「西洋の自死 移民、アイデンティティ、イスラム」 ダグラス・マレー その1

「西洋の自死 移民、アイデンティティ、イスラム」(ダグラス・マレー)という本を読んだ。東洋経済から出ていて、500ページを超える大作で読むのに時間がかかったが、強い衝撃、「ヨーロッパってこうなんだ! 政治家、マスコミってどこも同じ問題を抱えているのね!」という強い衝撃を受けた。

なお、この本の原題は、”The strange death of Europe”なので、直訳すると「ヨーロッパの奇妙な死」である。

この本は書いたようにボリュームがあり、歴史を振り返りながら慎重に詳細に書かれている。それを、さらっと要約することは難しい。そのため、感想的になってしまうかもしれないが、感じたところを書きたい。

第二次世界大戦後の西欧は、二度の残虐な戦争と、過去の植民地支配への反省から、民族の融合や多民族平和主義、多様性などを価値観の大きな柱にしてきた。そうしたことから、大戦後、難民の受け入れを行ってきたが、1980年ごろからのグローバリズム、自由貿易競争の進展により、自国民の出生率が低い西欧は、人口減少、労働力不足を補うために、難民の受け入れをより加速的に増やし始める。難民を低賃金労働者として受け入れ、グローバル競争に勝ちたいという思惑が働いていた。

他方、西欧の第二次世界大戦でのホロコーストは、実際に手を下したドイツだけがやったわけではなく、反ユダヤ主義はヨーロッパ全土にあった。また、西欧の繁栄は、コロンブスの大航海時代以降の植民地侵略政策の結果であり、西欧は、多民族を虐殺した歴史の上に立つ「原罪」を背負っているいると、総括されるようになる。こうした歴史の総括は、EU設立の経緯にも、その理念が良く表れ、キリスト教徒だけが団結するのではなく、広く多民族・多宗教の融和を目指している。

西欧に流入するグローバル競争で増えた難民の数は、「アラブの春」(2010年~)を契機に、さらに爆発的な数の難民が押し寄せ、難民だけでなく経済移民も押し寄せた。

《問題はここからである!!》

西欧の政治家は、民族の融和、多民族主義を掲げ、その考えは広く社会全般にいきわたる。要約すると「移民が来れば、エスニックな料理も食べれるし、我々の頭の中にも、新鮮な思想が生まれる。世の中は、グローバルに平和共存しなければならない。入ってきている移民の多くは、優秀で多額の納税をし、我が国に貢献している。移民はやがて西欧の生活に順応し、西欧文化に同化すだろう。」という嘘がまじった楽観的な考えが広く行きわたる。しかし、移民の数が増えるにつれ、西欧の市民たちは、「おい、おい、そんなに増えたら俺たちの住む場所がなくなっちゃうじゃないか」と感じ始める。

しかし、政治家やマスコミ、学者もそうだし、行政も、その多民族主義のスローガンを金科玉条にして、現実を見ない。

西欧の首都でも、郊外でも、もともとの住民を追いやり、アフリカやパキスタン、アフガニスタンなどの移民が、彼らだけの町を作り始める。そうした街では、もともとの住民である異教徒の白人少女へのレイプが頻発する。異教徒への強姦は、同胞への強姦より罪が軽いからだ。また、しかし、警察やマスコミ、政治家などは、そうした犯罪があったことさえ、ごく最近まで認めなかった。それを認めた瞬間、人種差別主義者のレッテルを貼られ、非難轟々となり、職を失うからである。また、イスラム教徒の若い女性が、イスラム教徒にレイプされるという事件が頻発するのだが、コミュニティー内の事件として、警察が捜査をせず、街の治安は非常に悪化するのだが、警察、政治家、マスコミは知らぬふりを続けた。

アフリカのイスラム教は、何億人もの女性の性器切除や縫合などに関連しており、そもそも西欧の民主主義、啓蒙思想や平等思想などとは相容れないものがある。しかし、西欧社会の上層部にいる人たちは、移民たちはやがて、西欧の価値観に同化するだろうと気楽に考えてきた。

こうしたイスラム教徒は、信奉するアラーが皮肉を言われたり、冒瀆、戯画化をされると、言論の自由などおかまいなしに、たちどころにテロの標的にする。西欧で、イスラム教に批判的な言論人は、警察が護衛しているほどだ。

今言われているのは、2050年には、西欧の多くの国で、キリスト教徒の白人を、イスラム教徒の有色人種が逆転するだろうと言われている。それも、現在のペースで進めばということであり、ペース次第で早まる可能性がある。

イスラム教徒の増加につれて、西欧諸国の国民は「イスラム教は我が国を豊かにしない。」「イスラム教徒とテロの間には関連がる。」「わが国にはイスラム教徒がもう十分にいる。」とイスラム教徒を否定的に考え始める。しかし、エリート政治家たちは共通して、それとは違う反応を示した。この問題に対処するには、表明される世論に対処しなければならないのだと考えたのである。彼らが優先したのは、国民が反感を持つ対象を抑え込むことではなく、国民の反感を抑え込むことだった。つまり、地元住民がイスラム主義者に敵対する抗議活動をすると、警察はイスラム主義者を警護し、いきり立つ住民を逮捕すると脅しをかけた。

