第17章 グールドが小澤征爾とトロントで会う

小澤征爾(Wikipedia1963年)
武満徹(Wikipedia)

グールドは、クラシック音楽界の伝統にはずれた奇抜なことを言い、重鎮たちが認めたがらない演奏をした。しかし、生み出された音楽の本質的な部分は、伝統にのっとったひじょうにオーソドックスなものであり、誰もが納得し共感できる種類の音楽だった。

同様に小澤征爾も、語り口は穏やかでノーマルな紳士だが、彼がやることは、音楽においても私生活においても、フロンティアをつき進む破天荒な冒険者である。

小澤征爾の生い立ち

1935年、小澤征爾は歯科医の父のもと、中国、満州の奉天(現、瀋陽)で男4人兄弟の3男として生まれた。グールドより3歳若い。父は歯科医だったが、政治にのめり込み、事業に失敗し貧しかった一方で、政治家や経済界にも知己が多かった。彼が音楽に初めて接したのは、小学校4年のときにピアノに触れたのが最初で、ピアニストを目指していた。ところが、野球とラグビーをずっと続けていた彼は、中学3年のときにラグビーで両手の人差し指を骨折した。これが原因で、ピアニストはあきらめ、指揮者をめざすようになった[1]

クラシック音楽をやるには外国へ行くしかないと考えた小澤は、外国へ行くその前になんどか苦杯を舐めていた。桐朋音楽短大の同窓生が音楽留学につぎつぎと渡欧するなか、彼は羽田空港で仲間を見送るばかりで、その中には、のちに結婚する江戸京子もいた。そして、迎えた卒業式では、単位不足を知らずにいて、卒業ができず留年をしてしまった。そのあとフランス政府給費留学性に応募するが、友人は合格し、彼は不合格になった。その友人は、パリ国立高等音楽院、コンセルバトワール[2]へ入学した。

23歳の小澤は、とにかくクラシック音楽の本場であるヨーロッパへ行くしかないと考えた。だが、小澤家には3男の彼を渡航させる余裕がなかった。

落ち込んでいる彼を見て、声をかけてきた女子学生に悩みを打ち明けたところ、彼女は父に相談してみたらと言った。彼女の父は、日本フィルハーモニー交響楽団の設立に尽力し、クラシック音楽に理解のあるサンケイ新聞社長の水野茂夫だった。この水野が50万円の資金援助をしてくれた。50万円は、当時の平均的な日本人の給料の額の約2年分の額だった。

また、小澤は、三井不動産社長で江戸京子の父の江戸英雄に前から世話になっていた。江戸英雄は、妻がピアニスでありト、長女の江戸京子もピアニストを目指していた。彼は、旧三井財閥の実力者であり、世話好きで誰であれ分け隔てなく接し、独自の人脈をつくっていた。そうした彼は、桐朋音楽学校の設立に尽力していたので、遠方から通学する小澤を自宅に住まわせて面倒を見ていた。小澤はのちに、京子と結婚するが、江戸は、「京子は、強い性格で個性が強烈だから」とこの結婚にずっと反対していた。

江戸の手配で、小澤は渡欧するのにフランスのマルセイユへ向う貨物船に乗せてもらえることになった。彼は、フランスへ着いたあとの移動のために、日本製品の宣伝になると言ってスクーターの提供を自動車会社に片っ端から電話をかけて依頼をした。かいあって、富士重工業製の125CCのスクーターを手に入れた。

1959年3月、約2ヶ月の航海ののち、マルセイユ港に着くと、約束どおりヘルメットに日の丸をえがき調達したスクーターに乗り、音楽家とわかるようにギターを担ぎパリへ向かった。そして、さきに留学していた江戸京子と合流した。江戸英雄は、小澤を指揮者としてデビューできるまで援助していた。

京子からブザンソン国際指揮者コンクールが開かれると聞き出場した小澤は、みごとに優勝した。コンクールの会場に来ていた彼女に通訳を頼み、小澤は、打ち上げのパーティーに来ていた世界屈指の大指揮者のシャルル・ミンシュ[3]に「弟子にしてください。」と申し出た。

小澤は、コンクールで審査員をしていたミンシュが指揮するベルリオーズの『幻想交響曲』を聴き、「こんな指揮者がいるなんて信じられない。長い指揮棒でもって、魔法をかけられたようだ。どうしたらあんなみずみずしい音楽がうまれるのだろう。」と感動で、居てもたっても居られなくなったからだった。

ミンシュに、「弟子は取らない。そんな時間はない。」と言われたが、ミンシュは「来年の夏にタングルウッドに来るなら教えてもいい。」と付け加えてくれた。

1960年7月、タングルウッド音楽祭[4]でもミンシュの指導を受けられるのは3名だけの狭き門だった。しかし、小澤はオーディションを見事に1位で通過したうえ、最優秀賞の「クーセヴィッキー大賞」を受賞した。この賞は、過去にレナード・バーンスタインやクラウディオ・アバドも受賞していた。この音楽会には、アメリカの批評家ハロルド・ショーンバーグがいて、小澤をニューヨーク・タイムズで激賞する記事を書いた。

ハロルド・ショーンバーグは、グールドのバーンスタインとブラームスのピアノ協奏曲第1番の遅い速度の演奏を酷評したニューヨーク・タイムズの音楽批評家[5]である。こうした批評家たちの非難がグールドのコンサートのドロップ・アウトを後押ししたのは間違いない。

「クーセヴィッキー大賞」大賞の受賞を勧めたのは、シャルル・ミンシュ、クーセヴィッキー夫人とアーロン・コープランド[6]らで、小澤は、クーセヴィッキー夫人、ハロルド・ショーンバーグにその後の進路として、ニューヨーク・フィルハーモニーのバーンスタインの副指揮者になるのが良いだろうと勧められた。

小澤征爾は、すぐに、9月に、カラヤンが主宰する弟子をとるためのコンクールへ出るため、パリを経由してベルリンへ向かった。カラヤンは、半年間に、1ケ月に1週間ほどのペースで弟子を指導していた。彼はこれにも合格し、3週間パリで働き、1週間ベルリンでカラヤンの指導を受けるという生活をはじめた。

ちょうどそのベルリンに、バーンスタインが指揮するニューヨーク・フィルハーモニーが演奏会のために来ていた。小澤は、レセプションに出席した。バーンスタインは小澤征爾をすでに評価し副指揮者に雇おうとしていた。10人ほどの審査委員の面々から面接のようなものを、ストリップショーをやっている「リフィフィ」という妖しげなバーで受けた。英語ができない小澤だったが、採用を知らせる手紙が届いた。ニューヨーク・フィルハーモニーの副指揮者の初認給は、週100ドル[7](月400ドルは、日本人の平均的給与の8.5か月分)だった。

小澤は、長年海外生活を送ってきたが、語学を上達しようとはしなかった。肝心なことは音楽と指揮であり、結果を残すことだと考えていた。そんな彼は、指揮者でありながら演奏会後のパーティーにほとんど出席せず、朝早く起きて、ひとりでレコードを聴いたりスコアを読む生活をつづけた。こうして無名だった日本人青年は、1960年の7月から9月までのわずか3か月の間に、ミンシュ、カラヤン、バーンスタインと3人の大指揮者のセレクションに合格し、弟子となった。

1961年3月、小澤征爾は、ニューヨーク・フィルハーモニーの副指揮者になるためにアメリカへ向かい、さっそく翌4月に、ニューヨーク・フィルハーモニーの初来日にあわせて凱旋帰国した。飛行機が羽田空港に着きハッチが開いたときに、彼は真っ先に降りるようにタラップへ押し出され、バーンスタインは、小澤と肩を組み、親密ぶりを印象づけた。

日経新聞から

小澤は、バーンスタインの副指揮者を1年間だけで辞めた。副指揮者は英語では、アシスタント・コンダクターだが、アシスタント・コンダクターは4人いた。バーンスタインがミトロプーロス[8]の下で長く副指揮者をしなかったように、彼も、いつまでも副指揮者でいるつもりはなかった。1962年6月から、NHK交響楽団の指揮者になることがすでに決まっていた。

1962年1月、小澤征爾と江戸京子のふたりは作家の井上靖が媒酌人をつとめ、首相である池田勇人も出席する盛大な結婚式をあげた。このとき、小澤は日本へ戻るつもりをしていた。結婚で、週給が150ドルに上がった。

「N響事件」

27歳の小澤征爾は、バーンスタインの副指揮者をやめ、1962年6月にNHK交響楽団の指揮者になった。このとき「N響事件」がおこった。

ミンシュに始まり、バーンスタインとカラヤンに認められ、指揮者としての出世街道を驀進してきた小澤はまず世界で認められた。NHK交響楽団の団員たちの多くは、国立の東京芸術大学の出身者が多く、彼の出身校の私学の桐朋学園は設立されたばかりで、彼を見下す風潮があった。若い彼を見る日本の演奏家のうちには、(ねた)みや嫉妬がかくれていた。

NHK交響楽団の常任指揮者でないとはいえ、このとき常任指揮者の席は空席だった。彼は、東京で指揮するだけでなく、夏は北海道、香港、シンガポール、クアラルンプール、マニラ、沖縄でも公演した。この間に、メシアン[9]の全部で10楽章もあり長く難しく、ジャンルを超えた現代曲の大曲である「トゥーランガリラ交響曲」[10]を日本初演するなど意欲的に取り組んだ。練習には、メシアン自身も立ち合いみっちり練習し、初演は成功した。ところが、この海外公演のあたりから、団員たちとの関係がぎくしゃくしてきた。

小澤は、「N饗で僕が、メシアンの『トゥーランガリラ交響曲』を初演指揮した。それ以来、おかげで、おれは苦労している。(笑)」[11]」とのちに語った。

小澤は、自著に「おわらない音楽」に、団員がボイコットした経緯を書いている。フィリピンでベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番を演奏したときに、ピアニストがカデンツァ[12]を弾いている途中でうっかり指揮棒をあげてしまうミスをした。終演後に、年配の団員から「おまえやめてくれよ。みっともないから。」とクソミソに言われた。小澤は、「申し訳ありません。」と平謝りするしかなかった。さらに「ブラームスもチャイコフスキーも交響曲を指揮するのは初めて。必死に勉強したけど、練習でぎこちないこともあっただろう。オーケストラには気の毒だった。」と書いた。

ニューヨーク・フィルハーモニーの上層部が来日したとき、音楽会の前日に赤坂のナイトクラブに呼ばれた。小澤は誘いを断れずにそこへ行き、朝の6時半まで飲んで、翌日の練習に遅刻した。

こうした小澤への嫉妬に加え、遅刻したとかのささいなミスが重なり、さらに11月の定期公演が失敗したときに、団員たちが「今後一切小澤の指揮する演奏には協力しない」とボイコットを表明した。彼らは、小澤がいかに無礼か、音楽の伝統を知らないかとマスコミに吹聴した。マスコミは、「海外で賞を取り、チヤホヤされて増長した困った若者」という論調で小澤を揶揄した。

NHK交響楽団側が「協力しない」という内容証明を送ったことに対し、小澤は契約不履行と名誉棄損の訴訟を起こした。事態は泥沼化の様相を呈しはじめた。

日本では若いという理由で、海外で評価された若者を正当に評価しない風潮に対し、危機感をいだいた同世代の演出家、浅利慶太と作家、石原慎太郎がたちあがった。

小澤は、楽団員がすわる椅子と譜面台が並んだだれもいないステージの指揮台で、楽団員を待っていた。その姿を、浅利と石原から連絡を受けた報道陣が写真を撮り、「天才は一人ぼっち」、「指揮台にポツン」などの見出しで報じた。これが功を奏して、世論は 《若き天才》 VS 《権威主義で意地のわるい狭量な楽団員》 の構図へいっきにかわった。

この事件は、他の若い文化人にとっても他人事ではなかった。いつまでも居座わりつづけ、力をにぎる権力者たちとの世代間闘争になった。三島由紀夫、谷川俊太郎、大江健三郎、團伊玖磨、黛敏郎、武満徹など、日本を代表する錚々たる作家や詩人、作曲家がくわわった。最終的に、吉田秀和、黛敏郎らの仲介で、小澤はNHK交響楽団と和解したが、その内容は訴訟を取り下げるだけのもので、NHK交響楽団に復帰するものではなかった。

小澤征爾は頭を下げるつもりも、もう日本へ戻るつもりもなかった。この事件を契機に日本で指揮をする気が失せてしまった。

小澤征爾は、1984年に武満徹と対談した「音楽」で、楽団員と対比しながら指揮のことを語っている。[13]

小澤  「シャルル・ミンシュは天才だね。オーケストラを雰囲気で弾かしちゃうんだよ。酔っぱらっているような足どりで出ていってね、サーっと振る。その瞬間にもう完全に彼がオーケストラの主役なわけ。これは実は大変なことだよ。楽員の海千山千が百人ですからね。海千山千と言っちゃ悪いけど、ほんとうにそうなんだから。オーケストラの人は、生涯それでめしを食っているんだから。・・・・僕などは、ああやってもだめ、こうやってもだめ、いくら細かく振っても音や志が伝わらない時がある。(笑)ミンシュの技は、神技か天才だね。・・・・だけど斎藤先生[14]は、どちらかというと天才型じゃない、努力型なんですよ。僕は斎藤先生の伝統を完全に受け継いでいるから、きょうだって、半日声からして、弟子を教えているわけだね。・・・・僕の教え方は、結局斎藤先生から教わったとおりなのね。斎藤先生の方法は、底辺の、オーケストラで、だめなオーケストラを指揮する時のメソードなわけだよ。」

・・・・

武満  「指揮者というよりもトレーナーだね。」

小澤  「そうするとね、この方法はいいオーケストラでは、時には、むしろむだなのよ。だけど僕はおかげさまで、いろんなオーケストラを経験しているから、その区別だけはつくようになってきた。」

武満  「いつごろから。」

小澤 「5,6年前かな。そうするとね、― いいオーケストラ今度日本に来る前にベルリンに行ってたんだけれども― ベルリン・フィルの最初の練習では、斎藤方式をちょっと使うんだけれど、あとは音楽だけで指揮をする。音が合わないと、向こうが悪いという顔をしている。すると、音が自然と合ってくる。これは少しミンシュ的なわけだけど。斎藤方式考え方は、合わなかったら自分の指揮が悪いわけだ。この違いが5,6年前からようやく分かるようになってきたんだけど、その差はとても危険だけど大きいよ。オーケストラの呼吸を見抜き、その瀬戸際を歩く。」

武満 「名人の域に達したわけだ。すなわち、名人は(あや)うきにあそぶ。」

小澤 「いや、名人の域じゃない。瀬戸際に達しただけだ。ただこの違いは年期がたたないとわからない。20年前だったらその瀬戸際から落ちてそのまま死んでしまうわけだ。N饗みたいにボイコットされて、はい「さようなら」というわけだ。自分のオーケストラの場合は、おっこちてもまた戻れるけど、人のオーケストラの場合は、おっこちない方がよいから、落ちないようにしている。・・・・ベルリン・フィルでかれこれ17,8年になるから、・・・それだけ長くつき合っていると、もうおっこちたっていいわけよ。・・・・かえってうまく鳴るんだ。日本では新日フィル。アメリカじゃ、もちろんボストン・シンフォニーね。1年に何回もおっこちている。でもみんな、『あ、セイジ、またおっこった。』と見てるけど、なんとかはい上がって出来るわけ。やはり指揮という商売は傍目にみたほど楽じゃないよ。海千山千を相手に、他流試合みたいな、生きるか死ぬかを年中やっているんだから。」

・・・・

武満 「ただ、あなたが昔から変わらないのは、ほんとうに音楽に没入することだね。

・・・・

小澤 「あなたは没入というけれども、音楽は集中しかないということを(僕が丁稚をしていた斎藤先生は)しょっちゅう言っていたものね。それは音楽だけじゃないんだって。パーフォーマンサーというのは芝居とかバレエとかスポーツとかは全部ですって。ある決定的瞬間に集中できない奴はだめだというんです。・・・・カラヤン先生は内的で、『セイジ! 振りすぎる。棒なんかどうでもいい、流れがあればいい。精神が終わりまで持続すればいい。じーいっと立っていればいい』、そういう禅問答みたいなことを半年間ぐらいやられたいんだよ。・・・・そして演奏を盛り上がらせるには、演奏家の立場よりも聴衆の心理状態になれ、理性的に少しずつ盛り上げてゆき、最後の土壇場に来たら、全精神と肉体をぶっつけろ!そうすれば客もオーケストラも自分自身も満足する、ということを教えられた。・・・・ミンシュ先生からは、練習では何も注意されなかったけど、『スーブル、スーブル、力を抜け、頭の力も体の力も手の力も全部抜け!』と言われたのを覚えている。シャルル・ミンシュの指揮はファンタスティックな天才的な神技で、カラヤンの指揮棒は観客をあっという間に引きつける魔法の杖だった。だから僕は本当に幸運だった。」

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彼は、NHK交響楽団と分かれた後、まえとおなじように、世界を飛びまわりつづけた。のちに、交響楽だけではなくオペラの分野にまで成功を広げた。もしこのとき楽団に頭を下げていたら、彼の成功はなかっただろう。しかし、このトラブルの後アメリカに戻った小澤は、時間が過ぎるばかりで仕事がなかった。

1963年6月、代役で出たラヴィニア音楽祭でシカゴ交響楽団とのはじめての共演が大成功し、小澤は、翌年のラヴィニア音楽祭の音楽監督の地位を獲得した。この時に、小澤は武満徹の「弦楽のためのレクイエム」を演奏した。この曲は、ストラヴィンスキーが激賞した曲だった。

小澤は、武満徹の曲を積極的に取り上げ、レパートリーの柱にした。武満は、琵琶と尺八をオーケストラのソリストにした代表作「ノヴェンバー・ステップス」などの名作を発表し、相乗効果があった。

小澤征爾、武満徹、バーンスタイン 日経新聞から

10月に、東京・日比谷に日生劇場が開場し、(こけら)落としにベルリン・ドイツ・オペラ[15]の引っ越し公演でカール・ベーム[16]とロリン・マゼール[17]が指揮をしてオペラを上演した。小澤も呼ばれて、武満の「弦楽のためのレクイエム」、ビゼーの交響曲、ブラームスの交響曲第2番を指揮した。

このあとも小澤は、日本へNHK交響楽団以外の仕事で日本に帰ってくるが、拠点を北米大陸においた。

1964年1月、29歳の小澤征爾はトロント交響楽団と、やはり武満徹の「弦楽のためのレクイエム」をいれたプログラムでカナダ・デビューをした。その演奏はカーテンコールが15分間もつづき、伝説の大成功[18]になった。グールドは、この武満の初期の代表作をストラヴィンスキーが激賞した[19][20]ことを知っていたから、映画「砂の女」を見たときに、武満が音楽を担当しているとすぐにわかった。

このときの成功は、華々しいものだった。モントリオール交響楽団に24歳のインド人、ズービン・メータがなり、積極的な展開で楽団が活性化していたことが背景にあり、チェコ人のワルター・ジュスキント[21]が9年間務めていたトロント交響楽団の常任指揮者は、1965年9月のシーズンから、小澤征爾が後任になることがきまった。

その交代を実現させたのは、グールドのマネージャー、ウォルター・ホンバーガーだった。1962年に、ホンバーガーはトロント交響楽団の専務理事になっていた。観客動員数を増やそうとしていた彼は、ラヴィニア音楽祭で指揮する小澤征爾を聴き、実力をよく知っていたから、小澤征爾のマネージャーのウィルフォード[22]にトロント交響楽団への就任を打診していた。

Toronto Star 5/8/1987

小澤征爾が、師匠のバーンスタインにトロント交響楽団の常任指揮者に就任すると最初に説明したとき、当時はこの楽団はさほど有名でなかった。このため、バーンスタインは、「セイジはニューヨークにいて、良いオーケストラだけを指揮するべきだ。」と難色をしめした。しかし、小澤は「いや、今の僕にはレパートリーを作ることが必要なんだ。」と必死になって説得した。

小澤征爾はが、トロントについてしばらくたったとき、父母をトロントへ招待した。すると父親が、「ベトナム戦争をやめさせねばならん。二度と東洋人同士を戦わせてはいかん。アメリカにも行って、一番話がつうじそうなロバート・ケネディに俺の意見を伝えたい。」と言い出した。ロバート・ケネディは、元アメリカ大統領、故ジョン・F・ケネディの弟で上院議員だった。

(ロバート・ケネディ Wikipediaから)

結局、小澤征爾の友人で演出家の浅利慶太が、自民党の衆議院議員、中曽根康弘[23]を紹介してくれた。中曽根康弘がロバート・ケネディへ渡す紹介状を書き、ワシントンでの面会が実現した。小澤の父の主張は、「日中戦争の経緯に照らしても、民衆を敵にしてしまったこの戦争は勝てない。アメリカは武力で勝とうとするのではなくて、発電や土木の技術とか、文明の面で優れているところを共産主義国に見せるべきだ」というものだった。ロバート・ケネディは、予定時間をオーバーしても面会を切り上げようとせず、手応えに父親は喜んだ。

江戸京子との離婚 「おわらない音楽」と「週刊新潮」

小澤征爾は、トロントで精力的に武満徹の曲を取り上げ、その演奏は高い評価を得た一方で、カナダでの江戸京子との私生活は、すぐにうまく行かなくなった。

小澤征爾は自著「おわらない音楽 私の履歴書[24]」で次のように書いている。

「トロントでの仕事はまずまずだったが、私生活は立ちゆかなくなっていた。結婚した江戸京子ちゃんはピアニスト。どちらかが音楽の勉強をしている時、もう一方は、勉強に集中できない。『音楽家同士の結婚は難しい』と誰かに言われたことがあった。確かにそのとおりだった。海外にいるときはいつも別居。結婚当初からうまくいかなかった。」

「最後にうちのおやじと京子ちゃんのおやじの江戸英雄さん、仲人の井上靖さんの話し合いになった。そこに僕が呼び出されて、最終的に離婚が決まる。・・・・後に僕が再婚し、娘の(せい)()が生まれた時は、・・・・京子ちゃんも「赤ちゃんに会いたい」と言う。会わせると、同じように祝福してくれた。それから僕たちは友人に戻り、今も良い関係が続いている。」

週刊新潮(1979/4/26)
「小澤征爾」に懲りた江戸京子さんが14年目に再婚の相手」

小澤征爾の自著「おわらない音楽 私の履歴書」にたいし、江戸京子が小澤と離婚した経緯を、1979年に雑誌週刊新潮が「小澤征爾に懲りた江戸京さんが14年目に再婚の相手」というタイトルで報じている。

「コンセルバトワールを出て、小澤氏と結婚したとき、小澤氏は頭角を現しつつある若い指揮者であり、江戸さんはソリストとして世に出たいと思っていた。が・・・『ピアニストとして練習するにしても、自分が弾きたい時に弾けませんしね。主人が練習に疲れて家に帰ってきて、もう音は聞きたくないという。その気持ちもわかりますしね。それで議論になると、結局は、“オレが稼いでいるんだから、オレの意見を尊重しろ”ということで押し切られてしまう。・・・自分が生活力を持てば納得のいく生活ができるんじゃないかと。』」と江戸京子はインタビューに語った。

記事は、「父親の予想どおりだった離婚」という見出しで続く。

「父親の江戸英雄氏は、娘と小澤氏との結婚の行く末を初めから危ぶんでいた。結婚式の当日、“花嫁の父”は、『二人の結婚に反対だったし、今も懸念している』という意味の異例の挨拶をしたほどである。」

「間もなく、桐朋短大を出た小澤氏がパリへやってくる。『パリで二人きりで会ったら結婚に発展するんではないかと心配して、父は征爾に、私に会うなといったんです。父は音楽家が嫌いでした。芸術家というのは自由に自分の生きたいように生きるから、すぐに他の人が好きになったりするんじゃないかと考えたんです。』」

小澤征爾が、パリへ出航するさい、同級生の父親である、サンケイ新聞社長の水野茂夫氏が出した50万円のうち20万円が江戸英雄が出したのではないかと記事は書き、パリで娘の京子に会わないようにさせるのが趣旨だったと書いた。

それでも二人は結婚するのだが、「案じられたとおり、銀座のバーのマダムやら、ファッションモデルの入江美樹(小澤氏は江戸さんと離婚後、彼女と再婚)との仲がウワサされるようになり、結局、二人は離婚に至った。」

