主の政治観(中国、韓国、アメリカ、日本)

政治への批評は、個人的なブログに書いてもたいした意味がなく、読者の気分を害することがあるだろう。だが、世の中はミスリーディングな言い回しに溢れている(と思っている)。ついては、個人的な意見を述べてみたい。興味のある人に読んでいただければ幸いだ。

【中国について】

日中の最大の問題はやはり、外交問題だろう。尖閣諸島の領土問題などは、経済成長でGDPが世界第2位になるほど成長した最近の出来事だ。経済成長を果たす前、中国は地域の主権の主張をしていなかった。近年の覇権主義をきっかけに、資源の賦存量の大きさから主権を主張するようになった。南沙諸島でも似たようなことがベトナムとの間でも起こっているようだ。 「中国人には個人のレベルでは善い人が大勢いるのだが、共産党が前面に出てくると様相が変わってくる」という話をよく耳にする。 チベットの少数民族に対しても、共産党は愛国主義を醸成するためといいながら、弾圧する。自衛隊機への異常接近やベトナム艦船との衝突でも、自分の非は全く認めようとしない。このような国に対しては、日本の正当性を面倒がらずにずっと主張し続けることが必要だ。

戦後50年を機に戦争責任を認めた村山談話を日本政府は表明したが、このような表明は過去を清算するどころか逆に火に油を注ぐような事態を招いている。日本のマスコミにも進歩派を自認し、南京大虐殺などを大きく取り上げる新聞があるが、どれほど本当のことだったのか。これまでの中途半端な平和主義、自虐的な左派の歴史観が招いた結果のように思えて仕方がない。

日本国内の歴史観には、対立するさまざまな見方が存在している。しかし今となっては、敗戦国のバイアスがない客観的な歴史観の獲得と発信を、地道にやるより仕方がないのではと思う。つまり、敗戦後の日本の思想史においては、勝戦国アメリカが推し進めた民主思想や戦争遂行の全否定をベースにした左派思想がある。それらは当然評価すべきだが、行き過ぎた面があり、事実ではないこと、誇大に言われていることが多いのではないかと思う。当時の歴史において、日本だけが特殊な行動をとってはいないと思う。(ドイツのホロコーストとは違うと思う。)

【韓国について】

韓国では大勢の高校生が乗った船が沈没するという痛ましい事故が起こった。しかし、背景に監督官庁と民間企業の癒着があり、同種の事故が何度起こっても一向に改善されないことに対し国民の怒りが向けられているようだ。財閥系企業のサムスンやLG、現代などが好調で、韓国経済が一見好調のように思われがちだが、利益はこれらの企業に出資する欧米企業が享受し、韓国国民には恩恵がさほど行っていないと言われる。こうした中で、韓国民は苦悩しているように見えるが、人口が少なく市場規模が小さいため、輸出に依存せざるを得ないという事情があるようにも思う。 慰安婦問題などでは、日本政府は過去に河野談話を発表しているが、こちらも中国同様、このことが足をすくわれる結果をもたらしたように思う。談話発表の背景にある日本政府の韓国政府に対する配慮が逆手に取られ、誇張され過ぎているのではないか。

外交で、安易に謝罪するというやり方が如何にまずいかということを示していると思う。相手国から非難され続けて、それにこたえる形で反省を口にすると、今度はそれを口実にされさらに非難がエスカレートするという構図だ。

【アメリカについて】

アメリカはブッシュ大統領の時代にアフガン侵攻、イラク戦争を行い、世界の警察を標榜していた。オバマ大統領になり、この方向性が変わるかと期待したが、根っこのところは変わらないようだ。民主党も共和党におとらず根っこのところは、一部の金持ちを優遇するようだ。ただし、アメリカのどの政権も表面上金持ち優遇とは言わず、自由競争、グローバリズムを旗印にして公平を装っている。

アメリカの経済状況は、独占禁止法を緩めたり、金融分野の自由化すら進めた結果、過去30年間にわたり富は1%の金持ちに集中し、99%は貧しくなっている。こうしてアメリカンドリームなど全くない状況になっているのに、国民は多くはいまだにアメリカンドリームを信じている。上手く金持ちの宣伝に乗せられているのだ。レーガン政権以降にはトリクルダウン(trickle down)という、金持ちがさらに金持ちになることでその下の大衆は、水がこぼれてくるおこぼれ(トリクルダウン)にあずかるということが真面目に言われていたくらいだ。

ウクライナ危機だが、アメリカをはじめとする西側諸国はロシアを非難している。しかし、これはロシアにしてみれば、西側の勢力をバックにしたクーデターと映っており、180度とらえ方が違っている。ただ、西側が結束してロシアを非難すればするほど、孤立するロシアは中国と接近する。これは世界を分断し、経済のためによくないのは明らかだ。

【日本について】

日本は、経済の立て直しが間に合うかどうかが最大のポイントだ。高齢化、人口減少、20年間続いたたデフレ。これらで特に地方は壊滅的な状況にある。地方に限らず、弱者ほど過去にない厳しい状況にある。東京に住み、貯えもあり、安定した職業についているとデフレは困らないのだが、地方在住、非正規社員、シングルマザー、就職できない若年層、貧困のサイクルに取り込まれた者にとってデフレは、賃金低下による地獄だ。アベノミクスで回復の兆しが少し見えるが、財務省、マスコミ、御用経済学者は、相変わらず財政赤字への警鐘を国民に発信し続けている。財政赤字の解消は、景気が回復してから考えればよいのだ。景気回復が先、財政赤字はその後に解消すればよい。赤字のレベルも一定の水準まで下げれば、必ずしも解消しなくともよいのだ。政府の赤字と家計の赤字は意味が違う。

この経済の立ち直りには、なんといっても円安が重要だ。相対的に世界を見ると、今のところ、日本の状況は悪くない。(日本の財政赤字の債務残高は、円建てで日本国内で大半が消化されており、財務省が言うほどマーケットは不安視していない。)このため、ヨーロッパの通貨危機、中国経済の減速、ウクライナ危機などの不安材料が生じるたび、円は買われ、円高になる傾向がある。黒田日銀は登場の時に、「異次元の金融緩和」を行ったが、その後はまったく音沙汰がない。幸い、今のところ消費増税の落ち込みを乗り越えられそうであるが、105円まで下がった円は、現在101円台にまで上昇し、それに伴って株価も上昇できないでいる。製造業の一部には、アベノミクスの円安により生産拠点を日本に戻す動きがあるという。こうしたトレンドを定着させるためには、今以上の円安になることが望ましい。リーマンショックの前の水準は120円ほどだったはずだ。このくらいの水準になると、日本の競争力は十分に余裕をもって発揮できる。

中韓との外交は先に述べたとおりだが、安倍首相はウクライナ危機の前、ロシアのプーチン大統領とは良好な関係を築き、北方領土の返還がまとまるかも知れないというところまで来ていた。だがこの危機で踏み絵を踏まされ、早々にアメリカなど西側諸国に同調し、ロシアを非難する側に回ってしまった。アメリカは、中韓、北朝鮮などとの外交に必要なパートナーであることは確かだが、日本が常に尻尾を振ってアメリカについていく必要があるのかは考えるべきだろう。もっと、中間的なポジションをとれなかったのだろうか。TPP交渉ではオバマ大統領が訪日する中、日米が最後まで譲らず決裂したが、この交渉は見ごたえがあった。この交渉のようにアメリカ追従ではなく、日本の国益を重視しロシアと協調、北方諸島の返還と天然ガスの輸入を勝ち取ってほしかった。

