アマゾン凄すぎ!! ジェフ・ベゾス凄すぎ!!

主は、数年前からAMAZONが、便利で値段も安く、使い勝手も良いので、日本の小売業が、巨人を前にした小人のように駆逐されないかと心配している。AMAZONは、ありとあらゆる商品を扱いながら、その価格が安いだけではなく、ビデオプログラムや音楽の配信、電子書籍のKINDLEなども手掛けている。AMAZONは、アメリカの小売業に壊滅的な悪影響を与えているとトランプ大統領が噛みついているが、主はトランプ大統領を評価しているわけではないものの、この指摘は正しい。もっとも、AMAZONのCEOのジェフ・ベゾスは、トランプ大統領に批判的な記事を掲載するワシントン・ポスト紙も持っていて、このためにトランプが噛みついているとも言われている。

ところで、主はパソコンの組み立てが趣味で、さまざまなパソコンパーツをあちこちから買っている。昔は、秋葉原まで足を運んだものだが、今はネット通販で買うことがほとんどだ。この値段なのだが、ほとんどの商品で、AMAZONが最安なことが多い。こうしたパーツは、秋葉原に店を構える専門店のパソコンショップが得意なはずなのだが、値段では両者が拮抗しており、AMAZONがプライスリーダーで、パーツショップは追随しているように見える。実際のところ、その販売力にものを言わせ、AMAZONは、価格と品揃えでAMAZONが不利にならない「最恵国待遇(MFN)条項」を付けた契約を納入業者に求めてきたし、公正取引委員会が是正を求めたこともあるのだが、ずっと後手にまわっており、長い時間放置されてきた。

ドスパラ

主のパソコンの組み立てなのだが、昨年1月、秋葉原にリアルな店舗を構える”ドスパラ”というショップから、通販でマザーボードを買った。このマザーボードを使って新しいパソコンを組み立て、動き出したのだが、ネットに繋いだら、新しいBIOS(バイオス)というプログラムが出ていることを知り、こちらにバージョンアップした。そうしたところ、うんともすんとも、電源も入らなくなってしまった。そこで、ドスパラへ電話し、オペレータに事情を話したら、あっさりマザーボードを交換してもらえることになった。このとき、宅配業者が買い手である主のところまで動かなくなったマザーボードを取りに来てくれ、その時の対応に感心した。

アマゾン

似たようなことが、AMAZONでもあった。購入したのは、ソフトのWINDOWS10である。主は、値段が安い代わりにサポートを受けられないDSP版をいつも買うことにしている。ところが、この商品が届いた時に、間違えて注文したと思って、一度返品手続きをしたのだが、しばらく考えて間違っていなかったことに気づき、返品手続きの取り消しを行った。この一連の、届いた商品の返品と、返品の取り消しをネット上で行ったのだが、この画面上の操作が、実に行き届いており、この面倒でややこしい取引にもかかわらず、メールを書いたり、オペレーターと話しをすることもなく、スイスイできるのだ。

今回再び、同じような感覚を持ったことが起こった。

KINDLE

主は、グレングールドの女性関係にを書いた”the secret life of Glenn Gould”という本を読むのに、PC版 KINDLEを使っている、KINDLEは知らない英単語にカーソルを合わせると、日本語訳(プログレッシブ英和辞典)が表示されて、ユーザーは辞書を引く手間が省ける。ところが、最近のバージョンアップで、バグ(プログラムのミス)があり、日本語訳が表示されなくなってしまった。

主が、この現象をAMAZONのカスタマーサービスに問い合わせたところ、1回目は「バージョンアップでバグがあり、次回のバージョンアップまで待ってください」と返事があった。次回のバージョンアップは何時なのかと再度メールを送って照会したところ、「古いバージョンを送るので、次のバージョンアップまでこちらを使ってください。次回のバージョンアップは、1~2か月かかる見込みです」と返事があった。この間のメールのやり取りは、非常にレスポンスが良いのだ。メールを書いた翌日には、返事が返ってくる。その内容も、ユーザーの立場に立ったもので、木で鼻を括ったお役所仕事的なものではない。AMAZON恐るべし!

本の購入でもAMAZONには、凄いところがある。検索すると絶版になっている中古の本を買うことができる。主はグレングールド・オタクなのだが、没後36年も経っているので人気があるとはいえ、絶版になった書籍も多い。この中古本は、人気がある本を別にすると、大抵の本は人気がないので、送料だけで買えることが多い。設定されている送料と実際の送料には差があり、それが中古書店の儲けになるらしい。これをググって、通販のAMAZONでタダ同然で買えるということは、こんなに有難いことはない。

このように消費者志向を徹底的に極めているAMAZONだが、既存の小売店にとっては、脅威以外の何物でもないだろう。マーケットで高いシェアを誇るAMAZON抜きで、商売はできないだろう。だが、その取引を行うためには、最安の価格で、最高の品揃えで納入しなければならない。値引きをして売り上げを計ろうとすると「協力金」をAMAZONから求められるという報道もある。消費者には、便利でありがたい存在なのだが、競合する小売業者にとっては、販売利益を確保できないようにする、自分で自分の首を締めさせるような巨人だ。

おしまい

 

「夫のちんぽが入らない」こだま / 扶桑社

何で見つけたか忘れてしまったが、「夫のちんぽが入らない」という本があり、話題になっているということでネットで購入して読んでみた。もともと近所の書店で探したのだが見当たらず、パートと思しき女性店員にさすがこの書名を口に出して訊ねるのは、主といえど出来なかった。

表紙は次のようなもので、活字が薄く、「大きな声で言うのは世間様に申し訳ない」という感じを多少、出しているのかもしれない。だが、帯には映画と漫画にもなるとあった。

次が扶桑社のホームページからのコピーである。このコピーには「私小説である」と書かれているが、読んでみてけっこう普遍性があり、私小説を読んでいる矮小な感じはなかった。

“夫のちんぽが入らない”衝撃の私小説――彼女の生きてきたその道が物語になる。2014年5月に開催された「文学フリマ」では、同人誌『なし水』を求める人々が異例の大行列を成し、同書は即完売。その中に収録され、大反響を呼んだのが主婦こだまの自伝『夫のちんぽが入らない』だ。同じ大学に通う自由奔放な青年と交際を始めた18歳の「私」(こだま)。初めて体を重ねようとしたある夜、事件は起きた。彼の性器が全く入らなかったのだ。その後も二人は「入らない」一方で精神的な結びつきを強くしていき、結婚。しかし「いつか入る」という願いは叶わぬまま、「私」はさらなる悲劇の渦に飲み込まれていく……。交際してから約20年、「入らない」女性がこれまでの自分と向き合い、ドライかつユーモア溢れる筆致で綴った“愛と堕落”の半生。“衝撃の実話”が大幅加筆修正のうえ、完全版としてついに書籍化!

