「医者に殺されない47の心得」 近藤誠さん死去

医療界から総スカンを食らっていた近藤誠さんが8月13日、虚血性心不全で亡くなられた。ほっとした医者も多いと思う。ご冥福をお祈りする。

近藤誠さんが、有名なのは乳ガンの温存療法だろう。アメリカにも留学して、日本のガン治療に疑問をもつ。つまり、欧米ではすでに病巣だけを取る「乳房温存療法」が当たり前だったが、日本では治癒率が同じなのに無残にも乳房が丸ごと切り取られていた。これを1988年、月刊『文芸春秋』に発表、日本は十何年か遅れて全摘をやめ温存するようになったという話だ。

じじいは、氏の本を何冊も読むファンだった。ガン放置療法は、近藤さんも言うように誰にでも適合するものではないかもしれない。しかし、実際問題として、多くの医者がガンを見つけるとすぐに切ってしまうので、切らなくても良いガン(ガンもどき)まで切っているという感じは非常にする。欧米でガンの死亡率は下がっていると言われるのに、日本はそうでないのは、健康診断やら人間ドックでガンをせっせと見つけ出すのが主因だろうと思う。

とくに高齢になると自然と体力が衰えるので、手術や抗がん剤治療などをすると、延命したとしても、QOL(生活の質)は確実に低下する。

医者は基本的に患者が死なず、延命さえできれば治療は成功だと考えているが、患者は元の健康状態に回復するのが成功だと考えているので、両者の思いの間にはそもそも大きな隔たりがある。 

本当のガンでも、高齢者は「知らぬが仏」で医者へ行かず生活し、具合が悪くなってはじめて医者へ行って「病を得た」ことを知り、もしそのとき痛みが激しく出るなら、緩和療法でモルヒネなどで痛みを取ってもらいながら、のこりの普段の生活を続けるのが、最後まで人間本来の暮らしをする道のような気がするし、本を読んでいると、最後まで痛みが出ず、枯れるように自然死することも多いと書かれている。なまじ治療をするから、生体反応で痛い思いをするというのはアルアルな気がする。

加えて問題は、高齢者の治療費は原則1割負担だが、のこり9割は公的なお金が投入されている。医者の方は簡単に治療しましょうと言うが、患者の方は、もし10割負担であれば、簡単に「治療します」とは言わないだろう。自分の懐は痛まないが、国民の懐は確実に痛んでいる。

日本の医療は民間病院が中心で、公的な病院も独立採算制で、儲けを出さないと存続できない仕組みになっている以上、医者の方には患者をどんどん捌きたいという動機がつねに働いている。今の健康保険制度が、医者にとっていくら薄利で提供されるとしても、多売で儲けを出すことで、国全体で見た無駄は減らないだろう。

MMT的観点から言えば、こうした高齢の患者は1割の負担で気軽に医療を受けられ、医者にとっては、9割の公的負担と合わせた10割のお金が入ることは、医療業界の需要を拡大し繁栄につながっているという良い面はたしかにある。だが、患者にガマンを強いる治療はアダ花だとしか言いようがない。医療分野とは違う、もっと他の分野で公的なお金を投入すべき分野はたくさんあると思う。

以下の二つは、じじいが過去に近藤誠さんに触れたブログだ。よかったら、読んでもらえれば嬉しい。

おしまい(合掌)

「第三次世界大戦はもう始まっている」エマニュエル・トッド

やっぱりそうか、と思わせるこのタイトル、エマニュエル・トッドの新刊が出ている。じじいは、エマニュエル・トッドの炯眼にかねがね感服しており、文春新書で出版されている氏のシリーズのファンである。おそらく彼の本は7~8冊あるかと思う。

アマゾンから

それらの本のうち、ムハンマドの風刺画を掲載してイスラム教徒の原理主義者に襲撃された新聞社シャルリ・エブド事件をテーマにした「シャルリとは誰か?人種差別と没落する西欧」(2016年)だけが、エマニュエル・トッドが、実際にフランス語で書いた本の翻訳で、この本は字も小さく、内容も濃く骨が折れる。そのためじじいは読むのを挫折した。

じじいが氏を最初に知った「グローバリズムが世界を滅ぼす」(2014年)は、じじいが非常に共感した本であり、藤井聡、中野剛志、柴山圭太、ハジュン・チャン、堀茂樹の座談会の発言を取りまとめた本である。「『ドイツ帝国』が世界を破滅させる」、「グローバリズム以後」、「問題は英国ではない、EUなのだ」、「トランプは世界をどう変えるか?」、「老人支配国家日本の危機」は何れも、対談や聞き書きである。このため、スラスラ読める。

「第三次世界大戦はもう始まっている」は、ウクライナ戦争が始まった今年、3月下旬に文芸春秋が取材してきたものだ。今このブログを書いているのが、8月下旬だが、戦争は長期戦の様相を呈し、EUは支援疲れしてきたとか言われ、トッドが3月に話した内容と齟齬がないだけでも、凄いことだ。

というわけで、この本の内容から、じじいが刮目したトピックを何回かに分けて、備忘的に取り上げたい。


まずはアマゾン・文春新書のコピーは下のとおりである。コピーの次にじじいがそうだな、面白いなと思ったトピックを書きたい。

ロシアによるウクライナ侵攻を受けての緊急出版。
戦争を仕掛けたのは、プーチンでなく、米国とNATOだ。
「プーチンは、かつてのソ連やロシア帝国の復活を目論んでいて、東欧全体を支配しようとしている。ウクライナで終わりではない。その後は、ポーランドやバルト三国に侵攻する。ゆえにウクライナ問題でプーチンと交渉し、妥協することは、融和的態度で結局ヒトラーの暴走を許した1938年のミュンヘン会議の二の舞になる」――西側メディアでは、日々こう語られているが、「ウクライナのNATO入りは絶対に許さない」とロシアは明確な警告を発してきたのにもかかわらず、西側がこれを無視したことが、今回の戦争の要因だ。
ウクライナは正式にはNATOに加盟していないが、ロシアの侵攻が始まる前の段階で、ウクライナは「NATOの〝事実上〟の加盟国」になっていた。米英が、高性能の兵器を大量に送り、軍事顧問団も派遣して、ウクライナを「武装化」していたからだ。現在、ロシア軍の攻勢を止めるほどの力を見せているのは、米英によって効果的に増強されていたからだ。
ロシアが看過できなかったのは、この「武装化」がクリミアとドンバス地方の奪還を目指すものだったからだ。「我々はスターリンの誤りを繰り返してはいけない。手遅れになる前に行動しなければならない」とプーチンは発言していた。つまり、軍事上、今回のロシアの侵攻の目的は、何よりも日増しに強くなるウクライナ軍を手遅れになる前に破壊することにあった。
ウクライナ問題は、元来は、国境の修正という「ローカルな問題」だったが、米国はウクライナを「武装化」して「NATOの事実上の加盟国」としていたわけで、この米国の政策によって、ウクライナ問題は「グローバル化=世界戦争化」した。
いま人々は「世界は第三次世界大戦に向かっている」と話しているが、むしろ「すでに第三次世界大戦は始まった」。ウクライナ軍は米英によってつくられ、米国の軍事衛星に支えられた軍隊で、その意味で、ロシアと米国はすでに軍事的に衝突しているからだ。ただ、米国は、自国民の死者を出したくないだけだ。
ウクライナ人は、「米国や英国が自分たちを守ってくれる」と思っていたのに、そこまでではなかったことに驚いているはずだ。ロシアの侵攻が始まると、米英の軍事顧問団は、大量の武器だけ置いてポーランドに逃げてしまった。米国はウクライナ人を〝人間の盾〟にしてロシアと戦っているのだ。


1.「共産主義が、アメリカの『社会民主主義』を崩壊させる前に、その誕生に貢献していたというパラドクス」

まず、アメリカとロシアの価値観がどこから生まれたのかという問いに、トッドは家族制度の違いが、資本主義と共産主義の違いをもたらしたと説明する。つまり、アメリカは、絶対的核家族で「自由」と「非平等」なシステムであり、ロシアは、「兄弟間の平等」と「ほぼ無制限の父親の強い権威」を併せ持ち、かつての農村の家族構造(外婚制共同体家族)から生まれたという。この違いが、アメリカをはじめとする西側陣営に競争社会といえる資本主義を生み、ロシアと中国(中国もロシアと同じ家族制度である)に平等を重視する共産主義を生んだ。

この両大国のアメリカとソ連は第二次世界大戦後、左右の陣営に分かれて覇権を争う冷戦が続き、ソ連崩壊で西側の資本主義陣営が完全勝利したと思われている。しかし、トッドは、米ソは補完し合っていて、アメリカはロシアを「成長」へ向かわせ、ロシアはアメリカを「平等」へと向かわせた。つまり、両陣営は、相手に打ち克つために最大の努力をし、1950年から1960年にかけて、西側の先進諸国は「福祉国家」へと進んだという。共産主義に打ち勝とうとする意志が、完全雇用をはじめとする福祉国家化を促し、ヨーロッパを復興させるマーシャルプランを始めとする帝国主義的であると同時に責任あるアメリカの対外政策を促したという。

やがて、冷戦はソ連の崩壊で西側の勝利に終わったかのように言われるが、西側も実は内部崩壊をしていたというのがトッドの見立てである。 この内部崩壊とは何かと説明するとこうなる。

アメリカは、冷戦時代を通じて「万人の平等」を目指したが、これは核家族制度のなかにそもそも欠落する思想である。アメリカ型の個人主義的家族制度は、兄弟間の不平等を許すシステムだからである。

アメリカは、黒人差別に目をつぶり、「白人間の平等」を掲げてきた歴史を持つ。しかし、「黒人も平等」という思想が、「白人間の平等」という共同意識を壊した。(「自由」と「平等」は、制限を加えず、野放しにしていると両立しがたい。)また、強力な労働組合のもとで、アメリカの労働者階級が解放され、彼らは中産階級になったが、企業の利益率は劇的に低下した。「黒人は(白人より)劣る」という思想が禁じられ「黒人も平等」となれば、「白人同士の平等」という感情が崩れ、経済的な不平等が許容されはじめた。

さらに、アメリカの文化的危機に関わる要因として、ベトナム戦争での敗北の屈辱がある。アメリカは、アフガニスタンやイラクで不誠実で残虐な戦争を起こしているので忘れがちだが、ベトナムでは正真正銘、共産主義に敗北し、モラルの崩壊を招いた。

次の点は、ロシアとは無関係だが、トッドは普遍的なこととして高等教育の普及を上げている。識字率の向上で形成された平等主義的な文化は、大学進学率が25%を超えたところで、「平等」の意識が失われ、上層部の人は自らを「新たなエリート」と認識するようになるという。アメリカで大学進学率が25%を超えたのは1960年から1965年であり、この時期は黒人運動まっさかりで、「白人の平等」は、大学進学率と「黒人も平等」という両輪でつぶされ、消えてなくなる。

これが、冷戦で負ったアメリカの代償(=アメリカも敗北した)であり、この共産主義の重しがなくなった後、その反動で核家族を中心に据えた、「非平等」を内在するアメリカ型の「自由」の世界へ回帰し、「平等」がない「自由」だけが尊重される「新自由主義」がはじまったわけだ。

トッドは言う。「『黒人の解放』が『白人の集団感情』を打ち砕いたのです。『新自由主義』という革命は、人種主義の圧力から誕生しました。私に言わせれば、人類学的な無意識にずっと潜んでいた『非平等』への衝動が抑えられなくなった結果に他なりません。」

人種問題はアメリカに付きまとっており、この白人の集団感情の崩壊が、効率的な集団行動を阻んでいる。共和党と民主党の二極化は、人種的な分離に根差し、これを永続化させている。黒人の90%の票は、高学歴層、超富裕層と連動し、民主党の「傭兵」のような存在になっている。これが政治システムの「寡頭制」を生き永らえさせている。一方、共和党は、優位性を失いつつある白人アイデンティティから逃れることが出来ずにいる。

人種主義、「人種」へのこだわりがアメリカの白人の民主主義を可能にしたわけだが、オバマ以降は、「多人種」を夢見ながら「寡頭制」を持続させている。「民主制」から「寡頭制」への移行は、ロシアとの対立によって形づくられ、「黒人の解放」を迫ったのもロシアだ。

加えると、家族構造の歴史から見ると、西洋社会は「もっとも原始的」で、父権性が強く権威主義的社会を形づくっている共同体家族こそ「もっとも新しい」ということだ。

ほぼほぼ、トッドの言うことをコピーしてきた。他にも、おもしろいトピックはいくつかあるのでまた紹介するつもりだ。

おしまい

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たらい回しにされろ! 岸田首相コロナになる

日本経済がこれだけ悪いのに何もしない岸田首相。いつも「検討します!」と言うだけで何もしないので、「遣唐使」と揶揄される。

その首相が、新型コロナに感染した。是非、あちこちの病院に電話して、どこの病院でも見てもらえずたらい回しになって布団の中で苦しんでもらいた。

そうすれば、国民の多数が、熱が出て喉の痛い病気になっても、病院にかかれない辛さがわかるだろう。病院の事を心配するより、まず国民の事を心配して欲しい。

おしまい

出版の話 《YOUTUBE》青汁王子・三崎雄太と幻冬舎・箕輪厚介の対談

じじいの《紹介》欄にも書いたが、地上波のテレビに見るところはないが、YOUTUBEやニコニコ動画などを見ていると知らなかったことがたくさんあり、時間がいくらあっても足りず、見飽きない。

