グールド おすすめCD 「坂本龍一コレクション」

今回は、これからグールドを聴きたいと思っている人向けのコンピレーションアルバムを紹介しよう。コンピレーションアルバムとは、ウィキペディアによると「何らかの編集意図によって既発表の音源を集めて作成されたアルバム」と書かれている。

絶対的と言って良いのが、「坂本龍一セレクション」だ。バッハ編とバッハ以外の2種類があり、各々2枚組なので4枚のCDにまとめられている。(厳密に言うと、バッハ以外のセレクションの最後には、「マルチェロのオーボエ協奏曲」をJ.S.バッハが編曲した「協奏曲ニ短調BWV974」が入っている。)

坂本龍一は、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)、映画「戦場のメリークリスマス」、アカデミー賞やゴールデングローブ賞を受賞した作曲家でもあるが、東京芸大大学院の修士課程まで進んでおり、その過程でグレン・グールドの影響を非常に強く受けたと言う。

坂本龍一は、このアルバムを録音時期に沿って選曲しているのだが、広く漏れなく曲を選んでおり、グールドの魅力が網羅されている。バッハ以外では、ベートーヴェン、ブラームス、ウェーベルン、シェーンベルク、バード、スクリャービン、C.P.E.バッハ(息子バッハ)、シューマン、モーツァルト、グリーグ、シベリウス、ヒンデミットと続く。この中には現代曲であるシェーンベルクとヒンデミットの歌曲が3曲含まれている。残念ながら、オーケストラ曲はなく、唯一のアンサンブルがジュリアード弦楽四重奏団とのシューマンのピアノ四重奏曲である。いずれも、数あるグールド映画にもよく使われる素晴らしい演奏がチョイスされている。

バッハ編の選曲について、坂本龍一は「今回この全体を選ぶのに、もちろん、基本的には僕が好きな曲であって、しかもいい演奏だというのが前提なんですけれども、傾向としてはですね、クロマティックなもの、つまり、半音階的なものを、なるべく入れるようにしてみたんです」と語っている。

バッハ編の最後には、ピアノ版の「フーガの技法」から第1曲と終曲の第14番が入っている。第14番は未完、バッハの絶筆であり、唐突に終わる。この突如音楽が終わってしまう違和感を軽減させるため、グールド以外の演奏者は、聴衆へのサービス(?!)なのか、バッハが死の床で口述筆記させたコラール「汝の御座の前に、われいま進み出て」BWV668を多くの場合に付け加えることが多い。だが、グールドはこの14番を未完のまま譜面どおりに演奏し、最後の小節を少し強調して弾き、最後の音が虚空へ消える、余韻、空白感を残す演奏をしている。「フーガの技法」はそうした曲なのだが、最後に持ってきたこの未完の曲のあとに、坂本龍一はゴールドベルグ変奏曲から、3曲しかない短調で半音階的で無調的な響きのある第25変奏で締めくくっている。

グールドは「フーガの技法」のオルガン演奏による第1曲から第9曲までの録音も残しているが、圧倒的にピアノの方が内容が濃い。これは、ピアノの方が楽器としての表現力が高いためだ。オルガンは、鍵盤を押さえている間は音が減衰せず、多声音楽の演奏に適した面があるものの、ピアノのような強弱や微妙は変化は表現できないからだ。

このアルバムには、坂本龍一とグールド研究の第一人者である宮澤淳一の対談、宮澤淳一による曲目解説冊子がついており、こちらも読みごたえがある。その解説冊子の対談の最後で坂本龍一が、面白く刺激的なことを言っているので紹介したい。

- 「僕は、あんまりピアノも上手くなくて、練習もほとんどしなかったので、演奏家にならなくてすんだので良かったんですけども、やっぱりグールドの後に演奏家になる人は本当に大変だろうなと思って。本当に自分にはそういう能力がなくて良かったな思ってますけども。それにあまりにも磁力が強すぎてね、あるいは魅力が強すぎてね、真似したら真似だって言われるだろうし、でもグールドのあとに今さら古典的にね、バックハウスみたいに弾くって訳にもいかないしね。つまり、グールドの魅力を知っちゃったらそれはもう出来ないし、がんじがらめでダブルバインドで、もうどうしようもないですよね。だから、今グールドの後に演奏家になるってのは、ほんとに大変なことだと思いますよ。でも、みんな乗り越えてやってほしいとは思いますけどもね。やっぱり、グールドのような演奏家はなかなか出てこないでしょうね」

なお、発言の中に出てくるバックハウス(1884年 – 1969年)は、グールドよりひと昔前のピアノの巨匠で卓越した技巧の持ち主なのだが、決してストイックで堅苦しくはなく、ロマンティックな人間味あふれる演奏を聴かせた。彼が、1905年のルービンシュタイン・ピアノ国際コンクールで優勝した時、2位になった作曲家のバルトークが、ピアニストの道を断念した逸話があるという。

ところで、YOUTUBEで「坂本龍一 グレン・グールドについて」というのを見つけた。これがとても面白い。

おしまい

 

シューマン:ジュリアード弦楽四重奏団/ピアノ五重奏曲&ピアノ四重奏曲 グールドvsバーンスタイン

グールドは、ロマン派の曲をあまり演奏しなかったが、シューマン(1810-1856)については1曲だけ残している。ジュリアード弦楽四重奏団とピアノ四重奏曲(変ホ長調作品47・1968/5/8-10録音)で、このレコードはレーナード・バーンスタインがピアノを演奏したピアノ五重奏曲(変ホ長調作品44・1964/4/28録音)がカップリングされている。本来であれば、ピアノ五重奏曲もジュリアード弦楽四重奏団と録音するはずだったが、グールドとジュリアード弦楽四重奏団には演奏をめぐって「ひび」が入ってしまい、2曲目の共演は実現しなかったらしい。このレコードは、1969年11月にコロンビアから発売されていることから、2曲ともグールドの演奏で売り出す予定を、バーンスタインの演奏ですでに録音していたピアノ五重奏曲とのカップリングへと変更したのだろう。

四重奏曲と五重奏曲どちらの曲も、付点音符によるシンコペーションが多用され後拍にアクセントがあり現代的で気持ちよい。同じ変ホ長調なので雰囲気はよく似ているのだが、楽章の中でも旋律や曲想が目覚ましく変化するので、聴いていて飽きない。比べると四重奏曲の方が全般に穏やかで優しく、五重奏曲はより激しく、両方とも最終楽章ではより前衛的な不協和音に近いところが出てきてドキッとさせられる。

主は、このブログを書くために何度もこの曲を聴いたのだが、すっかりシューマンに魅せられてしまった。実際にシューマンは精神的に病み自殺未遂をしたこともあったようなので書きにくいのだが、この2曲には「狂気」が感じられる。音符には不協和音は出てこないが、不協和音に近い淵までは行っている。その淵をもっと長く見せてほしいくらいだが、他の部分も予定調和の音調ばかりではない。主は、クラシック音楽に「狂気」が感じられないものは値打ちがないと思っている。ベートーヴェンに「狂気」があると言われると分りやすいだろう。クラシック音楽の歴史は、過去の音楽様式の超克の歴史であり、発表当時は常にアバンギャルドであり、前衛音楽だったはずだ。

話を戻すと、四重奏曲は、4楽章あり、急(Allegro)、急(Vivace)、緩(Andante)、急(Vivaceo)で構成されている。第3楽章の緩(Andante)のところでは、穏やかで愛らしい韓国ドラマ「冬ソナ」のようなピアノの右手が奏でる美しいメロディーが出てくる。

