グレン・グールド 彼の性格

風変わりな性向には事欠かないカナダ人天才ピアニスト、グレン・グールド(1932-1982)の性格を考えてみたい。 最初に彼の性格を示すエピソードをいくつか書いてみよう。

子供時代は、学校で過ごすことが最悪だった。授業時間よりも、休み時間の方が耐えられなかったという。友達もなく、同級生たちと一緒に遊ぶということはなかった。ボールを投げられると手を守るために背中を向けたという。だが、徐々に、学校でもそのピアノの実力により一目置かれるようになる。いじめられるということもなくなってくる。

母親のフローラが潔癖症で心配性だった。ばい菌の感染を心配し、グレンを屋外で遊ばせたり、人ごみへ出そうとはしなかった。このため、グレン自身も早くから心気症で風邪薬や抗生物質を持ち歩くようになる。睡眠薬や向精神薬なども持ち歩き、あまりに大量の薬を携行しているためにカナダとアメリカの国境で没収されたこともある。

生涯、対面して話すことより、電話をかけることを好んだ。対面して話す場合は、相手の目を見ずに喋ったという。電話は、相手の迷惑を考えず深夜でもかけ、長電話だった。話の内容は、交互に話をするというよりも、グールドが思いついたことを一方的に話し続けていた。

グールドは、デビュー作のバッハ「ゴールドベルグ変奏曲」が発売される前の20才の頃、すでにピアノの恩師ゲレーロの元を出、両親と話し合って大学へ進学しないと決め、トロントから車で1時間ほど離れたシムコー湖の湖畔にある別荘で「弦楽四重奏曲作品1」を一人作曲していた。このリヒャルト・シュトラウスを思い起こさせ、現代的だがロマン派の香りが強く漂う、独特の大曲を2年かけて完成させた。彼は4つの音(C,D♭,G,A)が果てしなく展開するこの曲を書くのに非常に苦労し、一晩にわずか数小節しか出来ないこともあった。

このとき、グールドは7年上の恋人であるフラニー・バッチェンに毎夜、深夜に電話で作品の進み具合を嬉々として聞かせていた。グールドは、このころすでに昼夜逆転した生活を送っていたが、相手の都合を考えるという発想はなく、深夜の3時に長電話することも平気だった。フラニーもプロのピアニストを目指していたが、生活のために翌朝にはアルバイトへ出かけなければならなかった。このため、彼女にとって深夜の電話は負担となる。

映画「グレン・グールド天才ピアニストの愛と孤独」の中で、フラニーは2007年にインタヴューを受けている。この時、彼女は82歳なのだが、美人の面影がはっきりとある。(実際若い時代の写真を見るととても魅力的だ)彼女は、「グールドと結婚を考えましたか?」と問われ「もちろん」と即答している。だが、「グールドは、ある意味ロマンチストでしたが、社会性がなく一緒に暮らすのは困難でした」と語っている。(下の写真は、映画「グレン・グールド天才ピアニストの愛と孤独」のHPから)

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最も有名なエピソードが、「コンサートドロップアウト」だろう。1964年、彼が31歳の時に公開演奏からドロップアウトする。つまり、コンサートに出演しなくなる。コンサートピアニストとして名声が高まり絶頂にあったのだが、何年も前から引退を口にし、ツアーではキャンセル魔で有名だった。聴衆を、闘牛を見に来る観客に例え、『集団としての聴衆は悪だ』と言ったり、聴衆に拍手することを禁じる演奏会を開いたりしたこともあった。ドロップアウト後は、もっぱら、スタジオのみで録音・演奏するようになる。

彼は、父親が作った特製の低い椅子を使い続けた。その椅子がボロボロになり、座面がなくなって木組みだけになり、椅子の軋む音がレコードに入るようになっても生涯使い続けた。

彼は、両親にとって待望の子であり、一人っ子で、甘やかされ放題で育っていく。母フローラは、グレンが音楽で身を立て、彼の音楽を聴く人たちに良い影響が与えられるように常に願っていたが、時間が経つにつれ、これが実現するのを目の当たりにする。一方の父バートは毛皮商を手堅く営んでいたが、グレンが小学校に行く頃には動物愛護の精神から父親の仕事に反発していた。こうした影の薄い父バートに対し、父親代わりの存在となったのが、10歳から9年間ピアノを教えたチリ人ピアニストのゲレーロである。グールド家とゲレーロ家とは家族ぐるみでつきあった。

おそらく、グレンはフローラから正しい愛情を受けられなかった。大きな愛情が注がれたのは確実だが、同じ年齢の子供たちと遊ぶことや協調するということはなかったため、社会性が身に着かなかった。フローラ自身が10歳まではピアノを教えるのだが、それを過ぎると彼女の手に余ってしまい、ゲレーロを師として迎えた。これは、音楽の能力の成長には、必要なことであり大いに貢献したが、人間性の成長という意味では、ダメなものはダメと言われる経験がなく、いびつな人間が生まれたといっていいだろう。

ゲレーロは、グレンが全く他人の助言を受け付けず、君の弾き方は違う」と言われると憤慨してしまうので、グレンにピアノを教える時、自分でなんでも見つけさせるようにしむけていた。おかげでグレンは、フローラとゲレーロにピアノを教わったことを忘れて、生涯、「私は独学でピアノを覚えた」と言うようになる。