今回は、青汁王子と呼ばれる三崎雄太さんのチャンネルから、箕輪厚介さんとの対談を紹介する。

この対談を通じて思うのは、三崎雄太氏、箕輪厚介氏どちらも、こせこせしたサラリーマンと比べると、振り切れていて雑念がない。人へ責任転嫁することなく、目的地へわき目も振らず疾走する人物の潔さがある。

ウィキペディアによると、青汁王子は高校卒業後、アフィリエイト(ブログなどで商品を紹介し販売した時に一定の報酬をもらったりする仕組み)で儲け、アプリを作ったりする会社を経営したりして、インターネットで美容通信販売の後に青汁を売って大成功する。ところが、脱税により逮捕され、世間からバッシングを受け転落。その転落を契機に、焼き鳥屋になったり、彼女に振られたりの一部始終を公開し反響を呼んだ。また、NO1ホストになったり紆余曲折をへて、単に会社経営で金儲けするより、世間に言いたいことを言うほうが楽しいと言って、ユーチューバーをして成功。ガーシーやホリエモン、ヒカルなどと活動している。

一方の箕輪厚介氏は、幻冬舎のカリスマ編集者で、幻冬舎自体が見城社長という強烈な個性のもとで、わずかな時間で大成長した会社である。氏はその幻冬舎で、何冊もベストセラーを生み出した。その本を売ることに関しての彼の語り口は、極めて明快だ。ただ話を聞いていると、例えばホリエモンであれば、ホリエモン自身は1文字も書いていないらしく、氏がゴーストライターの役目をしている場合もありそうだ。

そんなで、青汁王子こと三崎裕太氏が、角川から出版した「時を稼ぐ男」が重版されたのを機に、10万部を越え、さらにもっと売るための戦略を箕輪厚介氏に相談するというのが内容だ。

これに対する箕輪厚介さんの回答の要約はおおむねこんな感じである。

  • ジャンルごとに「池」の大きさが決まっていて、《健康》なら100万部、《神社》なら7000部、《お金のビジネス書》は30万部。本の中身の良し悪しに関係なく、これが上限。
  • 売り上げを増やそうとすれば、著者のコミュニティ(三崎雄太氏であれば、ホリエモンやヒカルなどの著名人)とコラボし、対談したり帯に推薦文を書いてもらう。そうすることで、対談した人のフォロワーにもリーチできる。
  • 本屋さんへドブ板営業する。イベントやったりサイン会やったりする。
  • 広告を異常なレベルでやる。中途半端では効果がない。 新聞広告の大きなものをやる。電車の中づり広告のジャックをする。電車の動画広告を1日中流す。タクシー広告をやる。広告は、ユーチューバーの三崎雄太には、認知を上げるのでムダ金にはならない。
三崎優太 青汁王子

箕輪厚介氏がいうのは、最初に火をつけられる(1~2万部売れる)のは実力があるからこそという。火がついたものを大きくする方法はある。火がつかない本を売ろうとしても、お金の力で本は売れない。

さらに興味深い、納得するようなことをビシバシいろいろ言われている。

  • 頭おかしい人、ネジがぶっ飛んでいる人でないと本は売れない。
  • 本を出したいと思っている時点でダメ。側から「本を出してください」と頼まれるほど、新しい考えなどがないとダメ。
  • SNSでバズっている。バズる兆しがある。SNSで話題にならないものが本で売れるわけがない。
  • アナログの本屋で売れるのは奇跡。ほとんどの人が本屋へ行かない。それほど難しい。いいタネを持っていないとダメ。

ここからは、おまけである。

前提条件として、YOUTUBEにしろTWITTERにしろ、SNSのプラットフォームというものは本来、誰に対しても平等に開かれているからこそ、プラットフォームと呼ばれるのだが、現実は違っていて特定の権力に反発するようなものは、バン(禁止、アカウント停止)され、公表の機会は奪われている。 具体的に説明すると、コロナで反ワクチンの主張やWHOや政府に異議を唱えるとBANされる。小林よしのり氏や尼崎の長尾医師などが該当する。また、参議院議員に当選したガーシーチャンネルは、楽天の社長や官房副長官を名指しで批判していたのだが、選挙の終盤戦にいつアカウントがバンされるか、投票日まで見れるか競争になってスリリングだった。また、もう一つ上げると、トランプ元大統領はそこらじゅうのSNSでバンされて、対抗措置として自分でSNS、《TRUTH SOCIAL》というものを立ち上げて発信している。

つまり、既存のSNSは、政治的に無色透明なプラットフォームではなくかなりなバイアスがかかっている。

とはいえ、いまのところYOUTUBEは、操作性もいいし、ユーチューバーにとって多くの視聴者を稼げるので、誰もが力を入れておりさまざまな新発見ができる。

おしまい

第7章 マネージャー、ホンバーガー

14歳のグールドが初めて、トロント交響楽団と共演した1947年1月のベートーヴェンの『ピアノ協奏曲』第4番を、22歳のウォルター・ホンバーガー(1924-2019)が聴き、「これは凄い少年が現れた。」とグールドの才能を確信する。そして、「興行主としての音楽マネージャーになりたい」とすぐに両親に申し出た。

ドイツ生まれのホンバーガーは、恰幅がよく、上品で落ち着いた紳士だった。一方、いつまでたってもドイツ訛りのアクセントがぬけず、のちにグールドがよくするものまね、ドイツ語訛りでしゃべる奇人の発音のモデルにしていた。

かれは、ドイツ、カールスルーエで私立銀行を営む家庭で生まれた。音楽経験はなかったが、周囲を優れた音楽家[1]に囲まれ、興行主を志していた。第二次世界大戦のまえにナチスから逃れ、イギリスへわたり、1940年カナダへ亡命、1942年に市民権を与えられていた。しかし、敵国からの亡命者にとっては苦しい時代で、大戦が終わる1945年まで隔離され厳しい監視下にあり、移動するにも仕事の認可を得るにも厳しい規制を受けなければならなかった。

かれは優れた実業家であり、グールドがコンサートから身を引く1964年まで、興行主としてマネージャーを務め良好な関係を続けた。つねにグールドを尊重しかばったからである。グールドは演奏の姿勢などで常に批判を浴びていたが、ホンバーガーはこういうのだった。

[2]ステージ・マナーについてグレンが批判されたときの私の答えは決まっていました。『あなたは音楽を聴くために演奏会へ行くのでしょう?でしたら目を閉じて聴いてください。彼を見たくなかったら、目の前から追い出せばいいんですよ』と。」

グールドは後に成功してから、ユーモアでホンバーガーをこう評している。

[3]ギャラ、ピアノの選択、衣装、プログラム、スケジュール、そして僕のプレスへの態度以外ならば僕とマネージャーの意見が食い違うことはまったくない。」

ゲレーロと別れたグールドにとって、ホンバーガーは新しい父親だった。

なおかれは、1962年から25年間、トロント交響楽団の興行主をつとめている。

日本の小澤征爾は、1964年から4年間トロント交響楽団の常任指揮者を務めていたので、グールド、ホンバーガーとも交友があった。

グールドの両親は、ホンバーガーのマネージャーの申し出を最終的に「神童として酷使しないこと」を条件に承諾する。

ホンバーガーとグールドの両親は、居間のソファに座り話し合っていた。

「おとうさん、おかあさん。息子さんの演奏を聴いて、ぼくは跳びあがりました。すごいです、あの年齢で、あんなに表現力があって感動的な演奏をするなんて、信じられません。小さい音で演奏する時には胸を締めつけられる気がしましたし、クライマックスでは興奮して、心臓がバクバクしました。まったく自由自在じゃないですか!まだ、14歳ですよね。ぜひ、ぼくをマネージャーにしてください。興行的に成功させてみせます。ちゃんと、かれを育てますから」

「先日は、トロント交響楽団との協演でしたが、昨年は同じ曲を、ピアノのゲレーロ先生がオーケストラのパートを連弾で伴奏してくださいました。この先生についてから、グレンは、どんどん成長しはじめて、わたしたちがどうしたらよいのか、わからないくらいになりました。遠いところに行ってしまうようで、怖いくらいです。わたしたちは、ふたりとも音楽好きで、母親が10歳までピアノを教えてきました。わたしはヴァイオリンを弾いていましたし、夫婦で讃美歌をうたい、グレンが伴奏をして聴衆の人たちから喝采をもらったこともありました」

「わたしは、声楽の教師をずっとしていたので、グレンにピアノを弾きながら歌うように言ってきかせました。そのせいで、かれのステージで歌う癖は、抜けなくなりました。グレンの上達ぶりは、ふたりとももちろんうれしいのですが、とまどいもあるのが正直なところです。かれは、まるで、わたしたちの平凡な家庭の裏庭に突然山脈が隆起して現れた[4]ようなものです。わたしたちの手に負えなくなってきたのです。わたしたちも、そういっていただくのは嬉しいのですが、どうしたらよいのかわかないところがあります。」

「神童とか天才とかいわれながら、大人になってだめになってしまう演奏家は大勢いますし、かれはまだ声変わりもしてしない子供にすぎません。我が家では「神童」とか「天才」という言葉に加えて、「モーツァルト」と軽々しくいうのも禁句なのです。かれは金魚に「モーツァルト」と名前をつけていますけどね。わたしたちは、幼いころから大勢の大人を喜ばせる、見世物にしたくないと思っていました。彼を、まずは親として、ちゃんとした人間に成長するのを見届ける義務があると思っています」

「わかりました。わたしは、音楽家ではありませんし、楽譜も読めません。しかし、ビジネスには自信があります。弱みもあるのでしょうが、強みもあるはずです。おっしゃるように、かれの意思に反して酷使するようなまねはしません。もちろん、親御さんの心配は分かります。ですが、かれには他にない才能があり、それを埋もれさせずに、開花させてあげる役目もあるのではないでしょうか。どうか息子さんを、わたしにあずけてもらえませんか」

その話し合いをしている居間のピアノの横にはフラシ天(ビロードに似た高級布地)の長椅子が置かれ、グレン少年は、ほぼ水平といえるほどのだらけた格好で寝転んでいた。母親が言った。

「グレン、背を伸ばして。いい加減にきちんと座ってちょうだい、お願いだから。この話、あなたはどうなの。ホンバーガーさんに、マネージャーをお願いするということは、ピアニストになってそれで身を立てることになるのよ」

グールドは、だらけた姿勢をほとんどかえずに答えた。

「ピアニストだけじゃないよ。ぼくは作曲家になるんだ。作曲家になる前に、まずコンサート・ピアニストになるんだけどね」

最終的に、両親はホンバーガーが興行主となって取り仕切ることを了承し、翌1947年10月20日にデビュー・コンサートを1回のみのおこなう旨の「紙切れ1枚」の契約を1947年3月13日に交わし[5]た。興業主になるにはアメリカだ、カナダで興行主として成功するはずはないと周囲からいわれたホンバーガーだったが、かれには自信があった。

この年の契約の後、グールドは、トロント王立音楽院で初の単独リサイタル、教会ではオルガンによるリサイタルを開いた。この二つのリサイタルがホンバーガーの手によらなかったのは、グールドの父バートが、マネージャーの役をなかなか手放さなかったということがある。バートはずっと、グールドの公演の話があると、相手先との交渉や手配、旅行の支度や空港までの送迎などを献身的にずっとしていた。

10月20日、ついにホンバーガーの手腕が発揮された商業リサイタルが初開催された。グールドは、15歳でプロデビューした。

グールドの写真が写されたポスターやプログラムで宣伝された。曲目は、スカルラッティ[6]のソナタ5曲、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第17番ニ短調作品31第2「テンペスト」、クープラン[7]のパッサカリア、ショパンのワルツ第5番変イ長調作品42、即興曲第2番嬰へ長調作品36、リストの《泉のほとりで》、メンデルスゾーンのアンダンテとロンド・カプリチオーソだった。

トロントの主要3紙がそろって批評記事を載せた。いずれの新聞もグールドの演奏を高く評価し、《グローブ・アンド・メイル》紙は「この演奏家は楽章や作品全体をひとつのまとまりとして捉えた。しかも細部は全体の構造を示すべく計算されていた」と書いた。グールド、両親、ホンバーガーの全員が、この成功に満足した。

なお、グールドは初期ロマン派といわれるショパン、リスト、メンデルスゾーンを嫌悪し、やがてこれらの曲を弾かなくなるのだが、15歳のこのときはそうではなかった。

つぎへ


[1] 優れた音楽家 ヴァイオリニストのカール・フレッシュを師とするヘンリク・シェリング、ゲアハルト・カンダー、イダ・ヘンデルがホンバーガーの友人だった。いずれも有名なヴァイオリニストである。

[2] 「神秘の探訪:バザーナ」第9章孤立 P117

[3] 「ギャラ、ピアノ・・」映画《HereAfter/来世》ブリュノ・モンサンジョン2007年 この映画にトロントのグールド像に語り掛けるご夫人との架空の対話で出てくる。

[4] 山脈が隆起 1983年、グールドへの追悼文集を集めた《Glenn Gould Variations, John McGreevy》《1986年日本語版 グレン・グールド変奏曲 訳:木村博江 東京創元社》が発刊され、この中で、子供時代から20歳前半までのグールドの唯一といっていい友人として過ごした《Saturday Night》誌編集者のロバート・フルフォードが、「育ち盛りのグールド」というタイトルで寄稿している。

