読響 小林愛実さん ショパンピアノ協奏曲1番を聴いてきた

読響のHPから

第613回定期演奏会 2021 12.14〈火〉 19:00  サントリーホール

12月14日、2021年のショパンコンクールで4位入賞された小林愛実さんのコンサートへ行ってきた。これがとても良かった。

このコンサートは、サントリーホールで行われた読売交響楽団の定期演奏会で、指揮者が2回、ピアノ独奏者が1回、コロナの影響で外人から日本人へと変わった。写真は、指揮者の高関健と、小林愛実さんである。

小林愛実さんは、ショパンのピアノ協奏曲第1番を演奏したのだが、見事なリズム感、説得力のあるアーティキュレーションとその強弱、オーケストラのトッティの中での超絶的なスケールの上行と下降のみごとさなど、どれをとっても完璧な演奏だった。

涙腺の弱くなってきた主は、長いオーケストラの前奏のあとに入ってくるピアノに、思わず涙が出てきて困った。第3楽章の本当の最後のフィナーレの部分のピアノにも泣きそうになってしまった。年齢のせいで、涙腺が緩み、しょっちゅう涙を流しているとはいうものの、コンサートホールで、こうした経験はさすがに初めてだった。

ショパンのこの曲は、スラブの民族音楽の雰囲気が色濃くあり、それが心情的に訴えてくるのかも知れない。理知的なバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンといったドイツ主流派と、そこが違うところだろう。

彼女は、前半のプログラムの2曲目、休憩の前に登場した。彼女の演奏が終わった後、観客の拍手がいつまでも鳴り止まずに、アンコールで小品を1曲(ショパン前奏曲 Op.28 第17番変イ長調)を弾いてくれた。最近のコンサートでは、アンコール演奏がないことが多いように感じていたので、これも珍しい。

余談だが、主は、NHKが1985年に放送したショパンコンクールでブーニンが優勝した時の番組を見たのがきっかけで、クラシック音楽を聴き始めた。ちょうど、レコードがら、CDへ切り替わる時期だった。

主がハマっているグレン・グールドは、「やがてコンサートはなくなるだろう」と言った。彼は、コンサートホールの聴衆を、闘牛を見に来た観客に例え、演奏者が失敗するのを期待していると考えていた。同時に、完璧主義者のグールドは、見事な演奏に聴衆から熱狂的な拍手喝采を受けている際に、「今の演奏には、マズいところがあった。もう1度やり直したい。」と思っていたらしい。

あがり症と完璧主義者的性格によって、彼はコンサートから32歳の時にドロップアウトし、スタジオに籠ってレコード制作をするようになる。そこでは、何度でも気に入るまでテイクを取り直せる。

そうしたグールドは、技術の進歩により、リスナーが音楽の一部分、例えば、だれだれの演奏(キット)と、だれだれの演奏(キット)をつないで、自分だけの好みの演奏を作って楽しむだろうといったことも言っていた。こうした実験的な試みは、パソコンを使ってデスクトップミュージックという分野で、確かにそうしたことができる時代になったが、一般のリスナーはそこまではしないし、コンサートはなくならなかった。

生演奏の、生の楽器の素晴らしい音は、自宅で簡単には再現できない。コロナ禍で、マスコミはテレワークと同様、オンラインで音楽を楽しめるとしきりに流していたが、自宅のスピーカーでコンサートホールの音が再現できるなど、ちゃんちゃらおかしい。 まして、遠隔で、合奏(アンサンブル)できるみたいなことも言っていたが、それをコンサートホールと同様の音質でわれわれが聴けるとはとうてい思えない。

完成度の高さでは、録音物の方が高いのは間違いないだろうが、やはり、生の音は良い。弦楽器が実際に音を出す前には、一瞬前に弦と弓がこすれるかすかな音がするし、クラシック音楽で使われるどの楽器でも、アコースティックな響きは非常に心地よく、録音物では表現できない良さがある。 そのため、コンサートの意義はなくなっていないのではないか。

サントリーホール

プログラムの後半には、高関健指揮で、プロコフィエフ(1891-1953)の交響曲第5番が演奏された。主は、このプロコフィエフという作曲家の交響曲を初めて聴いた。パンフレットの解説によると、革命を嫌気して西側へのがれたプロコフィエフだが、結局、革命後のソ連に戻ってくる。このソ連時代に書かれた曲で、旋律がニュース映画に出てきそうで、いかにもソ連的だ。

ソ連の国旗のデザイン

演奏するオーケストラの団員数は、ショパンの協奏曲と比べるとずいぶん多い。特に、後列の打楽器奏者は、5人ほどいたはずだ。彼らが銅鑼やらシンバル、大太鼓などを鳴らすので、フォルテッシモでは、超絶、大迫力である。

こうした曲をCDやストリーミングで自宅で聴くのは、大掛かりな再生装置が必要になるので、難しい気がする。こうした大曲は、生でコンサートホールで聴くに限る、そんな気がする。大音量で、こうした交響曲をホールで聴くのは、ストレス発散にいいかも知れない。

おしまい

N響ソロイスツによる 本邦初演、編曲のマーラー10番を聴いてきた

マーラー(1860-1911)は、後期ロマン派、しかもその最後の音楽家に当たり、オーケストラの編成を極限まで巨大化したことで知られる。

マーラーの交響曲を演奏する際の演奏者の数は、モーツァルトやベートーヴェンの時代よりはるかに多い。

マーラーの交響曲第8番は、「千人の交響曲」と言う別称があり、壇上に150人を超えるオーケストラ、後ろの合唱団、バルコニーの少年合唱団が800人いる。楽器編成も凄くて、ハープが2台、マンドリン、ピアノなどが複数舞台にのっているし、パイプオルガンも登場する。打楽器は何種類もあり、大太鼓やシンバル、タムタム(銅鑼みたいなもの)もある。管楽器なども、大きな音量をだすということだけでなく、息継ぎをわからないようにするという理由で、一つのパートを大勢で分担したりする。

