つぎに画工の芸術観と芸術家観はなにか
いままでストーリーを追ってきたが、次は「草枕」に書かれた画工の芸術観と芸術家観について抜き出してみたい。またのちに、グールドが読んだ英訳ではどのような印象になるのかも考えてみたい。
- あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い。
- 明暗は表裏のごとく、日の当たる所にはきっと影がさすと悟った。喜びの深きとき憂いいよいよ深く、楽しみの大いなるほど苦しみも大きい。
- 余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵芥を離れた心持になれる詩である。いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少なかろう。どこまでも世間を出る事が出来ぬのが彼らの特色である。ことに西洋の詩になると、人事が根本になるからいわゆる詩歌の純粋なるものもこの境を解脱する事を知らぬ。・・・うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したものがある。・・・すこしの間でも非人情の天地に逍遥したいからの願い。一つの酔興だ。
- (日本の伝統芸能である能について)我らが能からうけるありがた味は下界の人情をよくそのまま写す手際から出てくるのではない。そのままの上へ芸術という着物を何枚も着せて、世の中にあるまじき悠長な振舞をするからである。
- 芭蕉と云う男は枕元へ馬が尿するのをさえ雅な事と見立てて発句した。
- 世にはありもせぬ失恋を製造して、自ら強いて煩悶して、愉快を貪るものがある。常人はこれを評して愚だと云う、気違いだと云う。しかし自ら不幸の輪郭を描いて好んでその中に起臥するのは、自ら[1]烏有の山水を刻画して[2]壺中の天地に歓喜すると、その芸術的の立脚地を得たる点において全く等しいと云わねばならぬ。この点において世上幾多の芸術家は(日常の人としてはいざ知らず)芸術家としては常人よりも愚である。気違いである。・・・してみると四角な世界から常識と名のつく、一角を摩滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。
- (現実の美である)燦爛たる彩光は、[3]炳乎として昔から現象世界に実在している。・・・[4]ターナーが汽車を写すまでは汽車の美を解せず、応挙が幽霊を描くまでは幽霊の美を知らず、・・・[5]サルヴァトル・ロザは泥棒が研究して見たい一心から、おのれの危険を賭けにして、山賊の群れに這入り込んだと聞いたことがある。飄然と画帳を懐にして家を出たからには、余にもそのくらいの覚悟がなくては恥ずかしい事だ。
- (どうすれば)詩的な立脚地に帰れるかと云えば、おのれの感じ、そのものを、おのが前に据え付けて、その感じから一歩退いて有体に落ちついて、他人らしくこれを検査する余地さえ作ればいいのである。詩人とは自分の死骸を、自分で解剖して、その病状を天下に発表する義務を有している。
- 茶と聞いて少し辟易した。世間に茶人ほどもったいぶった風流人はない。広い詩界をわざわざ窮屈に縄張りをして、極めて自尊的に、極めてことさらに、極めてせせこましく、必要もないのに[6]鞠躬如として、あぶくを飲んで結構がるものはいわゆる茶人である。・・・あれは商人とか町人とか、まるで趣味の教育のない連中が、どうするのが風流か見当がつかぬところから、器械的に利休以後の規則を鵜吞みにして、これでおおかた風流なんだろう、とかえって真の風流人を馬鹿にするための芸である。
- われらが俗に画と称するものは、ただ眼前の人事風光をありのままなる姿として、もしくはわが審美眼に濾過して、絵絹の上に移したるものに過ぎぬ。花が花と見え、水が水と映り、人物が人物として活動すれば、画の[7]能事は終わったものと考えられている。もしこの上に[8]一等地を抜けば、わが感じたる物象を、わが感じたるままの趣を添えて、画布の上に[9]淋漓として生動させる。ある特別の感興を、己が捉えたる[10]森羅の裡に[11]寓するのがこの種の技術家の主意であるから、彼らの見たる物象観が明瞭に筆端に迸っておらねば、画を製作したとは云わぬ。己はしかじかの事を、しかじかに観、しかじかに感じたり、その観方も感じ方も、前人の[12]籬下に立ちて、古来の伝説に支配せられたるにあらず、しかももっと正しくして、もっと美しきものなりとの主張を示す作品にあらざれば、わが作と云うをあえてせぬ。
- わが感じは外から来たのではない、たとい来たとしても、わが視界に横たわる、一定の景物ではないから、これが原因だと指を挙げて明らかに人に示す訳に行かぬ。あるものはただ心持ちである。この心持ちを、どうあらわしたら画になるだろう ー否この心持ちをいかなる具体を[13]藉りて、人の合点するように髣髴せしめるかが問題である。
- 普通の画は感じはなくても物さえあれば出来る。第二の画は物と感じと両立すればできる。第三に至っては存するものはただ心持ちだけであるから、画にするには是非ともこの心持ちに恰好なる対象を択ばなければならん。・・・古来からこの難事業に全然の績を収め得たるものを挙ぐれば、[14]文与可の竹である。[15]雲谷門下の山水である。下って[16]大雅堂の景色である。[17]蕪村の人物である。泰西の画家に至っては、多く目を具象世界に馳せて、[18]神往の気韻に傾倒せぬ者大多数を占めているから、この種の筆墨に[19]物外の[20]神韻を伝え得るものははたして幾人あるか知らぬ。
