若者よ! マスコミを信じるな (3)

前回からの続き

⑦「日本もグローバリズムに後れてはならない」ーーー               グローバリズムという言葉は古く、1990年ころが最初のようだ。「地球主義」と訳されることもあるようだが、そんな空想的で理想的なことはまったくない。グローバリズムといわれると、島国日本のやり方が遅れているように聞こえるが、そうではない。 ミルトン・フリードマンが「選択の自由」を書き、1980年代以降、市場万能主義が礼賛される。この主張を理論的な柱にして、規制を撤廃し、政府の関与を最小にすることが効率的で望ましいとされた。この考え方の延長線上にグローバリズムはあり、関税を撤廃し、地球規模での競争が資源の最適配分を実現するという考え方だが、そんなことはない。資源の最適配分を実現するには、多くの前提条件が必要なのだが、これが素人が考えても満たされるはずがないとすぐにわかる。 その具体的な前提を、藪下史郎「スティグリッツの経済学『見えざる手』など存在しない」から引用してみよう。①私的利益を追求する合理的な個人と企業 ②多くの売り手と買い手がいる完全競争市場。売り手も買い手も価格支配力を持たない ③完全情報。売り手と買い手も取引される商品の価格と質に関する情報を持っており、情報量に差はない ④取引費用はない。情報のための費用を含め、取引に必要とされる費用は存在しない ⑤同種の財・サービス。一つの市場で取引される商品はすべて同質であり、たとえば労働サービスについては能力・技術などの差は存在しない ⑥完備市場。すべての財・サービスを取引する市場が存在している。 ⑦スムーズな市場調整。需給が均衡するように素早い価格調整がなされる。・・・①から⑦まで満たしてはじめて仮説は有効に働く。このようなことは到底ありえないので、市場の失敗、机上の空論、先進国側の帝国主義だと考えるべきだろう。 話は変わるが、ISOという国際規格があるが、日本企業はグローバルスタンダードの掛け声の下、このISO取得に躍起になる。おかげで、それまであった日本のQC運動が下火になってしまう。ISOとQC運動は全く性質が違う。ISOはトップダウン、QC運動はボトムアップ。QC運動のほうが、断然すぐれているのだが、日本のローカルな運動と思われ、不景気も相まって消滅してしまう。ISOを世界標準などと思い、その気になっていたがために、競争力の一部を失ってしまった。

⑧「給与は成果に応じて支払われなくてはならない。年功序列はもう古い」ーーー    アメリカ人の1%の高額所得者は、その報酬の受け取りについて、高い生産性と能力に見合ったもので何十億円もらっていても当然だという。所得の低い人は、努力が足りないのだという。この発想は、成果主義の延長にある。だが、その貧者と富者の差はもちろん、正当なものではない。恣意的に社会制度や政策により生み出されたものだ。現代社会は勝者が儲けを総取りする傾向があり、1%の富裕層と99%の貧困層に以前にもまして分断されている。 社会の成員全員が持てる能力をすべて発揮し、資源が最有効に使われる状態(経済が成長し、完全雇用が実現されたプラスサムの状態)がもっとも望ましいのだが、現状は、貧者が高い失業率により持てる力を発揮できない一方で、無力につけこむ学生ローンや、無茶で高額の手数料を取られる住宅ローンなど、貧者のパイを減らし富者へ集めているマイナスサムの状態である。アメリカは機会均等が失われて久しい。機会均等がない状態で、成果主義云々はあり得ない。

成果主義と年功序列のどちらがいいかというのは、決して良し悪しの問題ではなくて、どのような社会を望むかという問題だ。安定し、長期にわたる成果を求めるなら、終身雇用、年功序列が優れている。長期の目標や外部経済(公害など)を斟酌せず、短期の成果で勝者と敗者を明確に分けるなら「成果主義」だろう。だが、北欧のように教育、医療に費用をかけ社会保障のセーフティネットを充実させて経済成長を果たしている国もある。ただし、北欧の成功は、意図的に黙殺されることが多い。

まとめーーー                                  主は、昔、愛読書は大江健三郎で朝日新聞のファンだった。支持政党はどちらかいうと左寄りで自民党は嫌いだった。常に政治的、倫理的にニュートラルであることをモットーにしていた。しかし、そのニュートラルはマスコミや世間の幻想に色濃く染まっており、大いにバイアスがかかっていた。このことに気付いたのは、今から10年前、50歳の頃だった。藤原正彦さんのベストセラー「国家の品格」(2005年)を読んで、衝撃を受け、目からうろこが落ち、価値観が変わった。いまや、一番ひどいと思うのは朝日新聞である。朝日新聞に限らず、日経新聞もそう。雑誌はさらにひどい。読者の興味を煽れればよしとしており、すべてのマスコミは本当のことは書かない。嘘ばかり並べていると考えるべきだ。    おしまい

 

 

 

若者よ! マスコミを信じるな (2)