また、民主党政権の前の第1次安倍政権でホワイトカラーエグゼンプションという制度を導入しようとしていた。ホワイトカラーエグゼンプションというのは、労働の対価を、時間ではなく成果で測ろうとするもので、「成果を出せば会社に来なくていいですよ。ただし、逆に時間がいくらかかろうとも残業代は払いませんよ。」というものだ。この第1次安倍内閣の時にこの案は世間から総スカンを受けたのだが、これを再びテーブルに乗せようとしている。やはり、労働コストを下げたい財界などの圧力があるのだろう。このままではいただけない。

 

グレン・グールド考7 普通の男だった「天才ピアニストの愛と孤独」

グールドは、私生活を明らかにしてこなかったことが原因で、これまでずっと禁欲的なイメージを世間に与えてきた。一部には「グールド=ゲイ」説もあったくらいだ。自身でも「20世紀最後の清教徒」を標榜していた。ところが、そうしたイメージは実際はレコード会社の販売戦略によるものだった。映画「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」(2009年。日本公開は2011年。)で、グールド研究者のケヴィン・バザーナが、これまでの禁欲的なイメージに対し、揶揄するように実際の彼は、女性に関して全く普通の男だった」と語っている。

この映画で、生涯独身だった彼と関係が深かった女性が3人登場する。グールドが亡くなったのは1982年、50才だったから、映画の公開時の2009年は、彼が生きていれば77才という計算になる。このため登場する3人はいずれも、今ではお婆さんになっているのだが、映画に出てくる当時の姿は、それはそれは非常に魅力的だ。今でも笑った表情などに当時の面影が現れ魅力を保っている。

一番最初に出てくるのが、フランシス・バロー(写真)。グーグルで検索すると、ティーンエージャー時代の8才年上のガールフレンドで、グールドがピアノを教えたと出てくる。グールドはチッカリングというハープシコードのような音を出すピアノで、デビュー作のゴールドベルグ変奏曲(バッハ)を練習したのだが、このピアノは彼女から譲ってもらったものだ。 映画で、グールドを愛していたかときかれ「もちろん」と即答し、グールドはロマンティックだったかときかれ、4,5秒ほどの非常に長い間のあと「ある種の(sort of)」と答える。また「一緒に暮らすのは困難(too difficult to live with)」と答えている。グールドは20代のはじめの時期、自身の唯一の大曲「弦楽四重奏曲作品1」を2年間かかって作曲していた。このことをに夢中になりながら電話で毎晩彼女に語っていた。下の写真ではタバコをくゆらせているが、若い時の写真でもタバコを魅力的にくゆらせ、グレタ・ガルボを彷彿とさせる。

バロー

二番目に出てくるのは、コーネリア・フォス(写真)。コーネリアは、グールドの友人である作曲家、指揮者、ピアニストのルーカス・フォスの奥さんで画家だ。グールドはルーカスを尊敬していた。そのため、ルーカスに電話をよくしていたのだが、ルーカスがいないときにはコーネリアと話をし、やがて、ルーカスではなくコーネリアに電話するようになり、二人は恋に落ちる。二人は1962年に知り合い、1972年に別れたというから、ちょうどグールドが30才から40才の10年間にあたり、最後の4年間半はトロントに家を借り、グールドの近くで暮らしている。コーネリアにはルーカスとの間に2人の子供(9才のクリストファーと5才のエリザ)がいた。グールドは1964年以降(32才以降)、コンサートに出ることはなくなり、もっぱらスタジオで録音をするのだが、音楽評論やラジオ番組の制作などもしていた。グールドは演奏以外の場でもさまざまに発言するのだが、これがピアニストとしてではなく批評家として、厳しい批判に晒される。こうしたことで彼の聡明でユーモアあふれる性格は影を潜め、メディアに対しては防御的になり、世間から徐々に遠ざかるようになる。グールドは緊張を緩和するために安定剤などを飲んでいたのだが、複数の医者で同じ薬を処方してもらい大量に飲むようになる。この薬物依存症はエスカレートし、恐怖症に苛まれ続ける。心気症が激しくなったグールドは、コーネリアをトロントで1枚も絵が描けないほど束縛し、やがて二人の家庭は維持できなくなる。

コーネリア

コーネリアに復縁を迫るグールドだが、もとに戻ることはできない。失意に暮れるグールド。

その後、グールドはたまたまロクソラーナ・ロスラックがルーカス・フォス(コーネリア夫!)の曲を歌うラジオで聞く。グールドはロクソラーナを探し出し、ともにシェーンベルクやヒンデミットの現代歌曲を録音するようになる。ロクソラーナはオペラ歌手としては有名ではなかったようで、大きなチャンスを得たと感じたようだ。グールドの生活はこのころには昼夜逆転し、映像には不健康さが漂っている。

ロクソラーナ

このあたり、次のリンクにはよく書かれている。(興味のある人は見てね。)

http://www.capedaisee.com/2011/12/gould/ 

http://plaza.rakuten.co.jp/mamakuncafe/diary/200710030000/

グールドは死亡する50歳の直前、グールドののデビュー作で、一夜にして巨匠たちのピアニストの仲間入りさせたゴールドベルグ変奏曲の再録音にとりかかっていた。彼は一度録音した曲の再録音はほとんどしないのだが、デビュー作の演奏の解釈には、改善の余地があることを感じていた。そして再録音が完成し、50歳になった9日後、脳梗塞で亡くなる。身近にいるものは容態の悪化に気付かなかったものの、久しぶりに会うものには容態の悪化は明らかだったという。そして、死の直後、再録音盤が発売され大きな反響を呼び、この録音はグラミー賞を受賞する。

主は、この映画のもとになった書籍「グレングールド シークレット・ライフ」(マイケル・クラークスン、道出版)を手に入れた。書籍では他にも女性関係が描かれているようだ。そのあたり、読後にまたアップすることにしよう。

 

 

見たことのない景色 錦織圭

錦織圭が快進撃をはじめた。見たことのない景色を錦織はわれわれに見せてくれている。バルセロナオープンで優勝。その後のマドリッドオープンで準優勝。バルセロナオープンはATP500の大会だが、マドリッドはATP1000の大会だ。この二つの試合の結果、錦織の世界ランクは自己(日本人)最高の9位となった。

ATP1000というのは、ATPが “Association of Tennis Professionals(男子プロテニス協会)” の略、1000という数字は獲得ポイントを表している。ウインブルドンや全仏オープンなどグランドスラム4大会はさらにランクが高く、優勝ポイントは2000ポイントある。マドリッドは1000ポイントの大会なので4大大会を除くと最高ランクの大会である。ちなみに、男子はATPだが、女子はWTAといい ”Women’s Tennis Association(女子テニス協会)” を略している。大会は、規模により基本的に250, 500, 1000, 2000の4種類に分かれる。ATPの下にはチャレンジャー、フューチャーズという下部大会もある。当然大きい規模の大会は賞金総額も大きく、有力選手が参加する。このポイントによるランキングは毎週更新され、選手は大きな大会ほど出場しようとする。テニスシーズンは1年のうち12月だけが休みだ。ランキングのもとになるポイントの有効期間は1年間なので、試合に出ないとランキングはすぐに下がってしまう。