4年間の結婚生活の末、二人は1966年に離婚した。小澤征爾は、1968年までトロント交響楽団の常任指揮者だったから、グールドは小澤のプライベートの経緯をよく知っていた。グールドは、自分の女性関係を徹底的に秘匿し、彼は、プライベートを守ることは芸術家にとって許容されるべきだと考えていた。しかし、彼は他人のゴシップを知り、あれこれ詮索するのは好きだった。

小澤征爾のグールドの回想とグールドの“小澤征爾の身びいき記録”

小澤征爾は、1967年のグールドを「終わらない音楽」にこう書いている。

「ハンバーガー[25]がマネージャーを務めていたピアニスト、グレン・グールドとも親しくなり、共演の話が持ち上がった。放送局で演奏し、録音もする計画だ。何度も打ち合わせして、当時としては画期的なプログラムができあがった。現代曲や、バッハのチェンバロ曲をピアノで弾くのとか。なのに直前になってグレンが「嫌だ」と言って立ち消えに。そのくせ、平気な顔で僕と酒を飲んでいる。変わっていたが、面白い男だった。共演が実現していればどうなっていただろう。残念な話だ。」

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一方、グールドは、小澤征爾がトロント交響楽団の常任指揮者に就任してからしてから二度、江戸京子をピアノのソリストとして迎えたことを、《身びいきということでは文句なしの地元記録を作ったようだ》と、グールドは、1965年8月、「時と時を刻むものたち」[26]と題する評論をミュージカル・アメリカ[27]に書いている。

「西欧音楽のどちらかといえば遅れた慣習の一つは、指揮者に「常任」「終身」「客演」指揮者の3通りがあることだ。「終身」指揮者は、ベルリン・フィルなどに例があるが常駐しているわけではなく、終身指揮者をおくと、独裁体制をもたらし役員会、婦人会、記者たちは、数シーズンしか従いきれない。常任指揮者が広範なレパートリーを持っていれば、高額出演料をとる客演指揮者を招かなくともすみ、常任指揮者のサラリーがでる。家族の落ち着き先を決めたり、中二階付きの新築の家に室内プールを足したりしなくてはならない彼としては、ロシア語しか話さない80過ぎの、ビザに問題のある客演指揮者以外は、うかうかとしていられない。そこで常任指揮者はほかのどんな演奏家も要求されないほど大きなレパートリーの重荷を背負いこむ。オイストラフ[28]にシェーンベルクの作品36に取り組むように求めないし、シュナーベル[29]に気分を害してまでバッハを弾いてほしいと思わないのと同じだ。しかし、常任指揮者となるとこれが要求される。」

「うそではない。ほとんどの常任指揮は、たいていの2回目のシーズンまで、定期会員にまじって臨時の聴衆が新米の指揮者の試練を見学に来る。しかし、3シーズン目ごろになると、常任指揮者は自分がもはや切符売場で責任を果たしていないことをかならず思い知らされ、客演指揮の巨匠たちとの契約をただちに増やすよう助言せざるをえなくなる。そうした巨匠たちの途方もない指揮料は、当の常任指揮者の体制に最初の財政危機をもたらす一因となる。」

このあとグールドは、モントリオール交響楽団へあたらしく就任した24歳のズービン・メータを迎え、活発な仕事をしたと書き、そのメータが提供した音楽は、

「流れるような、ヴァインガルトナー風[30]の緩徐楽章がひじょうに好調な、ベートーヴェンの「第九」があり、適度にエゴイスティックな《英雄の生涯[31]》(全体にひじょうに高貴な性格をだしている)があった。他方、国産あるいは輸入の前衛音楽に冒険をすることもあった。このような積極的展開、前進が注目されない訳はない。・・・というわけで、トロント交響楽団の進取に気に満ちた幹部会は、ジョンソン大統領[32]が好んで「迅速かつ適切な対応」と呼んだとおりのすばやい反応をしめし、9年間務めた指揮者ワルター・ジュスキントの辞表を受理した。ジュスキントの9年間は、感受性に富むと同時に学究的な音楽的外貌、百科全書風の広いレパートリー、地元紙の吠えたてる若手記者たちにとことん試されたににもかかわらず、底をつくことのなかった機嫌のよい人柄によって知られていた。」

このあとに、非難ともとれる小澤征爾の評をグールドは、――

「1週間たたぬうちに、その後任にレナード・バーンスタインの副指揮者で『極東問題専門家』の小澤征爾があたることが発表された。 小澤氏について判断を下すのは、たぶんいささか時期尚早であろう。ただ、あちこちで客演指揮をしている実績からすると、指揮戦略を確実に手中にし、プログラム編成にも相当にアカデミックな頭脳を働かせているように見える。そして、身びいきということでは文句なしの記録をつくったようだ。(かれは第1回、第3回のピアノ・ソリストとして、自分の妻と契約するようはからった。エミール・ギレリスに次ぐ、ホッケー流に言えば、第2のスターというわけだ。)

括弧書きの部分にある《エミール・ギレリスに次ぐ、ホッケー流に言えば、第2のスター》とは、何をいっているのかとは、――

《エミール・ギレリス[33]に次ぐ》という部分の意味はこうだろう。

グールドは、西側のピアニストとして初めて共産圏で演奏し、“雪解け”を両陣営に実感させたのは、1957年だった。ところが、1958年の第1回チャイコフスキー国際音楽コンクールで優勝したのは、グールドの友人のヴァン・クライバーン[34]で、演奏終了後、鳴りやまない大喝采、スタンディングオベーションが長い時間続いた。その審査員長を務めていたのがギレリスだった。このコンクールの開催には、スプートニク1号の打ち上げに成功したソ連がその国力を世界へ知らせる意図があった。まったく冷戦の共産圏で開催されたピアノ・コンクールで、西側のクライバーンが優勝し”雪解け“を実現したとアメリカ国民は大喝采をし、帰国したときにはニューヨークで紙吹雪が舞う凱旋パレードが起こった。ヴァン・クライバーンの優勝には、ギレリスの政治的意図があることが明白だった。ギレリスだけでなく、ピアニストで審査員のスヴャトスラフ・リヒテルは、クライバーンに満点の25点を、他の者すべてに0点をつけた。グールドは、クライバーンの受賞は政治決着であり、コンクールの無意味さを苦々しく思っていた。

また、《ホッケー流に言えば、第2のスター》という部分は、グールドは、北米アメリカにおいてさかんなホッケー・リーグ(NHL=National Hockey Leagueを念頭に例をあげ、ホッケーの試合では、選手の活躍に応じ、ファースト・スター、セカンド・スター、サード・スター、週間スター、月間スターなどと選手を称えることを引き合いにだした。

グールドの文章はわかりにくい。しかし、あらためて要約すると、―― 小澤自身の評価を下すには時期尚早だが、ギレリスがヴァン・クライバーンをチャイコフスキー・コンクールで優勝させたように、小澤征爾が指揮者の立場を利用して、江戸京子をソリストに迎え、セカンド・スターの地位を与える身びいきの文句なしの記録を作った―― と書いていた。

このグールドの評論は、しばらく続き、グールドは過激で意味不明なことを言っていた。というのは、残る部分では、実在の人物としてジョージ・セルの名前だけがでてくるが、どこまで本気なのか、実在しない架空の指揮者やオーケストラを、あたかも存在するようにでっちあげながら書いている。その結論部分では、曲づくりが《民主的にプログラムされた》有線式電子機器によって指揮と演奏が分離されるだろうと、大いなる皮肉とも予言とも判断しがたい文章で締めくくっている。最後の一文は、「わたし自身で@%C書いた$$$以外は$!!!」と書き、ユーモアのつもりだろうが、意味不明でだった。

小澤征爾のヴェラとの再婚、映画「他人の顔」

小澤征爾は、1965年にトロント交響楽団の常任指揮者となり、トロントに拠点を得てからも、年に1度は日本へ帰って日本フィルハーモニーや読売交響楽団を指揮していた。1966年、小澤は江戸京子と離婚し、1968年、「バツイチ」の小澤は9歳年下のモデル、入江美樹(小澤・ヴェラ・イリーン)と「美女と野獣婚」[35]といわれる再婚をした。

入江美樹は、白系ロシア人貴族のクォーターで、人気テレビ番組の「シャボン玉ホリデー」のマスコットガールやNHKの紅白歌合戦の審査員役などをして人気があった。1966年には、阿部公房の「他人の顔」が、勅使河原宏監督による映画が「砂の女」に次いで製作され、顔にケロイドがある女の役で出演した。入江美樹は、「世界で一番美しいモデル」が、顔にケロイドがある役で映画出演すると大きな話題になった。

映画、「他人の顔」に出演した入江美樹(イリン・ヴェラ)

小澤と入江美樹がはじめて会ったのは、入江の実家のクリスマス・パーティーだった。そこには、彼女のモデル仲間や人気俳優の岡田真澄、映画監督の勅使河原宏ら錚々たる面々の美男美女が集まっていた。気おくれしたという小澤が、二階で酒を飲んでいると、美樹の父がやって来て、二人は意気投合したという。小澤は、いつも同性で目上の力のあるものに好かれる才能を発揮した。

小澤は、美樹に日本フィルのコンサートのチケットを渡し、彼女が実際にコンサートへやってきて、ときどき会うようになった。結婚するきっかけは、パリへ行った美樹が結核で突然喀血し、知らせを知人から聞いた小沢がトロントからすぐに駆け付けた。そこで、彼は一晩だけ看病をしてトロントへ引き返したというエピソードを披露していた。

映画「他人の顔」は1967年にニューヨークでも公開された。映画音楽に使われた音楽は、やはり武満徹が作曲し、知的で印象深い前衛の現代音楽が全編にながれた。阿部公房は、ノーベル文学賞の候補に毎年あがるほどの人気があり、グールドは映画をみただけではなく、すぐに英訳された原作もすぐに読んだ。

「他人の顔」(1966)の一場面https://eiga.com/news/20190831/5/から

小澤征爾は、1969年、トロント交響楽団の常任指揮者を辞任、その後は、ボストン交響楽団、サイトウ・キネン・オーケストラ、ウィーン国立歌劇場の音楽監督などで活躍をつづけたが、彼のゴシップはその後もつづいた[36]

おしまい


[1] 「終わらない音楽 私の履歴書」日経新聞社から

[2] コンセルバトワール 音楽・演劇などの専門学校。特に、フランスのパリ国立高等音楽院をさす。

[3] シャルル・ミンシュ (1891 – 1968)ドイツ帝国領であったアルザス地方ストラスブールに生まれ、のちフランスに帰化した指揮者。

[4] タングルウッド音楽祭 バークシャー音楽祭の名前がタングルウッド音楽祭に名前が変わった。教育音楽祭である。

[5] ハロルド・ショーンバーグがグールドを酷評 《神秘の探訪P.226》ショーンバーグは、ブラームスピアノ協奏曲第1番の演奏を<タイムズ>紙に「グレン・グールドの心」と題してピアニストAからピアニストBへの手紙という形で、早く弾けない、重すぎ、内にこもりすぎ、壮麗さや力や活力に欠けると非難した。バザーナは、聴衆は受け入れているのにも拘わらず、批評家の反応が、コンサート引退の直接的な原因と考えている。

[6] アーロン・コープランド 

[7] 100ドル 100ドル✕4週✕360円/17,000円=8.5

[8] ミトロプーロス (1896 – 1960)主にアメリカ合衆国で活躍したギリシャ人の指揮者・ピアニスト・作曲家。ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団に1949年に常任指揮者。1951年から同管弦楽団の首席指揮者に就任し、1957年にレナード・バーンスタインに後を譲った。この間、1954年からはメトロポリタン歌劇場の常任指揮者としても活動した。

[9] メシアン シャルル・メシアンOlivier-Eugène-Prosper-Charles Messiaen, 1908-1992フランス、アヴィニョン生。現代音楽の作曲家、オルガン奏者、ピアニスト

[10] トゥーランガリラ交響曲 https://www.youtube.com/watch?v=AGbAYS1Jwgg(第5楽章)

[11] 「音楽 武満徹、小澤征爾」新潮社

[12] カデンツァ 独奏者がオーケストラを背景に独奏を披露する聴かせどころ。

[13] 「音楽」(小澤征爾、武満徹 新潮文庫)

[14] 斎藤先生 小澤征爾の恩師。

[15] ベルリン・ドイツ・オペラ ベルリン・ドイツ・オペラはベルリンにある歌劇場。1961年に再びベルリン・ドイツ・オペラとなる。歴代の音楽総監督のひとりにロリン・マゼールがいる。1963年にカール・ベームとマゼールを指揮者として初来日。日本への欧米歌劇場引っ越し公演としては初めてであり、ベーム指揮の「フィガロの結婚」「フィデリオ」のライブ録音が残っている。

[16] カール・ベーム

[17] ロリン・マゼール

[18] 伝説の大成功 

[19] ストラヴィンスキー 「音楽 小澤征爾・武満徹」年表から。「弦楽のためのレクイエム」は、1957年、武満が27歳のときに作曲された。

[20] ストラヴィンスキー 《神秘の探訪 ケヴィン・バザーナ》ストラヴィンスキーは、グールドの大ファンで、1960年テレビで共演した際、音楽的才能に驚愕したことを公言して憚らなかった。翌年、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ作品110第31番をロサンゼルスで聴き「その晩、初めてベートーヴェンの後期ソナタが理解できた」との手紙を送った。ストラヴィンスキーは、1962-1967年のあいだに何度もトロントを訪れ、自作のピアノとオーケストラのためのカプリッチョをグールドと共演したがっていた。ジョン・ロバーツは、二人を昼食の席で会わせた。しかし、ストラヴィンスキーの音楽を好まぬグールド(たとえ作曲家本人の前でも態度は変わらず)〈カプリッチョ〉の話が出ると巧みに話題を変え、デザートが出る前に辞去してしまった。のちに、グールドは楽譜を見ることさえ拒否した。一方のストラヴィンスキーは、奇妙なことにグールドのことを自分が出会ったなかで最もハンサムな人のひとりだったとロバーツに語っている。

[21] ワルター・ジュスキント (1913 – 1980)は、チェコの指揮者。1956年から1965年まではトロント交響楽団の首席指揮者。1968年からはセントルイス交響楽団の音楽監督に就任し、1975年まで務めた。

[22]ウィルフォード Ronald A. Wilford「クラシック音楽の最大のパワーブローカー」と評されているアメリカの音楽マネージャー。 」。彼はコロムビアアーティストマネジメントで50年間過ごし、クライアントには指揮者ジェームズレヴァイン、小澤征爾、リッカルドムーティが含まれていた。Wikipedia

[23] 中曾根康弘 1960年まで科学技術庁長官をしていたが、この時は無任所で、1982年の総理大臣になる。

[24] 「終わらない音楽 私の履歴書」小澤征爾 日本経済新聞出版社

[25] ハンバーガー グールドのマネージャーのWalter Hombergerのこと。小澤征爾は、ホンバーガーと表記せずに、ハンバーガーと書いている。

[26] 「時と時を刻むものたち」 「グレン・グールド パフォーマンスとメディア 著作集2」(ティム・ペイジ編 野水瑞穂訳 みすず書房)P243

[27] ミュージカル・アメリカ クラシック音楽に関するアメリカ最古の雑誌で、1898 年に初めて印刷版が発行された。Wikipedia(英語)

[28] オイストラフ David Fiodorovich Oistrakh/Eustrach、1908 – 1974ロシア帝国のオデッサ(現:ウクライナ)出身のユダヤ系ヴァイオリニスト、指揮者。チャイコフスキーやブラームスといった情感豊かな楽曲を得意とする

[29] シュナーベル アルトゥル・シュナーベルArtur Schnabel, 1882 – 1951スイス・アクセンシュタイン Axenstein)生まれ。オーストリア→アメリカのユダヤ系ピアノ奏者、作曲家。シュナーベルのレパートリーは狭く、ベートーヴェン以外ではモーツァルトやシューベルト、ブラームスなどをレパートリーとしていた。

[30] ヴァインガルトナー 1863〜1942オーストリアの指揮者・作曲家。リストに師事。ウィーンフィルハーモニー管弦楽団の指揮者などを歴任。

[31] 『英雄の生涯』(えいゆうのしょうがい、Ein Heldenleben)作品40は、リヒャルト・シュトラウスが作曲した交響詩。『ドン・ファン』から始まるリヒャルト・シュトラウスの交響詩の最後の作品である。

[32] ジョンソン大統領 アメリカ合衆国第36代大統領。民主党。1963年、ケネディ暗殺に伴い副大統領から昇格し、翌年北爆を開始してベトナム戦争を本格化させた。内政では「偉大な社会」を提唱し、公民権法を実現した。

[33] エミール・ギレリス ウクライナ・オデッサ出身、ユダヤ系。1958年にチャイコフスキー国際音楽コンクールピアノ部門の審査員長も務めていた。他の審査員の中にはリヒテルの名も。この時の優勝者がヴァン・クライバーンである。クライバーンはアメリカ人にも関わらず、思いっきりソ連ホームの国際コンクールで優勝したことにより、米国では英雄視された。審査員達も「アメリカ人に優勝させて良いのか?」とかのフルシチョフにわざわざ確認をとったのだとか。そして、フルシチョフは「彼が一番なら良いじゃないか。」と答えたとのこと。そんな訳でアメリカでは一躍時の人となった。ギレリスはロシア音楽界の重鎮として、チャイコフスキー・コンクールの審査員長を長きに渡って務めた。

[34] ヴァン・クライバーン 1934 – 2013アメリカのピアニスト。1958年、23歳で第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝。このコンクールは1957年10月のスプートニク1号打ち上げによる科学技術での勝利に続く芸術面でのソビエトの優越性を誇るために企画された。クライバーンのチャイコフスキー協奏曲第1番とラフマニノフ協奏曲第3番の演奏後はスタンディングオベーションが8分間も続いた。審査員一同は審査終了後、ニキータ・フルシチョフに向かって、アメリカ人に優勝させてもよいか、慎重に聞いた。フルシチョフは「彼が一番なのか?」と確認、「それならば賞を与えよ」と答えた。冷戦下のソ連のイベントに赴き優勝したことにより、一躍アメリカの国民的英雄となる。このコンクールに審査員として参加していたスヴャトスラフ・リヒテルは、クライバーンに満点の25点を、他の者すべてに0点をつけた。(付け加えると、クライバーンは、受賞後ツアーで消耗し、ピアノを満足に弾けなくなる。)

[35] https://audio.kaitori8.com/topics/seijiozawa-story/

[36] ゴシップ 2022年7月、雑誌女性セブンに、記事「小澤征爾30億円資産巡る長女と長男引き裂かれたファミリーツリー」に、「約20年前近く前、小澤の浮気をめぐり夫婦喧嘩になり財産の大部分をヴェラに渡すと約束して許しを得た」と書かれている。

『アイスランドのグレン・グールド』 ヴィキングル・オラフソン「ゴルトベルク変奏曲」リサイタル

(2023/12/6 一部修正しました。)

2023年12月3日、サントリーホールでヴィキングル・オラフソンのゴルトベルク変奏曲のリサイタルへ行ってきました。ネットで調べると、オラフソンは、1984年アイスランド生まれで、2008年にジュリアード音楽院を卒業しているそうです。

なかなか良いリサイタルでしたが、親爺は、グールドおたく、グールド推しなので、グールドファンでない人には申し訳ない内容になるとおもいます。天才と比べてどうするんだ、という批判はあるでしょうが感じたことを忖度なしに書いてみたいと思います。

やはり一番は、何と言っても演奏時間がとても長い、長すぎる点です。グールドはゴルトベルグ変奏曲をデビュー時と、亡くなる直前の2回録音をしています。ビートを効かし、みずみずしい演奏をした1回目が38分で、観念的で沈思するように弾いた2回目が51分でした。これに対して、オラフソンは(CDによると)反復を楽譜どおりにして74分かかって弾いていました。1 演奏会場のロビーには、「演奏時間約80分。途中休憩なし。」と掲示されていました。これだけ差があるのは、グールドは、1回目の録音では全曲で反復をしていませんし、2回目の録音では30曲ある変奏曲中の13曲の前半だけを反復しているにすぎないからです。このため、グールドの演奏を聴き慣れた耳には、「何度もリピートしないで!次へ行って。」と思います。

このオラフソンは、29変奏と30変奏『クオドリベット2』のところで盛大なクライマックスを持ってきて、フォルテッシモでガンガン弾き、32番めの(最後の)アリアをソフトペダルで音量をぐっと抑え、静謐で穏やかな印象でこの曲を閉じました。このために、観客に極めて大きな感動を与えることに成功したと思います。

親爺が思うに、このゴルトベルク変奏曲は、終曲のアリアの一つ前の『クオドリベット』が、それまでの格式ばった印象を解き放ち、俗謡「キャベツとかぶ」のメロディーによって気安く楽しい雰囲気へと一気に変わります。そして、最後のアリアで再び、天国のような美しい歌声で終わりました。オルフソン、なかなか良かったです。「終わりよければ全てよし」と満員の観客から感動の大喝采を浴びていました。

ここで、他の演奏家の演奏時間もざっと調べてみましょう。ファジル・サイは79分、ラン・ランは90分、バレンボイムも90分、アンジェラ・ヒューイットの1999年録音は、79分、2015年の録音は82分、親爺が好きなシュ・シャオ-メイは85分、辰巳美納子(チェンバロ)は80分、グスタフ・レオンハルト(チェンバロ)は、79分、カール・リヒター(チェンバロ)は、79分です。親爺が知るなかで唯一、高橋悠治(1938年 -)は、1976年に37分で演奏しています。つまり、高橋悠治を除くピアニストは、楽譜どおりにせっせと反復をしていると思います。高橋悠治の演奏もいいですね。

こうしてみると、グールドはあらゆる演奏において、パイオニアであり、かつ変人だったのは間違いがないとして、繰り返しをしていないピアニスト(兼作曲家)に高橋悠治がいるわけですが、この人はグールドと6歳違いのほぼ同世代で、小澤征爾、武満徹、トロント交響楽団と一緒に活動していた時期があり、おそらく、グールドとも会っていただろうと思います。

グールドは、「コンサートは死んだ」といい、演奏会の価値を否定しましたが、実際に会場で聴く生の音の心地よさを、自宅で再現することはなかなかできないと思います。アコースティックな電気をとおさない響きは、何にも代えがたいと思います。

コンサートの開場の前の、群衆としての観客の多さを見て、グランドピアノというのは、1台でこの2000人以上の観客に音を届けられるんだと感心するだけでなく、ピアニストが、この人たち全員に音が届くように弾くのは、ある種、目の前で弾くのとは違った技術を要求されるだろうと感じました。

開場を待つ観客が集まったところ。こんなにたくさんの人にピアノの音が届くんですね。

オラフソンは、すべてを暗譜で弾いていました。そのため変奏の切れ目で、一音をずっーと伸ばしたまま響かせ、次の変奏へ自然にうつる工夫をしていました。おかげで、楽譜のページをくるインターバルの違和感がなくなったと思います。

どのピアニストもグールドのように弾けないんだなと思うのは、グールドは、どれだけ弱く小さい旋律を弾いていても、一つ一つの音が、はっきり主張しています。早く弾いてもそうです。一音一音が粒のように分離しています。ところが、他のピアニストはスケール(音階)などを速く弾くと、ダラダラっと塊になってしまって、聞き分けられません。

グールドは、デタシェ、ノンレガート、スタッカートとレガートを弾き分けます。デタシェは、ノンレガートと同じで、音を切ることをいいます。スタッカートはもっと速く切ります。

グールドの演奏の基本はノンレガートにあります。ノンレガートには、緊張を和らげる効果やユーモラスな効果があります。レガートは美しく感動を呼びますが、それだけでは、どうしても平板になりがちですし、聞き手の緊張はいつまでも続かないので飽きてきます。グールドは、このノンレガートとレガートをバランスよく弾け分けます。しかも、ソプラノ、アルト、バリトン、バスの声部をレガートとノンレガートを交代させながら弾きます。 しかし、ノンレガートを使って、ずっと弾けるピアニストは、音の粒を揃えるのが難しいために、なかなかいないようです。

オラフソンは、ダンパーペダルを使いまくっています。最初から最後まで、あらゆる場面で細かく、激しくこのペダルを使っています。ピアノ(弱音)の小さい音を表現したい時には、ソフトペダルもずっと踏んでいました。ダンパーペダルを押し下げると、鍵盤から指をはなしても音を伸ばすことが出来ます。