前回からの続き

④「ドイツの財政収支が均衡しているのは素晴らしい」ーーー             日本とは大違いだが、ドイツは、財政がほぼ均衡するところまできている。これを手放しで称賛するのは間違っている。 ドイツの経常収支が改善し始めたのは、旧東独の再建が一段落し、ユーロの流通が開始された2002年頃以降だ。通貨統合以前は、周辺国に対するドイツの相対的生産性上昇はマルク高で相殺されていたものが、統合後はドイツの輸出競争力上昇に直結したことが根底にある。要はEUの中で、ドイツが通貨統合のメリットを一番受けているのだ。この強すぎるドイツの輸出競争力に対して周辺国から批判が出ているが、ドイツ人は「ドイツに責任は無い」「ドイツの黒字は相手国にプラスの面もある」と、批判をはねのけている。 大英帝国がカリブ海やアフリカ、アジアを「低開発化」したように、ヨーロッパ統合が生み出した「ドイツ帝国」は、南欧の「低開発化」を促進しているようなものだ。このEUのシステムの内部にある限り、ギリシャがドイツや北欧のような「先進地域」になれる可能性は非常に低い。ドイツ一人の収支の均衡は、他の国の犠牲の上に成り立っており、EUの存続を不安定にするものだ。

⑤「知的財産の保護は重要だ。先進国が途上国に知的財産の保護を貿易交渉で求めるの当然だ」ーーー                                  知的財産の保護は重要と一般に考えられている。中国はあらゆるコピー商品を売っており、このようなケースでは権利が確かに保護されないとならない。 だが、アメリカが知的財産権の保護を貿易交渉で主張するとき、それはあらゆる成員にとっての本当に保護すべき価値なのか確認することが必要だ。すなわち、アメリカの言う知財の保護が、将来に向けて新しい知識の獲得のインセンティブになるのではなく、特定企業の既得権益の保護のためであり、今後の新たな研究開発の妨げる場合がある。特に製薬に関する特許は、単なる発見が特許を得ている場合があり、アメリカの製薬会社の既得権を守るだけで、その後の他者の研究開発を邪魔する働きをもつことがある。先進国のいう知的財産の保護は、本当に守るべき権利なのか、それともその権利を認めることにより、自国民が不当に高い輸入品しか買えなくなってしまうのか見極める必要がある。

⑥「アメリカは機会均等の国、アメリカンドリームの国だ」ーーー           アメリカが実際にアメリカンドリームの国だったのは、1980年以前の話だ。今は、世界で屈指の不平等国で、アメリカンドリームは蜃気楼のようなものだ。貧しい親を持つ子が貧しい階層から抜け出す確率は非常に低く、機会均等は失われている。1980年といえば、レーガン大統領が登場した時代で、小さな政府を標榜し、市場の力を信じ、あらゆる分野で規制緩和が進められた。レーガンの後は、父ブッシュ、クリントン、息子ブッシュ、オバマへと続くのだが、この間ずっと規制緩和は押し進められ、貧富の差が非常に拡大する。特に息子ブッシュの時代に二つの戦争(アフガン侵攻、イラク戦争)を行い巨額の財政赤字を抱えるにもかかわらず、富裕層に対する二度の減税により、アメリカの不平等は決定的に悪化する。いわゆる1%の大金持ちと99%の貧困層の分断だ。「トリクルダウン」という言葉があるが、上層部に減税をすることにより、その恩恵がしずくのように下層に浸透することを言う。だが、これは富裕層が増加させる消費額は、中流・下層の消費額を明白に下回るために、効果はほとんどなく不平等を拡大させるだけだ。市場が万能だという迷信は、ある特定の条件、すなわち、情報が完全に共有され、完全雇用の状態で、寡占がなく競争が保障され、外部経済がないなどの条件が満たされている場合のみだ。こんな試験管的な状態は、現実にはあり得ない。このため、市場自体が欠点を持つというより市場を機能させるためには、規制が必要なのだ。 基本的にアメリカは今では一部の金持ちが世論を操作するきわめて特殊な国だ。アメリカのいうことを金科玉条にしてありがたがる時代は、はるか昔に過ぎた。アメリカのいうことは「眉唾」と考えないと判断を誤る。 最近「ピケティ」が高い評価を受けているが、ピケティの資本主義に対する批判も同様の指摘だ。

つづく

 

 

 

若者よ! マスコミを信じるな (1)

主、60才を過ぎやっとわかることがある。

われわれは間違った価値観や先入観をさまざまな角度から刷り込まれている。世間に流れている情報を、そのまま鵜呑みにしてはならない。自分の頭で本当かどうかしっかり考えなくてはだめだ。以下、経済ネタが多く恐縮だが、誤った都市伝説をざっと見ていこう。