そのマーラーの音楽は、次の世代が、シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルン、ヒンデミットなどの現代音楽へと連なる。このため、マーラーの音楽もけっこう形容しがたい音楽だと主は思っている。はっきり言うと、「ようわからん」のだが、不思議な魅力があり、気になり、心のどこかに引っかかっており、時間がたつとマーラーが聴きたくなる、そんな音楽である。

マーラー Wikipediaから

そんな風に感じているマーラーなのだが、この大規模な曲を編曲して、小編成でやってみるという催しを見つけて行ってきた。下が、そのチラシである。

本邦初演!室内楽のマーラー

主は、違った角度からスポットライトを当てることで、分かりやすくなる、編曲のもののクラシックが結構好きだ。主のひいきのグレン・グールドは、ベートーヴェンの交響曲やワーグナーの前奏曲を、ピアノ編曲で弾いており、原曲とは違った魅力がたっぷりとある。

開演前の白寿ホール 満席になった

演奏があった白寿ホール(代々木・300席)は上の写真のようなところで、音響が素晴らしかった。開場直後にとった写真なので、観客がまばらにしか写っていないが、実際は満席になった。この時間には、打楽器奏者が、ティンパニのチューニングに時間をかけていた。

さて、感じたことなのだが、どの楽器も「音がでかい」。大勢のオーケストラの中で響くハープなどは、ほとんど聞き取れないような音量なのだが、こうした小編成の中のハープは、たいした存在感である。

弦楽器、管楽器もさることながら、打楽器奏者は大活躍をしていた。彼は、360度を楽器で囲まれ、ティンパニを大音量で鳴らすだけでなく、銅鑼やシンバルもならすし、トライアングルを鳴らすための金属棒を口にくわえながら、マリンバ(木琴)とグロッケンシュピール(鉄琴)なども演奏していた。

グロッケンシュピール Wikipediaから

トライアングルも、頻繁に登場するのだが、良く聞こえる。このトライアングルは、打楽器奏者と鍵盤奏者が分担しており、打楽器奏者が他の楽器を演奏して手を離せないときに、右側の鍵盤奏者が担当していた。

不思議だったのが、鍵盤奏者である。鍵盤奏者は、前にピアノと後ろにアルモニア(リードオルガン)とその中間にトライアングルの支柱を立てて、3つの楽器を担当しているのだが、ピアノとアルモニアの音は、他の楽器に埋もれてよく聞こえなかった。なぜなんでしょう。

この交響曲第10番は、マーラーの最後の交響曲で、めちゃ長くて、第5楽章まであり、およそ1時間半かかる。そのため、途中の休憩がないというアナウンスがある。それもあって、この日のプログラムは、この1曲のみである。 たしかにこの曲の後に、どんな曲を演奏すればこの曲の余韻を壊さないのか、アンコールがないのも仕方がない。

この大規模なオーケストラ曲を、編曲して室内楽の団員数で演奏することで、意外な効果があるもんだと感じた。

つまり、一つは、オーケストラの主要なパートである、ヴァイオリン、チェロ、コントラバスなどの弦楽器群の数、フルート、クラリネット、ホルン、トランペットなどの管楽器の数が通常より少ないことで、ハープやトライアングルなど、他の楽器群の大音量に負けていた楽器の音量が相対的に増し、さすがに、マーラーさん、うまい具合にハープを使っているもんだとか実感する。トライアングルも効果的に鳴らされる。打楽器もそうで、ティンパニ、太鼓だけでなく、木琴、鉄琴も好く鳴っているのが分かる。こうした楽器の音は、本来の大編成では埋もれがちだと思う。

二つ目は、大編成のオーケストラでは、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリンが、それぞれ10名程度はいるような気がする。しかし、今回の編成では2名ずつだったように思う。 これがスリルを生む気がした。つまり、曲の冒頭など、第1ヴァイオリンが、静かに小さな音で長い主題を演奏するのだが、10名ほどの合奏と、2人だけの合奏では、観客への聴こえ方がまったく違う。10名ほどでやると、安心感というか安定した旋律になるが、二人というのは、完全に音が一致して重なり合うわけではないので、鮮明に楽器ごとの音が聞こえ、長い音符の区切りや節回しをどのように演奏するかとか、不一致が起こってないかとか、緊張感をはらんでくる。

協奏曲の場合のソリストは、主役なので好きなように弾けるが、二人で同じ旋律を鳴らすのは、これとも違う。

これと同じような他の楽器が鳴っていない、旋律が一つだけのときに、他の弦楽器でもそうだし、管楽器でも起こる。

最終的に、マーラーをよく理解できたか?楽しめたか?ということについてだが、残念ながら、相変わらず「ようわからん曲だ」「まあまあ、楽しめた」ということになるのだが、大音量の全奏では驚くし、ヴァイオリンが囁くように密やかになる部分では、耳をそばだてて聴き入った。

最初に書いたが、このマーラーの次の時代の音楽は、シェーンベルクなどの現代曲に連なる。マーラーの曲は、無調ではないにしろ、調性もあいまいで、12音音楽までもちろんいかないのだが、前期ロマン派の美しく、自己陶酔的で感傷的な音楽とはまったくちがう。個人的な感傷に浸ることを許さない、もっとスケールの大きな世界観や哲学を感じさせる音楽に感じられたのだが、どうだろうか。

この日の観客の反応は非常に良かった。いつまでもカーテンコールの拍手が鳴りやまなかった。

きっと、マーラーの巨大さをはぎ取って、残ったコアの部分をわかりやすく、明晰に客に示すというこの編曲の試みは成功したということなんだろうと思う。

おしまい

再上映「痛くない死に方」「けったいな町医者」見てきた

尼崎に長尾和宏さんという医師がおり、お昼のテレビのワイドショーに出て、コロナの対応方針について熱く語っておられた。今年(2021年)の夏ごろだったと思うが、デルタ株が蔓延しPCR検査で陽性者が多数発生したにもかかわらず、医療施設に収容しきれずに、自宅待機を余儀なくされていた時期と思う。

