「世界に分断と対立を撒き散らす経済の罠」スティグリッツ 平等とは何か

「世界に分断対立を撒き散らす経済」                   (ジョゼフ・E・スティグリッツ 原題は”The Great Divide”)

”The Great Divide”という簡潔な書名が日本語に訳されるとき、どうして「世界に分断対立を撒き散らす経済」と意訳されるのだろう。主は、うまい翻訳に思えず、少し疑問を感じる。主なら「世界に分断と対立を撒き散らす犯人はコイツだ」とするだろう。(文字を一部赤くしたのは、この本のタイトルが一部赤字で印刷されているからだ。写真はアマゾンから)

スティグリッツ(世界に分断と対立)

スティグリッツは、アメリカの経済学者で、「情報の非対称性」の理論でノーベル経済学賞を2001年に受賞した。クリントン政権で大統領経済諮問委員会委員長をつとめ、世界銀行のチーフエコノミストだったこともある。要するに、各地で発言する影響力のある経済学者だ。

スティグリッツの「情報の非対称性」を少し説明すると、経済主体のうち特に買い手のほうに情報が少ない「情報の非対称性」があるために、合理的な行動が出来ず、結果として最適な資源配分が実現できないということを数学的に証明した。この現象はどんな商品にも当てはまることが、容易に理解できるだろう。我々が保険を掛けるとき、保険会社は保険のことをよく知っているが、我々はすべてを知って保険をかけるわけではない。商品を買うとき「情報の非対称性」は広く存在する。ちょうど今、フォルクスワーゲンのディーゼル車が、実は非常に空気を汚していたということが発覚した。これなどは、事実が消費者に知らされていれば(「情報の非対称性」が、もしなければ)、誰もこの会社の車を買わなかっただろう。

さて、内容を要約するためにこの本の帯のコピーを引用すると 「格差は冷徹な資本主義の結果ではない。1%の最上層が、自分たちの都合のいいように市場のルールを歪め、莫大な利益を手にし、その経済力で政治と政策に介入した結果なのだ。だが格差の拡大は、経済や社会の不安定と混乱をもたらし、やがてはすべての人々を危機へと導くーーー」とある。

40年前、主が大学生の時に学んだ新古典派の経済学では、経済主体が合理的に行動するという前提条件を満たせば、最適な資源配分が実現される(有名な「神の見えざる手」が働き、需給は均衡し失業は起こらない)としていた。非常にシンプルで楽観的だが、もしそうなら、政府が介入することなく、市場が最適解を与えてくれるということになる。こうした考えが、「小さな政府」、規制緩和やグローバリズムのトレンドの根本にある。

第二次世界大戦のあと、市民社会が広く実現し格差が縮小した時代が続いたように見えた。だが、1980年代のレーガン大統領の登場あたりの時期を境に、規制を撤廃し、民間会社の競争が社会資源を効率的に配分するとさかんに言われるようになり、アメリカ国内だけではなく、地球規模でグローバリズムが言われるようになり、格差が拡大し始める。

今のアメリカでは、1%の超富裕層とそれ以外に別れてしまい、99%のほうはこの30年間!所得がほとんど伸びていないのに対し、1%の超富裕層が富の4分の1を持つまでになっている。リーマンショック後の経済成長のうち、なんと97%は上位1%が手にしたとある!

過去30年間で、アメリカで順調なのはこの1%の層だけで、残りは停滞しており、中間層から下層への移行が起こっている。この不平等に対し、スティグリッツはさまざまな角度から、吠えまくる。大声で警鐘を鳴らす。アップルやグーグルなどの巨大企業が生まれた一方で、デトロイトなど過去の製造業の中心地は、いまでは廃墟のようになっている。一方、富裕層は、下位の層を「怠け者」と考え、自分の税金が低所得者層に使われることを激しく嫌っている。スティグリッツは、このような社会の分断は、全体として資源が効率的に使われていない状態だという。貧しい層の能力が、十分の発揮されていない。また、この激しい社会格差は、経済成長を減速させ、社会を不安定にすると繰り返し述べている。

金持ちは、自分たちが高い報酬を手にし、多額の財産を持っていることに対して、それは努力や能力の結果で、当然だと考えている。しかし、この本で繰り返し述べられているように富者と貧者の経済格差は、正常な経済活動の結果ではなく、各種の社会政策、税制、教育の機会不均等などの人為的な介入により生み出されたものだ。

アメリカに比べるとマシだが、こうしたことは日本でも起こっている。言わずもがなだが、離婚した片親(特に女性)家庭の貧困、その子供への貧困の連鎖、20年続いたデフレによる非正規就労者の貧困、結婚できない層の増加、出生率の低下など、「一億総中流」と言われた高度成長期には見られなかったような惨状が、そこかしこに広がっている。一刻も早く、経済を立て直し、広がった格差の是正が必要だ。

ところが、政府は格差解消に真剣に取り組む気配がない。財務省やマスコミは、財政赤字にフォーカスし、国の財政を家計のように考え、財政赤字の解消には、増税と歳出削減しか他に方法がないという誤った観念に囚われ、財政危機を煽るばかりだ。公共事業は、効果のない非効率の代名詞のように言われる。しかし、公共事業は、社会資本の整備を行うもので必要なものだ。デフレが20年も続いたため、デフレにかき消され効果が出なかったのだ。一部で非効率的な公共事業があったので、すべてが悪いとの印象を社会に与えている。高齢化に伴い増加する社会福祉費用。これも財務省は増加率を削減しようと躍起だが、必要な福祉は国が負担すべきだ。

巨額の財政赤字が日本国の信用を失わせ、やがて国債の暴落とハイパーインフレが始まると言われることがあるが、これはデマだ。アベノミクスが始まって2年、大量の国債を日銀が買っているが、国債価格は安定し、金利も史上最低の水準で安定している。