①「日本の財政赤字は危機的だ。子孫に赤字のツケを回してはならない」ーー      これは、財務省の宣伝である。日本で宣伝されているほど、世界の誰も日本の財政赤字を心配していない。赤字は経済が成長すれば自然に解消に向かう。まず優先すべきは、経済成長だ。財務官僚は法学部出身者が多く、経済をわかっていない。国の赤字を我が家の赤字と同じように思って心配している。ところで、赤字がこれほど巨額になったのは、デフレ不況が続く中で、財政出動(公共投資)を積み重ねたのが原因だ。結果的にこれまでの財政出動が、効果がなかったことを見て、財政政策は効果がないという論も出てくる。(民主党の「コンクリートから人へ」というスローガンがそうだ)赤字がこのように大きくなったのは、デフレが20年も続いたからだ。まずはデフレを脱却することが重要だ。デフレを脱する局面になれば、財政政策は景気を素早く上向かせる効果がある。

②「円高になることは、円の値打ちが上がることなので悪いことではない」ーー      日経新聞は、円高になることを「円が伸びた」、円安になることを「落ちた」と表現する。「落ちる」より「伸びる」のほうがよさそうに聞こえる。だが、日本全体を見た時に、輸入より輸出のほうが経済に対する好影響が大きく、そのためには為替レートが安いほうが有利だ。マスコミの論調には、円高は円の国際評価が上がることなので望ましいといったことが言われるが、為替の決定要因には需給や金利などさまざまあり、円の値打ちが上がったと単純に喜ぶのは間違いだ。むしろ、世界の主要な通貨は、供給量を増やし通貨安競争の状態である。ここでこの競争に加わらないと、円高になり競争力が失われる事態を引き起こす。

 ③みんなが株を買うから株価は上がっていく」ーーー               日経新聞などでは、個人投資家へのセミナーなどを開き、個人が株を買えば株価が上がっていくようなことを言っている。しかし、日本の株は残高で4割、日々の売買量の6割が外人投資家が握っている。外人投資家といっても個人というより、ファンドだ。このため、彼らの売買が株価の上下に直結する。外人は、さまざまな世界中の投資の中で日本の株を一定の割合(これをポートフォリオという)保有しようとするのが基本的なスタンスだ。日本の株価に値動きがなくとも、為替が円高になればその分儲かるので、株を売ることになる。逆に為替が円安になると外貨で見たポートフォリオが下がるので、彼らは日本株を買い、株価は上昇するのだ。しかも、彼らは投機目的なので、ちょっとしたことで直ちに株を売買し、株価は乱高下することになる。こうしたことがわかってくると、日本の為替レートの変化の重要性に気付く。円は相対的に安全資産と考えられており、海外で経済不安が生じると安全とされる円が買われる。(株安の原因だ)ドルとの金利差も影響を与える。イエレンFRB議長は年内にアメリカの金利を上げると言っているが、これにより円安が進むことになる。(株高の原因だ)話を戻すと、日本人の個人投資家が株を買ったくらいでは、日経平均株価を上げるほどの力はないだろう。問題は外人の動きだ。

つづく

 

 

 

ギリシャ危機 ドイツがEUを出るべき スティグリッツとクルーグマン

written on 2015年7月12日

ギリシャ危機は、ギリシャがEU側にかなりの譲歩をして、その裏で債務の削減(帳消し)を要求するだろうといわれている。それに対し、EU側がギリシャの案を受け入れ、ギリシャがEUに残留するかどうかの瀬戸際にある、というのが大方の報道である。

だが、主が高く評価するスティグリッツは、過激にも「EUから出ていくべきは、ドイツだ」といっている。2008年の金融危機(リーマンショック)以後、ギリシャはEU、ECB、IMFの3者から緊縮策を受け入れさせられ、症状は悪化しているというのだ。

スティグリッツは、「ギリシャは間違いを犯したが、ユーログループはギリシャに有毒な薬を処方したことがより重大だ」と言っている。有毒な薬の処方とは、「具体的には公務員の解雇と自宅待機、年金支給額40%削減、公務員給与15%削減、医療保健費、教育費などの削減だ。その結果、失業率は25.8%、特に25才未満は64.2%となっている。GDPもマイナス8.9%(2011年)、マイナス6.6%(2012年)。貧困層と中流層のダメージが特に大きく、彼らがシリザを政権に就かせた原動力となった。」(シリザは急進派連合のこと)また、2015年1月28日付のスペイン紙は「ドイツは子どもの頭をもった巨人だ。何度も壁に頭をぶっつけても認識しないでいる」

http://newsphere.jp/world-report/20150206-1/

同じように主が高く評価するクルーグマンも同じ趣旨の発言をしており、政治体制が別々のまま通貨統合が行われたことにより、ギリシャのような弱い国にとっては、経済政策の余地がない。強い国の言いなりになって、背負った借金を返すだけの奴隷みたいなものだ。

http://newsphere.jp/world-report/20150629-2/

 

 

 

 

「グレン・グールド論」 宮澤淳一

「グレン・グールド論」(宮澤淳一 春秋社)