主は、この本を読みながら「そんな悩みがあるなら、医者に行って相談すればいいのに。じれったい!」と思っていた。しかし、著者のこだまさんは、「人間には他人から見ると不合理な悩みで、解決策を探そうとしないのは本人の怠慢に思えるかもしれないが、必ずしも合理的に行動できない不条理があることを描きたい」という趣旨のことを言われていた。

そう考えると、この本に書かれていることは、すべてが筋道立てて繋がっている。結構小さいことでも、本人には大きく、その小さな障害を乗り越えるのが困難な場合がある。若いと経験が少ないし、考え方も世間に毒されているかも知れない。年を取っていれば躓かないようなことに、若い人は色んなことに必要以上に躓いてしまいがちだ。それを自己責任と評論家のように言うのは、野次馬とかわらない。人間はそういう意味で壊れやすい。

なお、こだまさんは次作、「ここは、お終いの地」も出されている。こちらも、独特で面白い。ブログに感想を書かせていただいた。

おしまい

「グレン・グールド、音楽、精神」ジェフリー・ペイザント 訳:宮澤淳一 音楽の友社2007年

上の写真の「グレン・グールド、音楽、精神」(ジェフリー・ペイザント 宮澤淳一訳 音楽之友社)は、グールドの生前に書かれた、世界最初の単行本である。これは非常に良い本だった。内容の方は、あまりに盛りだくさんなため紹介しないが、主には新しい発見が山のようにあった。加えると、遅まきながらで申し訳ないが、おそらく、グールド好きならまず押さえるべき最初の本だと思う。

ここでは、この本の出版と再版の経緯や、気づいたことを書きたいと思う。

FACEBOOKから

ジェフリー・ペイザント(1926-2004)は、本書の裏に書かれている略歴によると、カナダ東部のハリファックス生まれで、トロント大学で博士号をを取得し、長年同大学哲学部で美学を講ずるとある。グールドとは、ゴールドベルグ変奏曲が発売された1956年の秋にグールドに論文を依頼したことが、二人の交流の最初である。その後は、会えば挨拶を交わす程度で、密接な関係ではなかったようだが、おひざ元のトロントでグールドの活躍を間近で見ていたはずだ。

次に、ペイザントがこの本を書こうと思った動機。彼は、第6版(第6版はグールドの死後になる)の前書きに次のように書いている。「・・・当時のグールドは、自分の(ときに奇妙な)考えをエッセイや各種メディアの台本の形で公表し始めてから、すでに20年を費やしていた。著作は恐るべき量にのぼっていたわけだが、数名の評者に嘲弄されたのを除けば、ほとんど無視されてきたし、著作全体が厳密に検討されたためしは一度もなかった。このギャップを埋めたい。それが本書を書いた動機である」

グールドの死は1982年だが、初出版は、生前の1978年春である。ペイザントが着手した時期は、宮澤淳一氏のあとがきによると1974年9月からで、ペイザントは、執筆にあたって自ら4つの制約というか条件を課していた。すなわち、①執筆は公にされたものを題材にする ②グールドと出版まで会わない ③グールドは原稿を見ることができ、中止させる権利がある ④事実関係の確認にグールドが応じる というのがそれだ。

この4条件の結果、グールド自身が驚くほどの明晰な分析となっており、グールドが亡くなる直前に「あなたの本が私を変えた」と語るほど、読者のみならずグールド本人に、影響を与えたということが非常に興味深い。宮澤氏は、あとがきで次のように書いている。「(グールドが)分析され、肯定され、高められた自分と対峙することで、何かに気づいてしまったのであろうか」

グールドの演奏は、ほとんど常に高く評価された。ただし、もちろん『正統派』の人たちは常に批判したのだが、グールドの演奏に心酔し、救われたファンのほうが圧倒的に多い。

他方、彼の発言や著作がメディアで取り上げられた場合、それには、時として厳密な一貫性がなかったり、部分的に冗談があったり、奇妙だったり常識外れな面が、一部とはいいながら、あるのは間違いなかった。このため、専門家や評論家からは、良くてバッシング、ほとんどの場合は無視されるのが常だった。一方で、ヒポコンデリー(心気症)で薬物依存症のグールドには、そうした批判や無視は耐えがたかったはずだ。そうした位置に置かれたグールドを、ペイザントが一から丁寧、真剣に、是々非々、かつ大局的にこれまでの発言や著作を解釈し直したことにより、彼自身が整理できていなかった矛盾点を、整理できたのではないか。

ペイザントは原稿を書き上げた時に、二つの出版社と交渉する。一つは、アメリカの大学の出版局、もう一つは一般向けの出版社だった。ペイザントは一般向けの出版社を選ぶのだが、「これは原稿に手を入れて、哲学や心理学の調子を抑えることを意味していた」と書いているように、編集者から、哲学や心理学は一般向けではないと判断され、省かれているからだ。おかげで、最初の出版は、読みやすいものとなっている。そのせいがあるのかもしれないが、この本はベストセラーとなった。

その後カナダでは、出版社が何度か潰れたこともあって、1984年に新版が出されることになり、これまで割愛されていた部分が補遺Aとなって、新版に加えられた。日本では1981年に「グレン・グールド – なぜコンサートを開かないか」というタイトルで音楽之友社から翻訳出版されロングセラーとなるのだが、2007年に翻訳者が宮澤淳一氏に代わり、氏が集められたペイザントの論文を新たに加えた補遺Bも加わり、新訳・増補版が出された。

こうしたことから、この本は「日本の読者へ」で始まり、「前書き」が3つあり、「後書き」が2つ、「訳者あとがき」があり、本文の他に、補遺A、補遺B、注、文献目録、ディスコグラフィーA,B、があるという盛沢山さである。注釈など非常に厳密なものであり、これを辿っていけば原典に容易にあたることができるだろう。本文もさることながら、補遺もとても読みごたえがある。帯に書かれているとおり、「今なおグールド研究の最良の基本書」だ。

おしまい

グレン・グールド・ギャザリング その4 宮澤淳一さんのトークショー

12月15日(金)に行われたグレン・グールド・ギャザリング(Glenn Gould Gathering = GGG)の一環で行われた宮澤淳一さんのトークショーのことを書いてみたい。宮澤さんは、ライブに先立ち、13日~14日にカナダ大使館で上映されたグールドに関連する映画5本すべての解説をされた。ご自身でも、吉田秀和賞を受賞した「グレン・グールド論」(2004年 春秋社)を書かれている。また、今年でグレン・グールドに関する書物は、85冊が刊行されているとのことだが、日本語に翻訳されたものの半分は、宮澤さんが翻訳されていると思う。また映画など映像の字幕の翻訳は、ほぼすべて宮澤さんが監修されているのではないか。日本のグールド研究の第一人者であるだけではなく、世界の第一人者だ。

では、メインイベントの宮澤さんから伺ったお話の主なところを紹介しよう。下が、トークショーが行われた会場の様子だが、開始時には満席になっていた。

まず最初に、おっしゃっていたのは、クラシック音楽の特殊性あるいは伝統のことだ。つまり、クラシック音楽は、ずっと作曲者が一番偉くて、演奏者は下。聴衆はさらに下という歴史があった。(この言い方は、ちょっとデフォルメがあると思うが、喩えとしては分かりやすい)。作曲者が王で、演奏者は家来、聴衆は臣民という位置づけで、仮に作曲者がなくなっても、演奏者は作曲家のことを尊重するのは自明のことだ。(そういう教育が音楽大学でずっと行われてきたはずだ)。それが、曲の言い表し方に端的に表れている。クラシックでは、誰が演奏しようと作曲者と曲名が表記される。例えば、「ベートーヴェンの交響曲第5番」と言われる。付随的に、バーンスタイン指揮、ニューヨークフィルというのが説明的に出てくるが、曲名はあくまで「ベートーヴェンの交響曲第5番」だ。これが、ポピュラーやジャズ、歌謡曲であれば、「マイルス・デイヴィスのカインド・オブ・ブルー」がタイトルになり、そのものズバリである。

ところが、グレン・グールドは正統的なクラシックの演奏家とはまったく違った。ケヴィン・バザーナが「グレン・グールド演奏術」で明らかにしているように、グールドは音程と長さは守っているものの、それ以外のテンポ、強弱、アーティキュレーション(フレーズの作り方)、装飾音、反復記号など、作曲家の指示があっても自分の考えを優先し、囚われていない。さらには、モーツァルトのピアノソナタなどで低音部に音符を足して、低音部に別のメロディーラインを作っている。これが、「再」作曲家と言われる所以だ。

映画「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」で、不倫関係にあったコーネリア・フォスが、グールドのバッハ演奏を次のようにいう。 : 「グレンの演奏は、いわば楽曲を組みなおした感じね。分解した時計を元どおりでなく別の形にしたのよ。時計は動くけど全く異質のものになった。音楽に対する前例のない画期的なアプローチだったわ。私はあまり好きじゃない。バッハの良さが台無しだと思った。でも音楽家は衝撃を受けたでしょうね。演奏技術はすばらしかったわ。見事だった」