グールドの演奏の特徴は、ペダルをほとんど使わないところにあります。つまり、音を延ばしたいときには指を持ちかえながら、鍵盤を押さえつづけるというピアノ演奏の基本にあります。そうすることで、音が濁らず明晰に聴こえる効果があると思います。

オラフソンは、超速でパッセージを弾くことができ、見事にリズムを保っていました。ただ、前に書きましたが、音がつながって聴こえ明晰ではありません。メロディーも高音ばかりが目立って、ときどき低音や内声のメロディーも聴こえますが、ポリフォニーという感じがせず、声部が交代している感じがしません。グールドは、いつでもつねに声部の対比を楽しませてくれます。

終演後、観客が熱狂的に拍手と歓声を送りました。ですが、オラフソンはアンコールの演奏をしませんでした。何度かステージにでてきた最後に、「日本へきてこのように盛大な拍手をもらえるのはうれしいですが、このような素晴らしい曲を弾いた後に、他の曲を弾くのはできません。」といった意味を言っていました。会場もすぐに明るくなり、観客は帰り支度をしなければなリませんでしたが、アンコール曲の演奏を聴きたかったという人は多いと思います。

サイトから、第1番の変奏だけを聴くことが出来ます。

おまけ

実は、翌日(12月3日)に葛飾シンフォニーホールの公演では、オラフソンのゴルトベルク変奏曲だけでなく、清水靖晃とサキソフォネッツ(5サキソフォンと4コントラバス)によるこの曲の演奏会があったのです。これを親爺は、チケットを買う際にうっかり間違えてしまったのです。もったいないことをしました。(涙、涙)

おまけ2

ファジル・サイのゴルトベルク変奏曲のリサイタルへ行ったときの記事です

おまけ3

辰巳美納子のゴルトベルク変奏曲のリサイタルへ行ったときの記事です

おしまい

  1. グールドは、「1955年には、32曲全曲反復なしのA-B-(なお、1959年のライブ演奏の録音では、A-B-が30曲、AAB-が2曲でした。)でしたが、AAB-は1981年には13曲となり、その分だけでも全体の演奏時間は長くなっています。ちなみに、どちらのグールドの演奏にも、後半の反復をするA-BBあるいはAABBの形式は採用されていません。」(http://wisteriafield.jp/goldberg/#part13ch1325 から引用させてもらいました。) ↩︎
  2. クオドリベット(Quod libet) ラテン語で「好きなものをなんでも」という意味で、大勢で短いメロディの歌を思いつきで歌い合うことです。 ↩︎

財務省の連中はこれをみろ!!!マスコミも見ろ!!!・・・・「イングランド銀行公式 経済がよくわかる10章」

https://10mtv.jp/pc/column/article.php?column_article_id=1679 「入るを量りて出を制す」といった二宮尊徳像。民間や個人なら正しいですが、国は違います。

《財務省よ、オマエは大福帳による財政運営、二宮尊徳をいつまでやるんだ!》

日本の財務省は、「予算を使うためには、税収の根拠がないと支出ができない、国債の発行も返済しなければならないので、子孫にツケを残すので許されない。」というのだが、「これは家計や民間企業に当てはまっても、政府は通貨発行権を持っている。政府が発行する国債を使い通貨の量を調整することで、好景気にも不景気にもなる。国債発行は、子孫のツケにはならない。」と、まえまえから、親爺は言ってきた。

なぜ?と思われる方が多いと思うが、この財務省の考えは、1971年にニクソン大統領が通貨と(きん)(きん)との交換を完全に停止して終わった。つまり、どこの政府も(きん)(きん)のあるなしに関係なく、通貨を発行できるようになったからだ。

《この本に書かれていること》

1.世界中で大量の通貨が発行されている

2023年8月にこの本は、経済の入門書というふれこみで、「イングランド銀行公式 経済がよくわかる10章」(ルパル・パテル、ジャック・ミーニング著、村井章子訳 すばる舎)が出版された。

二人の著者のルパル・パテルとジャック・ミーニングは、イングランド銀行のエコノミストで、ロンドン銀行は、2017年以降、銀行スタッフはロンドンを飛び出し、イギリス各地を回り、市民の経済学の理解を深める任務を与えられているらしい。

この本の「世界中で大量にお金が創られている」と書かれた章に次のように書かれている。以下「 」(かっこ書き)は、この本の引用である。

「・・・イングランド銀行は1兆ポンド(=186兆円)を新たに創造し、英国債をはじめさまざまな金融商品を購入した。・・・一人当たりおよそ1万5千ポンド(=280万円)になる。アメリカの中央銀行である連邦準備制度理事会(FRB)は、7兆ドル(=1,050兆円)を欧州中央銀行(ECB)も同等額のユーロ(=1,134兆円)を創造した。どれも虚空からひねり出したように見える。」

このあと本書では、このような政策を西欧諸国がとった理由は、1990年代にバブル崩壊した日本がデフレ脱出策である前黒田総裁の異次元の量的緩和策QEにFRBが追随したからだと書かれている。

2.お金が生み出されるしくみ

① 銀行券・準備預金・預金通貨

「第1の種類のお金は、中央銀行が発行する銀行券(紙幣)である。この銀行券は誰でも持てるし、手から手へと渡り、そのたびに所有権が移転する。第2の準備預金は、大方の人が目にすることがない。というのは、銀行同士の決済に使うために銀行が保有するお金だからだ。銀行は、中央銀行に口座を開設し、そこにこのお金を預けておく。ちょうどあなたや私が民間銀行の支店の口座にお金を預けるように。この第2の種類のお金には準備預金という名前がついている。」

「わたしたちが、日頃お世話になっているのは、第3の預金通貨である。読者はショックを受けるかもしれないが、この第3のお金には国家に対する請求権がない。なぜならこのお金は、民間銀行、つまり民間企業に対する借用証書にほかならないからだ。あなたが、銀行からお金を借りるとしよう。たとえば住宅ローンを借りると、銀行はあなたの口座残高に貸し出した金額を書き加える。これが第3のお金、すなわち預金通貨である。」

「私たちは日々銀行を利用しているが、いまポケットに入っているのも銀行通帳に印字されているのも同じお金だと思っている。だが、実際には両者は同じではない。これは、現代の経済における貨幣に関して、あまり知られていない驚くべき事実の一つだと言えよう。私たちが日々使うお金の大半は、中央銀行が発行したものではないのである。」

「中央銀行は、たしかにお金を発行している。経済に参加する人々の需要に応じて紙幣を発行しているし、準備預金の形で銀行システムに電子的に資金を供給している。だが、システムの中にあるお金の大半は、中央銀行ではなく民間銀行が作り出したものだ。お金を作るといっても、印刷するわけではない。単に記帳するだけだ。」

② こうして銀行が通貨を創る

「いったいなぜそんなことができるのだろうか。古い経済学の教科書を読んだ人は、銀行は人々が預け入れたお金を別の人に貸し出すと理解したことだろう。銀行制度についてのこのような考え方は、「貸付資金説」に基づいている。貸付資金説は、長いこと経済学説のよりどころだった。この考え方はモデル化しやすいし、直感的にも理解しやすい。だが、残念ながら、現代の経済を特徴づける重要な点の多くが見落とされている。・・・・・・・」

③ ただし無制限に増やせるわけではない

「だとすれば銀行はいくらでも貸し出しをして預金通帳を増やせそうなものだが、なぜそうしないのだろうか。理由の一つは、銀行が自ら制約を課しているからだ。彼らには利益を上げるという目的があるので、野放図に貸し出しすのは好ましくない。確実に返済し銀行に利益をもたらしてくれるような相手に貸し付けたいと考えている。

3.財政出動に必要な資金はどうするのか

国債の発行

「ここまで読んできた読者には一つの疑問が浮かんだことと思う。政府は無制限に減税を行って支出を増やし、経済に刺激を与え続けることができるのか、という疑問だ。・・・・政府支出が税収を上回った場合、差額は借金で埋め合わせるほかない。政府はそのために国債を発行する。国債は国家の借用証書である。・・・とはいえ、国家の財政と家計は同じではない。まず、政府は死なない(ここの政権は死亡宣告をされるかもしれないが)。だから、借金をどんどん先送りすることが可能だ。・・・・加えて、経済効果に期待することができる。たとえば、政府が新しい高速道路を建設するとしよう。総工事費は10億ポンドだが、最終的に20億ポンドの経済効果が期待できるとする。政府はこの費用を国債で賄う。そして償還期日が到来したときには、経済は拡大して税収は増えている。つまり高速道路の建設自体が必要な費用を生み出すわけだ。このケースでは、債務の総額が増えても、経済規模に対する債務の比率は下がっている。 また、経済自体の規模も長期的には拡大していくので、経済規模すなわちGDPに対する債務の比率は自然に低下する。・・・・じつのところ、政府が債務を返済しようと大幅増税をしたり支出を大幅削減したりすれば、経済成長に急ブレーキがかかるので、財政健全化の試み自体自殺行為となる恐れがある。経済成長がゼロになってしまったら、政府債務ははるかに大きな負担となってのしかかってくるだろう。」

《結論》

MMT(Modern Monetary Theory=現代貨幣論) を解説されている学者に中野剛志さんがおり、彼は通貨発行の仕組みを解説のにイングランド銀行のホームページを使っていました。それを思い出して、本書を手に取ったら、とてもおもしろい。よくかかれています。

日本は、バブル崩壊以後まったく経済成長をせず、この30年間で日本国民は非常に貧しくなりました。この原因は、財務省と(主流派の)経済学者たちが、世界の考えとは違う、間違った経済観をいまだに持っているからです。おまけに、マスコミが無批判に追従するため、国民のほとんどもそう思っています。

この本に書かれているように、世界のどの国の国債残高も経済の成長につれて、絶対額は増えていくものです。国債の償還時期が来ても、償還を繰り延べるだけで、実際に返済していません。ところが、日本だけが実際に国債を返済しようとしています。他国にない60年ルールというものを作って返そうとしているのです。

コロナ後のこの2年間、まがりなりにも財政拡大したので、税収は見込みを上回りました。総理大臣がこれを「国民に還元する」といったら、財務省は「国債の償還財源に使ってもうありません」と財務大臣に言ったのです。こんなことでは、いつまでたっても国民は浮かばれません。 いかげんにしろ、財務省!!

おしまい

第16章 グールドが安部公房「砂の女」に傾倒する

1963年9月、ルーカス・フォスが、バッファロー交響楽団の常任指揮者になった。バッファローは、アメリカとカナダの国境にあり、車でトロントからわずか90分しか離れていない。

グールドは、現代音楽の作曲家、指揮者としてルーカス・フォスを尊敬していたので、バッファローに来るまえから親交があり、妻のコーネリアとも親しかった。グールドとコーネリアは、フォス一家がバッファローへ移ってきたことを契機に、より親密になった。グールドがルーカスに電話をし、ルーカスが不在のときには、コーネリアがかわりに話をするようになった。いつしか、グールドはコーネリアに電話をするようになり、二人はもっと親密な間柄になった。

Lukas Foss(Wikipediaから)

グールドとコーネリアの不倫関係はゆっくりとすすんだ。「不幸にしてわたしは結婚したことがない。そしてありがたいことに、いまだに独身である。[1]」というブラームスの意味深長な言葉がある。果たして結婚することが幸福なのか、独身でいることが幸福なのか。その答えはさまざまだろう。

だた、私生活と仕事の両立は、だれにも困難をともなう。とくに芸術家にとっては、究極的な問題になることが多いだろう。誰しも、家庭を基盤とする安定や心のささえが必要だが、それを芸術と両立させるには困難がある。なによりグールドは、孤独なしに独創性は生まれない、孤独がない創作活動はありえないと考えていたからだ。だが、一方で、一人では生きていけないとも感じていた。

グールドは、コンサートの会場で演奏することから1964年に完全にドロップ・アウトした。4月10日にロサンゼルスでバッハ、ベートーヴェンといつもコンサートで弾いている彼が最も好きなヒンデミットのピアノソナタ第3番を[2]を演奏したのが最後だった。

コンサートから引退するといい続けてきたグールドだったが、実際にこの日が最後の演奏会だという表明はしなかった。グールドは黙ってコンサートから姿を消した。

コンサートから引退する直前の彼の1回の出演料は、3,500ドル(2023年価値で、79,285ドル≒1千1百万円)以上、年収は、10万ドル (2023年価値で、2,265,311ドル≒3億17百万円)以上だったといわれる。彼は、人気絶頂のときにコンサート出演をやめた。

グールドがコンサートをやめると何年もまえに言ったとき、マネージャーのホンバーガーだけではなく誰もが、観客の前で演奏しない音楽家は過去にいない、そんなことをすればすぐに観客に忘れられるぞと忠告するのだった。しかし、彼の決心は強かった。マネージャーのホンバーガーもみとめるしかなく、秘書のヴァーナ・サンダーコックは、新しい演奏会のスケジュールをずっとまえから入れていなかった。

ツアーを巡っているあいだ彼は忙しく、自分の時間をもてず疲れ果てていた。各地を回るツアーでは、自分にあわないピアノで弾かされ、慣れないベッドや不満足な空調の部屋で眠らされた。コンサートは、同じ曲を毎回くりかえすだけで何の発見も進歩もなかった。音楽で自分のやりたい、あたらしいことが何ひとつできないと思っていた。しかし、彼を求める周囲の動きはあまりにつよかった。

そんなとき、1964年9月、安部公房原作、勅使川原宏監督の映画「砂の女」が、英語字幕付きでニューヨーク映画祭で公開された。

グールドは、20代後半から官能的で男女のきわどい性描写がでてくる映画をこのんで、少年のような驚きの目でみていたから、この映画につよく魅了された。彼は、この映画の中に、人生の意義に対するヒントのようなものが隠されていることを直感した。彼は長い時間をかけ、なんと100回以上繰り返して見、原作の「砂の女」を読み、作者が問いかけているすべての意味を理解しようとした。

映画「砂の女」

日常生活にたいした希望や夢ももっていない教師[3]が、砂地に生息する新種の昆虫を発見し、その虫に自分の名前を付けてもらえるかもしれないという唯一でかすかな望みをいだいている。彼は、3日間の休暇をとって昆虫採集をするために砂丘へやってくる。砂丘で夕方になるまで昆虫採集に夢中になり、国道へ戻ってその日の宿を探そうとする。そこへ村人がやってきて、部落の宿を紹介するという。その宿は、砂丘を20メートルほど掘った砂の中にあり、縄梯子で降りなければならなかった。

村人から「お(ばあ)」、「おかあちゃん」と呼びかけられているその宿の女主人は、30歳前後の女だった。その宿は砂の底にある木造の隙間だらけの建物だが、砂に浸食されたらしく古びて今にも崩れ落ちそうな建物だった。その建物へ、穴の周りの砂が絶えず崩れ落ちてくる。また風に飛ばされた砂が、雨のようにふりながら落ちてくる。食事をするときには、降ってくる砂を避けるために、頭上に番傘をさしてその下で食べなければならない。風呂もない。女主人は、その建物が壊れないようにするため、毎晩重労働の「サルでもできる砂()き」をしていた。その砂掻きは、穴の底にある家の周りの砂を空の石油缶に集め、その砂を入った石油缶を穴の上で待つ村人たちがモッコで引き上げるという一晩中をかけて行われる重労働だった。

モッコ

翌朝、男が起きると、女は素っ裸で顔だけを隠してまるで銀色の彫像のように寝ていた。男が、その宿を出て帰ろうとすると縄梯子が取り外されてなくなっている。村人と女のたくらみによって、男は穴の底に囚われてしまった。

男は最初のうち、砂の穴から脱出しようと、あらゆる努力をする。まず、女を縛って自由を奪い、村人に女を助けたかったら自分をモッコで引き上げるように要求する。村人たちは、まるで男の要求を受け入れたかのようにモッコを数メートルまで引き上げるのだが、村人たちは途中で手を離してしまう。男は空中から地面にたたき落とされる。

男はつぎに、脱出のため村人たちを困らせるために持久戦にもちこもうとする。そうすると、穴の底へ配給されていた水が供給されなくなる。村人は、二人が労働をしないと、罰として水を与えない。穴の上から放り込まれた週に1度配給される煙草と焼酎を飲みながら、苛立った男は、家の木の壁を壊して梯子の材料にしようとする。制止する女と男がもみ合いになったことをきっかけに、やがて動きを止めた二人は、がつがつした情欲で交わる。

男は、村人が水を止めたことに屈服し、女と砂掻きをはじめると水の供給が再開される。

やはり男は、女に「サルでもできる砂掻き」をなじる。

この場面で原作にはない映画だけにある、わかりやすい女の台詞がでてくる。

(決然として女は言う。)「だって砂がなかったら、誰もわたしのことなんかかまっちゃくれないんだから。そうでしょ、お客さん。」

それでも穴からの脱出をしようと、男はひそかに縄をこしらえていた。女が眠っている隙に脱出するために、男は風邪をひいたと偽り、女だけに砂掻きを一晩させて疲れさせた翌日、行水用の水で体を女に洗わせる。それを契機に男は倒錯したはげしい情熱で女と交わる。そして男は、嫌がる女に無理やりアスピリン3錠と湯呑いっぱいの焼酎を飲ませる。女はたちまち前後不覚に熟睡する。

男は、家の屋根に上がり、用意していた縄を何度か投げると、縄はモッコを引き上げるための支柱に絡む。村人たちがモッコの砂を引き上げにくる時間の少し前に、男は囚われてから46日目の脱出に成功する。しかし、方向感覚をなくしていた男は、そこら中を走り回り、犬や子供に見つかりながら、村人も犬も近づかない「塩あんこ」と呼ばれる沼地のように人が飲み込まれる場所で下半身が埋まって身動きがとれなくなる。男は再び囚われ、モッコにぶら下げられて穴の底へ戻される。

男は穴の生活に順応し始め、夜には女と砂掻きを行うようになる。その一方で、《希望》という名のカラスを捕まえるワナを作り、捕まえたカラスの足に救助を要請する手紙をむすんで放そうとする。

とじこめられていた男は、むしょうに外の世界を見たくなる。村人に、逃げないから1日に30分でいいから、外の世界を見せてくれとたのむ。思案した村人の老人は、「みんな見物してる前でだな、・・・あれをやって見せてくれりゃ、・・・あれだよ、雄と雌が、つがいになって・・・」と条件をだした。男は戸惑うもののたいしたことではないと思い、女を襲おうとする。穴の上で群がって二人を好奇の目で見、口笛を吹き、手を打ち合わせる音と卑猥な呻き声をだす村人たち。村人が照らす懐中電灯が揺れながら、二人に焦点をあわせるように追いかける。村人たちは、覆面をかぶったり、ゴーグルをしているので誰が誰だかわからない。和太鼓が激しくならされる映画の音楽は、最高潮に達する。男は必死に女をおさえつけようとするが、女は「あんた、気が変になっちゃったんじゃないの?・・・色気違いじゃあるまいし!」と逃げ回る。男は女に「真似事でいいんだから」と哀願するのだが、女は、肩の先で男の下腹を突き上げ、拳を顔に交互にめり込ませ、男は鼻から血を流しうちのめされる。穴の上にいた村人たちの興奮も急速にしぼみ、唐突にはじまった興奮は唐突に終わった。

代わりばえのしない何週間が過ぎた後、男はカラスを捕まえるワナ《希望》の底に水が溜まっているのを発見する。そのワナは、おとりの餌の下の砂の中に埋められた樽をおき、底に毛細管現象で水が溜まっていた。男はこの発見に興奮しながら、水の心配がなくなったと大喜びをする。男はたまる水の量、気温や天候の関係を記録し始める。

男と女は、せっせと砂掻きに精をだし、男は女の内職にも協力する。女が望んでいたラジオが、男にとっても天気予報の概況を知りたい二人の共通目標になる。

やがて、冬が過ぎ3月の春が来た頃、女は突然、腹痛を訴える。村人のなかに、獣医のもとで蹄鉄を打っていた男が子宮外妊娠だろうといい、女は布団ごと穴から連れだされる。

女が連れ出された後には、縄梯子が残されていた。待ちに待った縄梯子である。男は、縄梯子を登って、半年ぶりに外界へ出る。しかし、男は逃げ出さなかった。べつに慌てて逃げ出したりする必要はないのだと思う。べつに自分は、自由を奪われているわけでもないと思うようになっていた。逃げる手立ては、またその翌日にでも考えればよいと思っていた。

映画の最後に、失踪宣告が7年後に裁判所から下されたことが映し出される。

グールドは、この不条理な話の中に、人間の本質が描かれていると思った。

《自由》には、好きに動き回る自由と精神の中で感じられる自由の2種類がある。この主人公の男は、都会での生活を奪われ、妻や同僚とも会えなくなり、最初のうちは、「サルでもできる砂掻き」を拒否し、この生活から脱出しようとする。しかし、やがてその生活に順応する。順応するだけでなく、不満をおぼえず満足しはじめる。

いったい《自由》とは、何なのだ。だれもが思うままに生きたいと願い、そのように動き回れることが一番たいせつなことだと思っている。しかし、都会での生活のすべてをとりあげられた《男》が穴の中に囚われたとき、やがて《男》は、《自由》は失っていない、ここを出ていきたくなったら明日にも出ていける、それは自分の決心しだいだと思い、《砂の女》と今後の生活で生まれてくるかもしれない《子供》と、ずっと《サルでもできる砂掻き》をしていく()切り(ぎり)をつけたと(ほの)めかされている。

つまり、《自由》は、人間の心の中にあるものであり、見栄や虚勢、自己欺瞞のためにする争いや戦争してまで守るほど重要なものではない。人間の本質は、実はそんなところにはないのだろうとグールドは思った。

グールドは同時に、この映画のバックにながれる音楽にもつよい関心をもった。音楽を担当しているのは、日本の現代音楽を代表する武満徹だった。全編を流れる調性のない12音技法を使った不協和な弦楽器の音を細く、ときにふとく、上行させたり下降させたりしながら、緊迫した場面でときに強音を鳴らし、全編をとおして不安感を効果的に煽り、衝撃をあたえていた。ハイライトとでもいうべき、顔を隠した村人たちが、穴のうえに集まり好奇の目の衆人環境のなか、男が女を襲うシーンでは、和太鼓が神楽のようにはげしく打ち鳴らされる。

「砂の女」は、安部公房が書いた不条理文学ともシュールレアリスムともいわれる。これを勅使河原宏監督が、映画にするときに、安部公房自身が脚本を書いた。主演をしたのは、日本で一番人気のあった岡田英次と、三島由紀夫の戯曲で活躍をはじめた岸田今日子だった。岡田英次は日本でもっとも人気のある俳優であり、フランス映画「24時間の情事」にも出演し国際的にも名が知られていた。

この映画は、アカデミー賞外国語映画部門にノミネートされただけではなく、カンヌ映画祭審査員特別賞、サンフランシスコ映画祭外国映画部門銀賞を受賞した。

グールドは同時に、この映画をみながら、この映画には《自由》がもつ意味だけでなく、人間の《性》への作者のメッセージも隠れていると確信した。彼は、すぐにこの原作を読みたいと思った。

原作「砂の女」

1962年6月に刊行された阿部公房の「砂の女」は、翌年、読売文学賞を受賞した。映画は1964年4月に日本公開され、9月に英字字幕付きでニューヨークで公開された。英訳された《砂の女》[4]もほぼ同時に発刊された。

この小説は、《罰がなければ、逃げる楽しみもない》という裏表紙に書かれた《箴言》のような一文で始まる。

 ―― 罰がなければ、逃げる楽しみもない ―― 

人は罰せられなければ、自由を奪われ奴隷状態に置かれても逃げださないと作者は冒頭で暗示する。

この不条理で理屈のとおらない物語には、妙に現実感のある村人たち、男と女が発する会話のリアルさと、砂の穴に閉じ込められるという荒唐無稽な状況の奇妙さが同居し、映画では時間の制約により描いかれていないような細いプロットが多く書かれている。

まず、この小説の冒頭で、ある《男》が行方不明になったのだが、捜索願も新聞広告も無駄になった。何もわからぬまま7年が経ち、法律にもとづき、失踪宣告がなされ死亡が認定され帰ってこなかったと種明かしされている。

主人公の《男》は既婚者で中学校の教師[5]である。『情熱を理想化しすぎたあげくに凍りつかせてしまった』という結婚をして2年4ヶ月が経つ妻の《あいつ》とは別居中[6]である。もう一人、《男》が一応の信頼をよせる同僚の《メビウスの輪》[7]が登場する。