[5] 《神秘の探訪:バザーナ 117頁》

[6]  スカルラッティ(1685-1757) イタリア出身の作曲家。同年にJ.S.バッハ、ヘンデルのバロック時代の代表的作曲家が生まれている。

[7]  クープラン (1668-1733)は、バロック時代のフランスの作曲家。

第6章 恩師殺し-門下生になるのだが、独学と言い張る

音楽院でゲレーロに学ぶ

グールドの公教育は、1年間小学校へ行かずに家庭教師を依頼したため、1年遅れの1939年、7歳の秋にウィリアムソンロード小学校へ入学、成績が良かったので飛び級もして卒業した。1945年、12歳の秋に公立中高一貫校のマルヴァーン高校に入学する。この高校に入る年には、普通教育より音楽教育の方を重要視するようになり、バートは学校と掛け合い、グールドを午前は高校へ、午後はトロント王立音楽院へ行かせ、夜は、家庭教師をつけ学校の授業を補習させた。最終的に高校に1951年(19歳)まで在籍した。両親は進学を望んだが、グールドは反発し、最終的に必修科目である体育を履修せず高校は卒業しなかった。

音楽教育については、グールドは、1940年、7歳のときにトロント王立音楽院で音楽理論を[1]レオ・スミスから学び始める。転調や、和音の進行、声部の進行法、和声法の基礎をすぐに習得する。特に対位法に才能を発揮し、複数の主題を絡ませたり重ねたりできるようになる。

42年からは、[2]フレデリック・シルヴェスターからオルガンを教わる。シルヴェスターは、グールド一家と家族ぐるみの付き合いをした。グールドは、オルガンを弾くことで、「足を使って考えながら」弾けるようになり、低音部を強調することが、やがて対位法の音楽を好むきっかけになった。また、鍵盤を叩くのではなく「指先で弾く」技法を身につけたため、強弱で表現するのではなく、微妙なテンポの変化でニュアンスを表現するようになり、グールドのピアノ演奏は、清潔で、「まっすぐ(アップライト)()[3]アーティキュレーションのしっかりしたものなった。

フローラは、「この子は上達し過ぎた。私にはもう教えられない。」と思うようになり、自分にかわるピアノ教師を探し始め、王立音楽院の学長のサー・[4]アーネスト・マクミランと相談し、1943年、10歳のときに[5]アルベルト・ゲレーロに依頼することになる。

20歳年下の教え子と同棲するゲレーロ

この時、ゲレーロは、妻[6]リリーと娘メリザンドがいた。チリ人であるゲレーロは、母国から特別名誉領事を任命されていた。ところが教育や公演、出張などで忙しく、当局から名誉領事職をはく奪される。彼は管理者の気質ではなく、ましてや「ボス」の気質でもなかった。そのとき、リリーはゲレーロの代わりに自分を名誉領事に任命するように依頼するのだが、女性は適切でないとして拒否された。結局、ゲレーロは解任され、他の者が任命されるのだが、最終的にはゲレーロは、真剣に仕事に取り組むことを表明して、名誉領事に再登用される。

そのようないきさつで、夫婦はうまくいかなくなり、また、二人は人に好かれる魅力的な性格でどちらにも不倫の噂があった。そして、10年以上前から別居していた。

ちょうど夫婦が不仲になったそのころ、ゲレーロは、20歳年下の教え子[7]マートルと恋に落ちる。一方リリーは、離婚することはゲレーロを自由にし、マートルと結婚することを認めることになるので、離婚をしようとしなかった。

それでグールドを教えるようになったこの時、ゲレーロは57歳で37歳のマートルと公然と同棲していた。

二人が結婚するまでには長い時間がかかった。やっと、1948年に正式に結婚する。これは当時のカナダの法律では、離婚が「不当な扱いを受けた配偶者」からしか申し出ることができなかったからだ。チリのカトリック教徒にとって離婚は禁止されていたし、プロテスタントのカナダでも非常に珍しいことだった。そのため、ゲレーロは長い間苦労した。

トロント王立音楽院は、音楽家を目指す大人たちの大学であり、養成機関である。グールドの周りは大人ばかりだった。10歳以上違う年長者も大勢いた。クラス写真には、グールドだけが思春期にも達していない子供に写っている。この年長者たちに交じって、グールドはいっぱしの主張を堂々と言うのだった。

1944年、第2次世界大戦の連合国軍は、フランス、ノルマンディーに上陸し、戦況が悪化した日本軍は、とうとうレイテ島で《神風特別攻撃隊》を初出撃させた。だが、ここカナダは幸い戦場ではなかった。

ゲレーロは、チリ人の多才なピアニストで、サンチャゴで最初の交響楽団を結成して指揮した経歴をはじめ、南米で広く活動した後、アメリカを経て1922年からトロント王立音楽院の教授だった。ゲレーロは子供を教える気はなかったが、グールドは別だった。すぐにグールドの天才に気づき、グールドはゲレーロの寵児になる。影の薄いバートに代わって、ゲレーロは、グールドの新たな父親がわりの存在になる。

ゲレーロとグールド(11歳)

この写真のグールドは、普通の姿勢で弾いている。グールドのピアノを弾く姿勢は、オランウータンみたいに悪いと言われるほどだが、これにはゲレーロの影響がある。ゲレーロも、非常に低い位置で猫背で座り、なるべく指先だけで鍵盤を弾いた。この写真のグールドは11歳で、母フローラの教えによって、指は平らだが、まだ悪い姿勢で弾いていなかったのだろう。「子供のときグールドは、ゲレーロとまったく同じ座り方をするので、みな笑っていました」と[8]生徒の一人がいう。

この姿勢の悪い座り方については、一番心外だったのはフローラだろう。彼女は、つねに「グレン、背筋を伸ばしなさい!」と息子に言い聞かせてきた。ところが、息子にとってもっとも有害だと信じる姿勢で、ピアノを演奏するようになってしまい、公のコンサートの場でもそうだった。世間のピアノ経験者や新聞評でも姿勢の悪さはいつも指摘されるのだが、グールドは改める様子が少しもなかった。彼女は面目を失い、落胆していた。

だが、実際的な父バートは、それならそれで仕方がないと考えていた。バートは、椅子の足を約10センチほど切り、切った部分を真鍮の金具で囲み、その先に高さ調節用の回転ネジをつけた折り畳み椅子を作った。椅子は、わずか35センチの高さである。

生涯にわたって使い続けた椅子

グールドは、この父が作った椅子をどこへでも持って行き、終生、使い続けた。当然ながら年月が経つに連れて、椅子は草臥れていった。やがて座面の詰め物が飛び出し、晩年には、木枠だけになってしまうのだが、それでもこの椅子に固執し使い続けた。もちろんグールド自身も周囲の人たちは、同じような椅子を新たに作ろうとするのだが、やはり最初の椅子の使い心地の方が上回るのだった。

グールドは、それでもあきらめず、椅子をもっと低くしようとする。しかし、椅子をあまりに低くすると、今度は足が不自由になる。そのために、後にはピアノを数センチの高さの木製の台に乗せ、ピアノを持ち上げるか、特製の金属の大きな枠を作りピアノをそれに乗せて弾くようになる。

クロッケー(Wikipedia)

ゲレーロは、バートの手配でシムコー湖に別荘を買った。グールドとフローラ、ゲレーロとマートルは二組に分かれ、クロッケーを楽しんだ。運動など競争の価値を否定するグールドだったが、芝生上のビリヤードといわれる[9]クロッケーでは、負けず嫌いのグールドは、どんな汚い手を使ってでも勝とうとするのが常だった。だが、まれに負けると地団太を踏んで悔しがった。

グールドは性的なことはまだ何も知らなかった。しかし、50代半ばのキュービズムのような顔をした母と比べて、マートルに若い女性の性的な魅力を感じていた。

ゲレーロは、「ピアニストではなく、音楽家になりなさい。」とレッスンで言い、それが彼の思想だった。ピアニストはピアノが弾ければよいというのではない。人間的にも魅力のある人物になりなさいと教え子たちに常に求めていた。

実際、彼は音楽だけではなく、文学や絵画、ほかの芸術にも造詣が深いルネサンスマン(万能人間)だった。ゲレーロは、貴族的な育ち方をした。母はピアノの名手であり、姉妹や兄弟たちも医者や大学教授で同様だった。

もちろん彼の音楽の才能は、異色なほど優れていた。サン・サーンスのオペラ《サムソンとダリラ》を聞いた後、急いで家に帰り記憶を頼りに全曲を弾きとおしたというエピソードを、生徒の[10]スチュワート・ハミルトンに言ったことがあるのだが、ハミルトンはさすがに本当とは思えなかった。だが目の前のゲレーロは、何十年もスコアを見たことがない《サムソンとダリラ》の第1幕を弾き通した。他の生徒のレッスンでは、ハチャトリアンのピアノ協奏曲をレッスンする必要があったのだが、自分の楽譜が見つからなかった。そのときもゲレーロは、やはり、記憶を頼りにオーケストラのパートすべてを伴奏した。

もちろん、彼の才能は音楽だけではないのだった。彼はエスペラント語を含め数か国語を話し、文学や哲学に通じ、[11]コント、フッサールやサルトルまでが話題に上った。絵画通で自分でも画を描いた。美食家でもあり、ワイン通でもある洗練された教養の高い紳士だった。

ゲレーロは、また現代音楽に精通する擁護者だった。

彼は、シェーンベルクをグールドが16歳のときに教えた。

グールドは、最初この音楽をゲレーロから聴いたとき、この音楽を拒絶し、二人で激しい議論になる。しかし、数週間後にグールドはシェーンベルクの様式で作曲した曲をレッスンに持ってきた。ゲレーロは、手放しでその曲を褒め、現代音楽がグールドの目標の一つになる。

ただ一方で、ゲレーロはピアノの打鍵技法については、具体的に詳細な研究を重ね、独特の技法を編み出していた。[12]フィンガータッピングというのだが、右手と左手に分けて、右手の音を弾くときには、鍵盤の上に右手を置き、左手で右手の指をおして打鍵し、音を出す。こうして右手が自然に跳ね返る感触を身につけ、指の独立を促すというものだった。また、背筋を鍛えさせ、指の方には力を入れないで、曖昧さやむらのない打鍵ができるようにする。このような奏法では、火山の噴火のような爆発的な強音は出せない。つまり、リストやラフマニノフの協奏曲は諦めるしかなかったが、ゲレーロもグールドも、大ホールで何千人をも圧倒しようとする音楽にはあまり興味を持っていなかった。

グールドは、あまり練習をしない、むしろ練習をしない方がうまく弾けるというようなことを、プロになってからはよく言って周囲の反発をかうのだが、少年期は、このフィンガータッピングを徹底的にやり、とことん時間を忘れて練習に没頭していた。

ゲレーロが、グールドにピアノを教えようとすると、グールドは怒った。反発して従わないばかりか、逆のことをしようとした。このため、ゲレーロは、「この子を教えようとするのは逆効果だ。やめよう。」とすぐに悟った。マートルがゲレーロから聞いていたのは、「グールドを教える秘訣は、答えを自分自身で見つけさせることだ。すくなくとも見つけたと思わせること」だった。

実際、グールドとのレッスンで、

「グレン、それでいいよ」とゲレーロが言っても、

「いいえ、まだです」とグールドはと答えた。

完璧に弾けるまで延々とグールドは止めなかったので、いつも時間をオーバーしていた。おまけに、ピアノの実技というより、音楽に対する姿勢の議論が中心だったのも事実で、ゲレーロはグールドの音楽観を明確にすることに大いに貢献した。

グールドは成長するにつれ、ピアノは生涯独学だったと言い、ゲレーロを傷つけた。しかし、グールドのピアノを弾く時の極端に低い姿勢や、フィンガータッピング奏法は、はっきりとゲレーロの影響を受けている。

ゲレーロは、1959年(73歳)のときにヘルニアの手術後の合併症で亡くなるのだが、その直前に、先妻との間の娘メリザンドが、グールドが師のゲレーロを非難するような記事を見つけ、怒りながら父に見せると、ゲレーロは、”Al maestro cuchillada”(師をナイフで刺す[生徒は教師を恨むものだ])とむしろ誇らしげに言ったという。

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恩師を出し抜く

グールドは、1944年(11歳)になると、トロントで行われるキワニス音楽祭[13]へ3年連続で参加している。

あるトロント大学の美学の[14]教授は、この音楽祭の審査員たちを評し「いかにも忌まわしいタイプのイギリス人審査員、異邦人たちを啓蒙するのが目的でやってきた植民地主義者」と評した。イギリス風の音楽観だけでなく、イギリス人の風俗習慣や価値観をも強化することにあり、礼儀正しさがなにより優先される音楽祭だった。

グールドは、1966年の《[15]ハイ・フィデリティ》誌に《コンクール落ちこぼれ候補からひとこと!》というタイトルで、キワニス音楽祭にふれたユーモアあふれる辛口エッセイを書いている。

「・・・・ただし英語圏カナダでも、マイナーリーグ風の音楽祭の伝統は確かにある。しかしそれは、新進音楽家がプロとして立てるかどうかの命運を分けるようなものではなく、学生を審査する地域的な年中行事であり、高齢退職したような英国系学校関係者が主宰する。このような催しはお情けとなれ合いの雰囲気に包まれている。・・・」