同じ映画でチェリストのフレッド・シェリーはいう。 : 「作品と作曲家の内面に侵入し、その反対側に突き出た。作曲者に対する共感を通り越し、作品を完全に乗っ取っていたと思う。自分の個性に塗り替えたんだ」

グールドが、このような演奏態度をとった理由をいくつか宮澤さんは上げられていた。そのうちの大きなものとして、グールドは作曲家でもあったことを指摘されている。すなわち、グールドがニューヨークでデビューし、コロンビアレコードと専属契約した1955年は当時22歳で、「ゴールドベルグ変奏曲」を録音した時期でもあるが、「作品1番 弦楽四重奏曲」を完成した時期でもあった。こうした彼は、他の作曲家が書いた楽譜を作曲家である自分の目で見ていた。こうした態度をとるクラシックの演奏家は、他にまったくいないわけではないが、ここまで徹底した態度をとり、それが説得力を持ったのはグレン・グールドだけだろう。

そうしたグールドは、レコードが爆発的に売れ、一夜にして世界一流のピアニストになった。そのため、世界中を演奏旅行する期間が1964年(32歳)まであった。その後は、よく知られているようにスタジオから自分の「再」作曲家としての試みで挑戦を続け、彼本来の作曲活動は、結果的に十分にできなかった。

こう言われると、彼の特異な演奏については「やっぱり、そうだったんだ!!具体的な証拠があるのね!」という風に感じる。

ところで、カナダ大使館は巨大だった。上の3枚の写真は、カナダ大使館の外側から撮ったもの、4階のロビーへ向かうエスカレータ、地下2階にある、GGGの映画が上映されたオスカー・ピーターソンホールの入り口受付の写真だ。カナダ大使館は実にでかい!欧米の大使館は、ずいぶん立派だと思う。日本の海外の大使館と、比べ物にならない。いろいろ税金を使っている関係で、あれこれ言われるのだろうが、この大使館をみていると日本ももう少し頑張ってもいいような気がする。

おしまい

グレン・グールド・ギャザリング その3 ライブ(坂本龍一、フランチェスコ・トリスターノ)

12月13日(水)~12月17日(日)、グールドへのオマージュ(尊敬)というべきグレン・グールド・ギャザリング(Glenn Gould Gathering = GGG)という催しが開かれている。そのメインとなるのが草月ホール(青山一丁目)で行われている坂本龍一、フランチェスコ・トリスターノ、アルヴァ・ノト、リクスチャン・フェネスによるライブである。

この催しは、グールドの関連映画の上映や、グールドにまつわるトークショーとライブがあり、キュレーター(展覧会を企画する人)が、坂本龍一氏である。主は、9月頃に先行予約のチケットをとろうとしたのだが、抽選にはずれて全く取れなかった。そのため、一般販売が始まる時刻をカウントダウンしながら待ち、宮澤淳一氏によるトークショー(1,500円)とライブ(8,500円)のチケットをようやく1枚ずつだけ手に入れることができた。3日あるトークショーの他の日のチケットも取りたかったのだが、次につながった時には、すでに売り切れで買えなかった。グレン・グールドは没後35年で、主はこれほど人気のあるプログラムだとは思っていなかった。

ところで、下の写真は草月ホールの入り口すぐのGGGのパネルを撮った写真だ。

こちらが12月15日(金)、草月ホールのライブ会場の様子。写真では空席があるが、実際は満席になった。スクリーンにグールドが生きた時代のカナダの様子などが写されていた。演奏が始まると、抽象的な画像になるのだが、昔懐かしい大阪万博を思い出した。リーフレットには、「還元主義」「実験音楽」「ビジュアル」「独特な世界観」「概念的」「クラシックと電子音楽の融合」という言葉が並び、全くその通りなのだが、こうした種類の音楽は何十年も前からある音楽で、主は一言で言えば、「環境音楽」という言葉を想起した。

冒頭は、バッハの「フーガの技法」から未完となった最終第14曲、主がとても好きな部分を、坂本龍一が照明の落ちたステージで静かに演奏した。これでいやがおうにも主の期待が高まったのであるが、約2時間ずっとだらだら演奏が続き、途中、バッハ以前の作曲家であるバードだったか、ギボンズだったかの曲がアコースティックピアノで演奏された時と、現代ジャズ風に盛り上がった時だけ、「いいな!これからどうなるのだろう!?」と思ったが、基本的に誰かのオマージュ(芸術や文学において、尊敬する作家や作品に影響を受けて、似たような作品を創作する事)というのは難しいものだと感じさせられた。CDでもグールドのオマージュ作品が、何点か出ているのだが成功しているものは少ない。なお、氏はオマージュという言葉は使わないで、「リモデル/リワークを披露する」という表現をしている。

また、主はこのライブに先立ち宮沢淳一さんのトークショーを聞いたのだが、その中でグールドの作曲したものを何曲か披露するとの情報があった。そのためそれを期待をしていたのだが、実際のライブではそのようなことはなく非常に残念だった。

ただ、この一連の催しは、坂本龍一氏の人気や評価に大いにあやかっていることは間違いない。これだけ人を集められたのは、彼の功績だ。また、演奏後には観客の非常に大きな拍手が起こり、この種の音楽を好きな人には良い演奏会だったのだろう。

また、同じ3日間の日程で、草月会館の入り口のプラザでカナダ人でグールドに影響を受けたコンポーザーのLoscilが、スペシャルライブを行った。写真はその様子である。このプラザは非常に大きな空間なのだが、草月流の生け花を感じさせる、巨石で構成されたバブリーな作りで、近くに行ったならこれだけでも見に行く価値のある場所だ。

写真に写っている観客は少なく見えるが、実際はかなり盛況だった。主がおそらくグールドの映画の中で見たのだと思うが、彼に影響を受け、新しいものを作っているLoscilの姿を見たことがある。結構ユニークな人だったように思う。惜しむらくは、時間の都合で主がちらっと前を通り過ぎただけだったことだ。

おしまい

グレン・グールド・ギャザリング その1 ローン・トークとエドクィスト

12月13日(水)、建国150周年を記念したカナダ大使館で、5日間の日程でグレン・グールド・ギャザリングという催しが始まった。グールドはそれほどカナダにとって、偉大な有名人なのだ。この催しは、青山通りに面したカナダ大使館と公園をはさんで隣接する草月会館の2か所で行われている。このグレン・グールド・ギャザリング(Glenn Gould Gathering = GGG)の主催は、朝日新聞社なのだが、カナダ大使館が特別協力し、大使館で無料映画の上映やミニライブなども行われる。メインは、12月15日(金)~12月17日(日)の3日間、草月会館で行われるライブと関連の深い人たちによるトークショーだ。なお、キュレーター(展覧会を企画する人)は、坂本龍一氏である。

下の写真は、12月13日(水)に草月会館で撮ったものだ。主は、カナダ大使館の地下ホールで上映されたグールド研究の第一人者の宮澤淳一さんの解説による、無料映画を2本見てきた。この2本の映画の上映の合間に時間があり、草月会館の2階(下の写真)で流されていた「グレン・グールドについて」(2017年11月トロントにて)という映像(インタビュー映画)を見ることができた。

このインタビュー映画は、グールドの仕事を支えてきた二人の裏方である録音エンジニアのローン・トークと調律師のヴァ―ン・エドクィストのインタビューからなっている。グールドは、1982年に50歳の生涯を閉じ、今年は没後35年にあたる。そのため、現在存命する周囲の友人や関係者たちは、かなりの高齢であり、このインタビューは今年の11月に撮られたもののようだが、登場する二人は、ともにお爺さんだ。だが、生きて証言してくれるだけでファンにはありがたい。配られていたリーフレットには、このインタビュー映画の説明が次のように書かれている。