参考までに2014年5月26日現在のランキングをみると、1位はナダルで12,500ポイント、2位ジョコビッチは11,850ポイント、3位はバブリンカで5,830ポイントだ。錦織は10位で2,815ポイントだ。(錦織は準優勝した直後のローマ大会を欠場したため、好成績を残したランキング10位のラオニッチと入れ替わった。)こうしてみると、世界のトップになるには1万ポイントを超えることが必要なので、4大大会で何度か優勝し、何度も準優勝する、ATP1000の大会でも何度か優勝するなどをしないとトップの座に就くことは出来ない。

当然錦織も10代のデビュー当時は、下部大会でポイントを獲得し、徐々にATPツアーへと移って行った。錦織以外の男子日本選手は、添田豪、伊藤竜馬、杉田祐一、最近ではダニエル太郎などが錦織を追っている。しかし、今のところは、彼らはなかなか錦織ほどの結果は残せていないようだ。

バルセロナ大会、マドリッド大会ともにクレーの大会だが、同じレッドクレーで行われる全仏オープンの前哨戦だ。錦織はもっともトローク力が要求されるクレーでの優勝はこれまでなかった。バルセロナ大会の決勝での対戦相手はヒラルド(コロンビア)、マドリッド大会は世界ランキング1位のナダル(スペイン)が対戦相手だった。このマドリッド大会では準決勝のフェレール(スペイン)戦も見ごたえがあった。第3セット、1セットオール、ゲームカウント5-3で錦織リード。ここで、錦織のサーブで40-0。つまり、あと1ポイントとれば、錦織勝利の場面なのだが、錦織自身が言う「悪い癖」が出る。そのあと3ポイントを連取されジュースになる。このジュースがハラハラ延々続く。マッチポイントは錦織に9回あり、フェレールにはブレークポイントが4回あった。錦織は10回目に最後の勝利ポイントを決めた。フェレールは地元の選手で、錦織にとっては完璧アウェイ状態。もともとしぶといプレーが身上のフェレールに、観客は大熱狂。サーブの態勢に入ったアドレスの状態で、観客席からヤジが飛び、錦織がサーブのトスを中断するなど会場はヒートアップしていた。それでも錦織は主導権をフェレールに渡すことなく、淡々と自分のプレーを続け、勝ち切った。

決勝はランキング1位の対ナダル戦。この試合錦織の出足は絶好調だった。クレーの王者ナダルを相手にさらに広角に振り回し、第1セットナダルは、自分のスーパープレーを上回る錦織のスーパープレーに、なすすべなく茫然としていた。錦織6-2で第1セットを先取。第2セット最初のナダルのサービスゲームも錦織がブレーク。その後4-2と錦織はリードを保つ。ところが、第7ゲーム錦織のサービスゲーム。このあたりから錦織の体調に異変が起こる。足が動かなくなってしまうのだ。このセットをナダルにあっという間に逆転され4-6で取られる。ファイナルの第3セットは、明らかに錦織がプレーできる状態でないことが画面を見ていてもわかる。錦織は、ここで止めては観客に申し訳がないと思ったように見えた。結局、数ゲームするのだが、誰の目にもプレー続行は出来ないと分かる状態。自分から試合続行が出来ないと審判に申告する。あと10分間、錦織の体調が完全であれば錦織が勝っていた試合だった。

翌週は、全仏前の最後のクレー大会であるローマオープンが行われた。錦織は怪我のために欠場。決勝に進んだのは、マドリッドで錦織を破ったランキング1位のナダルとランキング2位のジョコビッチ。ナダルはジョコヴィッチに敗れ準優勝に甘んじる、だが、全仏の前哨戦3大会全部に出場し、優勝1回、準優勝1回した

この2大会の錦織の活躍は、世界トップ大会の決勝戦で日本人が戦っているということで、少なくとも主60年の歴史では知らない。はるか昔の時代に日本人が大きな大会の決勝戦に出ていたが、今とはテニス人口も規模も比較にならないのではないか。現在のプロテニスプレイヤーのテニスの歴史において、見たことのない景色を錦織はわれわれ日本人に見せてくれている。テニスの大会の決勝戦の後にはセレモニーがあり、主催国の国王や皇族などが勝者、敗者に賞品を授与する。準優勝者もスピーチする機会があり、皆が健闘を称えてくれる。準決勝までに負けてしまってはこのようなセレモニーに出ることはできない。こうした栄誉のある場所に日本人プレイヤーが、大観衆から祝福を受けているのだ。決勝戦まで進めないとこうした景色は実現しないからだ。

錦織がすでに始まった全仏オープンでどれだけ活躍できるかはわからない。4大大会は5セット制で行われ、シードによる1回戦免除がなく、優勝するには7回勝つ必要があるからだが、錦織の才能は大きく、他の選手にない魅力がプレーに溢れている。また、トップ10の選手の中では最も若く、それだけ将来がある。

後日談:錦織は全仏オープン(ローランギャロス)に体調が戻らないまま出場し、ランキング100位以下の新人に1回戦で負ける。錦織はブログで「体調は良くなかったが、相手がもう少しレベルが低ければ、勝てたかもしれない。」と書いていた。この大会の決勝戦は、一つ前の大会と同じ顔ぶれのナダルとジョコヴィッチが対戦する。最後は、ナダルが前回敗れたジョコビッチを破って雪辱する。ナダルから見てセットカウント2-1、第4セット5-4で迎えた最後のポイントは、ジョコヴィッチ突然ののダブルフォールトだった。この試合、ずっと見ていても、ジョコヴィッチがいつナダルを逆転するかと主は思っていたほど、拮抗していた。—- 世界のトップは、精神力、技術、体力とも揃っていないとだめだ。相撲で言うではないですか、「心技体」だよね。

 

800言語ある! パプアニューギニア人の算数力

パプアニューギニアは、世界中から文化人類学者が集まる場所だ。アマゾンの奥地と並んで現代の今でも石器時代の暮らしが残っているためだ。

パプアニューギニアの公用語は英語だが、共通語としてピジン語が使われる。ピジン語はもともとからある現地語と思われがちだが、ソロモンやバヌアツなど太平洋州で広く話されており、現地の言葉と欧米の言語が接触した際に生まれた混成語だ。

パプアニューギニアは、もともと800とも1,000ともいわれる部族があり部族ごとに違う言葉を使っていた。大航海時代、1526年にポルトガル人がパプアニューギニアへ到来し、その後、オランダ、ドイツ、英国の植民地を経てオーストラリアに承継される。その間も多部族が乱立した石器時代の状態だった。1930年代にオーストラリア人が金鉱床を求めてハイランド高地)にやってくるのだがのが、当時ハイランドに人は住んでいないと思われていた。ところが実際は百万人が住んでいた。これがハイランダーにとっての「ファーストコンタクト」だ。だが、そこは統一された国家ではなく、部族はさまざまに乱立しており、違う言語を話していた。

