SACDプレイヤー YAMAHA CD-S3000 vs 老人性難聴!

 

CD-S3000左の写真のSACD(Super Audio CD)プレイヤー、YAMAHA CD-S3000を主が買ったのは、半年ほど前だ。カナダ人ピアニスト、グレン・グールド(1932-1982)のSACDが10組ほど発売されており、それのみを聴くのが目的で、実際にそうしていたが、9月にソニーからグールドの生前の正規録音81枚がDSD方式(=Direct Stream Digital:後述)でリマスターされたCDセットが発売された。これをパソコンにリッピングせずに、そのままこのプレイヤーで再生すると、意外や意外、パソコンで再生するのと変わらず良い音で再生される。このSACDプレイヤーは約50万円する。やはり、このクラスになると原音に忠実ということなのだろう。こうした意外性は、安物のCDプレイヤーではあり得ないと思う。CDをリッピングしてパソコンへ取り込み、DAC(Digital to Analog Converter)経由で音を出すというPCオーディオの方が、安価で良い音が手に入ると思う。

 

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こちらが、部屋の装置の写真である。ラックの上段が、YAMAHA CD-S3000である。下段が、プリメインアンプのLUXMAN L-550AX。この二つは日本製だ。上面に乗っているのがDACのZODIAC GOLDと電源部のVOLTIKUSである。ホームページをみたらブルガリア製だった。右の黒い箱ははタワー型のファンレス自作パソコンである。上に載っているのは、SSDが刺さったストレージのアダプターだ。さらに右の背の高いのが、スピーカーB&WのCM8。こちらはイギリス製だ。

ここまでは、そこそこオーディオに凝っているという話である。

他方、人間の可聴帯域は20Hz~20000Hzとされているが、主は10年ほど前から常に、高音の耳鳴りがする。常にピーとかキーンとかいう高音が鳴っている。あまりにずっと鳴っているので、慣れてしまい、特に日常生活に不自由があるわけではない。

こうしたところ、2015年3月にNHKの「ためしてガッテン」で高齢者の耳鳴りについて放送があった。高齢者は加齢による難聴により、脳へと高音の情報が入ってこなくなり、それを補おうと脳が高音に対する感度(ボリューム)を上げ過ぎる、それがピーとかいう高音の耳鳴りの正体だそうだ。結論は、高音を強調する補聴器をつけることにより、脳がボリュームを上げることがなくなり、耳鳴りも消えるので、耳鼻科に行きましょうというものだった。

http://www9.nhk.or.jp/gatten/archives/P20150304.html

この番組を見て、耳鳴りの相談に耳鼻咽喉科へ行ってきた。医院で主の可聴範囲を調べたところ、高音部で8000HZあたりからグラフが下がってしまう。聞こえが悪くなっているのだ。自宅でも、YOUTUBEの可聴範囲を調べるサイトで試したところ、確かに8000Hzを超えると徐々に苦しくなり、12000Hzでとぎれとぎれになり、13000Hzから完全に何も聞こえなくなった。

こうなると、ハイレゾ(High-Resolution Audio=CDより高解像度なオーディオ)もへったくれもない、主の言うことには説得力がないと言われねばならない。

CDは、16bit 44.1KHzで、高音は22,000Hzまで出る規格だ。CDに対し、ハイレゾにはCDの方式を高規格化したPCM方式と、SACDに使われている録音方法であるDSD方式の2種類がある。PCMのハイレゾとしてよくある規格に24bit 192KHzというものがあり、CDと比べると1000倍(8bit(=24bit-16bit)×192/44.1≒256×4)のデータ量になる。データ量が多い分、良い音がするはずだ。

下が二つの方式の概念図である。上はPCM方式、下がDSD方式である。白い波型が音型で、これを再現するためにPCM方式は、均等なピッチで、緑のグラフの高さにより表現する。PCM方式のハイレゾの場合は、サンプリングの割合(頻度)が細かく(高く)なる。下の方のDSD方式は、波形をあらわすのに粗密で表現しているのがわかるだろうか。DSD方式の方が、人間の耳には自然に聞こえると言われている。

PCM-vs-DSD

出典: http://shobrighton.blog.jp/archives/35655302.html

年齢とともに高音の聴力は落ちるのは間違いがない。しかし、一番良い音は生演奏であり、順に、DSDのハイレゾ、PCMのハイレゾ、現在のCDの規格であると結論付けることはできる。音質は、高音だけで構成されるものではないからだ。

ただ、グレン・グールドの最初の録音は1955年で、今から60年も前であり、当時はモノラル録音だった。1958年頃からステレオ録音になるのだが、主がもっぱら考えているのは、これらを良い音で聴きたいということだ。最近の録音であれば、主は、YOUTUBEで聴く音楽でも十分に美しいと思っている。問題は、何といっても演奏の質だ。これに尽きる。

 

グールド リマスタード – The Complete Columbia Album Collection

今年9月11日、グレン・グールドのコロンビア時代の正規録音81枚のLPが、リマスターされ、CDで発売された。これが、実に素晴らしい音なのだ。同時に、1955年版と1982年版ゴールドベルグ変奏曲のレコード!が再発売された。また、12月にUSBメモリーに入った24bit、44.1KHzのハイレゾ・バージョンも発売される予定だ。

グールドが亡くなって33年が経つのだが、これらの発売は、彼の人気が如何に未だ衰えないかをよく表している。

このコレクションは、グールドがコロンビアマスターワークス(のちにCBSマスターワークス)に発売を許可した正規録音をすべて含んでいるグールドは、1955年1月のアメリカニューヨーク、タウンホールでのデビューの翌朝!に、コロンビアレコードの重役オッペンハイムに専属契約を申し込まれる。これに従い契約を結ぶのだが、生涯他のレコード会社へ移籍をしなかった。同年にバッハのゴールドベルグ変奏曲を初めて録音してから、2度目のゴールドベルグ変奏曲を再発売すると同時に亡くなる1982年まで、ずっとコロンビアからレコードが発売された。最初の5枚目までは、モノラルのLPレコードだった。若い人のために説明すると、当時のレコードは、直径が30cmの溝が切られた黒いLP(Long Play)と呼ばれる円盤で、ターンテーブル上を1分間に33回転し、レコード針がその溝を擦りながら音を拾い上げるというアナログな仕組みだった。録音技術は徐々に進歩し、6枚目からステレオで録音されるようになり、1980年以降の5枚は、現在のデジタルであるCD規格で録音された。