この曲では、グールドのピアノの存在感がすごい。逆説的だが、存在感がすごいのだが、その存在感が表に出ることはなくて、曲の良さや楽しさ、激しさや穏やかさを引き出すことに徹している。グールドが弦楽器の背景で音量を抑えて低音で伴奏をするときや、小さく高音を弾く時でさえ、耳がそちらに行く。リズムが正確で心地よいことと、強弱のつけ方が上手い。弦楽器が主役の時にはピアノの音量を抑え、ピアノが主役に代わる時には表に出ていく。常に滑らかなのだ。グールドのピアノが、弦楽器の背景で鳴っている時でさえリズムに説得力があるので、ジュリアード弦楽楽団のメンバーはリズムを崩せない。グールドのこのアンサンブルは、次のバーンスタインもそうだが、きわめて正統的でこの曲自体が持つ魅力を十分に気付かせる演奏だ。

バーンスタインによる五重奏曲は4楽章あり、急(Allegro)、緩(Modo)、急(Vivace)、急(Allegro)で構成されている。極端なシンコペーションと徹底した裏打ちのアフタービートが現代的で過激、時代を超えたところがある。バーンスタインはジュリアード弦楽四重奏団をぐいぐい引っ張っていく。弦楽器よりもピアノの方がキレが良く、弦楽器の方が合わせるのに苦労しているように聞こえる。バーンスタインは、指揮者だけではなく、ウエストサイドストーリーの作者としても有名だが、ピアノもこれほど上手いとは思っていなかった。バーンスタインの演奏は、後拍のリズムが徹底していて、その一貫性に確信のようなものが感じられる。グールドの演奏の方がむしろおとなしく、バーンスタインの演奏はアナーキーなところがある。どちらも天才だ。

グールド、バーンスタインの演奏のどちらも、楽団全体のバランスがとても良い。バーンスタインの五重奏曲は、ヴァイオリンが2丁になるのでより激しく動的な感じを受けるのかも知れない。ちなみに下のリンクで、グールドの演奏をYOUTUBEで聴けるはずだ。

https://www.youtube.com/watch?v=iSiwMR3dBUY&list=RDepchw_8tKow&index=3

主は、「ひび」が入ったというのは、グールドが弾く四重奏曲がとても正統的な演奏に思えたので、ジュリアード弦楽四重奏団の要望に折れる形でグールドが妥協したのかと思っていた。それほどにどこにも違和感がないのだ。

ところが、YOUTUBEで他の演奏者のシューマンのピアノ四重奏曲、五重奏曲を聴いてみてわかった。やはり「折れている」のはジュリアードの方だ。いろいろ名演奏があるのだが、アルゲリッチが著名な部類だろう。若い時分のものと最近のお婆さんになった現在のものも聴くことができた。日本の若手のものなどもあった。そういえば、辻井伸行が優勝したヴァン・クライバーン・ピアノコンクールのピアノ五重奏曲の演奏もYOUTUBEにアップされており、短いものだったがなかなか良い雰囲気だった。

若いころのアルゲリッチ。中学生のころに父親が持っていたLPレコードジャケットを見て、あまりの美人ぶりに日本人としてコンプレックスを感じたのを思い出す。

これらを聴くといずれも弦楽器、ピアノともどんなアーティキュレーション(メロディーライン)であってもほどほどルバートしない演奏はない。アルゲリッチでさえ、弦楽器が好きなようにリズムを揺らしながら旋律を歌わせている時には、ピアノは出しゃばらない。かなり音量を抑えて控えめに弾いている。そしてピアノの出番になると、自分もリズムを揺らして感情をこめて弾く。お互いがずっとこの調子で進んでいく。

好みはあるのだろうが、グールドのアプローチは、頭に入っている4人分の楽譜を俯瞰してどのように演奏するのが良いかについて自分の考えがあるところだろう。そのため、グールドのピアノは弦楽器の伴奏に該当する部分でも存在感があり、弦楽器各自が感情をこめてルバートするのを許さなかった。すなわち、グールドとジュリアード弦楽団が対立したのは、グールドが基本的にインテンポ(テンポを変えない。ルバートしない)での演奏を弦楽奏者に求め、楽章ごとにメリハリをつけながら、4楽章全体を見通して考えた構成に合ったドラマを作ろうと考えていたに違いない。こうしたアプローチは、素人の主には当然と思われるのだが、おそらくクラシックの演奏家にとっては違っていて、特に弦楽奏者にとってはルバートしながらリズムを揺らし、思い入れたっぷりな演奏をするのが名人芸なのだと思う。ここで付け加えたいのは、グールドの演奏がインテンポで常にルバートしないとしても、機械的な演奏だとか、冷たい演奏になっているのではなく、彼の演奏には非常に心がこもっている。ペースを守っているのだが、間の取り方がうまく、音量の変化も繊細で、とてもロマンチストなのが良く分かる。常に冷静に計算しながら、恍惚としたエクスタシーの中へ入り込むことが同時にできている。

彼のバッハもそうだ。彼のバッハは普通のバッハではない。非常にロマンティックな演奏だ。バッハにぜんぜん聴こえない。

おしまい 良いお年を!

エブリバディ・ノウズ【日本病】その6 いうのもばかばかしいので最後にします

主は、日本は病気だと思っている。ちょっと前に書いていたのだが、これをシリーズの最後にしようと思う。

一時、KYという言葉が流行った。周囲の「空気を読めない人物」という意味なのだが、思っていることをストレートに口に出すことは、「大人げない」「気配りができない」奴と社会では評価されない。逆に上司を「忖度」することが出世に不可欠な要素である。

主もサラリーマンだったので、その辺はよく理解できるが、今の日本は行き過ぎではないか。誰も上司に意見を言わなくなった。逆に不祥事が起こるたびに委縮し、コンプライアンスが厳しくなる方向に向かい、前に(生産性をあげる方向に)進んでいかない。

1980年以前は、世界中が学生運動と労働運動で騒然としていたが、権力者はこれらの二つの運動を弱体化し抑えただけでなく、こうした運動に参加する価値を無力化する雰囲気づくりに成功した。権力に刃向かうことが、スマートでないという雰囲気が、社会にできた。学生運動は完全に消滅したし、労働運動はカッコよくない、ダサいと見なされるようになった。労働組合の弱体化と労働分配率の低下に相関関係があるという経済学者もいる。むかし、ウーマンリブという言葉があったが、もちろん今では死語となり、女性は意見を言わず可愛らしくあることに高い評価が与えられる。男もそうだ。あれこれ、理屈を言うと嫌われる。日本で「大人になる」とは、意見を表明せず、我慢できるということだ。

こうした風潮は、既存の日本社会に広く蔓延した。マスコミの一部は、存在意義を放棄して政権の犬になっていることを隠さないし、公務員も国民の方を向いていないところを大っぴらに見せる。大手企業の不祥事は後を絶たず、経営者には生産現場が見えていない。見えていても、見えないふりをして自分だけは退職金をもらって逃げ切ろうとする。いたるところで、老害が蔓延している。「出る釘は打たれる」と忖度して、全国民がものごとをうやむやにしてきた結果、日本は世界から取り残されるところまできた。

こうした傾向をテレビの番組から二つ紹介したい。

一つ目。池上彰がトランプ、プーチン、習近平を解説した番組(下のリンク)に、アメリカ、中国、ロシア、日本の高校生が出ていて、日本人の劣化がよく見て取れた。日本以外の高校生たちは、流ちょうな日本語で自分の意見をはっきり主張するのだが、日本の高校生は控えめで穏健な玉虫色の発言で、発言してもしなくても値打ちが変らないことしか言えない。

今の日本のスポーツ選手たちは、マイクを向けられたときに上手に答えられるように子供の時から練習するでの、そつのない受け答えができる。スポーツの世界ならそれでいい。政治や経済を語るときは、全く違わないとおかしい。

NTV:池上彰・加藤綾子が世界を動かす3人のリーダーを解説!