それに続き、グールドはこの審査員たちを茶化し、「これはこれは、とても結構でした。67番の方ね。すばらしい気迫とか、ですね。ただ、複縦線のところでもつれたので1点だけ引かねばなりませんがね。慣れた提示部を通して4度というのは、ちょっとうんざりじゃないかな。」と書いた。

この1944年の第1回キワニス音楽祭で、グールドは一位を3つとった。1つは、バッハのプレリュードとフーガ部門で、周りはほとんどグールドより年長者ばかりだった。グールドは、200ドル(現在価値で2800ドル=31万円)の奨学金を得る。

1945年には、バッハとベートーヴェン部門で、一位2つと三位を取り、100ドルの奨学金を得る。この演奏はラジオで放送され、グールドにとって、初のオンエアとなった。

1946年には、またも一位を2つ獲得したが、それぞれバッハと協奏曲部門だった。

このとき、ゲレーロを伴奏者にして、ベートーヴェンの[16]ピアノ協奏曲4番第1楽章を弾いた。このころには、新聞などにはっきりと「神童」と批評が載るカナダ国内の本物の有名人になっていた。

ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番は、めずらしくピアノの独奏から始まるピアニストなら誰もが挑戦する名曲である。ベートーヴェンのピアノ協奏曲は第5番の「皇帝」が最も有名なのだが、第4番はピアノとオーケストラ(弦楽器)がまるで深遠な対話をするような違った趣で、「皇帝」以上に好まれる曲だ。

その曲の始まりは、「ダ、ダ、ダ、ダーン」と始まる交響曲第5番「運命」と同じ、同音連打を3度繰り返す。もちろん、「運命」のような大音響ではない。楽譜には「ピアノ」と「ドルチェ」と書かれているので、「小さな音」で、「やわらかく」という指示がある。しかし、これをピアノで習う生徒は、適度な快速さ(アレグロ・モデラート)で和音を和音として鳴らし、「運命」の動機と同じだと教わる。もちろん、グールドもピアノ教師からそのように教えられていた。このため普通は、同音の和音の連打であることを意識しながら弾くのだが、グールドは、「[17]アレグロ・モデラート」と指示されたこの曲をさらにゆったりと感情をこめて、わざと和音を強調するようには弾かず、下声部の和音を小さめの音量で弾き、高音部を引き立たせて弾いた。

このピアノ独奏の入りは、次に入ってくるオーケストラの同じ旋律の演奏に大きな影響を与える。「ほどよく快速」に、ピアニストが「運命」動機のように弾けば、オーケストラも「運命」動機のようにあっさり演奏する。しかし、ピアニストが穏やかにゆったりとモデラートで始めると、当然、受けるオーケストラもそのように演奏する。

グールドは、ピアノ教師から練習で何度か弾き方が違うと注意されるのだが、グールドははっきりと反論せず、はにかみながらも自分の弾き方を改めようとはしないのだった。

また、この2台のピアノによる第1楽章のみの演奏の後、この音楽教師からグールドは、来年の王立音楽院の年度末コンサートで、トロント交響楽団とこの曲で、プロオーケストラ・デビューするよう言われる。この話があった時、グールドは、11歳の時から2年間、毎日のようにこの曲をレコードで聴き、レコードに合わせ自分も演奏していたので、問題はないだろうと考えていた。

グールドが聴いていたレコードは、[18]シュナーベルだった。シュナーベルは、ベートーヴェン、モーツァルト、シューベルト、ブラームスといった狭いレパートリーを、単に技巧的に上手に、美しく弾くというものではなく、はっきりとメッセージ性を出し、曲からくみ取った自分の意図を聴き手に伝えようとしていた。

この演奏は、78回転のSPレコード全8面からなり、グールドは自動裏返し装置のついたプレイヤーで鳴らしながら、シュナーベルそのままに、ピアノパートを弾いていた。78回転で回るSPレコードは、裏表に溝があり、表面が終わると盤を自動的にひっくり返し、裏面の演奏を始める。レコードは全8面に分割されていたから、7回中断するのだが、グールドはその中断の間、[19]カデンツァを弾き、高揚を保っていた。また、その中断は、曲想の変化の造形上の重要な区切りでもあり、シュナーベルは表現法を変え、《[20]個人的述懐》を開陳するのだった。グールドも、同様の嗜好であり、この豊かで柔らかい曲の区切りを決するはっきりしたポイントを無視して弾くやり方は、我慢がならない。軽率かつ無配慮に、ゴール目指してすたすた前進する演奏では、もっと我慢がならないと考えていた。

ところが、グールドの演奏を良しとしないピアノ教師は、生徒の嗜好を甘やかすなどとはもっての外と考えて、グールドからシュナーベルのレコードを取り上げ、《個人的述懐》風な表現をするんじゃないと生徒に釘をさした。

そこで、グールドは一計を案じ、この教師との練習の間、[21]ゼルキン風にきびきびとした素早い演奏をし、ときに、洗練された[22]カサドシュ風熱情によって緩めて演奏してみせた。そして、教師のゲレーロは、グールドの進歩と従順さ、個人指導の分野における自分の腕前に至極満足を覚えていた。

ところが実際のトロント交響楽団(指揮は[23]バーナード・ハインツ)との本番で、グールドは、リハーサルでもやっていなかったシュナーベル風の演奏をはじめた。一部には、不満なところもあったが、幸い、オーケストラもうまく従いてきた。演奏後、グールドは意気軒高、師ゲレーロは面目丸つぶれになる。

この演奏を聴いた聴衆は、何度もアンコールを求め、報道関係者はこの少年の演奏を絶賛した。ただ、トロントの新聞《グローブ・アンド・メイル》は違った見解を載せ、「ベートーヴェンのとらえがたい『ピアノ協奏曲』第4番が昨夜一人の子どもの手にゆだねられた」「この坊やは、自分を誰だと思っているのだろう。シュナーベルだとでも思っているのだろうか」と結びに書いた。

ついで母殺し

グールドは、トロント交響楽団との思い出のうち、母親の思い出をユーモアと皮肉交じりで書いている。

これを書いたのは、グールドが7歳の頃、[24]「たわむれに記憶はすまじ あるいはトロント・シンフォニー・オーケストラの思い出」で、後に王立音楽院の校長になるサー・アーネスト・マクミランが指揮していたトロント交響楽団で、一般の聴衆の一人として見たときの母の様子を語っている。

「このコンサートに関して、もうひとつこんなことも覚えている。私は、両親といっしょに、たぶん私よりいくつか年上のごく上品な二人の男の子のすぐうしろに座っていたのだが、母が、彼らはサー・アーネストの息子たちだと断言した。私は、母がどこからそういう話を仕入れていたのか知らないが、彼女はこの種の情報を集めることに奇妙な偏愛を示していた。とりわけ、それらの情報を何らかの宣伝目的に使えるようなときはそうだった。あのとき、その二人の男の子は非の打ちようもなく飾り立てられていた。(あれはすみからすみまで宣伝の対象になっていた。ところが私は、実際のところ、その頃、われわれの社会の人びとにとっての模範になるには程遠い存在だった。)そして母は、彼らこそ、礼儀作法に関して私があこがれなければならないものの見本だと頭ごなしに断言した。そして私は、直ちに、彼らが大嫌いになった。」

同様に、グールドが初めてオーケストラと共演した1947年1月(14歳)、ベートーヴェンの『ピアノ協奏曲』第4番の指揮者であるバーナード・ハインツを見た時の母を、次のように語っている。

「ソリストとして私がはじめてトロント・シンフォニーと出会ったのは、1947年のことだ。客演指揮者はオーストラリアのマエストロ、サー・バーナード・ハインツで、私はベートーヴェンの『協奏曲第4番』をひいた。サー・バーナードに関しては大したことは覚えていない。彼がきわめていんぎんな人物で、英国風の警句や、オーストラリア風の女性の手への口づけに夢中になっていた。母はすっかりのぼせあがっていた。」

グールドが公立中高一貫校のマルヴァーン高校に12歳で入学し、午前は授業を受け、午後はトロント王立音楽院へ行くようになってからは、グールドは「ダバ、ダバッ、ダッ」と歌いながら指揮をして、歩道と車道を交互に歩き、全くの変人で有名人だった。しかし、同級生がグールドを見る目は、将来グールドが天才的な音楽家になると自然に受けとるように変わっていった。

両親は、グールドの才能を潰さないように気にかけ、コンクールなどの競争は才能を潰しかねないと危惧していた。バートは、毛皮商としての商売でしっかり稼いでいたから、ピアニストの収入は大したことがないと思っていたし、息子にはもっと運動もして元気で暮らしてほしいと考えていた。ただ、息子の才能は高く感じていて、希望は何でも叶えようと思っていた。フローラは[25]不可能な子供を望んでいた。

「行儀がよく、姿勢よく座り、悪ガキのような、あるいはませた考えをしない天才少年、そして飛びぬけてはいるが、同時に周りに溶け込んでいくような子供を欲しかった。」

ある日、グールドがカナダの新聞記者からインタビューを受けた。

「グレン、君はどんなジャンルの音楽が好きなの。同い年の子は、ポップスだけど、興味はないの」

「ぼくはクラシックだけです。価値を認めているのは。」

それを横で聞いていたフローラがたしなめた。

「あなた、そんなことをおっしゃってはいけません。ポップスも好きな人が大勢いらっしゃるのよ。それに、あなたの気持ちもいつか変わるかも知れないでしょ」

フローラは少し立腹していたが、グールドは譲らない。

「そんなのクラシック以外の音楽に価値なんてないよ。ポップスなんて、うわっ滑りで下品で、当然じゃないか。」

「そんな決めつけるようなことを子供のあなたが言い張ってはいけません」

また、話は[26]カルーゾへ移る。カルーゾは、母フローラとグールドがこの会話をしていた20年以上前の1921年に亡くなったテナー歌劇歌手だった。一般大衆に広がったオペラ歌手の草分けといっても良かったが、テナー歌手でありながら、低いバリトンの声からテノールまでの広い音域を滑らかに出し、その声は明るく軽いテナーの声ではなく、むしろ暗くて渋い声も出せた。それはオペラ界で求められる声質だった。当時は、マーラー、トスカニーニと言った厳しい指揮者や、プッチーニと言った作曲家の前で歌うこともあり、彼はいつも原曲に忠実で端正な歌唱力で歌った。

同時に、レコードプレイヤーを蓄音機と呼んでいた時代に、レコード録音を初めてした数少ない歌手だった。彼の実力により、いつまでも世界的な人気があった。あまりに人気が衰えないので、過去の録音が新録として再発売されていた。

グールドは、よく知らないカルーゾを批判的に断罪した。

「カルーゾなんて、偽物だよ。ちっともたいしたことないね」

「だめです、そんなこと言っちゃいけません。どうしてあなたがそうとおわかりなの。あなたはまだ子供で、判断するには経験がまったく足りていないでしょ」

「彼は道化でインチキなんだよ。人気なのは、競争相手がいないので運が良かっただけだ」

「いい加減になさい、グレン。カルーゾのことをあなたはどれだけわかっているの。あなたはレコードもろくに聴いていないでしょ。レコードでは、瘦せた音でしか聞こえないわ。カルーゾは、バリトンからテノールまで出せる、巨匠なのよ。わたしもおとうさまも、熱中したものよ」

「そんなの、すこし聞けば分かるじゃないか。ママは耳が悪いの。」

と、グールドは、今は亡きカルーゾのことをよく知らないまま断定し、母との論争を最後まで譲らなかった。

フローラは、オペラ歌手を目指していた過去があった。カルーゾは、イタリアの歌劇王であり、フローラがレコードを何枚も持っている尊敬する歌手だった。しかし、グールドはカルーゾにショービジネス的なものがあるのを感じ取っていた。グールドは、そうした商業主義は敵だと感じていた。しかし、クラシック音楽に商業主義的性質があるのは、当然だろう。その商業主義的な演奏の中に、優れたものとそうでないものがあるだけだろう。

自説を曲げないグールドは、ある程度成長するにつれ、北欧の音楽であるバッハやベートーヴェン、シェーンベルクなどの新ウィーン学派の現代音楽を肯定し、南欧の音楽であるイタリアオペラなどは享楽的だとして好きにはなれなかった。


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[1]  レオ・スミス 1881-1952 作曲家。トロント音楽界の重鎮

[2]  フレデリック・シルヴェスター1901-1966 イギリス。オルガン奏者、合唱団指揮者

[3] アーティキュレーション(articulation) 音楽の演奏技法において、音の形を整え、音と音のつながりに様々な強弱や表情をつけることで旋律などを区分すること。

フレーズより短い単位で使われることが多い。強弱法、スラー、スタッカート、レガートなどの記号やそれによる表現のことを指すこともある。アーティキュレーションの付けかたによって音のつながりに異なる意味を与え、異なる表現をすることができる。(Wikipedia)

[4]  サー・アーネスト・マクミラン1893 – 1973 カナダの指揮者。遅めのテンポを好むことから「ラルゴ卿」の異名をとった。

[5]  アルベルト・ゲレーロ 1886 – 1959 チリ出身のカナダのピアニスト・作曲家・音楽教師。現在では、グレン・グールドの学生時代の指導者として記憶されるが、トロント王立音楽院での長年にわたる指導を通じて、何世代にもわたって人材を輩出してきた。

