テニスクラブ 猿山に登る猿たちの熾烈な戦い!?

(2023/4/22 修正しました。)

久々にテニスネタを披露したい。

と、いいながらグレン・グールドが、他のクラシックピアニストたちのことを「ジブラルタルの猿[1]だ。」と侮蔑的に評していたのを思い出した。テニスクラブの会員たちも同じようなもんだなと、親爺は思った。(グールドの発言の注釈について、ChatGPTに聞いた答えを次に掲げた。しかし、ChatGPTは、なんか間違っているような気がする。怪しい。)

[1] ChatGPTの答え。「グレン・グールドは、他のピアニストを「ジブラルタルの猿」と表現することで、彼らが自動的で、繰り返し同じことを行う生き物に例えていました。この表現は、彼の1974年に放送されたCBCのドキュメンタリー「On the Record」で語られました。彼はこうした発言を通じて、自分の演奏スタイルが他のピアニストとは異なり、独自の解釈と創造性を持っていることを主張していました。」


グレン・グールドは、他のピアニストを「ジブラルタルの猿」と表現することで、彼らが自動的で、繰り返し同じことを行う生き物に例えていました。この表現は、彼の1974年に放送されたCBCのドキュメンタリー「On the Record」で語られました。彼はこうした発言を通じて、自分の演奏スタイルが他のピアニストとは異なり、独自の解釈と創造性を持っていることを主張していました。

ヨーロッパで唯一、野生の猿が生息する場所として有名なジブラルタルがあり、標高400メートルの「ザ・ロック」に猿たちが暮らしている。(ジブラルタルはスペインの南の端にあり、向かいはアフリカのモロッコである。)

「ザ・ロック」野生の猿

主が所属するテニスクラブは結構規模が大きい方で、テニスコートが約20面あり、そのうちハードコートは4面、残りはオムニコートである。周囲は林に囲まれていて緑も多く、結構恵まれた環境である。

そのため、バブル華やかしころには、プロの下部大会が開かれていた。下部大会には、フューチャーズとチャレンジャーがあり、上位のATPツアー(女子はWTAツアー)を目指す若者が世界を転戦しており、彼らと出くわすことがあった。

錦織選手がお笑い系テニス番組に出たセンターコート

最近では、錦織選手が出演する年末に放送されるお笑い系のテニス番組のロケが行われたことがあり、テニスクラブのメンバーには風呂場で一緒だったという者がいる。

そんなで、規模が大きくメンバーの数も多く、高齢化したメンバーの間で、ジブラルタルの猿山の頂上を目指すシビアなマウンティング合戦が、日々繰り広げられている。

テニスをしない人にはピンとこないかも知れないが、テニスをプレーする場所には、スクールとクラブがあるのだが、日本人選手の活躍で、若者や子供に人気があるのは、スクールの方である。

テニスクラブの方は、テニス人口の絶対数の減少と高齢化による会員数の減少で潰れるクラブが近隣でもかなりある。クラブで相続があると、相続税を払えなくなり、閉鎖する場合もある。

そのような事情で、近隣のテニスクラブが閉鎖されると、市街化調整区域内にある大規模な我がクラブは、ブラックホールのように閉鎖されたテニスクラブのメンバーを吸収してきた。

テニスクラブのメンバーたちの多くが、少なくとも60歳以上の高齢者で、「超」がつくテニスホリックばかりである。彼らは、今の上皇、上皇后さまが、軽井沢でテニスをしていた1960年頃のテニスブームか、天地真理がスコート姿で「恋する夏の日」を歌ってブームになった1980年頃に、テニス歴を開始しており、テニス歴が半世紀ある者もザラである。

アイドルのはしり、天地真理。
「恋する夏の日」は、「あなた~を待つの~、テニス コ~ト」で始まる。メチャクチャヒットしました。

ここの老人たちは、学校の部活の硬式テニスクラブでテニスを習ったわけではなく、大半は自己流である。しかし、キャリア半世紀ともなると、それなりに上達する。ほぼ全員がフォアハンドが大得意である。バックハンドは下手だが、ロブやドロップショットはめっぽう上手い。また、長年のキャリアの蓄積で、相手の下手なところ、人のいないところへ打つ技術も半端ではない。 そのため、若者たちと対戦しても、クラブなどで本格的にやっていなければ、年季に勝る老人たちが勝つことになる。その結果、テニスクラブに気軽に若者が来ないというループが生まれる。

つまり、テニスという競技は不思議なところがあり、年をとっても衰えないどころか、いつまでも練習次第で上達する性質がある。言い方を変えれば、強化ジュニアに在籍する小学生が、大人相手に楽に勝てる競技であり、年寄りも下手な大学生ならばやっつけることができる競技でもある。

サラリーマンなら、現在の定年の年齢は一般的に65歳であるが、以前は60歳だった。この定年を迎えた、時間のたっぷりあるテニスクラブの老人たちは、どうなるか?

当然、他に趣味のない老人たちは、平日もテニスクラブへ通うようになる。そうすると、もともとベテランの彼らは、さらに凡ミスのないボールを自在に操るマウンティング猿への道を歩み始める。

基本的にテニスクラブは、メンバー同士がダブルスの試合を楽しむ場所なので、自然とうまければ尊敬を集める。座布団を積み上げた牢名主の位置に上がることができる。勝てば官軍の世界である。

世の中に上下関係があるように、テニスの技量にもうまい下手があり、大体似たようなレベルの者たちが群れることになる。

人間誰しも、ゲームで負け続けるとめげるし、行きたくなくなる。そのため、ゲームに対する姿勢は真剣だ。爺さん・婆さんたちが、勝敗にこだわってプレーしているのは「いったい何歳になったら煩悩を捨てられるの?!」という話なのだが、勝てばうれしいし、負けると悔しいという精神構造はいつまでも変わらない。むしろ、年齢を重ねるにつ入れて、頑固に、融通が利かなくなるのは間違がなく、感情のコントロールができなくなる。

しばらく前に最高齢の93歳の老猿が辞めたのだが、左右に走るのは得意だったが、前後には全く走れない年齢になっていた。ところが、試合では70歳代の対戦相手がドロップショットをしばしば繰り出していた。「そこまでして勝ちたいか!」と思うのだが、負けたくないのだ、誰も。実際、誰しも弱い相手と試合しても楽しくないし、強い相手に勝った時に最大の満足が得られる。そういう側面があるので、どの試合も真剣勝負になる。

つまり、テニスクラブは楽しみの社交の場ではなく、つまるところ修練・鍛錬の場であるという結論になる。

そうすると暇を持て余した老人たちのテニスの技量が上がるとき、中には技量が上がらない者、加齢により若い時のように体が動かなくなる者もあり、負けが込んできて、やがてクラブを去る者もでてくる。負けが込んできたときに、レベルの低い者たちに混じってプレーする者もあれば、退会してしまう者もある。つまり、誰でも、極端に負けが込まないように注意しつつ、テニスを続けるモチベーションを保とうと四苦八苦しているのは、確かである。