今年6月、年金の支給額が少ないと訴え、老人が新幹線の車内でガソリンを被って焼身自殺するという象徴的な事件があった。誰でも、生活保護程度の金額を手にできるよう国が面倒を見るべきだ。

主は定年退職したばかりだが、老後を安心して過ごすためには、現在の平均的な年金の水準では、退職時に最低限持ち家と3000万円の現金が必要だと言われている。

このような条件を満たす高齢者がどれだけいるというのか。週刊誌の見出しではないが、夥しい下層老人が社会を漂流するだろう。また、何十年もあくせく働いた後、やっとて建てたマイホームとやっと貯めた貯金を取り崩しつつ、不安な老後を細々と過ごすのが、国民の理想の姿だとは思えない。老後は国が最低限の生活を保障することにより、若い勤労者層も安心して結婚し、子供を作り、活力ある社会となるだろう。機会均等の観点から、教育費も無料を基本にすべきだ。

アメリカの考える「小さな政府」は反面教師だ。答えははっきりしている。「小さな政府」を是とするのをやめ、北欧型の高福祉、高負担へ明確に転換するべきだ。

 

 

 

 

 

「世界でいちばん石器時代に近い国パプアニューギニア」山口由美

「世界でいちばん石器時代に近い国パプアニューギニア」(幻冬舎新書 山口由美)を読む。発行されたのは2014年11月だから、最近だ。

主がパプアニューギニアから日本へ帰国して間もないこともあってか、この国について聞かれることがときどきある。主がこの国を様子を説明したあと、「数十年前まで高地ハイランド)は石器時代だったんです!」と加えるのだが、いまいち聞き手との間に温度差があるようで、こちらが思うようには驚いてくれない。こう言えば良かったのだ、「世界でいちばん石器時代に近い国パプアニューギニア」。さすが売れ筋どころを揃えている幻冬舎、キャッチーな書名が核心を衝いている。

主は2年間パプアに住んだのだが、この本には主が知らなかったことが多く書かれ、手際よくまとめられている。山口さんは海外旅行とホテルの業界誌のフリーランス記者だったとのことで、学術的ではないものの、この国のことについて、有吉佐和子、人類の進化の過程を研究した進化生物学者のジャレド・ダイアモンド、国民的嗜好品のブアイ、いまも残る黒魔術、水木しげる、日本軍や天然資源のLNGなどなど、幅広く情報が満載されている。もし、パプアニューギニアがどんなところか興味をお持ちであれば、この本はかなりお勧めだ。

この本の中に「First Contact」という映画のことが出てくる。1930年代にオーストラリア人が金の採掘を目的にパプアニューギニアの高地(ハイランド)へ行く。こうして、石器時代の暮らしをしていたハイランダーと西洋人(近代文明)が初めて遭遇する。まるで宇宙人に会ったような言葉だが、現地の人たちにとって白人との遭遇は、まさしく宇宙人とのそれだったに違いない。

白黒フィルムで実写されているさまは、われながらボキャブラリーが乏しいなと思うが、「凄い!」の一言しかでてこない。葉っぱや草を身にまとい、鳥の羽を頭の毛に刺したハイランダーのところに、白人が現れる。ハイランダーたちは白人のことを、先祖が現れたと驚愕する。先祖が白い姿になって蘇えるという言い伝えがあったのだ。白人が空から来たのか、土の中から出てきたのか、水の中から出てきたのか、全くわからず混乱する。

ハイランダーのリーダーが白人に近づいていくと、襲われると思った白人はリーダーに発砲する。ハイランダーたちは、白人の強さを思い知る。

白人のライフル銃が、豚を一撃に殺すさまを見て泣き喚き、走り出す。蓄音機を死者の魂を閉じ込めた箱だと思い、その声(音楽)におののく。恐怖感が素直に表情に出ている。缶詰のキャンベルのフタを見て、初めて金属を目にし、貴重品だと直感したハイランダーは奪うように額の飾りにする。女性は白人たちが近づいてくると、食われるかと恐怖を抱いていたが、関係をもって「なんだ、男だ」と納得する。

YOUTUBEで、このファーストコンタクトを見ることが出来る。映画は英語だが、ハイランダーの喋る言葉は、英語の字幕が出るので分かりやすいと思う。

https://vimeo.com/51548963

次の写真は、マッドマン。毎年9月に行われる、全国各地のシンシン(踊り)が一同に見られるハイランドのゴロカショーの一枚だ。お面をずらし、顔を見せてくれた。全身に泥を塗りたくり、弓を手に持っている。主もマスクをかぶらせてもらったが、結構な重さがある。

MADMAN (2)

 

安達誠司 VS 池上彰

安達誠司さんの「ユーロの正体」(2012年11月幻冬舎新書)と「円高の正体」(2012年1月光文社新書)、池上彰さんの「池上彰のやさしい経済学2ニュースがわかる」(2013年11月日経ビジネス人文庫)の3冊を読んだ。池上彰さんの本は、読了したわけではなくざっと目を通したというところだ。

安達誠司さんの「ユーロの正体」はちょうどリーマンショック後のユーロ危機(PIGSと言われるポルトガル、アイルランド、ギリシャ、スペインの通貨危機)のあと出版された。それは、アメリカ発のサブプライムローンに端を発したリーマンショックにより、好調だったユーロが変調し、ギリシャは粉飾決算していたことがばれ、スペインなどでは住宅バブルがはじけ、経済が急速に悪化した。

EUは政治状況、経済状況や雇用環境などさまざまに違う国々が、そうした諸条件が揃わない状況にもかかわらず、理念を性急に追求し、各国の通貨を捨てユーロに通貨統合してしまった。このことにより、金融政策は欧州中央銀行(ECB)のみが行い、各国ごとの政策が採れなくなった。こうなることは、国ごとの不況や景気過熱に対する対処方法が致命的になくなったことを意味する。すなわち、共通通貨ユーロを使うということは、域内の各国にとって為替レートを固定するということと同義になる。ドイツは生産性の向上の儲けがマルク高になることで相殺されていたが、ユーロに代わるとどんどん競争力を増した。一方で、農業と観光を除けば取り柄のないギリシャのような国が、レートを固定してドイツなどの優等生と同じ土俵で共存するのは無理がある。

