ラバウル 日本軍戦跡

2014年7月17日(木)-18日(金)の日程でココポのマスクフェスティバルに行ってきた。ココポというのは町の名前で、昔日本軍の基地があったことで知られるラバウルのが、度重なる火山の爆発で灰に埋もれてしまったので、ラバウルの隣に新しく作られた街だ。ラバウルは、ポートモレスビーがある本島の北側、東ニューブリテン島にある。マスクフェスティバルというのは、毎年7月に行われるシンシンショーのことだ。この機会にラバウルへ行き、日本軍の戦跡も回ってきた。

ちなみに旅行手段であるが、主が住むポートモレスビーにPNGジャパンという旅行会社があり、その代表者は日本人で現地人と結婚され、ハーフの子供もいる。そこへホテルの予約と空港の送迎、現地ガイド付きツアーをあらかじめ申し込んだ。パプアニューギニアには、多くの日本人が住んでいる訳ではなく、進出している企業の数も少ない。そうした中で、日本語でいろいろ相談できる旅行会社があるということは我々にとって非常にありがたい。

ラバウル2

上は、ラバウルの街を見下ろしたところ。右正面の山が噴火しているのがわかるかも知れない。山のふもとがかすんでいるのは噴火した灰だ。ラバウルの街は、美しい海に面しており、コンパクトで魅力的だ。こんな日本から遠いところに、日本軍の主力基地があったとはなかなか実感できない。

ラバウル7上は、山の上からふもとへ降りた際に撮った、市場の写真。新鮮な野菜を安い値段で売っている。この写真は親子だ。顔が似ている。

ラバウル8

売られていたピーマン。色つやが良い。1キナと書かれており、一山5個で日本円で40円になる。ポートモレスビーではもっと高い値段で売られているだろう。

ラバウル1

上は、大発洞窟(Barge Tunnel)という名前だが、日本軍が洞窟に大型発動機艇を隠していたところとのことだ。地面にはレールが敷設されおり、海から引き上げ、山中に隠していたようだ。奥行きが400メートルとか説明され、奥に向かって数台の船が連なっているという説明だったが、中へ進むと真っ暗で、最初の1艘を見ただけで引き返して来た。このため、本当に400メートルあるのか真偽のほどは分からなかった。このトンネルは、海からは100メートルくらい離れた山をくりぬいており、船を出し入れするのも大変だったろうと思う。

ラバウル6

上が、南東方面軍前線指揮所跡(Admiral Yamamoto Bunker)。写真の左が地下の司令室の入口。右奥には高射砲が見える。ミッドウェイ海戦とガダルカナル島の戦いで敗れ、戦況が一気に悪化した日本軍。山本五十六連合艦隊司令長官は、前線航空機基地の将兵をねぎらうため、ここラバウルからブーゲンビルに向かうのだが、既に暗号は米軍に解読されており敵機に撃墜された。 写真に二人の男が写っているが、彼らはどうやらこの土地の所有者らしく、我々は見学料金を支払わなければならなかった。

ラバウル9

中の様子。写真に写っているのがトーライ族のガイドをしてくれた青年だ。手に持った懐中電灯で照らしながら中を進む。

ラバウル3

上は、ココポ市内にある戦争博物館の兵器。詳しくないので分からなかったが、これはゼロ戦なのだろうか。「永遠のゼロ」を思い出す。兵器は、連合軍のものもあったがほとんどが日本軍のものだった。

ラバウル10上は、日本軍の戦車。地上戦もあったのだと思い知る。それほど大きくなく、おもちゃの如くにも見える。

さて、マスクフェスティバルの様子は次をクリックしてください。「ゲゲゲの鬼太郎」で有名な水木しげるがパプアニューギニアで従軍した時に、数々の着想を得たシンシンショーを見ることができます。

ラバウル マスクフェスティバル

おしまい

 

 

 

 

 

 

GLENN GOULD 中毒 (書籍について その5)

グレン・グールドに関する書籍をさらに読んだ。感想第5弾。

【グレン・グールドシークレットライフ】マイケル・クラークスン著 岩田佳代子訳 道出版 (3200円税抜)

本書は、グレン・グールド(以下GG)の女性関係を追う形で書かれている。GGは、生涯独身を貫き、自分のことを「最後の清教徒」と評しており、ホモセクシュアルが疑われるほど異性関係はまったくないと考えられてきた。GGは、自宅に残された大量の書き物から細心の注意を払って女性関係の手掛かりを完全に消していた。だが、本書でそうした先入観は完全に覆される。

百人を超える人をインタビューをして本書は書かれたとあり、英語名で次々と名前が出て、男性名か女性名かすぐに判別できなかったり、地名にも注意を払わないとならない。このため、細心の注意を払いながら読み進めた。

この本の「はじめに」で、著者は映画”Genius Within : The Inner Life of GG”(日本名:天才ピアニストの愛と孤独 http://www.uplink.co.jp/gould/ )の制作に協力してきたと書いている。また、帯にも「現在、グールド映画の脚本脱稿を目前に控えている。」と書かれている。どうやら、この本はこの映画のネタ本そのものではないのかもしれない。没後30年以上が経ち、別の新しい映画が作られるのであれば嬉しい。

