トーマス・マン「魔の山」その2 ネタバレのあらすじ

ネタバレのあらすじ

舞台は、世界中から結核患者が集まるスイスのダボスの高地の《ベルクホーフ》という名のサナトリウムである。

標高1500メートルのダボスには、何十件もサナトリウムがあったらしい

第1次世界大戦の7年前である1907年、24歳のドイツ・ハンブルグ生まれのハンスが、従弟のヨアヒムを3週間の予定で見舞いに訪ねる。ハンスは、造船工学を学んだエンジニアで、造船所で見習いとしての就職が決まっており、気軽な立場で、任地へ赴任する前に見舞いに立ち寄ろうとしていた。ハンスは、この就職前の試験勉強のために、たいへんな勉強をして疲れ果ててしまい、医者からアルプスでの転地療養を勧められ、ヨアヒムを訪ねるところだった。

一方、従弟のヨアヒムは、ハンスより背も高く、肩幅も広い立派な体格をしていた。しかし、実のところ風邪をひきやすく、すぐに熱を出し、ある日とうとう血痰を吐いた。ハンスは、家族の希望通り法律を勉強していたが、やむなく進路を変えて、プロシア軍の士官候補生として採用されていた。ところが、結核の治療のため入院していた。

ハンスは、人生をこれから始めようとする青年であり、ヨアヒムは、一刻も早く病気を治して、軍人としてデビューをしたいと考えていた。

ハンスは、ヨアヒムに教わりながら、《ベルクホーフ》で様々な国の様々な人たちに囲まれて、サナトリウムの生活を始める。サナトリウムの生活水準は、医師や看護師の他に、料理人、給仕たちや門番などが揃って高く、患者の食事は、栄養があり豪華で、日に5度もあり、厳しいが美しいアルプスの高地を散歩をしたり、バルコニーで体を延ばして労わる安静療養の時間など規則正しい生活を送るようになっている。

しかし、バルコニーは隣の部屋とつながっており、患者同士の不倫や情事が密かにおこるなどもあり、根底にある倫理観や道徳観は、1900年ころの当時と、今も変わらない。

そのサナトリウムには、古くからの患者に、30代のイタリア人でフリーメーソンのセテムブリーニがいた。人文主義者を自称し、代々続く文学者の家系にあるセテムブリーニは、いつも同じ着古した一張羅を着こなす紳士だが、若い二人を見込んで、ヒューマニズム、啓蒙思想、自由、博愛など様々な思想について皮肉交じりにウンチクを語り、ある種、矯正的な感化及ぼそうと語ってくる。

フリーメーソン:16世紀ころに成立した秘密結社。「自由」「平等」「友愛」「寛容」「人道」を理念とする。

サナトリウムでは、補佐役の医師が、患者相手に病患形成力としての」というテーマで連続講義する時間を設けていた。世界中から集まった老いも若きも、男も女も、既婚者も未婚者も、様々な患者たちが揃っているサナトリウムだが、「愛」については、誰もが興味深々で、精神的な愛と肉欲的な愛がごちゃ混ぜになった話に、婦人たちは頬を紅潮させ、男たちは耳を揺すぶらせて聞き入っていた。その医師の結論は、「病気は、愛の表現である。」というものだった。

療養者にロシア人の若く美しいクラウディア夫人もいた。ハンスは、一目見たとたんに、彼女に恋心を抱く。クラウディア夫人は、夫と別居し、結婚指輪を嵌めず、処々方々の療養地を渡り歩き、ハンスの目には、無作法でだらしのないところがある夫人なのだが、ハンスは自身の自負心と照らし合わせ、クラウディア夫人に対し優越感を覚え、クラウディア夫人の手の平にキスをする夢を見て、甘美な感情に満たされる。ハンスは最初のうちは、クラウディア夫人との関係を休暇中の一ロマンス、遊びぐらいにしか考えていなかったが、それが微妙な関係から生まれてくる興奮、緊張、満足、失望などを感じることで、これが夏の旅行の真の目的へと変わっていく。

ハンスのクラウディア夫人に対する恋心は、ヒッペという男子の同級生に対する好意に類似していた。ハンスは12,13歳のころ、飛び級をしている模範生のヒッペに好意を寄せていた。その感情は、直接にヒッペに分かるように告白するというようなものではない淡いものだった。ハンスは、クラウディア夫人を一目見たときに、ヒッペに再開したような感覚になる。そして、ハンスは、クラウディア夫人に恋心のサインを送りはじめる。そのサインは周囲の人たちに簡単にバレていたが、ハンスの行為は、回りくどいものだったので、クラウディア夫人は知らぬ顔で無視を続ける。

従弟を見舞いに行ったはずの気楽な立場のハンスだったが、彼にも発熱症状があることがわかった。見舞いの立場から、患者としての療養生活が始まる。ハンスは、療養生活がすぐにでも治るものと考えていたが、最終的に第1次世界大戦がはじまるまでの7年間に及ぶことになる。

やっとのことで、二人きりで話ができる瞬間が訪れ、ハンスはクラウディア夫人に跪いて愛を告白する。しかし、クラウディア夫人は「坊ちゃんが、何を言うの。」と取り合わない。この時、ドイツ語やフランス語では男女の間で親しくなってからでないと使わない「君」という表現をハンスはクラウディア夫人に使い、「なんて図々しい人なの!」と呆れられる。 しかも、彼女はこのサナトリウムを明日去るという。翌日になって、ハンスは、呆然となってクラウディア夫人を建物の陰から見送ることしかできない。

映画「魔の山」

文学士、啓蒙家で、貧乏なセテムブリーニはやがて、サナトリウムを出て、村人の家の屋根裏部屋でほとんど調度のない暮らし始める。その家の階下には、贅沢な調度品に囲まれて暮らすナフタがいた。ナフタは、オーストリア生まれのユダヤ人だったが、イエズス会のカトリック教徒に改宗し、出世街道を進んでいたのだが、病気の発病により出世の道が閉ざされていた。 このセテムブリーニとナフタは全く正反対の意見を持っており、セテムブリーニから「人生の厄介息子」と評されるハンスとヨアヒムの前で、いつも議論を戦わせている。この二人の話が非常に熱を帯びていて、長いのだが、説得力はない。しかし、「魔の山」の特色を形作っているのは、間違いない。

イエズス会 資金面で豊かなだが、「イエズス会員」を表す言葉(たとえば英語のJesuit)が、しばしば「陰謀好きな人、ずる賢い人」という意味でも用いられ、近代において、プロテスタント側のみならずカトリック側の人間からも、さまざまな陰謀の首謀者と目されることが多い

セテムブリーニは、ナフタのいないところで、ナフタがいまだにイエズス会に養われている身であることをばらし、悪魔的だと非難する。ナフタは、同じようにセテムブリーニのいないところで、セテムブリーニを、フリーメーソンだとばらし、彼の思想は時代遅れも甚だしいブルジョワ的啓蒙精神と自由思想的無神論であるにも拘わらず、滑稽な自己欺瞞に酔っていると非難する。

二人の議論の一例をあげると、こういう具合である。こうした議論が、延々と果てしなく続く。

「・・・・セテムブリーニはびくともしなかった。ナフタ氏は、と彼は言った。問題は墨で字を書くことではなくて、人類の本源的要求である文学、文学的精神にほかならぬことを百も承知の上でこういうことを言われるのであるが、何とも憐れむべき嘲弄家ではないか!文学的精神とは精神そのものであり、分析と形式の結合という奇蹟であるこの精神こそあらゆる人間的なものに対する理解を覚醒せしめ、愚昧なる価値判断や信念などの力を弱めて解体させ、人類の教化、醇化、向上をもたらすのである。・・・・・

ああ、しかし相手のナフタも黙ってはいなかった。彼はセテムブリーニ氏の天使的頌歌(ハレルヤ)を意地悪い、目覚ましい反論をもって撹乱し、あの熾天使のごとく高尚なる偽善の背後に潜むのは破壊の精神であると断じ、それに対してみずからは保守と生命の味方にたつといった。セテムブリーニ氏が声をふるわせて独唱された奇蹟の結合なるものは、要するにいんちきな手品にほかならない。なぜなら、文学の精神は・・・・