この長尾さんの主張は、コロナの分類を2類から5類に変更することと、治療薬として、イベルメクチンの使用を認めることの2点だった。イベルメクチンというのは、北里大学大村智さんがノーベル賞をとった薬で、アフリカや南米で広く使われ、動物用にも使われている。

ところが、この発言は日本の『感染症の専門家たち』から完璧に無視され、長尾医師は医者の世界で、完全に孤立した存在になる。

そんなで主は、長尾さんのコロナについてのYOUTUBEを見たりしていたのだが、たくさんの著作とともに、医療をテーマにした映画もあることを知った。

それが、「痛くない死に方」と「けったいな町医者」である。

始まるころには、もう少し増えた。観客の平均年齢は、80歳に近いかも(東京都写真美術館)

だれしも歳を取って高齢になると、死ぬのは仕方がないが痛い思いをしたくない、というのが一般的だろうと思う。また老いぼれて、オシメをして下の世話で、家族に迷惑を掛けたくない、というのも普通だろう。

医者たちが、庶民に手の届かなかった時代、つまり太平洋戦争より前の時代は、便所に行けないような年寄りは、食事介護され食物を口に放り込まれることもなかったはずだ。生命活動が自然に低下した年寄りは、寝たきりとなり、ぼんやりとなって意識が低下して、まもなく死んでいったはずだ。死ぬ間際には、脳内ドラッグ(ホルモン)が出て、幸福な夢を見ながら動物は死ぬ。

臨死体験の謎を解く「脳内ドラッグ」 死の直前30秒間に放出

ところが、この死ぬ間際のまどろみを破るものが出てきた。現代の医者である。医者たちは、患者が死ぬことを敗北と教えられる。患者がオシメをして、ベットで意識を失っていても、それが勝利だという教育を受けている。そして点滴で過剰な栄養を補給するため、患者は最終的に溺死する。溺死では、脳内ドラッグは出ない。

この二つの映画は、そんな話です。

おしまい

(修正版)バッハ ピアノ・コンチェルトにまつわる話

2020/12/17に書いたものを、2021/10/8に、シフのYOUTUBEが聴けなかった点を修正しました。

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バッハの時代はピアノがなかった。そのため、バッハは、チェンバロで協奏曲を多数作っていて、WIKIPEDEAによると、チェンバロ1台用が8曲(1曲は断片)、2台用3曲、3台用2曲、4台用1曲の計14曲も作ったらしい。

ところが、チェンバロ協奏曲、チェンバロは大きな音が出ないために、他のバイオリンやチェロと合奏すると、音量的に完全に負けてしまう。バッハの時代の協奏曲は、大オーケストラというわけではなく、バイオリン、チェロ、コントラバスあたりの弦楽器だけの編成になっており、次に貼り付けたYOUTUBEがそうだ。チェンバロを使ったトン・コープマンという有名な奏者のものだが、オーケストラとチェンバロの音量比は、こういう感じで、どうもチェンバロの存在感は埋没的と言わざるを得ない。

ところが、グレン・グールド。チェンバロ曲をピアノで弾くのはタブーだった時代に、「バッハの時代にピアノがなかったからといって、ピアノで弾かないというのはおかしい。もしあったら、バッハはピアノを使っただろう。」と言って、作曲家の生きた時代に使われた楽器を使う古楽器ブームに轟然と逆らって、表現力が豊かなピアノで弾き、結局、それ以降、バッハを大勢の演奏家がピアノで弾くようになった。

グールドが、バッハのゴルトベルク変奏曲をピアノで弾いてデビューした後、それこそ星の数ほどの演奏家が、この曲をピアノで演奏している。つまり、チェンバロは音量が小さいだけでなく、打鍵の強弱で音量を調節できない。音色が非常に美しいのが魅力だが、表現力ははっきりピアノの方がある。

そこでグールドが《バッハのチェンバロ協奏曲》をピアノで弾き、チェンバロと区別するため《ピアノ協奏曲》と言われる。ところが、この曲のシリーズは、グールドの表現力が圧倒的で、有名なピアニストもあまり弾いていないように思える。

矢印をクリックすると、設定画面が開きます。

つまり、24歳のグールドが、ロシアツアーを行ったとき、ゴルトベルク変奏曲をモスクワで聴いたスヴァトスラフ・リヒテルという大ピアニスト「この曲を二度と自分のレパートリーに入れまいと決心した」(グレン・グールド神秘の探訪:ケヴィン・バザーナ 255頁)と書かれている。これと同じことが《バッハのピアノ協奏曲》でも起こっていると、主は信じている。グールドの演奏が余りに素晴らしく、圧倒的に説得力があり、とても楽しめる曲にもかかわらず多くのピアニストが避けているとしか思えない。

なにしろ、リズムが、定規で測ったか、コンピューターかのように圧倒的に正確で、聴いていて気持ちよくハラハラし、音量の出し入れも最高だし、また、緩徐楽章の右手一本で旋律を弾く際など、これはこれはもう完璧なロマンチックさで、うっとり拍動が激しくなるほどだ。

ことろで、YOUTUBEの字幕機能について、すでにご存じの方も多いと思うが、この動画、冒頭部分でけっこう長くしゃべるバーンスタインの解説を、日本語字幕で出すことがでる。上の写真の赤い矢印の歯車をクリックすると、設定画面が出る。そこで、「字幕オフ」になっているのを「オン」にし、「英語自動生成」をクリックすると「自動翻訳」が出てくる。スクロールして一番下にある「日本語」をクリックするとできるはずだ。

このバーンスタイン大先生は、演劇同様に、バッハの書いた楽譜にはほとんど指示らしい指示が書かれていないので、演奏者が自分で考えなければならないという意味のことを言っている。演奏が始まると、グールドの指が細いのに驚く。女性でもこんなに細くないだろう。ほぼ骨が浮き出て、骸骨のようだ。