GGは、素晴らしい天才で、音楽そのもののみならず、その背景にある思想や感性はどんなものだったのか主は興味を持っていた。GGの薬物依存や、アスペルガー症候群や心気症、あがり症であったり、対人恐怖であったり。だが、グールドは生涯、私生活を表にすることはなかった。特に女性関係については、生前はもちろん、1982年に没するまで、2007年にコーネリア・フォスがグールドとの恋愛関係を認めるまではそうした女性関係はないものとして語られてきた。だが、実際は違った。

少年期、父母から厳しいキリスト教の教えの元で厳格に育てられた彼だが、ティーンエージャーの最後あたり、トロントで芸術家仲間と奔放な時間をすごし、遅まきながら性に目覚める。GGは、人付き合いや社交性はなかったが、男性よりどちらかといえば女性とは打ち解けることができた。14歳のピアノソロデビュー直後から、カナダ国内では天才と騒がれていたし、23歳でのニューヨークデビューに成功、その翌日にはコロンビアレコードから専属契約を申し込まれ、バッハのゴールドベルク変奏曲の録音で世界一流のピアニストへと駆け上がる。彼の成功は音楽誌だけではなく、一般誌でも取り上げられる熱狂ぶりで、その容姿はジェームズ・ディーンによくたとえられた。精神的に様々な問題を抱えていたものの、その演奏は素晴らしい魅力に満ち溢れており、男女を問わず誰でもその魅力の前には、彼との交際を望み、彼の役に立ちたいと思うのだった。

彼の私生活の中には、エゴイスティックで理不尽な面があるのは事実だ。また、同時に何人もの女性に心惹かれ不実なようにも見える。だが、彼は音楽については、まだまだやりたいことがあり、妥協を許さないワーカホリックだ。そんな彼を女性たちも理解していたのだろう。 

シークレットライフ

 

GLENN GOULD 中毒 (書籍について その4)

グレン・グールドに関する書籍をさらに読んだ。感想第4弾。

【グレン・グールドの生涯】オットー・フリードリック著 宮澤淳一訳 青土社 (4800円税抜)

グレングールドの生涯本書は、グールドの死後、グレン・グールド・エステイト(グールドの遺産を管理する法律事務所)が「公式」の伝記を作るためにアメリカ人ジャーナリストである著者に依頼したものだ。

さすがに「公式」の伝記だけあって、誕生から死亡まで網羅されている。読み物としても、グールドのファンならはずせないだろう。事実が網羅され掘り下げられていること、様々なエピソードを紹介しながらも、読み物風に書かれており読みやすい。

500ページ以上あるので要約は難しい。また、落ち着いて再読しようと思っている。このため、二か所を引用したい。

(デビューアルバムのバッハ「ゴールドベルグ変奏曲」発売後の大反響について)   しかし、大切なのは、グールドの《ゴルトベルク変奏曲》が大変な名演であり、名盤であったこと、この録音がレコード史上最高傑作のひとつであったという事実である。タウン・ホールでの演奏会を聴かなかった私たち多くの者は、この録音によってグレン・グールドを発見する最初の機会に恵まれたのである。しかも、バッハの変奏曲は(それはバッハの全作品をも暗に意味するが)一歩退いて敬意を示すような、ある種の知的構成物ではなく、強烈な情熱とはかり知れない美の創造物であることを初めて知った。そしてまた、グールドピアノの演奏は世界中の誰のものとも違うことを。彼は欠くべからざる才能をすべて持ち合わせていた ── 歌うような音色、きわめて正確なアーティキュレーション、巧みにコントロールされた強弱。だが、独特なものでないにしろ、稀有な天賦の才がさらにあと二つあった。ひとつは、このような柔和な音楽のリズムに、信じられない推進力のあるドライヴ感を与える能力だった。グールドは速いスピードであれだけ正確な演奏ができるおかげで、バッハの作品を跳ね上げ、突進させ、また宙に舞わせることができる。こうしてグールドは作品に強い生命力あふれるエネルギーを注ぎ込んだ。そして、もうひとつの非凡な才能とは、三声の対位法のすべての声部を、ほつれぬようしっかりと織り合わせつつ、完全に独立を保たせる能力だった。《ゴルトベルク変奏曲》のカノンは宗教的な意味を秘めている。このいくつものカノンはバッハの頭の中に会ったものに違いないが、つまり、ひとつが三つに、三つが一つに、という三位一体の考え方である。

(もうひとつ、驚きの才能の一端を)                        グールドはいくつもの事柄を同時に考えることを生涯にわたって実践し続けた。あるときファンであった友人が、グールドが演奏中の曲に「信じられないほどの集中力」をみせていると指摘すると、グールドはこう反論した。「それは全く見当はずれだ。つい先日、シカゴ交響楽団と共演したけれど、協奏曲の終楽章の演奏中、僕が考えていたのは、僕が呼んだハイヤーは終わったときに楽屋裏にやって来てくれて、すぐに退散できるだろうか、それだけだったよ。」

 