西欧人は、ダーウィンの進化論以降、キリスト教に対する篤い信仰心を失っている。カトリック教会は、イスラム教を否定するどころか、良いところは一杯あると言う。イスラムは棄教に対し、死罪を与え、西欧諸国では時間の経過とともに、寛容に基づく宗教の自由が認められる。 「リベラルを自称する人たちは長年、道理や理性や科学に重きを置く啓蒙主義の教えは非常に魅力的なので、最終的には誰もがその価値を受け入れるだろうと決め込んできた。実際、20世紀後半から21世紀初頭にかけて、多くの欧州人はまるで宗教信条であるかのように人類の『進歩』を信じていた。・・・しかし大量移民の時代が来ると、そう信じていた人々の眼前で実際にその道を引き返す人々が1人2人と現れ始め、それがだんだん大きな動きになった。一連の人々の流れがまるごと逆方向に向かうのだ。進化の事実を認める戦いは欧州では終結したと思っていた人々が、進化を信じないどころか、進化は虚偽だと証明しようと決意を固めている人々が雪崩を打ってやって来たことに気づいた。」

《結論》

西欧が、このような過去の贖罪に苦しんでいたことは驚きで、同じ現象がアメリカ、ユダヤの建国時の経緯からコンプレックスになっているのは理解できるのだが、アジア諸国や他国でも他民族を虐殺した歴史を持つ国は多いはずだ。しかし、それらの国がマゾヒスト的に原罪意識を持っているかといえば、そうではないだろう。西欧(欧米)の善意が食い物にされる状態は、西欧にやってくる移民だけではない。他にもある。グローバリズムで良い目をした中国もそれだろう。

また、政治家や社会のリーダーたちが、原因である悪い方に対処せず、国民を諫め続けるというのもあちこちにある。日本はずっと、デフレで不景気なのだが、政治家は「国民みんなで我慢しよう。」などといっている。新型コロナもそうだ。コロナのせいで非常な不景気になっているのだが、必要に以上に危険性を煽り、「みんなでマスクしてガマンしよう。」的なことばかり言っている。エライ人はみんな、そんな風でいつまでたっても風見鶏で、真実を知っていても言わない。自分は困らない、少数派の言うことを取り上げて得になることはないと思っているので、ずっと無責任なのだ。

おしまい

ソニー ウォークマン NW-ZX507 でハイレゾを聴く

ずっと良い音で音楽を聴きたいと格闘してきた。スピーカーを初め、オーディオにお金をかけてきた。しかし、最後まで満足できなかったのが、クラシックのオーケストラである。アンサンブル(合奏曲)であっても、大人しい曲は、比較的スピーカーなどでもOKなのだが、例えばマーラー、オーケストラのスケールが行くところまで大きくなったと言われるマーラーは、微かな弱音で何をやっているのか分からず、フォルテッシモの強奏では、何の楽器が鳴っているのか区別がつかない。オーケストラの団員の多くが、聴力をやられるというのも分かる。ホールで半分寝ながら聞いていると、突然の轟音で眠りを破られる、あれである。

だが、主は、コンサートホールに近い音場を実現する方法をとうとう見つけた!結論をいうと、オーケストラ曲のハイレゾを手に入れ、デジタル・オ―ディオ・プレイヤー(DAP)とカナル型イヤホンを使って再生することだ。このカナル型イヤホンもバランス型でなければならない。そこまで投資すれば、まるでコンサートホールで座って聴いているのと同じように聴こえる。

具体的に聴き比べをしたのは、マーラーの交響曲第1番「巨人」で、バーンスタイン指揮(1987年)のCDと、上岡敏之指揮/新日本フィル(2016年)のDSDである。これをソニーのカナル型イヤホン  IER-M7を使い、バランス接続とアンバランス接続で聴き比べた。

結論だけを書くが、CDよりもハイレゾDSDが音が良く、イヤホンはアンバランス接続よりもバランス接続の方が音が良い。スピーカーで再生するのに比べると、CDの場合であっても、イヤホンで聴くほうが遥かに明晰で、再生装置を選べばこれほど再現性があるのかと驚く。しかし、DSDになると、ファイルを再生しているのを忘れ、奥行きや立体感もありホールで聴いていると思うほどリアルである。ただし、ティンパニ、シンバル、弦楽器も管楽器も全奏(トッティ)で強奏するとき、「」がない場合がないわけではない。しかし、ホールで実際に聴いているわけでないのだから、許容範囲である。

ただ、今回マーラーを聴いて、表のメロディーの裏で、諧謔的で、狂気的な裏のメロディー、崩れるような不調和なリズムの魅力を堪能した。マーラーの不思議な魅力はきっとここにあるのだろう。予定調和で狂気のないクラシックは、クラシックではないと思っている。

ソニー NW-ZX507
IER-M7

こちら、カナル型イヤホンIER-M7である。この製品は、バランス接続用とアンバランス接続用のケーブルが同梱されている。従来のアンバランス接続のイヤホンは1本の線を共用し、3本で構成される。ところが、バランス接続では高音化をはかるために、左右それぞれ独立させ、4本使っている。

ちょっと辛口批評になるが、このソニー NW-ZX507だが、なかなか良い音がするものの、基本、OSがAndroidなので、Androidスマホから、電話と写真機能を除いた使い勝手である。加わった機能は、高音質音楽再生ということになる。つまり、音質を問題にしなければ、スマホで十分であり、DAPは、常にスマホを上回る音質が求められる宿命にある。

主は500枚程度のCDと、音楽映画DVDなどが音楽リスニングの主要コンテンツである。CDは、パソコンなどで聞けるように、FLACという劣化のない形式のファイルにし、音楽DVDもコピーソフトを使ってコピーができるので、そうしている。

ただし、CDより音質が良いSACDという規格で録音されたものが市販されており、ピアニストのグレン・グールドを中心に10数枚持っているのだが、SACDはプロテクトがかかっておりCDのようにファイルとしてコピーできない。つまり、SACDが再生できるプレイヤーで聴くしかなく、NW-ZX507で再生できない。