穴にとじ込められた《男》が、はじめて《砂の女》と交わるとき、別居中の妻《あいつ》が対比されるように出てくる。このとき、《男》の葛藤が長く語られる。

穴からの脱出に失敗した《男》が焼酎をあおり、逃亡するための梯子の材料にしようと家の壁をスコップで壊しはじめる。それをとりあげようと《砂の女》が《男》にむしゃぶりついて二人は絡み合い、突然、叫んだ《砂の女》は力をぬいた。《男》が《砂の女》を押さえつけると、むきだしになった乳房に手がすべった。スコップの取り合いあいが男女のカラミになっていた。突然、《砂の女》は言う。

「でも、都会の女の人は、みんなきれいなんでしょう?」

《男》は、勃起しはじめていたが、「都会の女?」という言葉に白け、腫れあがったペニスの熱がさめていった。

「どうやら、ほとんどの女が、股一つひらくにしても、メロドラマの額縁の中でなければ、自分の値段を相手に認めさせられないと、思い込んでいるらしい。しかし、そのいじらしいほど無邪気な錯覚こそ、実は女たちを、一方的な精神的強姦の被害者にしたてる原因になっている。」

《男》は過去に淋病にかかったことがあり、いつまでも全快したという確信がない。医者はノイローゼだというが、《あいつ》とのときは、かならずコンドームを使うようにしている。

コンドームを使うことを《あいつ》は、「私たちの関係は、お気に召さなかったらいつでも返品できる商品見本を交換しているような」もので、「たまには、押し売りしてやろうくらいの気持ちになってはいいんじゃない。」となじる。《男》が、「いやだね。押し売りなんて・・・」「そういうなら、合意の上で、素手にしようじゃないか」と返すと、《あいつ》は、「じゃあ、あなたは一生、帽子を脱がないつもり?あなたは、精神の性病患者なんだな・・・」と口論になる。

《男》は、性病がメロドラマとは対極にある真実だという。メロドラマはこの世に存在しないことの絶望的な証拠の品である、「おまえは、鏡の向こうの、自分を主役にした、おまえだけの物語に閉じこもる。・・・おれだけが、鏡のこちらで、精神の性病を患い、おれの指は、帽子なしでは萎えて役に立たない・・・おまえの鏡が、おれを不能にしてしまうのだ・・・女の無邪気さが、男を女の敵に変えるのだ。」と思う。

「都会の女の人は、みんなきれいなんでしょう?」と《砂の女》に言われた《男》はいまいましく感じたものの、奇妙な情感、コンドームなしでも彼の指は立派に脈うち、いきみかえった名残の火照りが残っていた。だが、《男》は、精神的強姦は生こんにゃくを塩をつけずに食うようなもの味気ないものであり、相手を傷つけるより前に、自分を侮辱するものだと気乗りがしない。

《メビウスの輪》は女を口説くときに、性欲には2種類あるという味覚と栄養の話をする。飢えきった者にとっては、食物一般があるだけで、神戸牛とか、広島の牡蠣の味だとかいうものはまだ存在していない。満腹が保証されてから、個々の味覚も意味を持ってくる。性欲も同様だ。時と場合に応じて、ビタミン剤が必要になったり、うなぎ丼が必要になる。《メビウスの輪》の理論に従って、口説かれた女はいないが、精神的強姦が嫌なばかりに、《メビウスの輪》は、せっせと空き家の呼び鈴を押している。《男》も、純粋な性関係を夢想するほどロマンチストではない。そんなものは、おそらく、「死に向かって牙をむきだす時にしか必要ない。涸れはじめた笹はあわてて実を結ぶ。飢えた鼠は、移動しながら血みどろの性交をくりかえす。結核患者は一人残らず色情狂に、王や支配者はハレムの建設に情熱をかたむけ、敵の攻撃を待つ兵士たちは、一刻もおしんで、オナニーにふけりだす・・・・」

だが、現実の世界は、死の危険ばかりにさらされているわけではない。冬さえ、恐れる必要のなくなった人間は、季節的な発情からも自由になれることが出来た。

しかし、戦いが終われば、武器はかえって手足まといになる。秩序というやつがやって来て、自然のかわりに、牙や爪や性の管理権を手に入れた。そこで、性関係も、通勤列車の回数券のように、使用のたびに、かならずパンチを入れてもらわなければならない。その確認のためにあらゆる証文がある。しかし、証文はこれで足りているのだろうか、男も女も、相手がわざと手を抜いているのかと、暗い猜疑のとりこになる。《あいつ》は、《男》を理屈っぽすぎると非難する。性に贈答用の熨斗(のし)をつけたりするような悪趣味まで、我慢しなければならないほどの義理はない。もし、秩序の側で見合った生命の保証をしてくれるなら譲歩の余地もあるが、現実は、空から死の(とげ)が降り、地上でもありとあらゆる種類の死で、足の踏み場もない。どうやら、つかまされたのは空手形だったらしい。

こうして不服な性を相手にした、回数券の偽造がはじまる。精神的強姦が必要悪として黙認される。こいつなしには、ほとんどの結婚がなりたたない。互いに強姦しあうことを、もっともらしく合理化しているだけのことじゃないか。あわれな指には、もう帽子をぬいでくつろぐ場所さえない。

《砂の女》は、服を脱ぎ始める。こういう女が本当の女なのだ。女の体が、とりひきに使われる段階は、とうに過ぎてしまった・・・いまは暴力が状況を決している・・・かけひきを度外視した、合意のうえの関係だと考える証拠はじゅうぶんにある。

・・・・それにしても、女の太股に、なぜこれほど激しく誘いよせられるのやら、わけがわからない・・・・《あいつ》との時には、おおよそ経験したことのない一途さだ。・・・いまのおれに必要なのは、このがつがつした情欲なのだ。

けいれん・・・・同じことの繰り返し・・・・・別のことを夢みながら、身を投げ入れる相も変わらぬ反復・・・・食うこと、歩くこと、寝ること、しゃっくりすること、わめくこと、交わること・・・

けいれん…絶叫し、狂喜して進む、この生殖の推進機構の行く手をはばむことは出来なかった。・・・やがて、身もだえながら振りしぼる、白子の打ち上げ花火・・・無限の闇をつらぬいて、ほとばしる流星群・・・

そのきらめきも、ふいに尾をひいて消えてしまい・・・男の尻を叩いて、はげましてくれる女の手も、もう役には立たない。

結局、なにも始まらなかったし、なにも終わりはしなかった。欲望を満たしたものは、《男》ではなくて、まるで《男》の肉体を借りた別のもののようでさえある。・・・・役目を終えた個体は、さっさとまた元の席へと戻って行かなければならないのだ。幸せなものだけが、充足へ…悲しんでいるものは、絶望へ・・・死にかけているものなら、死の床へ、と・・・こんなペテンを、野生の恋などと、よくもぬけぬけ思いこんだり出来たものである・・・回数券用の性とくらべて、はたしてどこかに取り柄らしいものでもあっただろうか?・・・・こんなことなら、いっそ、ガラス製の禁欲主義者にでもなっていたほうがましだった。

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グールドは映画を観たあとに読んだ原作に、やはり、とても驚いた。彼がふだん感じている自由と性への疑問や懐疑といった、もっとも関心がある問いに作者が答えているように感じたからだ。

グールドはこう考えた。―  ほとんどの女にとっては、精神的強姦の被害者を生むいちばんの原因は、股一つひらくにしても、メロドラマのなかでしか相手に価値を認めさせられないという思いこみがあるからだろう。それは、結婚生活のなかにも隠れている。ヒロインになって相手に幻想をいだかせなければならないというあせりがあるからだろう。もちろん、メロドラマは幻想にちがいない。そうかといって精神的強姦は、相手を傷つけるより前に自分を侮辱するものだ。

戦闘行為がすめば、兵器はじゃまになる。戦闘後の秩序のなかで、何度も繰り返す性関係は、通勤列車のような回数券で管理される。この管理をするために、たくさん証文が発行されるのだが、時間がたつと証文は効力を失ってしまう。現実にはあらゆるものが変質し、死屍累々となってしまう。やがては、不服な性の相手に回数券の偽造をはじめ、生こんにゃく[8]を塩もつけずに食うような味気のない精神的強姦が必要悪として許される。互いに強姦しあうことが合理化される。これがほとんどの結婚の本質だ。

グールドは、心に描く女性、作曲家ルーカス・フォスの妻であり画家のコーネリア・フォスを思い浮かべた。

「彼女はとてもまれな存在であり、メロドラマのヒロインになって、自分を実際より値打ちがあるように見せようとするような女性ではない。ぼくは、女性をメロドラマのヒロインのように崇め、ナイトのように男らしく振る舞おうとしてきた。しかし、女はヒロインである必要はなく、男はナイトになる必要もないのかもしれない。彼女は、明るくて利発で、ぼくを理解している。なにより、ぼくたちは対等な芸術家であり、芸術をうみだす苦悩をともにしている。《砂の女》と《男》とはちがう。ぼくがもし砂の穴に囚われたら、脱出してピアノを弾き続けることを選ぶだろう。ぼくは、この《男》のように砂の中で囚われて、砂を掻きながら《砂の女》と暮らすことを選択しない。ぼくは芸術家であり、選ばれた使命をもってうまれてきた人間だからだ。」

「ぼくには、音楽以外なにもない。人付きあいもできないし、世渡りができる特別な知識も技能もなにもない。ぼくにあるのは、ただ音楽だけだ。」

「なにも出来ないぼく、すべての身を音楽に捧げるぼくが生きていくには、だれか世話をやいてくれる母親のような存在が必要だ。それは、結婚相手だろうか?」

「真の恋愛と結婚は精神的強姦をしない前提にした、おたがいが尊重しあい認めあうことが必要で、一方的に世話をやいてもらいずっと受けとり続けるわけにはいかない。だが、時の経過がすべてをかえてしまい、変わらないと思ことは、あり得ない空手形をつかまされることなのだろうか?」

「たしかに恋愛も、はじめはかけひきを伴う戦争かもしれない。しかし、やがて戦争は終わる。戦闘に使った武器は不要になり、くりかえす日常と秩序があらわれる。結婚はあらゆる証文にまもられた秩序だ。だが、秩序は、猜疑心と欺瞞ですりへり変質していく。こうして回数券の偽造がはじまる。」

グールドは、13歳の子供の頃から「僕は独身をつらぬく」[9]といっていた。芸術にすべてをささげるためには、結婚は余分だと考えていた。母フローラは、息子が「特別な子供」[10]となり、音楽をとおして世界に多大な貢献をすることをつねに願っていた。そしてそのためには、音楽以外の優先順位はひくく、寄り道は許されなかった。若い間は恋愛を後回しにして、立派な音楽家、ピアニストになってから、息子が結婚すればよいと考えていた。

息子はその思いを最初はそのとおりに受けとっていた。しかし、ゲレーロとのレッスンでの議論をなんどもくりかえすうちに芸術に結婚はじゃまだ、芸術は《これまでにないものを追及すべきだ》、《反社会的でなければ、芸術家は新しいものは生みだせない》と考えるようになっていった。彼は、母フローラを乗り越えるだけでなく、さらにその向こうへ行こうとしていた。彼の目指す音楽は、過去の名演奏を再現することでも、作曲家の意思を忠実に再現することでもなかった。作曲家が作曲した曲の内側から光を当て、これまで誰も知らなかった発見や表現を見つけだすことであり、それには、生活態度や思考が保守的ではあってはできないと考えていた。こうした考えが、ピアノの恩師、ゲレーロとさいごに対立してしまうのだった。

しかし、性的にずっとナイーブだった彼も、恋愛と性体験をするにつれ、異性を好きになり、自分のものにしたいという願いが、芸術を生み出そうと生み出すまいと、抜き去ることはできなかった。ぼくのエクスタシーは音楽だと思うものの、性のエクスタシーを否定することはできなかった。

性交にたいする欲求は否定しがたい。落ち着いた人生を送りたい。だが、結婚は証文にまもられた秩序だ。その証文の効力もいつまであるのか怪しい。激しい情欲、絶叫し狂喜して進む、この生殖の推進機構の行く手のけいれんは、なにも始めないし、何も終わらせないことはわかった。偽造された回数券で性交をするより、ガラス製の禁欲主義者になったほうがましなのか?

けっきょく、この物語の《男》は、猿でもできる毎日の砂掻きと、《砂の女》との回数券の性を選んだ、

ぼくは、芸術を生みだすために絶対に必要なものは、孤独だと思っている。孤独なしに芸術は生まれない、と思っている。もし、他の人間と1時間いると、それをX倍した時間だけ一人になる必要がある。孤独は人間の幸福に欠かせない要素だ。

この小説の他の場所には、こうも書いてあった。

「欠けて困るものなど、何一つありはしない。幻の煉瓦(れんが)を隙間だらけにつみあげた、幻の塔だ。もっとも、欠けて困るようなものばかりだったら、現実は、うっかり手もふれられない、あぶなっかしいガラス細工になってしまう。・・・・・だから誰もが、無意味を承知で、わが家にコンパスの中心をすえるのである。」

グールドは繰り返しこの映画を見、原作を読んで、芸術と結婚について考え、おかしいのは社会通念の方だと思った。

おしまい


[1] ブラームスの言葉 「神秘の探訪」 「アーティストのポートレイト」P373

[2] プログラム 「グレン・グールド大研究」宮澤淳一年表から バッハの「フーガの技法」から4曲、パルティータ第4番、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第31番、ヒンデミットのピアノ・ソナタ第3番

[3] 「砂の女」(新潮社版)88ページに「教頭が捜索願の書式を問い合わせに警察を訪れる段取りになる」と書かれている。

[4] 英訳は、”The woman in the dunes”というタイトルで、E. Dale Saundersにより1964年に刊行された。この「砂の女」は世界40か国語以上に翻訳され、ノーベル文学賞候補になる。(NHKブックス・ヤマザキマリから)

[5] 教頭が捜索願を出すだろと書かれている。

[6] 「砂の女」の14章に、「主人を失った彼の下宿を一目見ただけで・・・読みさしの本・・・すべてが中断をこばみ、生き続けようとしている・・・」とあり、その下宿に彼は置手紙をしてきたことが書かれている。

[7] メビウスの輪 一度ひねった紙テープの両端を貼り合わせたもので、裏も表もなくなる。

[8] 生こんにゃく 英語版では、生こんにゃくを“unsweetened tapioca”と訳されている。

[9] 「独身をつらぬく」 「愛と孤独」にロバート・フルフォードの発言として“He is a confirmed bachelor at thirteen,” Fulford wrote in the Malvern newsletter on April 3, 1946.と書かれている。

[10] 「特別な子供」 「グールド伝」第4章35ページ 注釈にジェシー・グレイグが1985年のCBCテレビのインタビューで答えている。

グールドの力づよい《ハミング》《鼻歌》は、な、な、なんと、目の前にあった!!

ハミングを止められないグレン・グールドは、ゴルトベルク変奏曲を録音するとき戦争で使われたガスマスクをしてスタジオに現れ、皆を大いに楽しませたという。
(Why would Glenn Gould wear a gas mask in the studio? | CBC Music | Scoopnestから)

グレン・グールドは、歌を歌いながらでないとピアノを弾けなかった。母親が、幼児の頃からピアノを弾くときにメロディーを歌いながら弾くように教えたからだ。この癖は、生涯抜けなかった。また、ピアノを弾くときに非常に低い位置で弾いた。そのために父バートが作ってくれた、4本の脚を約10センチほど切り長さと傾きを微調整できる折り畳み椅子を、何処へでも持ち運び、死ぬまで使った。この2つの逸話は彼の人物を語るうえで一番重要なものかもしれない。

グールドが生涯使い続けた椅子。最晩年には座面がなくなっても、この椅子を前傾するように調整して弾いていた。もちろん、代わりの椅子は作られるのだが、グールドは気に入らなかった。
歌いながら弾くグールド:USB版コンプリートエディションから

今年の春に、清塚信也さんと鈴木愛理さんがMCをされている毎週放送のNHK「クラシックTV」が、グレン・グールドを特集した。(下がその「クラシックTV」を取り上げた親爺のブログです。)この番組で清塚さんは、冒頭にグールドが《エキセントリック》な人物であることを説明するのに、演奏に彼の《ハミング》《鼻歌》が入っているとこのようにいわれていた。

う~、ふぅ~ん、う~んって声が入っているから、子供の頃、グールドのレコードを聴いたとき《心霊現象》だと思った。音程も取らずにう~、ふぅ~ん、う~んってやるから、音楽にはなっていない。歌では、ないんです。・・・・常識が通用しない人なのかなっていう節が、そういうところに見られる。」

ゲストは、ハリー杉山さんである。

この番組で放送された《ハミング》《鼻歌》を、親父のブログを見てくださった方に伝えたところ、「え~っ!、ブラジルさんはグールドのハミング、鼻歌分かっていないんじゃないですか?」と言われてしまった。たしかにそうだよなあ、と納得してしまった。

というのは、グールドの演奏は有名なゴルトベルク変奏曲の録音が1956年であり、当時はモノラル録音で音は良いとはいえなかった。彼が出したレコードのうち最初の正規録音4枚は、モノラル録音である。最近グールドの録音が発掘されて新発売されるが、これらはもっと音の悪いCBCカナダ公共放送のモノラルのラジオ放送が音源のことが多い。要するに、コロンビア・レコードのモノラル録音が当時の最高技術水準だった。

グールドは、2番目の録音に、ヴィルトゥオーソと言われるような老練のピアニストが好んで弾く、ベートーヴェンの最晩年のピアノ・ソナタ30番、31番、32番を『強烈』な演奏で録音した。『強烈』という意味は、楽譜の指示どおりに弾いてないところもあり、正統的、伝統的な演奏とかけ離れたクラシック音楽界への挑戦だった。この曲が入ったCDを親爺は、曲の良し悪しより録音の悪さが気になって正直敬遠していた。親爺は、てっきり雑音だらけだと思っていた。

ところが、指摘を受けて聴き直してみると、録音が悪いというのはあるが、グールドの唸り声がずっと録音されているじゃあありませんか。雑音と唸り声が同じレベルで入っている。

親爺は、グールドにハマって、1950年代のグールドの録音を何とか良い音で聴きたいと思ってオーディオにお金をかけてきた。だが、グールドの唸り声を知らなかった。下の写真のB&Wというイギリスのスピーカーとヘンな格好のヘッドホンは、結構な値段がした。はっきり言って情けない。まあ~、わからなかったものは仕方がないかなあ。

何といっても《ハミング》《ハナウタ(鼻歌)》という表現はかなり商売上の忖度が入った手加減をした表現ではないかと思う。実際はそんな生やさしくキレイなものではない。あれは、清塚さんがいう《心霊現象》である。親爺には《背後霊の呻き声》に聞こえる。だいたい歌のようにながくつづこともなく、なんの意味も持っていない。ピアノの音の背景で、ときどき《妙な声》が瞬間瞬間に入っている。まれにグールドの歌が声楽家のように入っている演奏があるが、長い時間ではない。

1959年録音のバッハのイタリア協奏曲とパルティータの第1番、第2番のLPを、1999年にSACDにしたものには、日本語で書かれた帯がついており、「*一部ノイズはオリジナル・マスターテープに存在するため、ご了承ください。グールド自身の声(ハミング)もございます。」と書かれている。

基本的に、当時の録音技師たちも、グールドの歌声が録音されないように格闘したはずだ。親爺は、ピアノの演奏を録音する際に、音源であるピアノの中にマイクを突っ込み振動する弦の音を取るようになったのは、グールドが出てきたときが最初だったのかもしれないと想像するのだが、どうだろう。

先に書いたように、同じ椅子を彼は生涯つかい続けた。最初は、座面がありクッションがあった。時間の経過とともに、座面の詰め物が飛び出した。やがて、座面のクッションの部分は完全になくなり、木の枠、骨組みだけになった。椅子が軋むようになったので、演奏の際には、音がしないように絨毯が敷かれるようになった。写真を見ると、椅子の傷み具合で、何年頃の演奏なのか見当がつくといわれる。

グールドの凝り性の程度が分かろうというものだが、敷物をおいても骨組み自体がきしむ。この音が、ヘッドホンではわかる。スピーカーではわからない。といいながら、何の曲だったのか探そうと、録音時期の遅いトッカータ集やフランス組曲などを聞いて見たのだが、生憎よくわからなかった。

最後に静かな曲がいいだろうと思って、1981年録音のバッハのフーガの技法の終曲コントラプンクトゥス第14番(未完)を聴いて見た。この曲を聴いているとグールドはずっと大きな声で歌っている。見事にハモっていると言っていいくらいだ。おそらくなのだが、椅子のきしむ音もときどき入っている気がする。曲想が変わる部分で右手だけで長い旋律を弾くところがわかりやすいと思う。書物などのページを繰るような、ピアノでもないグールドの声でもない、雑音らしきものがする。

テニス・クラブの仲間に言われたことがある。「ピアニストの演奏する椅子が軋む音を聴いて、喜んでいても仕方ないんじゃない?」

そりゃそうだ。おっしゃるとおりです。返す言葉がありません。

ところが一方で、グールドのいろんな曲を聴きながら、あらためて「やっぱり、グールドの演奏はどれも凄い、素晴らしすぎる!」と思ってしまった。

おしまい

「紹介/contact」をリライトし、職歴とサラリーマン生活で感じたことなどを書きました。

固定ページである「紹介/contact」のページを書き直しました。親爺の職歴や、経理経験で感じたことなどを書かせてもらいました。宣伝のために、同じものを投稿いたします。

東洋経済オンラインから:青函トンネル

1954年生まれ、千葉で暮らしています。サラリーマン生活を、青函トンネルや各地の新幹線を建設する日本鉄道建設公団(のちに独立行政法人へ改組され鉄道運輸施設整備機構と改名)というところで20年、途上国の開発を援助する国際協力事業団(のちに独立行政法人へ改組され国際協力機構と改名)というところで、20年間勤務しておりました。その途中で、短い期間ですが関西空港株式会社にも勤務したことがあります。どちらも転勤の多い職場でした。関東地方以外では、新潟、函館、大阪、福岡、高知、ブラジリア(ブラジル)、ポートモレスビー(パプアニューギニア)で暮らして、それぞれ思い出深い勤務地でした。

そのどちらにおいても経理関係の仕事に従事し、決算などを担当してきました。

ちょうど、バブルが崩壊したときもやはり経理を担当しておりました。おりからグローバル・スタンダードの掛け声のもと、日本の会計ルールが《時価会計》へと改められました。このときに「今、会計基準を変更したら土地の投げ売りが起こるだろう。」と思っていたらそのとおりになりました。

時価評価というのは、決算期ごとに資産価値をその時の価格へ再評価する(評価しなおす)ものですが、バブルがはじけようとする時期にこれをやることは、不良債権を爆増させる効果があります。つまり、企業が持っている土地の評価損はこれまで売らない限り表に出なかったのですが、再評価することで帳簿上の価格が下がってしまうと赤字決算になります。赤字を放っておくわけにはいきません。つまり、土地を皆が売り、ますます土地の値段が下がるスパイラルが起こるのです。

バブル崩壊に合わせて、アメリカのハゲタカファンドが日本の不動産を安い価格で買い叩きにやって来るのですが、今にして思えば、日本のバブルがそろそろ崩壊すると考えていたウォール街の策略に、日本の政治家がまんまと乗せられた結果だと思います。

日本鉄道建設公団というところで勤務していた時に、《カラ出張》問題を起こして日本国内を騒然とさせました。カラ出張でねん出した手当てを賃金の一部に充当していました。私は、新潟で勤務していたのですが、誰かが《カラ出張》を内部告発をしたのです。誰が内部告発したかは、今でもわかりません。マスコミが連日報道し、公団総裁は辞任しました。世論にこの法人を潰せという声がつよくおこり、そうした声をうけて、職員の新規採用が停止、職員の多くが他方人や地方公共団体へ出向させられました。

私も何人かの同僚とともに国際協力事業団へと出向することになり、出向期間が終わるときに採用試験を受けて事業団へ転籍しました。

こちらでも経理関係の仕事をしておりました。民主党政権時に「特殊法人は資産処分して、その売却金額を国庫納付しろ」という閣議決定がなされ、自民党政権に代わってもこの方針は変わりませんでした。事業を行ってきた国際センターや研修所、職員住宅などの大量の不動産を売却し、財務省理財局へ現金や現物納付の仕事をした経験があります。ちょうど、処分時期が不動産価格の低迷していた時期でしたので、「もったいないなあ」と矛盾を感じながら仕事をしていました。このときは主務官庁である外務省の経済協力局、不動産を担当する在外公館課、財務省の理財局、国際センターなどの所在する財務局、時に弁護士の先生方などと協議しながら業務をしていました。