「CBC(カナダ放送協会)の録音エンジニアで、グールドの仕事も多数手がけた友人でもあったLorne Tulk(ローン・トーク)とトロント・オーディトリアムでの録音セッションでトークとともに仕事を担当した調律師のVerne Edquist(ヴァ―ン・エドクィスト)。グールドの活動を影で支えた2名の最新インタビュー。」(2本で50分)

まず、エドクィスト(86才):下がの写真が調律師のエドクィストだ。彼は「グレン・グールドのピアノ」(筑摩書房 ケイティ・ハフナー 訳:鈴木圭介)という本に、主な登場人物として出てくる。視力が極端に弱かったので、盲学校で調律を学んだのち、調律師になる。若くして実力を認められる。映像の中で、エドクィストは調律に慣れてくると一日に10件(軒)はこなせるようになり、それは完璧なチューニングではなく、おおざっぱに基本的な部分を押さえただけだけのチューニングだという。グールドの場合は、毎回、二時間かけて完璧にやっていたという。

グールドはずっと専属契約を結んだスタンウェイのピアノを使っていたのだが、彼はピアノの選択には非常にこだわっていた。タッチの浅い、アクションの敏感なピアノを好んだ。グールドはCD318というスタンウェイのピアノを好んで使っていて、アメリカ公演の際にはそのピアノをわざわざ運搬していた。また、望むタッチを実現するために、アクションにさまざまな改良を繰り返した。こうした時にエドクィストは、大いに働いたはずだ。だが、このCD318は最終的に、輸送中の事故で壊れてしまう。その後は、既存のピアノのを探し求め、改造を試みるのだが、なかなか気に入ったものにならない。そうしたときにも、エドクィストは腕を振るったはずだ。

ところで、最晩年の「ゴールドベルグ変奏曲」の再録音には、YAMAHA のコンサートグランドを使ったのだが、YAMAHA という文字が見えないようにするためだと思うのだが、鍵盤の先にある饗板を外していた。しかし、こうすると弦がむき出しになっているのが見え、かなり異形ともいえる姿だ。ただ、主は日本製のピアノが使われたと知って嬉しいということはある。

エドクィストは次のように言う。

グールドは、444HzのAの音が好きだったのは知っていたので、そのように調律していた。彼は完璧主義者だったが、レコードになっているものの中には完璧に調律されていないものがあり、よく聞くと唸りが聞こえるものがある。

録音作業を終えて、イートン・オーディトリウムを出る際にグールドが、鍵が見つからないと言い出したことがあり、結局、最終的に見つかるのだが、グールドは本当のところ、鍵のありかを知っていてそういうことを言っていたかも知れない。

私が、出身の田舎を話題にする定番のジョークを言ったら、グールドはすぐに察して笑ってくれた。職場はジョークを言い合って、楽しい雰囲気だった。ただ、グールドが言うことに対して私は反論はせず、グールドが言いたいことは言わせておいた。

次に、ローン・トーク(78才)。なお、写真のセリフは、グールドを語る際によく話題になるテープの切り貼りを話している場面だ。

グールドは、人間より動物の方が好きだった。

仕事を通じて親友になった私に、義理の弟になって欲しいというグールドが言い出した。この発言は2~3年間続いた。私はずっとあいまいな返事をし続けていた。最後にいよいよグールドが本気になって、弁護士に相談したり、役所へ行こうというので、私は兄弟の了解をとらないとならないと返事し、彼はようやく諦め、その後その件は何も言わなくなった。

録音作業は、第1楽章を録音したあと、何か月かのちに第2楽章を録音するといったことをしょっちゅうしていた。このため、マイクの位置を決めるのにグールドとずいぶん試行錯誤したが、いったん場所を決めるとその位置を動かすといことは一切しなかった。おかげで、録音されたものについてはマイクの位置の問題は起こらなかった。

前述のCD318でバッハの「インベンションとシンフォニア」という曲集を録音するのだが、CD318のメカニズムをそれ以前にさんざんチューニングしていた。グールドはレスポンスが改善され、改良が気に入るのだが、これを録音する際「しゃっくり音」が良く起こった。しゃっくりのような余分な音が入ってしまうのだ。しかし、グールドは、その「しゃっくり音」がどこの場面で起こったか、正確に完璧に覚えていた。このため、その前後の小節だけを再び演奏して、私がテープを差し替える作業をした。

グールドの記憶力に関して、私が「ある本のどこどこに、こう書いてあった」とかいうと、グールドは「ああ、何ページの上の方に書いてあったね」という風に答えを返した。実際にそれが正しいかあとで確認すると、そのとおりの場所に書かれており、もっと驚かされた。

グールドは、絶対にピアノに楽譜を置かなかった。モニタールームで楽譜を見ていることはあったが、モニタールームを出るときに楽譜はそこに残し、ピアノは必ず暗譜で弾いていた。恍惚となって弾いているように見えるが、頭の中では、極端に演奏に集中しているというより、漠然と虚空を見ていたんだと思う。

おしまい

 

 

 

LG 4K 32インチディスプレイ購入 32UD59-B

 

これまで韓国LGのIPSパネル 24インチディスプレイ(1920×1080)を使ってきたのだが、やはりLGの32インチ4Kディスプレイを購入した。型番は、32UD59-Bというモデルだ。

主は、もちろん日本製品のファンだ。しかし、昔と違ってパソコン関連製品のうちディスプレイは、完全にLGやサムスンといった韓国製、LENOVOをはじめとする中国製と、フィリップス、デルなどの欧米製品に席巻され、昔のMitsubishi、NEC、富士通といった日本の会社は影が非常に薄い。パーツ類でも、マザーボード、メモリー、CPUなどアメリカ、台湾、韓国ばかりで日本製品は圧倒的にシェアが少ない。日本製品のメーカーとして名前が良く出てくるのはバッファロー、IOデータなどで、残念ながらカテゴリーとして無線LANのアダプター、増設用のハードディスクくらいしか思い浮かばない。そのため、主は液晶ディスプレイになって以降、ずっとLG製品を使っているような気がする。

4Kディスプレイ(3840×2160)は表示領域が、従来のディスプレイ(1920×1080)と比べて4倍広くなるのはもちろんだが、今ではずいぶん値段も安くなっている。それで、買いたいと思うと欲求を押さえられないのがいつもの主である。

調べてみると、従来と同じくらいの24インチ程度のサイズの4Kディスプレイは当然ながら、文字が小さすぎて見づらいようだし、机の上で接近して画面をみるには40インチ~50インチのものは大きすぎるように思えた。それで中間的な32インチのサイズを選択した。ざっくりだが、横幅が32インチで75センチほど、43インチだと1メートルくらいになる。

最終的に主が選択したディスプレイは、LGの32UD59-B(約5万6千円)という商品だ。このの機種には、ほぼ同時期に32UD99-W(約10万1千円)と43UD79-B(43インチ・約6万3千円程度)の3種類発売されている。

32UD99-Wは、HDR10というパソコンのモニターでは新しい技術を使っており、画面の濃淡が従来より大きく、鮮明に見えるのが売りだ。また、パネルを斜めから見ても綺麗に見えるIPSモニターという種類だ。主が買った32UD59-Bは、HDR10の機能がなく、IPSでもない、VAという種類のモニターだ。VAは斜めから見るとイマイチだが、正面から見るとIPSモニターより綺麗ともいわれる。43UD79-Bは、HDR10の機能はないが、IPSモニターでサイズが43インチとテレビ並みの大きさがある。