一方、インターネット経由でハイレゾといわれるコンテンツが販売されており、これらも若干所有している。こちらは、SDXCというカードに入れて、聞ける。

ただ、ソニーがカセットテープが入ったウォークマンで一世風靡したころと違い、すべてがデジタルに変わり、OSはAndroid、ファイル形式も様々な形式があり、カーオーディオにも接続できる。その接続方式も、USB、Bluetoothなどがあり、様々な機能を安価に提供できなければ、中国製や韓国製に簡単に負ける。実際、スマホではAndroid10がリリースされているが、NW-ZX507のバージョンは9であり、何時対応するのかさえ、発表がされていない。カーナビに接続する場合は、USBでは接続できず、Bluetoothになるが、音質は劣る。DAC機能がある中国製では、USB接続ができるはずだ。テザリングの機能を使えば、近くにスマホがあれば、カーナビを使って、Youtubeなどをストリーミング再生できるはずだ。

しかし、日本製の製品はハードばかりに目が向き、アプリの開発が下手というしかない。ソニーのアプリ(Music Center For PC)も知らぬ間に再起動を繰り返すし、日本語の説明文も分かりにくいことがある。ソニーにはmoraという音楽配信サイトがあるのだが、ここも何時まで経っても、ポップスやクラシックやごちゃ混ぜに表示され、せめてログインしたら、過去の履歴から好みの曲を勧めてほしい。海外発の企業なら簡単にやっていることが、日本企業は、全然昔から改善しようとしていない。

おしまい

 

新古典派経済学とMMT(Modern Monetary Theory)

 1970年代、主が学生時代に習った経済学、それは「近代経済学(=近経)」と呼ばれていた。生憎、まったく不真面目な学生で不勉強だったのだが、当時習ったことが、実は間違っていたという話をしたい。つまり50年間以上、世界中で間違った経済学が教えられているということに等しい。

当時の経済学は、大学のカラーによって「マルクス主義経済学(=マル経)」を教えるところと「近代経済学」を教えるところの2種類があり、学生運動、社会主義運動が盛んだった1970年代は、「マルクス主義経済学」の方が人気があった時代だった。 やがて、1989年にベルリンの壁が崩壊、東西ドイツが統一され冷戦が終結すると、一応、共産主義の敗北ということになる。それに伴い経済学も、「マルクス主義経済学」は人気がなくなり、「近代経済学」が一般的になる。

《1.簡単に経済学史を振り返る》

この近代経済学であるが、現代の主流派経済学の呼び名は、「新古典派経済学」である。なぜ「新古典派」という名前なのかといえば、18世紀、経済学の祖と言われるアダム・スミス時代の「古典派」を源流にして、発展の基礎にしているために「新古典派」という名前がついている。

ところが、近代経済学には、もう一人巨人がおり、それがケインズ(1883~1946)である。名前を聞かれた方は多いだろう。イギリス人で、フルネームは、ジョン・メイナード・ケインズという。

ケインズは、第1次世界大戦と第2次世界大戦の間に起こった世界恐慌に対する処方箋である、ルーズベルト大統領が行ったニューディール政策の理論的支柱として有名だ。アメリカのニューディール政策、ナチス・ドイツのアウトバーンの建設は、経済の復興に大きな貢献を果たした。しかし、有効性が確認されるまでに時間がかかり、政府赤字が積み上がり、政権への評判は必ずしも良くなかった。実際に、この時代の最終的な景気回復は、第二次世界大戦の貢献によるとも言われる。 ケインズは、基本的に「大きな政府(=財政政策重視)」を主張し、完全雇用や分配(所得の再分配=金持ちと貧乏人の間のバランス)を最も重視した。また、ケインズは、経済学を「平和と豊かさ」を実現するための道徳、倫理感を、その思想の根底に置いていた。このケインズに連なる学派を「ケインズ学派」という。

一方、「新古典派経済学」派は、第二次世界大戦後に発達した経済学で、この世界大戦時にケインズが提唱したケインズ経済学を否定した(乗り越えた)経済学である。第二次世界大戦の終結後の1970年代、欧米がインフレに苦しむ時期に、人々が合理的(=エゴイスティック!に)に経済活動するだけで、市場の「見えざる手」の働きで、資源が最適配分されると数学的に証明した。つまり、誰もが自分の損得勘定だけにもとづき、マーケット(市場)で振舞えば、生産資源が最適に活用され、非自発的失業(自発的失業は除く)は起こらず、アダムススミスが言う「神の見えざる手」の働きで商品の価格は、自動的に最適な均衡点に向かい、問題は解決すると言ったのだ。 

《2.新古典派のインチキ》

しかし、「新古典派」が証明したとされるものには、様々な問題がある。そもそも、「人間が合理的に行動する」という最初の前提条件自体がもう問題である。問題点を列挙すると次のようなものになる。

  • ① 人間は損得勘定や合理性で生きていない 
  • ② 売り手、買い手ともに対等な情報が必要だが、一般に買い手側には、十分な情報がない 
  • ③ 広告、デマなどの情報操作が、参加者の判断を歪める 
  • ④ 市場取引になじまない水、空気、安全など様々なものがある 
  • ⑤ 「神の見えざる手」が存在しない 

また、新古典派経済学者は、経済学は科学だといい、数学で説明することに夢中になる。その結果、社会の平等、貧富の格差や、非自発的失業の存在などについて、それらを科学の問題ではなく、倫理や政治の判断の問題だとして、考察の対象外にするのが流儀となる。

新古典派の理論では、市場で各人が合理的に行動しさえすれば、市場が資源を最適配分するので、失業は起こらない、恐慌も起こらない、すべて市場での民間の企業活動に委ねればよいというものであり、そこから一直線に、「小さな政府」、「自己責任」、「グローバリズム」という呪文のようなテーゼが導き出される。これらの経済政策を実際に採用したのが、インフレに苦しんでいたアメリカのレーガン大統領、イギリスのサッチャー首相である。この二人による1980年代の政策が転換点であり、経済学におけるケインズ学派は、完全に新古典派に主流の座を奪われ、今に至っている。

