もううんざり 日本の新型コロナ対応

新型コロナについては、そこらじゅうで噓(=テレビ、新聞)や、保身・自己顕示欲(=《感染症ムラ》の医師たち、政治家)がまかり通っていて、国民はすっかり置き去りにされている。収入激減で、若い女性は売春、男性は犯罪に走るしかない場合が、少なからずあるだろう。

ところが、あまりに《感染者》が増えてきたために、テレビ局が切り取った発言のようだが、東京都医師会の副会長はモニタリング会議で、「災害時と同様に、自分の身は自分で守る」と発言する始末である。これでは医療崩壊というより、医療放棄である。

こうした現象に加担してきたのは、まず、専門家という触れ込みの医者たちである。感染症を専門とする 《感染症ムラ》 の医師たちは、我が世の春が到来したのを良いことに、国民の不安をあおりまくっている。《専門家という触れ込み》と書いたのは、彼らが医師であるのは間違いないが、ウイルスの専門家でも免疫の専門家でもなく、インフルエンザや風邪の患者を多く診てきたり、過去のSARS、MERSを知っている人物に過ぎないからだ。

次に、テレビをはじめとするマスコミはもっとひどい。彼らはバカではないのだろうから、もっと様々な情報を手にしているはずなのに、 《感染症ムラ》 の専門家同様、不安をあおり続けている。儲けを優先して、公平な報道をしていない。受信料を月額300円程度にしろと言われたNHKは、会長が変わってから、もっとも政権に忖度し、偏向報道しているように見える。普通、テレビでも新聞でも、報道は反対意見も報道するものだが、それが全然ない。

次に、政治家。これも酷い。彼らは、人気取りしか考えていない。彼らも様々な情報のレクチャーを受けているはずなのに、テレビなどのメディアが、国民の不安をあおるため、マスコミに同調するばか、《頑張ってます感》を出すだけだ。いつまでたっても、火中の栗を拾って、真実を言おうとしない。

問題の根本は、2つある。一つは、PCR陽性者を感染者と定義し、無症状の健康な者を含むことで、隔離すべき対象人数がむやみに拡大している。もう一つは、感染症法の分類で2類にされており、さらに、厚生省の通達で実質1類の運用がなされ、SARS、MERS,エボラ出血熱と同じ扱いがされているので、町医者の大半、殆どの病院が診療しないことである。

下の動画は、郷原弁護士と、医療ガバナンス研究所の上医師のYOUTUBEである。

この問題点がよくわかる。ぜひ、見てください。これを見ると、世間で言われている医療崩壊ではなく、保健所崩壊》ということがよくわかる

端緒だった昨年のはじめ、この新型コロナが、どのような病気かよくわからなかったとき、日本政府は、過去のSARSを念頭に置き、たいして広がらないだろう、ワクチン作って儲けようと仕組み(=法整備)づくりをした。

まず、感染症法を適用させ、隔離しようとした。隔離策は、戦前から結核やハンセン病に経験がある。同時に、国立感染症研究所と保健所にデータが一元的に集まるようにした。

世界のリーダー同様、安倍首相は、ワクチン開発による儲けのチャンスだと思ったに違いない。もし成功すれば、国民全員に接種できる。そうなれば、功績は大きい。そのために、PCR検査を保健所でやり、保健所の指示でコロナ病院を割り振り、クラスターの犯人捜しも保健所が担当することにした。

ところが、政府はSARSを念頭に置き、制度設計したのだが、SARSは日本に被害をもたらさなかったし、世界的に見てもすぐに収束した。ところが、この新型コロナは、想定外の大きさでパンデミックになった。

とうとう今日の状態になり、あまりに数が増えたので、保健所では対応できなくなった。そりゃ、そうだ。実際に新型コロナの患者を1人でも受け入れたことのある病院は、全体のわずか21%だからだ。

おしまい

菅政権批判映画《パンケーキを毒見する》

この暑い中、《パンケーキを毒見する》を見てきた。

なかなかおもしろかった。まだ上映されているので、興味のある人は、ぜひ行かれると値打ちはあると思います。

この 《パンケーキを毒見する》 という映画のタイトルの理由を解説すると、酒を飲まない甘党の菅氏が、首相に就任した時に、パンケーキを食べてみせ、若い女性などに「元号が変わった時に、あの『令和』って書いた札を持ってきたおじさんが、パンケーキが好きなんだって!」と好評だったらしい。それを揶揄したものだ。

Twitterから

しかし、多くの人は、安倍政権、菅政権と続くこの8年間の政治にネガティブな印象を持っていると思う。

それは、安倍政権では、モリカケ、桜を見る会、消費増税、黒川東京高検検事長定年延長問題など、菅政権では、東北新社の放送利権、学術会議、コロナ対策、オリンピック開催など、どちらの総理もろくにに説明せず、菅総理に至っては、安倍政権時代にずっと官房長官だったから、ある意味、同じ穴の狢、一蓮托生である。

主は、「こいつら、日本語を壊しとる!」と思っている。具体的な説明なしに、「安心・安全」とか「しっかりやる」「総合的に判断する」とか、言ってすまそうとするからだ。

先日は、《「謝らない謝罪」が日本で蔓延している》という記事が、ニューズウィーク日本版に乗った。菅総理は、しょっちゅう謝罪しているが、これは、うわべは謝罪しているが、問題になったことを謝罪しているだけで、中身について謝っていない、逆に肯定し続けているというものだ。

<「誤解を与えたのであれば申し訳ない」とは、形を変えて加害を繰り返しているとすら言える言葉だ。ホテルから保健所、政治家、首相まで、そんな「謝らない謝罪」が多過ぎる>

https://www.newsweekjapan.jp/mochizuki/2021/07/post-8.php

実際にこの映画を見る人は、おそらく高齢の人が多いのかもしれないが、若い人に見てもらいたい。若い人は、政治が何かを学校で教わらないし、ダサいと言われるのが世間の空気なので、政治の議論などしない。それで、何にも分かっていない人が多い。

日本では、言われたことをそつなくこなす従順な人材を育てようとしているとしか思えないが、言われたことを従順にこなすより、言われずとも自分の発見を貫く人材が求められている。協調性のある団体プレーより、変人の独創性が、ブレークスルーをもたらすのが明らかだ。それには、日本の教育はフィットしていない。みんなで、強いものに忖度し、発言しない。

いまや、日本の多くの指数が、OECDで最下位であり、それどころか、世界中でも最下位な指数も多い。

ひとつだけ、この映画を見て恐ろしいと思ったことは、官房機密費である。この映画に出てくる官房機密費は、1日当たり307万円(この8年半では、100億円。つまり毎年10億円!!が使われているのだが、使途を明らかにする必要がなく、官房長官が好き勝手に使える。この映画で示唆されているのは、これを私的な権力の増大に使っている恐れである。