それをハンスは、こう思っていた。

「・・・ところでハンスは自分の哀れな魂こそ彼らの弁証法的争論の主要な対象だと考えたがっていた。・・・」

軍での出世が約束され、軍に貢献したいと願うヨアヒムだが、いつまでたっても病気が回復しない。とうとうしびれを切らした彼は、回復しない状態で、軍に入隊すると強く決心し、サナトリウムを降り、出発する。 しばらくは、昇進し少尉になったとか、軍隊で元気にやっているといた内容のヨアヒムから手紙がハンスに届くのだが、徐々に軍隊生活が病気によりうまく勤められない様子が伝わってくる。

ハンスは、スキーを初めて履いて一人で冬の山中を彷徨う。最初天候は良かったのだが、突然吹雪き、方向が全く分からなくなる。疲労困憊し、ちょっとした小休止の時に葡萄酒を口にして眠ってしまい、海辺で母と娘や、乙女たちが舞う美しいが性的な夢を見る。やがて夢は、醜い老女が半裸で、幼児を引き裂き、肉片をむさぼり食う場面でハンスは、夢から覚める。彼のスキー行軍は、いつの間にか元の場所に戻るという非常な困難を伴うのだが、ハンスは桎梏からどうにか身をほどき、なんとか奮起して下山する。

ハンスは、スポンサーであるティーナッペル叔父の訪問を受ける。叔父は、ハンスがいつまでこの高地にいるつもりか詰問しにやってきたのだった。しかし、サナトリウムの多くの病人たちや感染状況などを知るにつれ納得するようになり、また、自分が狭量だと思われたくもなかった。ティーナッペルは、サナトリウムで下界ではできないような様々な体験をして、療養中のある夫人の豊満な乳房に魅了されたたり、むしろ下界の生活を送ることが当分の間、完全に間違った不自然な不法なものに感じられるという予感を抱いて恐ろしくなり、ハンスに別れを告げることなく、朝一番の列車で逃げるように帰ってしまう。 これで、下界にはハンスの療養生活を否定する者はいなくなる。

さらに時間がたち、ヨアヒムは、再び病気がひどくなり、母親に伴われてサナトリウムに戻ってくる。ハンスはもちろん、サナトリウムでヨアヒムを知る者たちは、ヨアヒムの帰還を知ってを喜ぶ。

ヨアヒムと彼の母親は、アルプス旅行中の汽車の中で、クラウディア夫人に会い、近く彼女がサナトリウムに戻ってくるということを聞かされていた。母親が、ハンスにそのことを伝え、「とても奇麗な人でした。どこか開けっ放しで投げやりなところがあったけど・・・」と言うのに対して、ハンスは、「あの人には人文的風俗習慣の尺度をもって近づいてはいけない。・・・」と急に饒舌になり、ネガティブな言葉ばかりを言い、母親を驚かせる。

ヨアヒムは、再入院の当初、軍隊生活で男らしさを増したように感じられ、ハンスをはじめとするサナトリウムの面々は喜ぶ。しかし、ヨアヒムの病状は、目に見えて悪化し、やがて食事さえも困難になり、ヨアヒムはまもなく死亡する。呆然とするハンス。ここで物語は、第二部へと進む。

そこへハンスが恋心を抱いているクラウディア夫人がベルクホーフに戻ってくる。ハンスは、軍隊に行っていたヨアヒムから、クラウディア夫人が戻ってくると前もって聞かされていた。しかし、クラウディア夫人は、オランダ人のコーヒー王、ペーペルコルンという老年の男性と一緒に戻ってきた。衝撃を受けるハンス。 しかも、ペーペルコルンは大きな存在感、人間性があり、議論好きなセテムブリーニやナフタをはっきり凌駕する。

もともと慇懃すぎる性格のハンスは、クラウディア夫人をペーペルコルンと争うようなことは全くせず、どんな場面でも王者で、支配者であるペーペルコルンを「人物だ!」と尊敬する。冷淡だったが、どこか肩透かしをされるクラウディア夫人。

ハンスとセテムブリーニ、ナフタ、クラウディア夫人、ペーペルコルンとあと二人、ヴェーザル(ピアノで結婚行進曲を弾くマンハイム生まれの商人・青年)とフェルゲ(ペテルスブルグ出身。高尚な話に向かないと自称する善良な忍従者)の6人は、行動を共にすることが多かった。ヴェーザルは、ハンス同様、クラウディア夫人を自分のものにしたいと思っており、同類と感じてハンスのコートを持ったり、ハンスに対しへりくだった態度をとる。

金持ちのペーペルコルンが費用のすべてを負担して、彼らは、盛大にカード遊びや酒盛りを連夜、遅くまでする。

セテムブリーニとナフタは相変わらず、熱心に哲学的な神学論争を烈しく続けるのだが、ペーペルコルンのいるところでは、いつも彼の存在感の方が上回り、「彼の影響力のために、論争はその決定的に重要だという印象をぼかされてしまい ー こう言っては大変気の毒だが ー 結局こういう議論はどうだっていいのだという印象をみなに与えてしまった。」

遊びなど、共通体験を深めることで、ペーペルコルンに信頼を寄せるハンスをペーペルコルンも評価する。その長い盛大な酒盛りの深夜、別れ際に、酔っぱらったペーペルコルンは、ハンスがクラウディア夫人に接吻するように求める。「お別れにこの美しい女(ひと)の額に接吻したまえ、お若いお方。」と言い、ハンスは「いけません、閣下」「あなたの旅のお連れに接吻するなどということは、私にはできないからです。」と拒む。

ある晩、ハンスは、クラウディア夫人がパトロンであるペーペルコルンが寝ている時間を見計らい二人だけで話をするチャンスを得る。相変わらずハンスはクラウディア夫人を、「君」と呼び、クラウディア夫人は「そういういい方は、問題にしないことにするわ」と応じる。ハンスは、相変わらず、理屈っぽく遠回りにクラウディア夫人に言い寄る。最後に、クラウディア夫人は「あたしはあんたが冷静なのに腹をたてていたのよ。」「あんたがあの人を尊敬しているのを見て、うれしかったわ。いいわ、二人で同盟を結びましょう。」といい、ハンスの手を取り、ロシア風のキスをする。

ハンスは、ペーペルコルンとさらに仲良くなり、いろいろ教わる間柄になる。ある日、病気の老人であるペーペルコルンはハンスに問いかける。ここが、この小説のハイライト。

あなたは、一度もマダム(クラウディア夫人)を『あなた』と呼んだことがない。・・・あなたは、盛り上がった宴の最後に私がマダムに接吻するように求めたとき、馬鹿げているという理由で承知されなかった。そう言う釈明では、もう一つ別の釈明が入用だとあなたも異存がないはずです。その義務を果たしていただくわけにはいきませんか。あなたはクラウディアが前にここに居たときの愛人だった?」

「あなたには嘘をいいたくないです。ぼくはクラウディアを ー 御免なさい ー 旅のお連れを世間的な意味合いでは交際は全くありませんでした。しかし、ぼくは心の中でクラウディアを親しみを込めて『君』と呼んでいました。ただ、クラウディアがサナトリウムを出ていく前の晩、はじめて親しく話をしたのです。」

「あなたは今でもあの人を愛しておいでなのですね。」

「ぼくはあなたを非常に尊敬し讃嘆しておりますから、ぼくのあなたの旅のお連れに対する気持ちを、ぼくのあなたへの気持ちから言ってどうもおもしろくないのですが。」

「あの人(クラウディア夫人)も同じ気持ちを持っているのでしょうか?」

「ぼくはあの人が今までにそういう気持ちを持ったことがあるとは申しません。ぼくにはむろん女性に愛されるようなところはあまりありません。ぼくにはどんな人間的な大きさがあるでしょう。・・・ぼくがこんなことをお話したのは・・・過去のいきさつのせいで、ぼくに好意をお寄せくださるのをおやめにならないようにお願いしたかったからです。それだけが気がかりなのです。」