余談であるが、日本はこのころ、絶好調の経済を謳歌していた時期だったが、1985年のプラザ合意により、2倍の円高不況に突入したにも拘わらず、欧米が取ってきたのと同じ反インフレ政策を25年以上続けた。このため、未だにデフレ不況を脱出できていない失政を犯してしまった。

新古典派の失敗は、さきほどの前提条件だけではない。新古典派は、登場以降、経済学は過去の経済恐慌を克服し、経済をコントロールできるので、世界恐慌など起こりえないと大言壮語していた。しかし、2008年のリーマンショックが実際に起こり、エリザベス女王は、経済学者に「あなた、これが起こることがわからなかったの?」と質問したという。新古典派が言うように、経済が制御され、経済危機が起こらないわけではなく、リーマンショック以前にも、東アジア通貨危機など、世界各地で起こっている。 

また、高い理想を掲げて出発したEU(欧州連合)について、統一通貨であるユーロの使用は、加盟国の中で独自の通貨発行ができなくなり、金融政策の選択肢を奪われることを意味し、EUの結束にネガティブな側面をもたらす。実際に自国で対策ができないギリシャ、アイルランド、イタリア、スペインなどで経済危機が起こったが、加盟国間で救済の足並みがそろわず、反対意見が公然と出る。新古典派経済学者は、こうした経済上の問題点を予見することすら出来ず、まったく無力だった。

また、専門用語になってしまうが、新古典派の概念に生産時における「費用逓増」を前提としている概念のバカバカしさがある。「費用逓増」というのは、生産をする際に、いくら投資を追加しても生産がやがて増えなくなるという主張である。つまり、生産量を増大させるにあたって、最初は大した追加費用を投じることなしに、生産を増大させることができるが、やがて、追加費用を極大に増しても、生産量が増えなくなるなどという馬鹿げた前提を新古典派は、置いている。この「費用逓増」の概念は、農業生産などによく当てはまるのだが、工業製品などでは、規模の利益が働く「費用逓減」である。こうした間違った前提の下で、企業は利益を最大化するが、「費用逓減」はすなわち、寡占、独占が起こることを意味し、新古典派にとって都合が悪く、理論が成り立たない。

工業製品のみならず、ましてや現代のソフトウエア提供、映画配信、オンライン図書、音楽配信、通信技術の提供などの産業の非常に大きなポーションで、追加費用ゼロで産出高を増やすことができる事態が生じている。このように新古典派の「費用逓増」という概念は根本的に間違っており、そこから出てくる企業活動の分析、均衡理論は実際の社会には全く当てはまらない。よく、デジタルの世界では「勝者総どり」と言われるが、新古典派の理論では役に立たない。

他にもある。新古典派の理論は、古典派の理論がベースになっていると書いたが、貨幣観がまったくアップデートされていない。彼らの貨幣観は、物々交換の時代に遡ったままだ。つまり、様々な商品の交換に最初、貝殻などの貴重品を使っていたが、やがて、為政者の発行する貴金属を含有する貨幣にかわる、これが通貨の起源というものだ。やがて、時代は進み、通貨は金と交換を約束するものとなる。というか、新古典派の経済理論の中にはまともに貨幣論がないし、政府は、市場原理が働かない部門を担当する、生産性の低い団体としてしか描かれていない。

上記が、新古典派の貨幣観のベースであるが、現代では、金本位制はすでに廃止され、為替レートも固定されていない変動相場制である。事情は変わっているのだが、新古典派は兌換制と固定相場を前提とした理論のままだ。これが原因で、「国債の発行は、子孫へのツケを残す」、「国債の大量発行は、民間の資金需要を政府が奪うため、国債価格の暴落と金利の上昇を引き起こす」など、事実無根のデマが、もっともらしく長年流布されてきた。

《3.MMTの貨幣観》

一方、MMTの貨幣観は、政府が発行した通貨を納税の支払い手段として認めたことにより、通貨が信任を得、通貨は発行者の負債(=受領者の資産)だという。同時に、国には、通貨発行権があり、インフレにならなければ、無限に通貨を発行できる。

また、とくに注目してもらいたい点だが、MMTは、中央銀行が発行した通貨だけでなく、銀行が契約に基づいて資金を貸し付けた瞬間(預金残高に記帳した瞬間)に通貨が生まれるという。この銀行の通貨発行には、金額的な制約はない。制約があるとすれば、契約相手の返済に対する信用だけである。これは、日銀の通貨発行と銀行の与信の合計を示すM2という日銀の統計数値に一致する。このM2の内訳だが、日銀による通貨発行残高が2割程度であり、銀行による通貨創造が8割くらいの割合になる。つまり、例えばソフトバンクがみずほ銀行から5000億円借金をした瞬間、みずほ銀行は5000億円の通貨発行したことになる。

日銀のホームページから

またMMTは、経済活動の分析に簿記の考え方を取り入れているのが特色であり、その考え方は、実社会で経理経験を持つものとして、非常に実感を持てるものである。

おしまい

YOUTUBEでコメントできない。TWITTERに共有できない。

タイトルの現象が起こり困っていたのですが、原因がわかりました!ブラウザにはCHROMEを使っているのですが、原因がわからず、そのような現象を避けるために、FIREFOXやEDGEを使ったり苦労していました。全てがそうではないかもしれませんが、お試しください。

YOUTUBEなどの広告を表示させないフリーウエア(寄付希望)にAdBlockがあります。これを拡張機能に入れている場合、YOUTUBEでコメントできなかったり、TWITTERなどに共有できない問現象が起こるようです。