主がモニターを4Kにしようとした動機は、ここ最近、PC版のキンドル、ワード、Google翻訳のネット画面の3つを同時に開いて英文の翻訳作業をしている。この作業にアプリを3つ同時に開くと、従来のディスプレイでは画面が小さく、けっこうストレスなのだ。それとは別に、グレン・グールドというカナダ人ピアニストの映画や、カナダ放送局のテレビ放送番組の何枚ものDVDやBD(ブルーレイディスク)を持っており、ディスプレイが2台あれば、スピーカーの間にモニターをおいて映画のように見たいと考えたのだ。

製品のホームページを見ていると、最大で画面を4分割まででき、主はケーブルが4本いるのかなと思っていたが、実際はOnScreen Controlというソフトを使うことで、その分割された領域ごとにアプリケーションを表示(整列)できるというものだった。バージョンアップをたびたびしているようで、ホームページで説明用に使われているのは、バージョン2.0なのだが、主がインストールした時にはバージョン2.81、つい先日、2.82にバージョンアップされた。使い勝手は、そこそこ良い感じがする。画面を好きなレイアウトで0(分割なし)~4分割まで選ぶことができ、アプリケーションを立ち上げると選択したサイズ一杯に表示される。逆に、「そこそこ」と書いたのは、サイズをマウスでちょっと小さくしたい場合などがあるのだが、マウスを外すと元のサイズに戻ってしまい、結局分割しないことで使うのが、良いことがあるためだ。だが、このアプリケーションは、その他に画面表示の種類を、「シネマ」「フォト」「ブルーライト低減」「FPSなんちゃら」などプリセットされているモード10種類を選んだり、アプリごとにもこのモード設定をすることができたりする。

画面が4Kなので、表示サイズを100%にすると確かに4画面分の表示が可能だ。しかし、32インチでは、文字であれば小さすぎて読めない。このためこの機種では、150%が推奨サイズになっている。これを従来の画面を1とすると4Kは4になるが、150%では、4÷1.5÷1.5=1.78 という表示面積の拡大にとどまる。これは、ある意味150%の設定で使うと、表示領域が4倍にならないで、2倍弱の1.78倍にしかならないということだ。

ところが、43インチのディスプレイであれば、おそらく推奨サイズは125%であり、4÷1.25÷1.25=2.56 が拡大割合となるだろう。そういう意味では、机の上に置くにはかなり場所をとるものの、40インチや50インチでも、大きければ大きい方がいいという口コミが結構あるのは、このせいだろう。ちなみにこのサイズ変更は、主が買った機種では25%刻みで、任意の数字は入力できない。また、ディスプレイのサイズは画面の対角線の長さをいうので、24インチのディスプレイ4枚分を同じ文字の大きさで表示できるのは、48インチということになる。この場合は、100%が推奨になっているはずだ。

実際に商品が届いてから、2枚のディスプレイの設置場所を交換したり、あれこれ試行錯誤した。パソコンと机の上のディスプレイとは5メートルのケーブルでつないでいるのだが、DisplayPortケーブルでつなぐと、同梱されているケーブルを使うよう警告が表示され、アプリケーションによっては非常に小さい画面になったりする(おそらく100%表示と150%表示が混在している)ので、実際に同梱のケーブルを使うのが良い感じがする。なお、HDMIケーブルでは正常に表示された。

主は年初に、新発売のKabyLakeというCPUをを買い、マザーボードも4K 60HZ対応のものを選んだ。ちょっと古い機種では、4K対応であっても60HZは使えないとか、ケーブルも規格があるので、60HZでは写らない場合とかがあるので注意が必要だ。

使い方(接続ケーブルを変えたりとか、No1とNo2のディスプレイを入れ替えたりとか)によって、細かいところ(使うケーブルによって、電源を入れた時に表示されるロゴの大きさが違っていたりする)が変化する現象がおこり、理由はわからないということはある。画面が瞬間的に真っ暗になる現象を繰り返した時もあった。

だが、使用感はなかなかいい。この値段でこの性能であれば、申し分ない。複数のアプリを行ったり来たりしながら使う際には、昔の小さなディスプレイには戻れない。おかげで、会社で使うディスプレイが小さく、ちゃちに感じられる。これは、VAパネルなのだが、十分にきれいだ。動画を再生するとこれまでにない迫力がある。値段は時間とともに下がり、やがて2万円程度で40インチが買える日が来るだろう。その時には、2台のディスプレイともに大きなサイズにしたいと思う。

おしまい

「身体を売ったらサヨウナラ」 著者の鈴木涼美さんご本人からコメントを

「おじさんメモリアル」(鈴木涼美)につづき、「身体を売ったらサヨウナラ」の感想文を1週間前にアップした。驚いたことに、ご本人がツイッターで取り上げてくださりコメントをいただいた。それも率直で非常に長いコメントだった。ツイッターは140文字の制約があるため、実に11回!に分けてご本人が振り返りつつ分析されていた。お陰で、ビュワーの数が普段の10倍くらいになり大いに驚いた。

このようなお作法は良いのかどうか正直心もとないのだが、鈴木涼美さんの実際のツイートと主の返信、リツイートをコピーして、後半にアップさせていただいた。

おかげで、深く考えるきっかけを与えられたと思う。おそらく、女性の側からの体験をベースにしたこのような類書は極めて少ないと思う。AVやデリヘル、援助交際などを語った本は多数あるが、ほとんどすべてが男性の視点で書かれたバイアスがかかったものだ。その点、鈴木涼美が書くものは、さらに隠していることがあるのかどうかはわからないが、率直で正直に語っているように感じられ、新鮮だったのは間違いない。もっと、女性の視点が分からない男性の為にも、これから「夜の世界」へ行こうとしている女性への忠告としても、さらに掘り下げていってもらいたいと思う。

ただ、主が感じたことは幾つかあるので、以下に書いてみたいと思う。

順不同だが、最初に思うのは、鈴木涼美の経験の物語は、何と言っても恵まれている。「・・・さらに言えば、人間はポイント制なのであって・・」という彼女にしてみれば、学歴と顔面偏差値とFカップというポイントの高い私は、高い報酬をもらって当然と考えているのかと皮肉りたくなるし、現在、風俗関係の世界に乗り出そうという女性の環境は全く違うのではないか。

彼女は今33才で、15才のブルセラ売りに始まり、キャバ嬢、AV嬢となったわけだが、その間18年経っているわけで、景気はずっと長期低迷してきた。ようやく、デフレから脱出できるかどうかの萌芽が出てきたかというのがここ2、3年のことである。このデフレ脱出の芽の恩恵も、一部大企業の正社員に限ってあるかどうかという段階で、貧困層の低落傾向は少しも変わっていない。

AV出演料はずっと下がっていると思う。キャバ嬢の収入も当時と比べると、今ではずっと下がっているのではないか。それに大きな差は、鈴木涼美の場合、AV作品はモザイクの入った合法品だろう。インターネットによる海外経由、モザイクなしの裏ビデオの出演料は、1本5万円と言われる。この搾取100%の裏ビデオの深刻さは、鈴木涼美の苦悩とは異質なもので、個人の親バレ、会社バレにより社会的制裁を受けた生きにくさの問題というだけでなく、はるかに社会問題ではないか。社会からリベンジされても、文句をいうことができない。恋人によるリベンジポルノは、文句を言う相手がいるが、5万円で出演を承諾した裏ビデオは、自分で自分を切り刻んでいるようなものだ。せめて、大金が得られるのであれば逃げ道があるが、その道もないのではないか。

かたやで、食事デートだけで月50万円 NHKが若い女性の「パパ活」に迫ったという記事もあり、そうした現実もあるのだろう。しかし、多くの女性の売春(援助交際)のリアルな相場は、1万5千円~2万円あたりであり、鈴木涼美が本で書く値段(1時間5万円とかオショックス〔お食事とセックス〕6万円)とは雲泥の差だ。女性を買う男性の年収が2000万円で、1月に20日間働くとすれば、日給は8万3千円となり、彼にとって売春の相場は大した負担ではない。会社の経営者や役員であれば、もっと収入は多いだろうし、その場合、もっと負担感は少ないだろう。