先に書いたように、資産の評価は国際標準に改められ時価評価になりましたので、どこの法人も遊休している資産は稼働が見込めなくなると、「減損処理」というのですが、売却しなくとも帳簿価格を下げる必要があります。こうしたことを公認会計士や税理士の先生方と相談しながら業務を進めるわけです。

国際協力事業団では、ブラジル事務所とパプアニューギニア事務所で海外勤務しました。やはりこちらでも経理関係を中心に、現地職員の労務管理や裁判関係などを担当していました。

ブログを書き始めた経緯は、パプアニューギニアへ赴任が決まった時に、普通の人が勤務できないところ行くのだからブログを始めてはという従兄の勧めによるものです。

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趣味ですが、クラシック音楽のカナダのグレン・グールドというピアニストにはまっています。彼は、いわゆる正統派のピアニストではありません。これ以上ないほどの技量を持っていますが、作曲家の感覚で伝統にとらわれずに曲に取り組み、常にこれまでにない演奏をします。楽譜どおりに演奏しない、楽譜そのものに手を加えることもするので物議を醸してきました。没後41年ですが、CDショップではグールドのCDやDVDなどが大量に販売されており、人気はいまなお健在です。書籍も大量に販売されています。ぜひ聴いてください。

またテニス・フリークでもあります。テニスは社会人生活を始めたときに、日本鉄道建設公団の独身寮にテニスコートがありました。そこで始めてから約50年になります。腕前は相変わらずですが、テニスをつうじた仲間を多く作ることができ、親爺の人生にかなりの色どりを与えてくれました。

リーマンショック後、サブプライムローンを抱えていなかった日本経済の立ち直りが欧米より遅いことに疑問を抱きました。リーマンショックの震源地であるアメリカは、いち早く経済を立ち直らせました。しかし、日本にはサブプライムローンがないのに、デフレがもっと酷くなったのです。それで、10年程前から《リフレ派経済学》を勉強し始めました。異次元の量的緩和は不発に終わりましたが、YOUTUBEでMMT《現代貨幣理論》を知り、「赤字国債が借金ではなく、国民の資産」になるという貨幣観へと変わりました。現代貨幣理論は真実です。簿記を知っているとさらっと理解できます。

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ここからはわたしの問題意識を書きます。興味のある人だけ読んでくださいね。

結論から言うと、日本人のほとんどが地上波のテレビ放送のせいで日本の置かれている現状に何の問題がないと思っています。ネットや、YOUTUBE、ツイッターなどのSNSを使っている人が非常に増えましたが、やはり、人々がニュースなどの情報を手に入れるのは、圧倒的にテレビであり、特に地上波のバラエティ番組とニュース番組からだと思います。

この無料で手軽に流れている地上波のテレビ放送が一番の問題だと思っています。 

マスコミに対して、日頃思っている怒れるヘンコツ親爺の問題意識を次に書きます。

親爺は、2~3年ほど前から、YOUTUBEをよく見るようになりすっかり世の中を見る目が変わってしまいました。

しかしYOUTUBEを始めとするSNSにも大きな問題があります。YOUTUBEやFACEBOOKなどは検閲を行っています。何でも発信できる《プラットフォーム》と言われてきましたが、何でもは発信できていないのです。

例えば、《政府やWHOなどに反対する意見》、《殺人》《自殺》とか、《性的な表現》、ガーシーが逮捕されましたが《誹謗中傷》も該当します。これらをすると動画が削除されます。この基準が正しければ問題ないのですが、実際は恣意的に運用されています。結局のところ、SNSの世界でも言論の自由はありません。多くの動画がニコニコ動画へ移っているのですが、使い勝手が悪いこともあり、視聴者の数は減っていると思います。

ただし、X(旧TWITTER)は、オーナーがイーロン・マスクに変わり自由に意見が言えるように変わっています。

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親爺もわずか数年前まで、テレビのニュース番組を見て社会を知ったつもりになっていました。ところが、NHKも民放も、新聞も雑誌(『週刊文春』を除く。)も、国民に現実を知らせない。自分に有利なことだけを報道し肝心なことはスルーしています。

おかげで「日本は世界に例のない安全で良い国だ。」とか「欧米のインフレに比べて日本はうまくやっている。」とか多くの国民は思っています。ニュースを取捨選択し、報道する場合は、放送局自身のステータスを保つか上げるもの、自分に悪影響が跳ね返ってこないニュースだけを取り上げ、不都合なトピックはスルーしています。

この原因は、マスコミ関係者に左翼系のリベラリストが多いからだと思っています。左翼系のリベラリストとは、自由と平等が何より大事、防衛力強化などとんでもない、平和と環境保護が最も大事だと考える人たちです。自由と平等は、そもそも同時に両立しない概念です。口で反戦を唱えたら、敵国は侵略をしてこない、自由と民主主義は守られると考えるお花畑の住人です。ポリコレ、LGBTQ信者といってもいいでしょう。いざとなったら、アメリカが守ってくれると言うのかも知れませんが、今のアメリカにはその気もないし力もありません。同盟はかけ声だけです。

そういう信念を持つマスコミですが、財務官僚をはじめとする利害のある官僚、忖度する政治家、例えば無益無害でポリシーのない岸田総理は持ち上げ、影の総理といわれる木原誠二氏などにまつわるネガティブな事件はスルーし報道しません。他方、放送法の改正を公然と口に出し放送局の既得権益を侵しかねない、靖国神社へ先頭で参拝する高市早苗氏などは、人気が下がるようなトーンの番組を意図的に流しています。

基本的にマスコミには、いまや取材力がありません。コバンザメになって、官僚と政治家につきまとい、おこぼれをもらうことしかできません。丸め込まれないと記事を書けない、言いたいことは書けないのです。

マスコミはその点、非常に気の毒です。《個人情報保護法》と《情報公開法》が出来て、情報へのアクセスを妨げるようになったと思います。《個人情報保護法》により、国民の意識が変わり個人情報は秘匿されてなかなか出てきません。公益性があってもです。《情報公開法》とは名ばかりで、この法律により、行政機関が持つ情報が公開されるのは、その機関の長が事業に差し支えないと判断したものしか公開の義務がありません。そのためにマスコミが役所や政治家の悪事を嗅ぎつけても、根拠となる情報にアクセスするのが昔に比べてはるかに難しくなっていると思います。

とはいうものの、マスコミの責任放棄はあまりにヒドイ社会に対する悪影響は計り知れない。おかげで、官僚や政治家がやりたい放題しても、問題視することなくスルーされている。

そのためにマスコミは、芸能人の不倫、日本大学アメフト部の麻薬問題、ビッグ―モーター不正事件などを取り上げるものの、これらはマスコミが報道しても不利益がないものばかりです。大リーグネタ、大谷翔平は、親爺も好きなのでよく見ていますが・・・。

そのように重大なトピックがあっても、自分にとっての損得計算をしたり、忖度して放送しないことを考えているので、放送の中身がやたら天気予報が長く詳しくなり、台風情報、災害情報、防災情報を長尺に放送します。また、何十年前に日航機が墜落したとか、東北沖や神戸や北海道で地震、津波が起こった、子供や家族が殺がされて何十年たったとか、これらを忘れないで風化せないようにしようとか、そんなことばかりを放送しています。

放送されていない、あるいは放送されていても不十分な事柄には、次のようなものがあると思います。

  1. ジャニーズ性加害問題。これはマスコミは共犯です。当時の経営者責任を追及できないとしても、すくなくとも現在の社長、会長たちは、自分たちの報道姿勢が間違っていた、共犯であり被害者を増やしたと認め、今後は姿勢を改めるとゴールデンタイムに長い時間を取って表明すべきです。(BBC放送の要点は、日本のマスコミの責任を問うものでした。)
  2. 木原誠二官房副長官夫人の元夫不明死事件への捜査介入疑惑と木原氏本人の違法デリヘル問題(違法デリヘルというのは、風俗嬢を呼ぶ《デリバリー》のことですが性行為は禁止されている。)テレビの強い者に対する放送しないという姿勢はあまりにひどいです。《週刊文春》は、裁判になっても負けないように証拠を持ったうえで報道しています。
  3. BBCが第2弾を放送。日本を舞台にした中国人がラッシュの電車の痴漢実写ビデオを販売している件(BBCは、犯人の顔まで映している。日本のマスコミは報じない。)
  4. 自民党松川るい氏、今井絵理子氏ら38人が、税金を原資にする政党助成金でパリ観光していたことで炎上したが、テレビニュースやワイドショーなどで詳しく地上波は報道しない。
  5. 自民党女性活躍担当首相補佐官の森まさこ氏(この人は、弁護士資格を持つ元法務大臣で、日産のカルロス・ゴーンが逃亡した際、『法廷で自身の潔白を証明すべきだ。』と口を滑らせ、数時間後に撤回するハメになりました。被告が身の潔白を証明する必要はありません。検察側が犯罪を立証しないとならないのです。)が、ブライダル業界への補助金をツイッターで少子化対策と自画自賛の投稿をし、さらに100万円を受領していたため利権を疑われて炎上しているのですが、やはり地上波は詳しく放送しない。
  • 新型コロナのときに、テレビは「コロナはおそろしい病気だ」という報道をさんざんしました。しかい、専門家委員会に対し反対意見を持つ多くのウイルスの専門家や医師もいたにもかかわらず、これらの反対意見は報道しなかった。街頭インタビューの市民の反応も反対意見をまったく流しません。この街頭インタビューの市民の反応は、テレビ局が誘導したい声だけを流しており、反対意見は放送しません。この市民の受け答えが、他の国民へ及ぼす影響は非常に大きいです。
  • 「国債は借金で、将来の子孫へツケを残す。」という財務省の意向に沿った放送はしますが、反対意見を持つ専門家も多いにもかかわらず、こちらは放送しない。マスコミはまともに経済を勉強して、発言しているとは到底信じられません。条件反射のように、財務省からもらってきた資料を無批判に右から左へと報道しているだけです。
  • 《貧困》問題を報道しない。夏休みに給食を食べられず食事にありつけない子供がいることや、低賃金や、授業料を払えなかったり、学生ローンが原因で女性が体を売ったり、若い男性はやはり低賃金のため闇バイトに応募して犯罪の捨て駒にされている。男女どちらも貧困のせいで結婚率がダダ下がりしているのだが、これを問題視した報道をしない。報道することがあると、「他山の石」(他人の失敗を見て、自分は注意する。)のような報道姿勢である。
  • 地方の経済的窮状を取り上げない。地方は都会以上に窮している。
  • その後の統一教会問題を報道しない。

おかげで大半の国民は、日本政府は良くやっている、日本は平和で良い国だと思っています。

だが、現実には日本が抱える問題は大きくなり、とくに若い貧困男女は、すぐに日本脱出するべきだと親爺は思っています。例えば、オーストラリアへ日本と同じ仕事に着けば、数倍の賃金を得られ、数年で多額の貯金を出来ます。

貧困問題について、ユーチューバーの中田敦彦氏が、テレビのバラエティ番組に出た時に、日本のことを《不況》と表現したら、ディレクターから「『不況』という言葉はテレビではタブーです。言ってはいけません。」と諫められたと言っていました。テレビで、「景気が悪い」と言うのは、御法度なのです。

国の借金や財政の問題で、財務省の唱える主張に反する内容をマスコミが報道することはないと書きました。仮にそうした報道をすると、次回から財務省から情報提供されなくなるからです。逆に、何を言われても反論しない弱い立場の日銀をあることないことで徹底的に批判し、《スケープゴート》にしています。金利を上げて欧米のように正常化しろというのですが、こんなことをしたら、デフレから脱却できません。デフレ脱却は財政の仕事であり、日銀の仕事ではなく財務省の所掌です。

マスコミの取材力のなさと関係しますが、日々起こる事件は、犯人が逮捕された段階で、はやばやと報道しますが、これは検察や警察の記者発表と、その後の関係者のリークが報道ソースです。マスコミが独自に調査したものではありません。

捜査情報を公務員がマスコミにリークすることは、地方公務員法の守秘義務違反であり、裁判が始まっていない段階から被疑者を犯人扱いするのは、《推定無罪》の原則が無視され、民主国家のやることではありません。マスコミは記事を、検察と警察の記者発表と、これらの公務員にべったりはりついて、《おこぼれ》記事を貰っており、御用報道しかできません。

新型コロナや健康番組は、国民の不安を煽ることがもっとも視聴率を稼げると考え、テレビは不安を煽る内容の番組ばかりやるのです。

ウクライナ侵攻に対する報道もそう考えることが出来ます。もちろん親爺は、プーチン大統領が正しいと言うつもりは毛頭ないですが、世界は欧米と日本・韓国の西側 vs ロシアだけではありません。中間的な対応を取っている国である、中国やインド、南米やアフリカ諸国などの方が多いのです。日本の報道は、アメリカの民主党政権寄りの情報だけを報道しています。

地上波テレビを信じるのはもうやめましょう!!

おしまい

第11章 一風変わった曲目のアメリカ・デビューと巨大レコード会社との専属契約

22歳のグールドはアメリカでのデビュー演奏を、1955年1月2日、ワシントン、フィリップス・ギャラリーと1月11日、ニューヨーク、タウン・ホールで行った。

タウンホール外観
タウンホール内部

初日のワシントンのリサイタルを聴いた《ワシントン・ポスト》紙の批評家、ポール・ヒュームは絶賛した。

「1月2日の段階でいうのは早すぎるかも知れないが、ことし昨日の午後フィリップス・ギャラリーでのピアノ・リサイタル以上に素晴らしいリサイタルが催される可能性は少ない。これと同じくらい美しく、かつ示唆に富んだリサイタルがあるとすれば、わたしたちは幸運である。・・・グレン・グールドは類まれな才能をもったピアニストである。すぐにでもその演奏を聞き、しかるべき敬意と歓迎の意をしめさなくてはならない。どの世代を見てもグールドに匹敵するピアニストは皆無である」

アメリカで二度目の公演であるニューヨークのリサイタルの観客は、せいぜい200人と少なかったが、ヒュームの記事のおかげで、有名ピアニスト、ニューヨーク在住の評論家やカナダからきた記者や評論家が集まっていた。

観客席には、両親とマネージャーが座っていた。

マネージャーのホンバーガーは、グールドは必ず成功すると確信していた。ホンバーガーは、グールドが演奏する曲の選曲のことや、舞台の上でも舞台を降りた後でも、彼の振舞などには一切口を出さず意見も言わなかったが、グールドが成功することは初めて見たときからずっと確信していた。ホンバーガーは、音楽のことはもちろん好きだが詳しくはないと思っていたし、やれ姿勢が悪い、みょうな声を出しながら演奏すると批判されるグールドの演奏スタイルを悪く言われると、「音楽だけを聴けばいいでしょう。」とグールドの弁護を続けてきた。

両親は、カナダですでに大成功した息子がいよいよ世界デビューすることが誇らしく、間違いなく成功するだろうと思っていた。しかし同時に、もし息子が成功して自分たちの手の届かないところへ行ってしまったらどうしようという不安も抱いていた。

グールドは、一番自分をアピールできると考え、ワシントンとニューヨークの両日とも同じもっとも自信のあるプログラムを演奏した。その選曲は、これからピアニストとしてデビューしようとする演奏家の選曲とははっきりとかけ離れて挑戦的だった。

彼のプログラムは、中世の古楽を2曲、バッハのシンフォニア5曲とパルティータ第5番の2種類で始まり、休憩をはさんだ後に、無調の12音音楽、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第30番、最後に再び現代音楽というものだった。

バッハのシンフォニアは、ピアノ習ううえでの教則的な練習曲と考えられていたし、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第30番はベートーヴェンが失明した後の観念的、抽象的な曲の1曲であり、デビューして何年も経った熟練したピアニストが好んで弾く曲だ。

この彼の選曲は、古楽を演奏できると同時に現代音楽にも通じている、バッハとベートーヴェンを弾くが、メジャーなロマン派の作曲家の曲は弾かないと宣言したのも同然で、かなり大胆なものだった。

ふつうデビュー・リサイタルをおこなう新人ピアニストは、ロマン派のショパンやリストの曲をかならず弾く。これらを避けることは、今後にむけて変わった嗜好をもっていることをしめす意図と同時に、ロマン派の曲が今後の演奏曲の中心にならないと宣言するものだ。

Glenn Gould Remastered – The Complete Columbia Album Collection – USB Editionから(おお、ハンサム!!)

こうして、きわめて風変わりなラインナップをグールドは選択した。

具体的な曲目は、前半が、[1]オーランド・ギボンズの《ソールズベリー卿の[5]パヴァーヌとガイヤルド》、[2]スウェーリンクの幻想曲ニ短調、バッハの《インヴェンションとシンフォニア》の3声のシンフォニアから5曲とパルティータ第5番ト長調、後半が、[3]ヴェーベルンの変奏曲作品27、ベートーヴェンのソナタ第30番ホ長調作品109のソナタ、そして最後に[4]ベルクのソナタ作品1だった。

グールドが使ったタウン・ホールは、比較的な小さなホールだが、リヒャルト・シュトラウスとアイザック・スターンが初公演し、ジャズのディジー・ガレスピーとチャーリー・パーカーがデビューした歴史のあるホールで、約1500人を収容できた。

グールドは、習慣的な燕尾服に白いネクタイではなく、暗めのダーク・スーツで現れた。少し照れたような表情をうかべ、はにかみながら舞台に登場した。まだ幼さが残るその青年が舞台に現れた姿は、どこか心もとなく頼りなさそうに見えた。

だが、グールドが鍵盤に向かうとためらうような雰囲気はすっと消え、すばらしい集中力がとって代わった。

グールドは、ギボンズとスウェーリンクの2曲ではじめた。わざと、ピアノの大屋根を短い方の支え棒で持ち上げた状態ではじめた。大きな響きは、この2曲にふさわしくないと判断したのだった。

この2曲は、バッハよりさらに1世紀古く、古楽と呼ばれるルネサンス期の音楽家たちのオルガン曲であり、普通は、リサイタルのプログラムに入れない。

最初のギボンズの《ソールズベリー爵のパヴァーヌとガイヤルド》は、そうとうゆっくりとしずかな対位法でグールドははじめたが、ゆっくり弾くほど技量がはっきり出るのでこのように弾くには勇気がいる。声部の違いをはっきりさせたうえで余韻を残しながらロマンチックに弾きはじめるのだが、細部まで緻密に考え抜かれた計算と技術がなければできない。静かで落ち着いてロマンチックでありながら、後半は一転してドラマチックな烈しさに変わる、胸が締め付けられて拍動を感じる、そんな演奏だった。

2曲目のスウェーリンクの[6]幻想曲ニ短調はもとはといえばオルガン曲だ。この曲を、ピアノの明瞭で、強弱と音色の変化のある演奏をした。

はかないくらいの頼りのない、せつない20音からなる音列で曲がはじまり、やがて他声部が加わり、速度と音量を上げ、徐々に宗教的な大合唱のように変化していく。グールドは、高い声部よりむしろ低音部や内声部をつよく弾く。聴衆は、不思議な感覚に囚われ、「こんな風な曲を聴いた経験はない。宗教曲なのか。もっと不思議で違う世界が見える。」と思わずにはいられない。やがて曲は展開し、同じリズムをたもちながら下声は短い音符の連続へ曲想を変わったあと、フォルテで快速で、烈しい性格へと変わる。また再び最初の曲想に一瞬もどるのだが、最後は激しくドラマチックでカッコいいフィナーレで終わる。リズムは[7]イン・テンポで揺れず、ピアニストの正確な技量に圧倒される。つねに平等に扱われる多声のメロディーの交錯が、500年前の不思議な和音の響きの世界へ聴衆をつれて行く。

3曲目にいよいよ、J.S.バッハにとりかかる。まずは、《インヴェンションとシンフォニア》から3声のシンフォニア5曲を、グールドは、かれの特徴でもある[8]ノンレガートを主体にした、生命力あふれる見事な聴きごたえのある演奏をしてみせた。《インヴェンションとシンフォニア》は、教育用の作品とずっと考えられてきた。グールドの演奏で、《インヴェンションとシンフォニア》は、バイエルやハノン[9]から芸術作品になった。彼は、高音部の主旋律と低音部の伴奏の外声部だけでなく、内声部を十分に明らかにしながらゆったり響かせ、3声の存在を対等に表現し、レガートで弾く旋律とスタッカート気味に弾くノンレガートの旋律を交代させ、主役を交代させることで変化の違いを聴衆に楽しませた。このシンフォニアは短い曲だが、グールドは関係調になるように5曲を並べ違和感をなくした。

次に弾いた、バッハのパルティータ第5番ト長調は、従来のバッハ観を変える圧倒的に新しいものだった。バッハは、前から高い評価をされていたが、それは宗教と結びつき、難しく取りつきにくい埃をかぶった18世紀の遺物に分類されるような種類の音楽と考えられていた。当時、本当のバッハの良さは、まだ墓の中にはいったままだった。

グールドは、その200年を飛び越え、ときにスウィングし、ビート感あふれる楽しく疾走する現代のポップ音楽として蘇らせた。バッハの時代にはピアノはなく、チェンバロしかなかった。チェンバロは驚くほど美しい音色をだせる楽器だが、構造的に音量の調節が出来ず、表現力は限られていた。グールドは、表現力豊かな現代のピアノで弾くことで新しい世界を見せた。生き生きとして楽しく、小曲の組み合わせで全体が構成された最後に大きなフィナーレがある新しいバッハだった。

グールドは、2種類のバッハの後に休憩に入り、後半の開始に現代曲のヴェーベルンをもってきた。作品番号をもった唯一の独奏ピアノの変奏曲作品27である。グールドらしい作品に感応した不思議で何かを触発するような、なによりカッコいい12音技法による現代曲が聴かせる。リズム感の優れたグールドにかかると左手の低音部が印象的で聴かせる。グールドは、この曲の演奏でも大きな声(鼻歌、ハミングあるいは呻き声にも聞こえる。)を出しながら演奏している。しかも、グールドはこの曲をベートーヴェンのソナタと同じ構造をもっているからと舞台で説明し、聴衆の理解をたすけるために[10]2度繰り返して弾いた。

次のベートーヴェン晩年のピアノ・ソナタ第30番は、安定して美しいというより、従来の伝統からはみ出した烈しい、緊張感の強い演奏をした。まず、他の曲でもそうだが、低音部を強調して弾いた。一般的な演奏では、右手の高音部の主旋律が浮き上がるように弾き、左手の低音部は一段音量をおさえて、目立たせたいときにだけ音量を上げるのが普通で、このときにも高音部のメロディーが存在感を失うことはない。しかし、グールドは、常に左手の低音部をずっと、右手の高音部と同じか、強いくらいに演奏した。そのため、一般の奏法では、音符の重なる曲の激しい部分であっても、目立つ音符は高音部だけなのですっきりしている。しかし、グールドの演奏は、高音だけでなく低音の伴奏部と内声部の全てが主張し、[11]サーカスの綱渡りのようなハラハラさせるような部分やあまりに烈しい部分があり、これまでにない捉え方をした演奏だった。

この第3楽章は、穏やかでゆっくりとしたアンダンテで始まり、変奏をへるたびに速く激しくなっていくのだが、第4変奏では「主題よりやや遅めに」と指示があり、激しさが小休止するはずのところを、倍の速度で弾きとおした。こうしたリズムの変化だけではなく、強弱のつけ方もしばしば[12]スコアに反していた。

そして、最後に現代曲であるベルクのソナタ作品1を演奏した。この曲は、ヴェーベルン同様、作品番号をつけた唯一の独奏ピアノ曲であるが、ロ短調を主調とした12音技法で作られており、調性が安定しないことが混沌、矛盾や不安感をかきたてる。しかし、主調をもっていることで美しさや安定感があり、ヴェーベルンの変奏曲作品27よりずっと聴きやすい。

グールドはのちに、「あのリサイタルは、本当に演奏を楽しむことのできた稀な機会だった。」、「ニューヨークのタウン・ホールのデビューほどリラックスしたことはなかった。」[13]とのちに振り返っている。

リサイタルは大成功だった。休憩時間には人々は拍手を止めずアンコールを求めたし、演奏終了後のアンコールも熱烈だった。楽屋に100人以上の聴衆が新しいスターにお祝いの言葉をかけようと押し寄せた。