宮澤淳一は、グレン・グールドに関する海外で刊行された著作や、LPレコードのライナーノーツなど多くを翻訳をしており、日本のグレン・グールド研究における第一人者である。この「グレン・グールド論」は、2004年に出版され吉田秀和賞を受賞している。(吉田秀和は日本の音楽評論家の草分け的存在だ。)また、この「グレン・グールド論」により博士号を取得し、現在は青山学院大学総合文化政策学部教授である。

グレン・グールドはカナダ人ピアニストだ。それはわかっている。クラシック音楽の中心地ヨーロッパから離れていたことが、グールドを形作った。ただし、カナダ人はアメリカ人とほぼイコールだろう、というくらい単純に主は考えていた。

だが、カナダ人であるということは、アメリカ人とアイデンティティが全く違っていることにこの本を読んで初めて気づいた。カナダ人は、アメリカ人とは違う。カナダ人は、二つのモンスターにはさまれている。自然とアメリカである。カナダの北には北極へと続く広大な自然が広がっているが、日本人が抱く自然観とはほど遠い、厳しい自然である。南にはアメリカンドリームの国アメリカ。カナダ人はアメリカを常に意識しながらも、アメリカを単純に肯定することはない。両者のメンタリティーの差は、『アメリカ人は、どこかに陰謀でもない限りは負けるとは考えない。カナダ人は、気候や距離や歴史によって抑圧されているため、勝つと思っていない。』といわれるくらいに違う。カナダ人は、アメリカ人に対し劣等感を持ちつつも、アメリカ人を賛美することはない。日本人が日本人であることを常に意識しているように、カナダ人はアメリカを過剰に意識しながら、厳しい自然と共存し、サバイバルすることを常に意識してきたというのだ。

そういう意味では、グレン・グールドは典型的なカナダ人だった。アメリカデビューを成功させた後、最初のうちはニューヨークを録音の根拠地とするのだが、やがてトロントへ根拠地を移す。アメリカでの経済的な成功は少しも頭にない。むしろ、カナダへの恩返しがある。

彼は、20歳を過ぎたころから昼夜逆転する生活を送るようになる。太陽を憎み、モノクロの世界を好む。「静寂で厳粛な世界、荒涼として厳しく、色も光も動きもない」世界を理想と考えていた。(この表現は、バッハ「フーガの技法」についてのシュヴァイツアーの表現だ。グールドは、この「フーガの技法」を最高の音楽であると評価していた)

グールドには、彼の発明の「対位法」ラジオ・ドキュメンタリーがある。カナダ独立100周年記念の1967年に放送された「北の理念」がそれだ。4人の登場人物と1人の語り手を用意し、「北」についての意見を対位法のように同時に語らせる。テープを切り貼りし、フェードイン、フェードアウトなどの遠近法を用いながら、鉄道が線路を走る音を背景にさまざまな意見や思いが語られる。その後も10年にわたって、「孤独三部作」といわれる「対位法」ラジオ・ドキュメンタリーを作り続けた。当時は、ラジオの全盛期であり、新しい分野を開いたと評価を受ける。グールドは、リスナーが「同時に喋る言葉を理解できないという理由はない」という。だが、主は、「ラジオで複数の人が同時に喋ったら理解しづらいよな」と思う。普通の人にとって、こうした語り手が同時に喋るという手法の番組を聞くことは、理解が追い付いていけないものだ。だが、どうやらグールドはこういうこと、すなわち、対位法のように複数の旋律、会話を同時に理解することが当たり前のようにできたようだ。

グールドの言う「聴衆」も自分自身が基準になっていた。音楽の面では彼は特殊で、異常なまで高いレベルにいた。普通、語りが三人同時に喋りながらテーマに向けて話をするのを理解できないし、それよりも先に、そのような努力は放棄するだろう。だが、グールドは、それが可能だった。

グールドの考えでは、将来コンサートはなくなるだろうと言っていたし、リスナーは、異なった演奏家の録音の断片を集め、自分で曲を好きなように再構成して、楽しむだろうとまで言っていた。この発言は、グールドの見通しが間違っていたということではなく、聴き手(大衆)のレベルがグールドほど高くないということを示している。

彼自身の対位法的性格をあらわす逸話をいくつかあげよう。グールドは、友人で指揮者/作曲家ルーカス・フォスの奥さんのコーネリア・フォスとの間で、約10年間三角関係にあった。二人の子供たちも一緒に団らんしながらテレビドラマを見ているとき、グールドはピアノの楽譜を暗譜している。コーネリアがドラマの筋をグールドに尋ねたら、しっかりグールドはドラマの筋をすらすら答えたという。また、まだグールドがコンサートに出て演奏をしていた時代、素晴らしい演奏を讃えられるのだが、彼自身コンサートが終わり次第いかに早くタクシーを呼んで帰るかということに演奏しながら策略をめぐらしていたと述懐している。

宮澤のグールド評は正確だ。グールドが世間に向かって標榜していた「清教徒像」と、グールドの見えにくい現実(プライベート)を区別し、混同することがない。グールドは、晩年自分を「最後の清教徒」と言い、周囲に禁欲的イメージを与えることに成功していた。だが実際のところは、女性関係がいろいろあったと今ではわかっているのだが、その内実まではわかっていない。グールドは私生活を詮索されることを極端に嫌い、社会に向けて自分の意図する像を発信していた。