(こちらの動画は、残念ながら第1楽章しか入っていない。次のURLのは全楽章入っている。→ https://www.youtube.com/watch?v=JUBYGfjx_54&ab_channel=DeucalionProject)

ところで、ポリーナ・オセチンスカヤというピアニストをYOUTUBE(400万回弱再生されている)で見つけた。この人の演奏は、主は結構好きだ。ちょっとした狂気が感じられるし、とても大きな表現力を感じる。第3楽章は、アレグロ(快速に)なのだが異常に速く、プレストかプレスティッシモ(極めて速く)というスピードである。この人の演奏には、グールドと同じくスイング感、グルーヴ感があり、さすがにもっと現代的なところがあり、楽団を圧倒して背負い投げするような感じがする。グールドには、楽団を圧倒するところはない。主は、第二楽章のアダージョは、グールドの方が好きだけど・・。

楽章の合間に、珍しく毎回、拍手が入る。

最後に、アカン人。ハンガリー出身のアンドラーシュ・シフ「グールド以来のバッハ解釈者」と形容され、グールドを尊敬しているというような意味のことをテレビで聞いた記憶がある。それできっとシフ・ファンの方がけっこうおられると思う。しかし、申し訳ないが、主はこの人の演奏を聴くと、音が耳に刺さって、耳が痛くなる。原因は、この人の鍵盤の弾き方にある。グールドは、手の甲をむしろ下げ、指を平らにして、指だけで弾くのだが、シフは腕全体を鍵盤に落下させて、鍵盤をガンガン叩いている。手の動きを見ていただければわかるかと思う。こちらは、第3番の協奏曲だ。

おしまい

(修正版)グレン・グールド・ギャザリング その2 「いかにしてモーツァルトはダメな作曲家になったか」 内田光子さんと比べて

リライト2021/10/8 YOUTUBEのリンクがうまくつながっていなかったので、加筆・修正しました。

YOUTUBEにアメリカでのテレビ番組「いかにしてモーツァルトはダメな作曲家になったか」があるのを見つけた。2種類のモーツァルトのピアノソナタK333もあった。

これらを聴いてもらえると、グールドの弾くモーツァルトが、いかに過激か!よくわかっていただけると思います。

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2017年12月に建国150周年を記念したカナダ大使館で、グレン・グールド・ギャザリングという催しがあったことを前回書いたが、そこで映画「いかにしてモーツァルトはダメな作曲家になったか」を見てきた。写真の席の左側に座ってパンフレットを広げておられるのが、グールド財団の方で、今回の上映を許可してくださったそうだ。また、右側と下の写真は、ずっとこのシリーズの解説と、字幕翻訳の監修をして下さった宮澤淳一氏である。氏は、青山学院大学教授で世界的なグールド研究の第一人者だ。

今回紹介する、超過激なタイトル!の映画、「いかにしてモーツァルトはダメな作曲家になったか」は、アメリカで1968年4月28日に放送されたテレビ番組の一部だった。グールドは当時36歳だったが、彼は32歳の時からコンサートを開かなくなっていた。そのため、もっぱらスタジオでのレコード作りをしていたので、テレビとはいえ、4年ぶりに生の姿を現したと話題になったらしい。この放送があった1968年頃といえば、第二次世界大戦後の文化、経済、政治あらゆる面で、大きく民主化や大衆化が世界的に進んだ時期と言っていいのではないか。ベトナム戦争の最中だったが、反戦運動も激化し、ヒッピー文化、サイケデリックなサブカルチャーやドラッグ、性の解放などが進んだ時代だった。そうしたアメリカでの2時間番組の40分ほどが、このグールドの放送だった。なお、再放送されることはなかったようだが、ググると仏語のDVDがヒットするので、販売されていた時期があったのかもしれない。(下の写真は大使館に展示されていたもので、コロンビアレコードのハンスタインさんが撮られたものである。晩年のグールドでこのように笑っている写真は少ないと思う)

ビデオを見て驚くのだが、グールドのモーツァルトへのこき下ろし方は半端ではない。モーツアルトは35歳で早逝しているのだが、グールドは前から「死ぬのが早すぎたのではなく、死ぬのが遅すぎた」と言っていた。

この番組では、モーツァルトの作曲態度を、安易で紋切り型の繰り返しに過ぎないとピアノで演奏しながら説明する。この説明には、ピアノ協奏曲の24番を使って説明するのだが、オーケストラが演奏するパートをすべてピアノ1台で弾きながら説明する。このピアノが、鮮やかで、オーケストラに引けを取らないくらい魅力的なのだ。ピアノの演奏の上手さと、語り口の激しさが、見ている方にとっては、メチャメチャ刺激的だ。

大体、天下の大作曲家、モーツァルトを、ここまで正面切って誰が否定するか?モーツアルトの美しいメロディーが変化していくさまを、ピアノを弾きつつグールドが解説し、その変化のさせ方が簡単に予想がつき、手抜きだというのだ。だが、グールドの語り口はともかく、演奏の方は見事で申し分ない。こんなに美しく移ろうのに、どこが悪いの?

