あまりにバカバカしく絶望しかない日本 その3 《 健康保険(国民皆保険)制度 》

親爺は、最近あまりにバカバカしくって、ブログを書く気が失せている。あまりに周囲の人たちと、意見や温度差が違いすぎ、虚しい。絶望している。バカバカしいと思うものは、たくさんある。健康保険もその一つで、あまりに大きな問題がある。今回は、まず医療のうちの健康保険(国民皆保険)の問題を聞いてもらいたい。

藤井聡京大教授「過剰医療の構造」のカバー(アマゾンより)

1.健康保険制度の収支

下に引用した日経新聞の記事によると、令和3年度の医療費の総額は一年間45兆円で、その財源は、健康保険料(掛け金と事業主負担)が23兆円、国費(一般会計予算など)が17兆円、患者負担額が5兆円である。つまり、保険制度で賄えない額が、17兆円(30%)に達している。保険と言いながら制度の中でやりくりができずに、一般会計予算から17兆円が使われている。

この一番の原因は、高齢者の医療費である。医療機関に支払われた額を年齢別に見ると、65歳未満が一人当たり年間20万円に対し、65歳以上は4倍の75万円かかっている。この高齢者の医療費はとりわけ、死ぬ間際に極めて高額になるという。日本人の8~9割が病院で亡くなるのだが、見込みのない治療がこってり行われ、医療費が数百万円、数千万円に達することはザラだ。 おまけに、死ぬ間際に行われる延命治療は、患者に苦痛をもたらすだけである。 

保険という仕組みは、加入者が掛け金を支払い、制度を運営する団体がプールした掛け金をから加入者に必要な給付を行う仕組みである。税金を投入して仕組みを維持するものではない。しかし、日本の健康保険制度は、掛け金だけで給付を賄えず、莫大な国の予算が投入されている。

日経新聞の記事から(https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA245LA0U3A021C2000000/

厚生労働省は24日、病気やけがの治療で医療機関に支払われた医療費の総額(国民医療費)が2021年度に45兆359億円だったと発表した。前年度比で4.8%増加して初めて45兆円を超え、過去最高を更新した。国民1人あたりの医療費は35万8800円で前年度比5.3%増えた。年齢別に見ると65歳未満の19万8600円に対し、65歳以上はおよそ3.8倍の75万4000円だった。医療費を賄う財源の内訳は保険料が22兆4957億円で全体の半数を占めた。国費などの公費が17兆1025億円で全体の38%だった。患者負担は5兆2094億円だった。国民医療費は公的医療保険でカバーする病気やけがの治療にかかった費用の推計。保険外の健康診断や正常分娩などの費用は含まれない。

2.個人的体験(母の最期、救急救命センターの治療)

ブログにも書いたが、認知症が少しある父が救急車を呼び、母は病院へ運ばれた。認知症の父には治療の承諾書を書かせられないため、親爺は千葉から大阪の病院に呼び出された。救急医から「救急車で運ばれてきた患者を何も治療せずに帰すわけにはにはいかない。気管切開をして人工呼吸器をつけさせてくれ」と頼まれた。仕方なく承諾書にサインして、回復する見込みのない治療が始まった。救命センターは次々患者が運ばれてくる。1週間ほどで療養病院へ転院してくれと言われる。その病院で1~2月ほどして亡くなったのだが、回復の見込みがないままたっぷり治療が続けられた。欧米では虐待である!! この治療費は、バカ安い!! 1週間ほど滞在した救急救命センターの治療費は総額150万円ほどだったが、本人負担額は10万円以下だったはずだ。また、療養病院の治療費は月数十万円だったが、本人負担額は3万円程度だったと思う。

3.お安い医療費! 原則3割、75歳の高齢者は1割負担

日本は、健康保険が皆保険で諸外国にない素晴らしさだと自画自賛する。医者にかかる場合、本人負担額は、65歳以下の国民は3割負担、75歳からは1割負担が原則である。保険料は正規雇用の被用者(労働者)の場合、企業が半額を負担する。 

高度成長期までは、医療機関への支払いよりも掛け金の収入の方が多く、持続可能だった。国民の年齢が若く働き手も多く、医療費の支出額が少なかった。ところが、働き手は減り高齢化し、給付する医療費が大きくなり、健康保険の掛け金で足りず、差額を一般会計から支出している。これはもはや保険ではない。

4.なぜ健康保険制度がサステナブル(持続可能)でなくなったのか?