官房機密費は、テロなどで人質になった邦人の救出など、支出したこと自体を伏せる必要がある事態の時に使われるというのだが、そんなテロのような事件はしょっちゅう発生しないし、政権が自分の権力の増大に使っているとすれば、明らかな背任行為であり、犯罪だ。

<官房機密費、菅内閣で5億円 加藤長官「説明は控える」← 朝日デジタル>

https://www.asahi.com/articles/ASP1Y6GB0P1YUTFK017.html

おしまい

小山田圭吾事件 海外のマスコミと比べると あまりにへたれな日本のマスコミ

オリンピックの音楽を担当していた小山田圭吾氏が、過去の同級生(当時、知的障害のある児童、生徒が、普通学級に編入されていた)に、あまりに鬼畜な暴行行為、吐き気を催す非人間的行為を日常的にし、その罪悪感のない様子が、音楽雑誌に掲載されていたことが発覚した。最終的に、彼は辞任したのだが、このプロセスで、ことの当否より『日本のマスコミはどうなってんの?』『要点を分かりやすく伝える気あんの?』と思ってしまった。

The Gardianから「東京2020作曲家は障害のある同級生への歴史的ないじめを謝罪する」

日本のマスコミ(テレビ、新聞)が報道しなかった小山田圭吾氏の悪行の数々は、下のリンクのとおりである。しかし、日本のマスコミが報道したのは、「25年前にいじめがあり、本人が謝罪している。」というような意味の記事だった。

例をあげると、7月17日の朝日新聞は次のような書きぶりだった。

◎小山田さんは1995年8月に出版された書籍で、「いじめ紀行」と題した企画に登場。同級生をマットレスで巻いたり段ボールに閉じ込めたりしていじめたことや、障害者の特徴をあげつらって面白がっていた経験などを語っていた。

多くの人が、ずいぶん昔のことがいまごろ問題になるんだな、と思っていたはずだ。子供同士のいじめなのか? よく判断がつかないし、それほどインパクトもないと思っていただろう。

ところが、この件を海外の報道機関が、ストレートに記事にしているという内容がネットに出ていた。こちらは、TWITTERに東京新聞労働組合が「参考になった」とリツイートしたリンクだ。

https://koritsumuen.hatenablog.com/entry/20061115/p1

それで、その海外の報道機関が発信した記事を調べてみた。イギリスのテレグラフ、フランスのAFP、アメリカのAP通信などが、この事件を、すぐにイメージできるように書いていた。つまり、《いじめ》という漠然とした表現より、《虐待、暴行》と表現し、さらに具体的に、「小山田氏(52歳)は、ある少年に排泄物を食べさせたり、他の生徒の前で自慰行為をさせたりした。」と端的に書いていた。

この日本と海外の報道の違いをくらべると、受ける印象が25年前の出来事であっても、天と地ほど違う。主は、他人にうんこ食わせようと、一生強要しないだろう、人前で自慰行為を強要させたりもそうだろう。

アメリカの《アググレイブ刑務所》でイラク兵に自慰させたり、太平洋戦争でも日本軍が捕虜に対して似たようなことをしたのかもしれない。それは、お互いの立場が、一方的に強い側と、一方的に弱い側とに隔たっていて、戦争の時のような、ストレスと狂気に囚われているときに起こるのだろう。この小山田氏の事件は、25年前なので時効かもしれないが、何か他の方法で、いま訴追できないのかというくらいの内容である。

今回は、たまたま、ニュースの肝心の部分が海外から逆輸入されたから、多くの人が真実を知り、世論が急激に、一気に変化した。

しかし、日本のマスコミは、相変わらず今でも「いじめ」という表現を使っているし、それが読者や視聴者をミスリードしているという反省がみじんもない。

もちろん、主は正義の使者ではないし、正義の使者ぶりたいわけではない。日本のマスコミは、誰に忖度しているのか、権力者ではないのかという疑問だ。

つまり、事の重大性は、小山田氏がオリンピックの音楽を担当するかどうかより、欧米のメディアに比べて、日本のマスコミが国民の分かりやすさを第一に考えて、忌憚のない公正な表現ができなかったという点にある。もし、海外メディアの発信がなければ、日本のメディアが腰の引けた表現に終始することで、小山田氏がJOCの意向どおりオリンピックの仕事を続けていたかもしれない。 今回の手柄は、外国メディアにあり、日本のメディアはそのふがいなさを反省しなければならない。

日本のマスコミは他者を断罪するばかりで、「反省」や「自省」という言葉がないのかもしれない。

おしまい

ストリンギング UKRSA – アラウンド・ザ・ワールド

ストリンギングの第2弾です。

ストリンギングは、縦ガットを張ったら、ラケットの上下が引っ張られて短く、太るように変形するのですが、これを横ガットを張ることで、元のストレスのかかっていない形に戻すプロセスということができます。 

ストリングパターンは、一番ポピュラーなのが16×19(縦16本、横19本)ですが、他にもいろいろとバリエーションがあります。 こうした横の数のが多いラケットの場合、縦より横のテンションを落として張る場合があります。これは、そうすることでラケットの変形を防げると考えるためですが、あまり気にせず、縦横同じテンションで張る場合もあります。

一方、横のガットの数が少ないラケットもあります。主が使っているラケットがそうなのですが、16×15というパターンです。このラケットを縦横、同じテンションで張ると、横の張力が不足し、太りがちになります。 このため、このようなSラケ(このようなパターンのラケットは、ウィルソンにしかなくSラケと呼んでいます。)の場合、横のテンションをかなり上げるのですが、張る順序を変え、縦を残した状態で、横を張り始めることで、縦横のテンション差を減らすことができます。

このテンション差については、縦横の本数以外に、ラケットの形状、丸形、卵型、長方形など、縦横のストリング長が影響するものと考えられます。楽器を考えれば分かりやすいですが、同じテンションでガットを張っても、その距離が長くなるにつれ弱くなるためです。

それでは、Sラケに向いた、UKRSA-ATWをご紹介します。この張り方は、YOUTUBEで多数動画をアップし、ブログでも詳しく説明されているTTOさんを大いに参考にさせていただいています。m(__)m なお、UKRSAの意味は、主もわかっていません。(^^);;

最初は、普通に張っていきます。

メインを最後の1本を残して張ります。ショートサイドは、スタクラで止めます。

ロングサイドも最後のメインを張らずに、クロスを上から2本目から順番に下に向かって張ります。

クロスを下に張る際に、メインガットより2lbs程度上げて張り始め(例えば、メインを50 lbs で張ったなら、クロスを52 lbs で張り始める。) クロスガットの3分の1を張ったところ(6本目)から、テンションを0.5 lbs ずつ下げて張ります。