イギリスはユーロに入っていない。これは、ユーロの前身であるEMS(European Monetary System)時代に、為替安を見越したジョージ・ソロスが率いるファンドにポンドを売り浴びせられ、ポンドは暴落、変動相場へ移行せざるを得なくなったものだ。

今年、再びギリシャ危機は起こった。なんとか、EUはギリシャに借金を貸し続けることを決め、ギリシャはEUに残っている。しかし、主のブログで紹介したとおり、ノーベル経済学賞を受賞したスティグリッツが、EUを出るべきはドイツだと言うほど矛盾は大きい。金融政策をとる余地のないギリシャにとって、EUから強制される緊縮策は出口がないとわかってくる。

一方「円高の正体」は、「円安」の今何を言うのかと感じるかもしれないが、現在でもこれまでの円高とアベノミクス以降の円安を理解するうえで、格好の書籍である。

この本では、話を単純化するために、為替レートを流通する貨幣量の比率だと説明している。普通、為替レートの説明では、購買力平価説を紹介し、二国間のマクドナルドのハンバーガーの値段の比率や、金利差などを根拠にあげることが多いのだが、単純化することで非常にわかりやすくなっている。また、バブル崩壊後ずっと、いかに人為的に円高誘導され、不況を克服するために行った財政出動が効果を上げずに、日本の借金を増やしたということが理解できる。不況下で行う消費増税が如何に逆効果か、ということもわかる。

この安達誠司さんの2冊は、経済をわかりやすく理解させ、同時に時代を超える普遍性があるので、今でも読む値打ちがある。

ところで主は、最近日経新聞を取り始めた。このおまけとして、3冊の書籍のうちから1冊を選ぶことが出来た。それで池上彰さんの「池上彰のやさしい経済学2ニュースがわかる」を選択した。池上彰さんは、テレビにしばしば登場し、書店には大量のベストセラーが並んでいる。非常にわかりやすく物事を掘り下げて説明してくれるので主もファンである。

しかし、この本は経済の主だったトピックをわかりやすく説明しているのだが、現在行われている「量的緩和」には触れていない。「流動性の罠」(金利はゼロ以下にできないため、その状態では金融政策が効かなくなること)というやや専門的なことについて触れているのだから、浜田宏一、安達誠司さんなどリフレ派の「量的緩和」により市中の貨幣流通量を増やし、その貨幣が国債や株式などの投資市場に流れることで資産効果を上げ、インフレ期待をを生み出そうという主張を紹介しないというのは、残念で公平でないような気がする。

 

アスペルガー症候群とグレン・グールド

グールドは、さまざまな疾患を生涯にわたって抱えていた。少年期の終わりには、早くも処方薬を手放せなくなり、大人になると薬を山のように飲んでいた。カナダとアメリカの国境で、あまりに大量の薬を持っているために不審がられ、税関で拘束されたくらいだ。確かグールドがデビューしたての頃の映画にも、似たようなシーンがあった。インタビュアーが旅行の時には、薬でトランク一つが一杯になっているそうですね?」と尋ねる。 それに対し、グールドは「トランクは大きすぎるよ。アタッシュケースぐらいなもんだよ」と答える!!

グールドが抱えていた疾患のうち、心気症(ヒポコンデリー)はよく知られているが、不眠や情緒不安定にも悩まされていた。複数の医師にかかり、他の医師の診察を受けていることを隠して、精神障害や情緒障害の処方薬を同時にもらい、大量に飲んでいた。彼の友人の精神科医のピーター・オストウォルドが1996年に書いた伝記を読むと、グールドの根底にある性向として、アスペルガー症候群が強く示唆されている。アスペルガー症候群が広く認知されるようになったのは、1990年代というから、グールドの生前には知られていなかった障害である。アスペルガー症候群は自閉症の一種で、対人関係が不器用で、他人の気持ちや常識を理解しづらいことから、社会に溶け込むことができずさまざまな問題を引き起こす。だが、一方で人並み外れた能力(高度な集中力や深い知識)を持っていることが特徴である。

そうした関心から「アスペルガー症候群」(岡田尊司 幻冬舎新書)を読んでみたのだが、アスペルガー症候群がグールドにまさにぴったりあてはまり、非常に驚いた。

一般にアスペルガー症候群を持つ人は、他人の気持ちを理解できづらいために周囲から疎まれ、それが原因となって、持てる能力を発揮できず、生きづらい生活になってしまう場合が多い。しかし、グールドの場合は、母親をはじめとする周囲のサポートがあったために、生涯をとおして彼が持つ高い能力を音楽の分野で発揮することができた。このため、音楽の才能をどんどん高めることが出来た。演奏のみならず、音楽評論家、作曲家、プロデューサーでもあったが、それらはすべて音楽から出たもので、(株で儲けていたとか、安倍公房原作の映画「砂の女」や夏目漱石の「草枕」に夢中になったりしたという事実などもあるにはあるが・・・)彼は音楽に人生のすべてを、土曜も日曜もなく、朝から晩まで捧げていたと言っても間違いではない。

グールドと同じくアスペルガー症候群を抱えながら功績を残した人物として、アインシュタイン、エジソン、グラハム・ベル、ヒッチ・コック、ダーウィン、西田幾多郎、ディズニー、ビル・ゲイツなど多くの例が上げられている。