トロントの新聞《トロント・スター》、《トロント・テレグラム》は大々的に熱気をもってアメリカ・デビューの成功を伝えた。

ニューヨークの新聞《タイムズ》の批評家は、「わたしの聴いたなかでもっとも幸先の良いデビューのひとつ」と言い、《ヘラルド・トリビューン》紙も「この若いピアニストがひたむきで繊細な鍵盤の詩人であることは明らかである」と好意的な記事を掲載した。

レセプションが開かれたが、グールドは人が多すぎて居心地がよくなかった。結局、仮病を使って30分いただけで会場を後にしたため、レセプションを準備した人たちの顰蹙をかった。

このリサイタルに要した費用は、地元の興行会社への宣伝費として約1000ドル(2023年現在価値で31,076ドル≒435万円)、ホール使用料450ドル(同13,984ドル≒196万円)で、それに加えて、ニューヨークまでの旅費や宿泊費も必要だった。一方、収入は、一番高い席の料金が2ドル88セント(同89.5ドル≒1万2千円)だった。デビュー・リサイタルが、一般にそうであるように、このリサイタルも赤字だった。

新聞各紙は好評価を与えたが、その影響力は、毎日の紙面で活字になる寸評に過ぎず、グールドの生活を変える力はなかった。その晩も、他の場所で行われたコンサートにもっと大きな注目がはらわれていた。というのは、ニューヨークでは連日有名な音楽家のコンサートが各地で開かれていて、じっさいに、タウン・ホールのデビュー当日には、他の有名なヴァイオリニストのコンサートが違うホールで行われていた。

しかし、このリサイタルで、グールドのかけがえのない才能に気づいた人物がいた。それはレコード販売の音楽業界で《超》がつく大物だった。

演奏会は、一般の観客は少なく空席だらけだったが、音楽業界関係者、ピアニスト、他の楽器奏者、批評家などが大勢つめかけていた。というのは、プロの音楽家の世界は、一般に思われているよりも意外と狭いからだ。カナダでグールドをよく知る音楽関係者が、アメリカ公演を聴くように勧め、それを聞いた別の友人がパーティーを開いて宣伝するというふうに、狭い音楽界でニュースは広まっていたからだ。

この音楽関係者のなかに、[14]デイヴィッド・オッペンハイムが二回目のニューヨーク・タウン・ホールでのリサイタルを聴いていた。オッペンハイムは、33歳という若さながら、巨大音楽レーベル、コロンビア・レコードのクラシック中枢部門であるマスター・ワークス部の責任者であり、プロとして活躍するクラリネット奏者だった。妻は有名な女優のジュディ・ホリデイである。この会社のポピュラー音楽部門は、フランク・シナトラ、ベニー・グッドマンやビリー・ホリデイをはじめとする、ほとんどすべてのアメリカ人ビッグ・アーティストを擁していた。クラシック部門に大きな儲けは期待できなかった。しかし、クラシック音楽の裾野を広げ、熱心なファンになってもらい、彼らを取り込むことにより、ブランドイメージをあげることができ会社全体で見ると十分な貢献を果たしていた。

オッペンハイムは、グールドのデビュー演奏の最初の数小節を聴いただけでその価値を悟った。

David Oppenheim Wikipediaから

オッペンハイムは、ライターたちへのインタビューにこの日の演奏を次のように答えている。

「リサイタルは、非常にゆっくりとした音楽で始まりました。確か、[15]スウェーリンクだったと思います。いや、十七世紀のスウェーリンクと同時代の誰か別の作曲家だったかも知れません。・・もとはと言えばオルガン曲で、ほかのピアニストが弾いたらどうしようもなく退屈になってしまう曲しょう。かれはこれを演奏するにあたって、そう、宗教的な雰囲気を醸し出して、ひたすら聴く者を催眠術にかけるよう魅了したのです。それもその雰囲気を作り上げるのに音を五つか六つ鳴らせば十分でした。それは的確なリズムと[16]内声部のコントロールという魔術のおかげだったのです。・・・私は、・・ぞくぞくしましたね。それからほかのレコード会社の連中が来ていないかどうかを確かめると、・・ええ、見当たりませんでした。翌日出来るだけ早く彼のマネージャーに連絡をつけ、わたしは専属契約を申し出たのです。」

当時、オッペンハイムは、若い有望な看板ピアニストを探していた。ルーマニア生まれのディヌ・リパッティという天才ピアニストがいたのだが、5年前に33歳という若さで早逝していた。リパッティは、澄んだ音色でピアノを最大限に歌わせ、ほとんどペダルを踏まずに演奏した。ピアノは、ハンマーが弦を叩いた瞬間の音が徐々に減衰しながら、鍵盤を押さえているかぎり響きつづける楽器であり、「ペダルを踏まずにピアノを弾く」というのは、音を伸ばすところはしっかり伸ばし、切るところはしっかり切るピアノの基本技術がダイレクトに出でることを意味する。もし長生きしたら今世紀最大のピアニストの一人であっただろうと言われた逸材だった。

オッペンハイムは、年長の友人である、ヴァイオリン奏者のアレクサンダー・シュナイダーの家へ行き、リパッティのレコードをふたりで聴いていた。シュナイダーは、47歳だった。オッペンハイムは、音楽家として先輩のシュナイダーに言った。

「このリパッティのような、素晴らしいピアニストはいないですかね?リパッティに代わる才能のあるピアニストを、これからの時代に、うちの会社の柱になる人物を見つけたいんです。」

「それなら一人いるよ。カナダの変人だが、きみがリパッティを好きなら、きっと気に入るよ。専属契約を結べばいい。」

「ぼくは今年の夏、カナダのストラトフォード音楽祭で、その変人と共演したよ。とにかくすごいんだ、彼は。ベートーヴェンのピアノ三重奏曲「幽霊」なんかを演奏したんだが、私とチェリストの[17]ザラ・ネルソヴァは譜面台に楽譜をおいて演奏したのに、彼はピアノを暗譜で弾いてね。彼には、譜面を持って舞台へ来いと言ったんだが、譜面をお尻に敷いて演奏をはじめる始末だ。おまけに、彼はピアノだけでなく、ヴァイオリンとチェロのパート譜も覚えていて、ああだこうだと言い出す始末さ。だけど、演奏はすごいよ。彼が背面に回るときも、音を抑えているくせにとても存在感があって、ぼくたち弦楽奏者が崩して弾くのを許さないんだ。観客は、熱狂したね。あの変人は、まちがいなく大物になるよ。」

実際に、オッペンハイムは翌日、グールド、マネージャーのホンバーガーと専属契約の交渉に入り、契約を締結した。それは、3年契約だが、[18]2年間に3枚のレコードを録音する他には、曲目や時期などを演奏者に白紙委任する恵まれたものだった。グールドは、生涯にわたる27年間、コロンビアとの契約を続けた。

新人デビューをした音楽家が、巨大レーベルと好きな時期に好きなレコードを出せる契約を結ぶことは、これまでにない夢物語と言ってもよい異例のことだった。

つぎへ(まだ飛びません)


[1] ギボンズ ギボンズ(1583-1625)は、J.S.バッハに100年先立つ英国の作曲家、オルガニスト。大量の鍵盤楽器作品、ヴィオールのための幻想曲、マドリガル、ヴァース・アンセム(独唱や楽器の伴奏がつく宗教合唱曲)を作った。コラールは、すぐれた対位法が特徴。

[2] スウェーリンク 脚注8と同じ

[3] ヴェーベルン(1883-1945)は、オーストリアの作曲家、指揮者、音楽学者。シェーンベルクやベルクと並び、新ウィーン楽派の中核メンバー。20世紀前半の作曲家として最も前衛的な作風を展開したが、生前は顧みられる機会がほとんどなかった。戦後の前衛音楽勃興の中で再評価された。

[4] ベルク アルバン・ベルク(1885-1935)はアルノルト・シェーンベルクに師事し、ヴェーベルンと共に、無調音楽を経て十二音技法による作品を残したオーストリアの作曲家。十二音技法の中に調性を織り込んだ作風で知られる。

[5] パヴァーヌとがガイヤルド ルネサンス時代の宮廷の2拍子系の緩やかなパヴァーヌと3拍子系の軽快なガイヤルドで、ともに舞曲。

[6] スウェーリンク(Jan Sweelinck 1562-1621)の幻想曲ニ短調 : CBCテレビ(カナダ放送協会Canadian Broadcasting Corporation)で、このデビュー・リサイタルから9年後の1964年にこの曲を次のように解説している。「かつて誰かが初めて音楽らしきものを作りました。触発された別の人がすぐに自らの音楽を作ったはずです。両曲の共通点はきっと多く、2曲目は1曲目と深く関わります。模倣と拡張がおそらくそこにあるでしょう。だが、作品にはそれぞれの作り手の自我もにじむのです。それが音楽の歴史であって、ある曲が成り立つのは他の曲がすでに存在するからです。つまり、どんな音楽も別の音楽の変奏です。今や現代人にとっては過去の音楽全体が変奏の連続に見えます。・・・・16世紀オランダのスウェーリンクの作品を弾きます。彼のオルガンのための幻想曲は1個の長い動機に基づきます。動機は20以上の音から成ります。・・・・7~8分続く音楽の中でこの動機が部分的に現れ反復されて全体の進行を支えており、分割された楽想の連続は結果的に変奏になっています。固有の題名を持たないが、変奏曲になっているのがこの作品です」

[7] イン・テンポ:テンポが変化することなく一定の速度で演奏すること

[8] ノンレガート ピアノは普通、レガートに音符の音価一杯に弾くのが良いとされているが、グールドは、レガートは「緊張」であり、「緊張の緩和」としてノンレガートを奏法の基本に考えていた。フランス語では「デタシェ」とも言い、英語では「デタッチメント”Detachment”」であり、「切り離す」ことを意味する。後年、グールドは夏目漱石に傾倒するが、「草枕」のキーワード《非人情》を訳者は、”Detachment”と訳した。

[9] バイエルとハノン バイエルは初心者向け、ハノンは中級者向けのピアノ教材

[10] 2度弾いた 神秘の探訪160頁

[11] サーカスの綱渡り・・・ :1950年代当時は、録音技術の黎明期であり、モノラル録音で、クリアではなかった。このため、もし演奏会場で聴く音とレコードの録音を聴く音の場合とでは、印象が違っていたかもしれないが、一般的なベートーヴェンの落ちついて思索的な印象はない。(筆者)

[12] スコアに反した グールド演奏術 267頁

[13] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナ 第3章P162

[14] オッペンハイム:David Oppenheim、1922 – 2007。クラリネット奏者。コロンビア、マスター・ワークス部門の責任者。3度結婚し、最初に結婚したジュディ・ホリデイは、アカデミー主演女優賞を受賞。

[15] スウェーリンク:(1562-1621)J.S.バッハに100年先立つオランダの作曲家・オルガニスト。ルネサンス音楽の末期からバロック音楽の最初期において、北ドイツ・オルガン楽派の育成に寄与した。イタリアのフレスコバルディに匹敵する存在である。(Wikipedia)

[16] 「内声部」 複数の声部が同時に演奏するとき、最も高い音を担当する声部と、最も低い音を担当する声部とを合わせて外声(がいせい)といい、外声以外の声部を内声(ないせい)という。たとえば混声四部合唱では、ソプラノとバスが外声で、アルトとテノールが内声に当たる

[17] ザラ・ネルソヴァ:Zara Nelsova, 1918年- 2002年、カナダ、ウィニペグ生まれ。チェリスト。フルート奏者だった父の影響でチェロを習い始めた。彼女が生まれた1918年は、歌手を別にすると、女性が演奏する楽器は、ピアノやオルガンなどの鍵盤楽器、ハープやリュートなどに限定され、チェロを女性が演奏するのはまだ珍しい時代だった。

[18] 2年間に3枚:「グレングールドの生涯」(オットー・フリードリック)P119

第10章 ストラトフォード音楽祭でベートヴェン「幽霊」を演奏する

グールドは、すでに10代の初めからカナダ国内で注目されはじめ、10代の後半から22歳のアメリカ・デビューをする前には、国内の一流オーケストラすべてと共演するまでになっていた。1950年代は、まだラジオの全盛期だったが、ラジオ番組にたびたび登場する最も人気のあるスターになっていた。しかし、その人気はあくまでカナダ国内に限られていた。

1953年、カナダは文学、演劇、音楽の総合的な祭典であるストラトフォード・フェスティヴァルを始めた。

グールドは、開始当初からこのフェスティヴァルに参加し、世界的なピアニストとなってからも、10年以上ずっと参加しつづけた。

1953年、アンサンブルへ1回、リサイタルへ2回出演したグールドは、「隙間だらけの楽屋、ぼくでさえも上着なしで弾いたほどの蒸し暑さ、ひどい楽器、無計画、準備のわるさ」と10年後に回想している。しかし、出演料が127ドル(2023年現在価値で4,165ドル≒58万円)だけだったことには触れていない。

なぜなら、グールドは、この音楽祭を通常のコンサートでは実現できないレパートリー、着想、演奏へのアプローチの探求や実験ができる場だと考え、シェーンベルクなどの現代曲を重点的に取り上げたり、持論である「拍手禁止計画」[1]の実行をした。そうした新しい試みをしたいという思いは、多くの他の出演者たちにも共通だった。

グールドは、22歳の時、CBCテレビ(カナダ国営放送)「サマー・フェスティヴァル」というシリーズの一環で、テレビの録画とラジオでの生放送をする[2]ために、すでに名のとおったヴァイオリン奏者のアレクサンダー・シュナイダーと女性チェロ奏者ザラ・ネルソヴァとの3人で、ベートーヴェンのピアノ三重奏曲ニ長調作品70第1「幽霊」とバッハ、ブラームスの室内楽の作品の演奏をした。

シュナイダーは1908年、リトアニア(旧ロシア帝国)にユダヤ系として生まれ、ハンブルグのオーケストラのコンサート・マスターを務めていた。しかし、ナチスの台頭により解雇され、ブダペスト弦楽四重奏団に加入する。たまたま行った1939年のアメリカ公演の際に、移住許可を得ることができアメリカへ移住していた。

3人が共演したこの年は、46歳でプラド音楽祭、マールボロ音楽祭をすでに成功させて、ヴァイオリン奏者としてだけではなく、指揮にも精通して、評価はすでに高かった。

36歳のチェリスト、ザラ・ネルソヴァはウィニペグ生まれで、フルート奏者だった父の影響でチェロを習い始めた。彼女が生まれた1918年は、歌手を別にすると、女性が演奏する楽器は、ピアノやオルガンなどの鍵盤楽器、ハープやリュートなどに限定され、チェロを女性が演奏するのはまだ珍しい時代だった。このため、ネルソヴァは男性の音楽家から「ああ、あの女のくせにチェロを弾く」[3]などと形容されながら、キャリアを切り拓いてきた。この時、彼女はアメリカ・デビューを果たし、前年にアメリカ市民権を得たばかりだった。

リハーサルを行ったのは7月の午前中だったが、カナダといっても、気温がすでに30℃ある暑い日だった。グールドは、分厚いオーバーコートを着て、マフラー、手袋、帽子といういつもの冬のいでたちで現れた。どこへでも持ち運んでいる折りたたみ椅子[4]、薬が入っているブリーフケースなども運んできた。

椅子は、父親が作ったもので、折りたたむことができ、4本の足を約4インチ(約10センチ)切り、その脚先を真鍮の金具でかこみ、ねじで固定し、そこに引き締めねじ(ターンバックル)の受け側を溶接した。その先にねじを取り付け、ねじを回すことで、足の長さを別個に微調整でき、傾きも変えることができた。椅子を開いた時の座面の高さは、床上35.6センチしかなかった。グールドの身長は180センチで、かれはいつもこの椅子にずり落ちそうな角度をつけて座ると、鍵盤と顔をくっつきそうになるほど近づけ、指先より手首が下にきて、ピアノにぶら下がっているように見え、姿勢の悪さで《オランウータン》だと言われることすらあった。

CD集アウトテイクから・・・・最初は椅子にもちろん座面があった。しかし、グールドはこの椅子を生涯どこでも使い続けこのように座面が無くなってしまった。

その日のグールドは、黄色っぽい顔をして、いかにも具合が悪そうに見えた。とくに午前中のはじめのうち、練習ができる状態でないのは明らかだった。

おまけに、季節に合わないちぐはぐな服装だけでなく、髪の毛も乱れ、どこか汚く見える服装で現れたのだった。

しかし、長身で細身のグールドの髪はゆるくウエーブした濃いブロンドで、ほとんど髭のないつるんとした中性的な肌、綺麗な眉、すっとした鼻梁、きりっとした口元は、ハンサムで美男子であることがすぐにわかる。どこか遠くを見るような目は、青年に達したばかりの若々しさと繊細さの陰に、どこかに確固とした意志を秘めていた。

ネルソヴァがグールドに訊ねた。

「あなた、大丈夫なの?」

「ぼくなら大丈夫ですよ。昨日の晩、徹夜でトルストイを読んでいたんです。古典の小説は、手あたり次第、何でも読みたいと思ってるんですよ。大丈夫です。具合はすぐに回復しますから。」

ちょっと時間を取った後、リハーサルを始めることになった。だがグールドは、演奏するときにピアノ譜を見ようとしなかった。

シュナイダーが驚いていった。

「きみは楽譜を見ないのかね」

「ええ、いつもそうです。ぼくは慣れていますから。楽譜はぜんぶ頭に入っていますよ。ヴァイオリンとチェロの楽譜もわかってます。みなさんは、お好きにしてください」

室内楽の演奏では、楽譜を譜面台において演奏するのが一般的だ。弦楽四重奏や、今回の三重奏などもそうだ。ただし、オーケストラと共演する協奏曲は、大曲ということ、ソリストが名人芸を披露する晴れの場と考えられているので、団員が楽譜を見ながら演奏しても、ソリストは暗譜で演奏するのが通例だ。過去には、名人芸を誇る器楽奏者が、すべて暗譜で演奏する時代もあったが、記憶が飛ぶ不安を頭の片隅に抱えて演奏するより、楽譜を前にして演奏した方が安心して、のびのびとした演奏ができると考えられている。

ただ、3人の奏者の足並みがそろわず、グールドが暗譜でピアノを演奏するのに、シュナイダーとネルソヴァがもし楽譜を前にして演奏すれば、弦楽器奏者のふたりが曲を十分に理解していないように観客に映るだろうという懸念はあった。だが、グールドにそういわれると、それ以上楽譜を譜面台におけとは言いにくいのだった。

「きみの意見はわかったよ。まあ、やってみようじゃないか」

実際に、3人で演奏を始めると、すぐにふたりは、グールドの演奏に驚嘆する。正確なリズムと明確なアーティキュレーション[5]、強弱のつけ方、音色や表情の変化のつけ方、どれをとってもすべてが出色のできで、すべてがコントロールされていた。

もちろん室内楽は、アンサンブルである。ひとりでやるのではない。3人でどのような演奏にするのか、同じ認識をもつことが何よりも大切だ。そのためには、それぞれの楽器が、自制心、駆け引き、慎み、一体感といったものを共有しなければならない。

グールドは、楽譜を読んで自分が演奏したい「幽霊」像を持っていた。それは、シュナイダーが描く像と正反対だった。

ベートーヴェンの「幽霊」に対するシュナイダーの考えは、緩急の幅や、重さと軽さの表現上の違いをしっかりと描き出し、チェロ、ヴァイオリン、ピアノの存在感をおのおのの楽器が十分に出し、小気味い良いユーモア感覚から悲痛な表現までを対比させることで、曲の推進力を生むというものだった。

とくにアレグロの第1楽章とプレストの第3楽章では、旋律の強弱を激しく交代させ、対立させることがこの曲をドラマチックにさせ、ラルゴの第2楽章は、「幽霊」らしく不気味な雰囲気を醸し出すべきだと考えていた。楽器の扱いは、アンサンブルとしての調和よりも、むしろ各楽器が激しく、それぞれが主張すべきだと考えていた。

しかし、グールドの解釈は全体的に見ると「幽霊」という標題にこだわらず、3つの楽器が一つになって穏やかで美しい曲にすべきだ、と主張し譲らなかった。

「ここのパッセージは、ダン、ディー、ディー、ダーという感じでやってみよう。」とシュナイダーは、ふたりに伝える。

「でも、あなたのアクセントは間違った場所におかれていますよ。」とグールドは抗議する。

「ぼくは、心で弾くんだ。頭じゃない!」とイラっとなり噛みつく。

「ぼくは、ベートーヴェンが書いたように演奏します。」

「ああ、わすれていたよ。偉大なグールドさんは、ベートーヴェンとすっかり昵懇だってことをね。」

グールドは、楽譜の分析をするためにリハーサルを止めている。シュナイダーは、その必要はないと言う。

「ぼくは、カザルス[6]と共演しているんだぞ!」と、当時のカリスマともいえる指揮者、作曲家でもあるチェリストの名前をだして、グールドを黙らせようとする。

「ぼくは、あなたが誰と共演していようと気にしません。ぼくは、ぼくのやりかたでやりたいんです。」

そのリハーサルでは、グールドはピアノのパートを弾くだけでなく、ヴァイオリン、チェロのパートをピアノで弾き、自分が望む演奏すべきスタイルをふたりに説明しはじめた。シュナイダーは、自分の演奏するヴァイオリンの旋律に、ピアノ奏者に注文をつけられたのは初めての経験だった。経験の浅い、まして他の器楽奏者から演奏を指図されるのは、最善の演奏は何かをもとめる自然な議論のはずだとしても、自尊心を傷つけられるようで不愉快が先んじた。ところが、グールドの説明は、明確で説得力のあるものだった。

残るネルソヴァは、年齢的にもキャリアの点でも、3人の中間的な立場にあり、従来の伝統的な解釈にこだわるシュナイダーに同調せざるを得なかった。しかし、カナダで一番成功している若者がもつ、まったくあたらしい解釈に驚くとともに、彼の音楽への姿勢にもおおきな魅力を感じていた。

「そんな風に極端にヴァイオリン、チェロ、ピアノがそれぞれ目立とうとするのは反対です。楽器を対立させるような演奏にすると、この楽章の構造自体がわからなくなりますよ。3つの楽器を調和させ、このように進行させるべきです。」

さらに、グールドは続けた。

「ここは、この楽章のハイライトに向けて徐々に盛り上がりが分かるように演奏すべきです。また、楽章の終わりは、音の大小に関係なくつねにクライマックスであり、同時に、次の楽章へ向かうことを暗示すべきです。そして、最終楽章のフィナーレへと演奏全体が向かうのです。」

「私は何度もこの曲を演奏しているんだ。この曲は、各楽器が存在感を発揮することで、その競争関係がダイナミズムを生むのだ。いったい、きみは、この曲を何回演奏したことがあるんだ?」

「3度です。」

「私は、この曲を25年間、何百回も演奏しているよ。」

「回数は問題じゃない。量より質です。ぼくは十分に楽譜を読んで考えてきましたから。」

最後は、シュナイダーがネルソヴァに意見を求めた。陰で「女のくせにチェロを弾く」と言われながら、ようやくこの世界で認められるようになってきたネルソヴァは、シュナイダーについた。

このため、グールドはシュナイダーの考えるこれまでどおりの演奏を余儀なくされる。弦楽器奏者と意見が合わなかったグールドだったが、実際に演奏するとグールドの演奏は見事だった。特に正確なリズムが光り、弦楽器をサポートするところでは、抑え目ながらしっかり存在感をだしてサポートし、自分が前に出るところでは、明確な表現でピアノを十分に歌わせた。常に、3人のバランスは非常に揃っていて、崩れることはなかった。

その夜、グールドはネルソヴァを脇へ呼び出し、声をかけた。

「ザーラ、あなたは去年、アメリカの市民権をとられたんですよね。ウィニペグ生まれのあなたでも、アメリカで成功することが大事だと思われたんでしょうね。まえから、カナダを卒業してアメリカへ行こうと思われていたんでしょう。ぼくが演奏活動をどうやっていくのがいいか、教えてもらえませんか。アメリカで成功するには、どうしたらいいでしょう?」

ネルソヴァは、カナダの若くてハンサムな人気ピアニストから真剣な相談をもちかけられ、少しうれしくなってこたえた。

「そうね。カナダ人は、アメリカン・ドリームを信じていないくせに、アメリカ人を羨んでしまうところがあるわよね。だからよく、『カナダでは自国の才能のある人を認めず、もし認めるとしても、時期を逸してからしぶしぶ認めるか、アメリカで成功してからやっと認める』っていうわよね。もちろん、カナダはとても良いところよ。だけど、いつまでもカナダにとどまって、アメリカを見ているだけでは駄目だわ。アメリカでデビューしないことにははじまらないわ。まずは、アラスカへ演奏旅行をしたら、どうかしら。わたしの親しい友人のピアニストで、そういう演奏旅行の企画が組めるのがいるわ。かれに連絡を取ってみるのはどう?」