下の写真は、映画「ファーストコンタクト」から。映画は1982年に作られたものだが、過去を回想しながら進むので1930年代の様子が実写されている。最初の写真は、「蓄音機」。2枚目と3枚目は、初めて金属を目にし「これは宝物だ!」と直感したパプアニューギニア人が自分の飾りにしたものだ。

https://www.youtube.com/watch?v=2Y5rC7kDx3o   ← YOU TUBE

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この地ででフィールドワークを行い「銃、病原菌、鉄」など多くの優れた著作を書いた進化生物学者のジャレド・ダイアモンドは、文明の発展段階を、移動生活をする「小規模血縁集団」、定住生活をする「部族社会」、「首長社会」、「(中央集権)国家」の4段階に分類した。パプアニューギニアでは農耕は行われていたものの、「部族社会」の発展段階で現代社会に遭遇したことになる。鉄器も銅器もなく、身に付けている物は森林や海から取った自然のもので、人工的な繊維もない。部族が統一されていず、言葉も違った

欧米人がパプアニューギニア人を労役に使おうとすると、部族が違う場合、彼ら戦いを始めてしまう。こうした状態を引き起こさないようにピジン語を共通語にしたのだ

大航海時代の西暦1500年以降、欧米人に多くの文明が滅ぼされる中、なぜパプアニューギニア人が現代まで生き延びtたのかということは大きな疑問だが、この回答を知りたい人はジャレド・ダイアモンド「文明崩壊」を読んでくださいね。(^^)

こうして現代文明に遭遇したパプアニューギニアだが、文化人類学者が大勢やってくるだけあって、興味深いことがさまざまある。最近、シニアボランティアをされている方からお話を伺うことができた。このシニアボランティアは、現地の大学生を対象に教員養成をされている。日本の高校で数学を教えられていたので時間があるときには、数学の問題を持って行き、その問題を考えていればいくらでも時間をすごせるそうだ。このシニアによると、学生たちの出身の村では必ずしも10進法が使われているとは限らず、5進法、2進法の部族もあるとのことだった。また、ココポと言うラバウルに近い町のトーライ族は、もとは5進法で、(正確には5か6か分からないが)5で桁上がりをするということを聞いたことがある。

余談だが、コンピュータは「ゼロ」「1」で表される2進法だが、2進法だと桁が非常に多くなるため「0000」から「1111(10進法で16)」までの4ビット単位の16進法で「0,1,2,3,4,5,6,7,8,9,a,b,c,d,e,f」を使って表現する。

村で必ずしも10進法が使われていなかった生徒もいる。「出来はどうですか?」と質問すると、やはり日本の学生とは比べようもないようだ。割り算は相当の生徒が正確にできない。割り算が出来るためには引き算が正確にできる必要があり、引き算が怪しいのだ。違う場所で高校生の理数科教師として活動している青年ボランティアの話も聞くことができ、4ケタの引き算を次のようにするものがかなりいるという。

 7234                                    -5368                                                                                                        _______                                                                                                             2134

要するに上の数字と下の数字を比べて大きい方から引いているだけだ。ところが、彼らはこの国のトップレベルの教育を受けているエリートたちだ。ゴールへの道は近くない。

 

 

 

 

STAP細胞 小保方晴子さん

誰もが、好奇の目で見ている小保方博士。STAP細胞の論文発表で脚光を浴びた後、一転してねつ造疑惑で涙の記者会見。

ねつ造疑惑が出てきたとき、同僚の看護師(女性)は小保方博士の博士号について「彼女が可愛いから、おじいちゃん先生が甘い審査で博士号を与えちゃったのよ。」と早々に指摘していた。そのとき主は「いくらなんでも、そんな単純な話がありなの?」とツッコミを入れていた。しかしその後も疑惑はどんどん大きくなり、理化学研究所から論文の取り下げ勧告が行われるまでになる。小保方博士はずっと姿を現すことがなかったのだが、弁護士に伴われて記者会見をおこなった。彼女は、ばっちりメークし、髪形も美容院から出てきたばかりのようだ。服装も記者会見に合わせたのか隙がない。彼女は、記者会見の途中で涙を見せるのであるが、計算していたのかのように、マスカラが涙で黒くなるという事がない。これを見た先の看護師は「自己中の虚言壁で病気!」と一刀両断した。本当にそうなのか? 日本最高レベルの研究機関で、三面記事的な動機が原因で、「オオカミ少女」の極めてお粗末な話が起こったのだろうか? そうした疑問が浮かぶのだが、小保方博士は本質的な疑問を解消しようとせず、見ている側も「本当なの?」と思ってしまう。つまるところ、彼女(看護師)の観察が正解なんだという感じがしてしまう。職業がらか、女性だからか、直観力は鋭い。

一番迷惑したのは、何より他に真剣に実験に取り組んできた大多数のリケジョだろう。ちょっと変わった目で見られ、ある種のリスペクトが含まれるリケジョの危機だ。リケジョの中に、お色気フリフリが混じっていた!

今回はの事件が、定性的な文系の議論、たとえば、『集団的自衛権』の議論と同じような性質のものだったとすると、いくら議論を続けても白黒はっきりしない。しかし幸い、これは白黒がはっきりと出せる科学の世界の話だ。もし、小保方さんの話が事実と立証されたら世間の評価は180度様変わり。ノーベル賞学者の理化学研究所理事長野依良治さんは、こんどは何というのだろうか?

外野席で野球を観戦するように今回の事件の行方を見る無責任な観客としてではあるが、世界中を騒がせたことだし、小保方さんが200回成功したという実験とは何だったのか、他に実験を成功させたというインデペンデントは本当にいるのか、あるいは、誰なのか、上手に真実を説明することが必要なのではないかと思う。(この種の「オオカミ少年」の話って、そこらじゅうにある話なんだとだんだん思えてきた。つまらん。やっぱり、もう一度再逆転すると面白いのになあと思ってしまう。)

 

GLENN GOULD 中毒 (書籍について その3)

グレン・グールドに関する書籍をさらに読んだので、感想第三弾。

【グレン・グールド演奏術】ケヴィン・バザーナ著 サダコ・グエン訳 白水社CD付   税抜き5,400円

演奏術今回は大著だ。値段も高いが、ちょっと大き目の単行本で、グレン・グールドの演奏を楽譜とともに説明するためにCDがついている。原書は、ケヴィン・バザーナ(カナダ人。音楽ライターで音楽史と文学の博士号を持っている。)がカリフォルニア大学で書いた博士論文に手を加える形で1997年に出版され、日本語版初版は2000年に出版された。本書は、その新装版であり2009年に出版された。グールドの演奏の特徴や音楽に対する思考を中心にしたこれまで読んだ本の中で最大の大作だ。

ケヴィン・バザーナは、映画「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」でグールド研究者として登場し、グールドの様々な姿を紹介している。グールドは生涯独身をとおし、私生活を一切明らかにしなかったので、この映画が作られるまでグールドの女性関係は全くの不明だった。だが、この映画でケヴィン・バザーナは「女性観は、他の男と全く同じだ。」と何故か揶揄するように言っている。(もう少し、詳しく説明してほしいのだが、残念ながらそれはない。)