この現象を避けるためには、CHROMEの場合、「設定」、「拡張機能」を開き、AdBlockを不可にします。これでOKです。必要に応じて元に戻してください。

おしまい

 

ベートーヴェンピアノ協奏曲第4番 聴き比べ リシエツキ vs グールド

たまたま、YOUTUBEで見つけたヤン・リシエツキなのだが、結構よくて印象に残った。ベートーヴェン・ピアノ協奏曲全集が出ていたので、アカデミー室内管弦楽団との協演、2018年、ベルリンでのライブレコーディングのDVDを購入した。アカデミー室内管弦楽団は、指揮者がいない(コンサートマスターである第1バイオリン奏者が兼ねる)楽団であり、WIKIPEDIAによると、映画「アマデウス」、「タイタニック」、ポピュラー音楽ではナイトウィッシュ「ワンス」などをヒットさせており、重厚さや伝統より、爽やかさや軽快さを売りにする楽団だといってよいだろう。

そこで共演していているリシエツキだが、早いパッセージなど正確なリズムで圧倒的に弾き切り、聴いていて非常に気持ちが良い。如何にも現代的なベートーヴェンである。

ベートヴェンのピアノ協奏曲は、豪華絢爛でスケールの大きな第5番「皇帝」がもっとも有名だろう。だが、人気の方は第4番が高いかも知れない。第4番は瞑想的、哲学的な雰囲気もあり、ちょっと変わったところがある。それで聴き比べにあたって、第4番を選択した。

ヤン・リシエツキ

一応、YOUTUBEを貼り付けることができたので、実際に聴き比べられると良いのだが・・・。

一方、主が偏愛するグレン・グールド。二人がどのように違うのか、その点にフォーカスをあてて書いてみたい。グールドの演奏は、1961年バーンスタイン指揮のニューヨークフィルとの協演である。

まず、出だしである。このピアノ協奏曲第4番は、第1楽章が、次の楽譜のとおり珍しくピアノの独奏5小節で始まる。ピアノ協奏曲で、出だしがピアノの独奏というのは、非常に珍しい。ほとんどの場合は、オーケストラのトッティ(全奏)がひと段落したことろで、ピアノが名人芸をひけらしながら入る曲が多い。

この冒頭からのピアノ独奏は、「運命の動機」と言われる和音の4連打が3回出てくる。もちろん、交響曲「運命」の強迫観念のような激しさはないのだが、ピアニストは和音の4連打を意識して弾くように教師から教わる。 そのような背景があるので、リシエツキは、普通のピアニスト同様、冒頭のメロディーを和音としてピアノを鳴らしている。

一方、グールド。彼は、10代をつうじて、チリ出身のピアノ教師、アルベルト・ゲレーロにピアノを習っていた。ゲレーロは、演奏技術だけでなく、音楽に取り組む姿勢や人間形成などにむしろ重点をおいて指導し、ゲレーロとグールドはいつも音楽の議論をするのだった。グールドは普通に弾き方を教えられると怒ったので、ゲレーロはグールドに自分で気づくように仕向けながら教えた。その結果、グールドは「僕のピアノは独学です。」と生涯言い続けた。

グールドは、13歳の時にトロント音楽院のリサイタルで、ゲレーロのピアノ伴奏でこの4番のコンチェルト第1楽章を合奏している。ほぼ、公式デビューの最初といって良い。その練習の時に、この曲の冒頭の伝統的な弾き方である和音の4連打のことを教わっても、グールドはこの教えをにっこり微笑みながら無視し、和音の4連打で和音を強調せず、和音を微妙に崩し、一つの旋律として弾いた。

また、この楽章は Allegro moderato(ほどよく快速に)と速度が指定されている。だが、グールドは moderato といっても良い、遅めの速度で弾き始める。そのため、グールドの演奏は、軽快で楽しいという印象より、優しく表情豊かだ。

第2楽章は、アンダンテ(歩くくらいの早さ)で、弦楽器だけの低音のユニゾンの旋律とそれに応答するピアノの対比が、ちょっとした哲学的、瞑想的な対話で聴くものを惹きつける。このときのグールドが、素晴らしい。弦にあっさり答えるのではなく、音量を小さく落として弾き、ベートヴェンの現代にも十分つうじる魅力的な旋律に聴く者が耳をそばだてるようさせる。

この部分を聴いていると、リシエツキは完全にオーケストラと一体になった演奏をしている。ところが、グールドの演奏では、オーケストラはオーケストラであるのに対し、グールドはあくまで別の主体を演じており、二人の思想家の対話を聞くような演奏である。

やはり、グレン・グールドの演奏は、他のピアニストとは本質的なところで何かが違う。リシエツキの場合、極端な言い方をすれば、5曲のピアノ協奏曲すべてが、勢いがあって、爽やかな演奏で、分かりやすくいってしまえば、金太郎飴。

だが、グールドは、1曲ごとに曲の印象が違っている。5番「皇帝」は豪華絢爛、威風堂々とした交響曲のように弾いているが、4番は、思索的、瞑想的だ。また、曲の弾き方がつねに一本調子ではなく、いつも変化に富んでいる。彼が常に奏法の中心におくデタシェ(スタッカート)奏法は、緊張を緩める効果がある。また、外声(いちばん上と下の声部)だけでなく、内声にも光を当て、旋律の主役を交代させ、聴くものを飽きさせない。

ほとんどのピアニストは、右手で旋律を弾き、左手は低音部を単なる伴奏として弾き、右手を強調するものの、左手は存在感が薄い。グールドは、低音部を、高音部同様に強調するし、グールドだけが、3声以上の旋律を同時に打鍵することはめったになく、違った旋律として弾き分けている。