このリマスターは、レコードを製造するために使用した既存のアナログ・マスターテープを、現在のDSD(Direct Streaming Digital)というデジタル技術で置き換えるものだ。このデータをもとにCD規格に再変換している。同時にリマスターしたデータから、何とLPレコードでも発売された!!最近、先祖返りのブーム(懐古趣味)で、レコードが見直されているのは確かだが、新発売するというのは凄い。

このCD、ハイレゾUSBとアナログレコードの発売だが、前述したとおりアナログ・マスターテープをDSD方式でサンプリングしたものを使っている。DSDというのは、CDの高音質バージョンであるSACDプレイヤーで使われている録音方式だ。今では、この方式にもSACD以上の高品位規格があり、こちらはメディア(円盤)ではなく、インターネットのダウンロードにより、手に入れることになる。12月に発売されるUSBのハイレゾは、ハイレゾと言いながらCDの規格が16bitのところが24bitになっただけで、同じPCM規格であり、非常に良いというわけではない。ところが、DSDは録音方式自体がPCMとは違い、自然に近い音だと言われている。これの意味するところは、今回リマスターされたもっとも高音質なDSDのオリジナルデータは、まだ発売されていないということだ。こちらの発売もやがてあるだろう。早く売れっちゅうねん。

残念なのは、バッハのフーガの技法のピアノ版やイタリア協奏曲の新録音などが含まれていないこと。逆に、CDショップでは手に入らない「20世紀カナダの音楽」と題するモラヴェッツやエテュの作品、R.シュトラウスの≪朗読とピアノ伴奏のドラマ≫「イノック・アーデン」やヒンデミットの「金管とピアノのためのソナタ全集」などこれまで聴いたことがない曲を初めて知ることができた。これら正規レコード81枚分が、良い音で蘇ったというのは非常に大きい。どの曲を聴いても、素晴らしい。びっくりする。やはり、最低限この程度の音で聴かなくては良さが伝わらない。

下が、 CDで発売されたもの。24,000円。CD1枚あたり300円と考えるとバカ安だ。CD81枚だけでなく、24cm×24cm大の立派なブックレットがついており、当時のジャケット写真とライナーノーツと解説(すべて英語)が載っている。早期購入特典ありとなっているものには、日本語の小冊子がついている。また、初めて見るグールドの写真も多く、非常にお買い得だ。

グールドリマスター(CD)

こちらは、12月発売予定のUSBハイレゾ・バージョン。53,000円。FLAC形式のものとMP3形式のもの2種類が入っている。インタビュー3枚分が含まれていないので、78枚分ということになる。

グールドリマスター(USB)こちら2枚がアナログレコードで発売されたゴールドベルグ変奏曲。上が1955年、下が1982年盤である。あー、懐かしい! 昔は、30cm×30cm大のジャケットを眺めたり、ライナーノーツを読みながらレコードを聴いたものだ。(写真はいずれもアマゾンから)

ゴールドベルグ1955(LP)

ゴールドベルグ1981(LP)

 

 

 

テニスクラブ 老人の執念

主は、地元のテニスクラブでほぼ毎週末テニスをして過ごしている。下は、クラブのBBQ大会の様子である。

鷹の台

錦織圭の活躍によりテニス人気が復活し、テニススクールへ通う子供たちが増えた。テニススクールでは、錦織圭を目指す小学生たち、汗を流しにやってくる社会人や初心者の男女がおり、コーチも若い。

だが、テニスクラブは、スクールとは性格が違う。テニスというとシングルスを思い浮かべるかもしれないが、テニスクラブでは、一般的にはダブルスの試合を、朝から夕方までずっと、メンバーが入れ替わりつつ誰かがプレーしている。好きな時間にクラブへ出かけて、ちょうどその時間にいるメンバーとかわるがわる試合するのである。高齢化がはげしく、会員数も減っているので、近隣のテニスクラブが閉鎖し、残っているテニスクラブへと集約されている。

そうしたわけで、主がプレーするテニスクラブは会員の平均年齢は60代半ばというところだろう。若い人もいなくはないが、下が50台、一番多い層が60歳代、70歳代というところだろう。したがって、順番を待つベンチでする話は、病気の話、お墓の話、孫の話、そのあたりが中心である。

テニスクラブのメンバーは、みなテニス歴が異様に長い。テニス歴30年以上という人たちが多い。高度成長期の時代にテニスブームがあり、その頃にテニスを始めている。そして、大半は学生時代にテニス部に所属していたのではなく、社会人になって始めているので素人テニスである。しかし、石の上にも何十年も真剣に取り組んでいると、それなりに進化する。したがって、みな癖球を打つが、結構うまい。バックハンドは下手だが、フォアハンドは非常に上手とか、一人一人に得意技がある。おかげで、テニスサークルに所属する若者たちをやっつけたりする。このため、テニスクラブは、初心者にとって敷居の高いものとなり、新人がなかなか入ってこない。

高齢者のプレーは真剣だ。70歳近いのだから、枯れ果てて、勝敗にこだわらないテニスをすればよさそうなものだが、何歳になっても欲望はなくならないものらしい。負ければ悔しいし、勝てば嬉しい。この本能的なこだわりは、死ぬまで治らなそうだ。悟りの境地は遠い。

 

 

 