この説明には、「クリシェ」というフランス語がキーワードで使われており、WIKIPEDIAではクリシェを「乱用の結果、意図された力・目新しさが失われた句(常套句、決まり文句)・表現・概念を指し、さらにはシチュエーション、 筋書きの技法、テーマ、性格描写、修辞技法といった、ありふれたものになってしまった対象にも適用される。否定的な文脈で使われることが多い」と書かれている。

この発言だが、どこまで本気なのか真偽のほどはわからないが、グールドの言っていることは一理あり、完全に本気なのかもしれない。だが、彼はモーツアルトのピアノソナタは、反面教師的に否定的なことを言いながらも全曲録音しているし、「モーツァルトが書く展開部は、展開していない」とこき下ろしたピアノ協奏曲のうち、番組で取り上げた第24番だけは見事な録音を残している。

この番組の最後の部分では、高く評価できるというピアノソナタ第13番変ロ長調K.333を13分程度で全曲演奏する。これがまた素晴らしい演奏で、主は大使館のホールですっかり感動してしまった。この曲は3楽章あり、驚異的なスピードの第1楽章、比較的ゆったりした第2楽章は、強弱のつけ方や、レガートに弾いたり、スタッカートで弾いたり、響きを区切ったり、残響を残したり変化をつけて飽きさせないで見事なのだが、第3楽章の中盤あたりにいわゆるサビがあり、とても盛り上がっていき、ひねりも加わって曲全体のハイライトがここにある。

このK.333の第3楽章を、ジェフリー・ペイザントが「グレン・グールド、音楽、精神」で次のように評している。「・・・グールド本人はいくつかのモーツァルト演奏において、まさにこの芝居ががった演技性を探求している。例えば、彼の演奏する変ロ長調ソナタ(K.333)の第3楽章は明らかにオペラ的であり、≪魔笛≫でタミーノが歌う <彼はパミーノを見つけたのかもしれない> に実によく似ている。グールドの弾くモーツァルトの終楽章には、モーツァルトのオペラの第一幕末尾を思わせるおどけた性格が頻繁に現れる。・・・」 要は早い話が、普通のピアニストが弾くモーツァルトの原曲とは、違う曲になっているんですね!!

主は、このブログを書くにあたって、英国で活躍する内田光子さんの演奏と比べてみた。内田さんは、日本を代表する世界的ピアニストなのだが、情熱ほとばしるというか、のめりこむところを表に出す正統派のピアニストだろう。

第1楽章を聴くと、何回繰り返すの?と思うくらいリピートしている。おそらく、グールドが、楽譜どおりの繰り返しをしていないのだろう。第2楽章は、大人しくて美しい。文句のつけようがないが、主はそれがどうしたと思うだけで、面白くない。いつまで弾いているの。第3楽章、やはり美しい。がそれ以上のものがない。全体をとおして、平板だ。美しい音色で美しい演奏だが、それ一本。びっくりする要素がない。ひたすら高音部のメロディーだけが、存在を主張している。

グールドは、低音部に自分で考えて勝手に音を加えて、低音部にもメロディーがあるように再作曲しているにちがいない。アーティキュレーション(フレージング)も自在だ。基本的にインテンポ(テンポを崩さず)で弾くのが彼の特徴なのだが、人に真似のできないようなスピードで弾ける(人に弾けないような遅さでも弾ける)。同じ弾き方を、何回もしない。繰り返すときはデタシェ(ノン・レガート)で弾いたり、弾き方を変え、サービス精神があって飽きさせない。なにより、低音部が伴奏ではなく、主役の一部を構成する。全ての音が、全体を考えたピースの1個であるかのようにコントロールされている。

50年経った今でも、未だにグールドは、アバンギャルドなのかもしれない。

・・・主は、グールドがモーツァルトの偉大さは認めながらも、言っていたのは本気だと思う。ちなみに、番組では「作曲家としてはダメだったが、音楽家としては偉大だった」と強調していた。

うまい具合に、YOUTUBEにどちらもあったので、はめ込んだ。グールドは、まったく違う2種類の演奏が見つかった!(どちらも、残念ながらテレビの録音は良くなく、CDやSACDはずっとよい。)

最初は、内田光子さんの演奏。3つに分かれている。ゆったり弾かれているのがわかる。

4番目からグールドの演奏。グールドの最初は、1967年3月のCBC(カナダ放送協会)のものだ。これは18分あり、モーツァルトをこき下ろした番組に比べると、わりとおとなしい(オーソドックス)な演奏をしている。

グールドの2番目が、テレビ放送「いかにしてモーツァルトはダメな作曲家になったか」の方である。きわめてエキセントリック、挑発的(だが、魅力的!)な演奏だ。 

大使館での上映では、宮澤淳一氏が監修された日本語字幕付きの映像を見ることができた。ぜひ機会を見つけて販売してもらえると嬉しい。(さもなくば死蔵することなく、YOUTUBEなどの手段をとってでも見られるようにしてもらえることを願うのみだ。)

https://www.youtube.com/watch?v=D_1pJ9sptk8

Glenn Gould performs Mozarts “Piano Sonata No. 13 in B-flat major“, at the classical music television series “Music For a Sunday Afternoon”, 140 years after the death of the legendary composer, originally broadcast on March 19, 1967.

こちらは、1967年5月19日カナダの公共放送であるCBCテレビで放送されたもの。

https://www.youtube.com/watch?v=L52LqcVAhGY

Excerpt from the “Return of the Wizard”, where concert pianist Glenn Gould enumerates on “How Mozart Became a Bad Composer.”

こちらが、「いいかにしてモーツァルトはダメな作曲家になったか」で放送された、モーツァルトのピアノソナタ13番K333を抜粋したもの。挑発的だ!

https://www.youtube.com/watch?v=1pR74rorRxs

Glenn Gould – “How Mozart Became a Bad Composer”の全編。設定のところをいじると、大いに問題がある怪しい日本語訳を表示させることができます。

おしまい

MMTの話 その3 緊縮財政の根拠法、《財政法第4条、財務省設置法第3条》について

財務省の入り口

MMTは、政府が国債を発行して、公共事業をするなり、個人へ給付するなりすると「国民の資産になる。国民が借金するわけではない。」という。しかしながら、財務省はこうした発言には必ず反発し、財政の収支均衡を訴える。2000年ころからの小泉政権と竹中平蔵大臣が、プライマリーバランスを言い始めた。これは、政府の事業支出が税収でどの程度賄えているかの指標である。