また、グールドの演奏は、超越しながら恍惚としているのだが、しっかりと計算されており、楽章ごとに盛り上がる部分(サビ)が明確で、そこへ向かって行く。また、最終楽章には曲全体のクライマックスがある。

もちろん、リシエツキの演奏は気持ちよい。何より、録音状態がグールドより50年は新しい。実際にこの演奏をコンサートで聴ければ、幸運としか言いようがない。主は日本でリシエツキのコンサートがあれば、是非行きたい。

おしまい

映画「子どもたちをよろしく」

少年役の二人の俳優がとてもいい顔をしている。貧困や複雑な家族問題があり、そうした大人たちの影響から逃れられない感受性の強い主人公たちの苦悩が切なく描かれる。

 

この映画、元文科省の事務次官をされていた寺脇研さん、前川喜平さんのお二人が企画をされた映画らしく、メジャーな映画館で上映される作品と違い、マイナーな映画館を巡っている。筋が予定調和でも、安易なハッピーエンドでもないが、その分ズシンと来る、いろいろ考えてしまう映画だ。ほぼ無名の俳優たちの演技に惹き込まれる。

上映後、舞台に寺脇研氏、隅田監督、主演男優が登場し、観客を交えたトークもあり楽しめた。また、スクリーンを出たところにこの3人が揃っておられ、主役の男優に「いい顔しています。頑張ってください。」と声をかけたかったのだが、照れくさく、そうできなかったのが心残りだった。

P.S. ところで、主は最近ツイッターを始めた。そして前川喜平氏のフォロワーなのだが、前川氏のツイートには、クソリプ(糞リプライ)が大量に付いている。

前川氏は、文科省の事務次官だった時に、加計問題で官邸(菅官房長官)に協力せず反発し、官邸によって読売新聞に「出会いバー通い」をリークされ、悪者に仕立て上げられ、その後天下りあっせん問題で辞任させられるのだが、その時も「次官の椅子にしがみついている。」という脚色された報道が世間に溢れた。

そのような経緯なのだが、何年もたった現在でも、前川さんが何かをツイートするたび、「出会いバー買春」「高額退職金」「教育者の資格なし」というリプライが溢れている。

こういうリプライを見ると、妙な正義感を振りかざし、弱きを叩き、強きに巻かれる人ばっかりだなと思うのだが、いつまでも叩かれる前川氏が気の毒になってくる。SNSで非難されつづけ、自殺した女子プロレスラーの事件があったばかりだが、顛末の詳細も知らずに、人を非難するというのは、エネルギーの矛先を明らかに間違えている。

おしまい

 

政府の債務は返さなくてもよい (三菱UFJビジネススクエアSQUET 情報スクエア「五十嵐敬喜の『経済をみる眼』」2015年1月15日より転載)

(三菱UFJビジネススクエアSQUET 情報スクエア「五十嵐敬喜の『経済をみる眼』」2015年1月15日より転載)

◆国債は返済できるのか?
政府の債務残高が1000兆円を超えてしまっており、もはやこの膨大な借金を返済することは不可能ではないかと言われたりすることが多い。その疑問には、自信(?)を持って答えることができる。返済が不可能であるどころか、借金の残高を削減することすらできない。つまり、債務残高が今後も増え続けるのは確実である。

考えてみれば、それは驚くことでも何でもない。一般に借金残高を減らそうとすればフローの収支を黒字にする必要があるから、政府の債務残高を削減するためには、毎年の財政収支を黒字化させなければならない。しかし、それを実現するのはおよそ不可能である。

例えば2015年度の予算は、歳出総額が96.3兆円であるのに対し、税収と税外収入の合計は59.5兆円だ。差額の36.9兆円の赤字を国債の発行で埋める。この国債発行のうち10兆円余りは事実上の借換債なので(満期を迎えた国債を償還する財源。発行して償還に充てるから残高は不変)、国債残高(債務残高)は25兆円程度増えることになる。

したがって債務残高を減らそうとすれば、15年度の予算については25兆円以上収支を改善することが必要である。これを歳入の増加で賄うなら、54.5兆円(14年度比45兆円増)と見込まれる税収を80兆円程度に5割近く増加させる必要がある。歳出の削減だけで実現させようとすれば、72.9兆円の一般歳出(国債費以外の歳出総額)を48兆円程度にまで3分の1強も削減する必要がある。現実には、例えば税収を2割以上増やすとともに、歳出を10兆円以上カットするといったことになろうが、そんなことが実現するとは到底考えられない。

◆国債累増することの問題点
そもそも過去を振り返ってみても、日本の国債は返済されたことがない。満期を迎えた国債は確かに償還されるのだが、その償還原資は借換債の発行だ。満期債が借換債で置き換えられるだけで、国債の発行残高は減らない。借り換えるのに資金は不要だが、借換債では資金調達ができないので、新規債が発行される。結局その分だけ発行残高が増えることになる。これまで国債の発行残高は、一度も減少することなく増加し続けてきた。つまり実質的には返済されたことがないのだ。

しかし、だから問題だとまでは言えない。将来にわたって、ひたすら借り換えし続ければ、今後も返済しなくて済むから、誰の負担にもならない。国債の発行が必ずしも次の世代への負担つけ回しにはならないということだ。

もっとも、・・・・(省略)

◆プライマリーバランスを黒字化する意味
(省略)

◆欠かせない社会保障の改革
(省略)

《三菱UFJビジネススクエアSQUET 情報スクエア「五十嵐敬喜の『経済をみる眼』」2015年1月15日より転載》

おしまい

価値観の転換 コロナ恐慌でグローバリズムは完全に終焉 世界はふたつに分断

トランプ大統領、WHOの拠出金削減を検討「非常に中国寄り」 SANKEIBIZから

新型コロナが引き起こした世界恐慌で、グローバリズムが完全に終焉する。各国は基本的な食料である小麦などを自国を優先し、輸出制限を始めている。その輸出制限は、食糧だけにとどまらない。