グールドのバッハに対する評価が取り上げられているが、宗教家としてのバッハ像と呼べるものはなく、音楽に限定された一面のみを捉えて評価している。グールドはバッハを時代遅れの頑固者という捉え方をし、宗教家としての評価や、宗教観についてはまったく気に留めていない。

こうしてみると、グールドは常に「結果にこだわっていない」と言えるだろう。「対位法」ラジオ・ドキュメンタリーも、これまでにない新しい手法を編み出してはいるが、何か主義を声高に主張していたり、押し付けようとする意図は全くない。バッハについても、バッハの精神が崇高であったとか言う気はさらさらない。書かれた音楽があくまで、対位法的によくできており、しっかりした構造を持っていたから、シェーンベルグもそうだが、グールドの知的水準にマッチしたのだ。言い換えれば、プロセス重視の人なのだ。 それでも、彼の演奏は神が宿っているようでもある。

「世界が日本経済をうらやむ日」浜田宏一

written on 2015年6月21日

結構時間がたってしまったが、2015年1月にタイトルの本「世界が日本経済をうらやむ日」が浜田宏一・安達誠司さんの共著で出された。この本を読んで数か月たってしまったが、感想などを書いておきたい。

2012年11月の衆議院解散から一気に、円安・株高が起こった。その選挙で安倍首相がアベノミクスを声高に表明、マーケットは経済政策の転換を予想、すぐさま反応したのだ。

それから2年半が経過し、日経平均株価は2万円を超え、失業率は3.5%を下回り、企業収益の改善から2年続きの賃上げが春闘で行われ、実質賃金が物価上昇率をわずかだが上回るほど改善するようになった。氷河期と言われていた若者の就職事情は劇的に改善し、数十年ぶりの売り手市場に変貌した。為替レートが円安をキープしていることで、生産拠点を海外に移していた企業が国内回帰する現象もはっきりしてきた。

これほど明確に浜田さんたちリフレ派が進めた金融政策は成功しているのだが、他の既存の経済学者たちが宗旨替えするということは全くない。町の書店で経済関係の本の見出しを眺めてみると、あいかわらずほとんどが現在の金融政策に警鐘を鳴らすものばかりなのだ。

「超」整理法で有名で時々マスコミにも登場する野口悠紀雄は、日銀の異次元緩和を批判(「金融政策の死」)し、現在の金融緩和を続けることはやがて国債価格が暴落、ハイパーインフレに陥ると主張する。日刊ゲンダイで1ドル=1万円という円安になるとまで言っている。

民主党政権時代で円高であった2011年1月に『1ドル50円時代を生き抜く日本経済』を出版した浜矩子は、アベノミクスを「アホノミクス」と批判してはばからない。民主党政権の時代の円高を見て、1ドル50円時代をまじめに予想しただけでも信頼性が疑われ、その後も相変わらず物事が見えないようだが、マスコミから干されるということはない。

昔から書店で多くの書籍を目にする藤巻健史(維新の党所属の参議院議員でもある)は、現在の金融政策を批判、ハイパーインフレが起こり1ドル=10万円になりかねない、財政悪化が太平洋戦争前と同じ状態だとまで言っている。書店には、読者の不安をあおるキャッチーなタイトルの本が多く並べられている。

アベノミクスが万能だというつもりはないが、こうした考えとは全く違う経済学者が幅を利かせて存在するという事実はやはりよくない。第一に「経済学」というからには、科学であってほしいと思うし、訳知り顔の素人の強弁と変わらない状況は、余分な不安を社会にまき散らす。第二にアベノミクスが成功するかどうかは、これが最後のチャンスだろう。日本は15年とも20年ともいわれる長い不況に手をこまねいてきた。その長いデフレの間に、賃金は下がり、共稼ぎをせざるを得なくなり、出生率が下がり、地方は存続の危機にある。こうした最悪の状況から、再び日本が復活できるかどうかという瀬戸際だ。財務省は財政赤字を強調し、マスコミも同調する。いま大事なのは財政赤字の解消ではない。まずは、経済成長が先だ。経済が成長するのにともなって財政赤字は自然に軽減される。消費増税で経済の腰を折っては何もならない。第三に短期の問題と長期の問題が混同されている。短期の問題は、金融の量的緩和とインフレ期待により実質成長力と潜在成長力のギャップを埋めることだ。これまでの日本はヒト・モノ・カネが十分に働いていなかった。その遊休を解消することが先決だ。第三の矢である成長戦略はこのギャップが埋まった時に、さらに成長力の限界そのものを高めるための方策であり、長期の問題だ。

