器も「音がでかい」。大勢のオーケストラの中で響くハープなどは、ほとんど聞き取れないような音量なのだが、こうした小編成の中のハープは、たいした存在感である。

弦楽器、管楽器もさることながら、打楽器奏者は大活躍をしていた。彼は、360度を楽器で囲まれ、ティンパニを大音量で鳴らすだけでなく、銅鑼やシンバルもならすし、トライアングルを鳴らすための金属棒を口にくわえながら、マリンバ(木琴)とグロッケンシュピール(鉄琴)なども演奏していた。

グロッケンシュピール Wikipediaから

トライアングルも、頻繁に登場するのだが、良く聞こえる。このトライアングルは、打楽器奏者と鍵盤奏者が分担しており、打楽器奏者が他の楽器を演奏して手を離せないときに、右側の鍵盤奏者が担当していた。

不思議だったのが、鍵盤奏者である。鍵盤奏者は、前にピアノと後ろにアルモニア(リードオルガン)とその中間にトライアングルの支柱を立てて、3つの楽器を担当しているのだが、ピアノとアルモニアの音は、他の楽器に埋もれてよく聞こえなかった。なぜなんでしょう。

この交響曲第10番は、マーラーの最後の交響曲で、めちゃ長くて、第5楽章まであり、およそ1時間半かかる。そのため、途中の休憩がないというアナウンスがある。それもあって、この日のプログラムは、この1曲のみである。 たしかにこの曲の後に、どんな曲を演奏すればこの曲の余韻を壊さないのか、アンコールがないのも仕方がない。

この大規模なオーケストラ曲を、編曲して室内楽の団員数で演奏することで、意外な効果があるもんだと感じた。

つまり、一つは、オーケストラの主要なパートである、ヴァイオリン、チェロ、コントラバスなどの弦楽器群の数、フルート、クラリネット、ホルン、トランペットなどの管楽器の数が通常より少ないことで、ハープやトライアングルなど、他の楽器群の大音量に負けていた楽器の音量が相対的に増し、さすがに、マーラーさん、うまい具合にハープを使っているもんだとか実感する。トライアングルも効果的に鳴らされる。打楽器もそうで、ティンパニ、太鼓だけでなく、木琴、鉄琴も好く鳴っているのが分かる。こうした楽器の音は、本来の大編成では埋もれがちだと思う。

二つ目は、大編成のオーケストラでは、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリンが、それぞれ10名程度はいるような気がする。しかし、今回の編成では2名ずつだったように思う。 これがスリルを生む気がした。つまり、曲の冒頭など、第1ヴァイオリンが、静かに小さな音で長い主題を演奏するのだが、10名ほどの合奏と、2人だけの合奏では、観客への聴こえ方がまったく違う。10名ほどでやると、安心感というか安定した旋律になるが、二人というのは、完全に音が一致して重なり合うわけではないので、鮮明に楽器ごとの音が聞こえ、長い音符の区切りや節回しをどのように演奏するかとか、不一致が起こってないかとか、緊張感をはらんでくる。

協奏曲の場合のソリストは、主役なので好きなように弾けるが、二人で同じ旋律を鳴らすのは、これとも違う。

これと同じような他の楽器が鳴っていない、旋律が一つだけのときに、他の弦楽器でもそうだし、管楽器でも起こる。

最終的に、マーラーをよく理解できたか?楽しめたか?ということについてだが、残念ながら、相変わらず「ようわからん曲だ」「まあまあ、楽しめた」ということになるのだが、大音量の全奏では驚くし、ヴァイオリンが囁くように密やかになる部分では、耳をそばだてて聴き入った。

最初に書いたが、このマーラーの次の時代の音楽は、シェーンベルクなどの現代曲に連なる。マーラーの曲は、無調ではないにしろ、調性もあいまいで、12音音楽までもちろんいかないのだが、前期ロマン派の美しく、自己陶酔的で感傷的な音楽とはまったくちがう。個人的な感傷に浸ることを許さない、もっとスケールの大きな世界観や哲学を感じさせる音楽に感じられたのだが、どうだろうか。