クロスを下から3番目まで張ったら、最後のメインを張り、スタクラで止めます。

このあたりのテンションの調整は、試行錯誤されるのがよろしいかと思います。

次に、ショートサイドのスタクラを外し、残っている最後のメインを下に張ります。

ショートサイドの残っているメインを張った後、下から2番目、一番下のクロスを張り、タイオフします。

ロングサイドのスタクラを外し、一番上のクロスをはり、タイオフします。

おしまい

テニス ストリンギング J’s Box (アガシ張り)

ストリンギングには多様な張り方があるようで、備忘を兼ねて、なるべく珍しい張り方をアップしてみよう。

今回は、J’s Boxを取り上げます。真偽を実際に確認したわけではないのですが、アンドレ・アガシが張っていたというものです。J’s Box という名前がいいですね!

アンドレ・アガシlivedoor.blogimg.jpから

アンドレ・アガシを知らない人もいるかもしれませんが、1990年代から2000年代にかけて4大大会を何度も勝っているスーパースターです。奥さんが、やはりスーパースターのシュテフィ・グラフで、二人が結婚したら、「どんなどんな天才児が生まれるのだろう?」とか言われていました。

なお、J’SBOXの張り方も、ネットで検索すると何種類もあり、私もこうした記事を参考にさせてもらっています。 J’S BOXは、柔らかめのラケットに張ると、変形に強く、しっかりした打感が得られるとのことです。

普通、ストリンギングの方法は、縦を全部張った後、横を全部張ります。この横を張る際に、上から張る場合と、下から張る場合があります。 これに対し、縦の一番外側(外周部)を残し、横のガットを先に張る張り方のアラウンド・ザ・ワールドと呼ばれる張り方などがあります。 今回紹介するこのJ’Boxは、やはり、外側の縦ガットを残しながら、最後にスィートスポットになる横ガットをテンションを落として張るところに特徴があると思います。

ちなみに、主のラケットは16×15という、横のガットが少ないSラケを使っています。他のラケットの場合には、適宜アレンジしてください。 ラケットにより、グロメットに空いている穴が、ガット1本分しか通せない場合には、タイオフできる場所が限定されますので、この場合は、難しいかもしれませんのでご注意ください。

まず最初は、普通に2本張る。

注意点として、最初のマシンクランプは、反対側のガットを張る際に邪魔にならないように、少し間隔を離して止める。

また、スターティングクランプ(以下、スタクラ)でも、止めておく。

メインのガットを張り進める。

右ロングサイドは、メインを最後まで張ったら、下から2番目のクロスを張り、スタクラで仮止めしておく。

左ショートサイドは、最後のメインガットを1本張らずに残しておく。

右ロングサイドのメインを最後まで張ったら、下から2番目のクロスを張ったところで、スタクラで仮止めしておく。

このとき、ラケットのクロスのガットの本数により、順相、逆相があるので、注意する。

ここは、最大の難所!?なので、しっかり確認してください。

左ショートサイドのクロスを上から3番目から一番上まで張り、タイオフする。

左ショートサイドのタイオフは、保険をかける意味で、スタクラで仮止めしておき、最後にタイオフすることも可です。

スタクラで止めていたロングサイドを、テンションをかけて引き直し、一番下段と下から3番目のクロスを張る。

その後、残っている最後のメインを張る。

最後のクロスを張る。

ロングサイド、最後のメインを張ったら残っているクロスを上から下へと順に張っていく。

この時張るクロスは、これまでよりテンションを7%下げて張る。

この「7%下げる」という記述はネットで見つけたものです。最初に張ったもののテンションが下がるため、ガットは後で張るものほど、強く張られることになります。 中央部を下げて張ることで、余分なテンションをかけずに、スイートスポットができやすいと思います。

おしまい

楢山節考 深沢七郎 (医者たちの身勝手さ その4)

我々は、戦前まで医療とは無縁の世界に生きていて、人間も犬猫などの動物と同じで、死ぬのにそれほど苦しまなかったのではと、かねがね主は思っている。人類が誕生してから、700万年といわれるのだが、医療にアクセスできるようになったのは、わずかこの数十年である。

昭和32年に発表された深沢七郎、42歳の処女作、短編小説「楢山節考」は、中央公論新人賞を受賞したベストセラー小説であり、映画のほうも、木下恵介と、今村昌平が監督をし、後者はカンヌ映画祭でパルムドールを受賞したというあまりにも輝かしいものだ。

ネットでの評に、この映画は「日本では昔、棄老がひろく普通に行われていたとの誤解を招く」といったものがあるが、人類の歴史は、生存のための食料の調達があってこそであり、この物語に出てくる、 棄老や嬰児殺しは、世界中で普遍的に、19世紀ころまであっただろう。だからこそ、誰でも理解できる普遍的なこととして、カンヌ映画祭で捉えられ評価されたと思う。

新潮文庫(発表は昭和32年、中央公論社)

あらすじと感想を取り混ぜて書こう。

山梨県あたりの寒村が舞台だが、時期は書かれていない。「銭屋」という家族の話が出てくるので、江戸末期か明治の初期の話と思われる。この 「銭屋」 は、村では流通しておらず、役に立たない貨幣の「天保銭」を1枚持っているので、村人から「銭屋」と呼ばれているからだ。

なお、本文に説明はないが、この「天保銭」は、8枚で1文になるという値打ちのないもので、「価値のない、役立たず」といった意味も込められているらしい。

主人公は、69歳のおりん、45歳の孝行息子の辰平だが、辰平の子供たち、辰平の後家として隣村から来る玉やん、16歳の長男の嫁の松やん、近隣の村人たちが登場し、村の様子がよくわかる。彼らが住むのは、非常に貧しく、毎年冬になると、その一家が餓死をせずに冬を越せるかどうかが問題になるほどの寒村である。彼らにとって、なにより食料にありつけるかどうかが問題である。

村の習わしとして、老人は、70歳になると口減らしに、信仰の神の山である楢山に捨てられる(「楢山まいり」する)ことになっている。

おりんは、若いときは村一番の器量良しといわれたが、亭主を20年前に亡くし、他の後家のような嫌な噂を立てられることもなく、人にとやかく言われることもなかった。楢山に捨てられるにもしっかりして、模範として捨てられようと、その目標を果たす日を前から心待ちに、準備もしていた。おりんは、次の正月をすぎたら、楢山に行こうと心に思っていたが、ひとつ気がかりなことがあった。それは、年齢に不相応な、丈夫な歯をしていることだった。