愛着(愛情)は、子供の成長に必須のもので、十分に正しく与えられれば安定したパーソナリティーが出来上がるのだが、その後は、甘えさせることだけではなく、甘やかしてはいけない時期が来る。この時期に、両親は甘やかしてしまったのだろう。このため、グールドは統制型の愛着障害パーソナリティを持ってしまった。この統制型の愛着障害というのは、何でも自分の思いどおりにならないと気が済まないというもので、親との愛着の不安定な子供が、4~6歳の頃から親をコントロールすることで自身の安定を得ようとする結果と考えられている。自信過剰で自己愛が強いナルシストとも、自分以外が見えず、対人関係を上手く築けない自閉症の一種であるアスペルガー症候群だったと云うこともできるだろう。

だが、彼は凡人とは違う。確かに社会性のなさや、人間関係を普通に築けなかったということはあるだろう。しかし、音楽の世界において凡人を超越していた。その性格がもとで、グレンの音楽性が常人とは違う、類を見ない領域へ達していたのは間違いない。何より、音楽の解釈において、既成概念にとらわれることなく自分自身の考えを透徹したところに、他のピアニストにはない独創性がある。

例えば、モーツアルトのピアノソナタでは、高音部の旋律だけでなく、低音部に音符を自ら加えて対旋律を強調しながら弾いている。また、過去に演奏されたスタイルと同じ録音をするなら意味がないと考えていたので、すべての曲が従来のスタイルとは全く異なった挑発的な演奏である。トルコ行進曲が付いているK331では、出だしをスタッカートでまるで近所の幼児がピアノを弾いているようなスタイルで始め、変奏の度に速度を上げ、アダージョの指定がある変奏をアレグレットで弾く。既成概念に挑戦した演奏と言っていいだろう。既存のクラシック界の常識に従うのではなく、グールドは、「作品と作曲家の内面に侵入し、その反対側に突き出た」「作曲者に対する共感を通り越し、作品を完全に乗っ取っていた」と映画「グレン・グールド/天才ピアニストの愛と孤独」でチェリストのフレッド・シェリーが語っているが、核心を衝いていると思う。

 

グレン・グールド ショパンとドビュッシー

カナダ人ピアニスト、グレン・グールド(1932-1982)は、没後33年経つのだが、正規録音78枚のすべてがリマスターされたCD、ハイレゾファイルLPレコードが、今秋、再発売されたりして人気が衰えない。

彼は、特にバッハにおいて絶対的な評価があるのだが、バッハの他にはベートーヴェンやモーツアルト、ハイドン、ヒンデミット、シェーンベルグ、ブラームス、シュトラウスなどを録音している。しかし、こうしたレパートリーの中には、ロマン派のショパンや印象派のドビュッシーなどの作曲家がほとんど入っていないことでも有名だ。一般的なピアニストのレパートリーには、少なくともショパン、ラフマニノフはかならず入っているだろう。

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こうしたショパンやドビュッシーを毛嫌いして弾かなかったグールドであるが、この二人の作曲家の1曲ずつが、レコードという形ではなく、CBC(カナダ放送協会)ラジオとテレビ向けに残している。1970年7月のラジオ放送でショパン「ピアノソナタ第3番ロ短調作品58」を、1974年2月のテレビ放送向けにドビュッシー「クラリネットとピアノのための第1狂詩曲」を残している。グールドは、1964年32歳の時に公開の場で観客に向けて演奏をしなくなり50歳で没するのだが、これらはコンサートドロップアウト後の38歳と42歳の時にラジオとテレビ向けに演奏したものだ。

下はYOUTUBEの二つの曲のリンクだ。ショパンの方は、演奏に合わせて楽譜が画面に表示され、リズムを崩さないのがよくわかる。

https://www.youtube.com/watch?v=arfYFtc7hlw (ショパン)https://www.youtube.com/watch?v=5btcgRcbZ4s (ドビュッシー)

いずれも、普通に演奏されるスタイルとは全く異なった、グールドらしい演奏を聴くことができる

ドビュッシーやショパンの演奏は、テンポを自由に変えながら、高音部のメロディーを陶然と歌わせるのが普通だ。左手は、あくまで伴奏であり強調しない。だが、グールドはテンポを崩さず一定のリズムを刻みながら右手と左手の旋律を同等に扱う。時に、低音部の伴奏の方が主役になる。正確なリズムは、行進曲を彷彿とさせる。

ドビュッシーの方は、クラリネットのジェームズ・キャンベルとの合奏であるが、他の奏者と比べると、主客が転倒している。クラリネットはひとつの旋律しか出せないが、息の続く限り同じ強さの音を長く出すことができる。音量もピアノより大きい。それにひきかえ、ピアノの音はすぐに減衰してしまう。YOUTUBEで見つけたほかの演奏では、クラリネットがはっきりと主で、ピアノは伴奏だ。ところが、グールドの演奏は、ピアノへの集中度が半端ではない。ピアノの存在感が違う。大きい。

だが、これら二つの演奏が成功しているかというと、グールド自身も認めているように甚だ疑問だ。

グールド研究の第一人者である宮澤淳一が、ショパン「ピアノソナタ第3番ロ短調作品58」が入ったCDのライナーノーツの中で、カナダ人音楽学者のケヴィン・バザーナの見解を次のように引用している。

「グールドがこれまでショパンを避けてきた大きな理由のひとつは、リズムに対する自分の考えがショパンにそぐわないという事実だった。ショパンの音楽はその場で自然にわき起こるものが、つまり自由なリズムやルバート(「自由な速度で」)が求められるのだが、これはリズムの継続性を強く好むグールドの姿勢は、個々の個所においても、楽曲の構造全体のレヴェルにおいても対立するのである。グールドが好むのはオーケストラを指揮するときのようなリズムの捉え方である。ほどんどのピアニストが、殊にロマン派の音楽において、リズムにおける自由をむさぼっているということをグールドは苦々しく思っていた。グールドは自分のピアノ演奏におけるリズムの哲学についてはっきり述べている。”指揮ができなければ、誤りである”と」