以下で、アスペルガー症候群を感じさせるグールドの子供時代を紹介しよう。

グールドの母フローラグリーグ(Grieg 1843-1907、ノルウェーの作曲家)が母親のいとこにあたることを誇りにする声楽教師であり、ピアノ教師でもあった。教会の聖歌隊が縁で10歳年下の父親バートと知り合い1925年に結婚する。二人とも敬虔なプロテスタントで、深く音楽を愛していた。バートは毛皮商を営んでいたが、美声の持ち主でヴァイオリンを弾くこともできた。フローラは、バートとの結婚によりプロの声楽家になることをあきらめる。当時の女性にとって結婚は、主婦に専念することを意味する時代だった。このことが、グールドをプロの音楽家にしたいと考えるきっかけになったかも知れない。

フローラは何度かの流産ののち、1932年40歳で待望の子供グールドに恵まれるのだが、子供がお腹の中にいるときから、歌いながらピアノを弾き、胎児に聞かせていた。この夫婦にとってグールドは「念願の子」であり、一人っ子で甘やかされ過保護に育てられる。

グールドに絶対音感があることをバートが見抜き、フローラは3歳の時にピアノを教え始める。グールドは文字を読むよりも先に、楽譜が読めるようになる。グールドの死後1986年にフランスで催されたグールド展のパンフレットに、バートは赤ん坊のグールドの様子を次のように書いている。「祖母の膝に乗ってピアノに向かえるようになるや、たいていの子供は手全体でいくつものキーを一度に無造作に叩いてしまうものだが、グレンは必ず一つのキーだけを押さえ、出てきた音が完全に聞こえなくなるまで指を離さなかった」音楽の才能は、明らかだった。フローラはピアノで弾くさまざまな和音を、家の離れた場所のグールドに当てさせるというゲームをするのだが、グールドが間違えることはなかった。一方、グールドは、同年齢の子供とまったく遊ばなかった。フローラは音楽を熱心に教えたが、音楽以外の、例えば友達と協調することや我慢することなど、子供に必要なことを上手に教えることができなかった。こうして、グールドは、6歳になった時人間よりずっと動物となかよくできる自分を発見する! 小学校に行く年齢になると、グールドは両親にこう訴える。「6歳の時に両親に言って、なんとか納得させたのは、自分はまれに見る繊細な人間なのだから、同じ年頃の子供たちから受ける粗野な蛮行に曝されるべきではないということでした」その結果、両親は1年弱、自宅で家庭教師を雇う。2年生から仕方なく小学校へ行くようになるのだが、全く教師、同級生と溶け込むことがない。「ぼくは先生たちとほとんどとうまくいかず、生徒のだれとも仲良くすることができなかった。ぼくの性格には児童心理学者のいう集団精神がまったく欠けていたのです」と語っている。ピアノに没頭する、他の子供たちとうまくいかない、ますますピアノに逃避するというサイクルにグールドは入っていた。

他方、グールドは音楽家としての才能は、すぐに母のレベルを追い抜いてしまう。もう、子供へ教えることができないのだ。すると、フローラはしかるべく次の行動に出る。7歳になるとトロント音楽院へ午後通わせるのである。また、グールドの音楽の才能が遥か高みに上ってしまった10歳の時には、高名なチリ人のピアニストのゲレーロに教師を依頼する。ゲレーロは、子供を弟子にとらない主義だったが、グールドの天才をすぐに認め教師になることを承諾する。このときの、教授法が変わっている。グールドの性格を見抜き、教えるのではなく、グールドが正解に気付くようにしむけたのだ。どんどん、正解を見つけ才能を伸ばしていくグールド。

グールドを形作ったのは、明らかにこのゲレーロなのだが、グールドはピアノは独学だったと生涯言い続け、ゲレーロの影響を認めなかった。

おしまい

 

「グレン・グールド 未来のピアニスト」 青柳いづみこ

「グレン・グールド 未来のピアニスト」(青柳いづみこ 筑摩書房)

この本は、筑摩書房というメジャーな出版社から2,200円で売られ、グールドを扱った書籍の多くは専門書扱いで5,000円以上するのに比べると、手に取りやすい価格だ。主は、2年以上前に買っていたのだが、途中で馬鹿らしくなって読むのをやめていた。

ウィキペディアによると、青柳いづみこはドビュッシー研究家で東京芸術大学卒のピアニストでエッセイストと書かれている。1950年生まれというから、現在は65歳である。グールドは、1932年生まれだから、音楽評論家の吉田秀和がグールドを高い評価で日本に紹介したのが1963年なので、彼女がピアニストを目指していた時期に、レコードでグールドのことを知る機会はあっただろう。

青柳いづみこは本書で次のように言っている。「私が芸大のピアノ科の学生だったころは、グールドを認めるか認めないか、もっと端的に言ってしまえば、グールドにハラを立てるかどうかで、まともなオーソドックス路線か、が判定されたものだ。グールドの名はちょうどキリシタンを識別した踏み絵のように、同士を識別する暗号がわりに、ちらっと横目でぬすみ見る視線とともに便利な道具として使われていた。」「私が芸大生だった1970年代、ピアノ科の学生たちの間ではグールド自身が『話題にしないほうがよい存在』だったのだが・・・・」

また、次のようにも言っている。「文筆活動を始めるまでは、グールドの熱心な聴き手でもなかったことを、断っておこう。彼のレパートリーは私のそれとほとんど重なりあっていない。私はごくわずかの例外を除いてバッハを弾かないし、グールドもまたわずかの例外を除いてドビュッシーを弾かない。彼の演奏のあるものは私に非常に親密に聞こえるが、あるものはまたひどく遠く聞こえる。遠く聞こえるものの中には、一般的にはグールドの代表作と見なされている録音も含まれている。」

青柳いづみこは、この本の価値が、「実演家」から見たという一点にしかないのではないかと危惧している。しかし、その危惧どおり、この本の価値は、プロのピアニストの経験から見たグールドとの対比に限られる。名ピアノ教師として有名なパデレフスキが、ピアノの練習について「一日休むと自分にわかり、二日休むと先生にわかり、三日休むと聴衆にわかる」とたとえているが、長じたグールドはそのような練習とは無縁だった。グールド以外の普通のピアニストから見たグールドがどう見えるかという部分が、この本の取り柄だろう。