おりんは、健康でたくさん食べると人から思われる丈夫な前歯を、火打石で砕き、血を流しながら一つ懸案を片付けた、と満足する。しかし、口からの出血が止まらず、口を開くたびに、口から血を流す老婆を見た子供たちは、わーっと逃げ出し、おりんは「鬼婆(おにばばあ)」と不名誉な称号をもらう。

大人は、小さい子におりんのことを、「食いついたら放さんぞ」「食い殺されるぞ」と吹き込み、泣いている子に「おりんやんのうちにつれていくぞ」と殺し文句に利用したりする。

楢山に捨てられようかという老婆が、丈夫な歯をしていることを恥じて、おりんは歯を砕くのだが、血まみれになり、口から流血する鬼婆になり、周囲を驚かせ、「根っこの鬼婆(おにばばあ)」と陰口を叩かれる。

「『根っこ』の鬼婆(おにばばあ)」の 『根っこ』 というのは、おりんの家の前には、大きな木の切り株があり、人が腰を下ろして一休みしていた。その根っこという場所を指している。お互いの家族は、苗字ではなく、 『根っこ』 とか『銭屋』とか呼んでいた。 

おりんには、気がかりがもう一つあった。息子である辰平の嫁が、去年栗拾いに行って、谷底へ転落して死んでしまっていた。辰平には、4人の子供がおり、16歳の長男のけさ吉を筆頭に男が3人、末が3歳の娘だった。あいにく、適当な後家が見つからず、辰平は再婚できないままだった。

ところが、山一つ隔てた隣村で3日前に亭主と死別したという後家が現れ、その後家を辰平の後妻に迎えてくれという使者がやってきて、辰平は再婚することになる。当時、結婚は当事者同士の意思にかかわりなく、年恰好だけで簡単に決められていた。

おりんが孫たちに、すぐに新しいおっかあがやってきて、お前たちの家事も楽になるというと、孫のけさ吉が、意外なことに辰平が後添えをもらうことに大反対する。

ここのところ、家族の在り方がよく表れていて、非常に面白い。

けさ吉向こう村からおっ母あなん来なくてもいいぞ! 俺が、嫁を貰うから後釜なんいらんぞ。 めしのことがめんどうなら俺の嫁にさせるから黙っていろ。」

おりん「バカヤロー!飯を食うな。」 とけさ吉の顔めがけてはしを投げる。

13歳になる次男の孫「けさあんやんは池の前の松やんを貰うのだぞ」と、けさ吉と松やんが仲の良いと知っていることを皆の前で暴露する。

けさ吉バカー、黙ってろ!」

この村では食料事情が厳しいので、晩婚が奨励されており、そのような歌もでてくる。おりん、辰平は、まだ子供だと思っていた16歳のけさ吉が松やんを嫁に貰うと言い出すほど成長していたことに驚き、それを察しないで、うっかり怒ってしまったことを申し訳なく思いもする。

辰平は、後妻を貰うことに照れていたが、隣村で夫を亡くしたばかりの玉やんが、辰平の後妻としてやってくる。玉やんはよい人柄だった。

けさ吉も松やんと結婚し、家族が増え、ますます食料の確保が問題となるのだが、松やんは大飯ぐらいだった。おりんは、「これでは、松やんは、前の家族から厄介払いをされたも同じだ」と思い、「この子は、あっちの方だけが、達者だ」と思うのだが、それでとくに松やんを否定することなく、そんなものだと受け入れている。

そのころ村で、食料泥棒が発覚する。雨屋(=山に入るたびに雨が降るので雨屋と呼ばれている)の亭主が、隣の焼松(=近くに落雷で焼けた松の木がある)の家の豆のかます(=臭いにおいがする納豆のようなもの)を盗んで家人に見つかり、袋叩きにされ、村中が大騒ぎになる。食料を盗むことは、極悪人である。食料を盗むと、最も重い制裁である「楢山さまに謝る」ということをしなければならない。その制裁は、その家の食料を他の家の者たちにすっかり、奪われてしまうことである。分配にあずかる他の家の者たちが、盗人の現場に駆け付けるときにも、掟があり、必ず裸足で駆けつけないとならない。もし、草鞋を履いて駆けつけると、逆に袋叩きに合うことになっており、駆けつける者たちも死に物狂いである。雨屋の家は、「家探し」をされ、芋が縁の下からぞくぞくと出てきて、一坪ほどの山になった。雨屋の亭主は、半殺しの目にあい息も絶え絶えだが、その家族はその横で泣き喚くばかりである。

その3日後の夜遅く、雨屋の家族12人は、裏山の方向に消える。

雨屋の家族が村から消えた興奮が冷めやらぬまま、松やんのお腹が目立って大きくなり始まる。おりんのような老婆が、ネズミっこ(ひ孫)を見るのは、性欲にまみれた一家だと思われ、おりんは早い楢山参りを望む。玉やんは、「ネズミっこが生まれたら、わしが赤子を捨ててやる」と明るく、言う。こんどは、けさ吉が「コバカー、俺が捨ちゃってくらァ、わきゃァねえ」と応じ、松やんが「ああ、ふんとに、たのんだぞ」という。

12月末、いよいよ、おりんは楢山参りを決心する。それまで蓄えてきた食材や振舞酒で、村の重役たちをもてなし、重役たちは言い伝えである楢山参りの注意事項をおりんと、辰平に伝える。順番に要点が伝えられるのだが、このとき、誰も何も喋ることは許されない。重役たちが、順に発言するのみである。

次の夜、辰平は、おりんを背板に乗せ、楢山に向かって出発する。村の重役たちが言ったとおりの光景が順におこる。 最後の楢山の頂では、多くの骸が転がり、カラスが大勢舞っていた。辰平はちょうどよい窪みを見つけ、おりんを下ろす。おりんは、辰平の手を堅く握りしめるのだが、辰平の背をどーんと押した。大粒の涙を流しながらよろよろと山を下っていく辰平。

村へ戻ろうとする辰平だが、やがて、雪が降ってくる。雪は、楢山参りで、吉兆とされていたし、おりんの望みでもあった。辰平は、おりんのところへ戻り、「雪が降ってきた!」とひとこと言いたくて、村の掟にそむいて戻る。再び、戻れと手ぶりをするおりん。

ーーーーーーー

おりんは、村の掟のとおり70歳で死ぬのだが、それは名誉を保ったまま家族の犠牲になることであり、最愛の息子の手によって殺されるのであり、死ぬこと自体は恐ろしいにせよ、嬉しいことだろう。山へ捨てられ、空腹と寒さがやがて意識を遠のかせ、知らずに死んでしまうだろう。 人間が死ぬ瞬間には、β(ベータ)エンドルフィンという幸福ホルモンが放出されるという。

もちろん、今は、昔とあらゆる面で事情が違い、生きること自体はこうまで過酷ではなくなった。しかし、このような過酷な時代でも、人々は淡々と、シンプルで最低限の道徳と、自分たちの生活をしっかり守って生きていた。

いまはどうか。いろいろ知恵はつき、食料事情は改善したが、それがかならずしも生きる幸福に役立っていない。失ったことが、かなり多いのではないか。もちろん母親を背中に背負って山に捨てに行く、嬰児を河原に捨てに行くわけにいかない。

老人が、具合悪くなったら、きっと救急車を呼べ、介護施設に入れろと言われるだろう。しかし、うっかりしていると、ここに大きな落とし穴がある。

楽に静かに穏やかに死ねる、チャンスを逃しているのではないか?