グールドはこたえた。

「ありがとうございます。そうして教えてもらえると、とてもありがたいです。」

しかし、グールドには、その時すでに契約したマネージャーがいた。アメリカでのデビュー演奏旅行の計画は、グールド、両親たちと、マネージャーにとって、最大の懸案で、実のところ、かれがネルソヴァにそのようなことを相談する必要はまったくなかった。

フェスティヴァル本番の演奏では、シュナイダーは、舞台に上がる前にグールドに暗譜ではなく、楽譜をピアノの前に置いて演奏するように釘をさしていた。

しかし、グールドは楽譜を持って舞台へ登場したものの、楽譜を椅子の上に置き、その上にお尻をおいて演奏した。

そのかれの演奏スタイルは、目をつぶり、自身の恍惚としたエクスタシーの世界に没入しているとしかいいようがなかった。悪い姿勢で、鍵盤をまともに見ることは一度もなく、音楽に合わせて上体をくるくる旋回させながら、のけぞったかと思うと、鍵盤に鼻がつくかというほど近づけ、もし、片方の手だけで弾く時は、もう一方の手で指揮するように腕をふりまわし、唸り声ともハミングともつかない歌をうたいながら演奏するのだった。

観客の側からは、明かに音楽の深奥のなかに吸い込まれたグールドと、姿勢を正し、楽譜をまえに悪戦苦闘する弦楽奏者が対比しているとしか見えなかった。恍惚となっているグールドにカメラがクローズアップする時、シュナイダーは侮辱されていると感じる。しかし、その3人で行った演奏は、聴衆から大喝采を浴びた。

演奏の後、シュナイダーはネルソヴァに言った。

「実に立派な、グールドの演奏だったね。あの変人は将来、まちがいなく大物になるよ。あいつの才能は本物だね。」

つづく


[1] 「拍手禁止計画」 もっとも古い音楽雑誌《ミュージカル・アメリカ》に、1962年2月、グールドは、「拍手喝采おことわり!」という論考を掲載している。グールドは、もともとコンサート嫌いで、聴衆を「自分は安全なところにいながら、闘牛場の闘牛士を見るように、演奏家が失敗するのを待っている」敵だといい、身近な人が観客席にいることさえ苦痛を感じるタイプだった。この論考は、さまざまな角度から拍手喝采について検討しているのだが、同時にユーモアと韜晦に充ちていて、音楽監督を務めたストラトフォード音楽祭を「こじんまりした雰囲気が喝采ぬき演奏会にうってつけ」と書き、同年7月の音楽祭で「拍手禁止計画」を実行した。

[2] CBCテレビ(カナダ国営放送)「サマー・フェスティヴァル」《神秘の探訪 注:519頁》と《”The Genius who doesn’t want to play, Gladys Shenner,1956.4.28 Maclean’s Magazine”と《グレン・グールドの生涯 巻末放送番組一覧 35頁》

[3]女のくせにチェロを弾く 《チャイコフスキー・コンクール 中村紘子》171頁

[4]折りたたみ椅子 《グールドの生涯》91頁、《グールド変奏曲》の訳者あとがきのバートのインタビュー

[5] アーティキュレーション(articulation) 音楽の演奏技法において、音の形を整え、音と音のつながりに様々な強弱や表情をつけることで旋律などを区分すること。

フレーズより短い単位で使われることが多い。強弱法、スラー、スタッカート、レガートなどの記号やそれによる表現のことを指すこともある。アーティキュレーションの付けかたによって音のつながりに異なる意味を与え、異なる表現をすることができる。(Wikipedia)

[6] カザルス パブロ・カザルス(1976-1973) スペイン生まれのチェロ奏者、指揮者、作曲家。チェロの近代的奏法を確立し、深い精神性を感じさせる演奏において20世紀最大のチェリストとされる。有名な功績として、それまで単なる練習曲と考えられていたヨハン・ゼバスティアン・バッハ作『無伴奏チェロ組曲』(全6曲)の価値を再発見し、広く紹介したことが挙げられる。(Wikipedia)

第9章 グールド 学校もレッスンもやめてコテージにこもる

(コテージのあるオンタリオ湖畔)

● 自分に足りないもの

グールドは、18歳の頃には教会へ行かなくなり、両親を失望させた。次いで、マルヴァーン高校も中退した。両親は、高校だけは卒業するよう強く言ったが、学校に意義を見出せず無頓着になっていたグールドは、卒業せず進学もしなかった。

「グレン、あなたどうして高校を卒業しないの。卒業しないと大学へ行けないのよ。みっともないことをしないでちょうだい。よくお考えなさい。」

「あんな学校の授業なんて何の意味もないよ。本を読んだ方がよっぽど、よく勉強ができる。あんなの時間の無駄だよ。」

「いい加減にしろ。お前に、どれだけ金をかけてきたのかわかっているのか。プロのピアノ演奏家より商売の方が儲かるんだぞ。立派に大学へ行って、私の事業もやって、ピアノも続けたらどうなんだ。」

「馬鹿なことを言わないで。あんな意味のない場所へは行かないよ。それに動物を殺して儲ける毛皮商なんかになるわけないじゃないか。ぼくには音楽家になる、作曲家になる目標があるんだ。」

1952年、グールドは、19歳でゲレーロのレッスンも止めた。ゲレーロから学ぶことは何もないと感じたからだ。これまでゲレーロのところで《レッスンそこのけで、音楽の議論ばかりをしていた》というのは、グールドの脚色が入った明らかな誇張だったが、ゲレーロを「感情の人」、自分を「理性の人」と決めつけたかったグールドとゲレーロの間に大きな溝が広がっていた。

ただゲレーロ自身が「[1]グールドには、もう教えることは何もない。」と認めていたのは確かだった。

ピアノを弾く姿勢も、フィンガータッピングも、曲の解釈や学問としての音楽の研究成果や音楽史についても、グールドが教わったのはすべてゲレーロからであり、あきらかに大きな影響を受けていた。しかし、グールドは都合よくこれらのことはすべて自分で見つけたと思っていた。そうしたことで、この頃にはグールドは、ゲレーロと無意識のうちに意見を対立させるまでになった。別にゲレーロは、グールドがいうような「感情の人」ではなかった。しかし、グールドは恩師を踏み越えていく必要性を無意識のうちに感じていて、師の恩をどこかへ置き去ることにした。

グールドが9年間続けてきたゲレーロのレッスンを止めると言ったときにも、両親は猛反対した。従姉のジェシー・グレイグが横で見ていた。

「もう、ぼくはゲレーロのレッスンは止めるよ。もう習うことなんか前からないんだ。レッスンでは議論ばかりしていて、ぼくと意見がまったく合わないんだ。」

「何をおっしゃるの、グレン。ゲレーロ先生の意見を聞きなさい。あなたはまだまだ未熟でしょ。」

「学校の次に今度は、ゲレーロ先生か。そんなことでピアニストとして一人立ちできるとでも思ってるのか。」

3人の議論は、ずっと堂々巡りをした。グールドは、最後に本音をこう言った。

「僕に足りないものを考えてみたんだ。もう僕は、音楽のことなら何でもできる。唯一足りないのは、強い自我だけだ。芸術家がもつべき大切な素質だよ。僕にないのは自分自身なんだよ。[2]

「馬鹿なことを言うのは、いい加減になさい。」

「いい加減にしろ。自分自身をつくるのと、レッスンをやめるのは関係ないだろう。」

なかなか両親も譲らなかった。めったに泣くということのなかったグールドだが、目に一杯涙をためながら訴える様子を従姉のジェシーが横で見ていた。両親の不満は消えなかったが、学校もゲレーロのレッスンも止めた。

グールドは、恩師ゲレーロを認めず「ピアノは独学だ。」とまで言っていた。しかし、グールドの演奏の本質的な部分は、完全にゲレーロから受け継いだものばかりだった。

例えば、極端に低い位置でピアノを弾く姿勢、フィンガー・タッピングという平たく伸ばした指で鍵盤を押すのではなく引っ張るような弾き方、演奏技術の困難さにより演奏表現を妥協するのではない、楽譜をすべて暗譜した上で、作りたい曲の構想を表現することなどはゲレーロの考えだった。

「グールドは、ゲレーロの息子がわりだった。[3]」と言った生徒がいたが、この生徒はゲレーロからやはり「一日中ピアノばかり弾いていてはだめだ[4]」と言われていた。

実際にゲレーロは、ピアノの演奏だけをする演奏家ではなかった。美術に詳しく、絵画通であり自分で絵筆をとった。文学や哲学に造詣が深く、レッスンでコント[5]、フッサール[6]、サルトル[7]といった時代の最先端を行くむずかしい哲学をとりあげて、生徒と人生についてどう取り組むべきかということまで話題にとりあげた。彼は、エスペラント語を含めて数か国語を話すことができた。同時に、美食家でワインが大好きだった。驚くほど教養の高い、礼儀正しい紳士であり、グールドがなりたいと思う万能人間(ルネサンスマン)そのもだった。

ゲレーロは、ピアノの演奏にも、トータルなその人の人間性や人間力があらわれると思っていた。

そしてなにより離婚が許されないキリスト教徒でありながら、20歳年下の教え子と堂々と不倫し同棲していた。音楽界だけではなく、芸術の分野全般で不倫や同性愛は珍しくなかったが、ゲレーロとマートルが結婚したのは1948年で、知り合ってから17年という長い年月が必要だった。[8]

マートル・ローズ

ほかにもゲレーロの人物をあらわす逸話はたくさんある。

彼が好んで演奏する場所は、こじんまりとした美術館、小ホールや個人宅で、《通》の人たちを相手に演奏することを好んだ。そうした彼は、ツアーで世界各地を巡業しながら回るピアニストの生活について、「あんなのは人生じゃないよ。[9]」と言っていた。

「『最上の習得方法は楽譜の読み込みに基づく自己の判断と熟考だ』とグールドは言い、さらにまた『最上の教師とは、生徒のじゃまをしない人であり、教えるといっても生徒にせいぜい質問するくらいの人だ』とも言っていた。・・・ゲレーロは控えめな性分で、教師としての功績を認められるかどうかは気にもとめていなかった。・・・ゲレーロは音楽家としての功績が称賛されるのを望まなかったし、記録に残ることさえ好まなかった。[10]

このような考えのゲレーロは、グールドを教え、カナダのスターに上り詰めたことについて、教え子でのちに作曲家になった生徒[11]に「わたしには語るべきことは何もない。[12]」と言っている。

ゲレーロは、バッチェンとルームシェアをしていた、歌唱指導者になったスチュワート・ハミルトンに「グレンはだれに教えられようと、自分のやりかたを見つけただろう。[13]」と言っている。

グールドのゲレーロに対する恩を忘れた態度に、ゲレーロが傷ついたという噂も流れたことがある。しかし、かつてマートルに言ったように、ゲレーロは「もしグレンが教師としてのわたしから何も学ばなかったと考えているのなら、これ以上の賛辞はない。」というのだった。[14]

つまるところ、グールドはあらゆるゲレーロの考えを自分のものにしたのだが、それを都合よく忘れ、ゲレーロはそれを許す心のひろい人物だった。

しかし、ゲレーロの恩を都合よく忘れたグールドだったが、二人の意見がどこまでも違う点もあった。

「ゲレーロは、グールドが演奏するときの独特の癖や姿勢を注意し、スコアに書かれた作曲家の指示を守るように言う。しかし、グールドは師の主張に反発し、独特の癖や姿勢を直そうとしなかったし、スコアを守るという一線すら超え、独自の道を歩もうとした。[15]こうしたことから、二人の間の音楽的衝突は避けられないものになっていった。ゲレーロはときにグールドの考えに狼狽し、ますます変人じみていく振舞を不愉快に思うのだった。」[16]

こうしてグールドはゲレーロのもとを去るが、自宅を出て独立することはせずシムコー湖のコテージを本拠地にして、両親がコテージを使うときには実家へ帰るという生活をはじめた。

コテージで、グールドは思う存分ピアノの練習に没頭し、本を読み漁り、念願の作曲を本格的にはじめた。両親や人の目を気にする必要はなく、恋人とガールフレンドたちとも一緒に時間を過ごすようになった。

グールドは両親と衝突したものの両親は折れ、自我を作り世に出るための2年間の準備期間に入った。

[1] ゲレーロは、生徒の一人シルヴィア・ハンターにこう言っていた。

別の場面で、彼女は、グールドが1953年12月に同年夏に亡くなったシェーンベルクに弔意を表し、ピアノ協奏曲の緻密で長い講演をした際、「聴衆は何を言っているのか一言も分からなかったと思う。」と言っていた。「神秘の探訪 ケヴィン・バザーナ」 注釈

[2] 「グレン・グールド書簡集」(ジョン・PL・ロバーツ ギレーヌ・ゲルタン 宮澤淳一訳 みすず書房)P33 「6」 私が19歳のときからずっと独学でいることに関してですが、これはほかの人がまねてよい青写真だとは非常に言いにくいものです。・・・私はアルベルト・ゲレーロのもとで学びました。彼をとても敬愛していましたが、ある時点で私はすべてを身につけました。ただし、しっかりとした自我だけは別です。自我こそは、結局、芸術家の素養の最も大切な部分なのです。思うに、たとえ何かのときに間違いをしても、その間違いをしたことは、ある意味で絶対的に正しいのです。これこそ私が独学中に経験し、非常にプラスになったことです。」

[3] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナ P84 生徒の一人のマーガレット・プリヴィテッロ

[4] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナ P70 生徒の一人のマーガレット・プリヴィテッロ

[5] コント (1798-1857)フランスの哲学者。実証主義を完成させ、晩年は個人は人類から抽象されたものであり、人類こそ最高の実在であるとし、人類への愛と尊敬を説く人類教をとなえた。

[6] フッサール (1859-1938)ユダヤ系オーストリア生まれ。現象学を提唱し、いかなる前提や先入観、形而上学的独断にも囚われずに、現象そのものを把握して記述する方法を求めた

[7] サルトル (1905-1980)フランスの哲学者。実存主義を唱え、「実存は本質に先立つ」「人間は自由という刑に処せられている」などと論じた。

[8] Beckwith, John (2006). In Search of Alberto Guerrero.

[9] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナ P69 生徒のレイ・ダットリーに言った。

[10] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナP83

[11] 生徒 音楽院でゲレーロに習い、作曲家になったジョン・ベックウィズである。

[12] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナP84

[13] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナP85

[14] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナP84

[15] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナ 第1章P83

[16] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナ 第2章P143

● 自分にありすぎるもの

グールドは、母フローラの極度の心配性の影響をまともに受けて育った。音楽の嗜好については、母が熱烈に愛するオペラ歌手のカルーソーを馬鹿にして、軽蔑した違う意見をいうグールドだったが、健康に関しては母の意見を否定することなく、まともにそのままを引き継いだ。フローラは、病原体やばい菌が人間を病気へと陥れると恐れていた。それは、グールドが生まれる間に流行ったスペイン風邪や子供たちの運動能力を奪ったポリオの影響があった。しかし、フローラの心配は強すぎて尋常の域を超えていた。人がたくさん集まる催しや展覧会に行ってはいけないと、グールドを何度もきつく戒めた。病気を心配するあまり、グールドが夏でも厚着をするようになったのは、フローラの恐怖が原因だ。グールドは、フローラの恐怖をそのまま自分の恐怖にした。人込みを避けたし、電話口で話し相手がくしゃみをするだけで怯えて電話を切るようになった。

そのようなグールドだったが、10歳の頃に、グールドがコテージのボートから転落し激しく背中を打つという事件があった。

グールド一家は、夏の間、シムコー湖の湖畔のコテージで過ごしていた。父バートは、グールドがそこにあるボートを引き上げやすいように、波打ち際とコテージの間にレールをひいていた。グールドは、友人と乗ったボートをレールの上に滑らせながら湖水へと出そうとしていた。ところが、彼は船尾で足を踏み外し、60センチほどの高さから岩場へと垂直に落ち背中を強打した。

グールドは大変痛がった。そこで、バートは考えられるあらゆる専門家に見せることを2,3年という長い期間ずっとした。グールドは、普通の医者にはじまり、整骨医、カイロプラクター、マッサージ師とX線医へと通うようになった。カイロプラクターによる施術が効果があると感じたグールドは、近所のアーサー・ベネット療法士、さらにはこの療法士が引退した後は、1957年から1977年まで20年間、ハーバート・ヴェア療法士の治療をずっと受けていた。また、オランダ人マッサージ師、コーネリアス・ディースが、長年グールドのマッサージに当たって、コンサート・ツアーに同行させることもあった。

カイロプラクターのヴェア療法士は、「慢性的な姿勢の悪さが原因で、ゲレーロのもとで身につけた屈みこむような演奏姿勢が、悪化させている。」という診断をしていた。しかし、グールドの首、方、腕と手の痛みは生涯続き、とくに左の腕と手の症状は消えなかった。

しかし、バートは「息子がほんとうの意味で病気だった日は、生涯1日としてありませんでした。」という。

少年時代のグールドは、父母と舞台に立ちピアノやオルガンの演奏をして聴衆から絶賛を浴びると、すなおに喜んでいた。しかし、13歳ころからカナダ国内では最も評価の高いトロント交響楽団とも協演し始め、リサイタルも始めるようになった。グールドはこの年齢になると、少年時代の「無責任で気楽な」気分でピアノを弾けなくなっていく。それは、聴衆の期待に応える責任感を自覚するようになったからだ。一方で、人前で恥をかく恐怖を克服するための、自分との戦いをする必要もあった。それは、すべての演奏家が直面する「あがり症」の問題だった。

だが、グールドは楽々とあらゆることをこなし自信満々であることをモットーにしていたから、「あがり症」の存在を認めようとしなかった。自信満々なだけではなく完璧性でもあった彼は、ステージでのわずかなミスや思いどおりの表現が出来ないことが許せなかった。グールドの演奏後、観客がスタンディングオベーションをして大喝采をおくっているときでも、「ちいさなミスをした。もう一度、弾き直したい。」と、忸怩たる思いで立ち尽くしていた。

そのような彼は、「あがり症」の存在を認めるのではなく、「コンサートは死んだ。」、「群衆としての観客は敵だ。」とコンサートの価値を否定するような発言をする。これはあきらかに問題のすり替えだったが、彼にしてみれば当然だった。彼は、「コンサートは死んだ。」という自説を時間とともに肉付けをして強化する。

そのような発言をしながらも、グールドは、コンサートが音楽家として名前を売り地位を確立するまでは必要だと考えていた。実際に彼が、周囲の反対を押し切って、コンサートに出なくなるまでには、10年以上の年月が必要だった。

自分が信じる音楽の演奏と、現実のさまざまなギャップ、例えば、初めて弾くピアノが自分にあわずもっと軽いアクションのピアノで弾きたい、コンサートホールの空調が自分に合っていない、評論家たちが思うように高い評価をくれない、観客たちがまるで闘牛でも見るようにピアニストが失敗をするのを待っている、ささいなミスをするとかして、自分のコントロールできないことをすべてをなくせない。そうしたコントロールできないことがあると、グールドは大きなストレスを感じ不安がおこるのだった。

不安はコンサートだけでなく、日常生活にもあらわれた。もともと、フローラから「あれを食べなさい、これを食べなさい」とガミガミいわれてきたグールドは、摂食障害を起こしていた。まともな食事を日に1度しか食べないグールドだったが、ガールフレンドたちと食事に行っても、スパゲッティしか食べられず、食べても吐くということを繰り返していた。ピアノを弾くときには、アロールート・ビスケット[1]とポーランド・ウォーター[2]だけを取り、何も食べない方が頭が冴えて都合が良かった。

睡眠障害も起こっていた。グールドがシムコー湖のコテージで暮らすようになると、生活のリズムは狂い昼夜が逆転した。長い時間熟睡することが出来ず、グールドは睡眠薬を飲み始めた。グールドが飲んだのは、バルビツレート[3]系のネンブタール[4]やルミナル[5]だけでなく、プラシディル[6]とダルメーン[7]も飲んでいた。こうした薬は耐性があり、効きが悪くなるので分量が増えがちになる。現在では作用が強力で依存性が強いため、使用に規制が行われているものばかりだ。

自信満々で傲慢なほどの態度のグールドには、対人恐怖症もあった。大勢の中にいると、場をコントロールできないため居心地が悪くなる。人と接するには、コントロールが効きやすい二人が良かった。さらにもっと都合が良いのは、電話だった。相手の目を見ないで話をするグールドにとって、電話はもっとも好きな手段だった。

そうした不安を起こしやすい複数の人間が集った場面を乗り切るために、グールドはこのころから精神安定剤や抗不安薬を飲むようになっていた。グールドは、長年ジアゼパム[8]系の精神安定剤ヴァリウム[9]を飲んでいたが、ステラジン[10]、リブラックス[11]も飲んでいる。この時期の向精神薬は、第1世代と言われ、中毒性などの副作用が強いのは睡眠薬と同じだった。

彼には内科的な不調として、睡眠とストレスおよび不安解消にこのような向精神薬を処方されていたが、本来の病気と言えるものは尿酸値がたかいことと、高血圧だけだった。したがって、筋骨の痛み、不眠症、尿酸値の数値、高血圧症については、医師の治療を受けていた。

しかし、もっと大きな問題は、精神的にさらに問題があったことだ。グールドの《病気への恐怖》が和らぐことはなかった。彼は《心気症》であり、《心気症》は年とともに悪化の一途をたどった。

彼は、平行して複数の医師から診断を受け、一人のかかりつけ医だけの診断で処方箋を書いてもらうのではなかった。彼は、他の医師の診察を受けていることを隠し、大量の処方薬を手に入れた。処方薬の一日あたりの許容量を無視し、ストレスがかかるたびにポンポンと精神安定剤や抗不安薬といった向精神薬を口に放り込んでいた。

多くの身近な人たちが、そうした処方薬の飲みすぎは体に良くない、副作用があるぞと忠告したが、グールドは「非科学的だ。」とこうした忠告をはねつけた。《グールドは、長年不健康な生活をし、ほとんど運動をせず、新鮮な空気を吸わず、太陽を避け、薬を飲みすぎ、自宅でも仕事場でも肉体的、心理的なストレスを始終感じていた》のに、《自分の不調の原因が不養生にあるとは考えず、自分は『自然児』[12]だ》と言って、症状にのみ目を向け薬物に頼って症状を緩和しようとした。

このようなグールドの処方薬への依存は、あきらかに《異常》なレベルだった。

記者に「トランク一杯の薬を持ち歩いているそうですね。」と聞かれると「トランク一杯は大げさだよ。アタッシュケース一杯だよ。」とユーモアを交えながら答えたりしていたが、あまりに大量の薬を所持しているために、カナダとアメリカ国境の税関で拘束されたこともある。

また、新しい薬が発売されるとその効き目に異常な興味を持ちその効果を知りたがった。近くに体調の悪いガールフレンドがいれば、アタッシュケースの薬箱を開いて見せ、「どの薬を飲む?」と聞くグールドだった。

こうした普通ではないグールドの振舞を見た精神科医の友人は、グールドの不安は、躁うつ病や分裂病などではないかと疑い、診断をつけるための精神分析によるカウンセリングを勧めた。しかし、グールドは慎重で、この戦後間もないこの時期に精神科医にかかっていることは、現在とは違い《気違い》扱いされる可能性があった。慎重なグールドが、女性関係を明らかにしなかったのと同様、精神病としてどのような診断が下されるのか、彼は注意を払って診断を受けようとしなかった。

そうした背景には、グールドの読書があった。グールドは興味をもったあらゆる分野の本を驚くべきスピードで驚くほど大量に読み、知識を生兵法とはいえ、専門家並みに蓄積するのだった。

とりわけグールドがシムコー湖のコテージで一番熱心に読んだのは、医学書であり、薬に関する本だった。中でも、当時急速に進歩した精神に作用する向精神薬、抗不安薬、安定剤などについて最先端の研究書を読み漁るのだった。