二つ目。この夏(8/15)、NHKスペシャルで「ノモンハン事件 責任なき戦争」が放送された。何が責任がないんだろうと主は疑問に感じたのだが、戦争を遂行した上層部に責任がないということだった。ノモンハン事件を簡単に要約すると、太平洋戦争の前、1939年に満州国を防衛していた関東軍が国境のモンゴルとソ連を越境攻撃した結果、双方が戦争状態になり、日本側は死者2万人を出した。この経緯が番組で紹介されていたのだが、二つに要約できる。① 国際情勢を読み違え、敵の戦力の分析が十分でなく過小評価 ② 軍首脳の中での責任体制が敗戦まで不明(形式的な責任体制はあるものの、作戦失敗の責任は常に現地に負わせていた。冷静な総括ができない)

79年前、モンゴル東部の大草原で、日ソ両軍が激戦を繰り広げたノモンハン事件。ソ連軍が大量投入した近代兵器を前に、日本は2万人に及ぶ死傷者を出した。作家・司馬遼太郎が「日本人であることが嫌になった」と作品化を断念した、この戦争。情報を軽視した楽観的な見通しや、物量より優先される精神主義など、太平洋戦争でも繰り返される“失敗の本質”が凝縮されていた。しかし軍は、現場の将校には自決を強要した一方で、作戦を主導した関東軍のエリート参謀たちをその後復帰させ、同じ失敗を重ね続けた。

NHKスペシャル「ノモンハン 責任なき戦い」

日本でもLINE、ZOZOタウン、メルカリのような新興企業が成功していないわけではないが、既存の企業や社会は、相変わらずガラパゴス化し閉塞している。スタートアップと言われる新興企業自体がアメリカや中国よりはるかに少ない。こんな状況の中で、東京地検特捜部がカルロス・ゴーンを逮捕した。すでに20日近く拘置所に拘留されており、先進国から日本の拘留期間は長すぎる(人質司法)、取り調べに弁護士が同席しないのは後進国、まるで中世のようだと驚かれている。日本の刑事事件の有罪率は99.9%と言われる。有罪に出来る案件しか起訴しているという背景があるようだが、逆に言うとかなり悪質で限りなくクロの事件でも立件しないことが多い、えん罪がかなりの率で含まれていると言われる。例が違うが、電車で痴漢と言われて駅務室へ行き、警察に引き渡されると、裁判で否認しても99.9%有罪にされるし、取り調べ段階で否認すればずっと留置され、罪を認めて和解を勧められるという。こんな司法はあり得ない。 主は見ものだと思っており、先進国から集中砲火をあびて司法制度が変われば良いと思っている。

おしまい

「グレン・グールドは、クラシックの音楽家ではない」宮澤淳一 

青山学院大学教授で日本のグールド研究の第一人者の宮澤淳一氏は、「グレン・グールドはクラシックの音楽家ではない」と言う。http://www.walkingtune.com/gg_07_kangaeruhito.html 氏は、「グールド本人が意識していたかどうかはともかく、彼の演奏はクラシック音楽での解釈の約束事を無視した営為であって、これは作曲家よりも演奏家の創意が重視されるジャンル(ジャズやロック等のポピュラー音楽)でこそ輝く個性である。だから、異端視するよりも、『グールドはクラシック音楽ではない』と考えた方がすっきりする。」と結論づける。 この発言は、もちろんデフォルメした言い方でグールドはクラシックの音楽家なのだが、グールドだけが他の演奏家と比べるとまったく違った考え方をしているという意味で、とても分かりやすい。

昨年12月カナダ大使館で行われたGlennGouldGatheringでの宮澤氏の解説風景

クラシック音楽の世界では、作曲家が王様であり、演奏者は作曲家の家来という構図であり、演奏家は如何に作曲家の意図を忠実に再現することができるかが、この業界の指標となっていた。楽譜に忠実に演奏することに加えて、作曲年代と楽器の制限(例えば、現代のピアノの性能はロマン派の作曲家の時代と性能が異なっている)を考慮する古楽器ブームもある。バッハの時代にピアノはなかったし、モーツアルト、ヴェートーベンの時代のピアノも今のピアノに比べるとちゃちで、当時の楽器で忠実に再現したらという考えは今でもある。音楽を楽しむことより、方法論を優先する、言ってみれば原理主義が幅を利かしている。

時代とともに楽器そのものが変わり、作曲家たちも新しい語法で作曲し、オーケストラの規模は大きくなり続け、行き着いた極限がマーラーだと言われる。

主は、最近読売交響楽団(井上道義指揮)が演奏するそのマーラーの「千人の交響曲」のコンサートへ行ってきた。この「千人の交響曲」はオーケストラ自身の各楽器の構成数が大きいのもあるが、パイプオルガンが使われ、ハープが何台も並び、チェレスタ、トライアングル、マンドリン、ソロ歌手8人に加え、大人の合唱団200人以上、子供の合唱団50人以上が加わる。第1部と第2部を合わせて90分ほどある大曲なのだが、手を変え品を変えさまざまな旋律を楽しむことができ、あっという間の90分で大いに感動した。しかし、感動の仕方が、ピアニッシモとフォルテッシモの落差のスケールに圧倒されるという面が確実にあり、「こりゃあ、一種のスポーツだな。何の哲学も感じられないな」とも思ったし、「やっぱ、ヴェートーベンの方が深いな。シェーンベルクの方がカッコ良いな」とも感じた。当り前だが、音楽は時代を下れば良いものになるとは限らない。

グールドの音楽の演奏態度は、音程以外、どのクラシックの音楽家誰もが金科玉条とする作曲家の指示を守らない。楽譜の強弱記号、速度記号、反復記号を守らない。常に守らないわけではないが、自分の判断を優先する。音符の装飾方法も業界の概念を覆して独自な面があるらしい。和音を和音として同時に打鍵することはほとんどなく、10本しかない指で3声、4声を際立たせる。モーツアルトは「クリシェ」(紋切り型でありきたり、新しいものがない)だと批判して、世間に対して挑戦的になり、「こうしたら面白くなるぞ」と上声のメロディーだけだったところに内声の音符を加えポリフォニックに改変した。グールドには作曲家への指向が常にあり、どの曲もその持つ曲の本来の良さ、作曲家さえ知らなかった良さを、従来の演奏方法・観念に囚われず示そうとした。

音楽家は普通、師匠に師事し師匠の言う事を絶対として受け取り、業界の固定観念の中で生きるのが常だ。有名な音楽家への道は、コンクールで優勝することだ。そうして名を知られ、コンサートツアーへ年に何百日も巡る。コンクールで優勝するためには、多くの審査員からまんべんなく票を得る必要があり、優れた感受性や斬新さよりも、そつなくこなす技術が求められる。当然、曲の解釈も個性的なものより平均的で新味がないものになる。こうしてどんな名曲に対しても、ありきたりで、平均的な演奏をする演奏者が再生産されるシステムが出来上がる。