そして、売春する側の女性の収入は1日に2人客をとったとして、3万円という計算になるものの、毎日コンスタントに客を見つけるのは難しいだろう。この場合はデリヘルなどの風俗の従業員として働くのだろうが、手取りは、客が支払う額の半分ほどにしかならない。このため、倍の人数を相手にしなければ収入にならない。確かに、パパ活や高級交際クラブなど、高額で昔と相変わらず囲われている女性もいるだろうが、格差が広がった今、地方から都市へ出てきた女子学生、正社員であっても賃金が低い女性、シングルマザーやフリーターなど、それぞれに事情を抱えた女性が、生活のために売春したり風俗で働く時代だ。こちらは、心理分析している場合ではなく、未曽有の不平等社会の被害者ではないか。

それに価値観や相場観のまったくない未成年がもっと安い対価で、身体を売っているということも聞く。SNSを使って出会い系へと繰り出す少女もいるはずで、ハードルは限りなく下がっている。

主は、「人間は弱い存在であり、頭(理性)を保ちながら、AV嬢になったり、ホスト狂いしたりはできないということだ。特に20歳未満ではそうではないか。セックスの手練手管がうまいのは、AV男優、ホスト、ヤクザが浮かぶ。AV出演に支払われる対価は、基本的に、魂を男優に奪われたふりをすることか、実際に奪われた姿を撮影されるところにある。キャバ嬢・風俗嬢として男たちから得た収入や、多額のAV出演料は、よくある話のように、ブランド品の購入と、シャンパンタワーの泡となってホストに貢いで消える。ホストは、『夜の世界』に生きる嬢にとって不特定多数の男に体を開いた空虚感や屈辱を、はたまた、お金で埋めてくれる存在ではないのか。」と書いた。

だが、鈴木涼美がツイッターでいうように、「魂を男優に奪われる」という表現はたしかに曖昧で、食い違っていたようだ。

主が、「魂を男優に奪われる」と書いた意味は、画面を見る多くの男が感じている(錯覚している)もので、単純だった。すなわち、見ず知らずの男との性交にエクスタシーを感じる、あるいは、感じたように見せる、篭絡される、篭絡されたように振舞うのは、人間の尊厳を奪われ、自分を失うことであり、魂を奪われることではないか、そういう風に捉えていた。ホストについても、お金で雇った恋人モドキだと思っていたのだが、違うのだろう。

つまり、女性の鈴木涼美の側からの思いは全く違うようで、ツイートは、AVの現場で働く人やホストは悪い人ではなく、むしろ魂を削って仕事をしているのは彼らだと言う。「魂を奪ったり汚したりするのはホストや男優なんていうものよりずっと大きいものだと思う。まず、男優さんってAV職人さん(制作スタッフさん)の一部という印象が強く、彼ら自身がある意味で魂を削って現場にいる当事者でもあり、とても私は彼らに魂を売り渡していたとは思えないんですよね。では売り渡した先は誰だったのでしょうね。AV業界?視聴者?もっと広い世間?どれもある意味では正解ですが、それほどピンとくる答えではありません。」

むしろ、彼女はツイッターに「奪われた魂は今どこにあるのかはよくわかりませんが、わたし自身は、それを嘆き悲しむというよりは、あの狂騒は一体何だったのか、どうしてあんなに苦しいほど惹かれたのか、1ミリでいいからわかりたい、という気持ちの方が少し強い。ので、色々なアプローチでその作業をしていきたいと思ってます。」と書く。魂を奪われたという感覚はなく、「狂騒」に駆り立てられたのは「一体何だったのか」と訝しがり、「苦しいほど惹かれた」理由が1ミリも分からないという感覚らしい。この理由は、本人のアプローチで見つけて発信してもらうしかないが、男が見ているものとは違うということだろう。

彼女は「おじさんメモリアル」で「100円玉で買えるぬくもりは100円ないと買えない」と面白い表現をしているのだが、結局、売り手の女(と仲間たち)と買い手の男が売買しているのは、同じようでも、双方で違って解釈されるものであり、値段分の「錯覚」や「幻想」のような気がする。

飛躍するが、生物学的に考えると、ヒトは隠れてセックスする動物であり、公然とセックスする動物であればAVという商売は成立しない。ゴリラやチンパンジーのペニスは3センチしかない。ヒトは、生殖だけの機能だけでない、不必要な長さのペニスやヴァギナを持つように進化してきた。子孫を残すという観点から考えると、発情期以外にセックスするという、無駄にエネルギーを消費する生物はヒトだけだ。遺伝子を残すというプログラムは生き物全般にインプリントされているのは間違いないが、そこに「快楽」という余剰を伴っているのはヒトだけだ。

この余剰は余剰ではなくなってきて、生殖よりも快楽の方が本来の目的のようになったのが現代だと思う。ヒトの歴史がアフリカではじまり700万年、文明がメソポタミアで始まってわずか7000年ほどだが、飢餓状態から脱したのは何百年か前、文化的な生活ができるようになったのは、ここ数十年前からのことだろう。

このセックス(結婚)の形態だが、一夫一婦制というのは明らかに歴史が短く、人類史から見るとごく最近のことである。何百万年の間、人間の性は試行錯誤を繰り返し、乱婚や一夫多妻などの時代を経ている。そうした中で、女性と男性にとっても、遺伝子を残したいという本能は同じでも、女性が一生のうちに産める子供の数は多くて10人だが、男性が産める数は、千人の子供を作った王がいるほど多い。この違いは次の矛盾を常にはらむ。男は遺伝子を残すため、広く乱婚し精子をあちこちへとばら撒きたい。女は、優秀な男の遺伝子を選んで残したい。ところが、ヒトの子供の養育には10年以上、庇護を必要とする期間を要するという問題、前提がある。

こうした長い歴史の中では、夫が他の男に殺されるということはしばしばあった。自分の遺伝子を残すという観点から、新しい男にとって、妻が産んだ前夫の子供を新しい夫が殺し、後に妻に自分の子供を産ませるのは正しい戦略となる。だが、この男の戦略は、子供を産める数に制限がある妻にとっては、許容できない。このため、生物進化学者のジャレド・ダイヤモンドは、ヒトの女性は排卵を隠すことで、子供が誰の子供かを男にわからなくし、男の性行為を普段から受け入れることで、男にとって子供が自分の子供だと思わせることで、子殺しを防ぎ、養育に協力させるという進化の過程をたどったと考えている。

この余剰を、不倫をしている男女やAV俳優だけが多く享受していると思われているならば、一夫一婦制で満足している、満足しているふりをしている大衆には、認めがたいし、許しがたいだろう。なにしろ、一夫一婦制は歴史がごく浅く、我々の本能に染みついているというより、教育で刷り込まれた(共同幻想の)効果に頼っているだけであり、人間の長い歴史の生物としての本能が、時として顔を出す。そうした抑圧された気分が隠されている限り、AV嬢に対するバッシングは続くだろう。そしてそのバッシングは、出演料の中に対価として含まれているのだろう。だが前に書いたように、希少性が薄れたことで、対価が見合っていないほど安くなった今、出演者の女性は後悔先に立たずで哀れな気がしてならない。それを利用する側も心無いが。

いや、この結論は男の論理であり、女性にとってはいくら対価が安くても、AV出演自体は、後悔などするという性質のものではないのかもしれない。後悔するのは、社会からリベンジされた場合だけということなのかもしれない。

思いっきり歯切れの悪い結論になってしまったが、 おしまい

 

→魂を奪ったり汚したりするのはホストや男優なんていうものよりずっと大きいものだと思う。まず、男優さんってAV職人さん(制作スタッフさん)の一部という印象が強く、彼ら自身がある意味で魂を削って現場にいる当事者でもあり、とても私は彼らに魂を売り渡していたとは思えないんですよね。

→では売り渡した先は誰だったのでしょうね。AV業界?視聴者?もっと広い世間?どれもある意味では正解ですが、それほどピンとくる答えではありません。ブルセラでパンツを買ったのはマジックミラーの向こう側のおじさんたちですが、わたしの魂を奪ったものがあるとしたら、彼らだったのでしょうか?