わがテニスクラブが所在するこの県では、年齢別大会、市主催の大会があり、そこでの優勝を目指しているメンバーが結構いる。JOPという5才刻みの全国テニスランキングもあり、このポイント獲得に、国内各地を転戦している者もいる。ベンチで話をしていると、そういう大会で勝つことが最大の目標になるというのが伝わってくる。

しかし、そうした県や市の大会で優勝した場合に得られるのは、自己満足の達成感、同じ価値観を持つ老猿たちの称賛だろう。賞品はせいぜいテニス用品と賞状で、エネルギーの空費なのは間違いない。プロのようなリアルな利得はなんにもない。 それなのに、みな熱い。このエネルギーの空費に、最大の努力を払っている。ジブラルタルの猿山の頂上を目指す戦いを、老猿たちが連日繰り広げている。

おしまい

指揮カラヤン vs バーンスタイン グレン・グールド「ベートーヴェン・ピアノ協奏曲第3番」聴き比べ

グレン・グールドは、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番をバーンスタイン指揮、コロンビア交響楽団による正規録音(1959年5月、ニューヨークコロンビア30丁目スタジオ)の他に、カラヤンとベルリンフィル交響楽団とで1957年5月にライブ録音を残している。

その他にも、1955年の彼のデビュー作「バッハ・ゴルトベルグ変奏曲」の録音直前に、カナダのテレビ局CBCで放送されたハインツ・ウンガー指揮で行ったものもあるようだが、残念ながらこちらは聴いたことがない。

この3つを並べてみると、グールドの出世譚がよくわかる。すでにカナダ国内で人気があったものの、その人気は国内に限られていた彼は、1955年のゴルトベルグ変奏曲の録音が一躍ブレイク、ベストセラーとなり、一夜にして世界一流ピアニストの仲間入りを果たした。

世界中で、ハンサムな人気ピアニストとして、VOGE(ヴォーグ)などの女性誌でも人気沸騰、あっという間にスケジュールが奪い合いになり、1957年に最初のヨーロッパ演奏旅行に出る。この時、東西対立を続けていたソ連各地で演奏を行い、戦後ソ連で初めて公演を行った西側のピアニストとして、また、東西陣営の「雪解け」を象徴するものとして、大成功を収める。

ソ連の聴衆は、グールドの弾くポリフォニー(複数の旋律が独立した多声音楽)が明晰で、自然で理知的な解釈のバッハ、シェーンベルク、ウェーベルンなど初めて触れる西側の現代音楽を聴き、おおいにたまげる。

レニングラードで行われたコンサートでは収容人員の2倍の客が、通路にまで溢れ、バッハとベートーヴェンのピアノ協奏曲2曲の演奏後の休憩時間に、アンコールの拍手が鳴りやまず、とうとう指揮者スローヴァックは、その後に演奏を予定していた《リストの交響詩》の演奏を取りやめ「私は家に帰った方がよさそうだ。演奏会はグールドが終わりにしてくれるから。みんな最後の管弦楽曲など聴く気がないらしい。」と言い、舞台に再びピアノを運び込ませ、予定のなかったグールドは、帰り支度のコート姿のまま、ピアノ独奏の《アンコール・マラソン》で応えた。

そのソ連公演に引き続き、ドイツへ移動したグールドは、ベルリンで3晩連続で、この年49歳のカラヤンとこの曲を共演する。グールドわずか25歳、飛ぶ鳥落とす大御所のカラヤンとの共演である。

このカラヤンとの演奏、コロンビアの正規録音であるバーンスタインとの演奏の双方が、YUTUBEにあるのでうしろに貼り付けた。実際に聴いてもらえると嬉しい。

この2曲を聴き比べると、カラヤンとバーンスタイン(とグールド)の両者の考え方の違いがよくわかる。カラヤンは、この曲を、いかにも大曲、大袈裟、力強く豪勢に演奏するつもりだ。また彼は、グールドの意向を尊重するつもりは全然なく、「さあ、やってごらん!」という感じで、自分の主張を貫きとおしている。ただ、惜しいのは、この1957年のカラヤン版の録音は、ライブ録音であり、客の咳払いも入っているし、モノラル録音で状態があまり良くない。

この曲は、3楽章あり、勇壮で激しい第1楽章アレグロ・コンブリオ(陽気に速く)、ゆったりと美しい第2楽章ラルゴ、ゆったりとはじまりフィナーレで再び勇壮に盛り上がる第3楽章モルトアレグロ(非常に速く)。そのいずれでも、グールドはオーケストラの存在感に負けることなく、出すぎることもなく、美しいピアノの存在感をずっと保っている。

第1楽章はオーケストラの全奏(トッティ)が極めて男性的に演奏された後、グールドが入っていくのだが、グールドも最大限このオーケストラの演奏に合わせている。

グールドのピアノの弾き方は、普通、手首を指先より下において指の独立だけで弾くフィンガータッピングという弾き方をして、手全体を鍵盤に振り下ろす弾き方をしない。このため、フォルテッシモを出せないという批判があり、それがロマン派のチャイコフスキーやメンデルスゾーンを弾けないのだと言われることがある。(何千人も入る大ホールで演奏すると、どうしても爆発的な大音量を出し、有無を言わせず観客を黙らせたくなる心情は、良く分かる。)しかし、なかなかどうして、ベルリンフィルに負けず劣らず爆発するような音で弾いている。 こうして聴いてみると、グールドは爆発するようなデカい音を必要とする、ロマン派の協奏曲も恐ろしい表現力で弾けただろうと思えるし、楽しませてくれただろうと思うと非常に残念だ。

もちろん、グールドの良さは、そのような強烈なオーケストラに負けない大音量だけではなく、むしろ、ゆったりしたフレーズで気持ちのよりリズムを刻みながら、多声をはっきり区別しながら見事に歌うところにある。しかし、この曲の演奏では、最後の部分、オーケストラと一体となった見事なめちゃ盛り上がったフィナーレを聴かせる。カラヤンも十分に満足しただろう。(カラヤンもなかなか色っぽいですね。)

一方、バーンスタイン版。こちらはカラヤンのような強引な圧迫感がない。第1楽章はカラヤンよりゆっくり、抑え目で始まる。このように穏やかに初めの数小節が始まると、のちのちの展開も決めてしまい、冒頭で曲全体の印象が決まるのかもしれない。バーンスタイン版の方は、強引さがない。ある意味民主的。しかし、理知的で説得力があり美しい。何とも言えない切ない美しさがある。