- 惜しい事に雪舟、蕪村らの力めて描出した一種の[21]気韻は、あまりに単純でかつあまりに変化に乏しい。・・・・考えたがやはり出て来ない。色、形、調子が出来て、自分の心が、ああここにいたなと、たちまち自己を認識するようにかかなければならない。生き別れをした吾子を訪ね当てるため、六十余州を回国して、寝ても覚めても、忘れる間がなかったある日、十字街頭にふと邂逅して、稲妻の遮るひまもなきうちに、あっ、ここにいた、と思うようにかかなければならない。それがむずかしい。この調子さえ出れば、人が見て何と云っても構わない。画でないと罵られても恨みはない。
- (那美さんが振袖姿で廊下を何度も行きつ戻りつするのを見て)うつくしき人が、うつくしき眠りについて、その眠りから、さめる暇もなく、幻覚のままで、この世の呼吸を引き取るときに、枕元に病を護るわれらの心はさぞつらいだろう。四苦八苦を百苦に重ねて死ぬならば、生甲斐のない本人はもとより、傍に見ている親しい人も殺すが慈悲と諦められるかも知れない。しかしすやすやと寝入る児に死ぬべき何の科があろう。
- (裸体画について)うつくしきものを、いやが上に、うつくしくせんと焦るとき、うつくしきものはかえってその度を減ずるが例である。・・・放心と無邪気とは余裕を示す。余裕は画において、詩において、もしくは文章において、必須の条件である。今代芸術の一大[22]弊竇は、いわゆる文明の潮流が、いたずらに芸術の士を駆って、[23]拘々として随所に[24]齷齪たらしむるにある。裸体画はその好例であろう。
- 余はこの温泉場に来てから、まだ1枚の画もかかない。絵の具箱は酔興に、担いできたかの感さえある。人はあれでも画家かと嗤うかもしれぬ。いくら嗤われても、今の余は真の画家である。ちっぱな画家である。こういう境を得たものが、名画をかくとは限らん。しかし名画をかき得る人は必ずこの境を知らねばならん。
- 芸術の定義を下しうるとすれば、芸術はわれら学問教養を身につけた人の胸に潜んで、邪を避け正に就き、曲を斥け直にくみし、弱を扶け強を挫かねば、どうしても堪えられぬと云う一念が結晶して、[25]燦として白日を射返すものである
- 余は画工である。画工であればこそ趣味専門の男として、たとい人情世界に堕在するも、東西両隣の没風流漢よりも高尚である。社会の一員として優に他を教育すべき地位に立っている。詩なきもの、画なきもの、芸術のたしなみなきものよりは、美しき所作ができる。人情世界に在って、美しき所作は正である、義である、直である。正と義と直を行為の上において示すものは天下の公民の模範である。
- 汽車ほど個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を踏みつけようとする。一人前何坪何合かの地面を与えて、この地面のうちでは寝るとも勝手にせよと云うのが現今の文明である。同時にこの何坪何合の周囲に鉄柵を設けて、これよりさきへは一歩も出てはならぬぞと威嚇かすのが現今の文明である。何坪何合のうちで自由を擅にしたものが、この鉄柵外にも自由を擅にしたくなるのは自然の勢である。憐れむべき文明の国民は日夜にこの鉄柵に嚙みついて咆哮している。文明は個人に自由を与えて虎のごとく猛からしめたる後、これを[26]陥穽の中に投げ込んで、天下の平和を維持しつつある。この平和は真の平和ではない。動物園の虎が見物人を睨めて、寝転んでいると同様な平和である。檻の鉄棒が一本でも抜けたらー世の中はめちゃめちゃになる。第二の仏蘭西革命はこの時に起こるのであろう。個人の革命は今すでに日夜起こりつつある。北欧の偉人[27]イプセンはこの革命の起こるべき状態についてつぶさにその例証を吾人に与えた。余は汽車の猛烈に、見界なく、すべての人を貨物同様に心得て走る様を見るたびに、客車のうちに閉じ籠められたる個人と、個人の個性に寸毫の注意をだに払わざるこの鉄車とを比較してーあぶない、あぶない。気をつけねばあぶないと思う。現代の文明はこのあぶないで鼻を衝かれるくらい充満している。おさき真闇に盲動する汽車はあぶない標本の一つである。
(抜粋おしまい)
[1] どこにも存在しない風景
[2] 自分だけの別世界
[3] きわめて明らかなさま
[4] イギリス19世紀前半の風景画家
[5] イタリア17世紀の画家、銅版画家
[6] (きっきゅうじょ) 身を屈めてかしこまる様子
[7] なすべき事柄
[8] 一段と優れている
[9] 勢いが盛んにあふれ出ているさま
[10] 森羅万象 ありとあらゆるもの
[11] 直接示さないで他の事物に託して表現する
[12] りか 垣根のそば。低い位置にあることのたとえ。
[13] 藉(か)りて かこつけて
[14] 中国、宋代の画家
[15] 雲谷等顔 桃山時代の日本画家
[16] 池大雅 江戸中期の文人画家
[17] 与謝蕪村 江戸中期の俳人、画家
[18] 心が惹かれるような風雅な趣(おもむき)があること
[19] 物質界を超える世界
[20] 詩文・絵画などの、神わざのようなすぐれた趣のこと
[21] 気品の高い趣
[22] 弊害、欠点
[23] ものごとにとらわれ、こだわるさま
[24] あくせく、こせこせすること
[25] 燦として→きらびやかで美しい、白日→照り輝く太陽
[26] ワナ 落とし穴
[27] イプセン ノルウェー19世紀の劇作家。社会の矛盾をえぐりだし、近代劇の祖と称される