[6] リリー(Lily Wilson Guerrero) チリの上流階級で生まれ、高価なものを好んだために家計を圧迫した。夫婦二人とも人柄がよく魅力的で不倫や浮気の噂があった。メリザンドという名前のむすめがいる。

[7] マートルローズ(Myrtle Rose) 1906年、サスカチュワン州ノースバトルフォード生。アルバータ州レスブリッジで幼少期の教育を受けた。彼女は1928年にトロントにやってきて、トロント王立音楽院で学び、最初はピーター・ケネディ、次にゲレロに師事した。

[8] マーガレット・プリヴィテッロ ゲレーロの生徒の一人だが、彼女はゲレーロから「一日中ピアノばかり弾いていてはだめだ」と言われ、音楽以外にも興味を持つように指導されていた。彼女は、「グールドはゲレーロの息子がわりだった」ともいったことがある。

[9] クロッケー イギリス発祥の芝生上の球技。クロッケーはフランス語、英語はクリッケット。体力的なハンディキャップがなく年齢や体力に関係なくプレイできる。特徴はクロッケー・ショットで、接触させた2個のボールのうち自分のボールを打ち、任意の位置に転がす。ビリヤードと同様、ボールの転がる割合と、転がる方向を打ち方で制御し、他のボールを利用して早くゴールを競い合う。技術と知力が必要。

[10] スチュワート・ハミルトン(Robert Stuart Hamilton)1929 – 2017)ピアノ伴奏者、声楽の教師でもある。カナダ・オペラ界の顔の一人で1985年、カナダ勲章を受章。

[11] コントとサルトルはフランス、フッサールはオーストリアの哲学者

[12] フィンガータッピング 神秘の探訪・ケヴィン・バザーナ

[13] キワニス音楽祭 1944年からトロントで開催された音楽祭。多くの少年、少女がカナダ全土から参加したが、プロを目指す音楽家の登竜門でない。

[14] トロント大学の美学の教授 1926年、カナダ東部のハリファックス生まれのジェフリー・ペイザント。トロント大学哲学部で美学を講じ、グールド存命中の1978年に《Glenn Gould, Music & Mind, Geoffrey Payzant》《日本語版 グレン・グールド、音楽、精神 訳:宮澤淳一 音楽之友社》を刊行し、グールドの音楽的思考を真正面から再検討した。

[15] ハイ・フィデリティ誌 1951年から1989年までアメリカで刊行されたオーディオと音楽の専門雑誌で、1989年半ばに、《ステレオ・レヴュー》誌に吸収された。

[16] 《神秘の探訪 88頁》

[17] Allegro Moderato アレグロ・モデラート ほどよく快速に

[18] シュナーベル アルトゥル・シュナーベル(Artur Schnabel, 1882- 1951)オーストリア→アメリカのユダヤ系ピアノ奏者、作曲家。シュナーベルは技巧よりも表現を重視した演奏を行ったが、大げさな表現をよしとせず客観的な表現に特に重きを置いた。シュナーベルのベートーヴェン解釈は内面的な精神と外面の造形を絶妙に両立させたものといわれ、後の世代のベートーヴェン弾きであるバックハウスやケンプらとの解釈とは一線を画す解釈を繰り広げた。(WIKIPEDIA)

[19] カデンツァ 協奏曲などで、独奏楽器がオーケストラの伴奏を伴わずに自由に即興的な演奏をする部分のこと

[20] 《個人的述懐》:音楽誌である《ハイ・フィデリティ(1970年6月)》にエッセイ「孤島のディスコグラフィ」にグールドが寄稿している。孤島へ持って行くレコードとして、中世の作曲家ギボンズ、シェーンベルク、シベリウスの3枚をあげたあと、思春期に独特の役割を果たした思い出の曲として、ベートーヴェン第4番の協奏曲を4枚目に挙げている。この14歳のコンサートデビューのエピソードに、ピアノ教師であるゲレーロに逆らって、練習ではゼルキン風に弾き、本番ではシュナーベル風に弾いて、ゲレーロの面目をつぶしたと書いている。このシュナーベル風演奏を《個人的述懐》と表現している。(「グレン・グールド著作集2」(みすず書房、ティム・ペイジ編 野口瑞穂訳))

[21] ゼルキン ルドルフ・ゼルキン(Rudolf Serkin, 1903 – 1991)は、ボヘミア出身のユダヤ系ピアニスト。

[22] カサドシュ ロベール・カサドシュ(Robert Casadesus, 1899 – 1972)は、フランスのピアニスト・作曲家。

[23] Bernard Heinze (1894– 1982)オーストラリアの指揮者。この時の演奏のことを、グールドは、「彼がきわめていんぎんな人物で、英国風の警句や、オーストラリア風の女性の手への口づけに夢中になっていた。母はすっかりのぼせあがっていた」と書いている

[24] 「たわむれに記憶はすまじあるいはトロント・シンフォニー・オーケストラの思い出」《ぼくはエクセントリックじゃない グレングールド対話集》音楽之友社 ブリューノ・モンサンジョン編 この文章は、モンサンジョンによるとグールドの死後時間がたって見つかったようだ。

[25] フローラは不可能を望んでいた(神秘の探訪:バザーナ) 友人フルフォードの回想

[26] エンリコ・カルーソー(1873 – 1921)Enrico Caruso、イタリア、ナポリ生まれ。歌劇歌手。オペラ史上において有名なテノール歌手の一人。レコード録音を盛んに行ったスター歌手は彼が最初だったこと、20世紀最初の20年間という時代もあって、カルーソーは円盤型蓄音機の普及を助け、それが彼の知名度も高めた。カルーソーが行った大衆的なレコード録音と彼の並外れた声、特にその声域の広さ、声量と声の美しさによって彼は当時の最も著名なスター歌手である。


第5章 神童誕生

神から授かった念願の子

グレンが生まれたのは、フローラが41歳になる直前だった。何度もの流産をへた高齢出産で、出産の1週間前から看護婦が泊まり込み、医者が毎日往診にやってきた。そうして生まれたグールドは夫婦にとって、やっと「神から授かった念願の子」だった。

1932年9月25日に生まれたグレン・グールドの出生証明書には、「[1]ゴールド、グレン・ハーバート」と書かれている。つまり、グールドが生まれた一家の苗字はもともと、ユダヤ人に多い「ゴールド」だった。バートが従事する毛皮業界は、衣料業界と同様ユダヤ人労働者が多く、ユダヤ人と誤解されることを避けたかった。そのため、一家は第二次世界大戦が勃発した1940年ころ、ユダヤ人排斥運動の激化にあわせ、「グールド」姓に改名した。

この1932年は、世界大恐慌のただ中にあり、日本では昭和恐慌と呼ばれ、人々のひどい貧困や悲惨な状態を目にせずにはいられなかった時代だった。しかし、裕福な家庭と幼い年のせいで、グールドは、そのような現実から守られていた。

音楽を愛した両親の目には、グレンの音楽の才能が明らかだった。生まれてすぐ、グレンは、まるで音階を弾いているように指を動かし、両腕を前後に揺らし指は動きつづけた。赤ん坊のグレンは、ほとんど泣かず、手をひらひらさせながらハミングするのだった。しかし、赤ん坊がほとんど泣かないというのは、あきらかな異常だ。手をひらひらさせる動きは、言語の発達における異常に関連して、自閉症を示しているのかもしれない。

バートは、グールドの誕生の様子を、彼の死後1986年にフランスで行われた「グールド展」のパンフレットにこう書いている。

「祖母の膝に乗ってピアノに向かえるようになるや、たいていの子どもは手全体でいくつものキーを一度に無造作に叩いてしまうものですが、グレンは必ずひとつだけのキーを押さえ、出てきた音が完全に聞こえなくなるまで指を離しませんでした。次第に減衰していく音に、すっかり魅せられていたのです。・・・・」

フローラは、グールドの首がすわるようになると、揺れる膝の上に赤ん坊をのせ、ピアノと美しい歌声を混然一体に演奏し、赤ん坊は母を感じながら聴いていた。母は、自分が親しんでほしい音楽を弾いて聴かせた。小さいころに覚えた歌、古い民謡、日曜日の礼拝の讃美歌やコラール、自分が生徒に教えているバッハやショパンの小品・・・。母はピアノを弾きながら、同時に美しい声で旋律を歌い、大事な旋律はこれよと赤ん坊に教えた。

息子の小さい手を取り、光沢のある「黒」と「白」のレバーに触れさせた。そしてその手を押し下げて、出てくる音を彼女の豊かな歌声や演奏と重ねた。母と子とピアノはすぐに一体化する。

フローラは、グレンが「[2]特別な子」となり、将来、音楽をとおして世界に貢献することを常に願っていた。そんなフローラの価値観は、ちょっと変わったところがあった。「音楽」に重きをおきすぎ、その他の面の成長はあまり顧みないのだった。

フローラは、ピアノを「[3]ピアナー」という変わった発音をして、何か特別な思いがあったのかもしれない。

フローラはまず、グールドに音楽の仕組みと決まりを教えようとした。フローラは厳しい教師だった。正しい打鍵と正しい発声をさせ、正しくできると褒め、できないと非難の声を出し定規で叩いた。経過句ひとつでもいいかげんに弾かせず、一音たりとも間違った音を許さなかった。グールドはすぐに理解し、ほどなく間違わなくなった。フローラは、この指導法を他の生徒にもとる厳しい教師だった。

グールドが、3歳になるころ、両親は息子に絶対音感があることに気づく。絶対音感は、調性や転調をすぐに識別する能力であり、耳で聴いたり、想像した音楽を書き留める能力も含まれる。複雑な曲の構造を直感的に理解するには必須の才能だが、大人になってから獲得するのは難しい。

母と子は、和音の当てっこで遊ぶようになる。母が、さまざまな和音を弾き、離れた部屋の息子が弾かれた和音をあてる。多くの音楽の天才たちがするゲームである。

「グレン、これは?」とフローラが、ピアノで和音を鳴らす。フローラは、不協和音に近いジャズで鳴らすような和音を弾いた。

「ママ、そんなのチョー簡単だよ!オクターブ下のD、Bと真ん中のD、F#、Gだよ。」

グールドは、この和音あてを間違えることは全くなかった。遊びのあと、フローラは、グールドを膝の上で頭を犬のように撫でるのだった。グールドは、母の願いを受け止め、母の願いをかなえることでご褒美がもらえると知るのだった。

少しするとグールドは、一度聞いた曲を覚える才能をみせる。一瞥しただけの初見で曲が弾けるようになる。また、聞いた曲を音符にしたり、作曲もするようになる。

グールド家には、メイドも乳母もいたが、グールドは、一人っ子で、やってくるのは叔父、叔母、祖父母などの老人、それも女性が多かった。同年齢の友だちや競争相手がいなかった。唯一の競争相手は、母にピアノを教わりに来る他の子どもたちだけが、母がとられる不安をひき起こしたくらいだった。

グールドは、両親の愛情を過剰なほど与えられ、経済的になに不自由のない家庭で、ユーモアのある才気煥発な子へと成長する。母は、息子への定期的なピアノ・レッスンを始め、他の子どもたちのレッスンを減らした。彼は、文字を読むよりも早くに、楽譜が読めるようになる。母は、グールドの健康を心配して、ときどき外で遊ぶよう言うものの、強くは言わなかったし、グールドは運動より、ピアノの中に、自分の世界を見つけて熱中する。

グールドが、何かの理由で両親の言いつけを守らないとき、グールドを叱りつける一番良い方法は、ピアノの蓋を閉じ、鍵をかけてしまうことだった。放っておくとグールドは何時間でもピアノを弾き続けた。そのため、フローラは、グールドにピアノを弾いてよい時間を一日4時間に決めていた。

他の生徒と比べると、グールドの才能は明らかに頭抜けていた。そのうえグールドは、音楽の技量と知識を恐るべきスピードと正確さで身につけていく。

教会で親子の出演

グールドは5歳の時に、両親と初めて公開の場で演奏をした。[4]トロント郊外の教会で、日曜午後の礼拝の中で両親が歌う二重唱に合わせて、グールドがピアノ伴奏をした。会場の2,000人の観客の誰もが、5歳の子どもの演奏に大いに感銘を受けた。続くプログラムで、ふたたび父バートが独唱曲を歌った。

この翌日、トロント市内の[5]教会の50周年の祝典の一環として、グールドはピアノ演奏をした。このとき地元の新聞はこう書いた。

「グールド夫妻のグレンという名の5歳の子息が数曲のピアノ演奏を行ったが、聴衆ははじまるやいなや強い印象を受けた。音楽の天才の卵を目の当たりにしたからである。演奏曲目はどれもすばらしかったが、この少年自身の作曲した2曲はことのほかすばらしく、その年齢を考えると驚くべきであり、近い将来カナダの才能ある作曲家たちの仲間入りをするであろうと思わせたのである。」

半年後には、トロントのはずれにあるインマヌエル長老教会で、金曜日の晩に催された子どものための演奏会で独奏をした。このときの演奏会は有料で、大人25セント、小人15セントだった。(現在価値で、大人23ドル=2500円、小人14ドル=1500円)入場料は、慈善団体に寄付され、グレンの演奏は11の演目中の3番目だった。

フローラは、グールドが3歳になるころには、モーツァルトと比べられる才能があるのではと思うようになる。育ち方や、子供時代が同じようだと思い、天才の素質があると確信する。ますます、グールドの音楽教育に力を入れるフローラ。それにこたえるグールド。フローラは、音楽に専念するようしむけ、家での手伝いを免除し、グールドはさらに友達と遊ばなかった。