ところがグールドの両親は、コンクールで優勝するための競争は息子を消耗させると考え、コンクールに息子を極力出さないようにし、グールドは自由に自分の頭で音楽を考えるように育った。グールドは母親に10才までピアノを教わったが、やがて母親が教えることができないレベルになる。案じた母親は、10才から19才までチリ人のピアニスト、アルベルト・ゲレーロが教えるように手配した。ゲレーロは生徒に子供を取らない主義だったが、グールドのレベルの高さにすぐ気づき生徒に取ることを引き受けた。ゲレーロに言わせるとグールドは “Unteachable” な生徒だったという。教えようとすると猛烈に反発するために、答えを自分で発見させるように仕向け、単に教えられるよりも自分で発見させるほうがグールドにとってより活性化できると考えたという。プロデビューを果たした後、ゲレーロから大きく影響を受けたのは明らかだったにも拘わらず、グールドは「ピアノは独学でした」と言い張りゲレーロは落胆したが、「それでいいんだ」と落胆したそぶりを見せなかった。

ピアノは打鍵した後、鍵盤を押さえている間、打鍵された音が減衰しながら続く楽器だ。ピアニスティックとかピアニズムという言い方があり、いかにもピアノらしく響かせるという意味なのだが、メロディーをレガートに音価(音の長さ)一杯に引っ張り、メロディーと伴奏をゴージャスに、流麗に弾くのがピアニスティックな演奏である。ところが、2回目のゴールドベルグ変奏曲の録音に関する1982年のティム・ペイジ(TP)との対談では、グールド(GG)は自分の奏法に関して次のように言っている

(GG)「・・僕が大バッハを扱う時の音のコンセプトは、また例の言葉をあえて使うなら、デタシェ(=音と音がつながらない、隙間がある)なんだ。つまり、ふたつの連続した音の間のノン・レガートの状態そのものや、ノン・レガートの関係、ないしは点描画法的な関係が基本なのであって、これが例外的な奏法ではない。むしろ例外的なのはレガートでつなげることなんだ」

(TP)「もちろん、君の主張がピアノ奏法の大前提を覆すことになる点は承知しているよね!?」

(GG)「うん、結局そうしようとしているんだ」(翻訳:宮澤淳一)


このデタシェという言葉はフランス語なのだが、英語は “Detach”(=de-touch 切り離す、分離させる)、名詞形は “Detachment” である。

この”Detachment” が、夏目漱石の小説「草枕」に出てくる。グールドは、「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。 住みにくさが高じると、安いところへ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る」という名文で始まる「草枕」をこよなく愛した。冒頭から芸術と世俗、非人情と人情の対比をして、漱石の「芸術とは何か?」が語られる。「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、難有(有難)い世界をまのあたりに写すのが詩である。画である。あるは音楽と彫刻である」と言う。人情を「苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世にはつきものだ。余も30年の間それを仕通して、飽き飽きした」と言い、これに対して、超然としているさまを漱石は「非人情」と言い、「非人情」の訳語に翻訳者のアラン・ターニーは “Detachment” を使った。「・・・淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、少しの間でも非人情の天地に逍遥したいからの願。一つの酔興だ。 勿論、人間の一分子だから、いくら好きでも、非人情はそう長く続く訳には行かぬ」と言う。グールドは「草枕」を二十世紀小説の最高傑作のひとつだと愛してやまず、従妹のジェシーに電話で全文を読み聞かせたり、晩年にはラジオで「草枕」を朗読する番組を作ったほどで、死後グールドの部屋には多くの書き込みがされた何種類もの「草枕」の翻訳本があり、脚本を書こうとしていたという。

このデタシェの点描画法は「非人情の天地に逍遥」することであり、緊張の弛緩、軽妙なユーモアだ。逆に、レガートは緊張を高める。グールドは、複数の旋律があるポリフォニックな曲では、旋律にデタシェとレガートを弾き分けており、時に交代させ飽きさせない。一般的なピアニストの場合はレガートが基本で、美しく緊張を保つものの一本調子となり飽きてくる。

グールドは、ポリフォニックな対位法で書かれた曲を好んだ。また、子供時代にオルガンを学び足でも旋律を弾くことで、和音であっても自然と和音を分解し、別のメロディーとして捉える。ピアノで各声部を弾くとき、あたかも弦楽四重奏を演奏するように別の楽器が鳴っているように演奏していた。

普段の生活でも、コンピュータ用語を使えばマルチタスク人間だった。レストランでは、近くの席の複数のテーブルで交わされる3つか4つの会話を同時に理解できた。テレビでドラマを、ラジオでニュースを流しながら、スコアを頭に入れ、どれも理解できていたという。彼は対位法的ラジオと言われるドキュメンタリーのラジオドラマ、極北で暮らす人々の孤独をテーマにした「北の理念」などの「孤独三部作」を作ったのだが、5人の登場人物が全く違う内容を語る話声をフーガのように合成したもので、誰も話の内容を理解できないとの批判もあったが、グールドは「私たちの大半は、自覚しているよりもはるかに多くの情報を取り入れる耳を持っている」とライナーノーツに書く。後にはこのラジオドラマのTVバージョンも作られる。

グールドは、誰でも知っている有名な曲は、特に確信犯的にこれまでになかった演奏をした。バッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻第1曲のプレリュードは有名で、ググってみたら大和ハウスと資生堂がCMに使っていた。この有名な曲は、どのピアニストも流れるように優しく美しく弾くのが普通だが、グールドはやはりスタッカートで弾き、度肝を抜いた。変っているが、この曲がもつ良さは伝わってくる。 ベートーベンのピアノソナタ「月光」、これも第1楽章は特に有名だろう。(大和ハウスはクラシックが好きなようで、この曲の第3楽章をCMに使っている)こちらは感情を思い切りこめスローテンポでドラマチックに弾くのが普通なところ、グールドはアップテンポで抑揚をつけず淡々と同じリズムで弾きとおす。それが新鮮で、逆に清潔、潔癖、秘めた激情を感じさせる。 モーツアルトで有名な曲と言えば、「トルコ行進曲」だろう。この「トルコ行進曲」はピアノソナタ第11番の最終楽章なのだが、やはりグールドは破天荒な演奏をしている。下の写真は、「グレン・グールド・オン・テレヴィジョン」に収録されている1966年に行われたハンフリーバートンとの対話だ。この番組でグールドは、自分の音楽観を披露しながらピアノを弾く。これが実に刺激的だ。ごく一部だが、YOUTUBEにその様子アップされていたので、再生していただけたら嬉しい。また、「トルコ行進曲」聴き比べというのもあり、ギーゼキング、グールド、グルダ、バックハウス、ホロヴィッツが並んでいるのだが、グールド以外は軽快な元気さだけが伝わってくるくるのみだ。グールドはこの「トルコ行進曲」を断然ゆっくりと、初めは控えめに弾き始め、徐々に抑揚をつけメロディーの音色を変え、変化を楽しませてくれる。伴奏の和音をことさら崩して弾き、やはり抑揚をつけクライマックスを最後に持ってきているのが良く分かる。主は大いに感動してしまった。

1966年BBC向けハンフリーバートンとの対談

ちょっと長くなってしまったが、この番組の中で、他にもグールドは面白いことをいくつか発言している。自分は偏屈だったので、誰でも練習するこのピアノソナタを弾いたことがなく、どのように弾くか1週間前までアイデアが決まらず、スタジオに入ってもまだ確信がなかった。また、すでに立派な演奏が残されているので、それと同じ演奏をするのではなく、違った演奏をするのが演奏家の務めで、それが出来なければ職業を変えるべきだとまで言っており、次回にでも紹介したい。