また、1981年のティム・ペイジとのインタヴューで、このショパンの演奏を「あまりうまくいかなかった。2度とショパンを弾く気にならない」と言ったと書かれている。

たしかに、グールドの演奏の特徴の一つは、リズムを自由に崩さないという点がある。複雑なポリフォニーをリズムを崩すことなく、まるでコンピューターのような正確なリズムで弾きとおすところに魅力がある。このリズム感に、リスナーはドライヴ感を感じる。

グールドは、楽曲の構造を明らかにすることを主眼に置き、ルバートすることで曲の構造が見えにくくなることを嫌ったのだろう。これは結局のところ、ロマン派の多くの音楽とは相容れないということを意味する。同時に、逆説的だが、グールド自身があまりにロマン派的人間のため、彼も同じように感情のままにリズムを崩し、あまりに強い主観の泥沼を人様に見せることは、選択として初めからなかったのではないかという気がする。

 

 

これだけ予測が外れても 浜矩子

written on 12.12.2015

経済学者たちの世界ほど、混沌としている分野は少ないだろう。人文科学は科学ではないのだろうか。

エコノミストと言われる人の中に浜矩子がいる。ウィキペディアによると一橋大学を卒業後、三菱総研に入社、今では同志社大学大学院教授である。次が、毎年の経済予測をした著作の題名である。(ウィキペディアには、「世界恐慌の予言を毎年行っている」と書かれている!)

  • 2011年 日本経済 ―ソブリン恐慌の年になる!
    • 2012年 資本主義経済大清算の年になる!
    • 2013年 世界経済総崩れの年になる!
    • 2014年 戦後最大級の経済危機がやって来る!
    • 2015年 日本経済 景気大失速の年になる!
    • 2016年 日本経済複合危機襲来の年になる!
浜矩子3年

以下は、2015年11月21日(土)浜矩子がゲスト出演した『田勢康弘の週刊ニュース新書』(テレビ東京)から。安倍晋三総理の経済政策「アベノミクス」を「アホノミクス」と批判し続ける“ブレない経済学者”である。

1万円

2016年の株価予想では、「1万円割れ」とボードを出しているが、去年も同じことを書いていた! 参考までに、今週末の株価は19,000円あたりである。この状況で、来年の株価を1万円割れとテレビで予想するのは、その根性に感服する。世界大戦が起こると考えているのかもしれない。

50yen

持論の「1ドル=50円」! この1ドル50円は、民主党政権の時に1ドル80円を切る円高が起こっており、大センセイは円高はさらに進行し50円になると予想していた。実際のマーケットは、2012年11月の衆議院解散後に安倍政権が登場し、金融緩和が行われ円安が進んだ。現在の水準は、1ドル122円ほどである。一時は、125円ほどの円安になっていたのだが、中国経済の懸念などで、リスクヘッジのために少し円が買われている。

アホノミクス(本)

この大センセイ、マスコミで結構もてはやされている。アホノミクスは、毎日新聞の連載記事だし、朝日系列、東洋経済などにも記事が載っている。

こういうことって、ありなのか?と正直思う。書いている本を実際に読んだわけではないのだが、おそらく経済を数学的に説明せずに、主観的な議論を展開しているだけだろう。マスコミが、こういう主張を喜んで取り上げるのは見識を疑う。

マスコミは、売れて読まれ(見られ)なければ始まらないということかも知れないが、何でも出せばいいというものではないだろう。受け手の側の多くが、その気になるのだから。

グールド ハイレゾFLAC リマスターCDよりいくぶん高音質!

リマスターされたCD版とこのUSB版の両方を購入したので、違いなど感想を書いてみよう。


CD版の方は、CD81枚と結構豪華な24cm×24cm大416ページのブックレット(ジャケット写真やライナーノーツ、グールドの写真、解説が入っている。こちらは、グールドとジョン・マックルーアやティム・ペイジとの対話CDなどが含まれており、USB版はCD78枚分と3枚分少ない。(どちらも「早期購入特典付き」のものには、日本語訳された曲目リストや解説が書かれた小冊子がついてくる)

USBピアノに象られた左の写真はUSBメモリーで、上の部分のキャップを外すとパソコンのUSBソケットに差し込むことが出来る。USBメモリーは容量が128GBあり、FLACファイルに約30GB、MP3ファイルに約10GB使われている。

 

ランチャー2それとは別にアプリケーションが入っている。アプリケーションソフトをインストールすると、左のような画面になり、CDの楽曲をパソコン上から選択し、CD版に付属するブックレットをアクロバットリーダーで読める機能もついている。パソコン上で好きな楽曲を再生しながら、解説書も参照でき、なかなか気が利いている。表示言語は英語のみ。物理的なCDと解説書を選ぶか、PCに入れたFLACファイルとPC画面で見るPDF、どちらを選択するかは好みの問題のように思う。

ただ、このソフトは常に全画面表示になるようで、パソコン上で他の作業をすることができない。この点は、使い勝手が悪い。(後程、PDFを表示させる際にタスクバーが現れることに気付き、他の作業をすることができると気付いた)もちろん、foobar2000などで直接FLACファイルを再生できるので、困るということはないが。

さて、肝心の音質であるが、FLACファイルとリマスターCDを比べると、若干、FLACファイルの方が音質は良いように感じる。今回のリマスターは、アナログマスターテープをまずDSDでリマスターしその上で、PCM方式の24bit 44.1KHzへとコンバートしてFLACファイルが作られている。CDの規格は、16bit 44.1KHzなので、大幅に違うとは言えないだろう。ダウンロードサイトの一般的なハイレゾ音源は、DSDを別にして24bit 192KHzというものが多い。それと比べると 16bit が 24bit になった8bit(256倍)の差というのは少し物足りない。とは言うものの、リマスターされる前に発売されたCDを再生するときの、多数の音が同時に発声される際の聞き苦しい混然とした歪感は、はっきりと改善されている。マスターテープに録音されている音が、余すことなく再現される。