現代は、年老いて、具合が悪くなってもすぐに死ぬことは減ったという言い方ができるのかもしれない。しかし、救命したが、その後、延命措置されています、というのでは意味はない。もとどおりの元気にならないで、胃ろうや人工呼吸器をつけられると、苦しいばかりで、死ぬ間際にこうした幸福ホルモンはきっと出ないに違いない。

おしまい

追記: WIKIPEDIAを読んでいたら、深沢七郎の小説・「楢山節考」とパルムドールを受賞した今村昌平監督の映画では筋が違っているようだ。

映画では、深沢七郎の他の作品も使い、次男以降は、結婚もできないとか、父親の遺言で、セックスできない次男以降とセックスさせられる娘が出てきたり、さらに過激で、こうしたシーンが上手に筋に加えられているらしい。

それで、下のポスターのコピー、「人間の大らかな『生と性』を謳う今村節 笑い・感動・愛・衝撃」ということになるのだろう。

余談だが、1983年のカンヌ映画祭でのパルムドール受賞は、今村昌平監督・「楢山節考」ではなく、大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」が大本命だろうと言われていた。ところが、この圧倒的な大方の予想を覆して「楢山節考」が受賞したのだった。

「戦場のメリークリスマス」4K修復版を大規模劇場公開から

医者たちの身勝手さ その3(こういうちゃんとしたことを云う医者もいる)

おばあさんが笑いながら森の中で死んでいる?

森田洋之さんという医師が書いた本、世の常識とは違う「うらやましい孤独死」(フォレスト出版)を紹介したい。

森田洋之 さんのことは、ツイッターで知った。投稿におおいに共感したからである。

本を買う前に経歴を読み、惹かれるものがあった。

この本の背表紙で、この森田洋之氏が一橋大学経済学部を卒業してから、宮崎医科大学(国立)へ入りなおし、医師になったということを知る。

氏の出身の宮崎医科大学は、2003年に宮崎大学医学部に統合された。国立で授業料も安いのだろうが、林真理子の週刊誌小説「下流の宴」(2009年~)に宮崎大学医学部が出てくる。この小説は、自分は上流だと考えるある母親の、フリーターの息子とやはりフリーターのヒロインがつき合い始める話だ。母親は、このヒロインにさんざん冷たくあたるのだが、いろいろと苦難があって、ヒロインは医者を目指すことになる。そこへカリスマ塾講師が登場し、国立大の医学部の一番入りやすいところとして、宮崎大学医学部が出てくる。

また主の現役時代の経験談をすると、健康管理室という部署で勤務したことがある。その法人は、海外関係の仕事をしており、人員を多勢海外に派遣しており、産業医(顧問医)を何人も雇い、時に、医師を医療事情の良くない国へ出張させ、顧問医に現地の日本人関係者を診てもらっていた。そうした関係で、昼食を顧問医ととったり、出張もよく一緒に行き、医者の世界には、出身大学による強いヒエラルキーがあること、上の教授、助教授連中からみると、下の者はほぼ発言権がないことなどを、薄々感じた。

読みすすめると、やはり思ったとおり、この森田さんは、メジャーな医療、一般的に日本で行われている医療に幻滅し、標準治療からドロップアウトした医師だった。

まず、この著者が医師になった経緯を書くと、次のようなものだ。 一橋大学に在籍していたが勉強に身が入らず、ちょうど起こった阪神大震災のボランティア活動で、周囲の人たちに役立ったと思えたのが、きっかけのようだ。まじめなタイプなのだろう。普通に卒業する気になれず、再び学びなおして、赤ひげ先生のような世に役に立つ医者になろうと決心する。

宮崎大学を卒業し、地元で研修医を終了する。最初の2年間の初期研修で、内科、小児科、外科、産婦人科などを回り、のちの3年間の後期研修で、「認定内科医」を取得し、一人前の医師としてスタートする。

しかし、その内科医の後期研修中に、療養病院の大部屋に、ただただ天井を見つめたままの高齢者がずらっと並んで、胃ろうから栄養を入れられている日本の標準医療の光景を見たときに、学んできた医療技術や医療知識が「善」とは思えなくなってしまう。

徐々に日本の医療のあり方に懐疑心を抱いてた森田医師だが、やがて確信となり、彼は、ちょうど募集があった財政破綻で再建中の夕張市立診療所の医師に応募する。 誰もが知っているとおり、夕張市は財政破綻をして、他の市のような行政サービスを提供できず、病院も例外でなく、規模を大幅に縮小していた。しかし、この窮地にやってきた前任の医師、村上智彦医師は、標準的な病院医療に頼らず、予防医療や終末期医療に重点をおいた地域医療を実践、成果を上げているのを知ったからだ。

そこへ赴任した森田医師は、さまざまな目からウロコの経験をする。

夕張豊生会のHPから

病院がなくなってからの夕張を、素人の主は、大変だろうと思うのだが、実際は真逆のことが起こる。マスコミでは無視されているが、住民の健康レベルが以前より上がったのだ。こうしたことを発表すると嫌がられ、炎上したりすることもあったようだ。

  • ▶夕張市の総病床数が171床から19床に激減した。
  • ▶高齢化率は50%を超えた。(市としては、日本一)
  • ▶それにもかかわらず、夕張市民の総死亡率は変わらなかった。
  • ▶病死は減った。その代わり老衰死が増えた。
  • ▶救急出動が半減した。
  • ▶一人あたり高齢者医療費も減った。