おしまい

グレン・グールド 二つのフーガの技法

グレン・グールド(1932-1982)は、J.S.バッハ(1685-1750)のフーガの技法をオルガンとピアノの両方で録音している。この曲は、4段のオープンスコアで書かれており、楽器の指定がないために当時あったハープシコードだけではなく、弦楽四重奏をはじめ、オーケストラや金管楽器でさえも演奏されている。アンサンブルではどの演奏者も目の前の楽譜の音を出す義務を果たそうとし、自己主張を捨て去ることがないので、結果として平板な演奏になりがちだなと主は思っている。

グレン・グールドがこの曲を録音した時期は、オルガンが1962年(コントラプンクトゥス(=フーガ)第1番-第9番)、ピアノが1967年(第9、11、13番)と1981年(同第1、2、4、14番)である。あいにく、どちらも全曲を録音しているのではないが、どちらも十分に聴きごたえがある。というか、グールドが愛したバッハの中で最も評価していた曲であり、両方とも他の演奏者の追随を許さず、傑出している。その二つの楽器によるグールドの演奏だが、オルガンとピアノではイメージが180度違う。

まず、オルガンの方は、速いテンポで弾きとおし非常に聴きやすい。また、オルガンは鍵盤を抑えている間は同じ強さの音が継続する楽器であり、音価(音符の長さ)一杯にレガートで演奏するのが一般的なのだが、グールドはデタシェ(ノンレガート、スタッカート)を基調で始め、終盤の山場に差し掛かるにつれてレガートな奏法も使うことで迫力を出している。オルガン曲といえば、バッハの「トッカータとフーガニ短調」を思い浮かべる人が多いだろう。高音部のメロディーで始まり、轟々と鳴り響く低音のペダルの音で圧倒する。そうした演奏とはあまりにかけ離れているので、グールドの1967年のレコードが発売された時は非難轟々だったらしいが、オルガン演奏のスタイルを覆し、曲全体の良さに感動する。グールドは、どの部分部分を聴いても常に良いのだが、全体を聴いた時に違った発見があるように、楽しめる演奏をする。グールドのこのオルガンの演奏は、第1曲から第9曲まで(終曲は第14番で未完である)なのだが、第9曲にここまでの総決算のような趣があり、クライマックスを迎え全曲を聴きとおしたかのような満足感が得られる。

ピアノの方は逆に、非常に遅い。それも他のアンサンブルやアーティストより圧倒的に遅い。グールドより遅い演奏はおそらくないだろう。遅く演奏することは、テンポを保つことが困難になるため早く演奏するより難しい。グールドはそれができる。それだけ遅く演奏すること、また複数の旋律のうち強調するものを入れ替え、レガートとデタシェの両方で歌わせることで、悠久感というか宇宙の広がりのようなものを感じる。特に未完で終わる終曲の第14番は、3つのパートからなるのだが、パートごとに雰囲気が変わり、天上のメロディーともいえる美しいメロディーが出て来たり、倦むことがない。スコアの上で和音になっていても、同時に鳴らすことはまずない。目立たせたい音をわずかに早く弾き、他の音をずらして弾き、なおかつ、レガートで弾くメロディーとデタシェで弾くメロディーを区別しながら線が繋がっていく。

グールドが1963年にディヴィッド・ジョンソンとの対談で次のように語っている。「・・・ピアノでは、ある特定の声部のうちでは絶対的であるにもかかわらず、しかもなお同じ型のデュナーミク(音量の強弱表現)に一致しないといった、そういう関連性によって思考することができるからです。いい換えれば、ソプラノにある一連の動機をしかじかの強さで演奏し、アルトにある別の動機を、ある小節ではソプラノより3分の1だけ少ない強さにして、ソプラノを支えるためにその下に滑り込ませ、次の小節ではその逆をやる、といったことができるわけです。・・・」

人間の指は10本しかない。しかしながら、その10本の指でグールドは4つの旋律を弾き分ける。強さ、長さを区別して4種類の旋律を弾き分ける。

下のYOUTUBEのフーガの技法第1曲(楽譜は最後にある)を見ていて発見したのだが、アルトから始まり5小節目にソプラノが入ってくる。これをグールドは右手一本で弾き、左手はバスが入ってくる9小節目から弾き始める。右手だけで弾いている8小節の間は、いつものように左手は指揮をしている。

これに対して、次のリンクである福間洸太朗の演奏ではアルトで始まる最初の部分を左手で弾き始め、ソプラノが入ってくる5小節目に早くも右手を使い始める。

もちろん、福間洸太朗の演奏も非常にうまいのだが、この曲に限らず進行するにつれて複雑になる。その時、グールドのように片手で二つの旋律を同時に引き分けることができるというのは並大抵なことではない。というか、こんな演奏家は他にいない。

最後にグールドのモットーというかキャッチフレーズ、彼の芸術観を書きたい。「・・・・芸術の目的は、神経を興奮させるアドレナリンを瞬間的に射出させることではなく、むしろ、少しづつ、一生をかけて、わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくことです」- この「わくわくする驚きと落ち着いた静けさ」は英語の “wonder and serenity” から来ているのだが、一生の目標が単に “serenity” だけでなく”wonder”を伴っているところが、実にグールドらしい。

おしまい

Glenn Gould-J.S. Bach-The Art of Fugue (HD) 広告の音量に注意!

バッハ/フーガの技法 コントラプンクトゥス1・2/演奏:福間 洸太朗

フーガの技法 第1曲

エブリバディ・ノウズ【日本病】その6 韓国に負ける日本 - 最低賃金

日本は病気だと、主は確信している。 昨日(2018/7/27)、政府は、今年度の最低賃金を平均26円、3%を上げることを決定し、10月頃から実施するという。この3%のアップは3年連続で、マスコミは、来年度には首都圏の最低賃金が1,000円を超え、中小企業の経営が心配と書いているが、1日7時間、1か月20日働くとして、3,640円の増加。年にすると43,680円の増加にしかならず、上げ幅は小さく思い切りが悪すぎる。過去に円高不況に対する日本政府の財政支出が、海外から”Too small, too late”と批判を浴びたが、同じ愚を繰り返している。

朝日新聞記事:最低賃金 首都圏は1千円目前? 中小企業は悲鳴

日経新聞:最低賃金、なぜ上げ幅最高? 3つのポイント 経済

新聞紙面を読むと、上げ幅が過去にない大きさで例がなく、経営者目線で経営に対する悪影響を危惧する論調になっている。だが、この3%、26円というのは、あまりにもみみっちい。

さまざまな視点から日本経済に警鐘を鳴らすデービット・アトキンソン(小西美術藝術工芸社・社長)は、日本は世界に例を見ないほど最低賃金の低い国であり、現在の不況の原因の一つに、最低賃金の低さを指摘し、本来の水準は1,313円だと言っている。現状は、約5割低いということになる。中小企業経営者にとって最低賃金を上げることは、支払い給与が増え、経営を圧迫し、大企業に比べて死活問題になりがちだ。しかし、アトキンソンは、日本の企業数は多すぎ、過当競争に陥っているという。経営効率の悪い弱小企業が日本全体の生産性の足を引っ張っているのは間違いなく、生産性の低い企業は、速やかに退場した方が日本社会にとって望ましい。

東洋経済:「低すぎる最低賃金」が日本の諸悪の根源だ 2020年の適切な最低賃金は1313円

デービットアトキンソン

このアトキンソンは、長引くデフレ状況下における日本人のマインドについて、「良いものを安く提供することがよいことだとしても」、「例えば、500円以下で弁当を提供したり、50円で味噌汁を提供することは、デフレ状況にある日本経済にとって自殺行為だ」という意味のことを言っている。