(1) 高度成長時代はこれでよかった

社会保険料を構成する健康保険と介護保険、年金保険の合計で2025年度には38兆円を一般会計から支出する。全体が112兆円であるから、約3割が社会保障費ということになる。何度も言うが、これらは保険であり、受益者(拠出する企業も含め)が負担し、医療や介護や年金が必要な国民が給付を受ける仕組みだ。掛け金の額が多くなりすぎ、給付があまりに多いので、政府が制度を維持するために肩代わりをしている。このために、他のインフラ投資や、教育、防衛などの一般予算にしわ寄せが及んでいる。日本はまともにインフラ整備どころか設備の更新さえ出来ず、教育予算は先進国中最下位で、途上国レベルである。科学技術や農林業の支援なども同様の低レベルだ。こうなった原因は政府と財務省にあるのだが、医者達(親爺は、医者という言葉を病院経営者、開業医の意味で使っている。勤務医はサラリーマンである。)の責任も大きい。

このチャートには、外国にない「債務償還費」がある。国債は借り換えているので、「債務償還費」は計上する必要がない!!

(2) 欧米との対比と市場の失敗

医療に対する考え方が、欧米と日本では根本的に違う。

一般的に経済学は、特定の分野に『補助金』を出すと、その分野の需要と供給がいびつになり、介入が副作用をもたらすと考える。これが『市場の失敗』と言われる。市場の失敗の意味は後述する。

医療は、ヨーロッパでは警察や国防と同じ考えで提供されている。医者は公務員であり、多くの患者を診察しても報酬は増えない。 警察に駆け込んでもお金を取られない、これと同じロジックである。そのかわり不要不急で過分な治療は、医師の判断で行われない。患者は病院へ連絡して順番が来たら診察してもらえる。 アメリカは、個人が全額を負担する医療保険を使うが、医療費がバカ高いので、保険料もバカ高い。貧困層には貧困層向けの税金が入った保険(メディケア)があるが、こちらは一般の国民は使えない。つまり、一定の所得があるアメリカ人の医療は、全額自由診療である。

このように、アメリカとヨーロッパでは考え方が違うものの、医療の必要性は、ヨーロッパでは利害のない医者が判断し、アメリカは患者自身が高額の治療費を払うか払わないかを考えて治療を受ける。 どちらも、無制限に医療にお金をかける仕組みになっていない。おのずと、医療費にブレーキが掛かり、患者以外に負担をかけない仕組みである。

5.結論

日本は違う。医療費の支出にブレーキがかからない。市場原理も働かない。繰り返すが、市場が歪んでいる。『市場』というと、ピンと来ない人が多いかもしれない。経済学では需要と供給がバランスするところで、価格と供給量が決まると一般的に言われる。日本の医療のように公的な資金が『補助金』のように投入されると、患者は気軽に医者にかかり、医者は患者を多く診ると儲けも大きくなるので、需要も供給も過大になる。これを『市場が歪む』という。問題は、市場が歪むと資源配分(リソース)に無駄が生じ、適正でなくなる。もし市場が過大に歪んでなければ、頭脳優秀な医者たちは、他の分野の科学者などになって社会貢献していただろう。

アメリカのように医療費を患者が10割負担すれば、患者は自分の財布に合わせた治療を選択するしかない。また、ヨーロッパのように利害のない医師が治療方法を決めれば、医療費の支出は、社会のコンセンサスが得られる水準になるだろう。

ところが、公費で多くの部分を負担する日本の医療は、『人命は何より貴い』という行き過ぎたヒューマニズムが社会の空気を支配しており、過剰医療が蔓延する。財務省は、あらゆる行政経費を出し渋るのだが、医療費を抑制する気はない。もし、表立って反対すると人殺し、ヒューマニズムに反すると言われるから反対しない。医者たちは、政治家や財務省より強いとも言える。

健康保険制度は、7割から9割が本人負担ではない。老人であれば、1万円の医療を1千円で受けられる。高度成長期は、給付が少なかったので健康保険組合が支払えていた。しかし最近は、高齢化が進み給付が増え、一般会計の予算が入っている。患者はたった1千円払えば、医者は公的な9千円と患者の千円の合計を受け取れる。患者は気楽に医者にかかり、医者は患者を診れば診るほどもうかる。医者たちは、財務省から税制上の優遇措置もたっぷり受けている。 