つまり、端的に言ってしまえば、市民の意識が病院に頼るより、天命を受け入れるように徐々に変わってきた。おまけに、病院がなくなると、入院も減るのだが、死亡率は変わらないという、驚くべき変化が起きる。老人たちは、自然で幸福な死を迎える。本人も周りの家族もみんな生き生き。こういう種類の本で、主は、はじめて涙を流した。主は、自分の子供たちにもこの本を読まそうと思う。結局、死ぬ間際には医療がなければ、苦しまずに死ねる。世界中の人間は、そうして最近まで死んでいた。死ぬときは、一人で死んでも何の問題もない。それまで、元気なときに、他者と関係性がありさえすればばよい。

ところが現代では、医療無しで死のうとすると、周囲の家族たちの理解が必須だ。そうでなければ、救急車で運ばれ、医者たちの手でさまざまな延命措置が自動的に始まる。

もちろん、医療は若者や元気が残っている人には有効な場合が多いかもしれない。しかし、平均寿命に近いようなケースでは、余計なお世話だ。たしかに、骨折などの怪我や、心筋梗塞などのつまり物を取り出せば元気になるケースもあるので、一概に言えないし、また、何十年か後には、根本的に治療法が変わって200歳まで生きるのかもしれないが、少なくとも現状の延命措置は不要だ。

個人的な話になってしまうが、主が医療に疑問を持ったきっかけは、母が風呂場で倒れ、父が救急車を呼んだときに始まる。地元の高度医療ができる救急病院に運ばれ、認知症の父は頼りにならず、主は東京から新幹線で駆け付け、主治医と治療方針の相談をした。母は人工呼吸のマスクをつけられ、ほぼ意識がなかった。医師は、喉を切開して人工呼吸器をつけたいという。素人目にも、もしそうしても、元に戻るようには見えないし、医師も戻る可能性はゼロではないが、ほぼないと認める。それで、躊躇っていたのだが、医師は、「救急車で運ばれてきて、何もしないわけにはいかないんですよ。これだけはさせてください。」と懇願するようにいうのだ。

そうなのかよ、身勝手な話だなあと思うが、結局、ゆっくり考える暇もなく、家族全員が狼狽えていることもあり手術に同意する。その高度医療設備を整えたその救急病院には、次々と患者が運び込まれるので、1週間程度で退院させられ、長期療養病院へ転院した。そこの医師は、延命させるだけなら、様々な方法があると言う。濃い血液のようなものを注入すると何年も生きるという。勿論、回復するわけはない。 これでは、医者の儲けために、患者が生きているのも同然だ。

暗い話になってしまい、いつまで立っても、落ちないが、昔、人間は苦しむことなく死んでいた。なまじ、病院に行くと死なせてもらえない。・・・やっぱり、落ちないなあ!!

次回は、深沢七郎の映画にもなり、カンヌ映画祭でパルム・ドール最高賞を受賞した「楢山節考」という小説を取り上げよう。この小説は、単に、貧しいがゆえの悲しい小説ではない。死のうとする老婆の側に、家族に対する愛情と決意があり、家族にも深い愛情があるからこそ、長男が、母親の婆さんを背板に乗せ、泣きながら山へ捨てに行くのだ。 こんどは落ちたかな。

その3 おしまい

ナチュラルガットの寿命をのばす!! テニスガット用 潤滑剤 呉工業 ドライファストルブ

こんな風にガットがたわみませんか

(2022/8/18 追記)この潤滑剤ですが、寿命を延ばすということに焦点をあてて書いていますが、ボールを打った時に狙ったところへ飛ぶコントロールも良くなると思います。というのは、ボールを打った後に、写真のようにガットがたわんでいることがないでしょうか。もし、このようにたわんでしまうときは、ボールのコントロールが悪くなるように感じます。

つまり、潤滑剤を塗ることで一瞬ガットがたわむのですが、スピンが掛かってすぐに元に戻るようです。これがすぐに戻らないと、ボールが「どこへ飛ぶのやら、ボールに聞いて。」となるような気がします。

—————————-(ここから前に書いた記事です)—————————-

ナチュラルガットは、パワフルで弾きがよく、テンション維持性能が良いので基本的に切れるまで使える。おまけに、いちばん体への負担が少ないと、いいことずくめなのだが、値段が高くて切れやすいという最大の欠点がある。

このため主は、ナチュラルガットを切らずに、長く使える方法がないかと探してきた。ガットが切れる原因は、打球のたびに縦横のガットが摩擦で擦れ、その部分がやがて切断に至る。要するに、打ち方にもより、スピンをかけるようにこすり上げる撃ち方をして、テンションを上げ、ハードヒットするといちばん切れやすい。

GUTLIVEのHPから

これを緩和する製品がいろいろと市販されている。いちばん最後に写真をアップした。しかし、これらはテニス専用品なので、けっこう割高で、類似品を使っている人が口コミなどでおられることを知り、いまは下の汎用品にたどり着いた。汎用品であれば、もっと色々種類が売られている。別に主は、この会社の回し者ではないのだが、さしあたり、呉工業のフッ素樹脂配合のドライファストルブ(600円程度)という製品を使っている。

実際のラケット面への塗布方法だが、ラケット面の全体に向けて噴射すると、スプレーは、ほとんどがガットのない部分に噴射されてしまう。そこで、ガットの後ろに化粧品用のコットンパフを2枚重ねて、スプレーを受け止めるようにして、反対側から添付の細いストロー状のチューブを使って噴射している。 そうすると、余分な潤滑剤がコットンパフに吸い込まれ、再びこれをまんべんなくガットに塗ることが出来るので、無駄がない(と思われる)。

これを使ってまだ2週間ほどしか使っていないのだが、効果はかなり驚異的で、ナチュラルガットにほとんど劣化がない。ほぼ連日使っているのだが、張ったときの状態をキープしている!! この効用については、またレポートしたい。

こちらは、テニス用の市販品である。他にも色々売られている。下から、ガットライブ(3000円弱)。ストリンググライド(2000円弱)。プリンスのスピンプラス(3000円弱)である。(写真をクリックしてもらうと、よく分かると思います)値段も書いたとおり高いし、入っている容量も少ない。

主が実際に使ったのは、ガットライブなのだが、上部についているフッ素樹脂を塗る部分でガット表面を押さえると、液体がドバッと出て来て、液体の量をコントロールできず、すぐに使えなくなってしまった。 一方、ドライファストルブであれば、300ml入っていることもあり、結構な回数使える。

なお、プリンスのスピンプラスは、成分が水溶性シリコンと書かれており、シリコン製の汎用品も多数市販されている、こちらは、フッ素樹脂製よりも安く、約半分の値段で売られている。そのうち、こちらも試してみようと考えている。