だが現実は、コンビニやスーパーで売られている弁当類は、500円以下で売られている場合がとても多い。 主は、前々から思っているのだが、「サイゼリヤ」、牛丼の「吉野家」、「松屋」などのような極端に安い単価で食事を提供するビジネスモデルが、同業のレストランの経営を駆逐している面があると思っている。同様に、メーカーが文房具店などで高い値段で売っている商品を、100円均一ショップ向けに製品の分量を減らして100円で販売している。このようなことをすると、目先の売り上げを確保することはできても、競争激化と販売価格の低下を引き起こし、大きく儲けることはできないだろう。書籍では、「ブックオフ」という中古本の販売店があるが、消費者の選択肢は増やすものの、出版不況の一因になっていることは間違いないだろう。また、社会のトレンドも変わり、「メルカリ」で中古品を個人で売買したりするようになった。自動車も個人が所有する比率は昔と比べると、はるかに下がっているだろう。 こうしてみると、昭和の高度成長のように、日本国民全員が牧歌的な中流意識を持っていた時代環境は、今後もう来ないのかもしれない。

そうは言っても、アトキンソンが言うように、日本は生産性を向上させる以外に生き延びる術はない。日本の少子高齢化が加速するだけだとしたら、収入と支出の両方の単価を上げるしかない。給与所得のアップと、付加価値をつけて高い単価で販売することをしないと、日本経済はさらにシュリンクするだろう。さもなくば、税収も低下し、福祉への負担で破綻するしかないだろう。人口減少の割合以上に単価アップしないと、デフレからの脱却は出来ない。アベノミクスで2%の物価上昇という一定のコミットはしたものの、結果は出ていないわけで、さらに強いメッセージが必要だと思う。(アトキンソンは、生産性の向上に技術革新せよと言っているわけではない。高い値段で売れ、儲けを得よと言っているだけだ)

経済学の世界で「実質実効為替レート」という概念がある。

現在の日本の為替レートは、1ドル=110円あたりだ。だが、1985年のプラザ合意以前に240円程度だった円は、120円へと急激に円高となった。その後、政府は円高不況に対する財政出動をたびたび行いバブルが起こり、その処理に、大蔵省の土地融資の総量規制、日銀による急激な利上げを行い、バブルははじけ長い不況が続くことになった。だが、この長い不況の間、為替レートは、一部の例外的な時期を別にすると、1ドル=110円程度を保っている。この25年間は、デフレのため日本の物価は上がっていないが、世界を見渡すとデフレの国は日本しかなく、海外諸国の物価はインフレにより上がっている。これを考慮すると、日本の為替レートは、不当に円安になっていると言われかねないのだ。競争力を維持しようと血のにじむような節約の努力がデフレを引き起こし、その日本人の我慢してしまう性格が元で、為替レートが不当に安いと言われる結果を引き起こしている。次のリンクによると、1ドル=75円位が妥当ということになる。 今、日本では、インバウンドと言われる外人観光客の波が押し寄せて来ている。これはリーマンショック後の円高から、円安に変化したことに加え、日本国内の物価が上がっていないために、外人観光客にとって日本は物価の安い国になった(実質実効為替レートが安い)ことが原因だ。 先進国の中で、マクドナルドのハンバーガーを日本のように500円~600円で食べられる国は少ないはずだ。

やはり、デフレは金持ちに対する優遇策であり、貧しい大半の国民にとってはマイルドなインフレと円安の方が、経済成長による所得の向上が期待できるので、望ましい。

「実質実効為替レートで見れば円安が進んでいる」とは?

ところで、韓国は日本より大胆で、過激な政策を実行している。

朝日新聞:韓国の最低賃金835円に 10年で2倍、日本に迫る

韓国は、なんと最低賃金を2017年に16.4%上げ、2018年には10.9%上げるということだ!!もちろん、韓国経済がうまくいっているとは、主は思っていない。日本以上に問題があるのかもしれない。だが、一人当たりの多くの経済指標で、日本は先進国中で最低となっており、韓国文在寅(ムンジェイン)政権の方が、安倍政権より心意気を強く示しているのは間違いがない。政権もマスコミも同様だが、最低賃金をわずか3%上げて「高率のアップ」と言うようでは、あまりにも経営者に都合の良い判断で、情けない。日本の指導者は「八方美人で腰砕け」の「自己チュー」だとしか思えない。野党はさらにだめだ。

参考までに補足すると、日本の最低賃金は、この10年間でわずか2割ちょっとしか上昇していない。

おしまい

 

ロックの話と弦楽四重奏団モルゴーア・クァルテット

2018年7月14日(土)モルゴーア・クァルテットのコンサートへ行ってきた。このモルゴーア・クァルテットは、日本のベテラン演奏者が集まるクラシックの弦楽四重奏団なのだが、主が高校生、大学生の頃に熱中していたロックのうち、イギリス系のプログレッシブ・ロックを編曲演奏してCDをリリースしている。今日のコンサートも前半は、ショスタコーヴィッチなどのクラシック曲で、後半がプログレッシブ・ロックだった。

50年近く前に遡るのだが、このプログレッシブ・ロックのバンドには、ピンクフロイド、キングクリムゾン、エマーソン・レイク・アンド・パーマー(ELP)などがいて、当時はメッチャ新しい音楽で、キラキラ輝いていた。というのは、シンセサイザーが発明され、オーケストラのような音を出したし、どの曲も、ポップスと違って曲が長く、構成もドラマチックだった。また、コンサートではステージで歌を歌うだけでなく、さまざまな照明や煙(スモーク)などの演出も斬新だった。

当時のロックには他にもジャンルがあり、レッドツェッペリンやディープパープルなどのハード・ロック、オールマン・ブラザーズ・バンド、ボブディランが居たザ・バンドなどのアメリカ系のブルースっぽいロックもあった。主がロックにハマっていたのは、高校生の頃だが、各自それぞれに好みの方向性があった。

当時のLPレコードのジャケット(キングクリムゾン)

そういえば、主は思いだした。中学生の時に、フォーク・クルセダースの「帰ってきたヨッパライ」という曲が、日本中を席巻するくらい大ヒットした。当時の音楽はテープに録音され、その再生スピードを上げると、歌った声が高くなり早口になった。それを利用して、フォーク・クルセダースはコミカルな歌を作っていた。13歳の主にとって、この曲を、これまで聞いてきた歌謡曲の革命のように感じて、夢中になって聞いていた。

そのような時代、友人の中学生3人で「幼な妻」という映画を見に行った。その映画は、関根恵子と新克利という俳優が主演していたのだが、女子高生の関根恵子が結婚し「幼な妻」になるという、タイトルも怪しいし、ヌードシーンが出てくるという友人の説得に期待をふくらませて行った。そのヌードシーンは、今考えると子供だましのようなたわいのないものなのだったが、けっこう感動したような気がする。 

その映画の中(だったと思う)のだが、関根恵子の兄だか、弟だか若い男が出て来て、LPレコードをかけるシーンがあった。そのLPレコードから出てくる音楽が、主の知らないもので、衝撃を受けた。それまでに聞いたことのないサイケデリックな種類の音楽で、スクリーンには、見たことのないサイケデリックな映像も流れたと思う。まったく、キラキラ眩いばかりで、まったく理解できなかった。それがロックとの出会いだったと思う。

当然、こうした音楽は最初がビートルズなのだが、日本のビートルズ世代は、団塊の世代にあたる。そのために、主の年代より上の世代が熱狂していた。日本の沢田研二がいたザ・タイガース、萩原健一のいたザ・テンプターズなどのグループサウンズもそうだ。主の時代に流行ったのは、吉田拓郎、井上陽水の時代になっていたが、主の仲間内では、拓郎、陽水を商業主義と軽蔑し、高田渡や加川良などアングラ路線に心酔していた。