新型コロナ拡大で食料生産国 自国優先し輸出制限

コロナが起こる前、次世代の最先端通信技術である5Gの導入で中国が先んじたところ、アメリカのトランプ大統領が、中国を安全保障上の危険と理由づけて排除しようとし、米中対立は、他の諸国も二分する踏み絵のような対立を引き起こしていた。さらにいまでは、より踏み込んで、トランプ大統領は中国抜きでも良いとまで言うようになった。

新型コロナ禍は、世界恐慌をひき起こした。もう元と同じグローバリズムの世界へは戻れないだろう。

日本政府は、ずっと国際協調を謳い、グローバリズムが富をもたらしたと考えて、自由貿易体制を守ろうとしてきた。しかし、その認識は間違いだったと認め、我が国に残ったのは、さまざまな面での荒廃と、格差の拡大だけだったと総括しなければならない。

本文とは関係ありません

グローバリズムは、1980年代に「小さな政府」をもてはやしたイギリスのサッチャー首相、アメリカのレーガン大統領が起源である。それを支えた経済理論は、政府が介入しなくとも、マーケットが「見えざる手」の働きで、自動的に合理的に資源を最適配分してくれるというものである。

「地球主義」という美名は、途上国で生産された安い製品を先進国へ輸出することが、途上国の労働者、先進国の消費者の幸福度を増し、資源利用の観点からも、途上国のキャッチアップにも望ましいと考えられてきた。 

しかし、グローバリズムは現実には途方もない「格差」を生んだ。たしかに中国は何億という国民が貧困を脱し、中産階級に移行したが、先進国の労働者は、GAFAや一部の金持ち、特権階級を別にすると、落ちぶれた。アフリカやイスラム国の多くは、繁栄から取り残され不安定で、多くの移民がヨーロッパへ押し寄せ、世界全体を不安定にした。

この「地球主義」で得をしたのは明らかに中国だ。地球主義の経済理論は、例えば日本やアメリカのマーケットが中国に奪われ、労働者が失業するとしても、生産性の高い違う職種へと移ることで、もっとも望ましい結果をもたらすと主張していた。しかし実際の労働者の流動性は、簡単に工場労働者が、他の業種に移れるほど甘くはなく、賃金が低下したり、失業、貧困を生みだした。

結局「地球主義」で得をしたのは、中国だけで、欧米や日本などは格差が広がって、99%の国民は貧しくなった。

そうしたことを、トランプ大統領はつよく認識し、ヨーロッパの首脳たちもアメリカに追随しようとしているのが、現状である。しかし、日本は相変わらず、自由貿易が日本の富をもたらしたなどと、ピント外れな認識を持っているが、これでは始まらない。Japan as No.1と言われた時代もあった日本だが、グローバリズムの競争の中で、日本は30年間ずっと負けつづけてきた。

それなのに、政府は「日本は世界最大の財政赤字」を均衡させることばかり考え、公共事業を減らし、科学技術費を減らし、教育費まで減らし、先行きが見えないひどい状況にある。その困難は、MMTを経済政策の中心に置けば、すべて解決できる。いつまでも、目をつぶるな。

日本政府はきっぱりと、グローバリズムは失敗だっと認める。そうして、「国際分業」による値段の安さより、国内の雇用確保や、安全保障が優先することが大事だと、自ずと理解しなければならない。

アメリカはバカではない。トランプがバイデンに変わっても同じだ。アメリは、中国との技術競争に負けてしまったと結論づけ、中国の覇権主義の象徴である「一帯一路」に今後やられるだろうと結論づけた。じゃあ、輸出に依存する中国にやられないためには、何があるのか? 中国製品を締め出すのが一番だ、と考えたのだろう。

おしまい

 

黒川検事長麻雀辞職 《#検察庁法改正案に反対します》VS文春記事 どっちが早いか? また、国民は大本営発表記事ばかり聞かされている

黒川東京高検検事長が、週刊文春に麻雀賭博をすっぱ抜かれて辞職した。内閣は、訓告と言う甘い処分で幕引きを図かり、黒川氏の辞任を早々に承認した。

週刊文春のTWITTERから

この問題の簡単な経緯とプロセスをおさらいしてみたい。確信はないものの、郷原弁護士が次のように指摘されたのが発端だと思っている。

すなわち、《検察庁法に、検察官の定年が53歳と書かれているのに、黒川氏の誕生日間際に閣議決定で、『余人をもって代えがたい』という理由で、定年を延長した。当然、法律に書かれていることを、閣議決定で変更できるなら何でもありなわけで、手続きそのものが法律違反だ。その不備を国会であれこれ追及され、無理な言い逃れに終始していたのだが、国家公務員法の定年延長の中に、検察庁法の改正を一括りに同時にするように滑り込ませて、結果的に辻褄を合わせようとした。》ということである。

一方、この法案が見送られ、黒川氏の辞任が承認されるまでのプロセスは次のとおりだ。

  • 5月上旬 ツイッターで《#検察庁法改正案に反対します》が拡散、その数数百万ともいわれた。主も1票を投じた。
  • 5月15日(金)  森法務大臣が国会答弁で、検察幹部の定年延長の基準を問われ、「今示すことはできない」と答弁、基準もないのかよと思った人も多いと思う。
  • 5月18日(月)  政府が今国会での改正案の成立を見送りを表明し、世論が政治を動かした勝利と言われる。
  • 5月20日(水)週刊文春デジタル版に黒川検事長の麻雀賭博がすっぱ抜かれる。
  • 5月21日(木)黒川氏が辞表を首相に提出
  • 5月22日(金)訓告処分としたうえで辞職が承認された。