日本社会全般に、医者は一般人とは違うレベルの頭脳を持っているという幻想がある。集団としての医者たちの権力は絶大である。政治家やマスコミにも絶大な力を持っている。テレビは健康番組をしょっちゅう流し、国民を健康オタクに、健康不安にする。国民はすぐに病院へ行くよう飼いならされている。

本来、健康保険制度を守るのであれば、まず老人の負担を他の国民と同じ3割へアップすべきだ。それで足りなければ、一律4割、5割と増やすべきだ。ところが、医師会は老人の負担率アップは患者を減らすと言って反対する。患者が減って何が悪いのだ。お前ら何を考えているんだ!!この日本の医療には、まだまだ他にも問題がある。

おしまい

グローバリズムのどこが悪いのか エマニュエル・トッド Part 2

re-written on 22th /August /2017

つづき

ちょっと激しい言い方になってしまったかも知れない。ここで、もう一つの要点であるグローバリズム(自由貿易)の根幹をなす思想を書いてみよう。

例えばアメリカが、中国からの安い生産物にマーケットを奪われ、アメリカの労働者が雇用を失うことになったとしても、中国では新しい多くの雇用を生み出しており、地球規模で見れば、中国で多数の労働者が豊かになっており、正しい方向なのだとの説明がなされる。アメリカで職を失った労働者は、比較優位な新しい産業へ転換すればよいと言われる。

また前述したように、グローバリズムによる自由貿易(=資本主義。ちょっと概念が違うが、こう言うことにする)のもとでは、保護主義貿易よりも高い成長が実現する、と言われてきた。

だが、この説明は間違っていることが今では証明されている。日本でも非常に大きく脚光を浴びたフランス人経済学者のトマ・ピケティが、証明して見せた。すなわち、以前の経済学が、第二次世界大戦直後の経済発展の黄金期の1950年代をベースに労働分配について分析していたために、資本主義の発展が、自動的に社会の構成員の経済格差を縮小させると考えていた。だが、ピケティは19世紀以降の膨大な量のデータを集め、1950年代の経済成長とともに格差が縮まったという栄光の時期は例外であり、常に資本主義の下で常に格差が広がってきたことを証明して見せた。

同じことだが、グローバリズムを批判的に捉える韓国人経済学者ハジュン・チャンも、経済成長率を、高成長率や完全雇用があった1950年から1975年までの繁栄の時期とグローバリズムが広がった1980年からの30年間を比べ、保護主義の時代の方が高いことを明らかにしている。この傾向はアフリカ、南米で顕著だが、他の地域でもグローバリズムの時代に入ると成長率が低下している。

要するにグローバリズムにより、社会の格差は縮小し、保護主義より高い経済成長が可能になると言われてきたのだが、この両方ともが間違っていたということだ。

この発見は、資本主義の下で格差は、政策的な手段を打たないと拡大し、経済学は分配を倫理や哲学の問題と捉えるのではなく、経済学自身の本来の解決課題にしなければならなくなったということを意味する。

そもそも、中国からの輸入によりアメリカ人が職を失い困窮化する度合いと、中国労働者の生活の向上度合いを比べて、中国労働者の向上の方が大きいので、アメリカ人は我慢しろというのは異常な暴論だ。ここでアメリカ人と言っているが、アメリカ人全体が我慢するのではない。我慢しなくてはならないのは、中国製品に負けた弱小なアメリカ人工場労働者、その家族だけだ。消費者と資本家、その他の金融業などの恵まれた労働者の幸せ度は上がっているはずだ。

また、中国労働者が向上すると書いたが、その向上は最初の時期はそうなのだが、やがて、アメリカ人労働者の雇用の悪化に伴い、アメリカ国内需要が減退するため、中国労働者の賃金は上昇しなくなる。また、中国も周辺諸国(ヴェトナム、ミャンマーなど)との低賃金競争に巻き込まれるために、労働者が本来得られるもっと高い賃金を得ることがない、といったことを次に述べたいと思う。

つづく

グローバリズムのどこが悪いのか エマニュエル・トッド Part 1

re-written on 22th /August /2017

”グローバリズム”と”自由貿易”は譲れない絶対的なものだと考えている人が圧倒的だ。日本のマスコミはもちろんそうだし、アメリカのマスコミもそうだ。なぜならトランプ大統領が出てくるまで、ずっとこの二つを合唱してきたからだ。トランプ批判は非常に大きいので、その声は逆に強くなった感がある。