クラシックに狂気を聴け

主は、なぜクラシック音楽を聴くか? ほとんどカナダ人ピアニスト、グレン・グールドしか聴いていないが、クラシック音楽を聴いているという意識はない。貴族趣味でクラシックを聴いている意識はもちろんなく、単に音楽を聴いているという意識のみだ。なぜ、グールドのみを聴くかというのは、彼の音楽が、あらゆる音楽の中で最も刺激が強い考えているからだ。

ところで、ブログのタイトル「クラシックに狂気を聴け」は、森本恭正さんの「西洋音楽論」(光文社新書)の副題からとっているのだが、この本はさまざまな観点で示唆に富んでいる。森本さんは、1953年生まれの作曲家・指揮者でヨーロッパで活動されている。

ヨーロッパ音楽であるクラシックは、破壊と創造の超克の長い歴史があるが、今クラシックと呼ばれる音楽も、初演された当時は時代の先端を行くものだったはずだ。中世の音楽に始まり、ルネサンス、バロック、古典派、ロマン派、現代曲へと音楽史は進み、様式は進化していくのだが、その時々において最新曲だった。だが、古い様式が破壊され、新しい様式が創造されるにつれ、古い様式は「クラシック」になっていく。ロマン派には、シューベルトやシューマン、ブラームスなどがいるが、彼らはひとつ前の古典派のモーツアルトやベートーヴェンの音楽の様式を壊し、新しい様式を創造してきた。だが、このロマン派の作曲家は、シェーンベルグなど現代曲の作曲家に乗り越えられる。現代曲は、新しく12音音楽や無調の音楽となって久しい。

この過程を、進歩というのは間違いではない。だが、現代の作曲家にとって、すべて新しいことはやりつくされており、何をやっても新しいものがない、知っているという状況まで辿り着いてしまった。進歩の功罪は半ばし、現代の「クラシック」は停滞してしまい、黄昏ている。コンサート会場では、過去の遺物を繰り返すのみだ。

この本の中で作者の友人の著名ヴァイオリニストが、ブラームスのヴァイオリンコンチェルトを題材に、現代のクラシック音楽の置かれている現状を語るくだりがある。「・・・胸がどきどきして、息苦しく、思わず大きく深呼吸したくなる様な、あの、震える様な興奮を、私達はブラームスの音楽に忘れてきてしまったのではないでしょうか。否、ブラームスだけではありません。現代まで生き残ったクラシックの作品には恐らく、すべてあるのです。信じがたいようなあの興奮が。それらがすっかり忘れ去られて、クラシックといえば、敬老会の為の音楽のようになってしまった。・・・」

そうなのだ。今のクラシックは、本来のみずみずしさを失い、骨とう品を有難がっている敬老会のようなものだ。

森本さんは書いている。音楽史において、フランス革命以前、音楽は、一部貴族のものだった。だが、フランス革命後に女性を含む一般市民の手にも渡った。この端境期を生きた作曲家がベートーヴェンであり、「革命の中から生まれ、旧体制社会の決まり事の殻を叫びながら破いているのが、彼の音楽の本質」だという。ベートーヴェンに続くロマン派の作曲家たちの本質は、「狂気」だという。「今までの規範、世間の常識では計り知れないもの、人智の遠く及ばないもの、想像を超えるほどの狂気」である。ところが、現代の演奏家はこれを表現せず、敬老会の出し物へと骨抜きされている。

話が変わるが、すべての西洋音楽はアフタービート(一拍目に弱拍、二拍目に強拍がくる。ワンツーワンツーで、ツーが強い)だと言っている。一般にジャズやロックがアフタービートといわれるが、クラシックも弱強弱強のアフタービートだというのだ。「スウィングしないクラシックなんてありえない」。日本の音楽教育では、こういう風に教わらないのだが、クラシックもジャズやロック同様、アフタービートであり、これが曲進行の推進力になっているという。

同じようなことだが、ヴァイオリンの弓を例にあげて、すべてのヨーロッパ音楽は、音が出る一瞬前に弓が撓む(たわむ)瞬間があるという。弓を下げながら音を出す一瞬前に、弓を上にあげる動作があり、それを「撓む」というのだ。この一瞬の準備は、日本にはないという。日本では、動と静、或いは静から動への突然の移行がある。しかし、ヨーロッパ音楽では、このような突然の移行はないという。

2010年のショパンコンクールで、審査員が「アジア系の参加者の演奏は音楽を何も感じず、ただ上手に弾いているだけ。頭で考えるのでなく心で感じてほしい」と語った。このコンクールでは81人中17人が日本人で、アジア系といわれたのが誰のことか明白だ。こうしたことは、何十年も前からヨーロッパの音楽大学のレッスン室、演奏コンクールの審査員室で囁かれてきたのであるが、公式の場でとうとう言われてしまったということだ。

たしかに現代の演奏において、技術的なレベルや楽器の性能は高くなっているのだろう。オーケストラもピアニッシモではより繊細な音を出し、フォルテッシモでは爆発的に大きな音を出す。だが、何かがつまらない。オーケストラの団員の多くはあまりの大音響にさらされるため、耳栓をしながら演奏をしているという。きっと何かが、本末転倒している。

ところで、この本を読んで正しいクラシックの聴き方を教えられた。この本には、ロマン派の音楽を聴くなら、それ以降の音楽の存在を忘れることだと書かれている。バッハを聴くなら、モーツアルトやベートーベン以降の存在を忘れること、そうすることで「狂気」が見えてくる。「新発見」がある。

ちょうど今月、グレン・グールドのコロンビア時代(今はソニーレーベル)に出された81枚の正規録音がリマスターされ、発売された。グールドの没後33年にあたるが、人気ぶりがわかる。このリマスターはDSDでサンプリングされており、非常に高音質だ。これを良いステレオ装置を使い、良い音でじっと集中して聴くことだ。音楽に耳を澄ます、それ以外の作業は、勿論何をしてもだめだ。