林真理子「星に願いを」

林真理子の小説「星に願いを」(1984年)を読んだ。林真理子は、主と同じ1954年生まれ。この本は発刊されてちょうど30年が経っているので、内容的に古く、今となっては当たり前なことが書かれていると思われるだろう。バブルは1980年代後半から1990年代初頭と言われる。この本が発刊された1984年は、日本経済が好調に坂を上っている真っ最中で、この頃は賃上げが毎年二ケタあったように思う。就職できない主人公キリコが、植毛をする医院へ転職し、月給が12万円へと倍増、この増えた給料をどのように使うか「うれしい誤算」の様子が描かれている。今の若者には実感できないような、昔の話だ。

文庫本の裏カバーには次のように書かれている。簡単なあらすじにもなっているので、引用しよう。「冴えない女子大生キリコは就職試験に失敗し、アルバイトに明け暮れている。ひょんなことからコピーライターを目指した彼女に成功の女神が微笑む。一夜にして「マスコミの寵児」となったキリコ。世間を知り、男を知り、成功を知り、女の子は女になっていく ──。全女性に贈る自伝的デビュー小説。」

率直なことろ、主は林真理子を読もうとは思わなかった。写真やテレビで見ると美人ではなかったからだ。

不美人の作者がそれをテーマにしながら小説にしているが、普通に考えると、女性には辛い行為だろうと思える。それに性描写は非常に露骨だ。帯には自伝的とあるが、ほぼ真実なのではないかと疑ってしまう。それほどにリアルなのだが、ユーモアに満ちている。しかし、出来上がった小説は、普遍的な内容になっており、すごい。

Wikipediaで「林真理子」を検索すると、「林の功績は、 1980年代以降において、『ねたみ・そねみ・しっとを解放』したことであるとも評される。」と書かれ、斎藤美奈子・『文壇アイドル論』(2002年、岩波書店)と注釈されている。たしかに、人に言いたくないようなコンプレックスでも、これを客観的に表現してしまえば、そうしたコンプレックスから逃げれるようになる。

すなわち、林真理子の小説は、本人が持っている弱点も他の点で価値があれば、弱点が相対的で、まるでなかったように社会の認識が変わることを示唆している。

「ねたみ・そねみ・しっと」は、もちろん、他でも起こる感情だ。自分より成功している者に対して「ねたみ・そねみ・しっと」する。自分の持っていないものをもっている他人へ投映し「ねたみ・そねみ・しっと」するなど。だが、こうした感情は冷静に分析できれば、解放できるということだろう。(そのうち、『文壇アイドル論』を読んで、真偽のほどを書きたい。)

だが、コンプレックスを逆転するほどの優位性を自分に見つけられない場合、どうなんだろうという疑問は残る。要は、本人の受け取り方次第なんだろう。

小説の働きは、こうした認識の変化を起こすことなのだと思う。さまざまな固定観念、社会常識やタブーをひっくり返し、社会の共同幻想が変化する、そうしたきっかけになるのが良い小説の役割なのだと思う。

 

 

 

 

メラネシアン・フェスティバル

2014年7月6日(日)、4年に1度開かれるというメラネシアン・フェスティバルに行ってきた。日曜日の今日、意外なことに、何の行事もやっていなかった。平日に下見をした同僚によれば、その日はずっと賑わっていたとのこと。日曜日の朝はみな教会に行くので、閑散としているのだとか。とほほ。(^^);;;;

P1060825上は、会場の看板。この国の国会の裏側に位置し、日本なら霞が関という場所なのだが、広大で利用されていない土地が広がっており、その一部が会場になっていた。4年に1度開催され、第5回という事は20年前からやっているという事になる。メラネシアなので、フィジーやバヌアツ、サモア、ソロモンなどのブースがあった。

P1060826上が、会場の様子。やはり、閑散としている。

P1060830子供のワニを持っている男がいた。口を縛っているので、可愛く見える。売ってくれと言えば、きっと売ってくれるはず。

P1060847会場でコーヒーを売っていたおじさん。隣では女性が生豆からローストされた豆まで焙煎のプロセスがわかるように豆をお皿に並べていた。残念ながらコーヒーを飲まなかったが、きっと、本格的なコーヒーが飲めるだろう。

P1060853会場からの帰り道で、道路脇の野菜の直売所に立ち寄った。新鮮な食料品が手に入ると考え、皆で買い物をすることに。

P1060851何を売っていたのか忘れてしまったが、直売をしていたおじさん。声をかけて写真をとらせてもらったら、「イエーィ!」サイン。どこの人々も同じだ。 (日本のおじさんなら、こんな風に簡単に乗ってくれないかもしれない。)

カリタス職業訓練校文化祭 ポートモレスビーのシンシンショー

2014年7月5日(土)ポートモレスビーのボロコという地区にあるカリタス職業訓練学校で行われた文化祭を見る機会があった。職業訓練学校なのだが、在籍する生徒の年齢は、日本で言えば高校生ぐらいの年齢だろう。だが、その様子は日本の高校の文化祭のイメージとは全く違う。ここで行われている文化祭は、パプアニューギニア各地のシンシンの紹介が主なものだ。”Unity in diverse culture”とある「多様な文化の統合」が、意味するのはパプアニューギニアが多様な文化から成り立っており、それらを統合したいという意味合いだと思う。また、この学校では、フィリピン人の先生が多いようで、その先生たちのシンシンも披露されていた。同じく、韓国人の先生の指導による空手のような武術の披露もあり、道着を着たパプアニューギニアの生徒による、板を割ったりする演目もあった。