「それにしても、私があなたに自分では知らずに与えた苦しみは、たいへんなものたったに違いない。」

ハンスとペーペルコルンの熱のこもった会話は続く。

ハンスは、病気により長くサナトリウムに留まり世間と縁が切れてしまい、死んだも同然で、クラウディアへの理性を失った愛情表現も病気に屈服したからだというような意味のことを述べる。これに対し、ペーペルコルンは、もし自分が悪性の熱に参っていなければ、男対男ととして武器を手にして、あなたの名誉回復の要求にこたえただろう、また、自分が知らずにハンスに与えた苦痛に対して、また、自分の旅の連れがあなたに与えた苦痛に対して、あなたの満足のいくように取り計らっただろうと言う。さらに、ペーペルコルンはハンスに、お互い『君』と呼び合う兄弟になろうと申し出る。 ふたりは、グラスを交わして兄弟と認め合う。

仲の良い6人は、2頭の馬車を仕立てて森と峡谷の中にある滝へピクニックに出かける。

その途中、同じ馬車に二人で乗るヴェーザルはハンスに言う。「あなたは今では、ペーペルコルンが出てきて、おかしなことになっているが、一度はうまい巡り会わせで楽園に遊んでクラウディア夫人の腕を頸に巻き付けられたことがあるから、わたしに対して上から目線なんです。」「私は、クラウディア夫人に、もう、ぞっこんです。私がどんなに彼女に焦がれ飢えているか、しかもその思いが遂げられずに我慢していなければならないか、その苦しみはとても言葉ではいいあらわせません。・・・。」とハンスにこぼす。

滝では、ペーペルコルンがワインを何杯も飲みながら、立ち上がって口を動かすのだが、何を言っているのか誰にも理解できないものの、全員がその存在感に圧倒され、頷きながら頭を縦に振って納得していた。やがて、ペーペルコルンは出発を命じた。

そのピクニックの晩、ペーペルコルンは、象牙を使いコブラの歯を模し、毒を入れた注射器で自殺する。その夜、よく眠れなかったハンスは、深夜2時、クラウディアに呼び出されペーペルコルンが自殺した部屋で二人で話をする。

「この人は私たちのことを知っていたのかしら。」とクラウディアが言う。「この人は、ぼくが君にキスをしなかった時に、万事察してしまったのです。いま、この人が言ったとおりにするのを許していただけないでしょうか。」とハンス。クラウディア夫人は目を閉じて、彼の方へ顔を差し出した。ハンスはその額に唇をつけた。そのあと、クラウディア夫人はベルクホーフを去る。

ハンスは、ペーペルコルンとクラウディア夫人を失い、完全に行き詰まっていた。ハンスの顔は、ヨアヒムが自暴自棄な反抗を固めはじめたころに見せた顔つきを、はっきりと思い出させた。 ハンスは、自分の周囲を見渡した。周囲のものは、時間のない生活、心配も希望もない生活、停滞していながらうわべだけは活発に見える放蕩な生活、死んだ生活だった。

ベルクホーフでは、あらゆる慰みごとが流行っていた。写真の現像、切手の蒐集、チョコレートをむさぼり食う、目をつぶってブタの絵を描く、数学、トランプなど、ハンスもこられに夢中になる。 ハンス自身、自分の身に巣くう「恐ろしい鈍感」に慄然とする

 サナトリウムに突然最新鋭の蓄音機が設置させる。その蓄音機は最高級品であり、素晴らしい音を出した。また、200枚以上のレコードがあり、最高峰の楽団が演奏していた。療養者全員が夢中になるのだが、ハンスはその蓄音機の操作者になることを買ってでる。そして、一人でもその音楽を楽しむ。ハンスが好きだった曲は、オペラ、「アイーダ」。これを味わった後にドビュッシーの「牧神の午後」を聴いて息抜き。その次が、オペラ、「カルメン」。グノーのオペラ、「ファウスト」の中の「祈り」の歌。最後にシューベルトの「菩提樹」の「泉のほとりに」。 ハンスは、この「菩提樹」の中に希望を見出す。

ベルクホーフでは補佐役の医師が研究結果を講演で発表していたが、やがて神秘的な世界へと入り込んでいく。若い生娘を霊媒にしてこっくりさんに熱中する。生娘には霊が取りつき、死者を呼べる。ハンスは、ヨアヒムを呼び出すよう依頼する。不思議な現象が様々に起こる。

ベルクホーフは、毒々しい口論、憤怒の爆発、名状しがたい苛立ちに支配されるようになる。 最近入所した反ユダヤ主義者は、ユダヤ人の入所者と悪童のような取っ組み合いから、誰も見たことがないような死に物狂いの喧嘩をする。

また、ポーランド人の間で、名誉棄損事件が起こり、お互いが非難する文書を入所者にばら撒いていた。これを受け取ったセテムブリーニとナフタの二人は、決定的な口論に発展し、ナフタはついにセテムブリーニに決闘を申し込む。これを受けるセテムブリーニ。何とか翻意させようとするハンス。

しかし、二人は翻意せず、ピストルを至近距離から撃ちあう決闘を行う。フェルゲとヴェーザルが介添え人となり、ハンスは立会人となる。15歩離れたところで、お互いが向き合い、3歩ずつ前進し、ピストルを互いの胸に向けあう。その時、セテムブリーニは空に向けて何発かは発射する。「あなたは空へ向けて発射された。」怒るナフタ。「どこへ撃とうと私の自由です。」「もう一度うちたまえ。」「そのつもりはない。さあ、あなたの番だ。」 ナフタは「卑怯者!」と絶叫し、自分の頭に弾丸を打ち込んだ。

ハンスは、サナトリウムでは人畜無害な人物であり、放置されるようになっていた。自由と呼んでよいのか放恣(気儘で節度がない)なのか。

 しかし、このとき轟然と世界がどよめき、青天の霹靂がとどろいた。オーストリア・ハンガリー皇太子銃撃事件を契機にする第1次世界大戦の勃発である。セテムブリーニは、決闘事件以来、呆然自失となり無気力だったが、破局へ向かうヨーロッパの運命とともに複雑な心境だった。

ベルクホーフは、母国へ降りていこうとする人たちで混乱していた。ハンスもそうだ。セテムブリーニは、ハンスを駅まで見送り、「あなた」と呼びかけるのを止め、「ジョヴァンニ」(Giovanni)と「君」と何度も呼びかける。「私は君がもっと違った形での出発をするところを見たかった。でも、いいでしょう。・・・勇敢にお戦いなさい。さようなら。」 

ジョヴァンニというのは、モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」からきている呼びかけで、「色男!」的な親近感を表す呼びかけだろうと、主は思う。

ハンスは、3千人の増援部隊の一員として、戦場にいた。彼らはすでに甚大な被害を被っていたが、目的地まで戦わなければならない。弾丸が当たり、額を、心臓を、腹部を撃たれ、腕を伸ばしながら倒れる、顔を泥の中に伏せて横たわる戦友の間を、よろめきながら突進していく。生存を期待できない悲惨な戦争である。

一番最後の部分を写し取ると、・・

「君は『鬼ごっこ』によって、死と肉体の放縦との中から、予感に充ちて愛の夢が生まれてくる瞬間を経験した。この世界を覆う死の饗宴の中から、雨の夜空を焦がしているあの恐ろしい熱病のような業火の中から、そういうものの中からも、いつかは愛が生まれてくるであろうか?」

(あらすじ終わり)

上巻は、物語がゆっくり、どこか牧歌的に展開し、下巻ではピッチを上げて、異常事態が短いインターバルで頻発する。最後には、第一次世界大戦が起こり、ハンスが病気をおっぽりだして、ドイツ軍の作戦に加わる。他の患者たちも、出身国の兵士となるべくサナトリウムを我先にと飛び出し帰国する。物語は、ハンスの生死も不明な状態で終わる。戦争は、これまでの病死や喧嘩、自殺などとはるかにスケールが違う。

翻訳が、率直に言うと、読みにくい。一般に意味が通じない日本語表現が、かなり出てくる。例えば、「あなた」と「君」という表現の違いは、ドイツ語やフランス語の二人称が親近度や長幼で変化するのだが、読者向けに補足説明があったら親切だろう。

おしまい

グールドがいちばん愛読したトーマス・マン「魔の山」その1

兎に角長い。
上下二巻で各巻が、
800ページほどある。

1932年生まれのグレン・グールドが、ニューヨークデビューしたのは、1955年なので、第二次世界大戦も終わり、社会は平和と繁栄を謳歌し始めた幸福な時期である。その戦争の影響が非常に少なかったカナダ、トロントで育ったWASP(ワスプ=ホワイト・アングロ-サクソン・プロテスタント《≒新大陸に渡った、白人支配層の保守派を一般に意味する》)の彼は、それまでの西洋文化のバックグラウンドと戦後の自由や民主主義、社会の旧弊への反抗などを胸に抱えて青年期を過ごしたはずだ。