ただし、グールドなら話は別かも知れない。グールドは「日常生活でも聖徳太子のようなアネクドート(逸話)が伝わっている。人と会話をしながらベートーヴェンの楽譜を勉強し、電話をしながら雑誌を熟読し、シェーンベルグの≪組曲作品23≫を譜読みしながらAMラジオでニュースを、FMラジオで音楽を聞くことができる、等々。」(グレン・グールド 青柳いづみこ)と書かれているくらいの対位法的(マルチタスク)人間なのだから。だが凡人には、主には、とうてい無理だ。

 

 

 

楢山節考 青酸カリを薬局で売る

もうそろそろ死にたい、と思っている年寄りは山のようにいる。ただ、死ぬのに痛い目をするとか、恐ろしい目にあいたくないという場合が多いのではないか。それでは、主は薬局で青酸カリを自殺用に売ればよいと考えていた。

ただし、これには自殺に見せかけて殺人をする輩がきっと出てくるだろう。そんなことが起こるようでは、青酸カリを薬局で売るわけにはいかない。ちょっと、乱暴すぎるか。

そのうちネットでググっていると、医師による安楽死を行っている国がいくつかあるようだ。スイスは、自殺ほう助が合法化されてから約40年という長い歴史を持ち、必ずしも医師でなくても自殺ほう助が可能だ。オランダ・ベルギー・ルクセンブルクは、医師による自殺ほう助と毒薬の投与が認められている。これを積極的安楽死というらしい。

一方、患者の苦痛を軽減する意味で延命措置を施さないというのが消極的安楽死というらしい。日本はといえば、現在は、医師が人工呼吸器を外すと刑事責任を問われたりする。これを見直そうという機運はあるようだが、弁護士会が反対しているとある。

時代劇、NHKの大河ドラマなどを見ていると、登場人物があっけなく死んでいく。侍は戦闘で討ち死にをするし、そうでなくても50歳くらいになると病死する。当時、「責任を取る」ということはハラを切るか斬首されるかを意味していた。今との対比でいうと、実に潔い。

主は1954年に発表された深沢七郎の「楢山節考」を、ふと思いだした。「楢山節考」は、2回映画化され、2回目の映画化である1983年のカンヌ国際映画祭にてパルム・ドール(最高賞)を受賞している。ある種普遍的なテーマなのだろう。

楢山節考

この小説では、口減らしのため70才になる寒村の老人が山へ捨てられる、という厳しい掟(棄老)が描かれている。他にも哀しい現実が全編に残酷なまでに描かれているのだが、登場人物は、掟に抗うことなく淡々と定めを受け入れているところが印象深い。今と当時は時代が違い経済状況が劇的に良くなったとはいえ、歴史の上でたかだか半世紀ほどしか経っておらず、日本人のDNAには貧困の記憶がまだ残っている気がする。

アマゾンのこの本の紹介文には次のように書かれている。ーーお姥捨てるか裏山へ、裏じゃ蟹でも這って来る。雪の楢山へ欣然と死に赴く老母おりんを、孝行息子辰平は胸のはりさける思いで背板に乗せて捨てにゆく。残酷であってもそれは貧しい部落の掟なのだ―因習に閉ざされた棄老伝説を、近代的な小説にまで昇華させた『楢山節考』。。

 今は、違う。食糧事情も医療事情も昔とは比較にならないくらい改善した。だが、一部では、貧困の果ての老老介護殺人や子の親殺しなど悲惨な現実もありながら、姥捨てすることは許されず、つらさがさらに厳しいものになっている。

もちろん、誰しも生きたいだけ生きればよいと思う。しかし、憲法で謳われている健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を政府が保障しているとは思えないし、それは別にしても、死ぬ自由も与えるべきだと思う。

 

 

 

「世界に分断と対立を撒き散らす経済の罠」スティグリッツ 平等とは何か

「世界に分断対立を撒き散らす経済」                   (ジョゼフ・E・スティグリッツ 原題は”The Great Divide”)

”The Great Divide”という簡潔な書名が日本語に訳されるとき、どうして「世界に分断対立を撒き散らす経済」と意訳されるのだろう。主は、うまい翻訳に思えず、少し疑問を感じる。主なら「世界に分断と対立を撒き散らす犯人はコイツだ」とするだろう。(文字を一部赤くしたのは、この本のタイトルが一部赤字で印刷されているからだ。写真はアマゾンから)

スティグリッツ(世界に分断と対立)

スティグリッツは、アメリカの経済学者で、「情報の非対称性」の理論でノーベル経済学賞を2001年に受賞した。クリントン政権で大統領経済諮問委員会委員長をつとめ、世界銀行のチーフエコノミストだったこともある。要するに、各地で発言する影響力のある経済学者だ。

スティグリッツの「情報の非対称性」を少し説明すると、経済主体のうち特に買い手のほうに情報が少ない「情報の非対称性」があるために、合理的な行動が出来ず、結果として最適な資源配分が実現できないということを数学的に証明した。この現象はどんな商品にも当てはまることが、容易に理解できるだろう。我々が保険を掛けるとき、保険会社は保険のことをよく知っているが、我々はすべてを知って保険をかけるわけではない。商品を買うとき「情報の非対称性」は広く存在する。ちょうど今、フォルクスワーゲンのディーゼル車が、実は非常に空気を汚していたということが発覚した。これなどは、事実が消費者に知らされていれば(「情報の非対称性」が、もしなければ)、誰もこの会社の車を買わなかっただろう。

さて、内容を要約するためにこの本の帯のコピーを引用すると 「格差は冷徹な資本主義の結果ではない。1%の最上層が、自分たちの都合のいいように市場のルールを歪め、莫大な利益を手にし、その経済力で政治と政策に介入した結果なのだ。だが格差の拡大は、経済や社会の不安定と混乱をもたらし、やがてはすべての人々を危機へと導くーーー」とある。

40年前、主が大学生の時に学んだ新古典派の経済学では、経済主体が合理的に行動するという前提条件を満たせば、最適な資源配分が実現される(有名な「神の見えざる手」が働き、需給は均衡し失業は起こらない)としていた。非常にシンプルで楽観的だが、もしそうなら、政府が介入することなく、市場が最適解を与えてくれるということになる。こうした考えが、「小さな政府」、規制緩和やグローバリズムのトレンドの根本にある。

第二次世界大戦のあと、市民社会が広く実現し格差が縮小した時代が続いたように見えた。だが、1980年代のレーガン大統領の登場あたりの時期を境に、規制を撤廃し、民間会社の競争が社会資源を効率的に配分するとさかんに言われるようになり、アメリカ国内だけではなく、地球規模でグローバリズムが言われるようになり、格差が拡大し始める。

今のアメリカでは、1%の超富裕層とそれ以外に別れてしまい、99%のほうはこの30年間!所得がほとんど伸びていないのに対し、1%の超富裕層が富の4分の1を持つまでになっている。リーマンショック後の経済成長のうち、なんと97%は上位1%が手にしたとある!