この日の観客の反応は非常に良かった。いつまでもカーテンコールの拍手が鳴りやまなかった。

きっと、マーラーの巨大さをはぎ取って、残ったコアの部分をわかりやすく、明晰に客に示すというこの編曲の試みは成功したということなんだろうと思う。

おしまい

再上映「痛くない死に方」「けったいな町医者」見てきた

尼崎に長尾和宏さんという医師がおり、お昼のテレビのワイドショーに出て、コロナの対応方針について熱く語っておられた。今年(2021年)の夏ごろだったと思うが、デルタ株が蔓延しPCR検査で陽性者が多数発生したにもかかわらず、医療施設に収容しきれずに、自宅待機を余儀なくされていた時期と思う。

この長尾さんの主張は、コロナの分類を2類から5類に変更することと、治療薬として、イベルメクチンの使用を認めることの2点だった。イベルメクチンというのは、北里大学大村智さんがノーベル賞をとった薬で、アフリカや南米で広く使われ、動物用にも使われている。

ところが、この発言は日本の『感染症の専門家たち』から完璧に無視され、長尾医師は医者の世界で、完全に孤立した存在になる。

そんなで主は、長尾さんのコロナについてのYOUTUBEを見たりしていたのだが、たくさんの著作とともに、医療をテーマにした映画もあることを知った。

それが、「痛くない死に方」と「けったいな町医者」である。

始まるころには、もう少し増えた。観客の平均年齢は、80歳に近いかも(東京都写真美術館)

だれしも歳を取って高齢になると、死ぬのは仕方がないが痛い思いをしたくない、というのが一般的だろうと思う。また老いぼれて、オシメをして下の世話で、家族に迷惑を掛けたくない、というのも普通だろう。

医者たちが、庶民に手の届かなかった時代、つまり太平洋戦争より前の時代は、便所に行けないような年寄りは、食事介護され食物を口に放り込まれることもなかったはずだ。生命活動が自然に低下した年寄りは、寝たきりとなり、ぼんやりとなって意識が低下して、まもなく死んでいったはずだ。死ぬ間際には、脳内ドラッグ(ホルモン)が出て、幸福な夢を見ながら動物は死ぬ。

臨死体験の謎を解く「脳内ドラッグ」 死の直前30秒間に放出

ところが、この死ぬ間際のまどろみを破るものが出てきた。現代の医者である。医者たちは、患者が死ぬことを敗北と教えられる。患者がオシメをして、ベットで意識を失っていても、それが勝利だという教育を受けている。そして点滴で過剰な栄養を補給するため、患者は最終的に溺死する。溺死では、脳内ドラッグは出ない。

この二つの映画は、そんな話です。

おしまい

(修正版)バッハ ピアノ・コンチェルトにまつわる話

2020/12/17に書いたものを、2021/10/8に、シフのYOUTUBEが聴けなかった点を修正しました。

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バッハの時代はピアノがなかった。そのため、バッハは、チェンバロで協奏曲を多数作っていて、WIKIPEDEAによると、チェンバロ1台用が8曲(1曲は断片)、2台用3曲、3台用2曲、4台用1曲の計14曲も作ったらしい。

ところが、チェンバロ協奏曲、チェンバロは大きな音が出ないために、他のバイオリンやチェロと合奏すると、音量的に完全に負けてしまう。バッハの時代の協奏曲は、大オーケストラというわけではなく、バイオリン、チェロ、コントラバスあたりの弦楽器だけの編成になっており、次に貼り付けたYOUTUBEがそうだ。チェンバロを使ったトン・コープマンという有名な奏者のものだが、オーケストラとチェンバロの音量比は、こういう感じで、どうもチェンバロの存在感は埋没的と言わざるを得ない。

ところが、グレン・グールド。チェンバロ曲をピアノで弾くのはタブーだった時代に、「バッハの時代にピアノがなかったからといって、ピアノで弾かないというのはおかしい。もしあったら、バッハはピアノを使っただろう。」と言って、作曲家の生きた時代に使われた楽器を使う古楽器ブームに轟然と逆らって、表現力が豊かなピアノで弾き、結局、それ以降、バッハを大勢の演奏家がピアノで弾くようになった。

グールドが、バッハのゴルトベルク変奏曲をピアノで弾いてデビューした後、それこそ星の数ほどの演奏家が、この曲をピアノで演奏している。つまり、チェンバロは音量が小さいだけでなく、打鍵の強弱で音量を調節できない。音色が非常に美しいのが魅力だが、表現力ははっきりピアノの方がある。