このバーンスタインとグールドは、ブラームスのピアノ協奏曲第1番の演奏をめぐって、表現が適当だかわからないが、「衝突」したことがある。ブラームスのピアノ協奏曲第1番は、流麗で豪華絢爛な曲として演奏されるのが一般的なのだが、グールドは第1楽章を極端にゆっくり演奏するとこで、交響曲全体が統一されたリズムで結ばれ、より一体感が生まれると主張した。そのような演奏は、田舎くさく牧歌的で、前代未聞であり、バーンスタインは承服できない。バーンスタインは、グールドの主張どおりの演奏をすることにしたのだが、観客を前にして、演奏前の舞台から一席ぶったのである。「指揮者とピアニスト、どちらがボスか?」「ぼくは、承服できないが、才能のあるグールドの言うことだからそれを信じて、そのように演奏します。みんなびっくりしないでね。・・・」まあ、そんな感じ。 この演奏は、音楽批評家たちからもさんざんに言われ、後にグールドがコンサートを開かなくなる要因の一つになったと言われている。

ただ、グールドの協奏曲の演奏全般を聴いていると、ヴィルトーゾたるピアニストが、オーケストラを向こうに彼らをねじ伏せる的な演奏を良しとしていなくて、ピアノ協奏曲をなるべく、ピアノ伴奏付きの交響曲のように弾きたい意思を持っているのは明らかだ。彼は、協奏曲に限らず、どんな曲でも、全体としてベストなものを聴かせたいと常に考えていた。 伝統的なピアノの名人芸はそのようなものでなく、男性と女性、正と邪、静と動、陰と陽などの二項対立を原動力にして、曲の推進力にする者が多いが、グールドはそうではなった。

恐るべきなのは、彼はベストな演奏をするために、作曲家が書いたスコアさえもベストでないと判断すると、修正して演奏したことである。よく、彼は「再作曲家」と言われるのだが、これが理由だ。普通、音楽家はスコアを読み込んで、スコアに忠実に絶対と考えた上で、楽器の特性はもちろん、時代背景なども調べて、作曲された時代を忠実に考えることが普通である。作曲家が書いた曲に不足があると考え、楽譜を改ざんするというのは、グールド以外もやっているのだろうか? 非難されこそすれ、手を加えているというのは聞いたことがない。

グールド研究者であるケヴィン・バザーナの「グレン・グールド演奏術」に、この曲の1楽章にあるベートーヴェンが書いたカデンツァ(協奏曲のなかで、ピアノが独奏する部分)にグールドは手を加えていると書かれている。

ケヴィン・バザーナ「グレン・グールド演奏術」から

上が、その本に出てくるグールドの弾いたカデンツァの一部分である。グールドは、原典になかった低音部のメロディを書き足して弾いているということだ。

ただし、カデンツァは作曲者が書いている場合もあるが、ピアニストが作曲する場合も多く、協奏曲の場合には、カデンツァは演奏者の技量だけでなく、音楽性も伺えるハイライト、お楽しみというべき部分で、部分的に改良してもさほど違和感はない。

しかし、ここにはグールドの感性が良く表れており、グールドは右手の旋律だけを重視するショパン弾きなどを「右手の天才」とか言ってバカにしており、右手だけで美しく弾く演奏は嫌いであり、他の旋律が隠れているとか、どの旋律も対等に扱われ、攻守が変わるような曲が好きだったのは間違いがない。

おしまい

せっかく買ったオーディオイヤホン失くしてしまった!

先日買ったオーディオイヤホンなのだが、どこへ行ったか分からなくなってしまった。けっこう値段が高かった(6万円程度)ので、心当たりの店などに問い合わせまくったのだが、出てこず、ガックリである。とほほ。最近加齢とともに、物忘れが酷いのだ。スマホも何度か忘れたことがある。こわ。

ソニーIER-7

今回、デジタルオーディオプレイヤー(DAP)とイヤホンの購入にあたって、日本製品を応援しようと大御所のソニーを選んだのだが、改めて専門雑誌を買ってじっくり比較してみた。この雑誌には、多くの評論家が選んだ様々な機種が紹介されている。

ところで、NHKが、朝の経済コーナーとニュースの2回、紹介していた会社があった。オーツェイドという社員5人ほどのイヤホンメーカーなのだが、安価な製品がバカ売れしており、「良い音を安く提供して、イヤホンメーカーのユニクロ、GUを目指しています」という社長の声を紹介していた。

おはBIZ 「ハイレゾイヤホン ヒットの秘密は“ガラケー”」

そういうわけで、速攻で秋葉原へ行って、実際に試聴してきた。

こちらが、NHKに紹介された会社の最近発売開始になったオーツェイド社のフラッグシップ機だ。安価な製品は、4,000円ほどからある。NHKがインタビューしていたE-イヤホンという専門店で、試聴した。この店では、あらゆるイヤホンが網羅されており、自分の持ち込んだプレイヤーを使って、好きなだけ試聴できる。

社員が5人しかいないこの会社が最近売り出した「受注生産」の《intime翔》を報告したい。音質だが、非常にいい音がする。グールドのバッハのパルティータなどをかけると音の良さだけで涙が出そうになる。音楽の演奏は、音が良いと印象がガラッと良くなる。聞こえてこなかった音が聞こえるからだろうと思う。我々は、生の楽器の音に惹かれることがよくあるが、この現象がイヤホンの良さでも起こる。

intime翔(税込66,000円)

ただ、大オーケストラが演奏するマーラーの交響曲(ハイレゾ)をかけた場合、突然のフォルテッシモになるところでは、シンバルの音などで「?」となる部分はある。データ量が少ないCD音質の録音では、大規模な交響曲の場合、忠実な再現をしようとすること自体が無理だと思う。それ以外の部分では、非常にきれいな音がする。

次は、線路の反対側にあるヨドバシカメラで試聴したスタックスという会社のヘッドホンである。ご覧の通りけっこう変わった形をしている。駆動方式が他のヘッドホンが違うのだが、音もまったく違う。びっくりするほど美しくて奇麗な音だ。ただ、このヘッドホンは、下の写真のドライバーという部品が別に必要だ。このため、二つ買うと結構な値段になる。この二つの製品の組み合わせが、先に書いた雑誌では高評価を得ていた。 しかし、この製品にはほかにも、10万円以下から、70万円くらいまでのラインナップがある。主は、ラインナップの中から、安いタイプのものをお金を貯めて買いたいと思っている次第である。もちろん、値段が高ければ音が良いのだが、安いものでも十分に良い音だ。

SR-L700 MK2(税別148,000円)
SRM-700T(税別298,000円)

あと、例によって辛口批評を一つ。何でもイヤホンを試聴できるE-イヤホンで、ソニーの最高級機IER-Z1R(税抜198,000円)を試聴したのだが、ソニーファンには申し訳ないが、はっきり言ってガッカリした。音に全然魅力がないのだ。雑誌の評価もほとんどないのも頷ける。がんばれ、ソニー!! 再起して、法人税をいっぱい国に収めてくれ!