過去30年間で、アメリカで順調なのはこの1%の層だけで、残りは停滞しており、中間層から下層への移行が起こっている。この不平等に対し、スティグリッツはさまざまな角度から、吠えまくる。大声で警鐘を鳴らす。アップルやグーグルなどの巨大企業が生まれた一方で、デトロイトなど過去の製造業の中心地は、いまでは廃墟のようになっている。一方、富裕層は、下位の層を「怠け者」と考え、自分の税金が低所得者層に使われることを激しく嫌っている。スティグリッツは、このような社会の分断は、全体として資源が効率的に使われていない状態だという。貧しい層の能力が、十分の発揮されていない。また、この激しい社会格差は、経済成長を減速させ、社会を不安定にすると繰り返し述べている。

金持ちは、自分たちが高い報酬を手にし、多額の財産を持っていることに対して、それは努力や能力の結果で、当然だと考えている。しかし、この本で繰り返し述べられているように富者と貧者の経済格差は、正常な経済活動の結果ではなく、各種の社会政策、税制、教育の機会不均等などの人為的な介入により生み出されたものだ。

アメリカに比べるとマシだが、こうしたことは日本でも起こっている。言わずもがなだが、離婚した片親(特に女性)家庭の貧困、その子供への貧困の連鎖、20年続いたデフレによる非正規就労者の貧困、結婚できない層の増加、出生率の低下など、「一億総中流」と言われた高度成長期には見られなかったような惨状が、そこかしこに広がっている。一刻も早く、経済を立て直し、広がった格差の是正が必要だ。

ところが、政府は格差解消に真剣に取り組む気配がない。財務省やマスコミは、財政赤字にフォーカスし、国の財政を家計のように考え、財政赤字の解消には、増税と歳出削減しか他に方法がないという誤った観念に囚われ、財政危機を煽るばかりだ。公共事業は、効果のない非効率の代名詞のように言われる。しかし、公共事業は、社会資本の整備を行うもので必要なものだ。デフレが20年も続いたため、デフレにかき消され効果が出なかったのだ。一部で非効率的な公共事業があったので、すべてが悪いとの印象を社会に与えている。高齢化に伴い増加する社会福祉費用。これも財務省は増加率を削減しようと躍起だが、必要な福祉は国が負担すべきだ。

巨額の財政赤字が日本国の信用を失わせ、やがて国債の暴落とハイパーインフレが始まると言われることがあるが、これはデマだ。アベノミクスが始まって2年、大量の国債を日銀が買っているが、国債価格は安定し、金利も史上最低の水準で安定している。

今年6月、年金の支給額が少ないと訴え、老人が新幹線の車内でガソリンを被って焼身自殺するという象徴的な事件があった。誰でも、生活保護程度の金額を手にできるよう国が面倒を見るべきだ。

主は定年退職したばかりだが、老後を安心して過ごすためには、現在の平均的な年金の水準では、退職時に最低限持ち家と3000万円の現金が必要だと言われている。

このような条件を満たす高齢者がどれだけいるというのか。週刊誌の見出しではないが、夥しい下層老人が社会を漂流するだろう。また、何十年もあくせく働いた後、やっとて建てたマイホームとやっと貯めた貯金を取り崩しつつ、不安な老後を細々と過ごすのが、国民の理想の姿だとは思えない。老後は国が最低限の生活を保障することにより、若い勤労者層も安心して結婚し、子供を作り、活力ある社会となるだろう。機会均等の観点から、教育費も無料を基本にすべきだ。

アメリカの考える「小さな政府」は反面教師だ。答えははっきりしている。「小さな政府」を是とするのをやめ、北欧型の高福祉、高負担へ明確に転換するべきだ。

 

 

 

 

 

「世界でいちばん石器時代に近い国パプアニューギニア」山口由美

「世界でいちばん石器時代に近い国パプアニューギニア」(幻冬舎新書 山口由美)を読む。発行されたのは2014年11月だから、最近だ。

主がパプアニューギニアから日本へ帰国して間もないこともあってか、この国について聞かれることがときどきある。主がこの国を様子を説明したあと、「数十年前まで高地ハイランド)は石器時代だったんです!」と加えるのだが、いまいち聞き手との間に温度差があるようで、こちらが思うようには驚いてくれない。こう言えば良かったのだ、「世界でいちばん石器時代に近い国パプアニューギニア」。さすが売れ筋どころを揃えている幻冬舎、キャッチーな書名が核心を衝いている。

主は2年間パプアに住んだのだが、この本には主が知らなかったことが多く書かれ、手際よくまとめられている。山口さんは海外旅行とホテルの業界誌のフリーランス記者だったとのことで、学術的ではないものの、この国のことについて、有吉佐和子、人類の進化の過程を研究した進化生物学者のジャレド・ダイアモンド、国民的嗜好品のブアイ、いまも残る黒魔術、水木しげる、日本軍や天然資源のLNGなどなど、幅広く情報が満載されている。もし、パプアニューギニアがどんなところか興味をお持ちであれば、この本はかなりお勧めだ。