ガットライブ
ストリンググライド
スピンプラス

もし、この記事が少しでも、テニスフリークのお役に立てれば嬉しい限りです。

——- 2021/7/8追記 ——-

フッ素樹脂を含んだ「ドライファストルブ」のあと、シリコン樹脂を使った同じく呉工業の「シリコンスプレー」を使ってみた。こちらはたっぷりと420ml入っていながら、約300円程度とさらに安い。

問題の使い勝手は、すこし、脂っぽい感じがするが、実用的に問題はない。

300円ほど

——- 2022/11/8追記 ——-

こちらの「シリコンスプレー」は、価格の点で安いのだが、「ドライファストルブ」に比べると、かなりべたつきがある。このため、ニューボールを使ってプレーすると、ボールが汚く汚れる場合がある。もし使うなら、十分に余分なべたつきを拭う必要がありそうだ。こうしてみると、「ドライファストルブ」の方が問題がないようである。

おしまい

医者たちの身勝手さ その2(まやかしの数字を使う)

今回のコロナ禍でも痛感するが、医療関係の表現は非常に紛らわしい。誤解を招くのが狙いとかしか思えない。例えば、・・・

報道では、たとえば「どこどこ(南アフリカ型)の変異ウイルスは、1.7倍の感染力がある」とかという表現がある。「2倍死ぬ」とかとの表現も一般になされる。このような表現をテレビなどで聞くと、「うわっ怖い!!」と素人が思うようにアナウンサーは喋っている。しかし、こうした表現には、非常なまやかしがある。つまり医療機関の発表する数字は、いつも変化率を言っており、母数を考慮から除外した表現である。

例えば、下の表は、新型コロナの今年3月23日現在の各国の感染者数と死者数である。これを見ると、何よりまず、日本が欧米と比べると何十分の1という、少ない数字でありながら、禄に金銭的な補償もしないまま、欧米と同じような制限を社会に加えているのには驚くが、それはここでは脇におく。

つまり、ここで言いたい何倍とかいう表現だが、表を見ると日本では100万人あたり感染者が3626.1人、死亡者が70.4人であるので、日本の人口を1億2千万人とすると、全体の感染者が、435,132人、死亡者が8,448人となる。 つまり、もし感染力が1.7倍になると、739,724人になるのだが、人口に対して0.36%の感染率だったものが、0.6%になるということだ。死亡率に至っては、0.007%が、仮に倍になったとしても0.014%になるという話だ。つまり、圧倒的にコロナにかかっていない人が大多数(99.5%)で、死ぬ人はさらに少ないと数字は語っている。 しかも、この死亡者数は、厚労省の通達が出ており、交通事故で死んだ人でも、がんで死んだ人でもPCR検査で陽性ならばコロナ死にカウントされ、相当水増しされている。 

おまけによく指摘されることだが、この感染者数は、PCR検査で、陽性になった者のことを指しており、健康で無症状の者が含まれている。しかし、この無症状者は、従来の概念では、治療の必要がないので感染者に含まれなかったものであり、除外するなら感染率はさらに下がる。

主が思うのは、このコロナの被害者の多くは既往症のある高齢者なので、この人達に重点をおいた対策をすべきだ。それも、隔離というようなQOLが下がる方法ではなく、屋外の公園を散歩するなど、免疫が上がるような配慮をすべきだ。そして、若者や健常者は通常通りの社会生活を認めるべきだ。そうでないなら、100%の生活保障を政府はまずするべきだ。

札幌医科大学医学部 附属フロンティア医学研究所 ゲノム医科学部門のHPから引用
札幌医科大学医学部 附属フロンティア医学研究所 ゲノム医科学部門のHPから引用

その2 おしまい その3へ続く

医者たちの身勝手さ その1

————– 2021.7.7 Rewrite ————

主は、多くの医者たちはとんでもない存在だと思っている。そして、「そうだ、自分もそうだ」と考える医者たちが確実に増えている。

主は、近藤誠さんを始めとするとする、日本の医療を激しく批判する著作をけっこうたくさん読んだ。この近藤さんに続く医者たちが増えているのは確実だ。

アマゾンから

もし興味をお持ちになられたなら、何といってもご自身のQOL(Quality of life = 生活の質)にかかわる大きな問題なので、是非読んで下さい。

穏やかな死に医療はいらない (朝日新書)」を書かれた萬田緑平さんは、在宅緩和ケア医として終末期医療に献身されている。その萬田さんが、現在のコロナ対策が間違っているという小林よしのり氏との「コロナ論2」の対談中次のように語っておられる。

小林よしのり「テレビにいい加減な学者ばかりが登場するわけだ・・・」

萬田緑平「医者だけではありません。感染症の専門家や研究者も『コロナは怖い』という空気を醸成するのに加担している。前にも述べたように、彼らにとって新型コロナは恐いウイルスでなければならない。普段、風邪の研究なんてまったく注目されず、脚光を浴びるのは死をもたらすがんなどの恐い病気の研究ばかり。死にそうな病気を治す研究でなければ、学者としてのステータスは上がらない。感染症の研究者にすれば、新型コロナが死をもたらすウイルスであった方が都合がいいんです。同じ理由で、コロナが恐いことを示す実験データしか表には出てきません。」

小林よしのり「私利私欲のために、こんなことをしているのか?」

萬田緑平というより、医者ってみんなすごく頑張るんですよ。世間の抱くイメージのように、頭が良いから医者になるわけではなく、頑張るから医者なんです。論文の執筆なんて本当に大変。僕はもう書きたくないけど(苦笑)。」

コロナ論2 扶桑社

主は、萬田さんの発言の趣旨とは少し違うが、こうして異常なほど頑張ってきた人たちにとって、無意識のうちに、犠牲にした対価を求めたくなるのが、自然のなりゆきだろうと思う。

同時に、これまで脚光を浴びることがなかった感染症医が、コロナで脚光を浴び、悪気なく異常にハッスルし、知らないことまで知っているかのように断言し、世間を余分に自粛させようとしているとよく指摘される。人間の性(さが)として、よく知っているつもりのことを問われると、自分を権威付け、必要以上の啓もうをしようとするということだ。

医者は、医者になるために、医者になってからも、大きな犠牲を払っている。医者になるために、小中高と青春時代に大きな犠牲を何年間も払い、暗黒の我慢の時期を過ごしている。また、医者になってからも、臨床医の中で、出身校や、外科か内科か、麻酔医か、街中の開業医か、大学病院の教授かといったヒエラルキー争い、論文競争がある。そういうずっと競争意識の中で人生を過ごすとどうなるか。ここには主の偏見やヒガミが大いに交じるが、その後の人生において、我慢に見合う対価を得られないと満足できない人間が出来あがる。少なくとも、周囲に対して威張り散らしても許されるという潜在意識ができる。