P1060800上の写真は、横断幕と下に設けられた来賓席。来賓席の前で、登場するチームの司会者が紹介を行っていた。真ん中の女性は、ハイランド(高地地方)のシンシンチームの紹介をしていたように思う。顔のペインティングといい、頭の飾りは迫力がある。この女性の前のグラウンドでシンシンチームが次々に登場する。

P1060779上は学生たちの演技。男女がパフォーマンスを披露する。みな弓を手にして勇ましい。ごく最近まで女学生は乳房をポロンと出していたらしいが、さすがに押し寄せて来た文化のせいだろう、女学生は胸を隠している。 

P1060793上の写真は登場するチームの様子。毎年同じ文化祭があり、前の写真でも書いたが、昨年は乳房を露わにした女子がいたのだが、今年は居ないようだった。乳房をお祭りにの時に出すということも、ここ数年で完全になくなったのだと思う。もし、女性が乳房を露わにしていれば我々にもっとインパクトを与えるのは間違いない。

P1060729上の写真の二人は、シンシンに登場する直前にリハーサルを後ろの方でやっており、その際に撮らせてもらったもの。こちらの人はみんなフェイスペインティングが大好きだ。

P1060770逞しい男。 頭を飾っているのは鳥の羽だろう。首から下がっているのは貝殻で造った首飾り。貝は昔、通貨だった。男が手にしているのは弓だ。

P1060720

こうして見ると、この国は平和な南洋の国なんだと知らせてくれる。なかなかの美人がいることに気付く。

P1060797ハイランドのシンシンチーム。ハイランドは、このような濃いフェイスペインティングが多いように思う。

こうして見るとインパクトもあり、刺激があるように見えるかもしれない。だが実際は、1時間くらい見ていると飽きて疲れてしまう。踊りは単調で、大体、バックで奏でられる音楽も打楽器だけでワンパターンなのだ。おそらく、自分が踊って、周りの人たちに見て貰う方が楽しいだろう

でも、写真で見るととても綺麗!一杯写真を、撮ったからなあ。(^^)!!だが、こういった写真をアップすることは個人情報保護法の観点からまずいのだろうか?

ポートモレスビーの生活 ブッシュナイフもったラスカルに車を強奪される!

ポートモレスビーはかなりあぶない。危ないというのは、ラスカルという強盗に襲われることがあるのだ。ラスカルは、若者数人(少年が多いらしい。)がブッシュナイフ(かなり刃渡りの長い刃物)や拳銃で武装し、我々を襲ってくる。無抵抗に徹すれば殺される事はないようだが、あまりにじっとしているとイラッと来た犯人に鈍器で殴られ怪我をさせられたり、こういう目には会いたくない。パプアニューギニアは、近年資源ラッシュで好景気なのだが、どこの国でもそうであるように、経済成長が国民に均等にいきわたるわけではない。したがって、一部の金持ちはいるものの、大半は好景気の恩恵を受けている訳ではない。

この国にはワントクといシステムがあり、ワントク(one talk)は同じ言葉を話す仲間のことだ。このワントクどうしは助け合うのが暗黙の了解だ。極端な話、犯人が同じ部落の出身の場合、警察は罪を許してしまったりすると言われている。同じ発想で、首都ポートモレスビーで成功したワントクを頼って、地方から人がやってくる。だが、生活の地が貨幣経済が未発達、狩猟採集生活や農耕生活を中心とした自給自足の状態なら、ワントクシステムによる助け合いが成り立つのだろうが、大都会は完全な貨幣経済であり、自分の生活に加えてワントクたちの面倒を見る額の貨幣収入を得ることは難しい。恵まれた金持ちのパプアニューギニア人も多勢いるが、全く所得のない人で、あてにしていたワントクに面倒を見てもらえない人多いはずだ。所得のない彼らが、ラスカルに変身する素地はあり、我々外国人は、どのワントクにも属さず格好の獲物になる。

A tribesman with a traditional sharpened bush knife in Madang Province

ラスカルは、セトルメント(スラム)の近くで、車がスピードを緩めたところで車を襲い、車と所持品を奪うと言われていた。だが、セトルメントの近くに限らず、高級マンションが建つ地域で、強盗が行われることも多い。また、ラスカルが車を止めて強盗するだけではなく、我々がスーパーマーケットへ行った帰り道、強盗団の一味が車で我々の車の後をつけ、自宅へ帰ったところを狙い、車庫でガードマンを殴り倒し、車や金品を強奪するという手口もある。周囲こうした被害を受ける割合が、結構高いのだ。三分の一くらい人が、被害にあっているように思える。ショッピングセンターの中などを別にして、街中でも襲われる可能性があるので、基本的に歩けない。そのため、移動は必ず車を使うことになる。これは歩く例だが、主が道路の向かいの100メートルほど離れた航空会社のオフィスへチケットを買いに行くときでさえ、一人で歩くのは危ないので、現地人ドライバーをボディガードとして連れていく。