 書かれている内容は一言で言ってしまうと、非常に深く掘り下げられていながら、バランスがうまく取れている。グールドの評価には常に賛否両論があるのだが、どちらの意見もうまく取り入れており、公平に書かれている。特にグールドの発言や意識は演奏と違い、本人が思っているほど彼自身のオリジナルでなかったり、レベルが高いものではなかった。また、グールドの演奏を具体的に楽譜で示し、オリジナルの楽譜とどのように違うのかを説明している部分もある。(この部分を理解するには楽譜が読めることが必要だ。残念ながら、CDをパプアニューギニアに持ってこなかったので、聴きながらこの本を読めなかった。もう一度読み返したいと思っているので、その時にじっくり吟味したい。)

他のメディアでも明らかにされているが、この本はグールドが他のピアニストと異なる点を非常に深く考察している。例えば、対位法に対するグールドの考え、すななち、複数の旋律を弾き分け、曲の構造を明らかにしようとする姿勢。どのような曲に対しても従来の演奏スタイルとは全く違うアプローチを検討し、独創的な演奏法を見出そうとする姿勢。(強弱やスピードなどの音楽記号を無視し!、反復しなかったり、独特の装飾法であったりする。)しばしば元の曲に手を加え、対位旋律を付け加えててしまうこと。演劇と映画の対比のように、コンサートとスタジオ録音を対比し、スタジオ録音では映画の編集をするようにテープを編集すること。

また、グールドの音楽の原点を次のように考察している。(ちょっと長くなるが容赦してほしい。)「・・その中のある二人の作曲家が、グールドのレパートリーで最も重要であり、音楽的価値のモデルと考えられている。バッハとシェーンベルクである。この二人はグールドの若いころから重要な作曲家であり、その作品はグールドの音楽の好みの中心を成していたのである。バッハはルネサンスとバロック期の正統な対位法の核であり、シェーンベルクは二十世紀の構造的に密度の高い音楽の核であった。しかし、この二人は重なり合ってもいたのである。つまりバッハは構造的に密な音楽の典型でもあり、シェーンベルクは対位法の模範でもあった。そして両者とも音楽に対する観念主義的姿勢の手本なのだった。」と書き、「数からいえば、バッハの作品の方がレパートリーの中心をなすものであるし、演奏習慣にも強い影響を与えたが、十代にゲレーロ(グールドを教えたチリ人ピアニスト)から学んだシェーンベルクの音楽と思想は、知的見地から言えば、より重要だったかもしれない。」「・・つまりグールドの考え方と演奏に非常に大きな影響を与えたバッハは、シェーンベルクの目を通して見たバッハという事になる。」たしかに、一理ある。 

ところで、グールドは、モーツァルトの演奏は多くの批評家から酷評されるのだが、これについてもこの本で触れている。 具体的に紹介する前に、グールドのモーツァルト演奏をざっと説明すると次のようなものである。グールドはモーツァルトに対する評価をメロディーに対位法的な要素が少ないために、非常に低い評価しかしていない。モーツァルトの曲の展開部は展開していないなどといい、また、有名な曲ほどエキセントリックに弾く傾向がある。たとえば、トルコ行進曲で有名なピアノソナタK331では、近所の幼稚園児が弾くようなスタッカートで弾き始め、アダージョの指定のところをアレグロで弾いてみせる。トルコ行進曲は異常なゆっくりとしたスピードだ。こうした演奏を本書は次のように書いている「・・・ところがグールドの演奏といえば、音楽批評に挑戦、いや音楽批評を挑発しているのである。グールドは自らにふさわしいことは、モーツァルトを弾くことではなく、グレングールドのモーツァルトを弾くことだ、と他のどの演奏者よりも自分の役割を強く主張したのだった。そしてグールドの賛美者は、そうした態度に関心を寄せる人びとなのである。(グールドのレコーディングを聴いて、モーツァルトが「どう弾かれるべきか」を知ろうとするものはいない。)」「なぜグールドは、スウェーリンク( 1562年ー1621年。オランダの作曲家。バッハ直前の作曲家である。)やクルシェネック(1900年ー1991年。オーストリアの現代作曲家。)を称賛しながら、その作品をあまり演奏しなかったのか、そしてしばしば非難しながらもベートーヴェンやモーツァルトの作品を多く演奏したのか。これは後者はよく知られた、権威のある作品で、それゆえ挑戦すべき伝統や機会が多くあるからなのだった。」「私は、演奏者としてのグールドの業績は、単なる個々の演奏の集積以上の重要性があると信じる者である。なぜなら、グールドのさまざまな演奏の総体が論述と挑戦を意味するのであって、それは個々の演奏自体やそれぞれの演奏で具体的に表現してみせた知的な立場に対する評価とは、別個になされうるものだからである。たとえば、実に複合的なモーツァルトのレコーディングのような企画は、もちろんそれぞれのソナタや、作曲家についてピアニストが暗示する見解を吟味し、批評的な結果に達することが可能である。しかし同時に、それぞれのソナタの評価とは別に、あのモーツァルトの企画全体が演奏における拡大された批評的論述だと解釈できるのである。いや、それどころか、あの企画は、実際的な表現方法を用いて、このような論述が可能であることを示すモデルだと考えられるし、またそう考えた方が実りも多いのである。・・」非常に説得力のある分析だ。グールドが演奏する力は有り余って、自分が考えた正しいと思う演奏のほかにも、アンチテーゼともいえる演奏をも披露できたのだ。

ここで主は、モーツァルトのピアノソナタではなくピアノ協奏曲を1曲だけグールドが録音しているのを思い出した。どのように演奏しているのか気になって、改めてピアノ協奏曲26番を聴いてみた。

いやーすごい演奏だ!最初のピアノの導入こそおとなしいが、途中から低音のメロディーをガンガン鳴らし、ソロの部分はいろんな音を加えているようで、モーツァルトの協奏曲には聞こえない。悪くいえば破壊的、普通にいってエキセントリック、良くいって刺激的である。高音のメロディーより、中音部さらに異常な存在感の低音部が暴れまわる。途中で、思わず吹き出してしまった。他のピアニストのモーツァルトのピアノ協奏曲を知っていれば、驚愕するだろう。(クラシックファンでない人のために付け加えると、モーツァルトのピアノコンチェルトは、流れるような高音部のメロディーを美しく、哀しく楽しむのが普通。)だが、グールドのテクニックには他のピアニストにない気持ちの良いリズム、自由自在な音の長さと音の大きさからくる素晴らしさがあり、説得力がある。グールドの技量があまりにすごいので、荒唐無稽ともいえる演奏が曲の持つ新たな魅力を引き出している。この後、比較のためにYOU TUBEでアシュケナージの演奏を聴いてみた。アシュケナージはピアニストだけではなく指揮者としても有名な巨匠だ。しかし、こちらの演奏はいたってノーマルだが、退屈して途中で止めてしまった。今再び、グールドの演奏を聴いている。はるかに刺激的でこれはこれで面白い。寝た子も起きる新しいモーツァルトだ。 