この本の中に「First Contact」という映画のことが出てくる。1930年代にオーストラリア人が金の採掘を目的にパプアニューギニアの高地(ハイランド)へ行く。こうして、石器時代の暮らしをしていたハイランダーと西洋人(近代文明)が初めて遭遇する。まるで宇宙人に会ったような言葉だが、現地の人たちにとって白人との遭遇は、まさしく宇宙人とのそれだったに違いない。

白黒フィルムで実写されているさまは、われながらボキャブラリーが乏しいなと思うが、「凄い!」の一言しかでてこない。葉っぱや草を身にまとい、鳥の羽を頭の毛に刺したハイランダーのところに、白人が現れる。ハイランダーたちは白人のことを、先祖が現れたと驚愕する。先祖が白い姿になって蘇えるという言い伝えがあったのだ。白人が空から来たのか、土の中から出てきたのか、水の中から出てきたのか、全くわからず混乱する。

ハイランダーのリーダーが白人に近づいていくと、襲われると思った白人はリーダーに発砲する。ハイランダーたちは、白人の強さを思い知る。

白人のライフル銃が、豚を一撃に殺すさまを見て泣き喚き、走り出す。蓄音機を死者の魂を閉じ込めた箱だと思い、その声(音楽)におののく。恐怖感が素直に表情に出ている。缶詰のキャンベルのフタを見て、初めて金属を目にし、貴重品だと直感したハイランダーは奪うように額の飾りにする。女性は白人たちが近づいてくると、食われるかと恐怖を抱いていたが、関係をもって「なんだ、男だ」と納得する。

YOUTUBEで、このファーストコンタクトを見ることが出来る。映画は英語だが、ハイランダーの喋る言葉は、英語の字幕が出るので分かりやすいと思う。

https://vimeo.com/51548963

次の写真は、マッドマン。毎年9月に行われる、全国各地のシンシン(踊り)が一同に見られるハイランドのゴロカショーの一枚だ。お面をずらし、顔を見せてくれた。全身に泥を塗りたくり、弓を手に持っている。主もマスクをかぶらせてもらったが、結構な重さがある。

MADMAN (2)

 

安達誠司 VS 池上彰

安達誠司さんの「ユーロの正体」(2012年11月幻冬舎新書)と「円高の正体」(2012年1月光文社新書)、池上彰さんの「池上彰のやさしい経済学2ニュースがわかる」(2013年11月日経ビジネス人文庫)の3冊を読んだ。池上彰さんの本は、読了したわけではなくざっと目を通したというところだ。

安達誠司さんの「ユーロの正体」はちょうどリーマンショック後のユーロ危機(PIGSと言われるポルトガル、アイルランド、ギリシャ、スペインの通貨危機)のあと出版された。それは、アメリカ発のサブプライムローンに端を発したリーマンショックにより、好調だったユーロが変調し、ギリシャは粉飾決算していたことがばれ、スペインなどでは住宅バブルがはじけ、経済が急速に悪化した。

EUは政治状況、経済状況や雇用環境などさまざまに違う国々が、そうした諸条件が揃わない状況にもかかわらず、理念を性急に追求し、各国の通貨を捨てユーロに通貨統合してしまった。このことにより、金融政策は欧州中央銀行(ECB)のみが行い、各国ごとの政策が採れなくなった。こうなることは、国ごとの不況や景気過熱に対する対処方法が致命的になくなったことを意味する。すなわち、共通通貨ユーロを使うということは、域内の各国にとって為替レートを固定するということと同義になる。ドイツは生産性の向上の儲けがマルク高になることで相殺されていたが、ユーロに代わるとどんどん競争力を増した。一方で、農業と観光を除けば取り柄のないギリシャのような国が、レートを固定してドイツなどの優等生と同じ土俵で共存するのは無理がある。

イギリスはユーロに入っていない。これは、ユーロの前身であるEMS(European Monetary System)時代に、為替安を見越したジョージ・ソロスが率いるファンドにポンドを売り浴びせられ、ポンドは暴落、変動相場へ移行せざるを得なくなったものだ。

今年、再びギリシャ危機は起こった。なんとか、EUはギリシャに借金を貸し続けることを決め、ギリシャはEUに残っている。しかし、主のブログで紹介したとおり、ノーベル経済学賞を受賞したスティグリッツが、EUを出るべきはドイツだと言うほど矛盾は大きい。金融政策をとる余地のないギリシャにとって、EUから強制される緊縮策は出口がないとわかってくる。

一方「円高の正体」は、「円安」の今何を言うのかと感じるかもしれないが、現在でもこれまでの円高とアベノミクス以降の円安を理解するうえで、格好の書籍である。

この本では、話を単純化するために、為替レートを流通する貨幣量の比率だと説明している。普通、為替レートの説明では、購買力平価説を紹介し、二国間のマクドナルドのハンバーガーの値段の比率や、金利差などを根拠にあげることが多いのだが、単純化することで非常にわかりやすくなっている。また、バブル崩壊後ずっと、いかに人為的に円高誘導され、不況を克服するために行った財政出動が効果を上げずに、日本の借金を増やしたということが理解できる。不況下で行う消費増税が如何に逆効果か、ということもわかる。

この安達誠司さんの2冊は、経済をわかりやすく理解させ、同時に時代を超える普遍性があるので、今でも読む値打ちがある。

ところで主は、最近日経新聞を取り始めた。このおまけとして、3冊の書籍のうちから1冊を選ぶことが出来た。それで池上彰さんの「池上彰のやさしい経済学2ニュースがわかる」を選択した。池上彰さんは、テレビにしばしば登場し、書店には大量のベストセラーが並んでいる。非常にわかりやすく物事を掘り下げて説明してくれるので主もファンである。

しかし、この本は経済の主だったトピックをわかりやすく説明しているのだが、現在行われている「量的緩和」には触れていない。「流動性の罠」(金利はゼロ以下にできないため、その状態では金融政策が効かなくなること)というやや専門的なことについて触れているのだから、浜田宏一、安達誠司さんなどリフレ派の「量的緩和」により市中の貨幣流通量を増やし、その貨幣が国債や株式などの投資市場に流れることで資産効果を上げ、インフレ期待をを生み出そうという主張を紹介しないというのは、残念で公平でないような気がする。

 

アスペルガー症候群とグレン・グールド

グールドは、さまざまな疾患を生涯にわたって抱えていた。少年期の終わりには、早くも処方薬を手放せなくなり、大人になると薬を山のように飲んでいた。カナダとアメリカの国境で、あまりに大量の薬を持っているために不審がられ、税関で拘束されたくらいだ。確かグールドがデビューしたての頃の映画にも、似たようなシーンがあった。インタビュアーが旅行の時には、薬でトランク一つが一杯になっているそうですね?」と尋ねる。 それに対し、グールドは「トランクは大きすぎるよ。アタッシュケースぐらいなもんだよ」と答える!!