そうしたグールドは、トーマス・マンを筆頭に、トルストイ、ドストエフスキー、ヘッセ、カミュなどの世界的な名著をひろく読んでいた。日本の作家では、安倍公房、三島由紀夫や夏目漱石を読んでいて、とくに夏目漱石の「草枕」を絶賛しており、「草枕」の朗読番組を作ったこともある。亡くなる直前に彼は、「草枕」の番組を作ろうとしており、枕元には日本語版と何種類ものびっしり書き込まれた英語版「草枕」が残されていた。自分を芸術家と定義するグールドは、とくに漱石の芸術観につよく共鳴し、芸術が人を長閑(のどか)にし安らぎを与えるというところに、漱石と自分の共通項を見ていたように思う。

そんなことで、グールドはどんな思いで、マンの「魔の山」を読んでいたのかと思いを巡らせながらこの本を読んでみた。

この「魔の山」だが、兎に角長い! 文庫本で上下2冊あるのだが、それぞれの巻が800ページほどある。

そのなかで、登場人物に年長のイタリア人の自称、人文主義者と、カトリックに改宗した虚無主義のユダヤ人修道士が人生の先輩として説教しに出てくる。主人公を交えて、ああだこうだと議論するのだが、これが延々と長い!!どうでもいいとしか思えない、結論が見えないような熱のこもった議論が、延々と続く。その挙句の果てのオチに、もう一人の堂々とした多くを語らないオランダ人のコーヒー王(主人公が恋心を抱くヒロインの情夫である老人)が出てくるのだが、その人間的な魅力の前に、二人の屁理屈王たちの存在が霞んでしまう。

こういう未熟な主人公が、成長するにつれて人格を形成していく小説を、「教養小説」というそうだ。夏目漱石の「三四郎」などもそうらしい。そういう意味では、様々な読み方があるはずだが、決して権威を肯定するような小説ではない。

ただし、市民社会と言いながら、社会階級からくる差別意識は色濃い。夏目漱石の小説もそうだが、このマンの小説にも、下層階級のだらしなさを非難する描写がふんだんに出てくる。こうした下層階級の人たちを二人の作家が否定しているわけでは全くないが、ある種のエリート意識があるのは否めない。 むしろ、グールドの場合、彼は自分を芸術家と考えており、それは普通の人たちとは違うことを意味しており、その分芸術で、視聴者に責任を負っていると考えていたのは明らかだ。むしろ、人類みな平等というスローガンより、芸術家としての義務感が感じられてよろしい。グールドの思いが出ているところを例示すると、次のようになる。

● 「本質的には、芸術の目的は、癒しなおすことです。音楽は心を安らかにする経験なのだと思いたいのです。」(「グレングールドは語る」)

● 「聞くものにこの世のことを忘れさせてくれない音楽は、それができる音楽より本質的に劣っていると私は思う。」(「グレン・グールド 著作集2」)

● グールドではないが、カラヤン大先生の発言は分かり易い。『演奏者だけが盛り上がって聴衆は冷めているのは三流、 聴衆も同じく興奮して二流、 演奏者は冷静で聴衆が興奮して一流。』ヘ ルベルト・フォン・カラヤン

小説の登場人物それぞれに、やむをえない事情があり、それぞれが正しい人生や模範となる人生を歩もうとしながらも、簡単にそうはならない矛盾がとうぜんある。とりわけ、最後に出てくる「霹靂」の第1次世界大戦は、世界中から患者が集まるサナトリウムを一瞬で一変させ、患者たちがわれ先にと出身国に帰り、戦争に参加しようとするという結末は、それまでのサナトリウム内の騒動である喧嘩や、情事、人文主義者とニヒリストの議論、日常的に起こる個人の死などすべてのひとの営みを軽々と吹き飛ばすものだ。

もう一つのテーマと思えるヒロインとの淡い恋物語も、単純でキレイな話ではなく、主人公ハンスのプライドや世間体と、淫蕩な欲望が絡んだせめぎあいから出発している。主人公の態度は現代ではじれったいし、時代がかっているだろう。しかし、主人公のまどろっこしい態度とヒロインのある種の冷ややかな態度は、万国共通で時代を超えて普遍的であり、とても納得ができるものだ。

読みながら主は、自身のプライドや自尊心を守りながら、女性に対し欲望や欲情を満たそうとしても、簡単に見破られ、とても成就しないものだと感じる

グールドは、両親が極端にまじめなプロテスタントの家庭で育ち、性的な話や下ネタ系の下品な話は全くタブーだった。このため、友達が「ファック!」とかガールフレンドとの性的な話などと言おうものなら、そんな言い方は止めてと懇願したらしい。そんな抑圧を抱えたグールドは、自分の女性関係を徹底的に隠し、女性関係は今もってベールに奥深く包まれている。

しかし、プロデューサーのアンドルー・カズディンは、グールドが精力的に仕事をしていた後半の15年ほどの期間、一緒に仕事をしていたのだが、グールドの女性への態度を次のように語っている。

グールドには、正常な発達がどこかで阻害されたのではあるまいかと思われることろが幾つかあった。それは・・・世間一般の常識からすると、確かにグールドの女性に対する態度は変わっていた。それは私にもはっきり感じられた。彼は女性を、あたかも思春期前の少年のような純真な眼差しで見ていたのである。彼が抱く想像の世界では、十代の若者にありがちな未熟な要素と、年輪を重ねた者でなければ決して持ち得ない、創造性に飛んだ高度の知的要素といったものが分かち難く同居していた。そして、その二つが同時に顔をのぞかせることが多かった。」

「創造の内幕 グレン・グールド・アット・ワーク」

この小説の主人公のヒロインに対する恋心は、相手を貶めながらも、自分のものにしたいという矛盾したところがあり、グールドにも似たような部分があるかもしれない。

この長い小説を読むのには、骨が折れた。特に前半は、展開がゆっくりして忍耐を要した。しかし、話の展開が進むにつつれて、意外な事件が次々おこり、読みやすくなった。 

この本を読んでいると、西洋の歴史の厚みというか、圧政で押さえつけられてきた民衆がやっとのことで王政を打ち壊し、自由や平等、啓蒙思想の市民社会を作り上げた分厚くて困難な歴史が背景にあることを実感する。そのプロセスには、様々な哲学論争や、政治思想、また、カトリックだけでなくプロテスタントによる宗教革命など激しい争いがあったのだろう。そうした歴史を経て生まれた市民社会だが、それは依然として完成形ではなく、戦争によって簡単に壊されてしまう、そんな風にも読めた。

またこの小説は、様々な二項対立を描いている。我々の世界観の中に含まれる両極端な考えを、わかりやすく対比して示しているのは間違いない。それがグールドの価値観、我々の価値観の形成につながっているに違いない。

なお、次回アップしようと思うのだが、「魔の山」のあらすじをできるだけわかりやすく面白く書きたい。

おしまい

コートが10センチ大きく ネットが3センチ低くなる! ウィルソン Sラケット!?