主は、医者ほどコミュニケーションが下手にもかかわらず、周囲から奉られている職業を知らない。

昔、産業医を契約していた大学病院の助教授の医師とよく話をする機会あった。この人と話していると、彼は、自分のことを「科学者」と考えていた。一般人から見ると、臨床医は「科学者」には入らないだろう。しかし、臨床医たちは「科学者である」と思っているし、町医者であれば「かつて科学者であった」と思っているのではないか。

そうした専門家を自認する傾向は、程度の差こそあれ、エリートと思っている弁護士、有名大学を出たキャリア官僚、ジャーナリストなどにも通ずるものがあるだろう。 

ところが、暗い時期を過ごして、医学部に入学し、医師になった時、あるいは、エリートの地位を獲得したとき、大いにはじけて成功を謳歌するものの、人間はそれほど単純ではない。仮に異性にモテたとしても、「それはぼくが医師だからだ、成功したからだ。彼女が、素の僕を好きになってくれた訳じゃない。地位がなくなったら、ぼくはない。」というひがみ根性は一生抜けない。日に影に姿を現して、彼を苦しめる。

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医療に対する批判本を大量に書かれている近藤誠医師によると、女性の乳がんのかなりの割合は「がんもどき」で、治療が必要ないという。

過去に、近藤医師は、少なくとも女性の乳がんについて、アメリカの論文を日本に紹介し、全摘手術をした場合と患部のみをとった場合で生存率に変わりがないとずっと言い続けていた。しかし、日本の執刀医たちは聞く耳を持たなかった。このため、治療法が14年間変わらず、女性の乳房が全摘され、おまけに胸筋まで切り取るので、腕も上がらくなり苦しんだ女性がずっと出続けた。要するに、執刀医たちが間違いを改めるためには、執刀医の世代交代が終わるまで、改まらなかった。

一方で、そうした暗い過去と現在を持つ異常なほど頑張る大半の医師たちは、患者にサディスティックな復讐をする。同級生が異性と楽しく遊んでいた時期に、「ネクラ」と陰口を叩かれながら勉強をつづけた彼、「がんもどき」など存在しないとする標準治療の僕(しもべ)の彼は、あいかわらず不要な乳房切除術に励む。乳房の切除は肉の部分を多少多めに取っても生死に影響しづらいので、よい練習台になる。切除した後は、再建術がセットになっており、医者は、不要で多額の出費を患者に強いることができる。 

また、高齢者の前立腺治療も、前立腺がんの進行が寿命と同じくらい遅いこと、排尿障害の懸念などを考えると、やらない方が良い。しかし、これに類することが日本の医療では横行している。 要は、医者は患者が死にさえしなければ、QOLより、患部を取りきることが大好きなのだ。

付け加えると、標準治療を謳う医師たちと近藤誠さんは、お互いにエビデンスを出せと言い合い、どちらも出せないジレンマの中にいる。つまり、がんの手術をした患者が、しなかった場合にどうなったかというエビデンスは、出しようがないからである。

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日本の医療システムは、健康保険制度がどんとあり、自由診療は美容整形や歯科治療などに限られ、自由診療だけでは医師が評価されないので、患者が集まらない。

ところが、この健康保険制度は、多くの患者を診察しないと儲からない仕組みになっており、医者の側は、常に多くの患者が必要である。さもなくば、高収入・安定収入は望めない。そのため、収入を上げやすい高齢者に必要以上の措置を施すことが、安定的に高収入を得るための方策になる。つまり、余命が尽きかかっている高齢患者に対して、胃ろうや人工呼吸、透析などの延命措置を行ない、長く治療するのである。患者の心臓は動いているのだが、寝たきりであり、QOLゼロである。日本人の8割が病院で亡くなるのだが、これは非常に痛ましい。日本の医療は、延命さえすれば成功と考えている。 ところが、海外では死ねば天国へ行くという宗教の教えがあることもあり、日本のような天国へ行くのを邪魔する延命治療は、海外では「虐待」になる。

分かりやすい現象が今年(2021年)見られた。日本の医療制度では、本人が3割負担するのだが、75歳以上はこれまで1割負担だった。これを政府は改正して、一定の収入がある場合2割負担にしたのだが、負担率の増加に医師会は、患者が病院に来なくなると言って反対したのである。 日本の健康保険制度は、皆保険といえば聞こえがいいが、医療費を支払う老人にすれば安すぎ、医療側のコストである診療報酬と薬価も異常な安価に設定されているために、需要と供給が歪んで、財政的にも、死生観的にも世界とかけ離れた老人医療問題を引き起こしている。

主は、延命を希望する老人は、10割負担にすべきだと思うし、コロナのテレビ報道を見ていると日本の老人は、自身の不死身を希望しているように見えてしまう。

ちょっと観点が変わるが、各地の自治体で行われている子供の医療費無料制度も同じである。補助金(助成)を広くあまねくばらまくと当然ながら医療のマーケットは歪み、医療産業の成長にも良くない。うまく、貧困家庭に限定するとか、無料にせずに少額の料金は取るべきである。

話を戻すと、老人医療にたいする反省は、一部の良心的な医師たちの発言と、医療費の異常な膨張の危惧により、徐々に白日のもとにさらされるようになってきた。もちろん、医療が人類に貢献したのは間違いないが、医療より食糧事情と衛生環境の改善や運動の導入の方が大きい。医療で成功したのは一部の感染症などに限定され、がんや糖尿病などの加齢現象は、病巣を取り除いても、すべての場合に有効ではない。むしろ、高齢者などに対しては、望まない治療をして延命させても、QOLゼロな治療に注力してきただけだと、医者自身がとうの昔に気付き始めている。そこで疑問を感じた良心的な医者たちが、大勢転向し始めている。 

コロナは、それを逆回転させて、医者のステータスを再度、上げようとする悪あがきだ。医者たちも、特に日本の医者たちは、生気のない老人をベットに横たえ、胃ろうや人工呼吸で生かしておくことが非人間的だと、疑問を感じだした。そこで、ウイルスによる新型コロナの登場により、この恐怖を煽ることで、医療に対するマインドを根本から変えさせ、ワクチンを毎年打たせ、違った活路を見出そうとしているように見える。

つまり、各国の権力者たちにとっても、1本5,000円と言われるワクチンを何十億人にも打つビジネスは、自国民を恐怖に陥れ、従順に接種させることが、医者たちの利害とも一致する。自国が、ワクチンを開発する側に回ろうが、購入する側に回ろうが、製薬会社が手にする何兆円もの利益のおこぼれにあずかれる。そのためには、怖いウイルスであると何かと都合がいい。

その1 おしまい その2へ続く