確かに、著者はグールドの演奏を公平に絶賛している。だが、本心のところはグールド嫌いだ。グールドのトピックは、評論家として求められる変わらぬ需要があり、青柳いづみこはそれに応じているだけだ。

こういうグールド嫌いの人は多いと思うのだが、グールドのどこが気に食わないのだろうか。コンサートドロップアウトしたことが気に食わないのだろうか。テープをスプライスし、完全な曲を作るのが気に食わないのだろうか。挑発的な解釈が気に食わないのだろうか。あるいは、ロマン派の曲が嫌いで、爆発的なフォルテッシモが出せないところが評価できないのだろうか。グールド以外の多くは、右手が旋律、左手は伴奏というスタイルであり、これをはずれて対位法的に声部を分けて弾くことが気に入らないのだろうか。そのあたりのところが、主は相変わらずよくわからない。

おそらく、『オーソドックス』なピアニストは、対位法(ポリフォニー)のような意識を覚醒させるような演奏よりも、流麗なメロディーとハーモニーを紡ぎだす(右手でメロディー、左手で伴奏。ホモフォニー。)ことで観客を陶酔させるような演奏を理想と考えているのだろう。グールドの場合は、明らかにベクトルの向きが違う。グールドは、古典派以前の音楽と、そのあとはロマン派(印象派)がすっぽり抜け、シェーンベルグなどの現代曲に指向性がある。

ここで思いつくのは、パルスのことだ。グールドは、パルスを一定に保ちながら演奏するのが非常にうまい。このことは、バッハなどに非常に重要だ。ベートーヴェン、モーツアルトあたりまでは、もちろん緩急はつけるのだが、基本的なリズム(パルス)がかっちりしている。どんな早い、難しい旋律であっても、このパルスを守れるので、聴き手は心地よい。しかし、その後のロマン派のショパンや、ドビュッシーなどの曲になると、それこそ緩急の変化が、音量(ダイナミズム)の変化とともに基本にあり、一定のパルスが持続しない。逆に、カナダテレビ放送協会CBC)で1974年に放送されたドビュッシーの「クラリネットとピアノのための第1狂詩曲」は、グールドが珍しくロマン派の作品を取り上げているのだが、一定のテンポで演奏され、これはこれで悪くないものの、普通に演奏されるドビュッシーと比べるとかなり違和感がある。こうしてみると、グールドはパルスが乱される曲の演奏には向いていないと感じる。

だが、この異才のピアニストの本質は、ロマンティシズムにある。バッハは、気持ちを込めて弾きバッハでなくなる。現代曲でもそうだ。これほど心をこめて弾けるピアニストは他にいない。

若者よ! マスコミを信じるな (3)

前回からの続き

⑦「日本もグローバリズムに後れてはならない」ーーー               グローバリズムという言葉は古く、1990年ころが最初のようだ。「地球主義」と訳されることもあるようだが、そんな空想的で理想的なことはまったくない。グローバリズムといわれると、島国日本のやり方が遅れているように聞こえるが、そうではない。 ミルトン・フリードマンが「選択の自由」を書き、1980年代以降、市場万能主義が礼賛される。この主張を理論的な柱にして、規制を撤廃し、政府の関与を最小にすることが効率的で望ましいとされた。この考え方の延長線上にグローバリズムはあり、関税を撤廃し、地球規模での競争が資源の最適配分を実現するという考え方だが、そんなことはない。資源の最適配分を実現するには、多くの前提条件が必要なのだが、これが素人が考えても満たされるはずがないとすぐにわかる。 その具体的な前提を、藪下史郎「スティグリッツの経済学『見えざる手』など存在しない」から引用してみよう。①私的利益を追求する合理的な個人と企業 ②多くの売り手と買い手がいる完全競争市場。売り手も買い手も価格支配力を持たない ③完全情報。売り手と買い手も取引される商品の価格と質に関する情報を持っており、情報量に差はない ④取引費用はない。情報のための費用を含め、取引に必要とされる費用は存在しない ⑤同種の財・サービス。一つの市場で取引される商品はすべて同質であり、たとえば労働サービスについては能力・技術などの差は存在しない ⑥完備市場。すべての財・サービスを取引する市場が存在している。 ⑦スムーズな市場調整。需給が均衡するように素早い価格調整がなされる。・・・①から⑦まで満たしてはじめて仮説は有効に働く。このようなことは到底ありえないので、市場の失敗、机上の空論、先進国側の帝国主義だと考えるべきだろう。 話は変わるが、ISOという国際規格があるが、日本企業はグローバルスタンダードの掛け声の下、このISO取得に躍起になる。おかげで、それまであった日本のQC運動が下火になってしまう。ISOとQC運動は全く性質が違う。ISOはトップダウン、QC運動はボトムアップ。QC運動のほうが、断然すぐれているのだが、日本のローカルな運動と思われ、不景気も相まって消滅してしまう。ISOを世界標準などと思い、その気になっていたがために、競争力の一部を失ってしまった。

⑧「給与は成果に応じて支払われなくてはならない。年功序列はもう古い」ーーー    アメリカ人の1%の高額所得者は、その報酬の受け取りについて、高い生産性と能力に見合ったもので何十億円もらっていても当然だという。所得の低い人は、努力が足りないのだという。この発想は、成果主義の延長にある。だが、その貧者と富者の差はもちろん、正当なものではない。恣意的に社会制度や政策により生み出されたものだ。現代社会は勝者が儲けを総取りする傾向があり、1%の富裕層と99%の貧困層に以前にもまして分断されている。 社会の成員全員が持てる能力をすべて発揮し、資源が最有効に使われる状態(経済が成長し、完全雇用が実現されたプラスサムの状態)がもっとも望ましいのだが、現状は、貧者が高い失業率により持てる力を発揮できない一方で、無力につけこむ学生ローンや、無茶で高額の手数料を取られる住宅ローンなど、貧者のパイを減らし富者へ集めているマイナスサムの状態である。アメリカは機会均等が失われて久しい。機会均等がない状態で、成果主義云々はあり得ない。