主は、別にウィルソンの回し者ではないのだが、ラケットを使っていることもあり、ちょっとマニアックな話だが、ウイルソンのラケットの話をしたい。

YOUTUBEにウィルソンのWilsonTV Morningという番組がある。「モーニングコーヒーを飲みながら、聞き流していただく感じで聞いていただきたい、Wilsonテニスに関するいろいろなお話です。 ゆるーい感じで聞いてみてください。」というコピーが書かれていて、お馴染みのお二人(日本法人担当っぽいヨコヤマさんとストリンガーぽいミチバさん?)が登場され、結構な頻度でテニスフリークのための番組をアップされている。

この番組を見ていると、ケガをした錦織選手がラケットのテンションを下げ、今では40ポンド以下で張っているとか、セリーナ・ウィリアムスも65ポンドで張っていたものを、今は一気に20ポンド下げて張っているとか、テニス業界の小ネタを知ることができる。

そうしたウィルソンのラケットに、昔からなのだが、スピンがよくかかるという人気のSラケットというものがある。

テニスのラケットは卵型で縦長のため、縦のガットより、横のガットの本数の方が多いのが一般的であり、縦16本×横19本とか縦18本×横20本である。

ところが、縦より横のガットの本数を減らすと、スナップバック(snapback)が起こりやすくなり、スピンがかかりやすくなるという。スナップバックを辞書で引いてみると「急に元へ戻る、鋭く言い返す 」という意味で、インパクトの瞬間にたわんだガットが、急激に元に戻るのでスピンがかかりやすくなるという。

スナップバックが起こる瞬間

このSシリーズは2013年から始まっており、フェデラーが「このラケット使うとみんなナダルになっちゃうね」と言ったとか言わないとか! あまりにスピンがかかってコートに収まるので、コートが10センチ大きく ネットが3センチ低くなる!とカタログに書いたらしい。この番組は、ゆるーい感じで聞いてほしいとのことなので、???かもしれないが、信じる者は救われるという言葉もあり、要は打ち方次第、本人次第だろう。

ただ、身も蓋もないのだが、人間は横着な生き物なので、ラケットを変えてもしそんな驚く効果があっても、すぐに体の動きが怠けてしまうのが人間の常ような気がしないでもない。

こちらがそのスナップバックを紹介するお二人の動画である。いつもながらだが、テニスをして、ラケットについていろいろトライしているような人にはとても興味深い話が聞ける。

このスピンがよくかかるSラケは、2013年に発売された時の初代ラケットに、フェース面積が105平方インチ、縦16本×横15本の STEAM105S があり、モデルチェンジしながら昨年まで続いていた。フェースが大きいほど、また、ガットの目が粗いほどボールは飛びやすくなる。

しかし、この大きいフェースに目の粗い縦16本×横15本のラケットは、ガットがすぐに切れる欠点がある。スイングするときにこする打ち方をするプレイヤーは、すぐにガットが切れる。極端な場合は、ガットを張ってすぐに切れるくらいだ。

ウイルソンSTEAM105S

そうした欠点を克服するために、ウイルソンの昨年発売された新しいシリーズでは、フェースサイズを100平方インチほどにして、縦18本×横16本で売り出したのだろうと思う。

2020年現在、売られているSラケ、左からクラッシュ100S、ブレード98S、ウルトラ100Sである。

また、ガットが切れるという現象は、縦と横のガットがはげしく摩擦するからであり、縦横のガットの種類を変えてハイブリッドにし、横に摩擦の少ないポリガットを張るなどを推奨している。

下が、テニス365の記事である。こちらも参考にさせていただいた。こちらには、ジョコビッチ選手も市販品より1本横のガットを減らしているとか、ラケットを変形させないために横糸を強く張るとか、さらに興味深いことが書かれている。

ウイルソン】「Sラケの魅力再発見!クラッシュ、ブレード、ウルトラ三つ巴試打」

おしまい

タダほど高いものはない マスコミの報道

主は、これまでテレビや新聞などのニュースを見たり読んだりすれば、世間のことに詳しくなり、そうすれば、正確な判断ができるとずっと思っていた。

しかし、ここ1年、政治や経済系の専門書を読み、YOUTUBE、TWITTERを主な情報ソースにしたら、テレビやマスコミの従来型のメディアは、スポンサーの意向や為政者の願望などにコントロールされていると思うようになった。

つまり、こうした無料で手に入るテレビの放送や、お金を払うと言っても安く大量に情報が流される新聞やNHKなどを含めて、真実を報道しようとする意思がないと思うようになってきた。 どうも真実は違うところにあり、タダや安く手軽に手に入るテレビ、新聞の報道は、意図され操作されたものであり、間違った方向性を帯びたものだと思うようになった。

ただし、このこうした傾向の厄介なところは、日本に限らずどうも世界規模で同じ問題を抱えていると思われることだ。

一番わかりやすい例が、トランプのアメリカ大統領選挙だろう。

日経新聞から

トランプもバイデンも、グローバリズムの仕組みが最も恩恵を得られる巨大金融資本(エスタブリッシュメントといっても良い)の支配や支援を、根っこのところで受けている点では同じなのだが、トランプは、アメリカにいる約半数の国民である、グローバリズムの恩恵を受けず貧しくなった白人を集票の基盤の中心にしている点が、バイデンと異なっている。

ところが(というか「当然」というべきか、微妙なのだが)、アメリカ中のマスコミや、産業界、経済界を始め、他の医療、教育などの分野も、巨大金融資本(エスタブリッシュメント)が支配しており、巨大金融資本(エスタブリッシュメント)にとっては、グローバリズム、自由貿易、規制緩和が自分の利益にとって最も都合が良い。ツイッター社は、トランプの投稿を信ぴょう性が疑問としてブロックし、大手テレビ局はトランプの記者会見を途中で打ち切りさえした。

そのことからトランプは、「たった一人の反乱」といった報道のされ方をしており、往生際の悪いエゴイストと表現されている。 こうした報道は、アメリカに限ったことではなく、日本ではさらに徹底していると言われ、トランプに好意的な報道はゼロである。また、ヨーロッパなどでも同じだろう。

何故こうなっているかということを、一言だけ背景の説明をすると、まさに陰謀論なのだが、世界は、19世紀に起こった石油を中心とする巨大金融資本(ロスチャイルドとロックフェラー)をルーツに持つ末裔たちに支配されているという人がいる。

この巨大金融資本が勃興するプロセスで、富を独り占めする資本家への国民の猛反発が起こる。すなわち、巨大金融資本が、周囲の国民から潰されるほど危機感が高まった時期がある。この時、ロスチャイルドとロックフェラーは、世間の非難が自分たちへ向かわない方法を考える必要に迫られ、解決法として自分たち以外の国民の敵を別に作る、という戦略をとる。

すなわちそれは、一番驚くのだが、陰で行った共産主義者に対する支援であり、黒人への教育・社会参加、あらゆる分野の社会貢献を通じた世論形成など、自分たちの隠れ蓑を巧妙に作ることだった。 こうした流れの中で、独自の道を行っていたバブル期の日本潰しなども含まれる。

また、新型コロナの騒動もそうである。

日本のマスコミは、臨床医たちの意見を引用し、この冬に向かって第三波、第四波の感染者が急激に増加し、医療崩壊が起こらないかと危惧する報道が一般的だが、新型コロナの評価には、別の見解があり、そもそも、8月の安倍首相が退任する際に、コロナは2類から5類に扱いを下げると言われていたのに、菅総理になってうやむやになり、何も扱いを変えなかった。

日経新聞の記事から

つまり現状は、PCR検査を増やした結果、症状のない新型コロナ患者が多数発生しているものの、相変わらず2類に分類されるためピンピンした者が国の負担で治療を受けている。

主が知っている範囲のもっとも分かりやすい新型コロナの現状説明には、京都大学の上久保教授(検査技術科学コース准教授・癌創薬イノベーション研究室の室長)のもの、同じ京都大学の宮沢孝之准教授(獣医学者、ウイルス・再生医科学研究所准教授)の2種類がある。

この上久保教授が言われていることだが、PCR検査をして、陽性になるかどうかというのは、カットオフ値というものがあり、これをどこに置くかで如何様にもなる。つまり、ほとんどの国民はカットオフ値に至らずとも免疫を持っており、この教授によると、現在、補足される陽性者は、再罹患であり、免疫を持っているために自然治癒する性質のものであるという。

NEWSPOSTセブンに分かりやすく要約されているので、下にリンクを貼った。

京大教授「日本人はコロナを克服。年末に終焉」説の論拠

この上の記事に書かれている上久保教授の説明の要約になるが、簡単に説明すると、2019年の10月ころから、従来型のインフルエンザが減少するにつれ新型コロナが増えてきた。この二つのインフルエンザは、ウイルス干渉という現象のため、同時には流行しない。この流行プロセスを詳細に調べると日本はロックダウンが遅れたことが幸いし、何度も変異した新型コロナが蔓延した結果、既に集団免疫を獲得しているというものだ。

一方の宮沢氏の見解は、上久保教授よりYOUTUBEで回数多く試聴されており、免疫に触れていないものの、新型コロナ感染拡大のピークは過ぎており、過剰な自粛は必要ない、ウイルスと共存できるというものだ。