こうしてみると、刻一刻と、新しいカルチャーとカウンターカルチャーの両方がドンドン出てきた幸せな時代だったと思う。

ところで、この日のモルゴーアカルテットの演奏だが、300人程度が入れるホールで行われ、バイオリン2台、ビオラ、チェロの4人で行われた。生の音ながら、十分な迫力があり、なかなか良かった。グールドは、コンサートは廃れるだろうと予言したが、自宅で聞くオーディオ装置での再生音が、生演奏の音の魅力には敵わない以上、生演奏(コンサート)は残るだろう。主は、最近音の良いヘッドホンで、マーラーなどの交響曲を聴くのにハマっているのだが、マーラーの良さは、弱音と強音の両方にあり、自宅のステレオで再生する時に強音に合わせてボリュームを合わせると、弱音が聞こえなくなる。こうしたことがあるので、自宅で交響曲をステレオ装置で聞くのは難しい。やはり、生演奏には敵わない。今のオーケストラ団員には、難聴になる人が居たり、耳栓をしながら演奏する人がいると聞く。それくらい、強音と弱音の差が激しいからだ。

おしまい

 

 

エブリバディ・ノウズ【日本病】その5 外国人の発言のほうが面白い!

テレビ番組には様々な日本人の評論家連中がしたり顔で出てくるが、いずれもうさん臭く、お笑いタレントに敵わない。主は、最近いろいろな発言を比べるとき、外国人の方がストレートでずっと新鮮で面白いと感じている。テレビによく出てくる外人タレントは、厚切りジェイソン、パックン(パトリックハーラン)、ロバート・キャンベル、デーブ・スペクターあたりだが、なまじな日本人より気が利いたことを言える。

書店に並んでいる本の中でもそう感じるところがあり、日本人学者の書いている経済学書などは読みたいと思わない。読んで真っ当で、そうだな首肯するのはほとんど外人である。2018年の春の番組改編でなくなってしまったNHK BSテレビの経済ニュース「経済フロントライン」では新鮮な話題を取り上げて毎週見ていたのだが、金融コンサルタントのジョゼフ・クラフトさんが好印象だった。また、この番組には、森永卓郎さんがよく出ていた。オタクに見られている節があるが、リフレ派でけっこうまともなことを言っていた。ただ森永氏は、今年1月の放送で「今が、今年の株価のピーク」とか、「安倍首相は、総裁選で消費税を5%へ引き下げ表明する」と言いたい放題言っていたのが、番組がなくなった原因かもしれない。

経済フロントライン

話がそれてしまったが、主が新書をあっという間に6冊買い、読み易い、聞き書きの手法の新書5冊を読破したエマニュエル・トッドの炯眼ぶりには、驚いた。彼は、クリントンが敗れ、トランプ(民主党の予備選で負けてしまったが、サンダース)の勝利を予想していた。グローバリズムの終焉と国民国家への回帰傾向を予想していた。2018年7月時点の現在、トランプは、あいかわらず日米のマスコミからバッシングされまくっている。米中は、貿易戦争の様相を呈してきたにも拘わらず、マーケットの反応は、意外と冷静だ。中間選挙で勝てば、どのようなことが起こるのだろう。主は、トランプが勝ってら面白いと思っている。

さらに書店やネットでよく目にするのが、デービット・アトキンソン(小西美術藝術工芸社・社長)だ。彼はオックスフォード大学で日本学を専攻している日本通で、キャリアもすごい。アクセンチュアの前身のアンダーセン・コンサルティング、ソロモン・ブラザーズ、ゴールドマン・サックスなどを経て渡日した。生憎、主は読んではいないのだが、「新・所得倍増論新」「新・観光立国論」が書店で平積みのベストセラーになっている。立ち読みしたり、書評を見ただけだが、どちらも現代の日本の病弊をズバリと指摘している。その視点が外人ならではで、本質をズバリつき力強い。このように分析する日本人学者がいないのは、情けない。日本人は「日本人は勤勉だ」、「安くていいものを提供することが大事だ」、「日本は民主的で平等な社会」、「日本の製品、サービスは高品質」などという刷り込みに囚われすぎだ。

2020.9.25追記—–デービット・アトキンソンは、菅新首相のブレーンであるが、竹中平蔵と並び日本の不良債権処理を急がせた人物であり、日本の国債残高に対する立場を明らかにしていない。竹中平蔵と同様に見るべき点はあるが、根本的なところは弱肉強食の新自由主義者だ。グローバリズムや自由貿易に対する懐疑どころか、否定的総括がされる今の現状からすると、彼の提案は、短期にも長期にも、格差を広げるだけだ。

デービットアトキンソン

他には、ケント・ギルバート(読んだことはないのだが、右翼チック?な著述業)がいる。

逆にいい加減なことばかり言っているオオカミ少年の経済系の学者や評論家は、日本人だ。たいていは、財政破綻とハイパーインフレの懸念をセットにして、大声で恐怖を煽る。参議院議員で評論家の藤巻健史、超整理法で有名になった野口悠紀雄あたりか。ピントが外れているのは、デフレ下の日本を「低欲望社会」とみる大前研一。これに似たことをいう人は、結構他にもいて、人口減少と高齢化は社会の成熟であり、デフレはむしろ望ましく、低成長下で心豊かな社会を実現しよういという論調だ。しかし、これは実現不可能な一種のユートピア思想といってよいだろう。1ドル=50円を唱える浜矩子。この人も現政権のアベノミクスに批判的なため、朝日や毎日といったマスコミに相変わらず重用されている。伊藤元重、伊藤隆敏は有名だが、御用学者と言われる。「御用」というのは、財務省べったり(財政再建と消費増税)ということだろう。こういうメジャーな経済学者は、たいてい若い時分に、アメリカの今となってはちょっと古い経済学(小さな政府、合理的に行動できる個人)を学んだ信奉者である。

参考までにリフレ派・非主流派の経済学者、評論家には、浜田宏一、高橋洋一、若田部昌澄、安達誠司、田村秀男などがいる。宮崎哲弥もリフレ派のようだが、機敏に転向した口だろう。

ただ主は、現在の日銀による量的緩和策で大量の国債、株式、リートの引き受けが、財政ファイナンスと批判的に言われたり、通貨発行益(シニョレッジ)という言葉が使われることもある。学者の立ち位置により解釈が違ってくるようだが、ここが肝だと思うので、なんとか調べて書いてみたい。

おしまい

 

「グレン・グールドシークレットライフ」を自分で翻訳してみた!