しかし、いずれリマスターしたDSDのオリジナルデータが発売されるだろう。また、そうあってほしいものだ。

以下追記(2019/5/18)– 

PCで聴く時は、FLACをDAC経由で聴いており、CDを再生する時には、YAMAHA CD S-3000というプレイヤーで聴いているのだが、どちらも従来のCDより、ずっと良い音がする。これは、上にも書いたが、オリジナルのアナログテープをDSDでリマスターしているからだ。これをFLAC、CDへとダウンコンバートして、売られている。ダウンコンバートされたと言っても、もともとのアナログテープに入っていた内容は余すことなくデジタルでコピーされているということだ。

グールドが録音した時期は、LPレコードの時代で、LPレコードのマスターテープには音楽として十分な情報量が含まれているのだが、これをアナログのまま忠実に再生しようとすると、非常に高額なオーディを機器をそろえる必要があった。ところが、昔のアナログのマスターテープの録音は、最終的にCDの基準へとコンバートされ、気軽に WALKMAN や iPod などで良い音で聴けるようになったのだが、技術は進歩していて、古いものより新しい技術の方が、一般的に良いということだろう。

いずれにしても、DSDでリマスターしたそのものを、SACDなり、ハイレゾ音源として、SONYは発売して欲しい。

おしまい

 

 

 

スマホ 格安SIM(MVNO)契約

EXPERIA左は、ソニーのEXPERIA Z3。パプアニューギニアから日本へ帰国した後、ちょうど良い機会と考え、ガラケーから格安スマホに切り替えた。

きっかけは、大手キャリアのスマホは通信料だけで毎月5000円以上かかり、スマホ本体の支払いを入れると7000円以上になると知り、なんとかならないかとあれこれ考えた。

ネットで調べると、SIMフリーの開始が報道されていたが、結局、MVNOと白ロムのスマホ本体の組み合わせに行き着いた。(AEONなどのショッピングセンターやYAMADA電器などの大手電気店でも、格安SIMを使ったスマホを販売している。これとまったく同じなのだが、個人で好きなスマホを買った場合に、どうするかという観点で読んでもらえるとありがたい。)

http://kakuyasu-sim.jp/merit-and-demerit

詳しいことは、上のリンクを見てもらえるだろうか。似たような解説サイトや宣伝サイトはたくさんあるが、分かりやすい。

リンクの内容を引用しながらMVNOを解説すると、「読み方はエムブイエヌオー、英語だとMobile Virtual Network Operator、日本語だと仮想移動体通信事業者。何のことを言っているのかというと、格安SIMを提供している会社のことをMVNOといいます。例えばDMM mobileやIIJmioなどをMVNOといいます。MVNOは基本的にドコモの回線と設備を使って携帯電話サービスを提供しています。(auの回線を使っているMVNOも2つだけあります)」とある。

http://kakuyasu-sim.jp/shirorom

白ロムについての解説は、やはり同じサイトの上のページに詳しく書かれているが、簡単に言えば、大手キャリアが販売するもので、SIMフリースマホより安い。海外でSIMカードを購入して使う場合は、SIMフリースマホでないとならない。

要するに、従来の大手キャリア(こちらはMNOと略される。すなわちMobile Network Operator で Virtual がないであるドコモ、AU、ソフトバンクのスマホの契約内容は、制限のないフルスペックなものとなっている。言い換えると、通信量の少ない契約者が、通信量の多い契約者を支える料金体系になっている。また、キャリアを変える乗り換え割の財源を、キャリアを変えない契約者が負担しているということもある。

そんなこんなで、従量制の格安SIMに乗り換えることにした。参考までに、主の契約プランは、音声付き、3GB/月、1600円/月だ。以下は、具体的な手順である。

① 使いたいスマホの機種を決める。 スマホを選ぶ際には、格安SIMの会社(大手量販店の格安スマホもこのカテゴリーに入る)が販売しているスマホを選ぶか、好きな白ロムの本体をネットで買うかの2種類がある。格安SIMの会社が販売しているスマホは、全般に安い機種が多い。白ロムを通販で買う場合は、新しい機種や人気機種を選ぶことが可能だ。しかし、本当の最新機種、iPhone6s や Experia Z5 などの白ロムは、ある程度時間が経たないと購入できないようだ。また、白ロムを選択するときは、格安SIMの会社でそのスマホが対応しているか確認することが必要だ。のちのち、電話サポートなどを依頼するときなどに動作確認リストに入っていないと厄介だと思われる。

② 格安SIMの会社を選ぶ。 格安SIMの会社はたくさんある。同時に、調達するスマホ本体に合わせて、SIMのサイズを選ぶ。

③ 音声付きか、データのみのプランにするかを選ぶ。 音声なしを選ぶと電話番号をもらえず、インターネット電話(LINEやSKYPE)で済ませるというのであれば、その分安いプランを選べる。月あたりの通信量が問題となるが、動画をあまり見ずに、ネット、メールと電話くらいといった使用方法であれば、2GB/月でも十分だと思う。不自由を感じればプランを変更できるはずだ。

④ MNP(Mobile Number Portability)の手続きをする。 電話番号を変えない場合は、転出元のキャリアでMNPの手続きをして、番号を発行してもらう。この番号が③の申し込みの際に必要になる。量販店などでは、即日MNPできるようだ。