たしかにアメリカ、ヨーロッパでも感染が拡大しているという報道がある。しかし、死者数はこの春と比べると激減している。欧米は日本と違い、免疫ができていない状態で強毒性のウイルスに暴露したために、被害が大きいのは事実であるが、やはり、もう上久保教授によれば欧米も集団免疫を獲得しているという。

欧米の各地で、今後もロックダウンということになっているが、前述したとおり、死者数で見ると激減しており、これも政治家、マスコミ側に意図があるように感じられる。

それは日本も同じなのだが、医療関係者(臨床医と製薬会社)、政治家やマスコミにとってコロナ危機は、自分たちのステータスをあげる絶好機であり、ワクチンを開発する動機を持つ国、購入する国にとっては、簡単に新型コロナ・パンデミックという医療危機が、単なる普通の風邪・インフルエンザに変わっては困る。政治家は、単に世間の風向きを一番気にして、国民(この場合はマスコミ)からバッシングされることを恐れており、国民が不幸になろうと、国が傾こうと一向に気にしていない。 つまり、どこの国の政権にとっても、マスコミや世間にハレーションを起こしてまで、真実を明らかにして国民を救うことより、反対の大合唱になって支持率を失わないようにすることの方が優先するのだ。

おしまい

紅葉の季節 水戸もみじ谷、千波湖、偕楽園へ行ってきた

11月18日、今年は台風が少なく紅葉が奇麗というので、前から一度行きたいと思っていた水戸の偕楽園に行ってきた。この日は天気に恵まれたのだが、さすがに日本三名園の一つと言われるだけあって素晴らしいものだった。

紅葉を目当てに行ったので、最初に、偕楽園の線路を挟んだ反対側にあるもみじ谷へ行った。

それほど、長い距離ではないのだが、気持ちの良い公園を歩ける。道路が平行しているので、完全な静寂の地というわけではない。平地のせいか、まだ完全に紅葉していない木もあり、しばらく見ごろが続きそうだった。

もみじ谷の入り口
とってもキレイ
紅葉していないもみじもある

残念ながら行かなかったが、もみじ谷では夜間ライトアップもしている。隣の護国神社へも行ったが、こちらもとても感じの良いところだ。

こちら、もみじ谷のお隣の護国神社

ランチは、千波湖(せんばこ)に面した好文Cafeへ行った。ほどほどの値段のカジュアルなレストランで、テーブルから千波湖レークビューを楽しめる。この日は、ちょっとした小春日和で、外のテラス席や屋上でもランチを楽しむ人がいた。

好文Cafe
千波湖から市街地を望む

さていよいよ、偕楽園である。ガイドブックに従い陰と陽の世界を実感するために好文亭表門から入る。まず、陰の世界からスタートである。

好文亭表門
一ノ木戸
鬱蒼たる森、左は竹林

好文亭に入るといきなり、室内から明るい庭が見える仕掛けになっている!

こちら最上階(3階)は楽寿楼という名前だが、パンフレットによると、幕末のお殿様(徳川斉昭)が領民と周囲の景色を楽しむ目的で作ったと言われる場所である。

楽寿楼
室内と風景はこんな感じ
とってもキレイ

あいにくだったが、現在、好文亭の一部は改修中で、すべては見ることができなかった。しかしながら、工事現場である内部も、歩きながら見れるようになっている。

ところで茨城県は、都道府県魅力度ワーストワンを7年続けたのだが、やっと2020年、最下位を脱出したという。主は、こういう調査に信ぴょう性を何ら感じず、逆に悪意を感じる。ニュースは、知事を先頭に県庁全体が努力した結果という報道のベクトルだったが、マスコミは言えるのかよ、自分はどうなんだと突っ込みたくなる。

その茨城県の県庁所在地の水戸、徳川御三家の一角、さすがに歴史を感じさせて、とても魅力的だった。県庁所在地はどこも、当然ながら、歴史の蓄積と魅力がある。

その帰りにスマホのGoogleさんに訊いて、近くで口コミの良い喫茶店で休もうとした。1軒目に行こうとした一風変わったノラズカフェ(★4.2)は、「コロナで15時閉店です。」と言われたのだが、まともに看板をあげていない古民家だった。

Googleに教えてもらったノラズカフェ

それで、二軒目に目指したのが、表通りを一筋中に入った駐車場のない場所にあると思われる、CAFE RIN(★3.9)。車でぐるぐる回ったのだが、残念ながら、見つからなかった。

二軒目のCAFERIN、見つからず

そうこう裏通りを走るうちに、水戸の風俗街!に突入してしまった。どうも、Googleさんは一風変わったマニアックな店を紹介したがる。

これはこれで、なかなかこれも趣があってよろしい。どんな都会にも陰と陽はある。朝もあれば夜もある。写真を探すのにあれこれググったら、けっこうディープな場所が他にもあるみたいだった。

両側に風俗店が並ぶ一角に突入。ググりました。

おしまい

リフレ派の間違い 浜田宏一氏、黒田日銀総裁など

ELLEから 真ん中がオカシオ・コルテス

主は、安倍政権の登場以来ずっとリフレ派といわれる経済学者を支持して、ブログを書いたりしてきたのだが、いつまでたっても一向に景気が回復せず、今年、MMT(Modern Monetary Theory=現代貨幣理論です。)を知って、リフレ派のどこが間違っていたのかがようやく分かるようになった。

主流派経済学者の中にリフレ派といわれるグループがあり、浜田宏一さん、若田部昌澄さん、安達誠司さんなどがおり、黒田日銀総裁もその中に入れて間違いがないだろう。

彼らは、量的緩和による金融政策で、市中に通貨を大量に供給し、金利を下げることで経済を刺激することでデフレを脱出しようと考える人たちである。具体的には、銀行などの民間が保有する国債を日銀が大量に買い取り、通貨を市中に供給すれば、投資に回りやすいだろうというのが目論見である。

しかし、このリフレ派の量的緩和は、リフレ派以外の主流派経済学者から、この方策はカンフル注射見たいものなので、いつまでもやるべきでない、出口戦略を練るべきだと当初から評判が悪かった。

ここで注意したいのは、このリフレ派、リフレ派以外のどちらも、新自由主義、新古典派と言われる主流派の経済学者である。(詳しくは書かないが、グローバリズム、自由貿易、小さな政府などが理論の中心になります。)

一方、非主流派(だが、正しい!)のMMTは、主流派経済学と貨幣観のところが全く違う。

主流派経済学の貨幣観は、昔、希少な貝殻を貨幣の代わりに使っていたことを起源とし、やがてアメリカで金本位制が導入されたように、貨幣は「金」との交換を約束する証書であり、政府は「金」がなければ貨幣を発行できなかった。大戦後、「金」と交換しない不換紙幣、管理通貨制度(政府の裁量で通貨が発行できる)の時代になるのだが、主流派は、従来の貨幣観をアップデートしなかった。ここに間違いがある。

つまり、MMTは、現代の主権国家(変動相場制のものとで自国通貨建てで国債を発行できる。)である、日本、アメリカ、イギリスなどは、インフレにならない限り国債を、いくらでも発行可能だという。

そして、発行した国債を元手に政府がお金を手にして、民間企業や国民に公共事業や年金給付などでお金を使うと、企業や国民の資産が増える。

また、通貨のうちの1万円などの紙幣は、2割程度の流通量にすぎず、残り8割は銀行預金なのだが、この銀行預金は、いくらでも元手なしに銀行が発行できる。すなわち、ソフトバンクがみずほ銀行から1兆円融資を受けるとしよう。そのとき、みずほ銀行は、ソフトバンクの口座に、1兆円とデータを入力するだけである。それで、1兆円の通貨が増え、ソフトバンクが手にする。

こうして考えると、浜田宏一さんや黒田日銀総裁のやってきた(異次元の)量的緩和というのは、国債を銀行から買い集めただけで、売却代金を手にした銀行にとって、ほとんど運用先がない、借り手がいないブタ積みになっているだけなので、たいした効果がない。

このように書くと、「政府がいくらでも国債を発行できるなら、税金を取る必要がない」という意見が出るだろうが、① 政府が税金を取り納税の手段として認めることで、通貨を人々が求めるようになる効果と、② 景気の調整、不公平の是正の手段として、税金は非常に重要である。