確かにモーツァルトは、神童で天才だった。しかし、背を向けて後ろ手でピアノを弾いたり、軽業を披露しながら、父レオポルドについて猿回しの猿のように、貴族の間を回りながら育った。貴族たちに支持され、華やかな時代も過ごしたのは事実だが、やがて浪費癖により生活に困窮し、健康にも恵まれず失意のうちに35歳で早逝した。大演奏家で、大作曲家だったことは間違いないが、才能が駆け足で浪費され、人生は幸福ではなかった。

スペイン風邪

フローラは体が弱く、強い心配性だった。息子がちょっと鼻水を垂らせば、薬を飲ませて床につかせた。いつも風邪をひかないように、たいそうな厚着をさせていた。他の子供が薄着で走り回っている夏でさえ、つねに厚着をさせていた。

しかし、彼女の心配性には理由があった。夫バートの父、トマス・グールドが、先妻との間にもうけた第1子を1歳になるかならないかで亡くしたということを聞いていたし、それよりもつよい不安をもっていたのは、1918年のスペイン風邪の記憶だった。スペイン風邪を、フローラが27歳、バートが17歳の時に経験していたからだ。このスペイン風邪の伝染は、3波に及び、まずアメリカから広がり、最終的に当時の世界の人口18~19憶人の約27%にあたる、5億人が感染し、じつに4,000万人以上が死亡したといわれる。この年に終わった第1次世界大戦の死者数が1,000万人ともいわれ、スペイン風邪の猛威は圧倒的だった。

そのうちアメリカの死者は、最終的に50万人だったが、日本にも広がり、当時の人口5,500万人のうち39万人が死亡、焼き場では順番待ちの行列ができた。しかも、この感染症は、子供や高齢者より、若年層の死亡を多くひき起こし、人々の恐怖も強かった。

フローラの病原菌にたいする心配は、このスペイン風邪が原因だったが、他にもあった。グールドが生まれた1930年代はポリオ(小児麻痺)が大流行し、おおぜいの子供たちの命を奪い、助かった場合も、手足のまひなどの運動障害を残すことがあった。当時の医療水準では、《鉄の肺》と呼ばれる箱の中の気圧を下げた鉄製の拷問器のような人工呼吸器に子供たちを入れなければならず、この治療法もフローラをおおいに不安へと陥れた。

1950年代、「鉄の肺」で治療を受けるポリオ患者の少年
Photo: Kirn Vintage Stock / Corbis / Getty Images

しかし、やはりフローラの心配性はたしかに度を過ぎて、[6]パラノイアといってよいレベルだった。彼女のしゃくし定規な性格からくるパラノイアは、息子へと確実に引き継がれた。

変わった性格

また、グールドの生まれながらの性格もどこか変わっていた。それは、ある女性から、消防車のおもちゃをもらったときだったが、赤色の消防車の「色」が原因で、かれは激しいかんしゃくを起こした。消防車は、赤く塗られているのが普通だが、彼は、明るい色、とくに赤色がまったく苦手だった。彼が好きで心が落ち着く色は灰色であり、彼がいうには、《戦艦グレー》と《ミッドナイトブルー》だった。

同じように、眩しく晴れた日はテンションが上がらずダメだった。晴れた日よりも、曇った日が好きだった。彼は成長し、学校を退学した18歳の頃、教会へ行くのを完全に止め、昼夜が逆転した生活を送るようになる。夜は、仕事がはかどるという理由で好きで、朝日を嫌う彼は、明け方、日の出の直前に眠る生活の《夜型人間》になる。

英語には、「[7]どの雲も、うらは銀白」という(ことわざ)がある。この言葉はどんな不幸にもよい面があるという意味だが、グールドは、これを裏返しにモジり、「どんな銀白も、裏には雲」を生涯のモットーにしていた。

母親とピアノの世界を彷徨っていた彼は、やがて小学校に上がる年齢になる。学校へ行かないわけにはいかないが、他の子供たちとの付き合いがない。当然ながら、音楽以外の教育をどうするかという問題がとうぜんある。ただ、グレンが普通の子ではないことはすでに明らかで、音楽の才能を伸ばすことも親の務めだと、両親は考えていた。学校に行くのが心配なのはグールドだけではなかった。両親も心配だった。結局、最初の1年間は、グールドを学校へ行かせず、家庭教師を雇うことにした。

グールドは、28歳の1960年に、雑誌《ニューヨーカー》の人物紹介欄に載ったインタビューで、ライターの[8]ジョゼフ・ロディに次のように語っている。

「6歳の時に両親に言って、なんとか納得させたのは、自分はまれに見る繊細な人間なのだから、同じ年頃の子供たちから受ける粗野な蛮行に曝されるべきではないということでした。」

その結果、グールドは、6歳の1938-1939年の学年(9月から翌6月まで)は自宅で家庭教師をつけてもらい、学校へ行くのを猶予された。

これにグールドは付け加えている。「わたしを書こうとする記者のなかには、これによって自ら墓穴を掘ったのだと考える人もいます。」と。

結局、グールドは、1年遅れで、自宅の裏にあるウィリアムソン・ロード・パブリックスクール小学校に入学する。しかし、学校は彼にとって明らかに不幸な場所だった。集団活動を忌み嫌い、スポーツもすべて苦手だった彼は、ピアノを優先しほかの子供たちとの接触を避けた。級友がボールを投げても、後ろ向きに体をくねらせてボールを触ろうともしないという態度を、級友たちはののしり、いっそうグールドを自意識過剰で不愉快にさせた。

父殺し


グールド家は、トロントから北に車で2時間(約150KM)ほどの[9]シムコー湖に別荘を持っていた。その別荘からもっとも近い町がオリリアである。そこで一家は、毎年、夏の休暇を過ごしていた。

グールドは、6歳の時、バートと近所の家族と、シムコー湖へボートで釣りに出かけた[10]。ビギナーズラックだったのかもしれない。最初にパーチを釣り上げたのは、グールドだった。彼は、釣り上げた魚と目が合って、魚の目に周囲の景色を見たような気がした。あまりに強烈な体験をしたグールドは、魚の苦痛を感じて湖に放そうとする。グールドが、バタバタと魚と苦闘するとボートが揺れ、近所の父親がパーチをグールドの手の届かないところへやってしまった。

「船を揺らすんじゃない!座るんだ!」

と大きな声でどなり、グールドを席に押し戻した。皆は笑った。パニックになったグールドはひどい癇癪を起し、飛んだり跳ねたり足を踏みならし、自分の髪を引っ張ったりして、岸に戻るまで、金切り声を上げ続けた。グールドは、

「その家の子どもたちとは、夏の終わりまで一言も口を利かなかった。」という。

グールドは、父に魚釣りを止めるよう10年間にわたり懇願し続け、とうとう最後には、父に魚釣りの趣味を諦めさせた。グールドは、「たぶんこれまでぼくの成し遂げたなかで最もすばらしいことだ」と言った。

大人になってからは、愛犬や友人を連れて、しばしば轟音を立ててボートを乗り回し、釣り人たちの怒りや罵声は無視し魚を追い散らし、釣り人が釣りをするのを妨害するようになり、自らを「[11]シムコー湖の征服者」と呼んでいた。

当時のプロテスタントの家庭が一般的にそうであるように、グールド家で、性的なこと、下品なことを言うのはタブーだった。グールド家では、この傾向が特に強く、こうしたことをいうのは教養のなさだと考えていた。

ある程度の年齢になると、少年たちは平気で「ファック!」などと卑猥な言葉や異性をからかうような言葉を口に出すものだが、グールド家ではこのような性的な発言は徹底的に避けられた。

友人が、「ファック!」というのを聞いたグールドは、

「そんなことを言っちゃいけないよ。」

「そういうことを言うならおうちに帰って。」

と、母親が言うように言い、友人たちを面食らわせた。

また、グールドは毛皮商という職業が、ミンクやその他の動物を捕獲し、動物を殺すことを知り、嫌い、公然と父の職業を批判した。

グールド家では、グールドが12歳になると、フローラは54歳になっていたが、グールドと父バートが、一晩ごとに交代でフローラのベッドで寝る取り決めだった。父バートは、フローラより10歳年下で堅実な性格で商才に長けたスポーツマンだったが、口数が少なく家庭では影が薄かった。

のちのことだが、フローラが亡くなった後、バートは再婚するのだが、これにも反対し結婚式にも出なかった。

音楽への逃避 映画「ヒアアフター」から

グールドは、小学校に入るころには、まったく近所の子供たちからかけ離れた存在になり、そりが合わないグールドは、ますますピアノに逃げ込んだ。彼は、ピアノに《音楽》という別の世界を見つけ、そこを住処にした。それが人付き合いの術や社会性を成長させなかった。

グールドは、動物好きで、飼っていた動物に名前を付けていた。金魚、犬。父、母。人間よりも動物の方がうまく付き合える。

ヴァイオリン奏者で映像プロデューサーの[12]ブリュノ・モンサンジヨンが2006年に作った映画、「[13]HEREAFTER(ヒアアフター/彼岸へ)」のなかで、グールドを演じたナレーターが、小学校へ行きはじめたころのグールドを語っている。

この映画では、グールドが家庭のテープレコーダーに録音した、メンデルスゾーンのロンド・カプリチオーソ[14]の穏やかなアンダンテの4拍子がプレストの3拍子へと変わるところまで流れる。練習をやめ、グールドがピアノから立ち上がるシーンである。この曲は、ピアニストを目指す者なら誰でも弾く有名な曲だ。ダボっとした服を着たまるで映画の主役の美男子の青年が、恍惚としてピアノを弾いているのだが、突然ピアノ[15]から立ち上がる。

場面が変わり、母フローラが、生まれたばかりのグールドを抱いている写真や、一家が生まれたばかりの赤ん坊を中心にして、幸福そうな父母と赤ん坊の写真がつぎつぎ写される。グールドの声のナレーションは、こう続く・・・

「母、フローレンス・グレイグ・グールドは、僕の最初のピアノ教師だ。キリスト教を信仰する家庭の出身で、トロントにある長老派教会のオルガン奏者として、神に仕えていた。」

「5歳のとき、僕は、自分が並外れた繊細さの持ち主であり、その繊細さを粗野な蛮行ばかりを求める現代の子供たちの前でさらけ出すことは無理だと、両親を説得することに成功した。だから、僕は1938年と39年の間、僕が預けられた家庭教師のもとでとても気持ちのいい余暇を過ごすことができた。」

ここで映画は、グールドが脚本と主演を兼ねた「グレン・グールドのトロント」(1979年、[16]CBC放送局)のシーンが使われる。グールドがトロント市内を案内するという趣向のテレビ番組で、グールドが、カナダ軍近衛兵の儀礼砲が飛び交う中に紛れ込むシーンがつかわれる。頭上で炸裂する空砲の煙と音に首をすくめ、「ゴッド、セイブ・ザ・キング”God, save the king”(国王陛下万歳)」とつぶやくグールド。

「だが、1939年がやってきて、イギリス人の魂を持つ者たちにとって、武器を持ち自らを捧げなくてはならない時がやってきた。こうして9月のある寂しい朝に僕の幼年期は終わりを告げた。」

「無為に暮らすために生まれた僕は、お国のために学校への道をたどらなくてはならなかった。どうやったら自分を外界の不条理な風俗から守ることができるのだろう?この突然の変化には目が回りそうだった。僕は子供社会の渦巻きの中に飛び降りたようなものだった。僕には団体で行動するという意思が完全に欠けていた。僕が一番嫌いだったのは、勉強のためにあてられた時間ではなく、余暇や休憩にあてられていた時間だった。」

「耳が少しでもいいすべての女性教師が好んだのは、音楽的な娯楽、あるいはカノンなどの原始的な多声音楽だ。クラスの一列ごとに[17]カノンのパートを受け持った。クラスの友達はそれぞれちゃんと役割を果たしていたが、僕は自分が役立たずに思えたので、もっと個性的な活動だけに専念し、自分の力を発揮することに決めた。だから、クラスの中で僕だけが拍子はずれに歌った。このことで、僕らの歌に半音階の興趣を与えたかったのさ! しかし、僕らの先生、ミス・ウィンチェスターは歌を途中で止めさせ、僕の頭上でチョークを叩き潰した。」

こんどは、ショパンのエチュード第2番イ短調が流れる。ショパンの練習曲の中でもっとも難しいとされ、アレグロなのだがもっと速く、難なくサラサラサラっと弾いている。こんどはたっぷり流れる。手袋をはめた親指と中指が素早くこすりあわされる画面が大写しになり、頭上に、先生のチョークが降ってくるのがイメージされる。家庭用のテープレコーダーに採られた16歳の録音だが、すばらしくキレの良い演奏だ。

「初めて自分と他とを非好意的に識別したのは、音楽においてのことだった。他の生徒たちと仲良くできない、ということが僕を音楽へ、そして想像世界の奥深くまで逃げ込ませた。」

「音楽に対する僕の情熱は、仲間たちとの紛争よりも大きな比率を占めていた。10歳からピアノとオルガンでの技術獲得が、僕の存在全体を飲み込んでいった。そして僕の[18]対位法への情熱がミス・ウィンチェスターまでを黙らせた。」