⑤ 電話帳や写真を移行する。 今は、ガラケーをスマホに機種変更する場合に、ショップは「データ移行は、個人情報保護法の制限があるので、自分でして下さい」と言うようだ。主は、ドコモショップに置いてある機械で、AUガラケーからスマホへ移行しようとしたところ文字化けしてしまい、しばらく使い勝手が悪かった。後で判明したのだが、AUのホームページにはデータ移行について書かれたページがあり、ソフトをPCへダウンロードして無事移行することが出来た。

⑥ その他必要条件など。 格安SIMの申し込みに、本人名義のクレジットカード、身分証が必要だ。白ロムを買う場合、スマホ以外にパソコンなどインターネット環境があると、トラブルなどの調べ物ができるので何かと便利だ。また、自宅にWIFI環境があれば、格安SIM会社との契約で安いプランを選べる。白ロムの場合、キャリアが販売元になるので、街角のドコモショップやAUショップで、初期不良や相談に乗ってくれる。

こうして考えると、すでにスマホをキャリアで契約している場合でも、格安SIMに切り替えれば、月々の使用料が安くなる。

安倍首相が9月11日の経済財政諮問会議において、携帯電話料金の引き下げを検討するよう指示したのだが、炯眼と言わねばならない。現在のキャリアの料金は、実に大きな矛盾をはらんでいるからだ。

 

 

 

 

 

SACDプレイヤー YAMAHA CD-S3000 vs 老人性難聴!

 

CD-S3000左の写真のSACD(Super Audio CD)プレイヤー、YAMAHA CD-S3000を主が買ったのは、半年ほど前だ。カナダ人ピアニスト、グレン・グールド(1932-1982)のSACDが10組ほど発売されており、それのみを聴くのが目的で、実際にそうしていたが、9月にソニーからグールドの生前の正規録音81枚がDSD方式(=Direct Stream Digital:後述)でリマスターされたCDセットが発売された。これをパソコンにリッピングせずに、そのままこのプレイヤーで再生すると、意外や意外、パソコンで再生するのと変わらず良い音で再生される。このSACDプレイヤーは約50万円する。やはり、このクラスになると原音に忠実ということなのだろう。こうした意外性は、安物のCDプレイヤーではあり得ないと思う。CDをリッピングしてパソコンへ取り込み、DAC(Digital to Analog Converter)経由で音を出すというPCオーディオの方が、安価で良い音が手に入ると思う。

 

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こちらが、部屋の装置の写真である。ラックの上段が、YAMAHA CD-S3000である。下段が、プリメインアンプのLUXMAN L-550AX。この二つは日本製だ。上面に乗っているのがDACのZODIAC GOLDと電源部のVOLTIKUSである。ホームページをみたらブルガリア製だった。右の黒い箱ははタワー型のファンレス自作パソコンである。上に載っているのは、SSDが刺さったストレージのアダプターだ。さらに右の背の高いのが、スピーカーB&WのCM8。こちらはイギリス製だ。

ここまでは、そこそこオーディオに凝っているという話である。

他方、人間の可聴帯域は20Hz~20000Hzとされているが、主は10年ほど前から常に、高音の耳鳴りがする。常にピーとかキーンとかいう高音が鳴っている。あまりにずっと鳴っているので、慣れてしまい、特に日常生活に不自由があるわけではない。

こうしたところ、2015年3月にNHKの「ためしてガッテン」で高齢者の耳鳴りについて放送があった。高齢者は加齢による難聴により、脳へと高音の情報が入ってこなくなり、それを補おうと脳が高音に対する感度(ボリューム)を上げ過ぎる、それがピーとかいう高音の耳鳴りの正体だそうだ。結論は、高音を強調する補聴器をつけることにより、脳がボリュームを上げることがなくなり、耳鳴りも消えるので、耳鼻科に行きましょうというものだった。

http://www9.nhk.or.jp/gatten/archives/P20150304.html

この番組を見て、耳鳴りの相談に耳鼻咽喉科へ行ってきた。医院で主の可聴範囲を調べたところ、高音部で8000HZあたりからグラフが下がってしまう。聞こえが悪くなっているのだ。自宅でも、YOUTUBEの可聴範囲を調べるサイトで試したところ、確かに8000Hzを超えると徐々に苦しくなり、12000Hzでとぎれとぎれになり、13000Hzから完全に何も聞こえなくなった。

こうなると、ハイレゾ(High-Resolution Audio=CDより高解像度なオーディオ)もへったくれもない、主の言うことには説得力がないと言われねばならない。

CDは、16bit 44.1KHzで、高音は22,000Hzまで出る規格だ。CDに対し、ハイレゾにはCDの方式を高規格化したPCM方式と、SACDに使われている録音方法であるDSD方式の2種類がある。PCMのハイレゾとしてよくある規格に24bit 192KHzというものがあり、CDと比べると1000倍(8bit(=24bit-16bit)×192/44.1≒256×4)のデータ量になる。データ量が多い分、良い音がするはずだ。

下が二つの方式の概念図である。上はPCM方式、下がDSD方式である。白い波型が音型で、これを再現するためにPCM方式は、均等なピッチで、緑のグラフの高さにより表現する。PCM方式のハイレゾの場合は、サンプリングの割合(頻度)が細かく(高く)なる。下の方のDSD方式は、波形をあらわすのに粗密で表現しているのがわかるだろうか。DSD方式の方が、人間の耳には自然に聞こえると言われている。

PCM-vs-DSD

出典: http://shobrighton.blog.jp/archives/35655302.html

年齢とともに高音の聴力は落ちるのは間違いがない。しかし、一番良い音は生演奏であり、順に、DSDのハイレゾ、PCMのハイレゾ、現在のCDの規格であると結論付けることはできる。音質は、高音だけで構成されるものではないからだ。