→それは主さんの言葉を借りれば私がからめとられた夜の世界の吸引力とも関係する問題でしょう。確かに私は一般的な意味での善悪の区別や、越えるべきでない一線が見えなくなるくらいには、そちらの世界の価値観に侵食されていたと思うし、それは魅力と言うこともできるけど、罠や怖さでもあります。

→奪われた魂は今どこにあるのかはよくわかりませんが、わたし自身は、それを嘆き悲しむというよりは、あの狂騒は一体何だったのか、どうしてあんなに苦しいほど惹かれたのか、1ミリでいいからわかりたい、という気持ちの方が少し強い。ので、色々なアプローチでその作業をしていきたいと思ってます。

「AV女優の社会学」のようなストレートな論文アプローチが届く箇所もあれば、ひたすら空気感を再現しようとした「身体を売ったら〜」が届くこともあると幾ばくかは信じます。「愛と子宮〜」「おじさんメモリアル」のように親や客なの女の子の内面以外の周縁から攻めるのも私としては面白い作業です。

もちろん、ヤクザ的なものに騙されただけ、と言ってしまえる部分もありますが、それだけで自分がピンとくるほど説明できないところがまだある、というのが一つの執筆動機であるわけです。最初の撮影の次の月に、事務所の二階で手渡された90万円の封筒の重みは何の重みだったのか。

その答えは毎秒変わります。可愛いから100万円もらえると思った時期も、勇気があるから100万円もらえると思った時期も、一生「元AV女優」としてしか生きるのを許されないことに払われたとも、親を傷つける代償と思った時も、彼氏に殴られることへの100万円だったと思ったこともあります。

少なくとも、私は私があの日に事務所の二階で桃の天然水のペットボトルを灰皿にしながら片手で100万円受け取ったことで、今、自分を愛してくれたり自分が傷つけたくないと思ったりする相手に、嫌な思いをさせたり恥ずかしい思いをさせたり悩ませたりするかもしれないという事実と共に生きています。

その事実は忘れた瞬間に思い出されるし、常に思っているようでしょっちゅう忘れてますが、そういったことへの責任として気づいたことは書き留め、書くことでまた考えることはやめないでいようと思ってます。私が今いる場所は、当初の能天気な私が想像していたよりも厳しいけれど、意外と幸せだし、

自分の記憶を起点にして何か言葉を探していく人生は、それほど辛いことではありません。 今の所、AV出たいんです、と相談してくる後輩たちに対して、それを引き止める言葉を私は持っていません。10年後の彼氏に、ごめんねって言いながら出なね、くらいは言えるけど。

 

 

「身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論」鈴木涼美 

「おじさんメモリアル」(鈴木涼美)が結構面白かったので、続いて、幻冬舎文庫「身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論」を読んでみた。下に予告編のリンクを貼ったが、こちらは、2017年7月に映画化もされている。主は、ずいぶん、宣伝に貢献しているなと思う・・・(*注:正直に告白すると、この本は途中で嫌になったので半分程度しか読んでいない。しっかり読むと意味が違ってくるかもしれません!)

こちら、本の方

例によってアマゾンの要約を紹介しよう。

【内容紹介】
もしもかつて自分が体を売っていたことが彼氏にばれたら、そのとき彼氏はどうなる? 「お乳は生きるための筋肉」と語る夜のおねえさんの超恋愛論
Fカップ。両親とも大学教員、実家は鎌倉、絵に描いたようなお嬢様。慶応SFCから東京大学大学院を卒業後、日本を代表する新聞社で働いてもみた。その他もろもろの経験も豊富すぎるほど豊富、収入もまあまあある。でもでもでも、全然幸せじゃない! なぜ? 恋で得たものと、恋で失ったものをひとつずつあげていけば、確実に後者が前者を凌駕する。まわりの夜のおねえさん方(水商売をやる女性)や昼のおねえさん方(OLとか)を見渡せば、不思議とそんな方々ばかり。みんな恋愛でほんとうに幸せになれるのか。本当の幸せって何? オカネで買えない幸せなんかあるのか? 気鋭の社会学者が、考えつくありとあらゆることをやりまくって、女の幸せを考えた尽くした超恋愛論! !

【内容(「BOOK」データベースより)】
おカネで買えない愛はほしい。でもそんな退屈なものだけじゃ、満たされない。話題の書『「AV女優」の社会学』著者が赤裸々かつ健気に語る、ワタシたちの幸せの話。

【ここから主のコメント】

 アマゾンのコピーを読んでいると、社会学者の元AV嬢が超恋愛論を語っているように書かれているが、主の受け取り方は違った。

 「おじさんメモリアル」は、お金を出して女の娘を買う男の悲哀、おかしさが読んでいて面白かったのだが、学歴(一般常識や世間知)とAV(セックス、ホスト、性的刺激)の対立軸で考えた時に、AVの方が強く、彼女はそちらにからめとられただけではないかと感じる。

 たしかに、女性が普通に生きて一人の男と生活を共にして、つつがなく人生を終わることに、物足りなさがあることはわかる。15歳の高校生の時に、刺激的なブルセラ売りで、パンツを見知らぬ男に何度も売ったことを手始めに、キャバ嬢、AV嬢、風俗嬢として高収入を稼ぎながら、ホスト通いの生活にハマっていく。一方で、日経新聞の記者をやり、社会学者を名乗り、やがて2014年10月「週刊文春」に日本経済新聞記者の鈴木涼美(当時30才)が芸名・佐藤るりのAV嬢だとすっぱ抜かれる。彼女は、世間の厳しい目にさらされ、「十分に罰を受けた」と感じながら、年齢的なものもあるのだろう、文筆業へと転換し成功する。

 だが、主が感じるのは、人間は弱い存在であり、頭(理性)を保ちながら、AV嬢になったり、ホスト狂いしたりはできないということだ。特に20歳未満ではそうではないか。セックスの手練手管がうまいのは、AV男優、ホスト、ヤクザが浮かぶ。AV出演に支払われる対価は、基本的に、魂を男優に奪われたふりをすることか、実際に奪われた姿を撮影されるところにある。キャバ嬢・風俗嬢として男たちから得た収入や、多額のAV出演料は、よくある話のように、ブランド品の購入と、シャンパンタワーの泡となってホストに貢いで消える。ホストは、「夜の世界」に生きる嬢にとって不特定多数の男に体を開いた空虚感や屈辱を、はたまた、お金で埋めてくれる存在ではないのか。無目的に贅沢な生活をしていると言えばずいぶん聞こえがいいが、実際はヤクザに性的にからめとられたのと同様に、AVビデオへに何度も出演するように都合よくマインドコントロールされたオンナに過ぎないのではないか。

 書いている内容が、ストレートで刺激的だが、社会学的なところはほとんどない。これは売らんかなのエッセーであり、論文は違うのかもしれないが・・。この本の帯に書いてあるのだが、言っていることを要すれば、ブランド品で身を包みたい、退屈はイヤ、「お金をもらって愛され、お金を払って愛する夜の世界へ出ていかずにいられない」、AV出演が親バレ、会社バレ、学校バレして、身が引き裂かれてしまったというところでしかないのではないか。

 AV出演がバッシングされるのは、昨今の不倫騒動と同じ根っこだろう。不倫はそこら中に存在するが、公認すると社会のレーゾンデートルが崩れる。もし、AV出演がすべての女性に推奨される事態となれば、社会規範は転覆し、やはりこれを許すわけにはいかないだろう。どちらの背景にも「快楽」が横たわっており、外野席の人たちの妬み、嫉み、嫉妬は異常に大きい。バッシングが、激しくなるのは当然だろう。