こころの中の魔物と一家のモンスター

こうして、小学校へ入学したグールドは、級友たちとのつき合いもぎこちなく、目立って変人で、同級生たちにいじめられる。グールドはのちに当時をふりかえってインタビューでこう答えている。

「学校へ行くのは本当に悲しかった。教師たちのほとんどとうまくいかななかったし、同級生とはだれともだめだった。」

また、トロント・デイリー・スター紙に「グールドは、いじめられて、よく学校から泣きながら帰った。」と書かれると、グールドは、

[19]僕が手を出さないものだから、近所の子供たちは僕を殴っては喜んでいた。しかし、毎日殴られていたというのは、誇張だ。実際には、一日おきだったから。」

彼は、本当は興味がなくとも、アイス・ホッケーや野球に興味があるふりをする子ではなかった。誰かとつき合うという考えがまったくなかった。ほかの生徒たちから、ぽつんとはなれていた。

ある日、いじめっ子がグールドを追いかけて家の近くまでやってきて、グールドをついに殴ってしまう。ところが、グールドは、即座にその子を力いっぱいに殴り返し、その子の襟をつかんで揺さぶりながら、

「二度と近寄るな、今度近づいたらぶっ殺すからな!」

とやりかえした。いじめっ子はグールドの気迫に完全に震え上がり、グールドも自分の本気さに恐ろしくなる。両親から教わってきたキリスト教の教え、それに背く自分の心の中に、得体のしれないものを見たのかもしれない。

またある日、具合が悪くなった級友が、みんなの前で突然吐いてしまうということが起こる。吐いた子どもと汚物の周りで同級生たちが凍り付いてしまう。衆人環視の状態で自分の尊厳が傷つけられることを極度に恐れるグールドは、いつでも飲めるようにミントをポケットに忍ばせる習慣をはじめる。成長につれて、ミントは、アスピリンへ、向精神薬へとかわっていく。

母親と喧嘩した時にも、自分に恐怖を感じるようなことがあった。1965年から1979年までの15年間、レコード・プロデューサーを務めた[20]アンドルー・カズディンは、フローラとの間にあった、確執のエピソードを聞いている。

グールドが子供の頃、母親と家庭内で以前から取り決めてあった何かの約束事に反する行いを彼がしたため、母親がたしなめ、それでつい言い争いになったことを聞いている。そのとき、グールドは怒り心頭に発し、一瞬自分の母親さえ肉体的に傷つけてしまう、いやそれどころか殺害してしまうことさえできる気持ちになったという。むろんそれは、瞬間的な激情の高まりにすぎなかったが、彼自身は、たとえ一瞬とはいえ、自分が母親を殺すという恐ろしいことまで考えたという、動かしがたい事実に愕然としたという

そして、その後人前に出るときグールドは、憤怒という彼の内側に棲む魔物を二度とふたたび外にだすまいと自ら誓って生きてきたとそのプロデューサーに語っている。

父バートは、手堅い商売を営む男で、現実的で深く音楽を愛していたものの、グレンには健康で男らしくスポーツもし、将来は家業を継いでくれる子供を望んでいたが、やはり子供の才能は誇らしく、子供の願いを何でも叶えたいと思っていた。

グールドは子供時代から、同じピアノに長く満足することはなかった。バートは息子のために、新しく、質のよいピアノを買いつづけた。最初はアップライトを何度か買い替え、のちにはグランド・ピアノを買い替えるようになった。グールドが12歳の時に無邪気に欲しがったパイプオルガンは、さすがに尻込みしたが、10代のグールドはすでに夜更かしの癖がつき、夜半まで練習したがったため、バートは、6,000ドル(現在価値で3,500万円)をかけて、家の後部の壁を取り壊し、音楽室を作った。グールドは、その部屋をたくさんの本、楽譜、録音装置、そして「もう一台のグランド・ピアノ」などでいっぱいにした。

一家はトロントの北部、シムコー湖に別荘をもっていたので、バートはほぼ毎年、アップライトピアノを新しく買い換えていた。冬の厳しい寒さのために1,2年でピアノはダメになってしまうからだった。

フローラは、このグールドが7歳の頃には、自分にはもうグールドにピアノを教えることがないと感じていた。あまりに、グールドはフローラの教えることを完璧にこなすようになったからだ。

フローラは、非凡なグールドを教えるようになってから、生徒の数を減らし、ほぼ慈善学校の生徒に絞って教えていた。ただ、以前から、ピアノ教室の優秀な生徒に、これまでも[21]トロント王立音楽院の実力認定試験を受けさせていた。

グールドが、地元の小学校、ウィリアムソン・ロード公立学校へ通っているこの7歳の時から10歳までのあいだに、同じように、トロント王立音楽院の試験を3種類受けさせた。グールドは、いずれも国内最優秀と言ってよい成績で合格する。

グールドの幼年時代、一家では、母フローラが息子とべったりと密接し、グレンに自分のもっている音楽のすべてを教え、いつもグレンの顔色を白すぎると心配し、《食べなさい、これこれをもっと食べなさい、これをやりなさい、あれをやりなさい、外へ出て日に当たりなさい、ちゃんと座りなさい》とガミガミいうのだった。だが、一方で、グールドの才能が誇らしく、ほかに競争相手のいないグールドはつねに一挙手一投足を注視されいつも過保護だった。

両親は、グールドに大きな才能があることを確信し、このまま埋もれさせるのは社会への義務を果たせないと思う一方で、どのような形で世に出すのが良いのか、グールドを見ながら考えていた。社会生活を普通に送れる必要もある。両親は慎重だった。幼くして才能を消してしまう音楽家も多いからだ。

両親の二人は、子供をかなり早い時期から尊敬の目で見始めた。

グールドは時間をおかず、一家のモンスターになる。

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[1] ゴールド、グレン・ハーバート Gold, Glenn・Herbert 父バートのバートという名は愛称であり、ハーバートが正式な名前である。Goldが旧姓で、ユダヤ人に間違われないよう一家はGould姓へと改姓した。

[2] 「特別な子」従妹のジェシー・グレイグがCBCテレビで1985年、「グレン・グールド:肖像」で語った言葉。(グレン・グールド伝、ピーター・オストウォルド 筑摩書房 原注429ページ)

[3] 「ピアナー」グラディス・シェンナーがフローラが、‘pian-a.’という言い方をしていたと言っている。(Genius in Love Michael Clarkson 第5章)

[4] トロント郊外 ここはアックスブリッジ uxbridgeをいう。 トロントから約60キロ北方、車で1時間。グールドの両親は、ともにアックスブリッジの出身で、聖歌隊の仕事をつうじて、この町で知り合った。毛皮商を始めた祖父トマス・グールドは、トロントに寝泊まりする場所を持っていたが、アックスブリッジから汽車で通っていた。

[5] トロント市内の教会 トリニティ合同教会をいう。

[6] パラノイア ある妄想を始終持ち続ける精神病。妄想の主題は、誇大的・被害的・恋愛的なものなどさまざまである。偏執(へんしゅう)病。妄想症。

[7] どの雲も、うらは銀白=“Every cloud has a silver lining”  これをグールドは、次のように語っている。“my private motto has always been that behind every silver lining there is a cloud.” このような表現は、夏目漱石の「草枕」にもたびたび出てくる。

[8] ジョセフ・ロディ 《ニューヨーカー》は、アメリカの1925年に創刊された週刊誌で、ルポ、批評、エッセイ、風刺漫画、詩、小説など幅広い記事が掲載される。村上春樹の作品が多く掲載されている。ジョセフ・ロディは、ライターで、グールドの死後、追悼に友人たちが原稿を寄せて発刊された「グレングールド変奏曲」(東京創元社)に、ニューヨーカーに「アポロン派」(アポロン派は、美と秩序と制御を重んじる。これに対し、ディオニュソス派は、陶酔と快感と激しさを重んじる。)と題して書いた記事が、転載されている。

[9] シムコー湖 五大湖の一つであるオンタリオ湖に面するトロントから北に約140キロのところにアプターグローブという小さな町があり、そこからすぐのところにグールド家のシムコー湖の別荘があった。なお、シムコー湖は琵琶湖の4倍、オンタリオ湖は28倍の大きさである。

[10] 釣りに出掛けた:「グレングールド発言集」(ジョン・P・L・ロバーツ) 新聞のインタビュー《私は自然児です》中、「強烈な幼児体験」P45

[11] シムコー湖の征服者:「グレン・グールド 神秘の探訪」(ケヴィン・バザーナ)48P。

1956年「ウィークエンド・マガジン」第6巻第27号《ジョック・キャロルのフォト・ルポルタージュ》では、《シムコー湖の疫病神》と呼ばれていたと書かれている。

[12] ブリュノ・モンサンジヨン Bruno Monsaingeonフランス人。(1943~)20世紀の有名なミュージシャンについて、グールド、リヒター、オイストラフ、メニューインなどの数多くのドキュメンタリー映画を製作している。グールドについては、他にAlchemist(錬金術師・1974年)、Extasis(エクスタシス・1995年)も作っている。

[13]映画「HEREAFTER(来世)・時の向こう側へ」 2006年 晩年のグールドと一緒に仕事をしていたバイオリニストのブルノ・モンサンジョンによる映画。『ブリュノ・モンサンジョンが撮影・構成したこのフィルムは、世界各地でグールドに“啓示を受けた人々”が登場し、初出の映像も交えて、グールド自身のナレーションや演奏映像などによって彼の本質が解き明かされていく・・・未公開映像を含み、グールド自身が語っているかのような、彼の生涯と作品を振り返る。』(HMVのコピー)。日本語字幕は、グールド研究の第1人者、宮澤淳一氏の監修による。

[14] 映画「Hereafter 時の向こうへ」で、1948年(16歳)の家庭録音となっている。

[15] この時使われているピアノは、当時の恋人だったフラニー・バッチェンがレンタルで使っていたチッカリングという会社のグランドピアノだった。ところが、バッチェンが経済的に困窮して、レンタルを続けられなくなっていた。グールドはバッチェンの気持ちを考えず、そのレンタル契約を続けられないことを良いことに、グールドがそのピアノを買い取ったものだった。

[16] CBC Canadian Broadcasting Corporation カナダ放送協会

[17] カノン 多声音楽(ポリフォニー)の一つの典型で、一般に輪唱と訳されるが、輪唱は全く同じ旋律を追唱するのに対し、カノンでは異なるものが含まれる。(Wikipedea)

[18] 対位法 対位法とはカウンターポイントとも呼ばれ、複数の独立したメロディーを同時に組み合わせる曲を作る時に使われる技法のことを指す。対位法と並び、西洋音楽の音楽理論の根幹をなすものとして和声法がある。和声法が主に楽曲に使われている個々の和音の種類や、和音をいかに連結するか(声部の配置を含む和音進行)を問題にするのに対し、対位法は主に「いかに旋律を重ねるか」という観点から論じられる。バッハの時代にこの二つが大成し、以後古典派、ロマン派の時代になるとともに和声法(旋律と伴奏)が優勢になる。

[19] ケヴィン・バザーナ真理の探訪P.49

[20] アンドルー・カズディン 「グレン・グールド アット・ワーク 創造の内幕」(アンドルー・カズディン 石井晋訳 1993年・音楽之友社)P.170

[21] トロント王立王立音楽院 今はロイヤル王立音楽院(The Royal Conservatory of Music)に改称されている。

第4章 カナダという国、両親のフローラとバート

イギリス領だったカナダが、自治権を得て独立した[1]建国は、1867年である。今もって150年あまりしか経っていない。日本の明治維新のわずか1年前だ。

カナダは、今でこそ、[2]人口3,700万人のうち、約30%が他国からやってきた移民が暮らす多国籍国家だが、グールドが生まれた1932年は、人口は全土で1,000万人ほどしかなかった。カナダが世界で一番移民を受け入れるようになったのは、移民政策が始まった1971年の「多文化主義」宣言が契機だ。このとき、インドや南米、フィリピン系などの移民が爆増し、コスモポリタンな姿になった。

もっとさかのぼれば、この国はエスキモーの呼称で知られるイヌイットが住む国だった。世界の約7%をしめる広大な土地に、15世紀にわずか2百万人しか住んでいなかった。大航海時代がはじまった16世紀に、この地に最初にやってきたヨーロッパ人はフランス人だった。南米大陸などと同様、自然免疫のない先住民たちのところに、銃と病原菌をもった侵略者がやってきて、インフルエンザやはしかなどの感染症にまったく免疫のない先住民の25%~80%が死亡した。17世紀には、フランスとイギリスの領土争いが起こり、カナダは英連邦の一員になる。この国を最初につくった人たちの多くは、スコットランドやアイルランド、ドイツ、イタリア、中国、ウクライナの出身者だった。

グールドが生まれたオンタリオ州の州都のトロントは、現在、人口250万人、周辺都市を入れると500万人を超えるカナダ最大の大都市だが、彼の生まれた1930年代の人口は、周辺都市を入れてもわずか80万人ほどしかなく、宗主国イギリス移民のプロテスタントが多い、静かな田舎だった。同じオンタリオ州の他の町からは、多くの豚を生産、販売していたから[3]ホグタウン(豚の街)というありがたくないニックネームでずっと呼ばれていた。近代的な大都市ではなく、反外国人、反ユダヤ人の空気の強い保守的な場所だった。