そこでグールドが《バッハのチェンバロ協奏曲》をピアノで弾き、チェンバロと区別するため《ピアノ協奏曲》と言われる。ところが、この曲のシリーズは、グールドの表現力が圧倒的で、有名なピアニストもあまり弾いていないように思える。

矢印をクリックすると、設定画面が開きます。

つまり、24歳のグールドが、ロシアツアーを行ったとき、ゴルトベルク変奏曲をモスクワで聴いたスヴァトスラフ・リヒテルという大ピアニスト「この曲を二度と自分のレパートリーに入れまいと決心した」(グレン・グールド神秘の探訪:ケヴィン・バザーナ 255頁)と書かれている。これと同じことが《バッハのピアノ協奏曲》でも起こっていると、主は信じている。グールドの演奏が余りに素晴らしく、圧倒的に説得力があり、とても楽しめる曲にもかかわらず多くのピアニストが避けているとしか思えない。

なにしろ、リズムが、定規で測ったか、コンピューターかのように圧倒的に正確で、聴いていて気持ちよくハラハラし、音量の出し入れも最高だし、また、緩徐楽章の右手一本で旋律を弾く際など、これはこれはもう完璧なロマンチックさで、うっとり拍動が激しくなるほどだ。

ことろで、YOUTUBEの字幕機能について、すでにご存じの方も多いと思うが、この動画、冒頭部分でけっこう長くしゃべるバーンスタインの解説を、日本語字幕で出すことがでる。上の写真の赤い矢印の歯車をクリックすると、設定画面が出る。そこで、「字幕オフ」になっているのを「オン」にし、「英語自動生成」をクリックすると「自動翻訳」が出てくる。スクロールして一番下にある「日本語」をクリックするとできるはずだ。

このバーンスタイン大先生は、演劇同様に、バッハの書いた楽譜にはほとんど指示らしい指示が書かれていないので、演奏者が自分で考えなければならないという意味のことを言っている。演奏が始まると、グールドの指が細いのに驚く。女性でもこんなに細くないだろう。ほぼ骨が浮き出て、骸骨のようだ。

(こちらの動画は、残念ながら第1楽章しか入っていない。次のURLのは全楽章入っている。→ https://www.youtube.com/watch?v=JUBYGfjx_54&ab_channel=DeucalionProject)

ところで、ポリーナ・オセチンスカヤというピアニストをYOUTUBE(400万回弱再生されている)で見つけた。この人の演奏は、主は結構好きだ。ちょっとした狂気が感じられるし、とても大きな表現力を感じる。第3楽章は、アレグロ(快速に)なのだが異常に速く、プレストかプレスティッシモ(極めて速く)というスピードである。この人の演奏には、グールドと同じくスイング感、グルーヴ感があり、さすがにもっと現代的なところがあり、楽団を圧倒して背負い投げするような感じがする。グールドには、楽団を圧倒するところはない。主は、第二楽章のアダージョは、グールドの方が好きだけど・・。

楽章の合間に、珍しく毎回、拍手が入る。

最後に、アカン人。ハンガリー出身のアンドラーシュ・シフ「グールド以来のバッハ解釈者」と形容され、グールドを尊敬しているというような意味のことをテレビで聞いた記憶がある。それできっとシフ・ファンの方がけっこうおられると思う。しかし、申し訳ないが、主はこの人の演奏を聴くと、音が耳に刺さって、耳が痛くなる。原因は、この人の鍵盤の弾き方にある。グールドは、手の甲をむしろ下げ、指を平らにして、指だけで弾くのだが、シフは腕全体を鍵盤に落下させて、鍵盤をガンガン叩いている。手の動きを見ていただければわかるかと思う。こちらは、第3番の協奏曲だ。

おしまい

(修正版)グレン・グールド・ギャザリング その2 「いかにしてモーツァルトはダメな作曲家になったか」 内田光子さんと比べて

リライト2021/10/8 YOUTUBEのリンクがうまくつながっていなかったので、加筆・修正しました。

YOUTUBEにアメリカでのテレビ番組「いかにしてモーツァルトはダメな作曲家になったか」があるのを見つけた。2種類のモーツァルトのピアノソナタK333もあった。

これらを聴いてもらえると、グールドの弾くモーツァルトが、いかに過激か!よくわかっていただけると思います。

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2017年12月に建国150周年を記念したカナダ大使館で、グレン・グールド・ギャザリングという催しがあったことを前回書いたが、そこで映画「いかにしてモーツァルトはダメな作曲家になったか」を見てきた。写真の席の左側に座ってパンフレットを広げておられるのが、グールド財団の方で、今回の上映を許可してくださったそうだ。また、右側と下の写真は、ずっとこのシリーズの解説と、字幕翻訳の監修をして下さった宮澤淳一氏である。氏は、青山学院大学教授で世界的なグールド研究の第一人者だ。