成果主義と年功序列のどちらがいいかというのは、決して良し悪しの問題ではなくて、どのような社会を望むかという問題だ。安定し、長期にわたる成果を求めるなら、終身雇用、年功序列が優れている。長期の目標や外部経済(公害など)を斟酌せず、短期の成果で勝者と敗者を明確に分けるなら「成果主義」だろう。だが、北欧のように教育、医療に費用をかけ社会保障のセーフティネットを充実させて経済成長を果たしている国もある。ただし、北欧の成功は、意図的に黙殺されることが多い。

まとめーーー                                  主は、昔、愛読書は大江健三郎で朝日新聞のファンだった。支持政党はどちらかいうと左寄りで自民党は嫌いだった。常に政治的、倫理的にニュートラルであることをモットーにしていた。しかし、そのニュートラルはマスコミや世間の幻想に色濃く染まっており、大いにバイアスがかかっていた。このことに気付いたのは、今から10年前、50歳の頃だった。藤原正彦さんのベストセラー「国家の品格」(2005年)を読んで、衝撃を受け、目からうろこが落ち、価値観が変わった。いまや、一番ひどいと思うのは朝日新聞である。朝日新聞に限らず、日経新聞もそう。雑誌はさらにひどい。読者の興味を煽れればよしとしており、すべてのマスコミは本当のことは書かない。嘘ばかり並べていると考えるべきだ。    おしまい

 

 

 

若者よ! マスコミを信じるな (2)

前回からの続き

④「ドイツの財政収支が均衡しているのは素晴らしい」ーーー             日本とは大違いだが、ドイツは、財政がほぼ均衡するところまできている。これを手放しで称賛するのは間違っている。 ドイツの経常収支が改善し始めたのは、旧東独の再建が一段落し、ユーロの流通が開始された2002年頃以降だ。通貨統合以前は、周辺国に対するドイツの相対的生産性上昇はマルク高で相殺されていたものが、統合後はドイツの輸出競争力上昇に直結したことが根底にある。要はEUの中で、ドイツが通貨統合のメリットを一番受けているのだ。この強すぎるドイツの輸出競争力に対して周辺国から批判が出ているが、ドイツ人は「ドイツに責任は無い」「ドイツの黒字は相手国にプラスの面もある」と、批判をはねのけている。 大英帝国がカリブ海やアフリカ、アジアを「低開発化」したように、ヨーロッパ統合が生み出した「ドイツ帝国」は、南欧の「低開発化」を促進しているようなものだ。このEUのシステムの内部にある限り、ギリシャがドイツや北欧のような「先進地域」になれる可能性は非常に低い。ドイツ一人の収支の均衡は、他の国の犠牲の上に成り立っており、EUの存続を不安定にするものだ。

⑤「知的財産の保護は重要だ。先進国が途上国に知的財産の保護を貿易交渉で求めるの当然だ」ーーー                                  知的財産の保護は重要と一般に考えられている。中国はあらゆるコピー商品を売っており、このようなケースでは権利が確かに保護されないとならない。 だが、アメリカが知的財産権の保護を貿易交渉で主張するとき、それはあらゆる成員にとっての本当に保護すべき価値なのか確認することが必要だ。すなわち、アメリカの言う知財の保護が、将来に向けて新しい知識の獲得のインセンティブになるのではなく、特定企業の既得権益の保護のためであり、今後の新たな研究開発の妨げる場合がある。特に製薬に関する特許は、単なる発見が特許を得ている場合があり、アメリカの製薬会社の既得権を守るだけで、その後の他者の研究開発を邪魔する働きをもつことがある。先進国のいう知的財産の保護は、本当に守るべき権利なのか、それともその権利を認めることにより、自国民が不当に高い輸入品しか買えなくなってしまうのか見極める必要がある。

⑥「アメリカは機会均等の国、アメリカンドリームの国だ」ーーー           アメリカが実際にアメリカンドリームの国だったのは、1980年以前の話だ。今は、世界で屈指の不平等国で、アメリカンドリームは蜃気楼のようなものだ。貧しい親を持つ子が貧しい階層から抜け出す確率は非常に低く、機会均等は失われている。1980年といえば、レーガン大統領が登場した時代で、小さな政府を標榜し、市場の力を信じ、あらゆる分野で規制緩和が進められた。レーガンの後は、父ブッシュ、クリントン、息子ブッシュ、オバマへと続くのだが、この間ずっと規制緩和は押し進められ、貧富の差が非常に拡大する。特に息子ブッシュの時代に二つの戦争(アフガン侵攻、イラク戦争)を行い巨額の財政赤字を抱えるにもかかわらず、富裕層に対する二度の減税により、アメリカの不平等は決定的に悪化する。いわゆる1%の大金持ちと99%の貧困層の分断だ。「トリクルダウン」という言葉があるが、上層部に減税をすることにより、その恩恵がしずくのように下層に浸透することを言う。だが、これは富裕層が増加させる消費額は、中流・下層の消費額を明白に下回るために、効果はほとんどなく不平等を拡大させるだけだ。市場が万能だという迷信は、ある特定の条件、すなわち、情報が完全に共有され、完全雇用の状態で、寡占がなく競争が保障され、外部経済がないなどの条件が満たされている場合のみだ。こんな試験管的な状態は、現実にはあり得ない。このため、市場自体が欠点を持つというより市場を機能させるためには、規制が必要なのだ。 基本的にアメリカは今では一部の金持ちが世論を操作するきわめて特殊な国だ。アメリカのいうことを金科玉条にしてありがたがる時代は、はるか昔に過ぎた。アメリカのいうことは「眉唾」と考えないと判断を誤る。 最近「ピケティ」が高い評価を受けているが、ピケティの資本主義に対する批判も同様の指摘だ。