アベノミクスを批判する側は、これまで国債の暴落、金利の急上昇が起こらず、経済の好循環が生まれつつある事実を客観的に見なければならないだろう。円安で輸入価格が上がり、価格転嫁をできない中小企業が困っているとか、格差が拡大したと言われることがあるが、民主党政権時代と比べてみるがよい。長く続いた自民党時代のデフレはもちろん悪いが、3年間の民主党政権時代はどうだったか。デフレスパイラルの深みにどっぷりはまり、極端な円高で日本の製造業は競争力を失い空洞化、雇用も長期の悪化(リストラの嵐)、非正規雇用の切り捨てなどが起こる。リーマンショックはアメリカ発なのに、いち早くアメリカは経済を立て直し、一番被害が少なかったはずの日本がいつまでも不況から脱することが出来なかった。(リーマンショックが起きた際アメリカは、日本が何も対策を取らず長い期間デフレに陥ったことを反面教師にし、すぐさま金融の量的緩和を行ったといわれている)

アベノミクスが始まってから事態は、これまでと比べずっと改善しているのだ。焦ってはいけないし、楽観はできないが、少なくとも間違ったデマで国民をミスリードする愚は犯してもらいたくない。

思わず主の強い主観の表明となった。しかし、この本を読めばいかに経済学の世界が、とりわけ日本の主流派といわれる人たちの経済学の世界が、間違ったバイアスから抜け出せていないと理解することができる。

ちなみに、最後の章で世界の経済を見る目を養って株で儲けを出せるかどうかということがトピックになっているところもあり、それだけを読んでみても値打ちがあるだろう。

 

 

 

 

ハイレゾとSACD購入

最近、CD-S3000を使って普通のCDを再生している。これが非常にいい音がする。これまで、CDはリッピングしてパソコンを使いDAC経由で再生していたが、このCD-S3000、さすがに高級機だけあって、そういう手間が必要ない。もちろん、SACDはさらに良い音がする。

CDを1枚ごとに再生した場合、PCオーディオと比べると、曲間の時間が正確なようだ。PCオーディオでは、すべての曲間の無音の時間が同じだが、CD再生では、第1楽章と第2楽章の間の無音の時間より、1曲目と2曲目の無音の時間の長さのほうが長くとられているようだ。ちょっとしたことだが、使い勝手が良い。リッピングの仕方が悪いのかもしれないが。(2015/10/21追記)

————————

SACDとSACDプレイヤーは世間にあまり流通していないので、ずっと買うまいと思っていたのだが、グレン・グールドの10種類ほど発売されているSACDディスクを聴きたいという欲望に負けて買ってしまった。

さすがにSACD、ハイレゾだけあって良い音がする。グレン・グールドのアナログで録音されたマスターテープを音源にしてSACDは作られているのだが、自然な音の厚みがある。 CDに録音された交響曲など大編成のものは、どんなに立派なオーディオ装置を使っても実際のコンサートホールの演奏にはまったく及ばないとかねがね主は思っている。だが、SACDであれば、代替が可能かもしれないと思わせるほどの違いはある。

                                                                                                                             SACDディスクとプレイヤーは非常に微妙な位置にあるオーディオだ。SACDはかなり前(1999年)にできた高音質を謳う規格だが、記憶容量ではDVDに近い。CDの10倍ほどのデータが入っている。このため、CDとの互換性がなく、世間に広がることなく今に至っている。また、SACDには強力なコピープロテクトがかかっており、CDのようにパソコンへ書き出しができない。この結果、売れない、ソフトがないという悪循環にはまっていた。だが、最近のハイレゾブームで音の良さが見直されるということが起きた。

SACDは高音質なのだが、CDと比べて音が良いと感じられるには、それなりに高価な再生装置を使わないと実感できない。安物のステレオでは、CDもSACDも差が感じられないのだ。そうした事情もあって、SACDディスクで売られているのは、ジャズかクラシックだけでポピュラーはほぼ販売されていない。また、販売されているのは過去の巨匠の演奏の焼き直しが多く、最近の録音は少ない。要するに、レコード会社は新譜を発売しても、売り上げを見込めないために冒険をせず、今では博物館に入っているような伝説の名演をSACDへデジタル化し、一部のマニア相手に売れればよいと観念していると思えるほどマーケットは小さい。

ところが、最近は円盤(ディスク)を使わず、インターネットから高品位なデータをダウンロードして聴くPCオーディオという方法が注目されるようになった。この方式では、SACDよりもさらに高品位(データ量が多い)なものも売られている。ダウンロードであれば、プレイヤーのような回転装置が不要になり音質面、価格面でも有利だ。

グレン・グールドの演奏の音源の権利は、カナダ放送協会(CBCが所有するごく一部のものを除き、ほぼすべてをソニーが持っている。したがって、ソニーは権利のある音源のすべてをCDで発売し(100枚程度)、そのうち主要な曲SACD11種類をSACDで発売している