上の写真の「グレン・グールドシークレットライフ」(マイケル・クラークスン 道出版 岩田佳代子訳 税抜3200円)は、2011年9月に出版されたのだが、段落単位!!でかなりの部分の原文が翻訳されていないのだ。

それなのに、大っぴらに販売しているのだから呆れてしまう。翻訳していない段落は、どの章にも複数存在する。この本は、基本的にグールドの女性関係を中心にする私生活に焦点を当て、インタビューによる綿密な取材をもとにして書かれている。そうした取材には、当時の恋人本人だけではなく、男性の友人やアシスタント、音楽家、プロデューサーなども含まれるのだが、こうした部分はバッサリ翻訳していない。

この本は、「道出版」というところから出版されているのだが、大きなところではなさそうだ。なぜ、出版するにあたって、かなりな割合(15%ほど)を活字にせずに販売したのだろうか。理由は分からないが、原書の全体を翻訳しないで発売することは、音楽ファンに対する背信行為だと思わなかったのだろうか。グールド(1932-1982)は没後36年になるが、人気は今なお健在で、2015年にはコロンビアレコードの正規録音81枚(うち3枚はインタビュー)をテープからリマスターしたCD全集が発売された。昨年はグールドのデビュー録音(1955年)である、バッハのゴールドベルグ変奏曲の製作セッションのテイクすべてを、8枚のCDとLPレコードにして発売された。ここでは、伝説的なアルバムが生み出されていく過程を追体験できる。作品を世に出す過程で作られたテイク集が、売り出される演奏家はグールドしかいないだろう。今なお新発売されるCDも多く、これまでの録音の組み合わせを変え、姿を変えて発売されるだけではなく、テレビ、ラジオやコンサートのライブ録音などが発掘され、手を変え品を変え新発売されている。

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グールドに関する書籍は、グールド自身の著作集、書簡集、発言集、研究者や伝記作家がグールドを分析したもの、写真集、グールドをモチーフにしたオマージュ作品など、これまでに100点近くが刊行されており、ほとんどが、日本語訳が発売されている。死後年数が経っているが絶版とならずに、再販される書籍もあり、2017年はみすず書房の「グレン・グールド発言集」が新装版となり再発売された。

この「グレン・グールドシークレットライフ」は、これまでのゲイではないかとも言われてきた中性的、無性的なグールド像を、根底から覆すインパクトのあるものだ。この本をクラークスンが書いたのが2010年(グールド没後28年)である。グールドは、1982年に50歳でなくなっているので、女性たちがグールドと同年齢であれば、今では86歳という計算にる。このため、実際のインタビューをもとにしたこうした本を出版することは、もう不可能だろう。

グールドは自分のことを「最後の清教徒」と言い、周囲にそのように思わせてきたし、現実にそれは成功をおさめてきた。しかし、実際の彼は、彼が世間に与えようとした「清教徒」のイメージのようなものではなく、非常にドロドロしていたことが、この本を読むと分かる。彼自身には親友が多くいなかったし、まして女性関係はずっと秘密にしてきたため、ほとんど私生活は知られてこなかった。グールドは自分が好まない発言をされると、直ちに関係を断ってきた。このため、関係を断絶されることを望まない友人や関係者は、率直に何でも語るということをしなかった。特に女性関係は、彼がもっとも秘密にしたい最有力で、誰もが見て見ぬふりをした。クラークスンは、没後30年近く経ったということを説得材料にしたのだろう。そして、女性たちの固い口を開かせることに成功した。映画の「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」の元にもなっており、これまでのグールドのイメージを完全に一新した。強調したいことは、この本のように、グールドのないと思われてきた女性関係に焦点をあてた類書は他にないことだ。グールドファン、クラシックファンは外せない。

これほど今なお人気を誇るグールド、この彼の貴重な「シークレット・ライフ」を全部翻訳せずに知らん顔を決め込んで、発売しているのだ!出版社は責任を取ってもらいたい。すぐに版権を放棄して、違う出版社が改めて出版できるようにすべきだ。

おしまい

 

 

ヘッドホン AKG K812 《オーディオ熱》

主は、AKG K812(アマゾンで14万円くらい)というオープンエア型のヘッドホンを約2年ほど前から使っている。AKGは、オーストリアのメーカーで、放送局用の高性能機材で知られている。今ではN90QというDAC内蔵の特殊な製品や、K872という密閉型のさらに値段が高いヘッドホンも発売されているが、このAKG K812がこのメーカーのフラッグシップのヘッドホンといっていいだろう。

AKG K812

以前は、同じAKG社のK701という製品を使っていた。現在2万円弱で売っているが、5年ほど前に買った当時は、もっと高かったはずだ。これをパプアニューギニアまで持って行き、PCに入れた音楽ファイルをDAC経由でよく聴いていた。こちらもけっこう気に入っていたのだが、秋葉原のヨドバシカメラで試しにK812を聴いてみて、その違いに驚かされた。一言で言うなら、本当に自然なのだ。音楽だけを聴くことができ、他の全てを忘れることができる、そんな感じの音だ。

AKG K701

そもそも主は、36年前に没したカナダ人クラシック・ピアニストのグレン・グールドにずっとはまっており、何とか彼の演奏を良い音で聴けないかと悪戦苦闘してきた。彼が生きたのは、1932年から1982年と大昔で、デビュー作のバッハ「ゴールドベルグ変奏曲」の録音は今から63年前の1955年である。当時発売されたLPレコードはモノラル録音で録音状態がよくない。1958年頃からステレオ録音となるが、やはり録音は良くない。また、ラジオやテレビの録音も残っているのだが、レコードより悪い。

ただこの悪い録音であっても、良いオーディオ装置を使って、録音されたデータを余すことなく再生できるとけっこう聴ける。このため少しでもよい音で聴きたいと願って、オーディオ熱、ハイレゾ熱の世界に足を踏み込んできた。

先にも書いたが、このK812は、さすがリファレンス機だけあって最高の音を出す。主は、スピーカーにB&W 805D3を使っているのだが、1組90万円近い値段がするのもあって、こちらも最高の音質だと思っている。この音質だが、何と比べて高音質かというと、つまるところ、コンサートホールの生演奏と比べてということだ。

この805D3だが、器楽曲や小編成のアンサンブル、例えば弦楽四重奏や、ダイナミックレンジの低い古楽器合奏などでは何の文句もないのだが、さすがにオーケストラになると苦しい。オーケストラのフォルテッシモのトゥッティ(全奏)では、モコモコ感が否めない。

B&W 805D3

ところが、ヘッドホンK812は、この上を行く。どの楽器の音も明晰で、オーケストラの配置に奥行きが感じられる。マーラーは、交響曲の中でも大編成で知られるが、その交響曲でティンパニが轟音というべき強音を鳴らした時でも、他の楽器の音がちゃんと聴きとれる。もちろん、弱音であっても、クリアに美しく再現する。その繊細な音に胸がドキドキする。オーケストラが奏でる、何とも言えずに美しい和音の響きのハーモニーに感動する。さまざまな楽器が入れ替わり立ち代わり旋律を奏で、作曲者の曲の構成の妙に驚かされる。この素晴らしい環境が自宅で手に入るというのは、実に素晴らしい。他に代えがたい。たゆたうマーラーのハーモニーの美しさと、耳を澄まさないと聞こえないピアニッシモから、爆発するような轟音とどろくフォルテッシモへの変化に圧倒される。この体感なしに、マーラーは語れないだろう。

スピーカーのB&W 805D3では、オーケストラが弱音のピアニッシモの時には、せっかくの美しいハーモニーが聴きとりにくくなり、轟音が鳴るフォルテッシモの時には、どの楽器が同時に鳴っているのかわからなくなる。中程度の音量の時にのみ、バランスが取れて良い感じだ。

主は、ジャズも結構好きで、一時はキースジャレットをよく聴いた。マイルス・デイヴィスもよく聴く。このヘッドホンでジャズを聴くと、臨場感が半端なく、このCDには「えっ、こんな音も録音されていたの!!」と驚くことがたびたびある。

こうしてみると、クラシック音楽を自宅のオーディオで忠実に再生しようとすると、それなりにお金がかかるのだろう。B&Wの一番高いスピーカーは、1組425万円するが、世の中にはこれよりも高いスピーカーも当然ある。音響を問題にすると、部屋も当然問題になるだろう。結局のところ、そうした問題を避け、良い音を聴く安上がりな方法は、ヘッドホンを使うということだろう。

おしまい