しかし一方で、このようなバラ色のMMTが、なぜ世間で認知されないのかという問題がある。

このMMTの理論は難しいものではないし、経済に興味がある人には、雑誌でもYOUTUBEでも見る機会はいっぱいあり、財務省の役人も国会で追及されているので、十分に知っているはずだ。しかし、国債を財源に国民にお金をバラまいたり、消費税を廃止して景気が良くなったら、主流派経済学者や財務省、マスコミのメンツは丸つぶれだ。20年以上続いた不景気で、苦しい人生を歩んだ人は限りなく大勢いるだろう。

そんなところで「王様は裸だ!」とバラしても、権力者たちは簡単に認めるわけにはいかない。

ただし、世界中でコロナ禍で、各国政府が財政支出を拡大している現状がある。

日本も、第3次補正予算が議論にあがり、100兆円程度の支出になるかもしれない。これは、2年分の予算になる。バカなことを素面でいう池上彰氏や、小林慶一郎氏をはじめとする主流派経済学者のバカな連中が、コロナが終わったら増税だと言っているようだが、まず、自身の非を認めるか、発言を控えてもらいたい。まず、マインドチェンジが必要だ。この100兆円の支出を行っても、国債は暴落せず、金利も上昇しない、主流派が説明できない事態が続く。

アメリカでは、カマラ・ハリス(=医者と大学教授の娘、夫は弁護士で、けっこうエスタブリッシュ。)が、副大統領になる可能性があるが、もう一人人気のある下院議員オカシオ・コルテス(ブロンクス生まれ、本当の貧乏人育ち。)がおり、主は、バーニー・サンダースともどもこちらを好んでいる。オカシオ・コルテス、バーニー・サンダースともに、MMTをバックグラウンドにしている。

さらに白状すると、グローバリズムにたった一人で反対を唱えているトランプ大統領の支持者でもある。

アメリカ民主党の人気女性議員、ELLE : カマラ・ハリス&オカシオ・コルテスを徹底比較

おまけ

下が、MMTの重鎮、ニューヨーク州立大学ステファニー・ケルトン教授。オカシオ・コルテス、ステファニー・ケルトンと美人ぞろいで、ブログの趣旨が変わってしまったかな。

ステファニー・ケルトン WIKIPEDIAから

おしまい

スターバックスコーヒー

主は定年退職後、自由時間が増えた。ところが、パートで働いている日を別にすると、じっとしていられず運動をしているか、もっぱら大きなショッピングセンターをうろうろしている。 買い物もするのだが、本を読んだり、ノートパソコンを開いていることも多いので、喫茶店へよく行く。

そうした理由で、喫茶店遍歴をしているのだが、今はほぼほぼスタバになってしまった。長い時間、落ち着いて過ごすのには、スタバの客層が一番大人しいというか、他人をジロジロ見たりすることなく、お互い不快な思いをすることがいちばん少ないというのが理由である。

スタバ お世話になってます

最初のうちは、値段の安さが一番のマクドナルドへよく行っていた。マクドは、コーヒーが100円、アイス系が150円からあり、コスパ最高なので、もっぱら両方頼んでいた。マクドは、家族連れ、高校生、平日は老人も多い。週末、お客がごった返すと床など汚いこともある。騒がしい。 

ミスタードーナツもよく行った。ホットコーヒーがお代わり自由で、ドーナツを加えても400円ほどで食べれる。ミスドは、高校生や、お母さんと幼児などの組み合わせが多いように感じる。独立した店構えより、スーパーマーケットのフードコートにある場合が多い気がする。 

ドトールコーヒーへも、よく行った。こちらは、コーヒーが300円弱である。ここは、駅前など場所によるのだろうが、主の地元では、老人が非常に多い。また、学生の勉強部屋になっていることも多い。唯一、喫煙室がある。

また、喫茶店というよりレストランのカテゴリーであるが、昔の会社の先輩とは、毎回決まってサイゼリアに行く。ここは平日のランチにドリンクバーをつけて、税込610円という破格値である。ここで毎回何時間もさまざまな会話を楽しんでいる。いくら粘っても店員が嫌な顔をするということがない。

ここからは、なぜスターバックスなのかというお話である。是非、飲食店などの運営に関係しておられるなら、参考にしてもらえれるとうれしい。

まず、WiFiが使いやすい。 ノートパソコンを開くと、簡単にFREE WIFIにつながる。イオンなどのスーパーのフードコートなどの共有スペースで、FREE WIFIを使おうとしたことがあるが、PC側で警告メッセージが出たり、使い勝手が悪かった。おそらく、経営側の偉い人は「うちのフードコートはWIFIがある。」と思っているのだろうが、実際に自分で使ったことがないに違いない。経営者は部下任せにせず、スタバと是非比べてもらいたい。

お次。アプリがよくできている。このアプリをインストールし、お金をチャージしていれば店頭で小銭を出さずに買えるし、店の近くまで来たタイミングで、アプリで商品を注文すれば、レジに並ばずに受け取ることができる。チャージ額が減った段階で、一定額を自動的に追加する機能もあり、とても便利である。以前は、プリペイドカード方式だったが、アプリになって数段良くなった。

スタバのアプリ

欠点としては、他のチェーンと比べると値段が若干高めなことである。コーヒーとケーキを頼むと、ケーキの種類によって800円くらいすることもある。フラペチーノ類も500円以上して高いが、若い女性には人気で、きっとお洒落な感じが楽しいのだろうと思う。


コロナ禍でお客が減る中、スタバは相変わらず人気だ。 その理由は、お店に魅力があるからだろうと思う。店員さんは若くて感じのいい男女が多いし、礼儀正しい。それよりも、行く気になるのは、来ているお客が、温厚というか変な客が少ない。静かな客だけではなく、女性客同士で会話を楽しんでいたり、男女だったり、赤ちゃんを連れたお母さんと友人だったりするのだが、そういう客に非難の目を向ける客もいない。すべての客たちが、その自身の空気の中にいて、他の客を妨害しない、という感じがある。 そのような雰囲気になるように店が作られているのだろう。

日本は不景気が続き、安くて品質の良いものを提供しようと効率のみを追求してきた。たしかに、マクドナルドは、驚異的な安さで大量に商品を供給するモデルで成功した。他のミスタードーナツ、ドトールコーヒー、サイゼリアもそう考えているだろう。

しかし、消費者はコストだけではないパーフォーマンスも求めている。少し割高でも、他人に邪魔されない落ち着く空間と時間が欲しい時が、結構あるからだ。

おしまい

バッハの例外 ー イタリア協奏曲

ヨハン・セバスチャン・バッハにイタリア協奏曲という曲がある。協奏曲という名前がついているが、アンサンブルではなく、鍵盤楽器の独奏曲である。ネットで調べたところ、何やらバロック時代の協奏曲に、主題が何度も出てくるリトルネロ形式というものがあり、この形式をとっているために、このような名前になっているとのことだった。

正確にはバッハの時代にはピアノがなかったので、チェンバロ曲ということになる。そのため、バッハを弾くとき、どの楽器を使うかが議論となり、ピアノを使うと邪道と言われることもあるのだが、この曲だけは、単純に天真爛漫な曲なので、こぞって子供たちを含めて大勢が表現力豊かにピアノで弾いている。

下がグールドがピアノで弾くYOUTUBEである。

バッハの書く曲は、「誇張や過度の技法」「自然に反し、くどくどしく理解し難い」と批判されることもある。このためグールドは、バッハを時代に背を向けた偏屈者と評し、存命中に人気があった曲は少なく、このイタリア協奏曲のような作風を維持すれば人気作曲家でいられただろうと言っている。つまり、この曲はバッハには珍しく、軽快で爽やか、愛らしく聴いていてシンプルに非常に楽しい。 バッハは、バロック時代の最後の人物なのだが、こういう曲をロココ調というのかも知れない。

繰り返しになるが、バッハは「誇張や過度の技法」「自然に反し、くどくどしく理解し難い」ところが魅力であり、理性的、知的、数学的なところが時代を超えて愛される理由であり、それが、ジャズやポップスでも取り上げられる所以だろう。ブランデンブルグ協奏曲も同じ路線で、この曲もどこを聞いてもシンプルで非常に美しい。こうした曲は、バッハでは珍しい。