(ここからは、おまけ)                            グールドは10歳まで母親からピアノを習っていた。10歳からはチリ人ピアニストのゲレーロに習っていたが、ゲレーロにとってグールドはUnteachable な生徒だったという。このため、次のように本書に書かれている。「ゲレーロはかつて、グールドを教える秘訣は、何事でもグールド自身に発見させることだ、といったことがある。グールドに、ありふれた考えを、いかにも自分で考えついたように思わせるのはむずかしいことではなかった。しかしそうさせたからこそ、グールドはその考えを活性化できるのだった。」グールドは両親の教育方針でコンクールに出場するという事がなかった。コンクールに出場するという目標を与えられることなく、のびのびとピアノを弾かせたのである。この成果は非常に大きかった。先生のいう事を絶対視し、コンクールに出場するために型にはめられることがなかったのだ。(一方で、このことが、グールドの倫理観から競争という概念を排除した。コンサートを開かなくなったのもこの「競争」が関係している。)

ゲレーロはグールドにフィンガータッピングという奏法を教えている。フィンガータッピングというのは、指がピアノの鍵盤をはじいた時に自然に跳ね返る、この原理を利用してすべての指が独立して動かせるようになるまで修練するのだ。フィンガータッピングは他のピアニストで聞いたことがない、ゲレーロ独自のものだ。ゲレーロも非常に低い椅子に座って演奏したが、グールドもそうだ。一般的なピアニストは高い椅子に座り、姿勢を正しく背筋を伸ばし手の重みで弾く。フォルテは肩から腕に力を入れ、上の方から指を鍵盤に激突させて大きな音を出す。こうした奏法は、何千人も入るホールの後ろの客にも聞こえるようにするには必要なテクニックなのだ。しかし、フィンガータッピングではこのような衝突するような大きな音は出せない。しかし、非常に粒がそろった美しい音がだせる。また、自在に音量をコントロールすることもできる。グールドのフォルテは、このような爆音を出せないため、段丘状に音量を上げていき、フォルテを表現している。主は、グールドを聴きだしてから、他のピアニストの演奏を「何と乱暴な演奏だ!」と感じてしまう事が多くなった。他のピアニストは必ずこの指の落下により爆音をとどろかせる、これが原因だ。この奏法は確かに強烈な印象を与え、効果的な場面が実際にあるのだが、その効果は一時的で下手なピアニストはその後たいがいバランスを崩す。指を振り下ろした場合と鍵盤に指を添わせて弾く場合で、ギャップが大きいため中間的な音を出すのが難しいことと、曲全体の構造をよく考えていないのだ。また、感動の押し売りという感じがする。

グールドは、18歳で高校を中退している。しかし、彼の活動分野はピアノの演奏家だけでなく、著述業、指揮者、作曲家、ブロードキャスターとしても才能を発揮した。グールドは常に自分の意見を発信し続けたが、ピアノを離れるとやはりそこには限界があり、アマチュアといっても良かった。そうした方面でも才能は大きくあったのだが、評論家から強い反論やバッシングを受けていた。グールドはライナーノーツなども自分で書いていたし、音楽家として様々な著作を発表していたが、これらが否定されるとき、ピアノの演奏までも否定されることもあった。これに対し、グールドは主張を撤回するどころかますます強く主張し続けたが、メディアに対して徐々にひきこもるようななる。また、子供時代から薬を持ち歩いていたがこれが高じて、複数の医者から同じ薬を処方してもらい、薬物依存が進んでいく。また、ほとんど食事をとらず、睡眠もとらなかったという。

トカゲ?がベッドの上に! & 美味!カブトムシの幼虫

トカゲ?らしきものがベッドの上にいた!なんか、ちょっと子供っぽい。赤ちゃんのようにも見える。だが、可愛いと思う余裕はない。主は、こういう生き物が苦手なのだ。

とかげ(遠景)

一匹いたら、何匹も隠れているかもしれない。こいつを生かしておいたら、何十匹にも繁殖するかもしれない、と思うのが人情だ。主はこういう生き物が怖いので、手で捕まえるという発想はない。以前、ベランダの蛍光灯を夜間にうっかり着けていたら、ちょうど大量発生していた何十匹もの羽蟻が、網戸の網をくぐって室内に侵入したことがあった。一匹一匹捕まえるのは大変なので、その時は、電気掃除機で羽蟻を吸い込んだ。今回もその方法だ! と考え隣室の電気掃除機を取りに行く。電気掃除機を持って戻ってみるとあいつがいない。エイやっ、とベッドのマットをずらすと、ちょうど頭が来る板の部分にいた。ブーンと掃除機のノズルを近づける。ところが、すばしこく横へ逃げてしまう。ベッドサイドテーブルもずらすとそちらにいた。また、ノズルをエイッと近づける。掃除機のノズルに吸い込まれたか確信はないのだが、吸い込んだような気もする。何より、姿が見えない。(だが、後日シャワールームで発見。まだ、生きていた!)

そういえば、職場の同僚が、パプアニューギニアの地方出張でカブトムシの幼虫を食べたそうだ。ずっとパプアニューギニアに住み現地人と結婚もした日本人から「これは美味いですよ!」と勧められ、断れなかったそうだ。頭の部分と胴体の部分で食感が違い、呑み込むのに勇気がいったそうだ。カブトムシ幼虫

 

「こけろ! アベノミクス」と陰の合唱

今回は、ちょっと硬い話をなるべく柔らかく語りたい。

日経新聞は、株価が少し下がると相変わらず日本の産業力の低下を憂いて見せる。円高によって日本株で利益を出した海外の投資家が、ポートフォリオを一定に保つために売っているとは決して言わない。(「日経新聞の真実」のトピックがカテゴリー『経済学』にあるので興味のある人は見てね。) ヒステリックとも言えるほど、啓蒙主義的で、常に読者に警告を発しようとする。アベノミクスの成功で、20%以上円安になり株価は大幅に上昇、企業収益も改善、その果実を労働者にも分配する傾向が見え始めてきた。日本の産業構造は、昔のように輸出一辺倒ではないが、依然として輸出産業のウエイトが高く、円安は有利に働く。現在の為替レートは102円/ドル程度。民主党政権時の80円/ドルに比べると大幅な改善だが、バブル崩壊時以降は120円/ドルの水準が長く続いた。それを考えると、まだ昔の円安水準にまで戻っているわけではない。(なお、経済オンチの人のために付け加える。1ドル80円が1ドル100円になったら、円高になったと思う人が結構いる。しかし、表現を変えると1円あたり0.0125ドル/だったものが1円あたり0.0100ドルになったということで、値打ちが下がっているので、円安だ。)

安倍政権の発足に伴う黒田日銀総裁の「異次元の量的緩和」により、円安と株高が同時に起こりデフレ脱却の希望が見えてきた。しかし、世界を見るとリーマンショック後、ヨーロッパの通貨危機、中国経済の減速、アメリカの金融引締めを発端にする新興国不安、現在はクリミア半島の欧米・ロシアの対立が起こっている。こうした要因は円安の阻害要因であり、円高の原因である。(信頼を失った国の通貨は売られ、信用のある国の通貨が買われる。)アメリカの金融引き締め(量的緩和の中止)は、ドル安政策の転換を意味し、本来であれば相対的に円の価値を下げ、円安になるはずだ。だが、実際にはアメリカの新興国への投資資金が引き上げられ、新興国経済が失速するという懸念から新興国で通貨安が起こった。日本はそうした不安材料が少ないために、相対的に安心感があり円は上昇傾向になる。もちろん、日本は財政赤字という大きな問題を抱えているが、世界から致命的な問題と見られていない。