G4s という車によるエスコートサービス。車で出かけるときに、伴走してもらう。

危険な目に合う確率は、現地の言葉をどれほど喋れるかという事ともちろん高い相関がある。こちらでは、英語以外ではピジン語が広く使われるが、これとて西欧文化がもたらした混成語で、例えばポートモレスビーでは地元の言葉としてモツ語がローカルな言葉として別にある。主は、英語もままならず、残りの二つは全くダメなので、行動に制約があるのは仕方のないところだ。

また、パプアニューギニアは資源ブームでここ数年外国人が大勢押し寄せたために、住宅需要が急増し家賃やホテル代が高騰した。そのため、我々外国人が住める安全な物件は、非常に高額だ。おがげで、囲われた敷地の中で、快適な生活を送れるという副産物もある。この南洋熱帯の地のオーシャンビューの部屋の中で、カナダ人ピアニストのグレン・グールドが弾くクラシック音楽を聴き、気に入った本を存分に読むことができる。通勤は車で5分。遠くに出かけても車で15分あれば、ほとんどの目的地に着く。

だが、夜の街に気楽に出かけるのは危険があり、困難だ。このため、結構自炊をすることになる。ただし、他の会社の駐在員たちは、危険を承知で夜の街でも活発に活動しているようだ。

パプアニューギニアの気候はもちろん熱帯だが、ポートモレスビーだけサバンナ気候と言われている。海抜が低い割には、暑さがそれほどではない。今は6月下旬だが、日中は熱いが、夜は涼しい。こちらに来て1年経過したが、主はかなりの寒がり屋なので、この時期タオルケットの上に布団を1枚重ねている。8月はさらに寒い夜があり、昨年はさらに布団を2枚にした。

主は日本の高度成長期にアメリカ文化を刷り込まれて育ったせいだと思うが、パプアニューギニア人はあまり美男美女には見えない。彼らはアジア人の顔ではないし、アフリカ人とも違っている。女の顔もいかつく、偏った食生活のせいで年齢を経ると年齢が不詳になる。多くの人は、食事の摂りすぎでいかにも太りすぎの体型をしている。太った体型が、金銭的に豊かで飽食できるというシグナルになっていると感じる。

しかし、人の審美眼はそれぞれ。こちらで妻を娶った日本人も一定数ある。子供にも恵まれ、彼らは完全にこの国に定着している。人間(じんかん)到る処青山あり。住めば都だ。

おしまい

買ってがっかり 映画「グレン・グールドをめぐる32章」

相変わらずグレン・グールドにハマっている主だが、映画もほとんど見てしまった(と思う)。残るは、「グレン・グールドをめぐる32章」(1994年)ぐらいしかない。32章と言うのは、もちろんゴールドベルグ変奏曲が、最初と最後のアリア、その間にある30の変奏曲を合わせると32曲あるつけられたタイトルだ。英語名は「32 SHORT FILMS ABOUT GLENN GOULD」で、エピソードが32個描かれている。この映画、本人ではなく、他の俳優がグールドを演じていて、「グロテスクだろうな。」と思ってずっと買わなかったものだ。

実際に買ってみて、後悔した。最低と言っていいだろう。子供時代のグールドも出てくる。ピアノのキーを人差し指でバーンと力いっぱい叩き、まるで悪夢だ。あんなに乱暴に鍵盤を叩いてどうだっちゅうのだ!そんなん、ただのガキのすることやろ!繰り返し鍵盤を押さえ、出された音が減衰して聞こえなくなるまで耳を傾けないでどうする。当たり前かもしれないが、母親も子供も他に書籍で知っている人物とまるで違っており、非常に違和感がある。

大人になったあとの俳優は、やはり無理がある。それっぽくふるまっているのだが、やっぱりグロテスク。共感できるのは身長だけだ。

最悪なのは使われている音楽も良くなかった。流れる音楽。1曲目にゴールドベルグ変奏曲のアリア。これは理解できる。2番目は「シムコー湖で」で、ワーグナーのオーケストラ曲「トリスタンとイゾルデ」。いきなりグールドの演奏ではない。最後のクレジットをよく見ると「ピアノの演奏は全てグールド」と出てくる。ピアノが出てこない演奏は、ソニーの音源を使っているとあり、必ずしもグールドと関係するものではないようだ。3番目は、「45秒と椅子」。これが意味が分からない。グールドには部屋の中央で椅子に足を組みながら座ってカメラのレンズを見据えているインパクトの強い有名な写真がある。これを真似しているのがわかるのだが、グールドの有名な「椅子」が出てこない。有名な「椅子」とは、父親が椅子の足を切り落とし、手作りした折り畳み椅子で、床から35センチしか高さがないもので、一生涯どこへ行くにも持ち歩いたものだ。

