愛とセックスの話 (2023/4/10 修正しました)

「歌舞伎町と貧困女子」(中村敦彦 宝島新書)、「往復書簡 限界から始まる」(上野千鶴子・鈴木涼美 幻冬舎)と「ちつのトリセツ 劣化はとまる」(原田純 径書房)を書かれた原田純さんのYOUTUBEとを題材にして、《愛とセックス》について考えてみた。

以下の写真は、著者の方々である。

上野千鶴子さん
鈴木涼美さん
原田純さん
中村敦彦さん

● 結論

いきなり結論から入ろうと思う。

昔、あるいは今でも、一般に《セックス》とは《結婚》を前提にしている。そこには《愛情》が不可欠とされてきた。

しかし他方で、「歌舞伎町と貧困女子」(中村敦彦(50歳) 宝島新書)を読むと、現在、10代、20代の普通にどこにでもいるような普通の女の子が、ホストクラブのホストにハマる《ホス狂い》になり、ホストに貢ぐ大金を稼ぐために、風俗で働いたり、《空気を吸うように》売春をしているという。彼女たちの《セックス》は《愛情》と分離されている。

 「チツのトリセツ 劣化はとまる」(原田純 径書房)を書かれた原田純さん(68歳)がYOUTUBEで、一般には言いにくいことをはっきり言われている。

結婚している中高年カップルの奥さんから見た《夫》は、何の取り柄もなく偉そうにするばかりで、セックスも自己中心的で絶望しかない。欧米の老夫婦は結構な率で性生活をエンジョイしているが、日本はほとんどがセックスはご無沙汰で、性生活のあるカップルにとっても、女性側は仕方なく夫の相手をしているだけだという。妻にとって夫は、まったく期待できない。 高齢男性は、セックスで女性を圧倒するという固定観念を捨て去り、気の合うパートナーと、お互い相手を思いやり、スローで楽しいセックスを楽しみましょう、そうすることで男女が本来の自分を取り戻すことが出来ます、何歳になってもそれは可能ですと言う。 高齢の夫との《セックス》には、もう《愛情》がなく、両方を求めるためには、気の合うパートナーを見つけることだということになる。

ここまでのところ、《ホス狂いの貧困女子の売春》と、連れ合いと仕方なくする高齢者の《セックス》は、《愛情》がないという点については一致している。

「往復書簡 限界から始まる」(上野千鶴子・鈴木涼美 幻冬舎)は分厚い本だが、男女の《愛とセックス》について、往復書簡の体裁を取りながらストレートに主張し合った本である。上野千鶴子さん(74歳)の言い回しは学者らしく、曲がりくねっており、Googleさんに聞きながらを読む術しかないカナカナ用語が頻発して、アカデミックぽさが漂っている。

日本のフェミニストの草分けであり、大御所でもある上野千鶴子さんの発言は、「構造と主体」という切り口で考えられており、女性が永らく「社会構造」によって振舞いを制約されてきた被害者であるという立場である。こうした考えは、アメリカの黒人が劣っているとすれば、それは社会構造がそうなっているからだという《批判的人種理論》に通じるものを感じる。もちろんそういう側面を否定できないが、原因全てをそこに求めてしまうのは、やりすぎではないかと思う。

同時に、上野千鶴子さんの《愛とセックス》に対する姿勢についてだが、《セックス》は本源的に、《愛情》がセットになっているべきという観念が底流にあり、逆に、《愛情》のない《セックス》は女性を搾取し、貶めるという考え方に常に捉えられているように思える。 つまり、貧困を背景にした人を貶めるような構造的な買売春などを許さないのがフェミニズムだ、と主張されているように思える。それは、《愛とセックス》の話ではなく、社会の在り方への問題意識だと感じるのだが、どうだろう。

もう一人の書簡の書き手の鈴木涼美(39歳)さんは、元AV女優だったが、もう一方で、東大の大学院を出て日経新聞の記者だったという経歴がある。

彼女は、16歳のバージンだった高校生の時に、ブルセラショップで、パンツ、ブラジャーとルーズソックスをマジックミラー越しにキモ親爺に売り、キモ親爺がパンツを頭に被り、ルーズソックスを首に巻き、ブラジャーの臭いを嗅ぎながらながらマスターベーションをするのをうっすら分かるマジックミラー越しに見て、《男一般》に絶望した。この経験が、彼女の《愛とセックス》の入り口だった。 その鈴木涼美さんは、男に絶望すると同時に、軽蔑心や理解不能感を抱きながら、日経新聞の記者をやりながら、キャバクラで働き、AV女優稼業を並行する。