ただ、グレン・グールドの最初の録音は1955年で、今から60年も前であり、当時はモノラル録音だった。1958年頃からステレオ録音になるのだが、主がもっぱら考えているのは、これらを良い音で聴きたいということだ。最近の録音であれば、主は、YOUTUBEで聴く音楽でも十分に美しいと思っている。問題は、何といっても演奏の質だ。これに尽きる。

 

グールド リマスタード – The Complete Columbia Album Collection

今年9月11日、グレン・グールドのコロンビア時代の正規録音81枚のLPが、リマスターされ、CDで発売された。これが、実に素晴らしい音なのだ。同時に、1955年版と1982年版ゴールドベルグ変奏曲のレコード!が再発売された。また、12月にUSBメモリーに入った24bit、44.1KHzのハイレゾ・バージョンも発売される予定だ。

グールドが亡くなって33年が経つのだが、これらの発売は、彼の人気が如何に未だ衰えないかをよく表している。

このコレクションは、グールドがコロンビアマスターワークス(のちにCBSマスターワークス)に発売を許可した正規録音をすべて含んでいるグールドは、1955年1月のアメリカニューヨーク、タウンホールでのデビューの翌朝!に、コロンビアレコードの重役オッペンハイムに専属契約を申し込まれる。これに従い契約を結ぶのだが、生涯他のレコード会社へ移籍をしなかった。同年にバッハのゴールドベルグ変奏曲を初めて録音してから、2度目のゴールドベルグ変奏曲を再発売すると同時に亡くなる1982年まで、ずっとコロンビアからレコードが発売された。最初の5枚目までは、モノラルのLPレコードだった。若い人のために説明すると、当時のレコードは、直径が30cmの溝が切られた黒いLP(Long Play)と呼ばれる円盤で、ターンテーブル上を1分間に33回転し、レコード針がその溝を擦りながら音を拾い上げるというアナログな仕組みだった。録音技術は徐々に進歩し、6枚目からステレオで録音されるようになり、1980年以降の5枚は、現在のデジタルであるCD規格で録音された。

このリマスターは、レコードを製造するために使用した既存のアナログ・マスターテープを、現在のDSD(Direct Streaming Digital)というデジタル技術で置き換えるものだ。このデータをもとにCD規格に再変換している。同時にリマスターしたデータから、何とLPレコードでも発売された!!最近、先祖返りのブーム(懐古趣味)で、レコードが見直されているのは確かだが、新発売するというのは凄い。

このCD、ハイレゾUSBとアナログレコードの発売だが、前述したとおりアナログ・マスターテープをDSD方式でサンプリングしたものを使っている。DSDというのは、CDの高音質バージョンであるSACDプレイヤーで使われている録音方式だ。今では、この方式にもSACD以上の高品位規格があり、こちらはメディア(円盤)ではなく、インターネットのダウンロードにより、手に入れることになる。12月に発売されるUSBのハイレゾは、ハイレゾと言いながらCDの規格が16bitのところが24bitになっただけで、同じPCM規格であり、非常に良いというわけではない。ところが、DSDは録音方式自体がPCMとは違い、自然に近い音だと言われている。これの意味するところは、今回リマスターされたもっとも高音質なDSDのオリジナルデータは、まだ発売されていないということだ。こちらの発売もやがてあるだろう。早く売れっちゅうねん。

残念なのは、バッハのフーガの技法のピアノ版やイタリア協奏曲の新録音などが含まれていないこと。逆に、CDショップでは手に入らない「20世紀カナダの音楽」と題するモラヴェッツやエテュの作品、R.シュトラウスの≪朗読とピアノ伴奏のドラマ≫「イノック・アーデン」やヒンデミットの「金管とピアノのためのソナタ全集」などこれまで聴いたことがない曲を初めて知ることができた。これら正規レコード81枚分が、良い音で蘇ったというのは非常に大きい。どの曲を聴いても、素晴らしい。びっくりする。やはり、最低限この程度の音で聴かなくては良さが伝わらない。

下が、 CDで発売されたもの。24,000円。CD1枚あたり300円と考えるとバカ安だ。CD81枚だけでなく、24cm×24cm大の立派なブックレットがついており、当時のジャケット写真とライナーノーツと解説(すべて英語)が載っている。早期購入特典ありとなっているものには、日本語の小冊子がついている。また、初めて見るグールドの写真も多く、非常にお買い得だ。

グールドリマスター(CD)

こちらは、12月発売予定のUSBハイレゾ・バージョン。53,000円。FLAC形式のものとMP3形式のもの2種類が入っている。インタビュー3枚分が含まれていないので、78枚分ということになる。

グールドリマスター(USB)こちら2枚がアナログレコードで発売されたゴールドベルグ変奏曲。上が1955年、下が1982年盤である。あー、懐かしい! 昔は、30cm×30cm大のジャケットを眺めたり、ライナーノーツを読みながらレコードを聴いたものだ。(写真はいずれもアマゾンから)

ゴールドベルグ1955(LP)

ゴールドベルグ1981(LP)

 

 

 

テニスクラブ 老人の執念

主は、地元のテニスクラブでほぼ毎週末テニスをして過ごしている。下は、クラブのBBQ大会の様子である。

鷹の台

錦織圭の活躍によりテニス人気が復活し、テニススクールへ通う子供たちが増えた。テニススクールでは、錦織圭を目指す小学生たち、汗を流しにやってくる社会人や初心者の男女がおり、コーチも若い。