椅子

「ハンブルグ」ここに描かれているグールドは完全に変質者だ。ヨーロッパ公演の最中、ハンブルグのホテルからカナダのウォルター・ホンバーガー(グールドのマネージャー)へ宛てて、慢性の気管支炎で来週のコンサートをキャンセルするという電報を電話でグールドが依頼しているシーンだ。グールドは電話機を片手で持ちながら、部屋を掃除しに来た美人のメイドが帰らないように空いた手で引き止める。同時に、電話しながら自分が演奏するベートーベンのピアノソナタのレコードの一節を聞かせる。部屋にはグランドピアノがあるのだ。レコードのジャケットに写された自分の姿をメイドに見せて、有名人ぶりを知らせるより、自分でピアノを弾けばよいだろう。おまけにベートーヴェンのピアノソナタは13番の第2楽章のところが唐突に流れ、格別に良い選曲とは思えない。時間の長さで選んだのではないか。

この映画は本人が語る形式で作られているが、内容はいろいろな書物に書かれているものの域を出ない。これだけ陳腐な内容の映画が、いまだに絶版にならないのは、グールド人気がいかに根強いかを物語っているかと思う。「グレン・グールド」と書かれているだけで、ファンは買ってしまうのだ。ちなみに、この映画の感想をGOOGLEで検索したところ、一つも見つけることができなかった。きっと、これが最初だ。何かを書こうという気にはならない、そんな映画だ。

ただ、ラッキーだったのは、従妹のジェシー・グレイグが出ていたこと。映像はともかく音楽は楽しめたし、特にエンドロールで流れるバッハのフーガの技法は、オルガンを使った演奏で一般に高い評価とは言えないのだが、聴きやすい演奏で再発見した気分になった。

(以下は、ネットからペーストした映画の内容。)http://movie.walkerplus.com/mv16454/

 1「アリア」雪原の彼方から近づく人影。 2「シムコー湖」鍵盤を叩く幼いグールド。ラジオから流れるワーグナーに涙する。 3「45秒と椅子」肘掛椅子に座る成人したグールド。 4「ブルーノ・モンサンジョン」『ゴールドベルク変奏曲』を記録した映像作家・ヴァイオリニストが語る。 5「グールド対グールド」スタジオで2人のグールドが対論する観念世界。 6「ハンブルク」演奏旅行の途中で、病気となったグールドがメイドに自分のレコードを聞かせる。 7「変奏曲ハ短調」フィルムのサウンドトラックを映写したもの。 8「練習」控室で頭の中の音楽を指揮し、舞うグールド。 9「L.A.コンサート」舞台係の男のプログラムにサインするグールド。64年のロサンゼルスでの最後の演奏会でのエピソード。 10「CD318」グールドが長年愛したピアノCD318のアクション。 11「ユーディ・メニューイン」名ヴィオリニストの回想。 12「グールドの情熱」スタジオでの録音風景。 13「弦楽四重奏曲作品1」グールド唯一の本格的作曲作品の演奏。 14「出会い」メイド、マネージャーなど関係者の証言。 15「ドライブイン」行きつけのドライブインの食堂で周囲の雑談に耳を傾けるグールド。 16「北の理念」同題のラジオ・ドキュメンタリーの制作場面。 17「孤独」ラジオ・ドキュメンタリーに関する質問に答える。 18「答えのない質問」批評家、作家たちに質問を浴びせられるが、答えはない。 19「手紙」ある女性に恋していることを友人に告白する手紙。 20「グールド対マクラレン」『平均律』第1番に基づいてノーマン・マクラレンが製作したアニメ「球体」の収録。 21「秘密の情報」グールドが株で大儲けをしたエピソード。 22「個人広告」怪しげな募集広告を書き上げるグールド。 23「錠剤」グールドが服用していた様々な薬。 24「マーガレット・パテュ」友人の回想。 25「ある日の日誌より」日誌の血圧値などのメモ書きとレントゲン撮影。機能障害でピアノが弾けなかった時のものらしい。 26「モーテル・ワワ」湖岸のモーテルで電話インタヴューを受けるグールド。 27「49」49歳の誕生日の前日、従妹のジェシーに電話をかけ、4+9が13である不安を話す。 28「ジェシー・グレイグ」その従妹の回想。 29「旅立ち」車を降りて電話ボックスに駆け込むグールド。カーラジオがグールドの訃報を知らせる。 30「ヴォイジャー」ロケットの発射。 31「アリア」惑星探査機ヴォイジャー1号と2号にはグールド演奏のバッハ『平均律クラヴィア曲集』第1巻の前奏曲第1番ハ長調が搭載された。グールドは雪原の彼方へ消え去る。 32「エンドクレジット」

 

林真理子「不機嫌な果実」「下流の宴」 ストーリーの作り方

林真理子の小説に「不機嫌な果実」(1996年)がある。帯に「夫以外の男とのセックスは、どうしてこんなに楽しいのだろうか。衝撃の問題作!」と刺激的なコピーが書かれているらしい。(らしいというのは、主はブック・オフで108円で買ったのでこの帯はなかった。)テレビドラマや映画にもなっている。書かれた時期はバブル崩壊後だが、背景はかなりバブリーだ主人公麻也子は、ブランド品を持ち、高級レストランで食事。見栄やら嫉妬、鬱屈もしているが世間体には過剰に敏感だ。 登場人物が連絡に固定電話を使っている時代で、そのころはそうだったなあと思い出した。同じ林真理子の話題作「下流の宴」(2009年)は、高校中退しネットカフェでバイトする息子に業を煮やす母親の姿が描かれており、流行作家は上手に世相を反映するのだろう。