ところが日本は景気が一向に回復しないまま、国債を小出しに発行し続け、とうとうGDPの2倍を超えた。太平洋戦争のガダルカナル戦と同じく、財務省は、戦力(国債)の逐次投入を続けた結果、景気は四半世紀のあいだ上向かず、公共事業は無駄だとさえ言われるようになった。

この頑なな財務省の姿勢はどこから来ているのか、考えてみたい。

結論をいうと、これには根拠法がある。財政法第4条と財務省設置法第3条である。ここに、いわゆる建設国債は財源にしてもよいが、赤字国債はダメだと書かれている。(ちなみに、建設国債も赤字国債も同じ国債である。)

こうした記述があるのはなぜか。これは、日本が太平洋戦争で赤字国債を大量に発行して戦費を調達して戦ったことから、敗戦国にやってきたGHQが、そのようなことを二度と起こせないようにしたということだ。

その意図の是非は別にして、このせいで日本が成長できなくなくなったというのは、非常に情けない。その意図を見抜けなくて、あるいは誤解して、妙な足枷を自分で嵌めてしまったという自覚がないのが情けない。とほほ。

下が、その二つの法律の条文である。

《財政法》第四条 国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない但し、公共事業費、出資金及び貸付金の財源については、国会の議決を経た金額の範囲内で、公債を発行し又は借入金をなすことができる。 前項但書の規定により公債を発行し又は借入金をなす場合においては、その償還の計画を国会に提出しなければならない。 第一項に規定する公共事業費の範囲については、毎会計年度、国会の議決を経なければならない。

《財務省設置法》(任務)第三条 財務省は、健全な財政の確保、適正かつ公平な課税の実現、税関業務の適正な運営、国庫の適正な管理、通貨に対する信頼の維持及び外国為替の安定の確保を図ることを任務とする。 前項に定めるもののほか、財務省は、同項の任務に関連する特定の内閣の重要政策に関する内閣の事務を助けることを任務とする。  財務省は、前項の任務を遂行するに当たり、内閣官房を助けるものとする。

おしまい

MMTの話 その2 《自国通貨建てで国債を発行できる国はどこ?》

「個人向け国債」があるゆえ、国の借金と誤解されやすい。

MMTの主張に、変動相場制を採用する国で、自国通貨建てで国債発行できる国は、いくら国債を発行しても、デフォルトしないというのがある。

つまり、自国通貨建てで、じゃんじゃん国債を発行して、通貨安になったりの影響はあるにしても、その返済期限がきたときに、その国の政府は自国通貨を増刷すれ良いだけなので、デフォルトしないという理屈はわかりやすい。実際にその趣旨のことが、日本銀行のホームページも書かれているということだ。

じゃあ、じっさいにどういう国が該当し、どういう国が該当しないのか調べてみた。

朝日デジタルから

結論を言うと、このように自国通貨建てで国債を発行できる国は、アメリカ(ドル)、日本(円)、イギリス(ポンド)、中国(元)、スイス(フラン)、オーストラリア(豪ドル)あたりで、国ではないがEU(ユーロ)までらしい。これらの国や地域の通貨であれば、準基軸通貨国通貨ということで、信用もあり、広く流通もしているのでOKである。

逆にダメなのが、残りの国ということになる。例えば、アルゼンチンは、何度もデフォルトしているはずだが、こちらもペソ建てで借金するのではなく、ドル建てで借金するからこのような事態になる。現在のアルゼンチンもまた、デフォルトの危機である。

同様に、お隣の韓国の通貨であるウォンは、世界で見ると流通量が少ないため、準基軸通貨ではない。また、韓国は、民間企業がドル建てて借金することが多いらしく、アメリカが金融引き締め(テーパリング)を表明しただけで、ウォン安になり、ドルの外貨準備も少なく、東アジアの通貨危機の再現になるかと危惧されている。

また、ドル以外のペソやウォンといった現地通貨で発行する際には、その国の政府が、簡単に通貨を増刷して返済できるメリットがある。しかし、信用力が落ちるので、その分金利を上げて発行する必要があり、不利になる。

ギリシャは、昔ドラクマという通貨を持っていたのだが、EUに加入した結果、通貨発行権を奪われた。このため、経済危機に陥った時に、EUがなかなか助けてくれず、ギリシャ国民は窮乏生活せざるを得なくなった。

このあたりの事情は、イタリアやスペインでも同じ事情がある。

国債の発行とは関係がないが、逆に、EUでいわれていることは、ドイツだけが一人勝ちしているということだ。ドイツはもともとマルクを使っていた。ところが、EUができて、ユーロを使うようになると、域内で競争力のある自動車をいくら売っても、マルクであればやがてマルク高になって輸出競争力が削がれるのだが、ユーロの場合は、いつまでたってもそのような現象が起こらないので、ドイツの一人勝ちになる。 このような事態が起こっているので、EU全体を見たとき、EUの困難を予想する人は多い。

ただ、注意しなければならないのは、日本が順基軸通貨国の地位にあるのは、過去の経済や、海外に対して最も債権をもっているという結果であり、今のような低成長を四半世紀も続けていると、その地位を失う日は近いだろう。そういう意味で、緊縮財政を止め、財政支出をするという経済政策の転換をただちにすべきだ。

おしまい

テンションの落ち方 ナチュラルとハイブリッド

テニスラケットにガットを張ってから時間がたつとどの程度テンションが下がるのか興味があり、Tennis Tensionというアプリを使って、20日間計測した。

前回はナチュラルガットのみだったが、今回は、ポリとナチュラルのハイブリッドも試してみた。

結果は以下のとおりだった。張った直後の2日間ほどで、10%前後、テンションがどっと下がり、その後もだらだら下がっていく。ただし、ハイブリッドの方が、ナチュラルより低下度合いは大きく20日後には20%近く下がっている。

計測しながら感じたことは、その日プレーしたかどうかというより、その日の気温が影響している気がした。気温が高いとテンションが低くでるような気がする。

あと、プレーした時の打感だが、ハイブリッドを張った直後の1週間は、非常に良かった。たしかに、プロがガットを張った直後を好むのが分かる。弾きが良く、簡単にラケットが振りぬける。 