 要は、東大院卒とか日経新聞記者だった過去はあるものの、AV男優、ホストの性的な魅力に屈し、その快楽が平凡な日常より楽しいという話の域を出ていない。たまたま、高学歴だったのでその話が売れただけではないか。当然と言われそうだが、日常生活と性的な快楽を比べた善悪の問題ではなさそうだ。(どんな華々しい恋愛でスタートしても、確かに平凡な日常生活が3年すれば色褪せる宿命は不可避だが・・)鈴木涼美は、才色兼備で金銭的に恵まれている。しかし現実は、彼女のように恵まれないで夜の世界に生きる嬢たちの方が多いし、こちらの方が問題なのではないかと思う。

おしまい

 

ベートーヴェン・ピアノソナタ”テンペスト”聴き比べ 辻井伸行 vs グールド vs グルダ 

辻井伸行(29歳・1988~)は、2005年(17歳)にショパンコンクールで批評家賞、2009年(21歳)にヴァン・クラインバーン国際ピアノコンクールで優勝した。この優勝は、全盲のピアニストであることもあり大きく取り上げられ、お母さんがたいそう喜ばれていたのが印象的だった。父親は産婦人科医である。元アナウンサーのお母さんが、全盲の我が子を案じながら、音楽の才能に早くから気付き、英才教育を施した。やがて、猛烈なステージママとなり、有名コンサートの優勝に向かって二人三脚で努力してきたNHKの放送を見た記憶がある。

主は、辻井伸行が、お師匠さんの手ほどきした弾き方を目が見えないため単純になぞっているような印象を放送から持っていた。このため彼の演奏は、完全に「聴かず嫌い」だった。ただ、彼の出すピアノの音色は、シャープで澄んだ綺麗な音だとは思っていた。

だが、たまたまピアノ好きの知人から、ベートーヴェンのテンペスト、ショパンの英雄ソナタやムソルグスキーの展覧会の絵など、とてもいい演奏だということを聞いた。実際にYOUTUBEで聴いてみたら、他の日本人ピアニストとは異質のレベルの高さだとすぐに気が付いた。

コンサート情報などが載っている雑誌を主はよく見るのだが、辻井伸行のコンサート情報は全然宣伝していない。多分、宣伝する必要がないほどに売れているのだろうなとは思っていた。クラシック人気が凋落して久しいが、レンタルCDショップでは、辻井伸行のCDはほとんど並んでるのではないかというほど多数のCDが並んでおり、彼の人気ぶりが窺える。

実際、チケットの売れ行きはすさまじいようで、東京や大阪などの都会ではすぐに売り切れ、プレミアをつけてネットで転売され、地方公演ならやっと取れるかどうかという状況だ。また彼は、毎週のように全国をコンサートツアーで巡っている。コンサートのプログラムを見ると、作曲もするようで、自作曲が相当含まれる。グールドファンの主としては、グールドがコンサートツアーが嫌でツアーを引退し、スタジオに籠った経緯があるので、辻井伸行が全国ツアーをいつも巡っていると音楽生命を消耗してしまうのではないか心配になる。

さて、世界の巨匠(グレン・グールド(カナダ・1932-1982)とフリードリヒ・グルダ(オーストリア・1930-2000))と比べるのはちょっと無理があるとも思うが、ベートーヴェンのピアノソナタ17番”テンペスト”の第3楽章の録音で比べてみたい。いずれもYOUTUBEからリンクだが、この第3楽章は、とっつきやすい曲で、非常に聴きやすく心地よい。

なお、グールドの演奏は、1960年10月にCBCテレビ(カナダ放送協会)で放送されたものと思われる。約60年前のものであり、白黒だし録音状態が良くない分不利だ。別にレコードでは、1971年8月に録音したものが発売されており、こちらはかなり録音が良いのだが、YOUTUBEにはアップされていないようだった。フリードリヒ・グルダの演奏は1968年にアマデオというレーベルから発売されてたもので、こちらもかなり古い。辻井伸行の演奏は、2012年の録音なので、他の二つとは完全に異質の録音のレベルだ。最近の録音は、iPodなど安い機器で聴いても十分に美しい音がする。

まずは、辻井伸行から。彼の演奏を聴いて驚くのは何といっても、曲全体の構成がしっかりしていて、それを貫き通す力があるところだろう。日本人のピアニストの場合、一定の意図したテンポを守れないことが多い。もちろん好きなようにルバート(自由にテンポを変えること)していいのだが、自己陶酔だけではリスナーは不愉快だし、ましてテクニックがないためにリズムが揺れてしまうとすぐわかる。その点、辻井伸行はテクニックに裏打ちされた構成力を見せる。また、曲の表情の変化のつけ方もうまい。強弱、レガート、ノンレガートなど弾き方を意図しながら自在に変え、聴くものを飽きさせず愉しませる。アーティキュレーション(フレージング)も自然で、正統派の弾き方なのだろうと思う。

次は主が一番好きなグレン・グールド。録音が古く、おそらくモノラル録音で、小さい音量で録音されているのが残念だが、グールドの力量は十分に分かる見事な演奏だ。この曲は、バッハ以前の曲のようにポリフォニック(複旋律的)ではないが、彼の演奏は、高音部のメロディのみが目立つ演奏とは違い、他の声部も同様に存在感がある。メロディーと伴奏ではなく、複数のメロディーが入れ代わりながら、並走するところに妙味がある。このために、「低音部を強調しますね」と評される。正確なリズム、一音一音の粒立ちの良さ、コントロールされた強弱、10本の指のレガート、ノンレガートの弾き分け、慈しむようなタッチ、決して爆発し暴力的にならないフォルテッシモ。グールドを普段聴いていると、他のピアニストの演奏は、「乱暴!」とか「楽天主義!」「単細胞!」という風に感じてしまう。

グールドのタッチは、フィンガータッピングという特殊な奏法だ。指が鍵盤を押さえた時に、力を抜くと指は自動的にバネのように戻ろうとする。この反作用を徹底的にチリ人ピアニストのゲレーロに叩きこまれ、先生のレベルを超えたのがグールドだ。だが、この奏法は爆発的な大音量を出せない。現代奏法、特にロマン派の曲の演奏では、この爆発する大音量のフォルティシモは、ピアニッシモとともに不可欠な奏法だが、グールドには出せないものだ。これがグールドがロマン派の曲をほとんど演奏しない大きな理由だろう。

最後にフリードリヒ・グルダ。このピアニストは、裸でステージへ上がったり、ジャズへと走った時期もあるため、格調高いクラシックファンには好かれないのだが、オーストリア生まれで生粋のウイーン正統派どストライクの音楽家だ。ジャズに走ろうが、自作の現代曲をやろうが、どんなに崩しても、体の奥底にはクラシックウイーン正統派の精神が流れている。この流れるような美しい演奏は、何といってもピカイチだ。

だが、やはり高音部のメロディーとそれを支える左手の伴奏という感じがしてならない。また辻井もそうだが、フォルテッシモでは、グールドにはない爆発するような強音を出すことができる。指を鍵盤へと叩きつけるので、表現のダイナミックレンジ(強弱の差)が大きい。ただし、強弱の烈しさによりドキッとさせられ、感動し、美しく聴きやすい。

時代がポリフォニー(複旋律)からモノフォニー(単旋律)へと移ったように、われわれの耳はメロディーと伴奏・和音の組み合わせが聴きやすいのはたしかだ。だが、ジャズバンドのようにいろんなメロディーを同時に聴くのは、メロディーの丁々発止の掛け合いが喚起する非常に楽しい感覚だと思うのだが・・・

おしまい