「不機嫌な果実」で描かれているのは、(子供のいない)結婚生活の倦怠感。「結婚は人生の墓場」というが、まさにどの夫婦にも起こる、熱が冷めた後の日常の空虚感が描かれている。結婚後6年、夫は妻の誕生日プレゼントを選ぶのが億劫になり、妻にカードで好きなものを買うようにいう。妻は夫の罰に高額なスーツを買って復讐する。結婚前の楽しかった思いは消えてしまう。妻は徐々に浮気に生きがいを求め始める。赤裸々な性描写。林真理子の小説は、単純だが納得できる。話は刺激的に急展開していくのだが、常に納得させられる。人生がリアルに描かれている。主人公は常に計算しながら、男を天秤にかけ、最も自分が満足できるように生きている。

この小説を読んで感じたことだが、結局、この小説は「論理」の積み上げなのだ。奇抜な展開で、麻也子が衝動的な性行動をとったように見えるが、そうした行動を引き起こす原因が手前にあり、作者は説明している。そうしてみると、この本のストーリーは、一般常識が積み上がっている。そのために、違和感がなく、そうだよなとなる。興味を失わず、どんどん前に進みたくなる。話のオチは、・・・これから先はネタバレなので、この本をこれから読みたい人はここでストップしてください。

不倫の果て、麻也子は夫と離婚し、独身の音楽評論家と結婚する。母親の援助おかげで彼は「高等遊民」になりたいというほど恵まれた環境にあったのだが、母親は息子が離婚したバツイチと結婚すると知り、息子への援助を打ち切ってしまう。平凡な生活へと追い込まれる二人。浮気にも飽きた麻也子は、自分に欠けているものは何か考え、「子供だ」と結論を出す。前の不倫相手が今の夫と同じ血液型であることを知っていた麻也子は、排卵誘発剤を飲みながらこの男と避妊せず不倫する。

男女の関係に飽きた女が、子供を欲しくなる時、子供は自分の子供でありさえすればよい、どの男の子供でも構わない、というオチをまず作者は思いついたのではないか。自分の遺伝子を持った子供、誰の子であろうと夫が気づかなければ良い。これはショッキングだが、説得力がある。男にとっては、子供が自分の子だという確証はない。逆に自分と同じ血液型の子どもだったら、それだけで自分の子供だと信じるだろう。このアイデアがスタートだ。

これを思いついた作者は逆算を始める。この結末に違和感のない筋をバックしながら作っていったに違いない。

そういえば、「下流の宴」も似たような終わり方だ。これは高校を中退してネットカフェでアルバイトする息子翔と沖縄の離島からやってきた珠緒が同棲を始め、結婚しようとする。母の由美子は、死亡しているが医者の父を持っておりプライドが高い。二人が社会の底辺から抜け出せるわけがないと結婚に反対、珠緒を責める。珠緒は「そんなに医者が偉いなら、医者になってやる!」と言い、実際に医者になってしまう。普通に読んでいるとサクセスストーリーだ。ところが、珠緒が医学部入学を果たしたとき、翔は珠緒が自分とは違う人間になったといい、別れてしまう。これがオチだ。

ダメな二人が周囲からさんざんに言われ、片方の一人が猛烈に努力して成功したとき、ダメな方は成功した方を心から祝福して、結婚できるだろうか? と作者は考えたのだろう。

 

「セックスはなぜ楽しいか」(ジャレド・ダイヤモンド)と林真理子

(2022.8.24追記しました)

進化生物学者のジャレド・ダイヤモンドは、パプアニューギニアでフィールドワークを行い、現代の西洋中心の世界観の成り立ちを明解に分析した。彼の著作「銃、病原菌、鉄」や「文明崩壊」は、これまで霧がかかっていた主の人類史観、文化史観から霧を晴らすような影響を与えた。同時に彼は「セックスはなぜ楽しいか」というちょっと興味をそそるタイトルの本も書いている。

動物と比べて全く奇妙な人間の性が考察されているのだが、セックスそのものの味半分で、この本を読むと失望する。つまり、なぜ人間だけが、のべつまくなく無用なセックスする方向へと進化したのかを考察するのが、この本のテーマである。

WHY IS SEX FUN ?