ここで、主が思ったのは、本当にツイッターの声に押され、素直に政府が改正法案を見送ったのか、それとも、文春の記事の掲載を前もって知り、見送ったのか疑問に感じたからだ。 おそらく、後者だろう。水曜日に文春デジタルに掲載されたのだが、週末の日曜あたりにその情報を掴んで、今国会での成立を見送ると表明したのだろう。その方が、正面突破へと進んで週刊誌の記事で玉砕するより、政府の傷は軽いからだ。 そう考えると、素直に世論の声が政府を動かしたと言えず、若干物足りない。

また、文春の記事には、リーク元が産経新聞だと書かれており、ニュースソースを秘匿することが生命線の新聞社は、すぐにこの行為を「ただし、取材源秘匿の原則は守る。取材源、情報源の秘匿は・・・・鉄則である。報道の側からこれを破ることはあってはならない。・・・・鉄則が守られなくては、将来にわたって情報提供者の信用を失うことになる。」と表明している。https://www.sankei.com/column/news/200522/clm2005220003-n1.html

つまり、マスコミは取材先の「懐に飛び込む」と言えば恰好が良いのかもしれないが、要は、ご機嫌を取ってニュースをもらい、気に入られないニュースを書けば、次回以降はないのだ。 産経新聞の誰かが、おそらく、義憤に駆り立てられて文春にリークしたのだろう。しかし、それは禁じ手であり、記者の手元に特ダネがあっても、取材先の弱みを記事にするわけにいかないという意味で、仕事はストレスフル、アンビバレント(矛盾)したもので、なかなか気の毒だなと外野から思う。

と同時に、我々日本人がマスコミから得る情報は、つねにニュースソースの宣伝や意図が入っており、大本営発表の性格を帯びていると心しなければならない。(今回の件で、当然マスコミは「襟を正す」的なことを言うが、自分が書く記事にバイアスがかかっているとは言わない。ズブズブという表現がよく出てくるが、これがそうかもですね。)

ところで、検察、裁判所も法の番人でありながら、政府の検察庁法の超法規的解釈と、似たり寄ったりの解釈をやっている。つまり、モリカケ問題で起訴された籠池氏は、補助金適正化法(この法律には罰則規定がある)違反で起訴されるべきところ、この法律では量刑が軽すぎるとして、詐欺罪が適用され求刑されている。こうなってくると、日本は法治国家なのか怪しく、検察官は大岡越前守だと思っているのでは、と考えてしまう。同調する裁判所も、もちろん同じだ。

おしまい

安倍政権倒壊間近! 河井前法相政治生命回復、逆転の一手

「日本の権力を斬る」ことに執念を燃やす人物に、郷原信郎弁護士がいる。

昨年、日本からレバノンへ逃亡したゴーン事件を題材に、《「深層」カルロス・ゴーンとの対話~起訴されれば99%超が有罪になる国で~》を書いた人物である。

一般に日本人は「外国からやってきた剛腕な非情な経営者が、私腹を肥やした許せない事件」と捉えている節があるが、日産から持ち込まれた社内クーデターに、運用が開始されたばかりの司法取引を使って事件にしたい検察が喰いついた。日本の刑事司法は、世界中から人質司法と言われ、まるで中世のようだと批判される。そうした、司法制度の闇と、日産西川(さいかわ)前社長グループの会社の私物化が詳細に描かれている。

その郷原さんが、広島地検が捜査する前河井法相の選挙違反事件についての、YOUTUBEがめちゃ面白い。まるで、将棋で相手の王を追い詰めていくような緊迫感がある。

要は、この動画、被疑者の前河井法相に向かい、この事件の「お金の流れを洗いざらいしゃべりなさい。それしか、あなたに政治生命を救う道はありません!」とご本人に訴えかける動画である。

洗いざらいしゃべれば情状酌量され、微罪になる。その代わりに、1億5千万円の選挙資金を渡した自民党本部の責任が問われ、政権が倒れ、あなたの政治生命は救われる。すでに安倍政権も風前の灯で、もう守ってくれませんよ、と言うのだ。

背景として、「買収」は公職選挙法で禁止されているものの、公示前に行われる候補者から関係者への金銭の受け渡しは、「地盤培養行為」として考え、検察が立件することはほとんどなかった。しかし、今回の河井陣営の選挙資金は、1億5千万円、対立候補は、15oo万円ということが判明しており、はるかに規模が大きい。

一方、政治資金規正法で、選挙資金の報告については、公示後の選挙活動に要した費用を領収書をつけて詳細に公表することになっているものの、公示前に行われた選挙活動については、従来から検察は透明化を図りたいと考えてきたが、実際は不問にしてきた。

ところが、前の東京都知事の猪瀬直樹氏が、選挙直前に徳洲会グループから5000万円借用したことが問題となり、猪瀬氏は生活費と主張したが、検察は立件し、最終的に猪瀬氏は選挙に使われる可能性もあったと認め、収支報告書に記載すべきだったと認めた事件があった。猪瀬氏は「認めるべきは認めなければならない。けじめをつけるため、処罰を受け入れたい。日々後悔と反省にさいなまれている」と、素直に謝罪した。すなわち、この事件を契機に、政治資金規正法の運用は、公示後の選挙活動費を報告するだけにとどまらず、公示前の選挙活動費も報告するように変わったエポックメイキングな事件だというのだ。

そうなると、河井陣営が選挙前に地元の有力者に配っていた「地盤培養」のためのお金も、政治資金報告書に記載されなくてはならなくなる。これは、明らかに違反、有罪だ。

他人事で申し訳ないが、虚実渦巻く政界のとっても見ごたえのあるドラマに思えてくる。

おしまい