つづく

 

 

 

若者よ! マスコミを信じるな (1)

主、60才を過ぎやっとわかることがある。

われわれは間違った価値観や先入観をさまざまな角度から刷り込まれている。世間に流れている情報を、そのまま鵜呑みにしてはならない。自分の頭で本当かどうかしっかり考えなくてはだめだ。以下、経済ネタが多く恐縮だが、誤った都市伝説をざっと見ていこう。

①「日本の財政赤字は危機的だ。子孫に赤字のツケを回してはならない」ーー      これは、財務省の宣伝である。日本で宣伝されているほど、世界の誰も日本の財政赤字を心配していない。赤字は経済が成長すれば自然に解消に向かう。まず優先すべきは、経済成長だ。財務官僚は法学部出身者が多く、経済をわかっていない。国の赤字を我が家の赤字と同じように思って心配している。ところで、赤字がこれほど巨額になったのは、デフレ不況が続く中で、財政出動(公共投資)を積み重ねたのが原因だ。結果的にこれまでの財政出動が、効果がなかったことを見て、財政政策は効果がないという論も出てくる。(民主党の「コンクリートから人へ」というスローガンがそうだ)赤字がこのように大きくなったのは、デフレが20年も続いたからだ。まずはデフレを脱却することが重要だ。デフレを脱する局面になれば、財政政策は景気を素早く上向かせる効果がある。

②「円高になることは、円の値打ちが上がることなので悪いことではない」ーー      日経新聞は、円高になることを「円が伸びた」、円安になることを「落ちた」と表現する。「落ちる」より「伸びる」のほうがよさそうに聞こえる。だが、日本全体を見た時に、輸入より輸出のほうが経済に対する好影響が大きく、そのためには為替レートが安いほうが有利だ。マスコミの論調には、円高は円の国際評価が上がることなので望ましいといったことが言われるが、為替の決定要因には需給や金利などさまざまあり、円の値打ちが上がったと単純に喜ぶのは間違いだ。むしろ、世界の主要な通貨は、供給量を増やし通貨安競争の状態である。ここでこの競争に加わらないと、円高になり競争力が失われる事態を引き起こす。

 ③みんなが株を買うから株価は上がっていく」ーーー               日経新聞などでは、個人投資家へのセミナーなどを開き、個人が株を買えば株価が上がっていくようなことを言っている。しかし、日本の株は残高で4割、日々の売買量の6割が外人投資家が握っている。外人投資家といっても個人というより、ファンドだ。このため、彼らの売買が株価の上下に直結する。外人は、さまざまな世界中の投資の中で日本の株を一定の割合(これをポートフォリオという)保有しようとするのが基本的なスタンスだ。日本の株価に値動きがなくとも、為替が円高になればその分儲かるので、株を売ることになる。逆に為替が円安になると外貨で見たポートフォリオが下がるので、彼らは日本株を買い、株価は上昇するのだ。しかも、彼らは投機目的なので、ちょっとしたことで直ちに株を売買し、株価は乱高下することになる。こうしたことがわかってくると、日本の為替レートの変化の重要性に気付く。円は相対的に安全資産と考えられており、海外で経済不安が生じると安全とされる円が買われる。(株安の原因だ)ドルとの金利差も影響を与える。イエレンFRB議長は年内にアメリカの金利を上げると言っているが、これにより円安が進むことになる。(株高の原因だ)話を戻すと、日本人の個人投資家が株を買ったくらいでは、日経平均株価を上げるほどの力はないだろう。問題は外人の動きだ。

つづく

 

 

 

ギリシャ危機 ドイツがEUを出るべき スティグリッツとクルーグマン

written on 2015年7月12日

ギリシャ危機は、ギリシャがEU側にかなりの譲歩をして、その裏で債務の削減(帳消し)を要求するだろうといわれている。それに対し、EU側がギリシャの案を受け入れ、ギリシャがEUに残留するかどうかの瀬戸際にある、というのが大方の報道である。

だが、主が高く評価するスティグリッツは、過激にも「EUから出ていくべきは、ドイツだ」といっている。2008年の金融危機(リーマンショック)以後、ギリシャはEU、ECB、IMFの3者から緊縮策を受け入れさせられ、症状は悪化しているというのだ。

スティグリッツは、「ギリシャは間違いを犯したが、ユーログループはギリシャに有毒な薬を処方したことがより重大だ」と言っている。有毒な薬の処方とは、「具体的には公務員の解雇と自宅待機、年金支給額40%削減、公務員給与15%削減、医療保健費、教育費などの削減だ。その結果、失業率は25.8%、特に25才未満は64.2%となっている。GDPもマイナス8.9%(2011年)、マイナス6.6%(2012年)。貧困層と中流層のダメージが特に大きく、彼らがシリザを政権に就かせた原動力となった。」(シリザは急進派連合のこと)また、2015年1月28日付のスペイン紙は「ドイツは子どもの頭をもった巨人だ。何度も壁に頭をぶっつけても認識しないでいる」

http://newsphere.jp/world-report/20150206-1/

同じように主が高く評価するクルーグマンも同じ趣旨の発言をしており、政治体制が別々のまま通貨統合が行われたことにより、ギリシャのような弱い国にとっては、経済政策の余地がない。強い国の言いなりになって、背負った借金を返すだけの奴隷みたいなものだ。

http://newsphere.jp/world-report/20150629-2/

 

 

 

 

「グレン・グールド論」 宮澤淳一

「グレン・グールド論」(宮澤淳一 春秋社)

宮澤淳一は、グレン・グールドに関する海外で刊行された著作や、LPレコードのライナーノーツなど多くを翻訳をしており、日本のグレン・グールド研究における第一人者である。この「グレン・グールド論」は、2004年に出版され吉田秀和賞を受賞している。(吉田秀和は日本の音楽評論家の草分け的存在だ。)また、この「グレン・グールド論」により博士号を取得し、現在は青山学院大学総合文化政策学部教授である。