おしまい

マイナポイント あっさり5000円ゲット!

前回、マイナポイントを貰おうと、スマホにアプリを入れてマイナンバーカードを認証させようとしたらエラーが起こって出来なかったということを書いた。その後、市役所に行ったところ、マイナポイントのコーナーがあり、職員が応対してくれてすぐに手続きができた。

主の場合、PayPayでチャージした場合に還元されるように申請したのだが、翌日に20,000円チャージしたら、上限の25%である5,000円を即ゲットできた。市役所では、詳しい説明を丁寧にしてもらい、手続きが簡単に完結してしまった。スマホや、PCでやるのも良いが、役所で職員と一緒にやってもらえばさらに簡単かもしれない。

ただ、主がスマホでエラーが起こった原因は特定できなかった。市役所では、主のマイナンバーカードでエラーが何も起こらなかったからだ。下がエラーメッセージである。

このマイナポイント申請だが、Androidスマホの場合、スマホの設定の注意事項がいろいろあり、重要な二つを貼り付けると・・・

と書かれている。デジタルに弱い人や高齢者にはさっぱり分からないという人もいるだろう。そうした人には、役場でやってもらうのがいいだろう。ポイント還元される、サービスの一部は、次のようなものだ。

総務省のホームページから。他にも種類がある。

おしまい

マイナポイント マイナンバーカードの認証ができない!ソフトの作りのいい加減さ!

コロナの経済対策の一環だか、マイナンバーカードの普及が目的なのか知らないが、マイナンバーカードを紐づけてキャッシュレス決済をすると5000ポイント還元されるという。マイナポイントというアプリを入れて、その通りにやってみたのだが、すぐにトラブルに見舞われた。兎に角、不親切、お粗末なのだ。

マイナポイントというアプリは、認証にマイナバーカードが必要なのだが、PCの場合はカードリーダーが必要で、スマホでやってみた。だが、途中で、マイナンバーカードを読まない(認識しない)というトラブルに遭遇した。

 

Q&Aなどの説明では、チェック項目が書かれているのだが、あてはまりそうな情報がない。しかし、アプリストアの評価は、最低評価の☆1個が一番多く、ネット記事でも、カードが読めないという記事はゴマンと出てくる。なんで、日本製のプログラムはこうも品質が悪いのか情けなくなる。

このため、ネットのGOOGLEをあちこち検索したところ、マイナンバーカードが正しく動作しているかどうか、判断するアプリJPKI MOBILE(公的個人認証サービスモバイル版)があるとの記事を見つけた。以下がそのリンク。

マイナンバーカードの記録内容の確認・署名用証明書の有効性・期限・失効状況を確認する方法

早速これで、自身のマイナンバーカードの中身を確認してみたところ、思っていた通り、マイナンバーカードに問題があるようで、次のようなメッセージが出てきた。

このことは総務省のマイナポイントのアプリのページでは見つけられなかったし、おそらく、実際に書かれていないはずだ。アプリを作ったソフトハウス、総務省の担当者は、ちゃんと認識しているのだろうか? 認識していなかったら馬鹿だし、認識していたら極めて無責任、お粗末だ。

おまけにこのアプリだが、総務省の「マイナポータル」というサイトから、マイナポイントへ入ることができない。ポータルというのは、「入り口」という意味で、どこへでもつながっているのが売りなのだが、マイナポイントへは入れない。

一体、総務省はアプリを真面目に作っているのか?どのくらいの値段で、どこのソフトハウスが作っているのか知らないが、行政監察でしっかり調べてもらいたいものだ!

あと、付け加えるならば、日米のコンピューター技術者の配置だが、日本の場合は、こうした技術者はほとんどが情報系の会社で働き、外注先の会社から仕事をもらうスタイル。アメリカの場合は、ほとんどの場合、会社の中の部門に技術者がおり、直営でメンテナンスや開発をしているという。例えば、アマゾンやウォルマートなど、どこでもコンピューター技術者の7割は、会社に所属している。ところが、日本は7割が、富士通やNEC、日本電子計算などのコンピューター関連会社で働いている。

このため日本の場合は、仕事の内容を説明する発注企業の社員の説明を聞いて、コンピューター関連会社がソフト開発をすることになり、勢い、「聞いた、聞いていない」という責任のなすりあいが起こり、また、使いやすいプログラムにもならない。

また、発注企業の社員にとって昇進・出世を考えると、コンピューターに粉骨砕身するより、社内の人間関係を重視し、上司にゴマをするほうが有利で近道な人事制度になっている。仮に、コンピュータにのめりこんでも、うつ病になるのが関の山で、上司自身がコンピューターのことをほとんど知らず、そのような努力は、昇進・出世に報われる仕組みになっていない。 多くの日本企業はいまでもそうだろう。それでは、駄目ですね、将来があるように思えませんね。

おしまい

「西洋の自死 移民、アイデンティティ、イスラム」 ダグラス・マレー その1

「西洋の自死 移民、アイデンティティ、イスラム」(ダグラス・マレー)という本を読んだ。東洋経済から出ていて、500ページを超える大作で読むのに時間がかかったが、強い衝撃、「ヨーロッパってこうなんだ! 政治家、マスコミってどこも同じ問題を抱えているのね!」という強い衝撃を受けた。

なお、この本の原題は、”The strange death of Europe”なので、直訳すると「ヨーロッパの奇妙な死」である。

この本は書いたようにボリュームがあり、歴史を振り返りながら慎重に詳細に書かれている。それを、さらっと要約することは難しい。そのため、感想的になってしまうかもしれないが、感じたところを書きたい。

第二次世界大戦後の西欧は、二度の残虐な戦争と、過去の植民地支配への反省から、民族の融合や多民族平和主義、多様性などを価値観の大きな柱にしてきた。そうしたことから、大戦後、難民の受け入れを行ってきたが、1980年ごろからのグローバリズム、自由貿易競争の進展により、自国民の出生率が低い西欧は、人口減少、労働力不足を補うために、難民の受け入れをより加速的に増やし始める。難民を低賃金労働者として受け入れ、グローバル競争に勝ちたいという思惑が働いていた。

他方、西欧の第二次世界大戦でのホロコーストは、実際に手を下したドイツだけがやったわけではなく、反ユダヤ主義はヨーロッパ全土にあった。また、西欧の繁栄は、コロンブスの大航海時代以降の植民地侵略政策の結果であり、西欧は、多民族を虐殺した歴史の上に立つ「原罪」を背負っているいると、総括されるようになる。こうした歴史の総括は、EU設立の経緯にも、その理念が良く表れ、キリスト教徒だけが団結するのではなく、広く多民族・多宗教の融和を目指している。