だが、不調と言われるソニーは、ここでも「ソニーよ、どこを目指すのか?!」という事態が生じている。CDはデータをパソコンに取り込める、だが、SACDはパソコンに取り込むことが出来ない。ディスクをプレイヤーで再生するしか方法がない。このため、CDを超える現在のハイレゾ音源は、インターネットからダウンロードして得ることになる。一方で、ソニーは、mora(モーラ)というインターネットを使ったダウンロードサイトを運営している。このmoraにおいてグレン・グールドの演奏は、CD規格の音質のもののみを配信しており、SACDのインターネット版であるDSDは配信していない。唯一、バッハの「インベンションとシンフォニア」をPCMという規格でハイレゾ配信しているのみだ。

ここで、疑問が生じる。ソニーはSACDのコンテンツの販売を拡充しようとしているのか。それともmoraで今後はSACDで販売しているコンテンツを含めハイレゾ配信するつもりなのだろうか。それとも、SACDディスクを購入したユーザーに遠慮して、SACDをインターネット配信するつもりはないのだろうか。その辺の方向が見えないし、中途半端でスピード感がない。

–以下2015/6/7追記–

上のように書いていたのだが、グールドの全集がDSD録音をもとにCDとUSBメモリーに入ったハイレゾファイルがこの秋に発売されるようだ。SONY MUSIC SHOPというから海外からの輸入のようだ。アマゾンやタワーレコードなどでも予約を受け付けている。以下が記事のリンクだ。上記の疑問の回答になろうが、おそらく将来は mora などで配信するようになるのだろう。

http://www.cinra.net/news/20150529-glenngould

日本へ  “unexpected”(思いがけない)な国からの帰国!

パプア・ニューギニアを形容する言葉の一つに”unexpected”(思いがけない)がある。とにかくとんでもないことが起こり、最後まで安心できないのだ。

日本へ帰国する直前に3泊するつもりでホテルへ移動してきた。ともあれ、明日のフライトで日本へ帰る。仕事はとうとう終わった!!

移動してきたホテルは、ポートモレスビーの中でも三本の指に入る高級ホテルで、1泊が2万5千円程する。(家賃も異常に高い)ところが、ホテルの造りもがっかりだが、冷房が故障している。全館で冷房が止まっており、食堂では窓を開けて大型の扇風機をブンブン回していた。最初の日の夜は、まだ比較的冷気が出ており、食堂での飲食を4000円まで無料にするという案内がドアの下に入っていた。2日目、3日目の夜は宿泊料を無料にするという案内が入っていた。3日目の今日は、会社に電話があり、引き続きとどまるか他のホテルへ移るかという問い合わせがあった。他へ移るかといわれても、こちらは自動車を売り払い足もなく、荷造りを再度することも大変なので引き続きとどまることにした。

明日支払いをするのだが、割引額はいったいいくらなのだろう?1泊分の料金だけで済むのだろうか。

ホテルでは、NHKはもちろん映らない。見れるのはCNNなどの放送。あと、マンションから持ってきたパソコンと接続するスピーカーだけだ。このスピーカーはホテルを出るときに身軽にするため捨てるつもりでいる。マンションではケーブルテレビとインターネットを今週の月曜日に解約し、火曜日まで音楽を聴くことだけしかできなかったのだが、いかにテレビとインターネット中毒になっているかを痛感した。きっと、刑務所につながれると頭の中が空白になってしまうだろう。

ところで、主が泊まっているこのホテル、冷蔵庫に入れたペットボトルの水が氷るのだ。二晩目あたりまでは、半分くらいの氷り方だったが、今晩は完全に凍ってしまい肝心の水が飲めない。

今日、自動車を手放し、最後の勤務を終え、4時30分に会社の運転手にホテルまで送ってもらった。

時間がたっぷりあるので、小銭入れに現金を移し、その他の貴重品は部屋に置いて、隣にあるさらに高級なホテルで背中のマッサージを30分間受けた。次に、徒歩で行けるインド料理屋で食事をした。この時点でようやく夜7時前になる。ホテルのキャッシュディスペンサーで現金を補充し、キャッシュカードは再び部屋に置いて、隣のホテルで再びマッサージ、今度はフットマッサージを30分間してもらった。この国の娯楽らしい娯楽はマッサージしかないのだが、内容はお金をドブに捨てるに等しいほど虚しい。マッサージ師はツボを全く理解しておらず、痛くない程度に撫でまわすだけだ。

それでも、受付にいたちょっとイケメン風のインドネシア人青年に「社長さん!」と日本語で冷やかされたりする。フットマッサージがはじまりしばらくすると、主の隣で太ったPNG人女性がこのインドネシア人青年にフットマッサージしてもらっていた。この青年もマッサージ師だった。若いインドネシア人青年が太ったおばさんのPNG人女性の足をマッサージしているのは違和感があったが、これは明らかに人種的偏見だろう。

8時前、隣のホテルから自分のホテルへと戻る、わずか100メートルほどの道を夜歩くのが、気が進まないなあと思っていた。だが、ちょうど出口のところに複数の警備員がおり、「一緒に歩いてくれ」と言ったら、当然の如くにたちどころに了解して、隣のホテルまでエスコートしてくれた。

まもなく帰国 日本は遠い!