だが、現実のグローバリズムがもたらしたものは、巨大な格差だ。世界で最も裕福な8人が保有する資産は、世界の人口のうち経済的に恵まれない下から半分にあたる約36億人が保有する資産とほぼ同じだと言われる。グローバリズムが始まって30年、1%の金持ちはさらに莫大な大金持ちになったが、99%は貧しくなるか、長期停滞に甘んじている。

簡単に昔を振り返ってみると、グローバリズムが始まる1980年代以前、日本は高度成長を謳歌した時代で、当時は「一億総中流時代」と言われていた。国民のほとんどが中流意識を持っていた。ところが今はどうだろう、「総中流」は影も形もなくなった。中流層が減少し、多くの貧乏人とわずかな金持ちに分かれてしまった。この傾向は世界中どこでも一緒だ。

ところで、マスコミについて注意しなければいけないのは、この「一億総中流時代」と称される幸せな時代においても、建設的なことは言わず、センチメンタルな批判(目先の財政支出への批判、ハコモノ投資への批判など)ばかりしていた。売るためには批判記事が好まれるということがあり、手っ取り早いのだろうが、めくらまし的であり、国民のリテラシーが向上するのではなく、さまざまな分野で誤解・曲解が広く信じられるようになった。

話を元に戻すと、グローバリズムの30年で、世界中で格差が広がった結果、グローバリズムに疲れて(Globalism Fatigue)グローバリズムの終焉が始まっているという人物がいる。それが、フランス人のエマニュエル・トッドという人物だ。このエマニュエル・トッドは、家族人類学者、人口学者だが、歴史学者でもある。家族制度や識字率、出生率などの指標を使って、現代政治や社会を国ごと、地域ごとに非常に小さなメッシュに細分化することにより分析し、ソ連崩壊、アラブの春、英国EU離脱、トランプ勝利を予言していた。

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写真はアマゾンから

ここで、グローバリズムについておさらいをしよう。グローバリズムは1980年代、イギリスのサッチャー首相、アメリカのレーガン大統領が始めたと言われる。グローバリズムは、「新自由主義」(Neoliberalism)と同時に世界を席巻した概念である。Wikipediaは「新自由主義」を「1930年以降、社会的市場経済に対して個人の自由や市場原理を再評価し、政府による個人や市場への介入は最低限とすべきと提唱する。」と書いている。

ちょっと慣れない言葉が出てきたかもしれない。ほとんどの人は経済学を勉強したわけではないだろう。そのため、主がざっくりとかみ砕いて説明したい。

まずは、「市場(しじょう、いちばと読まないんですね。マーケットともよく言われる。)」という言葉から説明しよう。

この「市場」という言葉は、経済学では非常に重要な言葉だ。経済学の始祖と言われるイギリス人のアダム・スミス(1723-1790)が「国富論」の中で「まるで見えざる手に導かれるように、・・・各人が自分の利益を追求することが、一般にとってよいことを促進する」と言った。この考えが、現代の経済学でも大きな位置を占めている。ざっくり言うと、我々が物品を売買する時、売り手と買い手がおり、その価格は「市場」で調整され、自動的に社会の構成員全員にとって望ましいように資源(労働や原材料、貨幣)が使われる、言い換えると、物が高く売れれば作り手が増え、そうすると販売価格が下がり買い手が増える、その時に「市場」において、構成員全員の幸せの総量を最大にする「見えざる手」が働くとスミスは言ったのだ。その後の新古典派の経済学が、これを数学的に証明してみせた。(因みに、主は「新古典派の経済学」を40年前に大学で習った。その後ほとんど忘れていたのだが、パプアニューギニアに赴任した時に時間があり、アベノミクスに興味を持ち、経済学の本を買うようになった。)

誰かの幸せ度を下げずに、誰かの幸せ度を上げることができない状態のことを–ちょっと専門的だが–「パレート最適」という。人間が合理的に行動さえすれば、そのような状態が「市場」を通じて実現されることが、数学的に証明されたのだ。

これに対して、「そんな単純じゃないだろう!!」と思った人は、鋭いし正しい! 