西欧に流入するグローバル競争で増えた難民の数は、「アラブの春」(2010年~)を契機に、さらに爆発的な数の難民が押し寄せ、難民だけでなく経済移民も押し寄せた。

《問題はここからである!!》

西欧の政治家は、民族の融和、多民族主義を掲げ、その考えは広く社会全般にいきわたる。要約すると「移民が来れば、エスニックな料理も食べれるし、我々の頭の中にも、新鮮な思想が生まれる。世の中は、グローバルに平和共存しなければならない。入ってきている移民の多くは、優秀で多額の納税をし、我が国に貢献している。移民はやがて西欧の生活に順応し、西欧文化に同化すだろう。」という嘘がまじった楽観的な考えが広く行きわたる。しかし、移民の数が増えるにつれ、西欧の市民たちは、「おい、おい、そんなに増えたら俺たちの住む場所がなくなっちゃうじゃないか」と感じ始める。

しかし、政治家やマスコミ、学者もそうだし、行政も、その多民族主義のスローガンを金科玉条にして、現実を見ない。

西欧の首都でも、郊外でも、もともとの住民を追いやり、アフリカやパキスタン、アフガニスタンなどの移民が、彼らだけの町を作り始める。そうした街では、もともとの住民である異教徒の白人少女へのレイプが頻発する。異教徒への強姦は、同胞への強姦より罪が軽いからだ。また、しかし、警察やマスコミ、政治家などは、そうした犯罪があったことさえ、ごく最近まで認めなかった。それを認めた瞬間、人種差別主義者のレッテルを貼られ、非難轟々となり、職を失うからである。また、イスラム教徒の若い女性が、イスラム教徒にレイプされるという事件が頻発するのだが、コミュニティー内の事件として、警察が捜査をせず、街の治安は非常に悪化するのだが、警察、政治家、マスコミは知らぬふりを続けた。

アフリカのイスラム教は、何億人もの女性の性器切除や縫合などに関連しており、そもそも西欧の民主主義、啓蒙思想や平等思想などとは相容れないものがある。しかし、西欧社会の上層部にいる人たちは、移民たちはやがて、西欧の価値観に同化するだろうと気楽に考えてきた。

こうしたイスラム教徒は、信奉するアラーが皮肉を言われたり、冒瀆、戯画化をされると、言論の自由などおかまいなしに、たちどころにテロの標的にする。西欧で、イスラム教に批判的な言論人は、警察が護衛しているほどだ。

今言われているのは、2050年には、西欧の多くの国で、キリスト教徒の白人を、イスラム教徒の有色人種が逆転するだろうと言われている。それも、現在のペースで進めばということであり、ペース次第で早まる可能性がある。

イスラム教徒の増加につれて、西欧諸国の国民は「イスラム教は我が国を豊かにしない。」「イスラム教徒とテロの間には関連がる。」「わが国にはイスラム教徒がもう十分にいる。」とイスラム教徒を否定的に考え始める。しかし、エリート政治家たちは共通して、それとは違う反応を示した。この問題に対処するには、表明される世論に対処しなければならないのだと考えたのである。彼らが優先したのは、国民が反感を持つ対象を抑え込むことではなく、国民の反感を抑え込むことだった。つまり、地元住民がイスラム主義者に敵対する抗議活動をすると、警察はイスラム主義者を警護し、いきり立つ住民を逮捕すると脅しをかけた。

西欧人は、ダーウィンの進化論以降、キリスト教に対する篤い信仰心を失っている。カトリック教会は、イスラム教を否定するどころか、良いところは一杯あると言う。イスラムは棄教に対し、死罪を与え、西欧諸国では時間の経過とともに、寛容に基づく宗教の自由が認められる。 「リベラルを自称する人たちは長年、道理や理性や科学に重きを置く啓蒙主義の教えは非常に魅力的なので、最終的には誰もがその価値を受け入れるだろうと決め込んできた。実際、20世紀後半から21世紀初頭にかけて、多くの欧州人はまるで宗教信条であるかのように人類の『進歩』を信じていた。・・・しかし大量移民の時代が来ると、そう信じていた人々の眼前で実際にその道を引き返す人々が1人2人と現れ始め、それがだんだん大きな動きになった。一連の人々の流れがまるごと逆方向に向かうのだ。進化の事実を認める戦いは欧州では終結したと思っていた人々が、進化を信じないどころか、進化は虚偽だと証明しようと決意を固めている人々が雪崩を打ってやって来たことに気づいた。」

《結論》

西欧が、このような過去の贖罪に苦しんでいたことは驚きで、同じ現象がアメリカ、ユダヤの建国時の経緯からコンプレックスになっているのは理解できるのだが、アジア諸国や他国でも他民族を虐殺した歴史を持つ国は多いはずだ。しかし、それらの国がマゾヒスト的に原罪意識を持っているかといえば、そうではないだろう。西欧(欧米)の善意が食い物にされる状態は、西欧にやってくる移民だけではない。他にもある。グローバリズムで良い目をした中国もそれだろう。

また、政治家や社会のリーダーたちが、原因である悪い方に対処せず、国民を諫め続けるというのもあちこちにある。日本はずっと、デフレで不景気なのだが、政治家は「国民みんなで我慢しよう。」などといっている。新型コロナもそうだ。コロナのせいで非常な不景気になっているのだが、必要に以上に危険性を煽り、「みんなでマスクしてガマンしよう。」的なことばかり言っている。エライ人はみんな、そんな風でいつまでたっても風見鶏で、真実を知っていても言わない。自分は困らない、少数派の言うことを取り上げて得になることはないと思っているので、ずっと無責任なのだ。

おしまい

ソニー ウォークマン NW-ZX507 でハイレゾを聴く

ずっと良い音で音楽を聴きたいと格闘してきた。スピーカーを初め、オーディオにお金をかけてきた。しかし、最後まで満足できなかったのが、クラシックのオーケストラである。アンサンブル(合奏曲)であっても、大人しい曲は、比較的スピーカーなどでもOKなのだが、例えばマーラー、オーケストラのスケールが行くところまで大きくなったと言われるマーラーは、微かな弱音で何をやっているのか分からず、フォルテッシモの強奏では、何の楽器が鳴っているのか区別がつかない。オーケストラの団員の多くが、聴力をやられるというのも分かる。ホールで半分寝ながら聞いていると、突然の轟音で眠りを破られる、あれである。

だが、主は、コンサートホールに近い音場を実現する方法をとうとう見つけた!結論をいうと、オーケストラ曲のハイレゾを手に入れ、デジタル・オ―ディオ・プレイヤー(DAP)とカナル型イヤホンを使って再生することだ。このカナル型イヤホンもバランス型でなければならない。そこまで投資すれば、まるでコンサートホールで座って聴いているのと同じように聴こえる。