医学、薬学の知識に加え、彼がこの時期に熱中したのは、[13]現代文学、神学に加え、カナダの政治と愛国心、女性のオーガズムの原理、株式市場(とくにカナダ鉱山関係)、映画、音楽産業、超感覚的知覚(超常現象)など膨大な本を読むようになった。日本文学では、後に熱中する夏目漱石を別にすると、[14]三島由紀夫や安倍公房だった。当時に流行していた本ももちろん読んでいた。


[1] アロール・ビスケット カナダで売られている赤ちゃん用のビスケット

[2] ポーランド・ウォーター ペットボトル入りミネラルウォーター

[3] バルビツレート 鎮静薬、静脈麻酔薬、抗てんかん薬などとして中枢神経系抑制作用を持つ向精神薬の一群。乱用薬物としての危険性を持つとされる。

[4] ネンブタール《薬学》〔バルビツール系の催眠薬。多用により薬剤への耐性が生じ、次第に効かなくなる。ために服用量を増やして行きがちになる。服用を中止すると超興奮状態になり、時には死に到る。(英辞郎から)

[5] ルミナル 代表的な催眠薬。強力で持続力があり、鎮痙剤(ちんけいざい)として多用される。(コトバンクから)

[6] プラシデイル 弱い鎮静と催眠効果のある薬(WEBLIOから)

[7] ダルメーン 日本では、フルラゼパムと呼ばれるベンゾジアゼピン系の長時間作用型の睡眠導入剤の一種。(Wikipediaから)

[8]ジアゼパム(英語: Diazepam)は、主に抗不安薬、抗痙攣薬、催眠鎮静薬として用いられる、ベンゾジアゼピン系の化合物である。(Wikipediaから)

[9] ヴァリウム ジアゼパムと同じ。商品名。

[10] ステラジン 統合失調症などの不安神経症や精神病性障害の治療に使用されるフェノチアジンと呼ばれる一群の抗精神病薬。

[11] リブラックス 神経系を遅くする薬です。(Libraxカプセル)は抗コリン作用薬です。

[12] 自然児 すみません、「調査中」です。

[13] 「グレングールド変奏曲:(木村博江訳)東京創元社」 《エレクトロニック時代のバッハ》リチャード・コステラネッツ

[14] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナ 人間国宝147頁


● きしみ始めるバッチェンとの交際

グールドは、シムコー湖のコテージに籠もる生活を始めた。そして、バッチェンをしょっちゅうそこへ連れて行った。

グールドは二人になると孤独な一面を捨て、暇があればピアノの下でセックスをした。読書家のグールドは、女性のエクスタシーへのプロセスは本を読んで知っていたし、彼女は彼より7歳年上だったので、彼は《グッド・ラヴァー(Good lover)》[1]になった。

セックスが終わると、バッチェンとピアノの演奏だけでなく、ロシアやドイツの文学について語りあった。グールドは女性に対して生涯、非常に献身的だった。

グールドのレコードを40枚以上、約15年間にわたって一緒に作ったコロンビア・レコードのプロデュサーのアンドルー・カズディン[2]は「グレン・グールド・アットワーク[3]」という本の中で、グールドの女性に対する態度をこう書いている。

プロデューサーのアンドルー・カズディン

「グールドには、正常な発達がどこかで阻害されたのではあるまいかと思われるようなところが幾つかあった。それはいろいろな形で表に出てくるのだが、特に感情的な振舞いとか情緒的な面でその傾向が顕著だった。世間一般の常識からすると、確かにグールドの女性に対する態度は変わっていた。それはわたしにもはっきり感じられた。彼は女性を、あたかも思春期前の少年のような眼差しで見ていたのである。・・・・」

彼は一家のモーター・ボートのアルバン・B号とアーノルド・S号で、シムコー湖へ出るのが好きだった。夏には、釣りという行為に反対する彼は、そのボートでS字カーブを切り大きな波をたてて釣り人を追い払ったり、架空の指揮に夢中になって両手を離したまま船を走らせた。冬には車にバッチェンを乗せ大胆に、凍った湖面を走らせた。

一方で、大きな自尊心と釣り合う自虐的なユーモアを示そうと、大きな耳を揺らして見せたり、父親のアライグマのコートを着て、派手なものまね芸を見せたりした。グールドの大きな耳は、アメリカデビューをしたときには、セクシーだと評判になった。

しかしながら、バッチェンは彼を「人となかなか気楽にコミュニケーションを取ろうとしなかった。」と言う。

バッチェンは、グールドとのプライベートな付き合いを今も具体的に語りたがらない。それはグールドが、ガールフレンドに対し二人の付き合いを秘密にしたがっていたから、彼が死んだ今でもそれを守っているからだ。このことは、他のガールフレンドにも言えた。他のガールフレンドたちも、グールドが望まなかったことは、彼が死んでも守りつづけたいと考えていた。

グールドは、バッチェンを自分のガールフレンドとして実家に連れて行き、両親に紹介した。バッチェンは、これは答えても差し支えないと判断したのだろう。実家へ行ったときの様子をインタビューで次のように答えている。

「私は彼の両親ととても親しくなりました。いい人たちでした、社会的な意識が高く、正しいことをしようと意識が向いていました。グレンは、母親を慕っていましたが、少し恐れていたような気がします。グールド夫人は、私が使ったことのないスチームアイロンを買ってくれたり、お父さんが毛皮のコートをくれたのですが、グレンは動物好きで、動物愛護者でもあったので、その事実を嫌っていました。私を暖かくしてくれたそのコートが大好きでした。両親はとても私に親切にしてくれました。私たちが結婚すると思っていたのです。[4]

バッチェンは、グールドにピアノの演奏について指導をしてもらっていたし、バッハの解釈などは二人で考えてきた。もちろん、バッチェンは最大限の努力もしてきた。だが、彼女の技量はなかなか水準を超えなかった。

27歳のバッチェンは、1953年2月のキワニス音楽祭のシニアコンペティションの「現代部門」に参加した。ゆっくりとメランコリックで時に暗い、彼女自身が「素晴らしく陰鬱な世紀末の作品」と評したベルクのピアノ・ソナタ第1番を弾いた。この曲は、グールドのもっとも好きな曲の一つと言ってもよい曲だった。20歳のグールド先生は、バッチェンにこの曲の自分の解釈を伝え、彼女はずっと練習してきた。

本番のコンペティションの演奏で、バッチェンはうまく弾けなかったと感じながら舞台を降りた。そして、彼女はこう言った。

「私は壇上から降りて彼に言ったの。『ええ、これで美しい友情もお終いね。』ところが彼は、『いや、そんなことはない。きみは上手だった。』」[5]

実際に、審判員はグールドに賛同するかのように彼女に1等賞を与えた。

この時もそうだったが、バッチェンは、自分が試されているという感覚が抜けず、あがり症に悩まされていた。人前で弾くときに思いどおりに弾けないかった。

グールドもおなじだった。「あがり症」を克服する術につねに悩んでいたが、その悩みを誰にも打ち明けることなく、彼は、「コンサートは死んだ。」「コンサートは過去の遺物だ。」と言い、やがてコンサートから逃避する道を選んだ。

この頃、バッチェンは、生計を立てるために仕事をかけ持っていた。昼は、広告を製作する映像会社で、フィルムをファイリングする司書の仕事をし、夜は彼女のアパートのスタジオで、子供たちにピアノ講師として教えていた。

しかし、グールドは、唯一の大作、弦楽四重奏曲ヘ短調作品1の作曲に取り掛かっていて、深夜遅い時間にお構いなく、バッチェンに電話で作曲した数小節を説明するのだった。

グールドは、昼夜逆転した生活を送っていたから昼間に眠れば済んだ。しかし、バッチェンが深夜2時や3時までの電話に付き合うのは、翌日の仕事があるので、負担で窒息しそうだった。

バッチェンは、グールドがニューヨーク・デビューをするしばらく前、アスキス46番地からグレンロードという場所へ引っ越しをした。アスキスのアパートは、ハミルトンと共同で借りていたが、二人で月に200ドル(2023年現在価値PER Capita GDP換算6,652ドル、日本円で約93万円)かかって大金だった。それでバッチェンは昼には映像会社のフィルムライブラリアン(司書)の仕事と、夜にはピアノ講師をかけもちする生活をしていた。

そこにはグランド・ピアノを置ける広さの部屋があったので、チッカリングのグランド・ピアノを知人からレンタルで置いていた。チッカリングというのは、アメリカのピアノメーカーの名前で、そのピアノはハープシコードのような軽い音色がして、なによりタッチが軽く即応性が良かった。ピアノを打鍵してすぐに音がでる反応の早いピアノが好きだったグールドは、これに夢中になった。

やがて、バッチェンはさらに生活費に困るようになる。とうとう、このレンタル契約を解約せざるを得なくなるのだが、バッチェンはその費用をグールドが肩代わりしてくれることを願っていた。

ところが、グールドはそうはせず、1957年にそのピアノを555ドル(2023年現在価値換算16,038ドル、日本円で約225万円)で自分で買い取って、シムコー湖のコテージへ運び、自分のものにしてしまった。[6]このことをバッチェンはインタビューをされた今でもずっと恨んでいる。

ある晩、グールドとバッチェンが話をしていた時、海に浮かぶ氷の上に二人が取り残されたらどうするかと言う話になった。

「いいかい、バッチェン。二人が流氷の上で取り残されるんだ。氷は小さくて、二人がずっとは乗ってられないんだ。そんな時にどうする?」

バッチェンは少し困って、

「二人でじっとしてるわ。」と言った。

「ええっ、そうなの。ぼくが生き残れるように海へ飛び込まないの?!」[7]とグールドは言った。

グールドは、バッチェンが身を挺して自分を助けてくれると当然のように期待していて、そうでないことが不思議で理解できなかった。

この会話で、グールドの気持ちにはさすがについていけないとバッチェンは思い始めた。

グールドは、ニューヨーク・デビューのあと、バッチェンにプロポーズしたと、前に書いた。

彼は、プロポーズの言葉に”We should get married.”(結婚しようよ。)と言ったが、普通はこんな命令口調や上から目線で言わないだろう。「幸せにするから結婚してください。」とか、「ずっと一緒に暮らしていこう。」とかいうのが一般的だろう。

バッチェンは、世界一有名な若いピアニスト夫人になるか、ずいぶん長い間考えた。しかし、彼にはあまりに社会性がない、結婚して一緒に暮らすのはあまりに割が合わないと結論を出した。

結局、バッチェンは仕事で忙しく、グールドの最大のイベントとでもいうべきアメリカ・デビューを聴きに行けなかった。


[1] セックスが上手 英語で”Good lover”という。

[2] アンドルー・カズディン 本の英語タイトルは、「Glenn Gould at Work-Creative Lying」で、カズディンも書いているが、”Creative Lying”は『独創的な嘘』という意味にとれる。

[3] 「グレン・グールド・アットワーク 創造の内幕」アンドルー・カズディン 石井晋訳 音楽之友社 118P

[4] The secret life of Glenn Gould, Michael Clarkson, Chapter3, page39

[5] The secret life of Glenn Gould, Michael Clarkson, Chapter3, page38

[6] チッカリングのピアノ ”The secret life of Glenn Gould” Chaptet5 P60

[7] 流氷の話 ”The secret life of Glenn Gould” Chaptet4 P52

● 他のガールフレンドたち

グールドはバッチェンと交際し、シムコー湖のコテージで長い時間を過ごしていたが、同じ時期に両親に紹介したり、シムコー湖のコテージへ連れて行く仲の良い二人のガールフレンドがいた。

一人はカナダの公共放送局CBCでプロデューサーとして働いていたエリザベス・フォックスであり、もう一人はグールドが14歳の時から、3歳年上でピアニストを目指していたアンジェラ・アディソンだった。

陽気なブロンドのエリザベス・フォックスは、1952年から1953年(グールド20歳から21歳)にかけて、グールドと一緒に音楽を聴いたり、当時の流行りだったTSエリオット[1]、クリストファーフライ[2]などについて話していた。フォックスが働いていたCBCは、日本のNHKにあたり、放送の分野で圧倒的な存在である。ラジオの時代は1920年代から始まり、流れる音楽にはクラシック音楽が多く含まれていた。グールドも熱心にラジオから流れるクラシック音楽を聴いていた。CBCは音楽家たちが刺激を受ける大きな拠りどころであり、生活の糧を得る場でもあった。グールドは、6歳の時に地元のラジオ局に出たし、1945年3月キワニス音楽祭の入賞者たちと早くからラジオに出演し10ドルの出演料をもらった。1950年から1955年までグールドは、CBCラジオに30回出演したが、その最初にCBCへ出演した18歳の時に、「マイクとの情事がはじまった。」[3]と語っている。

国内では早くからスターだったグールドは、CBCに何度も出演する中でフォックスと知り合った。

その時のグールドは、髭をそる必要のないほどつるんとした肌をしており、彼女は、その言葉を知らなかったが、アンドロジナス(両性具有)だと思っていた。

フォックスは、彼の家へも行き、両親は思いやりがあり親切だとおもうものの、グールド一家を全米で260万部売れ、映画にもなった「スチュアートの大ぼうけん」という童話を引き合いに出し、次のように見ていた。

スチュアートの大ぼうけん

「彼の家を訪ねたら、そこはまさしく実に心暖まる、快適な場所だと分かるでしょう。わたしはよく食べましたし、歓待されたのを覚えています。室内には明かりがたくさんついていました。両親はどちらもいい人でした。あの人たちが他の人にどのように接していたのかは知りませんが、わたしが遊びに行くと、とても親切にしてくれました。しかしいつも - やはり息子に対して敬意を払っているようなところがありました。あとになって、E・B・ホワイトの『スチュアートの大ぼうけん』[4]ことを考えました。鼠を子供のように飼う夫婦の話です。鼠は人間のように立派に服を着こんでいますがすることといえば、下水管を上がったり下がったり、それだけ。そう、誰でもグールドの家にいたら、あの夫婦は自分たちには属さない何かを生み出したのだと思ったでしょう。一応は人間に似せて服を着せられていて、ピアノを弾くけれど、うーん、なんと言ったらよいのかしら - 両親は常に畏怖の念をもって接していました。[5]

もう一人のアンジェラ・アディソンは、グールドより3歳年上で同じくゲレーロの生徒だった。グールドとアディソンは、ゲレーロのレッスンが終わった後、交代でピアノを弾きながら一緒に時間を過ごした。

グールドはさまざまな曲を演奏し、その解釈をアディソンに納得させようとし、彼女の演奏を批評した。

グールドが18~19歳になると車を運転するようになり、彼女を乗せてドライブし、後には人前で食事をすると緊張して胃痛や下痢などを起こす摂食障害を起こすようになっていたが、この時期はしょっちゅう二人でスパゲッティを食べた後、シムコー湖のコテージへ行っていた。

コテージは、カエデの木、アライグマや海岸に打ち寄せる波に安らぎを感じ、頭の中の思考パターンとメロディーを乱す唯一のものは、松林の突然の風の音や遠くのジープだけで、何々しろという人がいなかった。

少なくとも母親がトロントに戻っているときは、ファンから離れられるし誰にも触る必要がない。

彼は、「ピアノ・クォータリー」1977冬・1978夏号にこう書いている。

「わたしが思うに芸術家は、外界から入る知識でいつでも編集でき、環境をコントロールできる孤独な時に、一番良い仕事ができる。グレン・グールドは言う、『ぼくは、空き時間にピアノを弾くカナダ人の著述家で、ブロードキャスターだ』が、芸術家の理想とその実際が形づくる不可分な組み合わせ[6]を妨害することは許されない。」

アディソンはグールドをこう見ていた。

「人がいないところでは、グレンは複雑で多面的で、そして可能な限り奔放な自分自身でいることができたのです。」

彼は一人になると珍しく運動をしたし、ボートにも乗り、森で子供たちと犬と一緒にワルツを踊った。

アディソンは、グールドのコンサートへも何度か足を運んだが、彼はコンサートがいかに嫌かを、彼女に理解させようとした。普通、有名な演奏家は、観客の中に完璧な聴衆を求めるが、グールドは聴衆に興味はなかった。観客のことなど本当はどうでもよかった。それは、自分のコントロールが効かなくなることを極度に恐れていたからだ。彼には周囲を常にコントロールしている状態が必要だった。

グールドの死後、アディソンは彼への賛辞の中でこう書いている。

「天才との友情は決して簡単なものではありません。それはおそらく、最も人間関係の中で最も脆いものです。私はグレン・グールドというとらえどころがなく、謎めいていて、私的で孤独な友人でした。私はまた、忠実で、寛大で、礼儀正しく、楽しく、そしてもちろん第一級の輝きを持つ友人を持っていたのです。」

アディソンは、グールドとベッドインしたかという問いに、次のように答えている。

「私たちの間には性的な雰囲気はありませんでした。彼は私を友人、うるさく言わない友人として見ていました。私は、グレンにどんなわずかでも脅かすようなことは言わなかった。彼は、女性との関係が濃厚になると、感情的な要求やコミットメントを期待され、全く気がホッとできなかった。彼はそれをとても恐れていました。間違いなくある女性たちとの間に、コントロールの問題があったのです。」

「グールドは親密な関係には口が堅く、同じことを彼女らに期待していました。もしあなたが、彼の真の友人であれば、互いを完全に信頼しなければならない。その信頼を打ち砕くことはできないのです。」[7]

つづく


[1] Thomas Stearns Eliot、1888 – 1965アメリカ生まれ、イギリスの詩人・文芸批評家。ノーベル文学賞受賞。ミュージカル「キャッツ」は、彼の児童向け作品が原作。

[2] Christopher Fry 1907-2005 イギリスの劇作家 T.S.エリオットとともに戦後イギリス演劇の主流の座を守り続けた。

[3] マイクとの情事 1974年「音楽とテクノロジー」という記事で、この初めてのCBCラジオでもスタジオ生放送で、モーツアルトのソナタK281とヒンデミットのソナタ3番を弾いた印象を「・・・・そのときわたしは、自分の人生の進むべき方向をぼんやりとではあるが感じ、テクノロジーは芸術を妥協させ、芸術に侵入して人間性を失わせるものだという同僚や先輩たちの言葉はナンセンスであると悟った。そしてマイクとの情事が始まったのである。」《神秘の探訪》P134

[4] 『スチュアートの大ぼうけん』AMAZONのコピー: リトル家の次男は身長5センチ、ハツカネズミそっくりだった…。公開映画「スチュアート・リトル」原作本!全米260万部突破の大冒険物語。

リトル家の次男は身長5センチ、ハツカネズミそっくりだった……小さな体に大きな勇気のスチュアートがくりひろげる楽しい大冒険。《アマゾンのコピーから》

[5] 「グレン・グールドの生涯」オットー・フリードリック 宮澤 第2章P50

[6] 組み合わせ グールドは「ユニット」という言葉を使っている。

[7] The secret life of Glenn Gould, Michael Clarkson, Chapter3 P29

日本経団連十倉会長 財務省に踏み絵を踏まされ宗旨変え

(2023/9/17 夜) 一部表現を修正しました。

消費税反対映画「君たちはまだ長いトンネルの中」ぜひ見てください!
踏み絵を踏んで転んだ十倉会長

親爺は、経団連の会長が変わった時、結構まともなおじさんが会長になったと喜んでいたのだが、会長になったのが2021年6月なので15カ月。すっかり、変身してしまわれた。残念である。

会長になられた当初は、政府は積極財政へと舵を切り、勤労者の賃金を上げて日本全体の需要の喚起が重要だという趣旨のことを言っておられた。

ところが時間が経つにつれ、財務省のレクチャーなどで、宗旨変えを余儀なくされたということだと思う。というのは、経団連の会長というのは、《日本株式会社の総本山》、《重厚長大株式会社連合の元締め》のようなものであり、《日本の屋台骨を支える会社連合》のトップである。そこが、財務省から「法人税を下げてやる。その代わり消費税増税に賛成しろ。消費税を増税しても、価格に税を100%転嫁できる大企業は、何も困らないぞ。困るのは、100%転嫁できない中小企業らだ。あいつらはもし赤字でも、消費税を借金してでも納税しないとならないんだ。ところがお前らは、何も困らないぞ。それどころか、外国と違って社会保険料に消費税を使える日本は、社会保険料の労使折半でやっている事業主負担がこれ以上、上がらなくてすむぞ。だから、消費税増税に賛成しろ。日本全体の景気が悪くなってもいいだろ、お前のところは得するんだから。」と説得されたにちがいない。

消費税は、もともとフランスで導入されたのが起源だ。消費税(つまり、売上税、付加価値税と一緒と考えて良い。)は、《輸出企業への奨励金》を与える方策として考え出された。つまり、消費税の納税額は、売り上げに含まれる消費税と事業をするために支払った消費税の差額を納税する仕組みである。一般の企業は、黒字なので売り上げで入ってくる消費税より、その事業をするために支払った消費税の方が小さいので、この差額を納税することになる。

この仕組みでは、海外に輸出する製品の場合に、売り上げに伴う消費税はゼロなのに対し、事業をするために支払った消費税は当然あるので、この額を税務署が還付してくれる。この還付額が、自動車業界だけで年間6兆円(日本政府が受け取る消費税の税収の合計は20数兆円/年である。)ほどになるとか聞いたと思う。

つまり、消費税の導入自体の大きな目的が、海外貿易でWTOが禁止する各国政府による輸出奨励金を払うことが禁じられていることへの抜け道をつくることにある。

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ここで、ずっと増え続けている非正規社員が企業にとって消費税法上も有利で、正社員より非正規社員を増やす動機になっているということを書きたい。消費税の別の問題点を具体的に見たい。納税額の計算方法は、次の式で表される。

(売り上げー事業に支払った経費の合計)×消費税率=消費税の納税額・・・①

粗利 × 消費税率=消費税の納税額・・・②

①式のカッコの中は、『粗利』と同じ内容である。このため①は、②と同じである。

さらに『粗利』の構成要素は、『利益』と『人件費』であるので、次の③の式で表せる。

(利益+人件費)× 消費税率=消費税の納税額・・・③

③の式の意味するところは、企業は利益に対して「法人税」を払うことに加え、粗利=(利益+人件費)に対して、消費税率を掛けたものを納税しなければならない。つまり、企業は、法人税と消費税の2種類の納税義務がある。

具体的な数字を入れて考えてみると・・

利益が220万円、人件費が440万円だった企業を例に考えてみる。

法人税の納税額は、税率を仮に30%とすれば、220×30%=66万円

消費税の納税額は、税率10%なので、(220+440)×10%=66万円

となる。2つの税の納税額は、合計132万円で、最終的な利益は、88万円(220万円ー132万円=88万円)へと減る。

これを赤字企業と、大企業、中小企業の場合で考えてみる。

まず、赤字企業は、利益ゼロなので法人税はかからない。しかし、人件費440万円を支払った事実はあるので、消費税440万円×10%=44万円の納税は免れない。つまり、赤字で儲かっていないのに、どこかで借金するか、資産を取り崩して消費税を払わなければならない。

中小企業の中には、消費税を売価に転嫁できないところがたくさんある。こうした企業は、売り上げのうち実際に、消費税分として価格に上乗せできていないのに、売り上げに対し10/110の比率で計算された額が、消費税として自動的に受け取ったと計算され、納税の対象になる。

あと、従業員を雇用すると、社会保険料の事業主負担分と消費税の両方を、企業は負担しなければならない。ところが派遣社員などの非正規社員の場合は、雇用ではなく、外注費を支払ったという扱いになる。そうすると社会保険料の事業主負担がいらなくなるだけでなく、おまけに外注費は消費税計算で仕入れ控除できる。つまり、消費税を負担する必要がなくなる。この2つのメリットがあるので、正社員を雇わず派遣労働者として外注する傾向が、ここ何十年間も増え続けている。

要約すると、経団連は消費税を増税し法人税を下げてもらえば、損することがない。強い立場にある大企業は、消費税分を消費者に100%転嫁できるし、社会保険料の負担も増えずにすむ。たとえ、日本全体が不況になっても自分は助かる。おまけに前述したように、輸出企業はウハウハと丸儲けである。

だから、うしろに同業者が大勢いる経団連の会長の十倉さんは、法人税を上げるな、消費税を上げろと言い出したわけだ。長いものに巻かれたわけだが、こういう自分は困らないから、他人が困ることに目をつむる御仁が日本中にいっぱいいる。相対的に有利な立場にある人達は、皆そうだと親爺には思える。

芥川龍之介の小説に「蜘蛛の糸」があり、地獄の底で、上からぶら下がっている蜘蛛の糸へ我さきと殺到し、糸が切れてしまうアレだ。今の日本は、そんな風にしか見えない。 ああ、情けない、情けない!!

おしまい