ただ、素人である主は、意外とテンションが下がった後でも同じようにプレーできるように感じた。表現が難しいのだだが、結局のところ、好みのテンションを追求するのも重要だが、まずは、しっかり、正しく、ラケットを振るのが重要と言うのが先ということらしい。(汗)

おしまい

ナチュラルガットを長持ちさせるアイデア

テニスを同じラケットで長くプレーをしていると、ガットがくたびれきて、やがて切れてしまう。ポリエステルのガットは一体成型されているので突然切れるが、ナチュラルガットやマルチフィラメントのナイロンガットは、細い糸を束ねて作られているので、この写真のように、ぼそぼそになって切れる。

このガットの傷み方なのだが、写真をよく見ていただくとわかると思うが、メイン(縦)ガットより、クロス(横)ガットの傷み方がだんぜん激しい。

だんだんクロスガットが痛んでくる

ラケットは、基本的に横向きの状態で、ドライブであれば下から上へ、スライスであれば上から下へ振るので、ボールが当たった瞬間に、メインガットが激しくクロスガットをこするスナップバックと言う現象が起こるので、クロスガットが消耗するのだろう。

ただ、ネットで見ていると、正しい打ち方をしているとメインガットが切れるはず、とか書かれていることもある。このあたり、まちまちのようだ。

つまり、メインのガットとクロスのガットでは寿命が違っており、どうも、クロスのガットばかりが痛むのである。

ただし、この現象は、基本的に上級者や体育会のテニス部員など、スウィングスピードの違いが大いに影響するだろう。主のようにのんびりラケットをフラットに振り回している者のガットは、あまり傷みにくいはずだ。

ナチュラルとポリのハイブリッド

ただ、ガットの性能を発揮しながら、長く使いたいという気持ちはだれしもあると思う。

このガットが早く切れてしまう問題を解決(軽減)する方法として、上の写真のように、メインをナチュラル、クロスをポリにするハイブリッドにすることがよく言われる。

しかし、ふと気が付いたのだが、もし自分でガットを張っている場合や、テニスショップの店員さんと親しいなら、あらかじめナチュラルガットを2本張りしておき、傷んだ(あるいは切れた)クロスガットのみを張り替える方法もあると思える。ナチュラルガットは切れるまで使えると言われるから。・・・・まあ、そのうち試してみよう。

ちなみに、2本張りと言うのは、ガットを張る際に、1本のガットで縦横全体を張るのではなくて、2本に切ったガットでそれぞれ縦横を張るという張り方だ。

おしまい

MMTの話 その1 《 お金は血液だ!》

MMT( Modern Monetary Theory : 現代通貨論)の話をしたい。MMTが広く世間に認知されるなら、お金が原因になっている問題のほとんどが解決するから。そのためにはまず、なぜ経済学の世界で、MMTがなかなか認知されない事態になっているのか説明するところから始めたいと思う。

《経済学の変遷》

経済学の歴史を見渡すと、『国富論』を書き、経済学の始祖と言われるアダム・スミス(1723年 – 1790年)というイギリス人が最初である。この人物は、現在の経済学で出てくる商品、労働、価格、利子、貨幣、資本など、今ある概念の殆どを提示した。また、市場には「神の手」があると言ったことで有名な人物である。この学派を古典派経済学と言う。

アダムスミス(WIKIPEDIAから)

アダムスミスから100年たって、やはりイギリス人のケインズ(1883年- 1946年)が登場し、1936年に『雇用・利子および貨幣の一般理論』という経済学の一大著作を発表し、ケインズ経済学が主流派の位置を占めるようになる。彼の主張によって、アメリカではニューディール政策、ドイツではアウトバーンの建設が実施され、景気回復に大いに貢献したと言われる。ケインズ経済学の登場はケインズ革命と言われ、また、マクロ経済学とも言われる。

ケインズは、大きな政府を主張し、所得を金持ちから貧乏人に再分配することで、平等を実現できると考えていた。また、科学技術の進歩により、世界の貧困問題は解消され、やがて人間が働かずとも暮らせる時代が来ると予言していた。

ケインズ(WIKIPEDIAから)

ところが、西側諸国では、1970年代にオイルショックに端を発する不況とインフレが同時に起こる、スタグフレーションが起こり、ケインズ経済学ではこの現象に対処できないないと言われ始まる。

同時に、経済学に「限界革命」が起こり、余計な価値判断を含まずに、経済学を数学的に研究することで、客観的な科学になるという新古典派経済学の考えが広がった。

「限界革命」と言うのは大げさな言葉だが、例えば、1杯目のビールは2杯目のビールよりおいしいとか、同じような服が増えてもありがたみは正比例しないとかいうもので、単位当たりの投入数量を増減していくと産出がどのように変化するかを考えるにあたって、微分を使うことで数学的に捉えることができ、扱いやすくなる。同様に、需要と供給がいかに決まるかという主流派経済学の主柱である「均衡論」もここから生れた。また、ミクロな観点から出発するので、ミクロ経済学ともいわれる。

この学派は、ケインズと同時代を生きオーストリア人のハイエク(1899年 – 1992年)が始祖なのだが、後に「選択の自由」というベストセラーを書いたアメリカ人のフリードマン(1912年 – 2006年)の影響が非常に大きい。

  • )ハイエクと言うのは、ケインズと考え方においてライバル関係にあり、ケインズが政府の介入を力説するのに対し、ハイエクは、自由放任を主張した。フリードマンも同様である。フリードマンの貨幣論は、「社会に流通している貨幣の総量とその流通速度が物価の水準を決定している」という経済学の仮説である『貨幣数量説』を蘇らせたと言われる。
  •  この『貨幣数量説』は、社会の貨幣の流通速度を変えることで、経済動向をコントロールできるというもので、金融政策の中心をなしている。しかし、後に述べるMMTの貨幣観と比べると、ずいぶん欠落している部分がある。
  • また、現在の黒田日銀は『貨幣数量説』に従って、マネタリーベース(現金通貨と準備預金の合計)を増やす量的緩和を行うリフレ政策を行っている。しかしながら、デフレ下でいくら通貨を増やしても、通貨は『ブタ積み』の状態になるだけで、誰も借手になろうとしないので、効果は限定的だ。