今回紹介する、超過激なタイトル!の映画、「いかにしてモーツァルトはダメな作曲家になったか」は、アメリカで1968年4月28日に放送されたテレビ番組の一部だった。グールドは当時36歳だったが、彼は32歳の時からコンサートを開かなくなっていた。そのため、もっぱらスタジオでのレコード作りをしていたので、テレビとはいえ、4年ぶりに生の姿を現したと話題になったらしい。この放送があった1968年頃といえば、第二次世界大戦後の文化、経済、政治あらゆる面で、大きく民主化や大衆化が世界的に進んだ時期と言っていいのではないか。ベトナム戦争の最中だったが、反戦運動も激化し、ヒッピー文化、サイケデリックなサブカルチャーやドラッグ、性の解放などが進んだ時代だった。そうしたアメリカでの2時間番組の40分ほどが、このグールドの放送だった。なお、再放送されることはなかったようだが、ググると仏語のDVDがヒットするので、販売されていた時期があったのかもしれない。(下の写真は大使館に展示されていたもので、コロンビアレコードのハンスタインさんが撮られたものである。晩年のグールドでこのように笑っている写真は少ないと思う)

ビデオを見て驚くのだが、グールドのモーツァルトへのこき下ろし方は半端ではない。モーツアルトは35歳で早逝しているのだが、グールドは前から「死ぬのが早すぎたのではなく、死ぬのが遅すぎた」と言っていた。

この番組では、モーツァルトの作曲態度を、安易で紋切り型の繰り返しに過ぎないとピアノで演奏しながら説明する。この説明には、ピアノ協奏曲の24番を使って説明するのだが、オーケストラが演奏するパートをすべてピアノ1台で弾きながら説明する。このピアノが、鮮やかで、オーケストラに引けを取らないくらい魅力的なのだ。ピアノの演奏の上手さと、語り口の激しさが、見ている方にとっては、メチャメチャ刺激的だ。

大体、天下の大作曲家、モーツァルトを、ここまで正面切って誰が否定するか?モーツアルトの美しいメロディーが変化していくさまを、ピアノを弾きつつグールドが解説し、その変化のさせ方が簡単に予想がつき、手抜きだというのだ。だが、グールドの語り口はともかく、演奏の方は見事で申し分ない。こんなに美しく移ろうのに、どこが悪いの?

この説明には、「クリシェ」というフランス語がキーワードで使われており、WIKIPEDIAではクリシェを「乱用の結果、意図された力・目新しさが失われた句(常套句、決まり文句)・表現・概念を指し、さらにはシチュエーション、 筋書きの技法、テーマ、性格描写、修辞技法といった、ありふれたものになってしまった対象にも適用される。否定的な文脈で使われることが多い」と書かれている。

この発言だが、どこまで本気なのか真偽のほどはわからないが、グールドの言っていることは一理あり、完全に本気なのかもしれない。だが、彼はモーツアルトのピアノソナタは、反面教師的に否定的なことを言いながらも全曲録音しているし、「モーツァルトが書く展開部は、展開していない」とこき下ろしたピアノ協奏曲のうち、番組で取り上げた第24番だけは見事な録音を残している。

この番組の最後の部分では、高く評価できるというピアノソナタ第13番変ロ長調K.333を13分程度で全曲演奏する。これがまた素晴らしい演奏で、主は大使館のホールですっかり感動してしまった。この曲は3楽章あり、驚異的なスピードの第1楽章、比較的ゆったりした第2楽章は、強弱のつけ方や、レガートに弾いたり、スタッカートで弾いたり、響きを区切ったり、残響を残したり変化をつけて飽きさせないで見事なのだが、第3楽章の中盤あたりにいわゆるサビがあり、とても盛り上がっていき、ひねりも加わって曲全体のハイライトがここにある。

このK.333の第3楽章を、ジェフリー・ペイザントが「グレン・グールド、音楽、精神」で次のように評している。「・・・グールド本人はいくつかのモーツァルト演奏において、まさにこの芝居ががった演技性を探求している。例えば、彼の演奏する変ロ長調ソナタ(K.333)の第3楽章は明らかにオペラ的であり、≪魔笛≫でタミーノが歌う <彼はパミーノを見つけたのかもしれない> に実によく似ている。グールドの弾くモーツァルトの終楽章には、モーツァルトのオペラの第一幕末尾を思わせるおどけた性格が頻繁に現れる。・・・」 要は早い話が、普通のピアニストが弾くモーツァルトの原曲とは、違う曲になっているんですね!!