具体的に聴き比べをしたのは、マーラーの交響曲第1番「巨人」で、バーンスタイン指揮(1987年)のCDと、上岡敏之指揮/新日本フィル(2016年)のDSDである。これをソニーのカナル型イヤホン  IER-M7を使い、バランス接続とアンバランス接続で聴き比べた。

結論だけを書くが、CDよりもハイレゾDSDが音が良く、イヤホンはアンバランス接続よりもバランス接続の方が音が良い。スピーカーで再生するのに比べると、CDの場合であっても、イヤホンで聴くほうが遥かに明晰で、再生装置を選べばこれほど再現性があるのかと驚く。しかし、DSDになると、ファイルを再生しているのを忘れ、奥行きや立体感もありホールで聴いていると思うほどリアルである。ただし、ティンパニ、シンバル、弦楽器も管楽器も全奏(トッティ)で強奏するとき、「」がない場合がないわけではない。しかし、ホールで実際に聴いているわけでないのだから、許容範囲である。

ただ、今回マーラーを聴いて、表のメロディーの裏で、諧謔的で、狂気的な裏のメロディー、崩れるような不調和なリズムの魅力を堪能した。マーラーの不思議な魅力はきっとここにあるのだろう。予定調和で狂気のないクラシックは、クラシックではないと思っている。

ソニー NW-ZX507
IER-M7

こちら、カナル型イヤホンIER-M7である。この製品は、バランス接続用とアンバランス接続用のケーブルが同梱されている。従来のアンバランス接続のイヤホンは1本の線を共用し、3本で構成される。ところが、バランス接続では高音化をはかるために、左右それぞれ独立させ、4本使っている。

ちょっと辛口批評になるが、このソニー NW-ZX507だが、なかなか良い音がするものの、基本、OSがAndroidなので、Androidスマホから、電話と写真機能を除いた使い勝手である。加わった機能は、高音質音楽再生ということになる。つまり、音質を問題にしなければ、スマホで十分であり、DAPは、常にスマホを上回る音質が求められる宿命にある。

主は500枚程度のCDと、音楽映画DVDなどが音楽リスニングの主要コンテンツである。CDは、パソコンなどで聞けるように、FLACという劣化のない形式のファイルにし、音楽DVDもコピーソフトを使ってコピーができるので、そうしている。

ただし、CDより音質が良いSACDという規格で録音されたものが市販されており、ピアニストのグレン・グールドを中心に10数枚持っているのだが、SACDはプロテクトがかかっておりCDのようにファイルとしてコピーできない。つまり、SACDが再生できるプレイヤーで聴くしかなく、NW-ZX507で再生できない。

一方、インターネット経由でハイレゾといわれるコンテンツが販売されており、これらも若干所有している。こちらは、SDXCというカードに入れて、聞ける。

ただ、ソニーがカセットテープが入ったウォークマンで一世風靡したころと違い、すべてがデジタルに変わり、OSはAndroid、ファイル形式も様々な形式があり、カーオーディオにも接続できる。その接続方式も、USB、Bluetoothなどがあり、様々な機能を安価に提供できなければ、中国製や韓国製に簡単に負ける。実際、スマホではAndroid10がリリースされているが、NW-ZX507のバージョンは9であり、何時対応するのかさえ、発表がされていない。カーナビに接続する場合は、USBでは接続できず、Bluetoothになるが、音質は劣る。DAC機能がある中国製では、USB接続ができるはずだ。テザリングの機能を使えば、近くにスマホがあれば、カーナビを使って、Youtubeなどをストリーミング再生できるはずだ。

しかし、日本製の製品はハードばかりに目が向き、アプリの開発が下手というしかない。ソニーのアプリ(Music Center For PC)も知らぬ間に再起動を繰り返すし、日本語の説明文も分かりにくいことがある。ソニーにはmoraという音楽配信サイトがあるのだが、ここも何時まで経っても、ポップスやクラシックやごちゃ混ぜに表示され、せめてログインしたら、過去の履歴から好みの曲を勧めてほしい。海外発の企業なら簡単にやっていることが、日本企業は、全然昔から改善しようとしていない。

おしまい

 

新古典派経済学とMMT(Modern Monetary Theory)

 1970年代、主が学生時代に習った経済学、それは「近代経済学(=近経)」と呼ばれていた。生憎、まったく不真面目な学生で不勉強だったのだが、当時習ったことが、実は間違っていたという話をしたい。つまり50年間以上、世界中で間違った経済学が教えられているということに等しい。

当時の経済学は、大学のカラーによって「マルクス主義経済学(=マル経)」を教えるところと「近代経済学」を教えるところの2種類があり、学生運動、社会主義運動が盛んだった1970年代は、「マルクス主義経済学」の方が人気があった時代だった。 やがて、1989年にベルリンの壁が崩壊、東西ドイツが統一され冷戦が終結すると、一応、共産主義の敗北ということになる。それに伴い経済学も、「マルクス主義経済学」は人気がなくなり、「近代経済学」が一般的になる。

《1.簡単に経済学史を振り返る》

この近代経済学であるが、現代の主流派経済学の呼び名は、「新古典派経済学」である。なぜ「新古典派」という名前なのかといえば、18世紀、経済学の祖と言われるアダム・スミス時代の「古典派」を源流にして、発展の基礎にしているために「新古典派」という名前がついている。

ところが、近代経済学には、もう一人巨人がおり、それがケインズ(1883~1946)である。名前を聞かれた方は多いだろう。イギリス人で、フルネームは、ジョン・メイナード・ケインズという。

ケインズは、第1次世界大戦と第2次世界大戦の間に起こった世界恐慌に対する処方箋である、ルーズベルト大統領が行ったニューディール政策の理論的支柱として有名だ。アメリカのニューディール政策、ナチス・ドイツのアウトバーンの建設は、経済の復興に大きな貢献を果たした。しかし、有効性が確認されるまでに時間がかかり、政府赤字が積み上がり、政権への評判は必ずしも良くなかった。実際に、この時代の最終的な景気回復は、第二次世界大戦の貢献によるとも言われる。 ケインズは、基本的に「大きな政府(=財政政策重視)」を主張し、完全雇用や分配(所得の再分配=金持ちと貧乏人の間のバランス)を最も重視した。また、ケインズは、経済学を「平和と豊かさ」を実現するための道徳、倫理感を、その思想の根底に置いていた。このケインズに連なる学派を「ケインズ学派」という。