グレン・グールドはカナダ人ピアニストだ。それはわかっている。クラシック音楽の中心地ヨーロッパから離れていたことが、グールドを形作った。ただし、カナダ人はアメリカ人とほぼイコールだろう、というくらい単純に主は考えていた。

だが、カナダ人であるということは、アメリカ人とアイデンティティが全く違っていることにこの本を読んで初めて気づいた。カナダ人は、アメリカ人とは違う。カナダ人は、二つのモンスターにはさまれている。自然とアメリカである。カナダの北には北極へと続く広大な自然が広がっているが、日本人が抱く自然観とはほど遠い、厳しい自然である。南にはアメリカンドリームの国アメリカ。カナダ人はアメリカを常に意識しながらも、アメリカを単純に肯定することはない。両者のメンタリティーの差は、『アメリカ人は、どこかに陰謀でもない限りは負けるとは考えない。カナダ人は、気候や距離や歴史によって抑圧されているため、勝つと思っていない。』といわれるくらいに違う。カナダ人は、アメリカ人に対し劣等感を持ちつつも、アメリカ人を賛美することはない。日本人が日本人であることを常に意識しているように、カナダ人はアメリカを過剰に意識しながら、厳しい自然と共存し、サバイバルすることを常に意識してきたというのだ。

そういう意味では、グレン・グールドは典型的なカナダ人だった。アメリカデビューを成功させた後、最初のうちはニューヨークを録音の根拠地とするのだが、やがてトロントへ根拠地を移す。アメリカでの経済的な成功は少しも頭にない。むしろ、カナダへの恩返しがある。

彼は、20歳を過ぎたころから昼夜逆転する生活を送るようになる。太陽を憎み、モノクロの世界を好む。「静寂で厳粛な世界、荒涼として厳しく、色も光も動きもない」世界を理想と考えていた。(この表現は、バッハ「フーガの技法」についてのシュヴァイツアーの表現だ。グールドは、この「フーガの技法」を最高の音楽であると評価していた)

グールドには、彼の発明の「対位法」ラジオ・ドキュメンタリーがある。カナダ独立100周年記念の1967年に放送された「北の理念」がそれだ。4人の登場人物と1人の語り手を用意し、「北」についての意見を対位法のように同時に語らせる。テープを切り貼りし、フェードイン、フェードアウトなどの遠近法を用いながら、鉄道が線路を走る音を背景にさまざまな意見や思いが語られる。その後も10年にわたって、「孤独三部作」といわれる「対位法」ラジオ・ドキュメンタリーを作り続けた。当時は、ラジオの全盛期であり、新しい分野を開いたと評価を受ける。グールドは、リスナーが「同時に喋る言葉を理解できないという理由はない」という。だが、主は、「ラジオで複数の人が同時に喋ったら理解しづらいよな」と思う。普通の人にとって、こうした語り手が同時に喋るという手法の番組を聞くことは、理解が追い付いていけないものだ。だが、どうやらグールドはこういうこと、すなわち、対位法のように複数の旋律、会話を同時に理解することが当たり前のようにできたようだ。

グールドの言う「聴衆」も自分自身が基準になっていた。音楽の面では彼は特殊で、異常なまで高いレベルにいた。普通、語りが三人同時に喋りながらテーマに向けて話をするのを理解できないし、それよりも先に、そのような努力は放棄するだろう。だが、グールドは、それが可能だった。

グールドの考えでは、将来コンサートはなくなるだろうと言っていたし、リスナーは、異なった演奏家の録音の断片を集め、自分で曲を好きなように再構成して、楽しむだろうとまで言っていた。この発言は、グールドの見通しが間違っていたということではなく、聴き手(大衆)のレベルがグールドほど高くないということを示している。

彼自身の対位法的性格をあらわす逸話をいくつかあげよう。グールドは、友人で指揮者/作曲家ルーカス・フォスの奥さんのコーネリア・フォスとの間で、約10年間三角関係にあった。二人の子供たちも一緒に団らんしながらテレビドラマを見ているとき、グールドはピアノの楽譜を暗譜している。コーネリアがドラマの筋をグールドに尋ねたら、しっかりグールドはドラマの筋をすらすら答えたという。また、まだグールドがコンサートに出て演奏をしていた時代、素晴らしい演奏を讃えられるのだが、彼自身コンサートが終わり次第いかに早くタクシーを呼んで帰るかということに演奏しながら策略をめぐらしていたと述懐している。

宮澤のグールド評は正確だ。グールドが世間に向かって標榜していた「清教徒像」と、グールドの見えにくい現実(プライベート)を区別し、混同することがない。グールドは、晩年自分を「最後の清教徒」と言い、周囲に禁欲的イメージを与えることに成功していた。だが実際のところは、女性関係がいろいろあったと今ではわかっているのだが、その内実まではわかっていない。グールドは私生活を詮索されることを極端に嫌い、社会に向けて自分の意図する像を発信していた。

グールドのバッハに対する評価が取り上げられているが、宗教家としてのバッハ像と呼べるものはなく、音楽に限定された一面のみを捉えて評価している。グールドはバッハを時代遅れの頑固者という捉え方をし、宗教家としての評価や、宗教観についてはまったく気に留めていない。

こうしてみると、グールドは常に「結果にこだわっていない」と言えるだろう。「対位法」ラジオ・ドキュメンタリーも、これまでにない新しい手法を編み出してはいるが、何か主義を声高に主張していたり、押し付けようとする意図は全くない。バッハについても、バッハの精神が崇高であったとか言う気はさらさらない。書かれた音楽があくまで、対位法的によくできており、しっかりした構造を持っていたから、シェーンベルグもそうだが、グールドの知的水準にマッチしたのだ。言い換えれば、プロセス重視の人なのだ。 それでも、彼の演奏は神が宿っているようでもある。