だが、テニスクラブは、スクールとは性格が違う。テニスというとシングルスを思い浮かべるかもしれないが、テニスクラブでは、一般的にはダブルスの試合を、朝から夕方までずっと、メンバーが入れ替わりつつ誰かがプレーしている。好きな時間にクラブへ出かけて、ちょうどその時間にいるメンバーとかわるがわる試合するのである。高齢化がはげしく、会員数も減っているので、近隣のテニスクラブが閉鎖し、残っているテニスクラブへと集約されている。

そうしたわけで、主がプレーするテニスクラブは会員の平均年齢は60代半ばというところだろう。若い人もいなくはないが、下が50台、一番多い層が60歳代、70歳代というところだろう。したがって、順番を待つベンチでする話は、病気の話、お墓の話、孫の話、そのあたりが中心である。

テニスクラブのメンバーは、みなテニス歴が異様に長い。テニス歴30年以上という人たちが多い。高度成長期の時代にテニスブームがあり、その頃にテニスを始めている。そして、大半は学生時代にテニス部に所属していたのではなく、社会人になって始めているので素人テニスである。しかし、石の上にも何十年も真剣に取り組んでいると、それなりに進化する。したがって、みな癖球を打つが、結構うまい。バックハンドは下手だが、フォアハンドは非常に上手とか、一人一人に得意技がある。おかげで、テニスサークルに所属する若者たちをやっつけたりする。このため、テニスクラブは、初心者にとって敷居の高いものとなり、新人がなかなか入ってこない。

高齢者のプレーは真剣だ。70歳近いのだから、枯れ果てて、勝敗にこだわらないテニスをすればよさそうなものだが、何歳になっても欲望はなくならないものらしい。負ければ悔しいし、勝てば嬉しい。この本能的なこだわりは、死ぬまで治らなそうだ。悟りの境地は遠い。

 

 

 

クラシックに狂気を聴け

主は、なぜクラシック音楽を聴くか? ほとんどカナダ人ピアニスト、グレン・グールドしか聴いていないが、クラシック音楽を聴いているという意識はない。貴族趣味でクラシックを聴いている意識はもちろんなく、単に音楽を聴いているという意識のみだ。なぜ、グールドのみを聴くかというのは、彼の音楽が、あらゆる音楽の中で最も刺激が強い考えているからだ。

ところで、ブログのタイトル「クラシックに狂気を聴け」は、森本恭正さんの「西洋音楽論」(光文社新書)の副題からとっているのだが、この本はさまざまな観点で示唆に富んでいる。森本さんは、1953年生まれの作曲家・指揮者でヨーロッパで活動されている。

ヨーロッパ音楽であるクラシックは、破壊と創造の超克の長い歴史があるが、今クラシックと呼ばれる音楽も、初演された当時は時代の先端を行くものだったはずだ。中世の音楽に始まり、ルネサンス、バロック、古典派、ロマン派、現代曲へと音楽史は進み、様式は進化していくのだが、その時々において最新曲だった。だが、古い様式が破壊され、新しい様式が創造されるにつれ、古い様式は「クラシック」になっていく。ロマン派には、シューベルトやシューマン、ブラームスなどがいるが、彼らはひとつ前の古典派のモーツアルトやベートーヴェンの音楽の様式を壊し、新しい様式を創造してきた。だが、このロマン派の作曲家は、シェーンベルグなど現代曲の作曲家に乗り越えられる。現代曲は、新しく12音音楽や無調の音楽となって久しい。

この過程を、進歩というのは間違いではない。だが、現代の作曲家にとって、すべて新しいことはやりつくされており、何をやっても新しいものがない、知っているという状況まで辿り着いてしまった。進歩の功罪は半ばし、現代の「クラシック」は停滞してしまい、黄昏ている。コンサート会場では、過去の遺物を繰り返すのみだ。

この本の中で作者の友人の著名ヴァイオリニストが、ブラームスのヴァイオリンコンチェルトを題材に、現代のクラシック音楽の置かれている現状を語るくだりがある。「・・・胸がどきどきして、息苦しく、思わず大きく深呼吸したくなる様な、あの、震える様な興奮を、私達はブラームスの音楽に忘れてきてしまったのではないでしょうか。否、ブラームスだけではありません。現代まで生き残ったクラシックの作品には恐らく、すべてあるのです。信じがたいようなあの興奮が。それらがすっかり忘れ去られて、クラシックといえば、敬老会の為の音楽のようになってしまった。・・・」

そうなのだ。今のクラシックは、本来のみずみずしさを失い、骨とう品を有難がっている敬老会のようなものだ。

森本さんは書いている。音楽史において、フランス革命以前、音楽は、一部貴族のものだった。だが、フランス革命後に女性を含む一般市民の手にも渡った。この端境期を生きた作曲家がベートーヴェンであり、「革命の中から生まれ、旧体制社会の決まり事の殻を叫びながら破いているのが、彼の音楽の本質」だという。ベートーヴェンに続くロマン派の作曲家たちの本質は、「狂気」だという。「今までの規範、世間の常識では計り知れないもの、人智の遠く及ばないもの、想像を超えるほどの狂気」である。ところが、現代の演奏家はこれを表現せず、敬老会の出し物へと骨抜きされている。

話が変わるが、すべての西洋音楽はアフタービート(一拍目に弱拍、二拍目に強拍がくる。ワンツーワンツーで、ツーが強い)だと言っている。一般にジャズやロックがアフタービートといわれるが、クラシックも弱強弱強のアフタービートだというのだ。「スウィングしないクラシックなんてありえない」。日本の音楽教育では、こういう風に教わらないのだが、クラシックもジャズやロック同様、アフタービートであり、これが曲進行の推進力になっているという。