3月28日のフライトで日本へ帰国する。辞令はすでに出ている。今日は3月25日で、残すところ3日間だ。 しかし、この3月という時期は、経理担当者にとって何もなくても決算があるため繁忙だ。それにくわえて引継ぎと引っ越しを同時にしなければならない。やってきた後任者は、公募で選ばれた50歳の独身女性。パプアは治安が悪いので、どこへ行くにも自動車を運転する必要がある。こちらに来て最初のうちは、地理に不案内で、交通事情にも慣れていないので、生活の面倒も見る必要がある。

引継ぎを始めてみると、あれもこれもけっこう詰問調で、先日受けていた会計検査がいまだに続いているような感じがする。また、後任者は今後のことを考えて、主をまるでクリンチする感じがしないでもない。

自宅の方もそのまま後任者に引き継ぐ予定だったが、話が急展開し、不動産屋に依頼して専門業者が清掃をしたあと引き継ぐことになり、今日ホテルに移動してきた。この清掃費用やホテル代は自腹を切らなければならない。家財道具もそのまま引き継ぐつもりだったが、二日かけて清掃をすることになったために部屋をまったく空にしなければならなくなった。

この部屋を専門業者に清掃させようと後任者に吹き込んだのは、別の50代半ばの女性だ。夫は外国人で外国で暮らし、成人した子供は日本で暮らし、単身赴任をしている。部屋を掃除するということにくわえ、携帯電話を早く引き継げと注文が多い。

わしは引っ越しでややこしいので、引越しが済むまで待てっちゅうねん!

どうも、オバタリアンの扱いは難しい。とほほ。

「白蓮れんれん」『性交こそは男と女の何より堅い約束』林真理子

 

2014年に放送されたNHKの朝ドラ「花子とアン」は、翻訳家の村岡花子が主人公だが、蓮子(歌人として「白蓮」を名乗る)の存在を抜きにすることはできない。

「花子とアン」の「白蓮」の存在が面白いので、林真理子「白蓮れんれん」を読むことにした。 文庫本の裏に書かれた紹介文を引用すると「「筑紫の女王」と呼ばれた美しき歌人・柳原白蓮が、年下の恋人、宮崎龍介と駆け落ちをした、世に名高い「白蓮事件」。華族と平民という階級を超え、愛を貫いたふたりの、いのちを懸けた恋ーー。門外不出とされてきた七百余通の恋文を史料に得て、愛に翻弄され、時代に抗いながら、真実に生きようとする、大正の女たちを描き出す伝記小説の傑作。第八回柴田錬三郎賞受賞作。」 また、文庫本の帯に「花子とアン」の脚本家・中園ミホが「朝ドラでは描けない白蓮の真実がここに書いてあります」とコピーを書いている。

「花子とアン」は「白蓮」が重要な位置を占めているが、逆に「白蓮れんれん」に「村岡花子」はたった一言でてくるだけだ。

東京帝大出身の龍介が婚姻届をを持参し、二人が印を押す下り、こんな風に書かれている。「しかし二人の前には多くの障害が待ち受けていた。龍介の健康のこともあったし、燁子(あきこ=白蓮)との結婚が宮内省に受理されるのにどのくらいの時間がかかるのかもわからぬ。それよりも燁子と龍介を決して一緒にさせまいとする世論があった。雑誌や新聞で平塚らいてう、村岡花子など好意的な意見もあったが、たいていの女性文化人も燁子に厳しい。未だに多くの特集が組まれ、燁子を弾劾しようとするのだ。・・」わずかここだけ。

林真理子が書く小説は、男女の愛憎が常に話の推進力になっている。あけすけな性を語りながら、男女の打算、見栄、渇望、さまざまな思いが説得力を持って語られる。燁子は最初の結婚生活に敗れた20台、40ちかく年の離れた伝右衛門と再婚する。伝右衛門は、妾を囲い、女中に子供を産ませる好色で身勝手な男である。伝右衛門は若い華族の燁子を珍しい生き物でも見るような好色な目で見ながら、妻に娶る。当然ながら、伝右衛門との愛情のない夫婦生活に燁子は絶望し、目の前に現れた年下で帝大出身の龍介との恋に真実を知る。

この本の中に印象に残るフレーズがあった。結婚を目前にした龍介が燁子が交わるとき、林は「性交こそは男と女の何より堅い約束」と書く

もちろん、燁子は伝右衛門との間に性交渉がない訳ではない。だが、まるで娼婦のようなわが身を思ったあまり、妻の立場にありながら伝右衛門に別な若い妾を与え、娼婦の役目をさせる。こうした欺瞞に満ちた生活に、ようやく龍介という真実の光明が訪れる。だが、伝右衛門の乱脈な性行為にも、それなりの真実があり、相手の女性との間に「男と女の何より堅い約束」をかわしていると気づく。

結局のところこの本は、悲劇のヒロインだった燁子が苦闘の末に、自分の幸せを見つけることが出来た恵まれた人生のストーリーなのだ。