前述のフリードマンの主張は、政府は、極力マーケットに介入することをせず、市場の働きにより、すべてが解決されるというものだ。つまり、人々が合理的で、好きなように活動すれば、市場がすべて(失業問題や財の配分)を解決するというもので、小さな政府、自由貿易、自己責任と言った価値観が生まれてくる。

これに飛びついたのが、イギリスのサッチャー首相、アメリカのレーガン大統領であり、この時代から、世界は、グローバリズムへと進むことになる。

フリードマン
サッチャー首相
レーガン大統領

《新古典派経済学の貨幣観は》

一部前述したが、この新古典派経済学は、通貨制度に大きな変革があったにもかかわらず、貨幣観を古いままにしていた。

つまり、貨幣の歴史を考えると、物々交換の時代には貝殻などの貴重品(宝飾品)が通貨の役割をはたし、時代が現在に近づくにつれ、金など希少性の高い金属を含む通貨に変わってきたと説明される。やがて通貨は政府が発行する紙幣になるのだが、この紙幣は同じ金額の値打ちの金と交換を約束するものだった。(金本位制、兌換通貨) これを商品貨幣論と言う。

ところが、この金本位制は1930年代から徐々に姿を消し、単なる紙切れである紙幣へと姿が変わっていった。つまり、政府は主体的に通貨を発行できるようになったのだが、経済学の前提をドラマチックに変える必要があったが、経済学者はそれに気がつかなかった。

そうするとどうなるか。政府は民間や個人と同様に、歳出を歳入の範囲で行うというレギュレーションになるだろう。金と交換する必要はないが、むやみに通貨を乱発すれば、政府の信用は失われるだろうとなる。無制限に通貨を発行すると、インフレになり、通貨の信用は失われ通貨安になるとなる。

しかし、この貨幣論は通貨自体に値打ちがあると考える商品貨幣論である。つまり、通貨に値打ちがあるから、万人に値打ちがあると認められているというトートロジー(同語反復)である。

また、新古典派経済学には、政府が、通貨を発行する際に余分に生じる、通貨発行益という概念がある。しかし、この概念は極めて限定的で、国債につく利息だったり、硬貨の発行益だけを指す。ここにもこの主流派経済学の間違いがよく表れていると、一経済フリークとして思う。

《MMTの貨幣観は》

MMTは、通貨が信認される根源は、租税の納入にあると考えている。つまり、政府は国民から徴税する際に、その納付を政府が定めた通貨で納めることを法律で定めている。罰金を払う際にも、政府が認めた通貨で支払うことを定めている。これが、国民が通貨を求める理由であり、信任される理由である。

また、通貨の発行主体を考えると、通貨の発行を行っているのは政府だけではない。一番多い例が、銀行である。つまり、ソフトバンクがみずほ銀行から5000億円融資を受けると、みずほ銀行が5000億円通貨を発行したのと同じである。もし金持ちの個人が、手持ち資金から1億円誰かに貸したなら、1億円分通貨を発行したのと同じである。

後述するが、この5000億円の融資は、みずほ銀行が顧客から集めた預金を原資に、貸出を実行しているものではなく、キーボードマネーと言われるものだ。ここを新古典派の経済学者は誤解している。

これは簿記で考えると理解しやすい。政府が国債を発行して、銀行に国債を買ってもらい、現金を手に入れる場合は、次のようになる。

政府

(借方)現金(貸方)負債(=国債)

銀行

(借方)国債(=資産)(貸方)預金

上記について補足すると、政府と日銀は一体と考えている。また、銀行の預金は、借方と貸方が逆になる。この仕訳を見ると、銀行の預金が増えているように見えるかもしれないが、銀行にとって預金は負債であり、この取引では資産と負債が同時に増えるということだ。

同様に銀行融資の場合を考える。例えば、ソフトバンクが、銀行から借金をする場合は、次のようになる。

ソフトバンク

(借方)現金(貸方)負債(=借入金)

銀行

(借方)貸付金(=資産)(貸方)預金 

つまり、政府は通貨自体の発行主体なので、通貨を生み出すことができるのだが、銀行でも誰でも、借り手の返済能力を信じることができれば、お金をいくらでも貸せ、それは通貨を生み出す。貸した金が返ってこなかったとき、企業・個人は倒産するしかないが、政府は通貨を追加的に発行できるので、倒産しない。

極めておおざっぱな説明であるが、現在では、デジタルで決済が行われるため目の前に現金を積む必要もない。また、政府も、銀行も、企業・個人も同じ通貨である日本円を使っているので、政府以外であっても、通貨を発行したのと同様の事態が起こっている。 この通貨の発行割合であるが、日銀が発行している通貨の残高が、2割程度、残りの8割が銀行の融資残高と言われる。こうした貨幣を負債の一種とみなす学説を、信用貨幣論と言う。

貨幣数量説を信じる新古典派と言われる主流派の経済学者たちは、金本位制度から管理通貨制度に変わった後も、考えを改めず、こうした観点を見落としている。つまり、通貨が企業・国民の手に渡らない間、銀行にいくら残高を増やしても、誰かが借手になって負債を負うか、政府が実際に国民にお金を手渡すまでは、需要を増やす効果はぜんぜん出ない。 

つまり、通貨は社会の血液だ。この血液が、金持ちに偏っているのも問題だが、血液の量自体が少なすぎるのが、もっと問題だ。

長くなっってしまった。次回は、需要と供給の差がインフレになったり、デフレになったりするというMMTの理論について書きたい。

おしまい