だが、これを聴いていると非常にグールドらしい。第2楽章アンダンテの低音部をスタッカートで、正確に同じリズムでずっと弾き続けるところなど、妙な感動がある。グールドが、この曲を弾いているのは1959年だが、この曲をこのように弾いたのはグールドが最初で、それまではもっと違っていたはずだ。ところが、現代の表現は、グールドが初めて弾いた表現方法と同じだ。

下は、「忘れられていた楽器、チェンバロを20世紀に復活させた」と言われるワンダ・ランドフスカ(1879~1959。ポーランド生まれ、後にアメリカ亡命。)の演奏。これを聴くと大袈裟で、もっさりしているのが良く分かる。グールドが、バッハの表現を一新させたのは間違いない。

ワンダ・ランドフスカ WIKIPEDIAから

おまけ

主が数年前、YOUTUBEで発見したティファニー・プーン。香港だかの中華系なのだが、カナダへ留学していた。とっても、上手! 残念だが、なかなか芽が出ないようで、音楽の世界の競争は厳しいようだ。イタリア協奏曲の第1楽章が聴ける。

おしまい

テスラ 異次元のイーロン・マスク ガラパゴスの日本

消費税廃止を訴えて自民党の先頭で旗を振ってられる国会議員に、参議院の西田昌司さんがいる。非常な炯眼の持ち主で、財務省や国会で消費税廃止をはっきりと訴えているのだが、自民で権力を握る幹部連中は、耳を貸す気がない。

この西田議員は、YOUTUBEでも活動を普段から行っていて、テスラが与える自動車業界への衝撃についての動画をアップされている。この動画に限らず、どの動画もインパクトがあり、お勧めだ。

西田議員もテスラについて、うかつにも知らなかった、初めて知ったということを言われているが、主もこんな状況になっているとはつゆ知らなかった。マスコミなどの報道も、耳に優しいことばかりしか言わず、肝心なことにはフォーカスしていないのだろうと思う。

詳しくは下の動画が、その出所である。面白いので、ぜひ見てください。

西田さんが言われているのは、まったく宣伝をしないテスラの電気自動車、一番安いタイプがもう日本でも5百万円ほどで販売されており、その性能・品質がこれまでの既成概念を打ち破る桁外れの出来だそうだ。

テスラの電気モーターによる発進時の加速は、これまでのポルシェなどのスーパーカーの上を行く(一番安いモデルで、0-100キロ、3秒!)ものであり、航続距離も500キロ以上あり、しかも自動運転がかなりできる。

モデル3

ところで、ちょうど今日(2020.11.11)のNHKニュースで、ホンダ車のレジェンドが、レベル3の自動運転を搭載した車を発表し、高速道路で渋滞している場合に自動運転ができるということを伝えていた。このニュースを聞くと、日本の技術が世界初の実用化を果たし、世界のトップにあるのかなと思ってしまうが、実はテスラの方は完成間際であることが隠されているとしか思えない報道の仕方である。

テスラの自動運転については、アメリカでは自動運転のベータ版(完全版の一歩手前バージョン)が提供されている。ただし、日本では「・・・同時に規制当局による認可も必要で、国や地域によっては長い時間がかかることが予測されます。・・」との記述がホームページに書かれている。

レベル3の自動運転 ホンダレジェンド

西田議員によると、もうこれは、既存の製品と次元が違う。「車というより、ロボット」だそうだ。この値段は、あと数年すれば300万円に下がるだろう。そうすると、既存のガソリン車はおろか、ハイブリッド車も存在できないだろう。

ところが、日本はこの10年、官民を挙げてガソリン車から電気自動車への移行のつなぎとして、水素自動車の開発を支援してきた経緯があり、全国に水素ステーションを普及させようとしている。それでは間に合わない、早急に電気に転換すべきだ、また、ガラパゴス化すると警告している。

このテスラは、2020年7月、株式の時価総額でトヨタを抜いたとか言われるが、設立者はあの有名なイーロン・マスクである。

このイーロンマスクは、自動車だけでない。宇宙に進出しているスペースエックス社も経営している。ZOZOTOWNの前社長の前澤さんが女優の剛力彩芽さんともども宇宙旅行を申し込んだことで有名だ。

このスペースエックス社、単に民間企業が宇宙ロケット分野に進出したというだけではない。3年前の動画があるのだが、これがまた、めちゃ凄い。エンジン部分だけが、元の場所に飛んで戻ってくるのだ。下の動画が、実写である。

このロケット、下部についたメイン・エンジンの推進力で打ち上げられるのだが、頭部のコックピットを切り離した後、メイン・エンジンが、地球を周回して、逆噴射を繰り返しながら発射地点に戻ってくる!!これまで、エンジン部分といえば、海に墜落していたイメージしかないが、地球を周回して、姿勢を変えつつ同じ場所に見事に戻ってくる。めちゃ凄い!

昔馴染みのスペースシャトルは、飛行機の上に乗った子亀のような宇宙船が宇宙へ行った後、地上に戻ってきていたが、打ち上げの終わったエンジンが自動飛行して戻ってくるというのは、結構不気味な感じもして、語彙不足で恥ずかしいが、凄いという言葉しか出てこない。

このイーロン・マスクのアイデアは無限で、列車を真空状のチューブのハイパーループに入れて、時速1000キロで走らせるという。こちらも、規模を縮小した形で実際の工事が始まっている。下が、写真と記事のリンクだ。

BUSSINESSINSIDER誌から

https://wired.jp/2019/04/25/elon-musks-boring-company-takes-small-step-toward-reality/

おしまい

テニス ガットの話

テニス歴43年の主は、何十本とラケットを買い替えた後、現在ウイルソンのウルトラ105S(写真)というラケットを使っている。配偶者から「ラケットより、腕を買い替えななあかんわ!!」とイヤミをずっと言われてきたが、ラケット遍歴を繰り返してきた。 今は、もう年なので「楽に飛ぶ、スピンがかかりやすい」というふれこみのラケットを選んでいる。

このラケットであるが、普通のストリングパターンより横のガットの行数が少ない、16×15というストリングパターンである。(一般的には16×19という横の方が多いパターンが多い。)そのせいか、縦のストリングスが激しくたわみやすく、ストリングスがかなり切れやすい。

こんなラケットです。ウイルソン ウルトラ105S

そのためストリングスを長く使えるように、さまざまな方法でガットを貼り、あれこれ試行錯誤している。

まず最初の写真は、ナチュラルガットに、「エラストクロス」という摩擦を低減するパーツを取り付けている様子である。(クリックしてもらうと写真が拡大されます。)

ナチュラルガットが切れそうになると、そこに「エラストクロス」をはめ込んでいる
上の写真を拡大したところ
エラストクロス

ナチュラルガットは、使い続けていると1か月程度で切れてしまう。このため、「エラストクロス」を使ってみたが、このようにすると確かに寿命は延びる。倍以上の期間使えるかも知れない。ただし、この「エラストクロス」をあまり数多くつけると、テンションが上がり、打感が変わってしまう。

フェデラーは、この「エラストクロス」を面の左上部に2か所ほどだけつけており、スナップバックというボールをヒットしたときにガットが元に戻り易くする効果を狙ってつけているそうだ。さらに、フェデラーはラケットの表裏を決めて、ストロークは必ずその位置でヒットするらしい。恐るべし!ですね。 

その昔、チャンピオンのピート・サンプラスもチェンジコートの際のベンチで、この「エラストクロス」を俯きながら調整していた。

お次。下は、錦織をはじめとして多くの選手が使っているハイブリッドである。主の場合、縦ナチュラル、横ポリを張っている。このハイブリッドは、プロの場合はナチュラルだけでパワーが出すぎる場合に、パワーを適度に落とすためにハイブリッドにするらしい。

ハイブリッド。白いのがナチュラル、赤っぽいのがポリである。

こういう試行錯誤を始めて数か月がたつのだが、いくつか気づいたことを箇条書きしてみた。

1.やはり、ナチュラルが体への負担が一番少ない。

2.主の場合だが、同じような打球感になるようなテンションは、次のような感じである。

  ナチュラル50ポンド=ハイブリッド45ポンド=ナイロン40ポンド

3.夏場と冬場では、打球感が相当違う。当然、夏場はテンションを高めにし、冬場は緩めになる。

少しでも参考になればうれしいです。

おしまい