一方、「新古典派経済学」派は、第二次世界大戦後に発達した経済学で、この世界大戦時にケインズが提唱したケインズ経済学を否定した(乗り越えた)経済学である。第二次世界大戦の終結後の1970年代、欧米がインフレに苦しむ時期に、人々が合理的(=エゴイスティック!に)に経済活動するだけで、市場の「見えざる手」の働きで、資源が最適配分されると数学的に証明した。つまり、誰もが自分の損得勘定だけにもとづき、マーケット(市場)で振舞えば、生産資源が最適に活用され、非自発的失業(自発的失業は除く)は起こらず、アダムススミスが言う「神の見えざる手」の働きで商品の価格は、自動的に最適な均衡点に向かい、問題は解決すると言ったのだ。 

《2.新古典派のインチキ》

しかし、「新古典派」が証明したとされるものには、様々な問題がある。そもそも、「人間が合理的に行動する」という最初の前提条件自体がもう問題である。問題点を列挙すると次のようなものになる。

  • ① 人間は損得勘定や合理性で生きていない 
  • ② 売り手、買い手ともに対等な情報が必要だが、一般に買い手側には、十分な情報がない 
  • ③ 広告、デマなどの情報操作が、参加者の判断を歪める 
  • ④ 市場取引になじまない水、空気、安全など様々なものがある 
  • ⑤ 「神の見えざる手」が存在しない 

また、新古典派経済学者は、経済学は科学だといい、数学で説明することに夢中になる。その結果、社会の平等、貧富の格差や、非自発的失業の存在などについて、それらを科学の問題ではなく、倫理や政治の判断の問題だとして、考察の対象外にするのが流儀となる。

新古典派の理論では、市場で各人が合理的に行動しさえすれば、市場が資源を最適配分するので、失業は起こらない、恐慌も起こらない、すべて市場での民間の企業活動に委ねればよいというものであり、そこから一直線に、「小さな政府」、「自己責任」、「グローバリズム」という呪文のようなテーゼが導き出される。これらの経済政策を実際に採用したのが、インフレに苦しんでいたアメリカのレーガン大統領、イギリスのサッチャー首相である。この二人による1980年代の政策が転換点であり、経済学におけるケインズ学派は、完全に新古典派に主流の座を奪われ、今に至っている。

余談であるが、日本はこのころ、絶好調の経済を謳歌していた時期だったが、1985年のプラザ合意により、2倍の円高不況に突入したにも拘わらず、欧米が取ってきたのと同じ反インフレ政策を25年以上続けた。このため、未だにデフレ不況を脱出できていない失政を犯してしまった。

新古典派の失敗は、さきほどの前提条件だけではない。新古典派は、登場以降、経済学は過去の経済恐慌を克服し、経済をコントロールできるので、世界恐慌など起こりえないと大言壮語していた。しかし、2008年のリーマンショックが実際に起こり、エリザベス女王は、経済学者に「あなた、これが起こることがわからなかったの?」と質問したという。新古典派が言うように、経済が制御され、経済危機が起こらないわけではなく、リーマンショック以前にも、東アジア通貨危機など、世界各地で起こっている。 

また、高い理想を掲げて出発したEU(欧州連合)について、統一通貨であるユーロの使用は、加盟国の中で独自の通貨発行ができなくなり、金融政策の選択肢を奪われることを意味し、EUの結束にネガティブな側面をもたらす。実際に自国で対策ができないギリシャ、アイルランド、イタリア、スペインなどで経済危機が起こったが、加盟国間で救済の足並みがそろわず、反対意見が公然と出る。新古典派経済学者は、こうした経済上の問題点を予見することすら出来ず、まったく無力だった。

また、専門用語になってしまうが、新古典派の概念に生産時における「費用逓増」を前提としている概念のバカバカしさがある。「費用逓増」というのは、生産をする際に、いくら投資を追加しても生産がやがて増えなくなるという主張である。つまり、生産量を増大させるにあたって、最初は大した追加費用を投じることなしに、生産を増大させることができるが、やがて、追加費用を極大に増しても、生産量が増えなくなるなどという馬鹿げた前提を新古典派は、置いている。この「費用逓増」の概念は、農業生産などによく当てはまるのだが、工業製品などでは、規模の利益が働く「費用逓減」である。こうした間違った前提の下で、企業は利益を最大化するが、「費用逓減」はすなわち、寡占、独占が起こることを意味し、新古典派にとって都合が悪く、理論が成り立たない。

工業製品のみならず、ましてや現代のソフトウエア提供、映画配信、オンライン図書、音楽配信、通信技術の提供などの産業の非常に大きなポーションで、追加費用ゼロで産出高を増やすことができる事態が生じている。このように新古典派の「費用逓増」という概念は根本的に間違っており、そこから出てくる企業活動の分析、均衡理論は実際の社会には全く当てはまらない。よく、デジタルの世界では「勝者総どり」と言われるが、新古典派の理論では役に立たない。

他にもある。新古典派の理論は、古典派の理論がベースになっていると書いたが、貨幣観がまったくアップデートされていない。彼らの貨幣観は、物々交換の時代に遡ったままだ。つまり、様々な商品の交換に最初、貝殻などの貴重品を使っていたが、やがて、為政者の発行する貴金属を含有する貨幣にかわる、これが通貨の起源というものだ。やがて、時代は進み、通貨は金と交換を約束するものとなる。というか、新古典派の経済理論の中にはまともに貨幣論がないし、政府は、市場原理が働かない部門を担当する、生産性の低い団体としてしか描かれていない。

上記が、新古典派の貨幣観のベースであるが、現代では、金本位制はすでに廃止され、為替レートも固定されていない変動相場制である。事情は変わっているのだが、新古典派は兌換制と固定相場を前提とした理論のままだ。これが原因で、「国債の発行は、子孫へのツケを残す」、「国債の大量発行は、民間の資金需要を政府が奪うため、国債価格の暴落と金利の上昇を引き起こす」など、事実無根のデマが、もっともらしく長年流布されてきた。

《3.MMTの貨幣観》

一方、MMTの貨幣観は、政府が発行した通貨を納税の支払い手段として認めたことにより、通貨が信任を得、通貨は発行者の負債(=受領者の資産)だという。同時に、国には、通貨発行権があり、インフレにならなければ、無限に通貨を発行できる。

また、とくに注目してもらいたい点だが、MMTは、中央銀行が発行した通貨だけでなく、銀行が契約に基づいて資金を貸し付けた瞬間(預金残高に記帳した瞬間)に通貨が生まれるという。この銀行の通貨発行には、金額的な制約はない。制約があるとすれば、契約相手の返済に対する信用だけである。これは、日銀の通貨発行と銀行の与信の合計を示すM2という日銀の統計数値に一致する。このM2の内訳だが、日銀による通貨発行残高が2割程度であり、銀行による通貨創造が8割くらいの割合になる。つまり、例えばソフトバンクがみずほ銀行から5000億円借金をした瞬間、みずほ銀行は5000億円の通貨発行したことになる。