アベノミクスの最大のブレーンのイエール大学教授浜田宏一は「アメリカは日本経済の復活を知っている」の中で、白川日銀前総裁とそれまでの金融政策を激しく非難した。この浜田の提唱する政策を掲げた安倍政権が経済政策の転換を行った。日本の「失われた20年」と言われるデフレから脱出できるかどうか、ようやくこの成果が出るかどうか期待されるところだ。浜田の書名のとおり、日本経済の底固さは世界中が思っていることなのだ。

第二次大戦後、経済学の主流は新古典派と言われる学派だった。この新古典派はケインズの理論を発展させ、「合理的経済人」を仮定する。すなわち、人間は合理的で常に正しい決断が出来ることを前提にすれば、市場を通じて資源が最適配分されると考える。その後ミルトン・フリードマンが「選択の自由」を発表し、大きな影響を与える。マネタリストであるフリードマンは財政支出に反対(=ケインズ経済学の否定。公共事業の否定。)し、景気循環を貨幣供給量と利子率により説明した。彼は同時に「小さな政府」を提唱したため、レーガン、父ブッシュ、クリントン、子ブッシュ、オバマ大統領とアメリカの経済政策に大きな影響を与える。すなわち、国内向けには減税、規制改革、民営化、対外的にはグローバリズム宣伝の根拠となる。

しかし、2001年、スティグリッツが「情報の非対称性」によりノーベル経済学賞を受賞する。「情報の非対称性」と言うのは、需要者と供給者で情報が非対称であること、例えば学生ローンを借りる学生は銀行ほどの情報量を持っていないことを言う。そのような状態で資源が最適に配分されないことを証明した。この学生ローンの場合は、社会全体でゼロサムではなくマイナスサムが生じているという。スティグリッツの著作には「世界を不幸にしたグローバリズムの正体」もある。 2008年、クルーグマンが次のことを証明しノーベル経済学賞を受賞する。生産規模が拡大するほど費用が低下する「収穫逓増」の産業は、歴史的な偶然によって国際競争力が決まることをモデルで説明した。例えば米国の航空機産業は、ベトナム戦争に伴う生産拡大で競争力が高まったという。(従来の経済学は「収穫逓減」を謳っていた。)

この二人の研究は新古典派の学者の経済理論を葬り、フリードマンの市場至上主義の誤りを指摘したはずだ。「勝者総取り」という現代最大の問題が透けて見えてくる。「勝者総取り」は、主の最大の問題意識である。)しかし、スティグリッツやクルーグマンも書いているが、旧来の経済学者はなかなか自分の非を認めようとしない。それは日本も同じだ。

日本の書店に並んでいる経済学の書籍は、浜田宏一をはじめとする金融政策によるリフレ派(インフレターゲットを設定し、デフレから脱出しようとするグループ)はマイノリティーだ。相変わらず新古典派経済学者やフリードマンを崇拝する学者が主流だ。当然ながら、従来型の学者はアベノミクスの金融政策について国債の暴落と金利の上昇を声高に警告し、財政健全化を至上命題にしている。決して、日本の財政赤字はお札を輪転機で刷れば解消するというようなことは言わない。

1年前の消費税引き上げ論議を思い出してほしい。浜田宏一はじめとするリフレ派は消費税増税に反対だった。デフレから脱却できるかどうかという大事な時期の消費税増税は、「風邪をひいている患者に、体力をつけるために『グラウンドを走ってこい!』と言うようなものだ。」と時期尚早を説いていた。しかし、財務省の「財政再建」宣伝が行き届いているため、世論は「消費税増税せよ!」の大合唱だった。野田前首相は財務官僚に完全に丸め込まれた。 前述のクルーグマンは、日本がどうしても消費税を上げたいという場合でも、経済への影響を最小にするためには、消費税を毎年1%づつ上げたらよいと発言していた。ところが、この案は技術的に困難であると一蹴されてしまう。その結果、5%から8%、10%へと上がることが決まる。(おかげで今、駆け込み需要の後の反動が心配されている。そやから1%ずつ上げ言うたやろ!)ここに日本人の性癖がよく表れている。事の本質より、小銭の扱いが面倒とか煩わしいという枝葉末節を優先する発想が出てくる。景気への影響より、技術論が優先したのだ。もっとひどいことには、増税により景気が良くなると真面目に主張した経済学者もいた。かくして、マスコミをはじめとする消費増税キャンペーンは奏功する。 安倍首相は、世論とブレーンであるリフレ派の板挟みとなり、消費税増税を決定するが、経済の落ち込み分を財政支出で補うという折衷案を採用する。

ところが、マスコミや御用学者たちは消費増税が昨年秋に決定したとたん、発言内容が180度転換し、消費の冷え込みによる不況の懸念を声高に言い始める。常に世間に向かって危機を煽っている。(そんなことを言うなら、最初に消費税を増税すべきだと言うべきでないだろう。)

主の学生時代(40年前)、経済学の講義で一番最初に教わったのは「賃金の下方硬直性」だった。「賃金の下方硬直性」というのは賃金が生産性の向上に関係なく、上がることはあっても下がりにくいことを言う。しかし、日本はバブル崩壊後、ずっと名目賃金が下がり続けた。企業は収益の落ち込みに対して、生産性を上げることより費用を小さくすること、すなわちリストラや賃下げを競って行った。

ここで、名目賃金の解説を少ししよう。もしインフレ下で賃金水準が同じ場合、インフレ分だけ実質賃金は下がっている。逆に、デフレの場合、実質賃金は上がることになる。このため日本のデフレを、まことしやかに「良いデフレ」と言った学者がいたほどだ。同時に為替レートのことも考慮する必要がある。名目賃金が同じでも、円高になるとドルで換算した賃金は増加することになる。すなわち、民主党政権では急激な円高が起こったが、ドルで換算した日本人の賃金水準は、円高にに比例して上昇した。これは国際競争力を失うことを意味する。為替レートの変動(円高)で国際競争力を失い、実際に倒産したエルピーダメモリーのような企業がある。

話を元に戻すと、「賃金の下方硬直性」は確かにあり、欧米では名目賃金は下がっていない。不況で名目賃金を下げたのは、唯一日本だけなのである。欧米では不況は起こっているが、デフレになっていない。日本のデフレは世界の不況とは様相が異なっており、かなり特殊だ。この原因の一つは、国民性にあるのではないか。他の国では、企業の利益が出なくなった時にも、名目賃金を下げることは出来なかったのだ。もちろん、ペイオフや人員整理はやっているだろうが、賃金水準は保たれた。ところが、日本の労働者はリストラとともに賃金水準の低下も受け入れたのだ。日本人は、外国人に比べ真面目なのだ。こうしたスパイラルの結果、デフレになった。