やがて、彼女は付き合っていた男の嫉妬心から、AV女優であることを会社や両親にばらされる。その後、鈴木涼美さんは会社を辞めて、社会学者へ、文筆業へと進む。

そのような経歴を持つ彼女は、後輩にAV嬢になりたいと相談されると次のようにアドバイスするという。ー「AV女優を引退することは出来るけれど、元AV女優を引退することは出来ない。」ーつまり、いつまでたっても、AV女優だったことに対するリスクから引退後も抜け出せない。ここに社会の怖さがある。AV女優だった出演料の中には、AV女優を辞めた後の生活費が上乗せされているという。

鈴木涼美さんは、男女関係を俯瞰する面白い著作を多く出版しており、男という種の馬鹿さ加減と、女という種の生存戦略など、また、彼女のちょっと、距離を置いた《愛とセックス》の見方に他にない新しい発見があり、結構面白い。

この二人の往復書簡は、上野千鶴子さんの言う、愛のない《肉体と精神をどぶに捨てるようなセックス》についてかなりのウエイトを置いて考察されている。

もちろん、上野千鶴子さんは《どぶに捨てるようなセックス》を提供する側を擁護する立場なのだが、鈴木涼美さんはニュアンスがちょっと違って、どぶに捨てるようなセックスであっても、それに対価が伴うのであれば、肉体と精神を捨てるということはないように思えるとも読み取れる。

ここで果たして、金で買われた《セックス》は、本当に尊厳やプライドを傷つけるのだろうか、という疑問が出てくる。

親爺が思うのは、金で買われたセックスでも、お互いが納得していれば《必要悪》レベルなのではないかと思う。《セックス》は、別に魂までを売る行為でもなく、《どぶに(自分を)捨てる》行為でもないだろうと思う。

原田純さんが言うように、「セックスは究極の遊び」だというのが親爺の結論です。

しかしながら現実は、《セックス》が仮に《究極の遊び》に過ぎないとしても、夫婦以外の気の合うカップルが《セックス》に没頭すれば、生殖能力があれば子供が生まれたりすることもあるだろうし、家庭を顧みなくなって、既存の夫婦関係が壊れる恐れが大いにあるでしょう。そこで社会通念や、宗教、倫理などが、夫婦以外のセックスを禁止してきた背景が、当然ながら頑としてある。 《セックス》の本質が、仮に《究極の遊び》だとしても、夫婦の片割れ、連れ合いの存在が《遊び》であることを許さない。

実際のところ、嫌な相手とセックスするのは男女どちらにとっても願い下げなのだが、好ましい相手となら《セックス》は《究極の遊び》に違いない。ただ、それを大っぴらに社会に向かって言うと、限られた経済状況やしがらみの中で生きざるを得ない我々にとって、結婚や家族の生活の枠組みなどを壊しかねない。それで、宗教を持った欧米人、その他の外国人、世間体をもっとも気にする日本人も、だれもが認めないのでしょうね。

こんな結論では平凡でつまらないでしょうか。(苦笑)

その1 おしまい

投稿者: brasileiro365

 ジジイ(時事)ネタも取り上げています。ここ数年、YOUTUBEをよく見るようになって、世の中の見方がすっかり変わってしまいました。   好きな音楽:完全にカナダ人クラシック・ピアニスト、グレン・グールドのおたくです。他はあまり聴かないのですが、クラシック全般とジャズ、ブラジル音楽を聴きます。  2002年から4年間ブラジルに住み、2013年から2年間パプア・ニューギニアに住んでいました。これがブログ名の由来です。  アイコンの写真は、パプア・ニューギニアにいた時、ゴロカという県都で行われた部族の踊りを意味する≪シンシン(Sing Sing)≫のショーで、マッドマン(Mad Man)のお面を被っているところです。  

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