主は、このブログを書くにあたって、英国で活躍する内田光子さんの演奏と比べてみた。内田さんは、日本を代表する世界的ピアニストなのだが、情熱ほとばしるというか、のめりこむところを表に出す正統派のピアニストだろう。

第1楽章を聴くと、何回繰り返すの?と思うくらいリピートしている。おそらく、グールドが、楽譜どおりの繰り返しをしていないのだろう。第2楽章は、大人しくて美しい。文句のつけようがないが、主はそれがどうしたと思うだけで、面白くない。いつまで弾いているの。第3楽章、やはり美しい。がそれ以上のものがない。全体をとおして、平板だ。美しい音色で美しい演奏だが、それ一本。びっくりする要素がない。ひたすら高音部のメロディーだけが、存在を主張している。

グールドは、低音部に自分で考えて勝手に音を加えて、低音部にもメロディーがあるように再作曲しているにちがいない。アーティキュレーション(フレージング)も自在だ。基本的にインテンポ(テンポを崩さず)で弾くのが彼の特徴なのだが、人に真似のできないようなスピードで弾ける(人に弾けないような遅さでも弾ける)。同じ弾き方を、何回もしない。繰り返すときはデタシェ(ノン・レガート)で弾いたり、弾き方を変え、サービス精神があって飽きさせない。なにより、低音部が伴奏ではなく、主役の一部を構成する。全ての音が、全体を考えたピースの1個であるかのようにコントロールされている。

50年経った今でも、未だにグールドは、アバンギャルドなのかもしれない。

・・・主は、グールドがモーツァルトの偉大さは認めながらも、言っていたのは本気だと思う。ちなみに、番組では「作曲家としてはダメだったが、音楽家としては偉大だった」と強調していた。

うまい具合に、YOUTUBEにどちらもあったので、はめ込んだ。グールドは、まったく違う2種類の演奏が見つかった!(どちらも、残念ながらテレビの録音は良くなく、CDやSACDはずっとよい。)

最初は、内田光子さんの演奏。3つに分かれている。ゆったり弾かれているのがわかる。

4番目からグールドの演奏。グールドの最初は、1967年3月のCBC(カナダ放送協会)のものだ。これは18分あり、モーツァルトをこき下ろした番組に比べると、わりとおとなしい(オーソドックス)な演奏をしている。

グールドの2番目が、テレビ放送「いかにしてモーツァルトはダメな作曲家になったか」の方である。きわめてエキセントリック、挑発的(だが、魅力的!)な演奏だ。 

大使館での上映では、宮澤淳一氏が監修された日本語字幕付きの映像を見ることができた。ぜひ機会を見つけて販売してもらえると嬉しい。(さもなくば死蔵することなく、YOUTUBEなどの手段をとってでも見られるようにしてもらえることを願うのみだ。)

https://www.youtube.com/watch?v=D_1pJ9sptk8

Glenn Gould performs Mozarts “Piano Sonata No. 13 in B-flat major“, at the classical music television series “Music For a Sunday Afternoon”, 140 years after the death of the legendary composer, originally broadcast on March 19, 1967.

こちらは、1967年5月19日カナダの公共放送であるCBCテレビで放送されたもの。

https://www.youtube.com/watch?v=L52LqcVAhGY

Excerpt from the “Return of the Wizard”, where concert pianist Glenn Gould enumerates on “How Mozart Became a Bad Composer.”

こちらが、「いいかにしてモーツァルトはダメな作曲家になったか」で放送された、モーツァルトのピアノソナタ13番K333を抜粋したもの。挑発的だ!

https://www.youtube.com/watch?v=1pR74rorRxs

Glenn Gould – “How Mozart Became a Bad Composer”の全編。設定のところをいじると、大いに問題がある怪しい日本語訳を表示させることができます。

おしまい