日銀のホームページから

またMMTは、経済活動の分析に簿記の考え方を取り入れているのが特色であり、その考え方は、実社会で経理経験を持つものとして、非常に実感を持てるものである。

おしまい

YOUTUBEでコメントできない。TWITTERに共有できない。

タイトルの現象が起こり困っていたのですが、原因がわかりました!ブラウザにはCHROMEを使っているのですが、原因がわからず、そのような現象を避けるために、FIREFOXやEDGEを使ったり苦労していました。全てがそうではないかもしれませんが、お試しください。

YOUTUBEなどの広告を表示させないフリーウエア(寄付希望)にAdBlockがあります。これを拡張機能に入れている場合、YOUTUBEでコメントできなかったり、TWITTERなどに共有できない問現象が起こるようです。

この現象を避けるためには、CHROMEの場合、「設定」、「拡張機能」を開き、AdBlockを不可にします。これでOKです。必要に応じて元に戻してください。

おしまい

 

ベートーヴェンピアノ協奏曲第4番 聴き比べ リシエツキ vs グールド

たまたま、YOUTUBEで見つけたヤン・リシエツキなのだが、結構よくて印象に残った。ベートーヴェン・ピアノ協奏曲全集が出ていたので、アカデミー室内管弦楽団との協演、2018年、ベルリンでのライブレコーディングのDVDを購入した。アカデミー室内管弦楽団は、指揮者がいない(コンサートマスターである第1バイオリン奏者が兼ねる)楽団であり、WIKIPEDIAによると、映画「アマデウス」、「タイタニック」、ポピュラー音楽ではナイトウィッシュ「ワンス」などをヒットさせており、重厚さや伝統より、爽やかさや軽快さを売りにする楽団だといってよいだろう。

そこで共演していているリシエツキだが、早いパッセージなど正確なリズムで圧倒的に弾き切り、聴いていて非常に気持ちが良い。如何にも現代的なベートーヴェンである。

ベートヴェンのピアノ協奏曲は、豪華絢爛でスケールの大きな第5番「皇帝」がもっとも有名だろう。だが、人気の方は第4番が高いかも知れない。第4番は瞑想的、哲学的な雰囲気もあり、ちょっと変わったところがある。それで聴き比べにあたって、第4番を選択した。

ヤン・リシエツキ

一応、YOUTUBEを貼り付けることができたので、実際に聴き比べられると良いのだが・・・。

一方、主が偏愛するグレン・グールド。二人がどのように違うのか、その点にフォーカスをあてて書いてみたい。グールドの演奏は、1961年バーンスタイン指揮のニューヨークフィルとの協演である。

まず、出だしである。このピアノ協奏曲第4番は、第1楽章が、次の楽譜のとおり珍しくピアノの独奏5小節で始まる。ピアノ協奏曲で、出だしがピアノの独奏というのは、非常に珍しい。ほとんどの場合は、オーケストラのトッティ(全奏)がひと段落したことろで、ピアノが名人芸をひけらしながら入る曲が多い。

この冒頭からのピアノ独奏は、「運命の動機」と言われる和音の4連打が3回出てくる。もちろん、交響曲「運命」の強迫観念のような激しさはないのだが、ピアニストは和音の4連打を意識して弾くように教師から教わる。 そのような背景があるので、リシエツキは、普通のピアニスト同様、冒頭のメロディーを和音としてピアノを鳴らしている。

一方、グールド。彼は、10代をつうじて、チリ出身のピアノ教師、アルベルト・ゲレーロにピアノを習っていた。ゲレーロは、演奏技術だけでなく、音楽に取り組む姿勢や人間形成などにむしろ重点をおいて指導し、ゲレーロとグールドはいつも音楽の議論をするのだった。グールドは普通に弾き方を教えられると怒ったので、ゲレーロはグールドに自分で気づくように仕向けながら教えた。その結果、グールドは「僕のピアノは独学です。」と生涯言い続けた。

グールドは、13歳の時にトロント音楽院のリサイタルで、ゲレーロのピアノ伴奏でこの4番のコンチェルト第1楽章を合奏している。ほぼ、公式デビューの最初といって良い。その練習の時に、この曲の冒頭の伝統的な弾き方である和音の4連打のことを教わっても、グールドはこの教えをにっこり微笑みながら無視し、和音の4連打で和音を強調せず、和音を微妙に崩し、一つの旋律として弾いた。

また、この楽章は Allegro moderato(ほどよく快速に)と速度が指定されている。だが、グールドは moderato といっても良い、遅めの速度で弾き始める。そのため、グールドの演奏は、軽快で楽しいという印象より、優しく表情豊かだ。

第2楽章は、アンダンテ(歩くくらいの早さ)で、弦楽器だけの低音のユニゾンの旋律とそれに応答するピアノの対比が、ちょっとした哲学的、瞑想的な対話で聴くものを惹きつける。このときのグールドが、素晴らしい。弦にあっさり答えるのではなく、音量を小さく落として弾き、ベートヴェンの現代にも十分つうじる魅力的な旋律に聴く者が耳をそばだてるようさせる。

この部分を聴いていると、リシエツキは完全にオーケストラと一体になった演奏をしている。ところが、グールドの演奏では、オーケストラはオーケストラであるのに対し、グールドはあくまで別の主体を演じており、二人の思想家の対話を聞くような演奏である。

やはり、グレン・グールドの演奏は、他のピアニストとは本質的なところで何かが違う。リシエツキの場合、極端な言い方をすれば、5曲のピアノ協奏曲すべてが、勢いがあって、爽やかな演奏で、分かりやすくいってしまえば、金太郎飴。

だが、グールドは、1曲ごとに曲の印象が違っている。5番「皇帝」は豪華絢爛、威風堂々とした交響曲のように弾いているが、4番は、思索的、瞑想的だ。また、曲の弾き方がつねに一本調子ではなく、いつも変化に富んでいる。彼が常に奏法の中心におくデタシェ(スタッカート)奏法は、緊張を緩める効果がある。また、外声(いちばん上と下の声部)だけでなく、内声にも光を当て、旋律の主役を交代させ、聴くものを飽きさせない。

ほとんどのピアニストは、右手で旋律を弾き、左手は低音部を単なる伴奏として弾き、右手を強調するものの、左手は存在感が薄い。グールドは、低音部を、高音部同様に強調するし、グールドだけが、3声以上の旋律を同時に打鍵することはめったになく、違った旋律として弾き分けている。

また、グールドの演奏は、超越しながら恍惚としているのだが、しっかりと計算されており、楽章ごとに盛り上がる部分(サビ)が明確で、そこへ向かって行く。また、最終楽章には曲全体のクライマックスがある。

もちろん、リシエツキの演奏は気持ちよい。何より、録音状態がグールドより50年は新しい。実際にこの演奏をコンサートで聴ければ、幸運としか言いようがない。主は日本でリシエツキのコンサートがあれば、是非行きたい。

おしまい