同じようなことだが、ヴァイオリンの弓を例にあげて、すべてのヨーロッパ音楽は、音が出る一瞬前に弓が撓む(たわむ)瞬間があるという。弓を下げながら音を出す一瞬前に、弓を上にあげる動作があり、それを「撓む」というのだ。この一瞬の準備は、日本にはないという。日本では、動と静、或いは静から動への突然の移行がある。しかし、ヨーロッパ音楽では、このような突然の移行はないという。

2010年のショパンコンクールで、審査員が「アジア系の参加者の演奏は音楽を何も感じず、ただ上手に弾いているだけ。頭で考えるのでなく心で感じてほしい」と語った。このコンクールでは81人中17人が日本人で、アジア系といわれたのが誰のことか明白だ。こうしたことは、何十年も前からヨーロッパの音楽大学のレッスン室、演奏コンクールの審査員室で囁かれてきたのであるが、公式の場でとうとう言われてしまったということだ。

たしかに現代の演奏において、技術的なレベルや楽器の性能は高くなっているのだろう。オーケストラもピアニッシモではより繊細な音を出し、フォルテッシモでは爆発的に大きな音を出す。だが、何かがつまらない。オーケストラの団員の多くはあまりの大音響にさらされるため、耳栓をしながら演奏をしているという。きっと何かが、本末転倒している。

ところで、この本を読んで正しいクラシックの聴き方を教えられた。この本には、ロマン派の音楽を聴くなら、それ以降の音楽の存在を忘れることだと書かれている。バッハを聴くなら、モーツアルトやベートーベン以降の存在を忘れること、そうすることで「狂気」が見えてくる。「新発見」がある。

ちょうど今月、グレン・グールドのコロンビア時代(今はソニーレーベル)に出された81枚の正規録音がリマスターされ、発売された。グールドの没後33年にあたるが、人気ぶりがわかる。このリマスターはDSDでサンプリングされており、非常に高音質だ。これを良いステレオ装置を使い、良い音でじっと集中して聴くことだ。音楽に耳を澄ます、それ以外の作業は、勿論何をしてもだめだ。

ただし、グールドなら話は別かも知れない。グールドは「日常生活でも聖徳太子のようなアネクドート(逸話)が伝わっている。人と会話をしながらベートーヴェンの楽譜を勉強し、電話をしながら雑誌を熟読し、シェーンベルグの≪組曲作品23≫を譜読みしながらAMラジオでニュースを、FMラジオで音楽を聞くことができる、等々。」(グレン・グールド 青柳いづみこ)と書かれているくらいの対位法的(マルチタスク)人間なのだから。だが凡人には、主には、とうてい無理だ。

 

 

 

楢山節考 青酸カリを薬局で売る

もうそろそろ死にたい、と思っている年寄りは山のようにいる。ただ、死ぬのに痛い目をするとか、恐ろしい目にあいたくないという場合が多いのではないか。それでは、主は薬局で青酸カリを自殺用に売ればよいと考えていた。

ただし、これには自殺に見せかけて殺人をする輩がきっと出てくるだろう。そんなことが起こるようでは、青酸カリを薬局で売るわけにはいかない。ちょっと、乱暴すぎるか。

そのうちネットでググっていると、医師による安楽死を行っている国がいくつかあるようだ。スイスは、自殺ほう助が合法化されてから約40年という長い歴史を持ち、必ずしも医師でなくても自殺ほう助が可能だ。オランダ・ベルギー・ルクセンブルクは、医師による自殺ほう助と毒薬の投与が認められている。これを積極的安楽死というらしい。

一方、患者の苦痛を軽減する意味で延命措置を施さないというのが消極的安楽死というらしい。日本はといえば、現在は、医師が人工呼吸器を外すと刑事責任を問われたりする。これを見直そうという機運はあるようだが、弁護士会が反対しているとある。

時代劇、NHKの大河ドラマなどを見ていると、登場人物があっけなく死んでいく。侍は戦闘で討ち死にをするし、そうでなくても50歳くらいになると病死する。当時、「責任を取る」ということはハラを切るか斬首されるかを意味していた。今との対比でいうと、実に潔い。

主は1954年に発表された深沢七郎の「楢山節考」を、ふと思いだした。「楢山節考」は、2回映画化され、2回目の映画化である1983年のカンヌ国際映画祭にてパルム・ドール(最高賞)を受賞している。ある種普遍的なテーマなのだろう。

楢山節考

この小説では、口減らしのため70才になる寒村の老人が山へ捨てられる、という厳しい掟(棄老)が描かれている。他にも哀しい現実が全編に残酷なまでに描かれているのだが、登場人物は、掟に抗うことなく淡々と定めを受け入れているところが印象深い。今と当時は時代が違い経済状況が劇的に良くなったとはいえ、歴史の上でたかだか半世紀ほどしか経っておらず、日本人のDNAには貧困の記憶がまだ残っている気がする。

アマゾンのこの本の紹介文には次のように書かれている。ーーお姥捨てるか裏山へ、裏じゃ蟹でも這って来る。雪の楢山へ欣然と死に赴く老母おりんを、孝行息子辰平は胸のはりさける思いで背板に乗せて捨てにゆく。残酷であってもそれは貧しい部落の掟なのだ―因習に閉ざされた棄老伝説を、近代的な小説にまで昇華させた『楢山節考』。。

 今は、違う。食糧事情も医療事情も昔とは比較にならないくらい改善した。だが、一部では、貧困の果ての老老介護殺人や子の親殺しなど悲惨な現実もありながら、姥捨てすることは許されず、つらさがさらに厳しいものになっている。

もちろん、誰しも生きたいだけ生きればよいと思う。しかし、憲法で謳われている健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を政府が保障しているとは思えないし、それは別にしても、死ぬ自由も与えるべきだと思う。