人間以外の生物は、ごく簡単に要約してしまうと、種の保存のために交尾し、交尾が終わるとオスもメスも死んでしまう。また、その交尾の時期は、排卵期(=子孫を残すことが可能な時期・発情期)に限られており、人間のように妊娠中のメスとオスがセックスすることや、オスと閉経を迎えたメスがセックスするという無駄なエネルギーの消費はしない。

こうした人間と他の動物と差は、人間が成長に長い時間を要するという点にあるとジャレド・ダイアモンドは考える。すなわち人間も他の動物と同様、自分の遺伝子を将来に残すことが最終目的である点は同じだが、人間の子供は大人になるまでに10年以上かかる。子供は10年以上の間、大人の庇護が必要だ。また、メスが生涯に産める子どもの数が最大に見積もっても10人、オスは生殖能力は逆に、一夫多妻の形態をとった社会で1,000人の子供持った王がいるほど多い。同時に人間のオスは、生殖能力が長く続くが、メスは50才前後に閉経を迎え子供を産むことが不可能になる。つまり、生殖に関係のない生存期間が人間にはある。

進化の過程で、人間がゴリラやオランウータンなどから枝分かれをしたのが700万年前、その後人間は一夫一婦制で暮らしてきたわけではなく、一夫多妻の時代や、乱婚の時代の方が長い。そうした場合に新しく夫の座に就いたオスは、メスがすでに生んだ昔の夫の子供を殺すことがしばしばおこった。これは生める子どもの数に限りのあるメスの取って避けたい結果だ。つまり、オスとメスの生殖能力が非常に異なっている中で、子供を一人前の大人になるまでに育てるためには多くの投資が必要で、メスにとって食料を運び脅威から守ってくれるオスの存在が不可欠だ。(このオスは必ずしも子供の生物学的な父親でなくても構わない。)このため、人間の進化の戦略は、メスが排卵を隠し、常にセックスに応じることでオスを自分の元にとどめるという戦略を選択した。

つまり、遺伝子を確実に残す方法として、オス、メス双方に、生まれた子供がそのオスの子どもだと思わせることは、有効な手段だ。オスは自分の子どもを殺そうとする確率は低い。そうすると、一夫一妻性や、それに近い形態が有力なな選択肢となる。すなわち、メスは常にオスを受け入れるようにし、子供が自分の子どもだと思わせつつ、身近なオスに子供の養育の大きな部分を担わせる。また、生まれた子供が自分の子供かどうか確信を持てないオスにとり、常にメスの近くにいることで自分の子供である可能性の高まりを信じることができる。

他方、ジャレドダイアモンドは人間の老化について、進化の過程で、人間の体の機能の一部を修繕するか断念するかということを考察している。すなわち、人間の寿命はながく、メスの閉経という現象がなぜ起こるのか考えると、閉経を起こさず出産しつづける能力を維持する進化の選択もあり得たにもかかわらず、実際の進化の過程ではメスは閉経する道を選択した。これは老化により健康でない子供が生まれる確率の増加に対し、閉経という進化の方向を選び、閉経後のメスが孫の養育に協力することが、自分の遺伝子を確実に残すための有利な戦略だったと分析する。

人間の性の進化が動物と比べて極めて違っている象徴的な事象として、オスのペニスのサイズを指摘している。人間より体の大きなゴリラやオランウータンでさえ、ペニスは3センチしかない。人間は進化により13センチもの、生殖に不必要な大きさのペニスを持っている。人間はゴリラやオランウータンから枝分かれして700万年、農耕生活(文明)を始めてわずか1万3000年しか経っていない。

こうしてみると、「セックスがなぜ楽しいのか?」という問いに対する答えは、人間が種を維持するために、男にも女にも「快楽」という動機をセックスに与え、しかも排卵を隠すことで、男に「俺の子どもだろうね。」と思わせることが、子殺しをしなくなる方策だとジャレドダイヤモンドは考えている。

一方で、(かなり強引だが)主は最近林真理子の小説にハマっている。結構、あけすけに性を語る部分があり、人間の見栄や欲望について語られる。しかし、小説の根幹には、遺伝子をばらまきたい浮気性の男と、優秀な遺伝子を得て優秀な子を残したい女の葛藤がある。この葛藤は、有史以来試行錯誤を繰り返してきたのヒトの性そのものだ。

テレビでも芸能人の不倫が良く取り上げられる。この手の不倫騒動はかなりの率で男性が起こすもので、女性が不倫をしたというのは目立たない。女性もの不倫は多いようだが、女性は夫に不倫を上手に隠すので、なかなかバレない。不倫が世間にバレるのは、男の芸能人が多く、厳しく責任追及され、芸能人生命を失うこともある。

基本的に、男は一夫一婦制にガマンできない播種本能があって、機会が許せば浮気を繰り返す。女の方は、男を何人も求めるより、基本的に生まれた子供(自分の遺伝子)と家庭が最も大事だ。何かの拍子で、女が不倫するなら上手に男に隠すはずだ。

林真理子の小説に「不機嫌な果実」という楽しい小説がある。いろんな男や、刺激が好きな大好き麻也子という主人公が、やがて男との浮気にも飽き、自分に欠けているものは何か考え、「子供だ」と結論を出す。前の不倫相手が今の夫と同じ血液型であることを知っていた麻也子は、排卵誘発剤を飲みながらこの男と避妊せず不倫するという話だ。 

これ小説は、男と女の性に対する違いが端的に書かれている。男の方は、世界中に自分の遺伝子をバラマキたいのに対し、女の方は出来るだけ優秀な自分の遺伝子の成長をちゃんと見届けたい。そこで、男も女も演技やら嘘やらさまざまに努力して、折り合いをつけつつ、騙し合いながら自己を実現しようと葛藤する。

おしまい