このとき、問題は二つある。

一つ目。この新古典派の経済学でも、アダム・スミスの市場がもたらした『自由市場の均衡を傷つけかねないいくつかの要因を認識している。その要因には、ある人物の行動により直接他人が影響を受けるような経済活動が含まれる(「外部性」と呼ばれる)。またよくない所得分配も含まれる。だから経済学者たちは、こうした阻害要因がない限り自由市場の働きに介入したがるのはバカだと考えるのが通例だ。そしてもちろん、経済学者たちは昔から、規模の大きい企業が市場を完全に競争的にしないかもしれないという点も認識してきた。』(『』書きは、「不道徳な見えざる手」(アカロフ/シラー)から引用)阻害要因はあるものの、要は、市場の働きに介入したがるのはバカだと考えているんですね。61W-lAubY3L._SX341_BO1,204,203,200_

二つ目。新古典派の経済学者が前提においている「人間が合理的に行動するならば」というところに、疑問を投げかける新古典派以外の学者が実に多い。新古典派の経済学では、大学に入ったばかりの新入生に、スーパーでオレンジとリンゴを買うときにさまざまな組み合わせと価格で購入する例を使って教え始める。オレンジとリンゴなら問題ないのだが、圧倒的に多い他の財の購入では、広告やマーケティング、社会通念(例えば、結婚式や葬式には多額の金がかかって当然、と我々は刷り込まれている)、資生堂の高級化粧品や高須クリニックの整形手術、上野クリニックの包茎手術など、実際の価値を、みんなに幻想を植え付けることで価値をもっと高く見積もらせ、渇望させるというバイアスをかけることで、消費者を消費へと駆り立てる。こうしたことは、むしろ経済学者以外で当然と実感している点だ。また、新古典派の経済学を批判するスティグリッツは、「情報の非対称性」で、ノーベル賞を受賞した。アダム・スミスの発想には売り手と買い手が対等で同等の情報を持っていることが、暗黙の前提になっている。しかし、現実に我々が金融機関から融資を受けるとき、双方が同じ情報を正しく持っているだろうか?きっと、金融機関は難しい約款や契約書で自分を守り、我々の方は何もわからずハンコを押しているはずだ。このような情報の非対称性はあちこちにある。

ここまでで、「グローバリズム」、「新自由主義」、「新古典派経済学」という言葉が出てきたが、どれも一緒と考えてもらって構わない。

上述したような場合に、「市場」は正しい資源配分をするという機能を果たせない。だが、この「市場(=マーケット)に任せよ!」、「政府は何もするな!」という声は、金持ちや特権階級に今なお強い。

このような根拠が薄弱な単純化された”信念”が、グローバリズムへ、「新自由主義」へとつながっている。「新自由主義」によると、経済は自律的にコントロールされるため、貿易を自由化し政府の規制(介入)を最小限にすることが、資源の最適配分と、最大の成長率、富の最大化を達成する道だと言われる。もちろん、実際の経済はこのような単純なものではなく、現実にはあり得ない理論上のモデルにすぎない。だが、市場は有効であり、市場に介入しないことが必要だとの考えが、特に資本家や政治的リーダー、従来型の経済学者の世界で趨勢を占めてきた。

だが、ここで大きな問題の存在がある。だがグローバリズムが有効に機能するとき、徐々に格差は拡大するのだろうか?それとも経済のパイが大きくなるにつれ、時の経過とともに、格差は縮小するのだろうか。政策の分かれ目となる最大のポイントだ。

これに対する従来の答えは、経済のパイが大きくなれば格差は自動的に縮小する、貧乏人の取り分の方が多い、というのが従来の経済学の立場だった。

これが大きな間違いだった。この前提に立つと、所得を金持ちから貧乏人に再分配(経済学では、金持ちから貧乏人へ所得を移転することを「分配」や「再分配」という言葉を使う。)する是非を考える必要はないことになる。時間とともに経済成長が達成されれば、問題(格差)が自然に解決するからだ。

このことが経済学で大きな問題を生じさせてしまった。つまり、経済成長により、金持ちよりも貧乏人の方が早く豊かになるのであれば、金持ちが貧乏にお金を回す必要がないことになると先に書いたとおりだ。このように考えた前提を置いたために、グローバリズム、「新自由主義」以降の経済学は、「分配」を経済学の問題ではなく、倫理や道徳の問題として避けてきた経緯がある。このため、主流派の経済学者は、貧富の格差がこれほど大きくなっても、なかなか自分の研究対象にしようとない。大金持ちが、「貧乏人が貧乏なのは努力が足りなかったためで、自己責任だ!俺の金を貧乏人に使われたくない」と平然と言うことが許される原因にもなった。

つづく