現在日本の新古典派学者も表立って、私は新古典派だと名乗っている訳では勿論ない。フリードマン信奉者はそれより、分かり易く敬意を表明している。しかし、その両者の理論はあり得ない前提が必要だ。彼らは根拠を明らかにせず、表向き様々な学派の意見を公平にくみ取っているかのような発言をする。だが、彼らは心の中で思っている。「こけろ!アベノミクス。」

 

 

グレン・グールド考 お勧め作品(その2)

グレン・グールドを描いた映画に「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」(2009年。日本公開は2011年。)がある。このなかで、グールドが初めて弾く曲を練習する時の様子を、数年間不倫関係にあった画家のコーネリアが語っている。グールドは36歳ころから40歳ころまでコーネリアと二人の子供と一緒に過ごしている。グールドが演奏家として一番充実していた時期と言って良いだろう。(グールドの女性関係は、別に書きたいと思っている。)

グールドが初めて曲を弾く様子は、他のピアニストと全く違っている。練習を始める前に女中に部屋で掃除機をかけさせ、同時にテレビとラジオの音量を最大にする。つまり、自分が弾くピアノの音が聴こえないようにするのだ。初めて弾く曲にとりかかる時は、すでに楽譜は頭の中に入っており、曲のイメージもすでにあった。そのようなときに不慣れな指使いから出る音が、自分の抱いているイメージに影響することを嫌ったのだ。 グールドは、「ピアノは指で弾くんじゃない。頭で弾くんだ。」と言っている。『当然だろう!』と言われるかもしれないが、彼の言っていることは、身体的な制約を受けずに頭の中にある音を直接出すことを言っている。実際、彼の演奏は指(手)の存在を感じさせない。彼の演奏は、直接音楽に触れているようだ。

プロは、テクニックを保つために毎日4時間も5時間も練習練習するというが、様相が全く違う。同じような意味だが、「演奏に技術的な困難を感じることがありますか?」とインタビュアーから質問されると「僕は戦場を見ないようにしているんだ。」と答えている。この場合の『戦場』とは、鍵盤のことだ。つまり、彼は意識を技術的な指使いなどのテクニックのことから逸らし、もっと重要なこと、たとえば曲の構成や、旋律ごとの強弱、どのような表現方法をとるべきかかなどを、陶酔の中にありながら常に計算している。彼は「もし、演奏家が意識を演奏技術に向けたら、困難さはさらに増すだろう。」と言っている。 また、子供時代を別にすると練習をしないピアニストで有名だ。1週間以上ピアノを弾かないことは普通にあったようだ。さすがに1か月弾けないと心理的にピアノを弾くことを渇望し、ピアノが弾けると嬉しくなるという事を言っている。

例により、前置きが長くなっってしまったが、おすすめ作品を続けよう。No.2はやはりこれ、J.S.バッハの「フーガの技法」だ。これだ。グールドの演奏は35分である。

「フーガの技法」は、バッハ(1685-1750)の最晩年である1740年代後半に書かれており、最後のフーガが未完のままで終わっている。シュバイツァーは、この曲を“静粛で厳粛な世界、色も光も動きもない”と言っている。確かに、静謐で宇宙的な深遠さがある。また、心的に穏やかな充足感が感じられ、宗教的な統一感を感じることができる。

この曲は楽器の指定がないこともあり、ピアノ、チェンバロ、オルガン、弦楽四重奏、オーケストラなど様々な形式の演奏が行われている。チェンバロやオルガン単体では音色の変化や強弱などの表現力が乏しい。一方、合奏形式のものは、各楽器が個性を主張しまとまりが感じられなかったり、逆にまとまっている場合も、伝えたいものが何なのか分からなかったりすることがある。合奏に比べるとピアノ独奏の場合は、一人で演奏するため、演奏者の伝えたいものが等身大で伝わってくる。やはりピアノ独奏の場合に、曲の統一感が一番よく出る。

名前が「フーガの技法」と言うだけあり、最初の主題が次々と対位法的に展開する。対位法は、複数の独立した声部(パート)からなる音楽をポリフォニーといい、ポリフォニーである対等な関係の最大4声の旋律が奏でられる。異なる旋律が同時に奏でられるので、必然的に和声(ハーモニー)も形成されるが、各声部の旋律(メロディー)が中心となる。グールドは単純な和音にならないように和音を崩しアルペジオにして旋律の違いが分かるように演奏するところが特長だ。そういう意味では逆に、オーケストラのお互いの楽器が主張しあう旋律の重なり自体を楽しむという聴き方もできる。DVDのベルリン古楽アカデミーの演奏は、最初主はまとまりがないと思っていたが、数十人の演奏者による様々な弦楽器、管楽器による旋律がそれぞれ行きつ戻りつする様子に着目すると楽しい。また、ピアノなのだが、コンスタンチン・リフシッツというピアニストはピアノ1台だが多重録音している。明らかに4手で弾いている。

だが、グールドのこの曲の演奏は、他の演奏家のどれとも全くレベルが違う。最初のテーマのテンポの遅さ。強い緊張感を保ちながら、この遅さで演奏できる奏者を知らない。テーマの終わりで2度休符するのだが、グールドの演奏は、完全な何秒かの無音を奏でる。初めて聞いた主は、ステレオ装置が具合悪くなったと思ったほどだ。最初のテーマの後、テーマを様々に変形させたフーガやカノンが続く。これらをグールドは旋律を弾き分け、あたかも全体を一つの構築物を見せるかのように演奏する。その演奏は、誰より明晰で、押しつけがましさがない全く自然なものだ。ついに終曲。シュバイツァーが“静粛で厳粛な世界、色も光も動きもない”と言ったのはこの曲だろう。この曲を聴いていると、普遍性、宇宙、抑えた愉悦、幸福、善といった表現が浮かぶ。ところが、そうした落ち着いた幸福感が虚空に突然ストップする。絶筆なのだ、この曲は。それでもこの曲の価値は失われることがない。

つづく

 

 

 

刺さる動画 — 3.11

『祈りにも悲鳴にも異なる声をあげて、今すべてが止まるようにと願いを心から言った』http://dout.jp/305

Face Bookを通じて知人にこの『刺さる動画』を教えてもらった。3年目となる3.11の映像なのだが、いまさらながらあまりの悲惨さに言葉がない。合掌。

ただ、思うところが一つあった。このリンクをクリックして是非実際に見て貰いたいのだが、多くの写真に人が写っている。亡くなった人の手足だったり、救助する自衛隊員や消防隊員、幸い生き延びる事が出来た人が、とても現実とは思えない背景のうちに写っている。人が写っていることで、被災した人、自衛隊員、消防隊員が見たであろう惨状が目に浮かぶ写真がある。おかげでこれを見て、初めてこの災害が我がこととして実感できたような気がした。

何故なんだろう?『刺さる動画』に刺さったのか。

前から気になっていたのだが、日本のマスコミの自主規制のせいだ。日本のテレビ局の報道では、死体や血の流れる映像は削除されて報道される。当然ながら、その分リアリティが失われる。瓦礫の山だけをいくら流しても、人間が写っていなければ他人事だ。人間が写っていて初めて自分のこととして共感する。

なお、こういうリンクの仕方がアリなのかよく分からないのだが、うまくTweet出来なかったので、このようになってしまった。

3.11