グールドが抱えていた疾患のうち、心気症(ヒポコンデリー)はよく知られているが、不眠や情緒不安定にも悩まされていた。複数の医師にかかり、他の医師の診察を受けていることを隠して、精神障害や情緒障害の処方薬を同時にもらい、大量に飲んでいた。彼の友人の精神科医のピーター・オストウォルドが1996年に書いた伝記を読むと、グールドの根底にある性向として、アスペルガー症候群が強く示唆されている。アスペルガー症候群が広く認知されるようになったのは、1990年代というから、グールドの生前には知られていなかった障害である。アスペルガー症候群は自閉症の一種で、対人関係が不器用で、他人の気持ちや常識を理解しづらいことから、社会に溶け込むことができずさまざまな問題を引き起こす。だが、一方で人並み外れた能力(高度な集中力や深い知識)を持っていることが特徴である。

そうした関心から「アスペルガー症候群」(岡田尊司 幻冬舎新書)を読んでみたのだが、アスペルガー症候群がグールドにまさにぴったりあてはまり、非常に驚いた。

一般にアスペルガー症候群を持つ人は、他人の気持ちを理解できづらいために周囲から疎まれ、それが原因となって、持てる能力を発揮できず、生きづらい生活になってしまう場合が多い。しかし、グールドの場合は、母親をはじめとする周囲のサポートがあったために、生涯をとおして彼が持つ高い能力を音楽の分野で発揮することができた。このため、音楽の才能をどんどん高めることが出来た。演奏のみならず、音楽評論家、作曲家、プロデューサーでもあったが、それらはすべて音楽から出たもので、(株で儲けていたとか、安倍公房原作の映画「砂の女」や夏目漱石の「草枕」に夢中になったりしたという事実などもあるにはあるが・・・)彼は音楽に人生のすべてを、土曜も日曜もなく、朝から晩まで捧げていたと言っても間違いではない。

グールドと同じくアスペルガー症候群を抱えながら功績を残した人物として、アインシュタイン、エジソン、グラハム・ベル、ヒッチ・コック、ダーウィン、西田幾多郎、ディズニー、ビル・ゲイツなど多くの例が上げられている。

以下で、アスペルガー症候群を感じさせるグールドの子供時代を紹介しよう。

グールドの母フローラグリーグ(Grieg 1843-1907、ノルウェーの作曲家)が母親のいとこにあたることを誇りにする声楽教師であり、ピアノ教師でもあった。教会の聖歌隊が縁で10歳年下の父親バートと知り合い1925年に結婚する。二人とも敬虔なプロテスタントで、深く音楽を愛していた。バートは毛皮商を営んでいたが、美声の持ち主でヴァイオリンを弾くこともできた。フローラは、バートとの結婚によりプロの声楽家になることをあきらめる。当時の女性にとって結婚は、主婦に専念することを意味する時代だった。このことが、グールドをプロの音楽家にしたいと考えるきっかけになったかも知れない。

フローラは何度かの流産ののち、1932年40歳で待望の子供グールドに恵まれるのだが、子供がお腹の中にいるときから、歌いながらピアノを弾き、胎児に聞かせていた。この夫婦にとってグールドは「念願の子」であり、一人っ子で甘やかされ過保護に育てられる。

グールドに絶対音感があることをバートが見抜き、フローラは3歳の時にピアノを教え始める。グールドは文字を読むよりも先に、楽譜が読めるようになる。グールドの死後1986年にフランスで催されたグールド展のパンフレットに、バートは赤ん坊のグールドの様子を次のように書いている。「祖母の膝に乗ってピアノに向かえるようになるや、たいていの子供は手全体でいくつものキーを一度に無造作に叩いてしまうものだが、グレンは必ず一つのキーだけを押さえ、出てきた音が完全に聞こえなくなるまで指を離さなかった」音楽の才能は、明らかだった。フローラはピアノで弾くさまざまな和音を、家の離れた場所のグールドに当てさせるというゲームをするのだが、グールドが間違えることはなかった。一方、グールドは、同年齢の子供とまったく遊ばなかった。フローラは音楽を熱心に教えたが、音楽以外の、例えば友達と協調することや我慢することなど、子供に必要なことを上手に教えることができなかった。こうして、グールドは、6歳になった時人間よりずっと動物となかよくできる自分を発見する! 小学校に行く年齢になると、グールドは両親にこう訴える。「6歳の時に両親に言って、なんとか納得させたのは、自分はまれに見る繊細な人間なのだから、同じ年頃の子供たちから受ける粗野な蛮行に曝されるべきではないということでした」その結果、両親は1年弱、自宅で家庭教師を雇う。2年生から仕方なく小学校へ行くようになるのだが、全く教師、同級生と溶け込むことがない。「ぼくは先生たちとほとんどとうまくいかず、生徒のだれとも仲良くすることができなかった。ぼくの性格には児童心理学者のいう集団精神がまったく欠けていたのです」と語っている。ピアノに没頭する、他の子供たちとうまくいかない、ますますピアノに逃避するというサイクルにグールドは入っていた。