グールド家のルーツは、父バートがイギリスとスコットランドで、アメリカを経由したカナダ移民だった。母フローラは、スコットランドからの移民だった。

両家はどちらもプロテスタントだったが、父の家系は、メソジスト派、母の家系は長老派で、伝統的な中産階級の信仰である。この二つの宗派は、1925年に統一し、カナダ合同教会になった。当時のカナダで成功するには、信心深いことが不可欠だったが、あからさまな、例えばバプテスト派やエホバの証人は「裏通りの信仰」と陰口を言われていた。

グールドの父バートは教会に熱心に通い、合唱に加わるほど歌がうまかった。また、ヴァイオリンもずっと愛好していた。

グールドの母となる[4]フローラ・グリーグは、1891年生まれだった。フローラは、祖先に有名なノルウェーの作曲家、エドヴァルド・グリーグがいることが誇りで、祖父の従弟にあたった。フローラは結婚前、オペラ歌手をめざし、トロント王立音楽院の教授やほかの先生からも学んでいた。同時に、自宅では声楽とピアノの個人レッスンをしながら家計を助けていた。

ふたりは、教会の音楽が縁で結婚したが、音楽は単なる娯楽ではなかった。音楽は、信仰と同じく重要だった。二人は、篤い信仰としっかりした道徳心を持ち、聖書を尊重し地域の奉仕活動に貢献し、生活のあらゆる場面で神の存在を感じられないとならないと思っていた。

二人が結婚したのは、1925年10月31日、フローラの誕生日で、バートが23歳、フローラが34歳で11歳年上だった。

この時代、女性が結婚することは主婦に専念し、職業につくことを諦めることと同義だった。二人は道義をわきまえ、高潔で責任感が強く、しかも愛想のいい心の温かい隣人として文句のつけようがなかった。しかし逆に言えば、古い観念に縛られ、文化的に洗練されず、感情表現は紋切り型だった。

一家の自宅は、トロントの東の郊外のビーチといわれる中産階級のイギリス系白人が住む地区にあった。バートの順調な商売のおかげで、ビーチの中では、グールド一家は裕福な方だった。住み込みの家政婦がいたし、必要な時には、乳母や家庭教師を雇えた。ビーチというグールドの生家がある地区は、南をオンタリオ湖に面しているが、バートが経営するトロント中心部の商業地域と約10キロ離れ、のどかで保守的で、ダウンタウンの猥雑さがまったくなかった。

グレンの父のバート・グールドは1901年生まれで、祖父が経営する毛皮商を手伝っていた。その店はユニオン駅に近いトロントの中心部、となりが新聞社のある金融街の端に位置するビルの上階にあった。「高級毛皮問屋」の看板を掲げ、顧客にコートを販売し、同業者たちと毛皮を売買するのが業務内容だった。経営は実直で誠実だったが、大きな儲けをあげていた。

フローラが結婚前の30歳の頃、友人の歌仲間の女性と合唱を楽しんだあと、将来の希望を語っている。

「わたしは、いつか結婚して、可愛い子供を産んでグレンと名付けるの。」

「きっと音楽の豊かな才能に恵まれるわね、その子は。あなたは、ありきたりのものにはぜんぜん満足しないで、いつも最高のものだけを追い求めてきから。」

「ええ、そうするつもりよ。その子は、音楽家として成功しなくてはならない。できれば大ピアニストにしたいわ。」

フローラは、何度かの流産の末、グレンを妊娠する。フローラは、グレンがお腹の中にいる胎児の時から、ピアノを弾き、歌い、ラジオやレコードであらゆる好ましいと思う音楽を聴かせていた。友人はだれもが、「まちがいなく赤ちゃんは、豊かな音楽の才能を持って生まれるでしょう。」というのだった。

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[1] カナダ建国 イギリスから自治権を得た1867年7月1日を指す。外交権を得たのは、グールド誕生の前年である1931年である。

[2] カナダの人口の歴史 https://en.wikipedia.org/wiki/Population_of_Canada

[3] How Toronto got the nickname Hogtown. https://www.blogto.com/city/2013/10/how_toronto_got_the_nickname_hogtown/

[4] フローラ・グリーグ(1891~1975) 正しくは、フローレンス・エマ・グリーグ・グールド(Florence Emma “Flora” Greig Gould)。フローラは愛称。

第3章 恋人バッチェンと新人ライター グラディス・シェンナー

バハマの休暇から帰ってきたグールドは、政治や文化を取り上げる[1]マクリーンズ』という雑誌に特集されることになっていた。記者としてやってくるのは、グラディス・シェンナーという23歳の女性だった。年齢からすると経験が浅く、初の大仕事に意気込んでやってくるのだろうとグールドは思った。

グールドは、恋人である[2]バッチェンのアパートメントをインタビューを受ける場所として指定した。

バッチェンは、彼より7歳年上でこのとき30歳だった。バッチェンは、青灰色の才気溢れる瞳が印象的で、黒に近い茶髪のブルネットを長く広がるように伸ばし、小柄だがとても美しかった。

バッチェンもプロのピアニストを目指していたが、映画や演劇、音楽、アニメなど、当時の前衛的な芸術に関心を持つ若者のグループでも活動して、彼女は、そのグループが作った無声映画で、上流階級の女主人の美しいヒロインを演じメンバーから慕われていた。実際の彼女は、田舎町の貧しい家庭の育ちで、バッハが何より好きで、将来ピアニストになる夢を持ち、明るく聡明だった。

ブルネット(Hot Pepper Beautyから)

グールドとバッチェンがはじめて知り合ったのは、トロント王立音楽院で、二人は、17歳と24歳だった。グールドは、上級クラスで、年長者にまじって華々しく活躍をしており、いつも王立音楽院の話題をさらっていた。そんなグールドにバッチェンが声をかけたのが最初の出会いだった。最初、グールドは女性に無知でナイーブな子供にすぎなかった。しかし、グールドが王立音楽院をやめ、グールド一家が所有するシムコー湖の別荘で長い時間を過ごすようになる18歳のころには、ふたりは恋人関係になっていた。グールドは、このシムコー湖で時間を過ごすようになって、弦楽四重奏曲作品第1を長い時間をかけて少しずつ作曲し、進み具合を毎夜遅くにバッチェンに電話していたのだが、翌日に仕事のあるバッチェンにとっては負担だった。

グールドの求婚のセリフは「[3]僕たちは結婚すべきだ。(”We should get married.”)」だった。しかし、バッチェンは、グールドがあまりに社会生活に向かず、結婚はできないと判断し、受け入れなかった。このとき、二人の関係は、もうすでにぎくしゃくして、修復不能だった。

記者のシェンナーが部屋に入ってきたとき、グールドはソファで横になり、バッチェンの膝にプードルのように頭を置き、頭を撫でてもらっていた。彼はいつまでもウジウジしていた。彼を取材にやってくる記者がどう感じるか、まったく頭になかった。

シェンナーは、グールドを禁欲的で中性的な修道士のようなピアニストだと予想していた。しかし、意外な性的な光景を見て、息をのんだ。驚きがはっきりと表情に出ていた。恋人たちはソファから離れることなく、バッチェンは相変わらずグールドの頭を撫でていた。何故、私にこのような場面を見せるのかとシェンナーは思った。

「マクリーンズ社の依頼で、グールドさんの記事を書くことになったフリーランスのグラディス・シェンナーです。一昨年、マニトバ大学を出て、昨年は、ウィニペグの新聞社で働いていました。今年から、マクリーンズの仕事をするためにトロントへ出てきました。この記事は、どんなに長くなってもいいと言われています。グールドさんは、今やカナダ最大のスターです。」とシェンナーは、言った。

型通りの挨拶が終わって、シェンナーは、恋人の膝でぐずぐずしている《ペット男》の記事が書ければ、確実に特ダネになると思って動悸がした。しかし、まず記事への協力を取り付けることだと思いなおした。

「フラニー、もっと下の方も撫でて。キスして。」と彼は横になったまま、バッチェンに言った。バッチェンは、グールドの髪を下の方も撫で、軽くキスして言った。

「グレン、私はこの町を出て、ニューヨークへ行くかも知れないわ。私は、もう少し稼がないとならないのよ。わかるでしょ、あなた。そうなっても、私なしでしっかりしなさいよ。」

「わかってるよ。だけど、その考えを変えられないの?どうしてもだめなの?僕には、世話を焼いてくれる女性が必要なんだよ。」

彼は、いつまでも未練たらしく懇願していた。

「グールドさん、私の話も聞いてください。」

「何だっけ?えっ、きみは誰だっけ?!」

シェンナーは、グールドより1歳若かった。利発で愛らしく、やはりブルネットの髪をした美人だった。彼女はマニトバ大学で政治学を学び、21歳の時にトロントへ出てきた。当時は、まだ多くの女性が働く時代ではなかった。そのような1950年代に、若い女性がどれだけちゃんとした仕事に就けるかを考えると、自分は時代の先端を走っていると感じていた。現に直前まで他の雑誌で、クロスワードパズルを担当していたばかりだった。

「私は、突然に、世界的なピアニストの仲間入りを果たしたあなたのことを書きたいんです。とても読み応えのある記事になると確信しています。私は、発売になったばかりの『ゴルトベルク変奏曲』を聞きました。とても生き生きしていて素晴らしかったです。これまでのクラシックの演奏とはまったく違うものを感じました。まったく新しいものを感じました。演奏の素晴らしさとあなたの人間そのものについて、読者に知らせたいのです。そのためにいろいろ教えてほしいんです。」

「あーん。・・・いいよ、問題ないよ・・・いくらでも協力してあげるよ。」と彼は、ようやく体を起こしていった。

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その日から2週間ほどの間、二人で記事にとりかかった。グールドは、まとまった時間のインタビューを受け、シェンナーがドラフトを書いた。グールドは、彼女の書いたドラフトに深夜の長電話で、彼女を励ましながらコメントを伝えた。

それはバッチェンの時にもいつもしていた、彼女を疲れさせた深夜の長電話だった。グールドは、対面して話をするより、電話の方が気安く話ができ、夜型人間で、相手の迷惑も顧みず、深夜長電話するのだった。ただ、グールドの話はユーモアにあふれて才気煥発であり、電話をかけられた方は、人気者からの電話の聞き役になることを迷惑に思う者はいなかった。だが、毎晩深夜に電話を受けるバッチェンにとっては、睡眠不足になり、翌日の仕事に差しさわりがあるのだった。

シェンナーの記事は、よく書けている部分もあったが、足りない部分もあり、グールドは率直に情報を提供した。

はじめのうち、記事は、恋人のバッチェンを含んだグールドの女性関係も書かれていた。しかし、やがて彼は、女性のことが書かれるのは、イメージダウンになると思いだした。

そのため、一時は、記事の掲載そのものをシェンナーに止めるように言いだした。当然ながらシェンナーは、雑誌への掲載を許してほしいと懇願し、女性関係に関わる部分を削ると申しでた。最終的に、グールドは彼女の条件を了承し、その部分を削る形で記事が完成した。

そうして、インパクトのある風変わりなピアニストの写真数枚とともに、大作である記事が出来上がった。もとの記事から、グールドの女性関係をバッサリ削っても10ページ以上ある長文だった。それが、《[4]演奏したくない天才》だった。

MACLEAN’S April/2/1956

バッチェンは職を求めてニューヨークへ旅立ち、二人はとうとう別れた。グールドは、いつまでも思いを引きずっていた。

この記事で、シェンナーは有望な記者として認められ地位を確立した。

グールドとシェンナーの関係は、グールドがコンサートツアーをしなくなる7年ほどの間、彼女はグールドの演奏旅行に同行し、記事にするという関係が続き、二人の親密な交際を示す手紙がいくつも残っている。

シェンナーはグールドの頭の髪の毛を犬のように撫でるという役目をバッチェンから引き継ぐとともに、グールドが住んでいる世界と、現実の世界の間の橋渡しの役目をした。

また、グールドは同時に他の女性にも恋心を抱いていた。

グールドの物語を、彼の性格がよくわかるようにアメリカでの成功の後、プロポーズの失敗と、その後のセンチメンタルジャーニーにスポットライトを当ててきたが、ここからは、グールドの出生から順を追って語ろうと思う。

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[1] マクリーンズ:カナダのニュースマガジン(1905年設立)で、政治、ポップカルチャー、時事問題などのカナダの問題について報道。2017年1月から週刊から月刊になった。

[2] バッチェン:フラニー・バッチェン(Frances Batchen Barrault)

[3] 「僕たちは結婚すべきだ」“We should get married.”「The secret life of Glenn Gould, Michael Clarkson, Chapter4, page51」この表現は、英語のプロポーズの文例をネットで調べてみると、かなり上から目線で、普通はこう言わなないのではないか。(著者注)

[4] 「演奏したくない天才」The genius who doesn’t want to play 巻末に拙訳を添付した。

おことわり 小説・グレングールド

おことわり

小説グレングールドを何とか書こうとしているのだが、ドキュメンタリーなのか小説なのか、いろんな人が読んで楽しめるものを書くのはとても難しい。そうした才能は残念ながらどうもないらしく、一生懸命書いたら難しくて誰もが読めるというものではなくなってしまう。

長い間試行錯誤しているのだが、どうもうまく行かない。

しかし、そういうばかりでは進まない。それで試行錯誤の最中であるが、出来たものをアップしようと思っている。

コメントなどあれば、今後の改良に役立つと思うので、もしいただければありがたい。そういったこともあり、随時改訂しながら進めるつもりだ。

おしまい