他方、グールドは音楽家としての才能は、すぐに母のレベルを追い抜いてしまう。もう、子供へ教えることができないのだ。すると、フローラはしかるべく次の行動に出る。7歳になるとトロント音楽院へ午後通わせるのである。また、グールドの音楽の才能が遥か高みに上ってしまった10歳の時には、高名なチリ人のピアニストのゲレーロに教師を依頼する。ゲレーロは、子供を弟子にとらない主義だったが、グールドの天才をすぐに認め教師になることを承諾する。このときの、教授法が変わっている。グールドの性格を見抜き、教えるのではなく、グールドが正解に気付くようにしむけたのだ。どんどん、正解を見つけ才能を伸ばしていくグールド。

グールドを形作ったのは、明らかにこのゲレーロなのだが、グールドはピアノは独学だったと生涯言い続け、ゲレーロの影響を認めなかった。

おしまい

 

「グレン・グールド 未来のピアニスト」 青柳いづみこ

「グレン・グールド 未来のピアニスト」(青柳いづみこ 筑摩書房)

この本は、筑摩書房というメジャーな出版社から2,200円で売られ、グールドを扱った書籍の多くは専門書扱いで5,000円以上するのに比べると、手に取りやすい価格だ。主は、2年以上前に買っていたのだが、途中で馬鹿らしくなって読むのをやめていた。

ウィキペディアによると、青柳いづみこはドビュッシー研究家で東京芸術大学卒のピアニストでエッセイストと書かれている。1950年生まれというから、現在は65歳である。グールドは、1932年生まれだから、音楽評論家の吉田秀和がグールドを高い評価で日本に紹介したのが1963年なので、彼女がピアニストを目指していた時期に、レコードでグールドのことを知る機会はあっただろう。

青柳いづみこは本書で次のように言っている。「私が芸大のピアノ科の学生だったころは、グールドを認めるか認めないか、もっと端的に言ってしまえば、グールドにハラを立てるかどうかで、まともなオーソドックス路線か、が判定されたものだ。グールドの名はちょうどキリシタンを識別した踏み絵のように、同士を識別する暗号がわりに、ちらっと横目でぬすみ見る視線とともに便利な道具として使われていた。」「私が芸大生だった1970年代、ピアノ科の学生たちの間ではグールド自身が『話題にしないほうがよい存在』だったのだが・・・・」

また、次のようにも言っている。「文筆活動を始めるまでは、グールドの熱心な聴き手でもなかったことを、断っておこう。彼のレパートリーは私のそれとほとんど重なりあっていない。私はごくわずかの例外を除いてバッハを弾かないし、グールドもまたわずかの例外を除いてドビュッシーを弾かない。彼の演奏のあるものは私に非常に親密に聞こえるが、あるものはまたひどく遠く聞こえる。遠く聞こえるものの中には、一般的にはグールドの代表作と見なされている録音も含まれている。」

青柳いづみこは、この本の価値が、「実演家」から見たという一点にしかないのではないかと危惧している。しかし、その危惧どおり、この本の価値は、プロのピアニストの経験から見たグールドとの対比に限られる。名ピアノ教師として有名なパデレフスキが、ピアノの練習について「一日休むと自分にわかり、二日休むと先生にわかり、三日休むと聴衆にわかる」とたとえているが、長じたグールドはそのような練習とは無縁だった。グールド以外の普通のピアニストから見たグールドがどう見えるかという部分が、この本の取り柄だろう。

確かに、著者はグールドの演奏を公平に絶賛している。だが、本心のところはグールド嫌いだ。グールドのトピックは、評論家として求められる変わらぬ需要があり、青柳いづみこはそれに応じているだけだ。

こういうグールド嫌いの人は多いと思うのだが、グールドのどこが気に食わないのだろうか。コンサートドロップアウトしたことが気に食わないのだろうか。テープをスプライスし、完全な曲を作るのが気に食わないのだろうか。挑発的な解釈が気に食わないのだろうか。あるいは、ロマン派の曲が嫌いで、爆発的なフォルテッシモが出せないところが評価できないのだろうか。グールド以外の多くは、右手が旋律、左手は伴奏というスタイルであり、これをはずれて対位法的に声部を分けて弾くことが気に入らないのだろうか。そのあたりのところが、主は相変わらずよくわからない。

おそらく、『オーソドックス』なピアニストは、対位法(ポリフォニー)のような意識を覚醒させるような演奏よりも、流麗なメロディーとハーモニーを紡ぎだす(右手でメロディー、左手で伴奏。ホモフォニー。)ことで観客を陶酔させるような演奏を理想と考えているのだろう。グールドの場合は、明らかにベクトルの向きが違う。グールドは、古典派以前の音楽と、そのあとはロマン派(印象派)がすっぽり抜け、シェーンベルグなどの現代曲に指向性がある。

ここで思いつくのは、パルスのことだ。グールドは、パルスを一定に保ちながら演奏するのが非常にうまい。このことは、バッハなどに非常に重要だ。ベートーヴェン、モーツアルトあたりまでは、もちろん緩急はつけるのだが、基本的なリズム(パルス)がかっちりしている。どんな早い、難しい旋律であっても、このパルスを守れるので、聴き手は心地よい。しかし、その後のロマン派のショパンや、ドビュッシーなどの曲になると、それこそ緩急の変化が、音量(ダイナミズム)の変化とともに基本にあり、一定のパルスが持続しない。逆に、カナダテレビ放送協会CBC)で1974年に放送されたドビュッシーの「クラリネットとピアノのための第1狂詩曲」は、グールドが珍しくロマン派の作品を取り上げているのだが、一定のテンポで演奏され、これはこれで悪くないものの、普通に演奏されるドビュッシーと比べるとかなり違和感がある。こうしてみると、グールドはパルスが乱される曲の演奏には向いていないと感じる。

だが、この異才のピアニストの本質は、ロマンティシズムにある。バッハは、気持ちを込めて弾きバッハでなくなる。現代曲でもそうだ。これほど心をこめて弾けるピアニストは他にいない。